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第18話 静かな季節

辺境の春は、王都より少し遅れて訪れる。

丘の上の雪が日に日に痩せ、岩肌がまだらに顔を覗かせる頃、野の花がためらいがちに蕾を上げる。

朝の空気には雪解けの匂いと湿った土の甘さが混ざり、風は角を落とした。

窓を開けると、遠くの沢の音が細く長く続き、森の梢では名の知らない小鳥が、まだ上手ではない歌を練習している。


朝、井戸から水を汲む。

桶の底が石の縁に触れて小さく鳴り、冷たい水が腕の内側をきゅっと締める。

くるりと音を立てて滑車が回るたび、縄の繊維が指に心地よく擦れた。

木の桶が縁まで満ちると、鏡のような水面に空の薄い雲が映る。

その時、小さな手が私の裾を引いた。


「おかあさん、今日は畑?」

「そうよ。にんじんがもうすぐ食べごろなの」


顔を上げた笑顔が、ぱっとほどけて広がる。

栗色の髪は陽射しに透け、ひたいのあたりのふわふわが風を受けて揺れた。

この笑顔を見るたび、この場所を選んでよかったと思う。

選ぶことは、手放すことと同じぐらい難しかったけれど、今は胸の底からそう言える。


(この子の瞳の色は、確かに私の血を受け継いでいる。

けれど、笑った時の口元の癖は──)

考えを、そこで止めた。


小さな手に軽い桶を渡すと、彼女は両手で抱きしめるように持ち上げ、真剣な顔で家まで運ぶ。

足取りはまだ頼りないが、踏みしめる土の柔らかさを確かめるように、一歩ごとに慎重だ。

家の前の踏み石に水をこぼすと、「あっ」と小さく声が出る。


「大丈夫。こぼしたところにも、春が写るわ」


濡れた石は陽を受けて光り、その上に小さな虹が一瞬だけ立った。


――村の暮らしは、手間がかかる。

畑を耕し、種をまき、芽を摘み、支柱を立てる。

丘から流れてくる雪解け水を樋で集め、桶にため、日向に置いた石の上で薬草を干す。

乾いた葉を手で揉むと、指先に香りが移る。

ヨモギは青く、タイムは甘く、セージは少しだけ苦い。

手の平の匂いが季節の表情に変わっていくのが、なんとも心地よかった。


昼前、畑に出る。

土は冬の間に細かく砕け、手鍬が入るたびに湿った匂いが立つ。

にんじんの畝の上からそっと葉を摘み上げ、根の太りを確かめる。


「まだ、もう少しね」

「もうすこし?」

「うん。甘くなるまで待つのが、いちばんおいしい食べ方」


彼女は真似をしてうんとうなずき、ちいさな指で土を撫でた。

爪のあいだに入った土を見せて得意げに笑う。

その顔に、私も笑ってしまう。


午後は薬草の束を縛り、納屋の梁へ掛けた。

風通しの良い場所で、自然に乾くのを待つ。

その間に針仕事。

ほころびた袖口を繕い、昨年小さくなってしまった子どもの上着に布を継ぐ。

ミシンなどないが、針目の揃った縫いは時間の中で心を整えてくれる。

縫い終えた布を胸に当てると、糸の端が春の光で細く光った。


夕方、道の向こうから馴染みの声がする。


「アナベル、乾いたカミツレはあるかい?」


顔を出したのは、隣の畑のオレン婆。


「あるわ。夜にお湯に浸すと、咳が楽になるはず」


束を紙にくるみ、紐で留めて渡すと、婆は「助かるよ」と笑った。

代わりに籠から焼きたての薄いパンをひとつ分けてくれた。


村は、ほどよい等価で回っている。

金貨よりも、手の仕事の重みで均衡を取る世界。

その中に自分の居場所があるのを、私は確かに感じていた。


時折、村人が「王都に戻る気はないのか」と尋ねる。

私は笑って首を振る。


「戻る用事は、もうないの。ここの冬を越すのが、私にはちょうどいいから」


それだけで、十分通じる。

誰もそれ以上は聞かない。

この丘と、この子と、穏やかな時間があれば、それで十分だから。


土に指を入れた時の収まりのよさ。

薪の割れ目が声を上げる時の、胸の奥の解け方。

夜に屋根を打つ雨の規則正しさ。

この静かな算術に、私の毎日は支えられている。


日が傾き、影が長く伸びる頃、井戸端に村の女たちが集まってくる。

水甕に映る空の色は薄紫に変わり、子どもたちの笑い声が道の端を行ったり来たりする。

私の裾を掴む手が、「ねえ、あしたは川にいってもいい?」と顔を上げる。


「雪解けで水が速いから、手をつなぐなら」

「つなぐ!」


即答が可笑しくて、二人で笑った。

笑い声に、通りがかった鍛冶屋の若者が鍛造台の上で槌を打つ手を止め、帽子のつばを上げて挨拶をする。

ここでは目が合えば自然に言葉が行き交い、挨拶は一日の境目になる。


夜、囲炉裏の火を起こす。

乾いた小枝に火が移り、炎が薪の樹脂を舐めると、甘い匂いがふっと立つ。

鍋の中で根菜が静かにゆらぎ、味噌を溶いた汁が部屋の隅々まで温度を運ぶ。

食卓にふたりで座り、今日の出来事をひとつずつ取り出す。


「きょう、ねこをみたの」

「どこで?」

「あの、おおきい石のうえ。にげた」

「明日はパンの耳を少しあげてみようか」

「うん!」


うなずくたびに髪が跳ね、頬が光る。

小さな歯でパンをかじる音が、火のはぜる音と重なって、部屋にリズムを刻む。


寝かしつけの前、膝の上で絵本を開く。

王都から持ち帰った古い寓話の本は、角が丸くなって、紙は指先にやさしい。

文字をなぞる小さな指が時折行を飛び越し、私はその都度そっと戻す。

読み終えると、彼女は目をこすりながらも「もういっかい」と言う。

二度目は歌に乗せて短く語る。

歌はことばを柔らかくし、眠りと現の境目を曖昧にする。


やがて彼女の呼吸が整い、胸の上下が小さく一定になった。

私はそっと毛布を引き上げ、額に口づけを落とす。

目を閉じた顔は、昼間より少し大人びて見えた。


火を落とし、囲炉裏の最後の赤が暗闇を点で照らす。

その赤を見つめながら、ふと、青い空を思い出すことがある。

王都の高い塔から見た空。

祭礼の日、色ガラスを抜けて床に落ちた光。

礼拝堂の冷たさと、香の匂い。

そして、あの日、背を向けて遠ざかっていった銀の背中。


胸が痛むのではない。

もっと別の、名前のない感覚が、静かに波紋を広げる。

それは今の幸せを壊すものではなかった。


過去は過去、今は今。


私の掌のなかにある温度は、目の前の小さな手の温度で、夜ごとに確かめられる。

消えないものは、消そうとしない。

ただ、場所を変えるのだと学んだ。

心の内側の棚に、そっと置き直す。

触れたい夜があれば取り出し、触れたくない日には、そこにあるとだけ知っている。


村の小さな礼拝堂は、王都のそれとは全く違う。

石は粗く、窓は低く、床の板はところどころ軋む。

けれど、日曜の朝に小さな鐘が鳴ると、畑の土の匂いと羊毛の匂いをまとった人々が集まり、牧師の拙い言葉に耳を傾ける。

祈りの言葉は短く、歌は素朴だ。

私は並んで座る人々の肩の高さや、隣の子どもが退屈して腰をねじる気配に笑いを堪えながら、静かに目を閉じる。

祈りは、王都でもここでも、同じ高さで空へ上がっていく――そのことが、なぜだか嬉しかった。


春がいくつかの雨を使い切る頃、畑の畝は濃い緑に満ちた。

最初のにんじんを抜く日、彼女は両手で葉をきゅっと握り、顔をしかめて力を込める。


「うん、うん……でない!」

「根っこは土の中の時間を抱きしめてるからね。そっと、ゆっくり」


一緒に手を添え、左右に少しずつ揺らし、すっと引く。

朱色が顔を出した途端、彼女は歓声をあげた。

泥を拭い、井戸の水で洗うと、甘い匂いがした。

丸かじりすると、歯がシャリと音を立て、彼女の目が丸くなる。


「あまい!」

「待った甲斐があったね」


ふたりで笑い、もう一本を半分こにする。

こういう時間が、過ぎていく季節を私の中に留めてくれる。


市の日には、丘を下りて小さな広場へ出る。

畑で取れた野菜や乾いた薬草、手縫いの布巾を籠に入れて並べると、顔なじみが次々に声をかける。


「この前のタイムがよく効いたよ」

「布巾の縁取り、どうやって?」


私はやり方を説明し、代わりに卵や小麦を受け取る。

彼女は籠の隅に座って、数を数える練習をする。

指を折りながら「いち、に、さん」と唱える声が、昼の光に混ざって、広場の隅まで届く。

帰り道、彼女は新しく覚えた数え歌を繰り返す。

歌は坂道を軽くし、荷の重さを薄くする。


夜、星を見に外へ出る。

丘の上では街の灯りに邪魔されず、空はすぐ手が届くほど近い。

春の星はまだ数が少なく、風が星座のあいだを行ったり来たりする。

彼女が指差す先をなぞり、「これは牛飼い、あれは北斗七星」と教える。

彼女は「ほくと?」と首をかしげ、音の面白さに笑った。

笑い声が夜の中で丸く広がり、やがて隣家の犬が一度だけ返事をする。

私はその輪の中に立ちながら、王都の高い塔から見た青い空を、今度は夜の黒に重ねてみる。


違う色でも、どちらも私の空だ。

そう思えた瞬間、胸の奥の核が、ほんの少し形を柔らかくした。


ときどき、夢に銀の背中が出てくる。

夢の中の彼は、いつも遠くにも近くにもいない、手の届かないちょうどの距離を歩いている。

私は呼ばない。

呼ばない代わりに、目で追う。

目で追いながら、目の前の小さな寝息のリズムに合わせて呼吸を整える。

朝が来ると、夢の輪郭は薄くなり、囲炉裏の火が今日の形を取り戻す。

鍋の湯気に顔を当てると、夢は完全に朝に溶ける。


夢は私を引き戻さない。

私を送り出す。


「おかあさん、あしたも畑いこうね」


寝る前の声は、春の夜にやわらかく溶けていく。


「もちろん」


答えると、毛布の端をぎゅっと握る手から力が抜ける。

私は窓の隙間から入る夜気を少しだけ吸い込み、目を閉じた。


静かな季節は、仕事を減らすのではなく、音を整える。

土の音、火の音、水の音、子どもの声。

そのあいだに、言葉にならない祈りがいつも薄く流れている。

私はその流れに耳を澄ませ、必要な時にだけ掌で掬う。

掌の中の水は、今の私の重さにちょうどよかった。

それをこぼさないように歩く術を、私はこの丘で覚えはじめている。


離れても、忘れない。


忘れないことは、私を後ろへ引く縄ではない。

前へ進むための、静かな手綱だ。

春はまだ浅く、けれど確かに、ここにある。

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