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第19話 春を迎えに(ルシアン視点)

王城の高い窓から、遠くの山脈が見えた。

春の雪が稜線を薄く縁取り、雲の影が斜面をゆっくり移動していく。

季節は前へ進み、山は何も言わずそれを受け入れている。

城下の屋根は雨上がりの光で濡れ、塔の旗は風を孕み、街路の小さな市場が再び声を取り戻しつつあった。


政略の務めは終わった。

同盟は結ばれ、国境の緊張も和らいだ。

書記官の筆は昨夜遅くに止まり、印璽は今朝、正式に押された。

剣の嵩を下げると同時に、言葉の重さが城のどの部屋にも残っている――その重みは、人を守るための鎧と同じ種類のものだと、今では思える。


窓辺から離れる。

鎧紐をひとつ外すたび、身体に沁みついた警戒がわずかに緩む。

音のしない呼吸の仕方を、ようやくやめられる気がした。

机の上には、返すべき鍵と、受け取るべき許可証が一枚ずつ。

視線を落とす前に、背後から落ち着いた声がした。


「……行きなさい、ルシアン」


振り返ると、セレナが立っていた。

深紅のドレス、揺るぎない瞳。

髪はいつも通りに整い、指先の動きにも乱れはない。

けれど、瞳の奥には穏やかな疲れがあり、それが彼女の選んだ強さの跡に見えた。


「あなたが本当に守りたかったもののところへ」


その声は、祝福と少しの寂しさを含んでいた。

彼女は言葉を置く時、相手の背を押す強さと、離れていくものを抱きしめる柔らかさを同じ手で持つ。

それは、政の場で何度も見たやり方だが、今は個人へ向けられている。

胸の奥で、何かが静かにほどけた。


「感謝します」


頭を下げる。

言える言葉はそれしかなく、それ以上もいらなかった。

顔を上げると、セレナは短く頷き、卓上の封筒を指先で押し出した。


「道中の通行証と、国境詰所への紹介状。

 ――それから、これは私個人の手紙。読まなくてもいいし、読んでもいい」


封蝋は政務の印ではなく、薔薇の小さな紋章。

彼女自身の意思で結ばれた封だ。


受け取ると、紙の重みが掌に落ちた。

礼を言い、扉へ向かう。

扉口で、彼女が一歩近づき、声を潜めた。


「選ぶということは、何かを背負うということ。あなたはそれができる人。だから――行って」


言葉の最後に、ためらいはない。

その背が政務の暗がりへ戻っていくのを見届け、廊下へ出た。

光の帯が床石に長く伸び、足音を吸っていく。

この城で踏みしめてきたすべての石が、同じ硬さで自分を送り出すのを感じた。


装具庫に寄り、鎧を軽装に替える。

余分な金具は外し、肩当ては薄いものに。

旅の革外套、手入れの行き届いた乗馬鞭。

腰には短剣と、細い刃を一本。

剣は置いていく。

戦いではなく、言葉と沈黙を持っていく旅だから。


馬屋は藁の匂いが濃く、朝の餌を終えた馬たちが落ち着いていた。

愛馬が耳を動かし、こちらを見た。

鼻先を撫で、額を軽く叩く。


「行くぞ」


手綱を取り、城門へ向かう。

門番に通行証を示すと、彼は名を読み、目を上げ、わずかに微笑んだ。


「良い道を」

「ありがとう」


石の坂を下り、橋を渡る。

川は雪解けを含んで増水し、いつもより音が昂っている。

街はもう昼の支度に入っていて、パン屋の前に列が伸び、露台に色布が揺れ、子どもが犬を追いかけて笑っていた。

すべてが続いていく。


その中から抜け出し、南へ舵を切る。


馬は南の丘を越え、懐かしい景色へと進んだ。

城壁の影が短くなり、畑の緑が濃くなり、道の石は土に変わる。

空気は少し甘く、風は角を落とした。

遠くで鍛冶の槌が一度だけ鳴り、羊の鈴が途切れ途切れに響いた。

道端の柳が新芽を解き、沢沿いに花が点々と咲く。

季節の手触りが指に戻ってきて、手綱を持つ掌が静かに温まる。


ひとつ丘を越えるたび、胸の奥で別の問いが顔を出しては引っ込む。


――間に合ったのか。

――彼女は、どんな顔をしているだろう。

――笑うだろうか。怒るだろうか。


問いはどれも、答えを道の先に預けるしかない。

預けることにようやく耐えられるようになったのは、三年の務めの副産物かもしれない。


馬を進めながら、外套の内ポケットの封筒を指で触れた。

薔薇の封蝋はまだ割れていない。

風が弱まった場所で馬を止め、封を切る。

紙には短い言葉が並んでいた。


> あなたが「選ぶ」と言った日のことを覚えています。

> 選んだ先で、責任と優しさを同じ手で持ってください。

> それだけできれば、私たちの婚約は、最後まで政のために正しかったと言える。

> そして個人としては、あなたの幸福を祈ります。

> 春は、誰にでも等しく来ます。取りに行くのも、待つのも、どちらも春のやり方です。

> セレナ


読み終えて、紙を丁寧に折り直す。

胸の内で、静かな鐘がひとつ鳴った。

音は長くは続かず、ただ、進む方角を示すだけだった。


午後の陽が傾きを変える。

道は森へ入り、木漏れ日の斑が馬の首に広がった。

鳥の鳴き交わす声が高く、枝先で風がほどける。

番の証は、袖の下で静かなままだった。

光は浮かばない。

けれど、掌の内側にはいつでも赤子のような熱があって、それが方角を間違えないよう指を導く。


考えないようにしていた問いが、森の中でふいに輪郭を持った。


――彼女は、もう別の誰かと生きているかもしれない。


三年は、長い。


決断を支えるには十分な時間で、生活を編み直すにはなお十分だ。

そして、もし彼女が誰かと結婚していて、その傍らに子がいたなら。

自分は、どうするのか。


馬を緩歩に落とし、答えを自分の中で探す。

守るとは、選んだ相手をどこへでも連れて行くことではない。

相手が選んだ場所に、相手の選んだ形で、尊重を置くことだ。

その覚悟がないなら、迎えに行くなど言葉の無駄だ。

道の影が深くなるのに合わせて、覚悟もまた、影の中で輪郭を固めた。


夕刻、丘の合間に小さな村の屋根が見えた。

煙突から立つ煙が一本、まっすぐ空へ昇り、途中から風に押されて薄く伸びる。

畑の区画は濃淡の四角で、藁ぶき屋根の縁は新しい藁で明るい黄を見せていた。

遠くで子どもの笑い声がかすかに響き、犬が一度吠え、すぐに黙る。

懐かしい、というよりも、これから懐かしくなる風景。

その差は、歩幅ひとつぶんの手前にある。


村の入り口で馬を止め、水桶の場所を尋ねる。

水で馬の口を濡らし、首筋を撫でる。


「もう少しだ」


馬の耳が前を向く。

道端に干された薬草が、風で軽く鳴った。

その音に、胸の奥の熱が応える。

心臓が歩幅を先に知っている。


村道を進むほど、細部が鮮やかになる。

井戸の滑車の擦れる音。

戸口に干された子どもの靴。

窓辺の布に縫われた細い刺繍。

それらが束になって、ひとつの家の生活という形を作る。

その形のうちいくつかに、見覚えがあった。


彼女の手の仕事の癖。

縫い目の揃え方。

束ね紐の結び方。

目が拾うたび、背筋の硬さがほんの少しずつほどける。


丘の上に出る手前で、手綱を引いた。

馬を木陰につなぎ、しばし、風の向きを待つ。

焦ると、足音が粗くなる。

粗い足音は、言葉を濁す。

言葉を濁せば、三年が台無しになる。

深呼吸ひとつ。

肺の奥に、草と土の匂いが満ちる。


歩いて、丘を上がる。

風が、干した薬草の列をくぐり抜ける音がした。

セージの苦さ、タイムの甘さ、カミツレの柔らかさ。

匂いの重なり方は、王都にはないここだけの和音だ。

その和音の方へ、足は自然と速くなる。

同時に、胸の中でひとつの恐れが最後の声を上げた。


――間に合わなかった、という顔をされるかもしれない。


それでも、行く。


恐れが消えるのを待っていては、一生が過ぎる。


丘の縁で、光が開けた。


家の裏手に張った縄から、細く束ねた薬草がずらりとぶら下がっている。

乾きかけた葉が触れ合うたびに、かさり、と小さく鳴る。

その前に、彼女が立っていた。

背筋は以前より柔らかく、動きは確かで、指先には季節の匂いが宿っている。

陽の白さの中で振り向いた顔に、見覚えしかなかった。

時間はたしかに過ぎたのに、今この瞬間だけは、時間が意味を持たない。


呼ぶ前に、目が合った。

彼女の唇が、少しだけ動く。

名前が、春の光に溶けるのを見た気がした。

足が一歩、前へ出る。

その足音は、迎えに行く音だった。

求めに行く音ではなく、奪いに行く音でもなく、ただ迎えに行く音。


そこで、ふと視界の端に小さな影が入った。

彼女の裾をきゅっと握る、小さな手。

栗色の髪、淡い瞳。

春の風で髪のふわふわが持ち上がる。

胸の内で、時間が一度止まり、すぐに動きだした。


――結婚したのか。

――この子は。


問うより先に、息が浅くなる。

理性は言葉を選びたがり、心はただ目の前の現実を受け入れようとする。

受け入れる準備は、この三年で何度も練習した。

歩幅を変えず、視線の高さを落とす準備をして、一歩踏み出した。


迎えに来た。


その意味は、道中で何度も塗り直し、今ここでようやく乾いた。

彼女がどんな場所に立っていても、その場所を尊重したまま、隣に立つ意志。

空は高く、風は角を落とし、薬草が小さく鳴る。

外套の埃を払い、手綱を手元で収め、もう一度だけ深呼吸をしてから、口を開いた。


「……」


言葉は、次の瞬間に続く。

丘の上の春は、静かに、しかし確かに、ここから始まっていく。

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