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第2話 触れてはいけない距離

朝の鐘がひとつ、ふたつ、みっつ。


星環教会の回廊に、薄い金色の光が斜めに差し込んだ。

石床は夜露を吸ってまだ冷たく、歩くたびに靴底の音が小さく跳ね返ってくる。

壁の彩色は夜よりも淡く、星や蔦の紋様が、朝の気配の中でゆっくり目を開けていくみたいだった。


昨日は到着初日で、ただ流されるままに一日が過ぎた。

今日は研修二日目。

深呼吸をひとつして、私は東棟の寮室を出た。


廊下の角を曲がると、パンの匂いと薄いスープの匂いが混じった温かな空気が流れてくる。

食堂に寄ると、もう何人かの研修生がトレーを抱えて席に着いていた。

栗色の三つ編みの女の子――同室のニナが、私を見つけて手を振る。


「アナベル、おはよう!」

「おはよう、ニナ」


パンをちぎって口に運ぶ。まだ少し熱い。

ニナは私の皿に塩入れを滑らせながら、早口で今日の持ち場を教えてくれた。


「午前は書庫で整理、午後は飾花の補助。夕方は祈りの準備だってさ。最初の一週間は、とにかく“走って覚える”ってやつ」

「走って、ですか」

「うん。あと、祈りは時間に遅れるとほんとに怒られるから、そこだけ気をつければ大丈夫」


気持ちが少しほぐれた。

パンの甘みが舌に残る。

私たちは空になった器を重ね、回廊へ戻った。


――今日こそ、落ち着いて歩ける。

自分にそう言い聞かせながら、私は書庫へ向かった。


書庫は礼拝堂の奥、ひやりとした空気が溜まる場所にあった。

高い天井まで届く棚に、羊皮紙の冊子や革装の書物、薄い石板がびっしり並んでいる。

埃を払うと、乾いた匂いのなかに、少し甘い香りが混じった。昨日焚かれた香草の名残かもしれない。


「ウィンダーミア嬢は上段の棚、目録の番号順に整えて」


書庫係の書記官が手早く指示を出す。


私は脚立を引き寄せて上がった。

革の背表紙を撫でる指が、微かにざらつきを拾う。

背の番号札が歪んで貼られている本は、いったん外して紙片で補強する。


「……っと」


重い冊子を胸に抱えたまま一段下りたとき、足元で影が動いた。

バランスを崩して前のめりになりかけた瞬間、がっしりとした手が私の肘を支える。


「危ない」


低い声。

顔を上げると、銀の鎧が近い。

青い瞳が、思っていたよりも深い色で私を見ていた。


「……ルシアン様」


昨日、門で名乗られた名前が、思わず口からこぼれた。


支えられた肘から、ぬるい熱がじわりと広がる。

皮膚の下のどこかで、金色の記憶が微かに脈打った。

私の喉に小さな音がひっかかる。

けれど彼は、表情を変えない。


「怪我は?」

「……大丈夫です。ありがとうございます」


彼は短く頷き、私の抱えていた冊子をひょいと取り上げて、下段の作業台に置いた。

金具が小さく鳴る。

それから、ほんの一拍の間だけ視線が私の袖口を掠め――すぐに背を向けた。


「巡回の最中で失礼した」


鎧越しの足音が遠ざかる。

書架の影にまぎれて見えなくなるまで、私はその背中を目で追ってしまった。

肘の熱は、冊子の重みよりも重く残った。


午前の作業は単調だが、単調だからこそ考え事が忍び込む。

目録の数字を並べ替えながら、私は昨日の出会いを何度もなぞった。


――番。


物語の中でしか聞かなかった言葉。

「出会えば人生が変わる」と歌に詠まれるその“証”を、私は確かに見た。

でも同時に、「婚約者がいる」と静かに告げられた事実も。


指先が止まる。

紙の角が指の腹に引っかかって、少しだけ痛い。

痛みは、なぜかほっとさせた。

体が現実に引き戻されるから。


昼の鐘が近づくと、回廊側の喧騒が増してくる。

書庫の扉の外を、小走りの足音がいくつも通り過ぎた。

封蝋のついた筒状の文書を抱えた使者たち。

袖口に刻まれた紋章が光る。


「北境の砦、雪代で渡河が早い」

「補給線の再配置を――」

「同盟条約の第七条、文言の“婚姻による保証”……表現が強すぎる」

「いや、抑止力になる。王家の後見が明記されていないと――」


断片が、石壁に反響しては遠ざかる。

私は書庫の小窓から、廊下の向こうに消える背中を見送った。

“婚姻による保証”。

その言葉だけが、しつこく耳に残った。


この国は、何か大きなものを支えようとしている。

北境。雪解け。補給線。

それから“婚姻”という、誰かの人生の形までも。


自分の胸の奥で、昨日の金色が小さく脈打つ音がした。

私の――私たちの距離が、その“支えようとしているもの”と、どこかで繋がっているのかもしれないという予感だけが、ぼんやりと形を取り始めていた。


昼の祈りの準備は、礼拝堂の飾花から始まる。

祭壇脇の大きな花瓶に水を張り、朝摘みの百合と緑を差していく。

花の茎を斜めに切る音が、薄い水音に混じる。

香はさっきよりも強く、甘さにほんの少しだけ辛みが混ざっていた。


「茎は短すぎないように。正面から祈る人の視線が、花びらに引っかからない高さにね」

年配のシスターが、指の形で“ちょうど”を教えてくれる。

私は頷き、一本一本の角度を確かめた。


「……すみません、通ります」


背後から低い声。

振り向くと、また彼だった。

今日は祭壇脇の警護に就いているのだろう。

銀の鎧に、礼拝堂の色ガラスの光が静かに散って、青の瞳が淡く冴える。


狭い通路。

私は花瓶を抱えたまま、半歩だけ身を引いた。

その時、彼の外套の裾が、かすかに私の腕に触れる。


たったそれだけの接触。

けれど、皮膚の内側で、熱が一気に波のように広がった。

喉が乾き、息が浅くなる。

抱えた花瓶の水面が、ほんの僅かに揺れた。


(……これが、番の衝動……?)


「大丈夫か」


すぐそこで、声が落ちる。

視線を上げると、彼の青い瞳が私を映していた。

声は抑えられているのに、礼拝堂の静けさの中でよく通る。


「……だい、じょうぶです」


舌がもつれて変な途切れ方になった。


彼は一瞬だけ眉を寄せ――それから、何事もなかったように会釈して通り過ぎる。

銀の背中が遠ざかるたび、熱はゆっくりと落ち着いていった。

けれど、完全には消えない。

袖口の下で、手首が“そこに何かがいる”みたいに脈打ち続けている。


昼の祈りは粛々と進み、私は所作を間違えないよう、ひたすら呼吸を整えた。

香が満ち、歌が高くなり、やがて薄くなっていく。

終わりの鐘が小さく響いたとき、礼拝堂の空気は朝よりも柔らかく、そして少しだけ重くなっていた。


片付けに取りかかろうとしたところで、回廊の向こうからまたあの速い足音が来た。

政務室へ向かう使者たちの群れ。

今度は声がはっきり耳に入ってくる。


「北境の前哨から火急の伝令だ。雪解けが予想より早い。川幅が変わる」

「砦の補給路を二重化する案、北の同盟に肩代わりを打診――」

「条約第七条の婚姻条項、確約の文を“将来にわたり”へ。後見の署名は……」

「ルヴェリエ家だ。あそこが動かなければ、北境はもたない」


ルヴェリエ――セレナ様の家の名だ。

誰かが私の胸の内側で細く息を吸った。

私は花瓶の縁を拭く手を止め、回廊の影に紛れる使者たちの背を見送った。


“婚姻条項”。

“後見”。


ひとつひとつの言葉は、私の生活から遠い政治の話だったはずなのに、今はなぜか近い。

私の手首の下で、金色の記憶がもう一度、小さく灯って消えた。


午後の作業が終わると、回廊の風は朝よりも温かかった。

吹き抜ける風に、吊り下げられた小さな金の星がちりんと鳴る。

私は東棟へ戻る途中、中庭の縁で立ち止まった。

噴水の縁に座る子どもたちの笑い声。

花壇の端では、年配の女性が小さな苗を植えている。


(この距離を、保てるのだろうか)


番の衝動は、理性で抑えられるものだと聞く。

祈りと節制と時間。

それでも、今日の二度の偶然だけで、私はこんなにも揺れている。

同じ空気を吸って、同じ光の中に立つだけで、熱は目を覚ます。


そして、使者たちが運んでいく現実。

国と国の綱引き。

雪解けの川と補給線。

“婚姻による保証”。


私には距離が必要だ。

彼にも、きっと。

それがこの街で生きるための“礼儀”であり、“祈り”なのだと思う。


けれど――境界は、思っているより薄い。

朝、肘に触れた手の温度も、狭い通路で外套がかすめたときの布の感触も、

もう記憶になっているはずなのに、皮膚の下で確かに生きている。


鐘が二つ、遠くで鳴った。

今日が、静かに半分を過ぎた合図。

私は袖口をそっと押さえて、寮へ戻る階段を上った。


まだ知らなかった。

この国を守るための政略と、私たちの距離が、

どれほど深く結びついているのかを。

そして、その結びつきが、どれほど容易く“触れない”という約束を破ってしまうのかを。

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