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第16話 最後の務め

王城の大広間は、祝宴の余韻を残して静まり返っていた。

壁に掛けられたタペストリーは、長い夜を見守ったまま微動だにせず、豪奢な燭台の炎だけがゆっくりと揺れている。

揺れる炎は金色の滴となって床に落ち、磨き込まれた石に長く伸びた影を作った。

その影は、宴の最中に舞ったドレスや揺れた杯の影と重なって見え、時間がまだそこに留まっているような錯覚を与える。


外では春の雨が静かに降っていた。

高い天窓に打ちつける雨粒が、ぽつり、ぽつりと規則正しい音を立て、やがて細かく連なる。

屋根の上を流れる水の音が、まるで遠くの川のせせらぎのように柔らかかった。

この音が耳に心地よいと感じたのは、今日が初めてかもしれない。


重臣たちはとっくに退席し、侍女や下働きたちも後片付けに出払っている。

広間の中に残っているのは、私と――ルシアンだけだった。

広間の奥、祭壇のように飾られた玉座の脇で、彼はじっとこちらを見ていた。

その銀の鎧は祝宴のあいだも変わらず輝いていたが、今は灯火と雨の反射が混ざり、柔らかな光に包まれている。


「……君を選ぶことはできない」


低く、はっきりとした声。

その声が響いた瞬間、胸の奥で何かが静かに沈んだ。

一文字ごとに、私の中の何かが湖底へ降りていくような感覚。

深く、暗く、けれど静かで穏やかな沈降だった。


涙は出なかった。

わかっていたことだから。

わかっていながら、耳で聞くとこんなにも重いと知った。


「そうね……それが、この国を守る道だわ」


言葉が口を出るまで、ほんの少し間があった。

間を埋めたのは雨音と、燭台の炎が揺れるわずかな音。

それを切り裂くように、互いの視線が絡む。


怒りはない。

恨みもない。


あるのは、理解と――それでも消えない想い。


沈黙が、雨音に溶けていく。

この距離、この沈黙も、もうすぐ終わる。

二度と戻らないと知っているから、余計に重かった。

広間の中の空気が、まるで別れのために時間を引き延ばしているように感じられる。


「これから先、もう会えないかもしれない」


彼の声が、炎の影の中で低く響く。


「……ええ」


頷く自分の声が、思っていたよりも穏やかで驚いた。


彼が一歩近づく。

その歩幅には迷いがない。

私も後退しなかった。

彼の影が長く伸び、私の影と重なってひとつになった。


「……アナベル」


その意味は、聞かなくてもわかった。

言葉にしなくても、胸の奥で同じ答えが揺れている。

頷くと、彼の手が頬に触れた。

温かくて、震えていて、その震えが余計に胸を締めつける。

指先が頬の線をなぞり、耳の後ろへ滑る。

その動きがゆっくりであればあるほど、時間が惜しくなる。


言葉はなかった。


代わりに、指先と吐息と鼓動が、互いの気持ちを語っていた。

鎧の冷たさと、その下にある体温の境目を、手のひらで確かめる。

香の残り香と、雨に濡れた風の匂いが混ざり合い、呼吸が浅くなる。


夜は静かに過ぎていく。

燭台の炎が少しずつ短くなり、窓の外の闇が淡くほぐれはじめた。

薄明の光が高窓から差し込み、床に白い帯を落とす。


雨はもう止んでいた。

広間の奥で、絨毯にわずかに残った湿気が朝の空気に溶けていく。


互いの手は、まだ離れていなかった。

その温もりを離したくないと、どちらも思っていた。

けれど、時間は静かに、確実に進んでいく。


「……ありがとう」


どちらが言ったのかも、はっきりしない。

声は重なり、響きは溶け、温もりとともに胸に刻まれた。


外の光が少しずつ強くなり、広間の影を押しのけていく。

別れの言葉は、もうこれ以上はいらなかった。

最後の務めは、言葉よりも、温もりの中にすでに果たされていたから。

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