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第17話 離れても、忘れない

城門の前は、まだ朝靄に包まれていた。

夜の名残をひとしずく溶かし込んだような冷気が、石畳の間からゆっくりと立ち上っている。


見送りに立つ兵たちの鎧は曇った銀色で、表面に薄く水膜をまとっていた。手袋をはめた両手が槍を支えるたび、革の音が朝の静けさを小さく刻む。

馬は鼻息を荒くし、白い息を繰り返し吐きながら、前脚で石を掻いた。鞍に括りつけた荷は最小限。衣服と、母の形見の髪飾り、父が持たせてくれた小刀、そして教会での数ヶ月をまとめた小さな祈りの本。


故郷へ続く道は門の外へ薄く伸び、靄の向こうでまだ形を結ばない。けれど、開かれているのは確かだった。


(今日で、終わり)


胸の内でそう言ってみる。

言葉は霧のように形を持たず、けれど冷たさだけは確かに残った。

昨夜の光景が、指先の温度と一緒に脈打つ。

燭台の炎、雨音、広間の大きすぎる静けさ、そして――「君を選ぶことはできない」という低い声。


わかっていた。

わかっていたから、涙は出ない。

代わりに、体の中心に静かで硬い核がひとつできた気がする。誰にも触れられない場所に置くための、私だけの石。


「……行くのか」


背後から声が落ちて、私は振り向いた。

靄を裂くみたいに、彼が立っていた。

鎧ではない。旅装に近い軽装で、肩口の包帯はもう薄く、動きに合わせて見え隠れする。

それでも背筋はまっすぐ、歩幅は迷いの線を描かない――いつも通りの、彼だった。


「ええ。今日が、いいと思って」


「そうか」


短い言葉が二つだけ。

沈黙が落ちる。

城門の上で見張りが交代の合図を小さく打つ音、石の上を滑る風の音、馬が蹄を持ち上げてまた下ろす音――音は幾つもあったのに、二人の間だけ、音がなかった。

その無音が、むしろ私たちの最後の会話を肥やしにする。言わないことが、言ったことよりも多くを伝えるのだと、今ははっきりわかる。


彼が歩み寄る。

鞍の帯を確かめる仕草は手慣れていて、指は迷わず金具を撫で、ゆるみを直す。

手綱を軽く押さえて、馬が無駄に前へ出ないようにしてから、私を見る。

青い瞳が、朝靄の色を一滴だけ混ぜて、静かにこちらを射抜いた。


「……もし、もう一度会えるなら」


言葉を継ぐ前に、彼の喉仏がわずかに動いた。

心の中でいくつかの言い方が選ばれ、捨てられ、残ったものだけが口の形になって現れる――その過程が、数拍の沈黙の中に全部見える気がした。


「その時は、迷わずお前を選ぶ」


胸が、きゅっと縮む。

張っていた膜が一瞬ゆるみ、熱が内側から溢れかける。

返事をすれば、何かが崩れる。

返事をしなくても、何かが崩れる。

だったら、崩れ方だけでも選びたい。


私は笑った。


頷いた。


それだけで、今の私が持てる誠実の、全部になった。


彼は手綱から指を離し、代わりに手袋の裾を整えた。

取るに足らない動作に見えて、実際には最後の衝動を袖口の中へ押し戻すための、細い儀式。

私の手は、母の髪飾りの箱を確かめる。布越しに触れる固い感触が、指先に形を与える。


「道は北へ取るのか」


「はい。街道を三つ越えて、それから東の丘のふもとへ。……家は、そこです」


「覚えておく」


「覚えなくていいのに」


唇から滑った冗談は、湿った空気の上で思いのほかよく響いた。

彼は一瞬だけ目を細め、すぐに真顔に戻る。

笑うことも、泣くことも、今は贅沢だ――そう二人ともわかっている。


「伝令は出した。道の警備は今日一日だけ厚くなる。明日からは、いつもの線に戻る」


「ありがとう」


言える礼は、これだけ。

ありがとう――この言葉は、どの瞬間にも耐える。

広間で触れた手の温度へも、夜の沈黙へも、今の朝靄へも、同じ強さで届く。

私の声は少し掠れて、けれど折れなかった。


彼はほんの少しだけ俯き、靄の下で石畳の一点を見た。

それから顔を上げる。

目を逸らさないと、決めている目だ。


「……アナベル」


名前を呼ばれるのは、いつになっても慣れない。

胸骨の下に直接触れられるみたいに、音が落ちてくる。

呼ばれたいから、呼ばれないようにしてきた。

呼ばれてしまったから、行ける気がした。


馬の背に上がる。

革の匂いが鼻を刺し、膝に鞍の硬さがくる。

見上げると、城門の上から朝日が差し込みはじめていた。

金色の光が、靄の粒をひとつずつ拾い上げて、空気中に星みたいに浮かべる。

その光が彼の髪に、肩に、軽装の金具に当たり、薄く縁取りを作った。

光の輪郭だけが彼を飾り、彼自身はいつも通りの、簡素で、正確な姿だった。


「……お元気で」


言うべきことは、結局これだけ。

私の祈りの言葉は、長くない。


「君も」


彼の声は、昨夜よりも少しだけ低かった。

低さは覚悟の色だと、今ならわかる。

同じ低さを、自分の中にも見つけた。


手綱を軽く引くと、馬は素直に首を振り、前へ出る。

蹄の音が、石の上で乾いた拍を刻む。

靄に吸い込まれて、音はすぐに薄くなる。

それでも背中には、確かに残響が残った。

城門の機械が動く重い音が続き、扉が内側へゆっくり閉じていく。

金具が最後に噛み合う鈍い音は、やけに大きく響いた。


振り返らなかった。

振り返らなかった――と、言えるように、首をまっすぐ保った。


でも心の中では、何度も何度も振り返った。

靄の向こうに彼の影を置き、歩幅を当てはめ、目の高さを思い出して、何度も何度も。

振り返るたびに、彼は同じ場所にいて、同じ強さでこちらを見ていた。

実際にはもう、門は完全に閉じて、見えるはずもないのに。


街道へ出ると、街はまだ朝の準備の最中だった。

パンの窯から最初の香りが漏れ、牛乳屋の鈴が小さく鳴る。

水を汲む人の桶の水面に、薄い光の帯が走った。

犬がひとつ欠伸をし、子どもが戸口で片足だけ靴を履いたまま、空を見上げる。

この街の朝は、私の朝と無関係に続いていく。

私の朝も、きっとこの街の朝と無関係に続いていく。

それが、救いなのだと、今は思える。


城壁の外へ出ると、靄はさらに濃くなった。

道は二本に分かれ、指導標は湿って文字をにじませている。

北へ――と彼に言った道を、私は選ぶ。

選択のたびに、胸の中の核がほんの少し重くなる。

重くなるのに、持てないほどには重くならない。

人は持てる重さしか、きっと持てない。


(忘れない)


道の先に向かって、心の中でそう言った。

忘れないと誓うことは、時に呪いだと噂に聞いた。

けれど私は、祈りの形で持っていく。

呪いではなく、灯。

暗くなったら取り出して、足元を見るための、小さな灯。

あの夜の温度も、朝靄の湿り気も、城門の音も、その灯の油になる。


馬の背で揺れながら、袖口の上から手首を押さえた。

もう光は浮かばない。

証は沈み、熱だけがごく浅く皮膚の下に残る。

この熱は、遠くへ行っても、季節が変わっても、きっと消えない。

消えないものを抱えて歩くのが、これからの私の仕事だ。


もう一つの仕事――日々を整え、誰かの祈りを手伝い、子どもに読み書きを教え、畑に水を引く。

その全部の底に、消えない熱を置く。

熱は隠していても、手の仕事は嘘をつかない。

誠実は、形に出る。

それを私は、王都で学んだ。


うしろから、誰かの駆ける足音がした気がして、思わず首が動きかけた。

すぐに前へ戻す。

振り返らないと決めたのは、私だ。

足音は、ただの錯覚だったのか、靄に溶けていった。

耳は静かで、心だけが少し騒いだ。


坂を一つ越える。

振動が穏やかになり、馬の耳が前へ向く。

靄は薄くなり、遠くの丘の稜線がぼんやりと姿を見せた。

そこが、帰るべき方向だ。

そこへ、私は帰る。

帰るという言葉の中に、「始める」が薄く混ざっているのを、今はちゃんと感じ取れる。


風が、頬の髪を耳の後ろへ送っていく。

私は指で押さえ、母の髪飾りの位置を確かめた。

形見の金具は冷たく、重さは小さい。

けれど、この小さな重さは、私の進む方角をいつも教えてくれた。

王都へ来る時も、王都を去る時も。

私には私の、誇りの持ち方がある。

それは、誰かの選択を責めないということ。

自分の選択を、誰にも委ねないということ。

そして、選んだあとの背中を、まっすぐ保つということ。


馬の歩みが一定になり、手綱を持つ指に汗がにじむ。

朝日はもう完全に上り、靄は道端の草の上にだけ薄く残った。

草の先に水滴が連なり、金色の粒をこぼさないように重なり合っている。

その並び方が、あの時広間の床に落ちた光の粒に似ている、とふと思った。

胸の核が、少しだけ温かくなる。


振り返らなかった。


でも、心の中では何度も振り返っていた。


門の内側の石、兵の槍、彼の横顔。

雨上がりの匂い、馬の鼻息、金具が噛み合う音。

それらすべてを一枚の布のように畳んで、鞍袋の奥にしまう。


取り出すのは、きっと夜になる。

長い一日の終わり、火を落とす前、誰にも見られないところで。


そしてまた畳む。


離れても、忘れない。


忘れないということは、戻るためじゃない。

前へ歩くためだ。


その確信だけは、靄よりも、光よりも、今の私にとってはっきりしていた。

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