第14話 選ぶということ(ルシアン視点)
夜の回廊は、昼間の喧騒が嘘のように静かだ。
昼間は政務官や侍女、見回りの兵士たちで絶えず人の気配があった廊下も、今は壁の油灯が小さく揺れるだけ。
高窓から差し込む月光が石床を白く染め、柱の影が長く落ちている。
その白と影の境目を踏むたび、靴底が低く響いた。
遠くで、巡回の兵が扉の閂を確認する金属音が微かに重なる。
夜の城は、昼間よりもずっと広く感じられる――音が届くまでに時間がかかるせいかもしれない。
曲がり角の先で、足音が重なった。
柔らかく、それでいてやや速いリズム。
姿が現れた瞬間、腕に積まれた本の山が目に入る。
背表紙の革は磨り減り、金箔の文字がいくつも欠けている。
それを抱えた人物――アナベル・ウィンダーミア。
「……こんな時間に?」
本の向こうから、少し息を切らした声が返ってきた。
「返却期限の本があって」
短い言葉だが、肺の奥まで使った息づかい。
さっきまで階段を上がっていたのだろう。
頬のあたりがほんのり赤く、肩にかかった髪が月明かりで淡く光っている。
「重そうだな」
そう言いかけた瞬間、本の山がわずかに傾いた。
崩れかける束の端に手を伸ばし、重さを受け止めた。
同時に、彼女の手首に触れる。
指先の感触が、皮膚を通り抜けて直に血管の上をなぞる。
その瞬間、抑えていたはずの熱が一気に溢れた。
皮膚の下で金色の光が脈打ち、鼓動がそれに追いつこうと速まっていく。
(離せ)
理性が命じる。
この距離、この時間、この静けさ――全てが危うい。
離せば、衝動は少しは静まる。
頭ではわかっている。
それでも、指はほんの僅かに彼女の手首を包み込む形になっていた。
「あの夜、君を選んだのは、本能だ」
声は低く抑えられていた。
自分でも、これほど静かに言えるとは思わなかった。
アナベルの瞳が、大きく揺れる。
月明かりが瞳の中に反射し、波紋のように光が広がった。
「……でも、後悔はしていない」
それは、言葉よりも自分の中で重い実感だった。
あの夜、政務棟と礼拝堂裏の二択があった。
選ばなかった方に何があるかも知っていた。
それでも足は迷わず礼拝堂裏へ向かった。
あの選択を今さら覆すことはできないし、したいとも思わない。
だからこそ、これ以上は言えなかった。
言葉にしてしまえば、境界を越えてしまう。
越えてしまえば、戻る場所はなくなる。
それがどれだけ危険か、騎士としても、ひとりの人間としても理解していた。
けれど、俺の鼓動と手の熱は、もう全てを物語っていた。
黙っていても、彼女には伝わってしまうだろう。
番というものがそういうものだと、何度も思い知らされてきた。
「……ありがとうございます」
視線を落としたまま、彼女が呟く。
その声は、柔らかくも芯がある。
ほんの僅かに指が強まった。
それは拒絶ではなかった。
触れた瞬間に伝わる温度が、確かにこちらへ返ってくる。
その感覚に、一瞬呼吸が深くなった。
このまま指を絡めれば、もう言葉はいらなくなる――
そんな衝動が、骨の奥からせり上がってきた。
本を揃えて彼女に渡す。
手首から離れた瞬間、空気が急に軽くなった気がした。
その軽さが、なぜか息苦しい。
振り返れば、何かが壊れる気がして、背を向ける。
足音を一定に保ちながら、月明かりを背に受ける。
背後で彼女は立ち尽くしているだろうか、それとも歩き出しただろうか。
振り向きたい衝動を抑えながら歩くと、背中に視線を感じる。
それは追いかけてくる熱ではなく、静かにこちらを見ている温度だった。
月明かりの下で見た彼女の横顔は、瞼を閉じても消えなかった。
あの顔は、これから俺が何を選ぶのかを、静かに、しかし確かに見ている――
そんな気がした。




