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第20話 春の再会

丘の上の風は、まだ日中の冷たさを少しだけ残していた。


家の裏手に張った縄から、細く束ねた薬草がずらりとぶら下がり、乾きかけた葉が触れ合うたびに、かさり、と小さく鳴る。


カミツレ、タイム、セージ。指先に移った香りが、胸の奥のどこか古い場所をやさしく叩いた。

籠の中の空いた麻紐を拾い、次の束に巻きつけようとしたとき――村道の方から、遠い蹄の音がした。


まだ丘のふもとだ。

乾いた石を踏む、規則正しい四拍。

聞き慣れた旅人の足音と違って、重さがある。

樹々の間を抜けるうち、音は少しずつ近く、太く、確かになっていく。


胸の奥で何かが先に反応して、指が紐を結びきる前に止まった。


風が一度だけ向きを変え、土と草の匂いのあいだに、懐かしい金属の匂いを運んでくる。

私は手の中の薬草をそっと籠へ戻し、村道へ向かって振り返った。


陽の白さに目が慣れるより先に、銀が目に入った。

丘をのぼってくる騎影。

陽を受けて細かく輝く鎧の縁取り。

馬が歩みを緩め、影が長く伸びる。


――青い瞳。


胸が、大きく跳ねた。

名前が、自然に口からこぼれた。


「……ルシアン」


彼は手綱を引いて馬を止め、静かに鞍から降りた。

旅塵を含んだ外套の裾を払う仕草は昔のままなのに、どこか動きが落ち着いている。

鎧は王都で見たものよりも軽く、装飾は減り、実用の跡が目についた。

輪郭は、少し痩せた。

けれど目の色は変わらず、ただ、そこに積もった季節の数だけ深くなっていた。


言葉より先に、視線が往復する。

確認するように、確かめ合うように。

三年という時間の厚みが、互いの頬の影や指の形に並んで見えた。


私の隣で、その小さな影が動いた。

裾をきゅっと握る、小さな手。

栗色の髪、淡い瞳。

陽を受けて透ける髪のふわふわが、春の風で少し持ち上がる。


彼の視線が、そこで止まった。

わずかに呼吸の合間が長くなり、喉元がひとつ上下する。

“知らない”にぶつかった人の、音のない動揺。

そして、理性が追いつく前に、いくつかの可能性が彼の瞳を駆け巡るのがわかった。


――待たずに、誰かと結婚したのか。

――その子どもなのか。

――それとも。


言葉にはならない問いが、春の光を挟んだ空気に溶ける。

私はその問いの形を受け止め、微笑んだ。


「……その子は?」


彼の声は低く、慎重で、ひとつずつ石を渡ってくるようだった。

私は裾を握る小さな手を抱え直し、頷く。


「私の、大事な人」


彼は瞬きをゆっくり一度。

その短い間の奥で、何かがほどける気配があった。

諦めと想像と、それでも残る祈り――いくつもの線が重なって、見えない結び目を作っていた線が、音もなく緩む。


小さな人は、私の手の中で少しだけ指の力を強め、初めて見る男の人をじっと見返した。

不安と好奇心が、同じ量だけ瞳に入っている。

彼は視線の高さを合わせるように、ゆっくり膝をついた。

土埃で白っぽくなった膝当てに、朝の光が柔らかく乗る。


「はじめまして」


彼は笑わなかった。

けれど、声は十分やわらかい。

小さな人は首を傾げ、私を見上げ、それからまた彼を見た。

迷いながらも、挨拶をひとつ分けられるくらいの距離まで、一歩だけ近づく。

彼の頬に、光の斑点が映った。


そこで――ほんの、瞬きほどの短さで。

彼の顔から、血の気が引くのが見えた。


頬骨の線。

眉の生え際の角度。

目の虹彩に溶ける淡い色。

笑った時にできる口元の左右差。

知らないはずの、見慣れた細部が、春の光の中で次々と拾い上げられていく。

目の奥で、信じたくないのでも、信じられないのでもなく、ただ「知ってしまった」人の色が広がった。


彼は息を、そっと飲んだ。


それは驚愕の音ではなく、静かな発見を喉の奥に受け止めた時の、深さのある音だった。

指が宙でわずかに震え、すぐに落ち着く。

問いは喉まで上がったのに、口には出なかった。

問いにするより先に、目が答えを拾ってしまったから。


私は黙って見ていた。

彼の中で順番に灯っていく小さな明かりを、ひとつひとつ見届ける。

彼は焦らず、急がず、ただそこに膝をついたまま、小さな人の瞳をまっすぐ見た。


「……君は、にんじんは好きか?」


唐突な質問に、小さな人はぱちぱちと瞬きをしてから、勢いよく頷いた。


「すき! あまいの!」

「そうか。甘いのは、待ったにんじんだ」

「まったにんじん?」

「時間をかけたにんじん、という意味だ」


彼は言葉を選び、ひとつずつ手渡すように話す。

小さな人は理解の半分を笑顔で埋めて、私の手をぎゅっと握り直した。

握る力の中に、警戒のかけらはもうなかった。


春の風が丘をのぼり、干した薬草の列をくぐり抜け、三人の間を通り過ぎる。

セージの苦さが一瞬だけ強まり、すぐに甘くなって消えた。

彼はゆっくり立ち上がり、私へ顔を向ける。

目の底に、さっきまでの驚きの色はない。

代わりに、見慣れた誠実の色が戻っていた――けれど、昔と同じではない。


そこには「選ばれた義務」ではなく、「選ぶ意志」の重さが、はっきり座っていた。


「三年……」


彼は言いかけて、首を横に振った。

過去の長さを言い合うことに意味がないと、二人とも知っている。

言わないことが、今は言うことになる。


私は小さく息を吸い、頷いた。


「丘は、冬の間に風の音が変わるの。

 春になると、また少し元に戻るけれど、全く同じにはならないわ」

「王都の風も、変わった」

「ええ」


短い言葉の交換が、充分だった。

十分で、やっとだった。


彼は一歩、近づいた。


陽の斑が鎧の上でほどけ、胸元の金具に柔らかい白が宿る。

私は小さな人の手をもう片方の手でも包み、土の匂いのする掌の温度を確かめる。


「今度は……俺の意志で迎えに来た」


彼は言った。

まっすぐ、簡潔に。

声には、迷いがなかった。

その短さに、長い季節の分だけの説明が詰まっていた。

誰のためでもなく、条文のためでもなく、祈りの枠のためでもない。

彼自身の、意志。


差し出された手に、私は自分の手を重ねた。

触れた瞬間、皮膚の下で、忘れ方をいくら練習しても忘れられない熱が、ひとつに合わさる。

金色の光が指先からふくらみ、手の甲を通って手首へ、腕へ、胸へ――ゆっくりと、けれど確かに広がっていく。


三年分の距離と季節が、その光に溶けて、形を変える音がした気がした。

小さな人が、目を丸くして私たちの手元を見つめる。


「ひかってる」

「うん。春の光、ね」


私が言うと、彼はほんのわずか笑った。

過去に何度も堪えた笑いではない。

今、ここでこぼれた笑いだった。


「……ねえ、おなまえ、なに?」


小さな人が、鎧の上の彼の顔を見上げる。

彼は膝を折り、もう一度視線を落とした。


「ルシアン。君の名前は?」

「ルア」

「ルア。いい名だ」


口に出して呼んだその二音が、丘の空気の中に軽く浮かんで、すぐに馴染んだ。

音の収まり方がやさしくて、私は胸の中の何かが静かに緩むのを感じた。


「おうま、さわれる?」


ルアがためらいがちに指差す。


「優しくなら、いいよ」


彼は手綱を少し緩め、馬の鼻先をこちらへ向ける。


ルアは私の手を片方だけ離し、もう片方を馬の額へ伸ばした。

息を当て、毛並みをそっと撫でる。

馬は目を細め、鼻を鳴らした。

彼はその様子を見て、安堵と誇らしさの混ざった表情をほんの一瞬だけ見せた。

その表情に、三年が柔らかく乗る。


風がまた一度、向きを変えた。

干していた薬草の列から、花の粉をひとつまみ運んでくる。

丘の外れで、子どもたちの笑い声がした。

遠くの鍛冶場から、槌の音が一度、短く響く。

村の日常が、そのまま背景に続いている――そのことが、私たちの会話の底面を支えてくれているのだと、はっきりわかった。


「中へ入って。お茶を淹れるわ」

「……頼む」


彼は頷き、馬を柵に繋いだ。

その動作の合間に、ちらりとルアを見る。

見るたび、確認するみたいに目の色があたたかくなった。


驚きはとうに引き、残ったのは細部を大事に拾い上げる人の目つきだ。

その視線は私の心まで緩めてしまうから、私は意識して息を整えた。


戸口をくぐる時、ルアが私の袖を引いた。


「おかあさん、きょう、ごはん、にんじんにしよう?」

「もちろん。甘いのを、ね」


答えると、ルアは満足そうに頷いた。


彼は戸口の手前で、外套の埃を軽く払ってから入ってくる。

床板がわずかに鳴った。

その音が、懐かしくて、新しかった。


卓の上に湯気の立つ茶碗が三つ。

乾かしかけのカミツレをひとつまみ落とすと、室内の空気がふっと甘くなる。

彼は茶を受け取り、両手で包むように持った。

温度を確かめる仕草が、昔と同じで、目が笑っていないところまで、同じだった。


「王都は?」


私が訊くと、彼は短く答えた。


「生きている。守るべきものの形は変わっていない。ただ、守り方の順番は、少し変えた」

「順番」

「『必要な限り、何度でも』――あの言葉を、今度は自分に向けた」


彼の視線が、私とルアを順に撫でる。

言葉は短いが、十分だった。

足りない分は、手の温度と茶の湯気が埋めてくれる。


ルアが両手で茶碗を持ち上げ、熱に「ふう」と息を吹く。

その息に合わせて、金色の記憶が胸の内側でほんのり膨らむ。

私はその熱を、怖がらない。

三年かけて、怖がらない方法を覚えたからだ。


茶が一杯、空になった。

彼は静かに碗を置き、私の方へ手を差し出す。


「外で、もう一度」


頷く。


私たちは戸口を出て、陽の白い庭に立つ。

干した薬草が、風で小さく揺れた。

丘の上の空は、高く、青い。

三年前に見上げた王都の青さと、ここで見る青さが、私の中でようやく一枚に重なる。


彼の手へ、私の手を重ねる。

指の節、皮膚の温度、脈の速さ――全部が、今のものだ。

光が、またふくらむ。

今回は、眩しくなかった。

光は派手に外へこぼれず、掌と掌のあいだにたまって、ゆっくり染み込む。

ルアが「きれい」と囁き、風がその声を丘の端まで運ぶ。


彼は目を閉じなかった。

まっすぐ、私を見ていた。

私も、目を逸らさなかった。

三年分の季節が、視線のあいだを静かに行き来して、やがてどちらの側にも居場所を作った。


「ただいま」と彼は言わなかった。

「おかえり」と私も言わなかった。


どちらの言葉も、まだ早かった。

でも――春は、もう始まっていた。


丘の草いきれと、干した薬草の香りと、子どもの笑い声の中で。

新しい季節が、確かに始まっていた。

「春を迎えに~番という絆に導かれて~」これにて完結です!

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。


また次の作品でお会いできますように。

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