第15話 手放すという選択(セレナ視点)
鏡の中に映る自分を見つめながら、髪を結い上げる。
銀の縁取りを施された大きな姿見は、私の全身を静かに映し出す。
侍女が金糸の髪に櫛を通すたび、さらさらと糸を撫でるような音がした。
その音は子守唄のように規則正しく、幼いころ母に髪を結ってもらった朝の記憶をふいに呼び起こす。
ドレスは夜会用の深紅。
染料を何度も重ねて得られる深みは、光によって赤にも黒にも見える。
肩から胸元にかけて、細やかな刺繍が星座のように光を受けて揺れ、呼吸に合わせて微かに形を変える。
侍女が首筋に指を添え、最後の髪飾りを留めた。
金細工に嵌め込まれた小さな赤い石が、火を閉じ込めたように輝く。
「お似合いです、セレナ様」
そう言われて、私は微笑を返す。
その笑みが自分の顔に自然に乗るまで、少しだけ時間がかかった。
夜会は、政略の象徴でもある。
王族や重臣が集い、外交の手綱を互いに握り合う場所。
音楽と笑い声に包まれながら、同盟の結束を目に見える形で示す舞台だ。
そこに婚約者として並び、銀の鎧を纏った彼の隣に立つこと――それが、私に課せられた役目だった。
その役目を果たす覚悟は、もうできている。
覚悟を固めるまでの過程は、長くはなかった。
ただ、心の奥に落ちたひとつの事実が、何よりも明確だったからだ。
(あの夜、彼は礼拝堂裏へ行った)
政務棟と礼拝堂裏、二つの危機が同時に起きた夜。
事実だけを見れば、それは命を救うための行動に他ならない。
だが、誰を救うかは選べた。
そして、彼は――選んだ。
怒りは、不思議と湧かなかった。
裏切られたと感じることもなかった。
ただ、彼の選択を知った瞬間に、胸の奥で何かが静かに定まった。
それは敗北ではなく、諦めでもない。
明確な線を、自分の中に引いた感覚だった。
私は彼の誠実さを知っている。
彼は義務を果たす人間だ。
それでも、番という存在の前では、その義務さえも揺らぐ。
それは選べるものではないと知っているし、責める気にもならない。
だからこそ、私が選ぶのだ。
政略のための婚約という形を守ることはできても、その内側を満たすことはできない。
それなら、手放す方がいい。
(手放すのは、負けではない)
(自分で選んで、未来を渡すのだ)
その方が、私らしい。
「セレナ様、準備が整いました」
「ありがとう」
侍女に礼を言い、立ち上がる。
ドレスの裾を広げてひと揺らしし、刺繍の形が乱れていないかを確かめる。
鏡の中の私は、深紅に包まれて微笑んでいた。
その笑顔は、今日も明日も崩さない。
崩さないと決めた日から、もう長い時間が経った。
控室を出る前、胸元の飾りを指先で軽く押さえた。
深呼吸を一度。
香水の薔薇の香りが、肺の奥に静かに広がる。
それは、夜会のざわめきの中でも私を見失わないための、小さな標。
この香りがある限り、私は私でいられる。
廊下に出ると、夜会の会場へと続く道は静かで、油灯が等間隔に光っている。
遠くから、楽団の調律する音と、人々の談笑が混じって届く。
その音を背に受けて歩いていると、廊下の向こうに銀の鎧が見えた。
月明かりと灯火を交互に反射させながら、彼は静かに立っていた。
私を見ると、わずかに表情が動いた。
その変化はほんの刹那で、すぐにきちんとした礼の形に収まる。
彼は深く頭を下げ、口元を引き結んだ。
そこには言葉も、衝動も、見えなかった。
ただ、礼儀と職務があった。
私は微笑みで応える。
その微笑みの奥に、選択の重みを隠す。
そして、すれ違う。
振り返らない。
それが、私の選択だった。
背後で彼の足音が一定の間隔で遠ざかっていく。
その響きは、夜会のざわめきよりも、私の胸に深く残った。




