第13話 言えないこと
襲撃の翌朝、私は医務室に呼び出された。
怪我はないと何度も言ったが、「念のため」と司祭が譲らなかった。
白い布に覆われた部屋は、薬草の香りで満ちている。
乾いたラベンダーと、煮出した根の土の匂い。
窓から差す光が、淡く漂う煙を透かしていた。
棚には包帯が幾列にも並び、銅の洗面器がいくつも光っている。
ベッドの金属の縁が、朝の光で細く光り、部屋の輪郭を少しきつく見せた。
聴診器を首にかけた修道女が、私の手首に指を当てた。
脈は落ち着いている、と言われ、胸の奥でやっと息が降りる。
「深呼吸をもう一度」
言われるままに息を吸って吐く。
肺の中の空気は冷たく、昨夜の熱を見つけ出しては押し流そうとしているみたいだった。
「熱もないわ。――ただね、驚きの後は遅れてやってくるの。今日は甘いものと、十分な水。それから、無理はしないこと」
修道女は柔らかく笑って、机の上の小さな菓子皿を顎で示した。
砂糖をまぶした小さな焼き菓子が、光の中で白く、やけに遠く見える。
扉の向こうで、誰かの靴音が近づいた。
規則正しい歩幅。
聞き慣れたリズム。
心臓が、指先の方へ移っていくみたいな錯覚が起きる。
「……大丈夫か」
声がして振り向くと、ルシアンが扉口に立っていた。
鎧は外している。
肩口の布の下に、白い包帯が覗いた。
昨夜の傷だろう。
いつも通りの無表情――に見えた。
けれど、その無表情は、いつもより少しだけゆっくり動いた。
目の焦点が手前と奥のあいだを往復し、歩幅を決めるのに半拍分、余計に時間がかかっている。
「はい。……怪我をされたのは、あなたの方では」
声が自分のものだと思えなかった。
喉の奥が乾いて、言葉の縁がざらつく。
「かすり傷だ」
短く答えて近づく。
その動作ひとつひとつが、いつもよりゆっくりに見えた。
医務室の床石に刻まれた細い傷を一本ずつ数えられるくらいの速度。
彼の影がベッドの足元に重なり、私の影と交わって、すぐに離れた。
「昨日は……助けてくれて、ありがとうございます」
言葉にすると、胸の奥が急にきしんだ。
昨夜、彼は迷わずこちらに来た。
それが何を意味するのかは、もうわかっている。
でも、それを口にしてしまえば、戻れなくなる気がした。
私たちの間に残っている薄い膜が、音もなく破れる想像が、さっと頭をかすめる。
「……俺が護衛に付いていたのは偶然だ」
少しだけ視線を逸らしてから、彼は言った。
医務室の窓の外――春の木立の方へ。
若葉の輪郭が風で震え、その震えが彼の頬に反射した。
「……そう、ですか」
嘘だとわかっても、頷くしかない。
頷くことは、言うよりも簡単で、言わないよりも難しい。
私の喉の奥で、何かがひとつ、丸くなって転がった。
修道女が気を遣って部屋の奥へ下がり、引き出しを開け閉めする音だけが続いた。
ルシアンはベッド脇の椅子に腰をかけず、立ったまま少しだけ身を傾ける。
肩の包帯が動き、布に吸った血の色がごく薄く滲んでいるのが見えた。
「とにかく、もう無茶はするな」
「あなたも……」
その言葉が喉に引っかかった。
続けたい言葉が、ひとつ、ふたつ。
“あなたも、セレナ様を”――
その先が舌の裏で崩れ、しみになって広がる。
言ってしまえば、私がどれだけ自分勝手かが明るみに出る。
言わなければ、私の中の忠誠の形が、少しだけ守られる。
どちらも、やさしくはない。
彼は短く息を吸って、視線を窓に戻した。
窓の外で、小さな鳥が枝から枝へ跳び移る。
柔らかい羽音。
医務室の白い布と、外の緑のあいだに、私たちの言葉が宙吊りにされている。
沈黙が降りる。
沈黙は、音のない音だ。
修道女が遠くで戸棚を閉め、金具の小さな音が落ちる。
煎じた薬の鍋が、極小さな泡をひとつだけ立てて、すぐに静かになる。
窓の外では、春の風が枝を揺らしていた。
その揺れの中に、言えなかった言葉がいくつも混ざっていた。
「……仕事に戻る」
彼が言った。
その言い方は、救いでもあった。
私の“言えない”を、彼の“言わない”で包む形。
それが優しさかどうかも、判定する余裕はない。
「はい」
私は立ち上がらずに頭を下げた。
背を向ける彼の肩越しに、包帯の白がもう一度見えた。
その白さに触れたい衝動と、触れたら光ってしまうという恐れが同時に走る。
手首に残る熱を隠すように、袖を握った。
彼は扉へ向かい、取っ手に手をかけ、ほんの一瞬だけ止まった。
止まったけれど、振り返らなかった。
取っ手が静かに動き、扉が音を立てずに閉じた。
扉の向こうで、足音が遠ざかる。
石の上を、一定の間隔で落ちる音。
昨夜、政務棟の廊で聴いた足音と同じリズム。
音が完全に消える前に、胸の奥の何かが、遅れて沈んだ。
「お水を」
修道女が銀の杯を差し出す。
冷たい水が喉を通り、胃のあたりで輪になって広がった。
「顔色はよくなってきたわ。――でも、今日は静かな場所にいなさい」
「礼拝堂に行っても?」
「祈りは、心の熱を正直にするの。自分で持てる熱だけ、祈りに出しておいで」
私は礼を言って、医務室を出た。
回廊の空気は薄く、昨夜の騒ぎの匂いがまだ消えていない。
甲冑油の匂い、燭台の煤、遠くで焚かれる香。
それらが薄い層を作って、石壁の表面に貼りついている。
東棟へ向かう途中、ニナとすれ違った。
彼女は両手いっぱいに洗った布を抱えていて、私を見ると足を止めた。
「医務室って聞いたけど、大丈夫?」
「うん。念のため、って」
「よかった……。昨日の噂、もう回ってる。城の中、二か所同時だって。ねえ、怖かったでしょ」
怖かった――と答えれば、きっと彼女は私の背を叩いて笑わせてくれただろう。
「……大きい音が苦手になりそう」
それだけ言うと、ニナは「それは困る」と肩をすくめた。
「鐘なんて毎日鳴るんだから。――ね、あとで甘いパン分けるから、祈りの後に食堂に来て」
彼女の明るさが、薄い膜の表面を指で弾くみたいに、私の緊張をほんの少し揺らした。
「行くね」
「約束だよ。遅れたら、私が部屋まで迎えに行くから」
礼拝堂の扉を押し開けると、冷たい空気が頬を撫でた。
朝の祈りは終わっていて、内部は空に近い静けさで満ちている。
色ガラスから落ちる光が床に長い帯を作り、石の上にゆっくりと色を置いていく。
祭壇の上の布は皺ひとつなく、昨夜の騒ぎの痕跡はどこにもなかった。
祈りの場所は、祈りの形を保つのが上手い。
私は一番端の列に膝をつき、指を組んだ。
言葉を持たない祈りを、胸の奥から少しだけ上げる。
上げすぎないように、呼吸で量を測る。
吸って、吐いて。
間の半拍に、まだ熱が残っている。
それは、彼の掌が一瞬だけ私の手首を掴んだ時の熱と同じ種類――
いや、同じではない。
昨夜の熱は、選択の形をしていた。
選ばなかった方の冷たさが、熱を際立たせる。
(セレナ様は……)
思い浮かべる。
深紅の裾。
夜の廊。
あの静かな微笑。
「あなたの足がどちらへ向かうかを決めるのは、あなたよ」
彼女がそう言ったと、ルシアンは語ったわけではない。
私が勝手に想像しただけ。
それでも、彼女ならそう言うと思った。
彼女はいつも、選択の場所に言葉を置く。
刃で切るのでも、布で包むのでもなく、重りを置くみたいに。
祈りの中で、私は小さく頭を垂れた。
言えないことが胸にある。
それは嘘でも秘密でもない。
名前のない、形だけのもの。
言葉にすれば音を持ち、音はどこかへ届く。
届いた先が壊れるかもしれない。
壊れてもいいと、誰が言えるだろう。
今、少なくとも私は言えない。
やがて、礼拝堂の扉が小さく開いて、足音が二つ入ってきた。
祈りに来た老人と、その手を引く孫らしい少女。
少女が色ガラスの影を踏んで、笑った。
老人が「踏まないと星が逃げない」と冗談を言う。
少女は一歩、真剣に影を避けた。
私は笑いそうになって、笑わなかった。
祈りを終えると、私は聖具室の方へ回り、昨日散った香草の替え束を確認した。
茎の切り口を水に浸し、花瓶の縁を布で拭く。
指先の動きは、体の筋肉の記憶に任せる。
考えなくてもできる作業が、今はありがたい。
回廊に出ると、政務棟の方角から人の気配が濃くなってきていた。
「印璽の再作成」「文面の体裁変更」「照合手順二重化」――
断片が飛ぶ。
私は立ち止まらずに歩く。
情報は私を通り過ぎていくのがちょうどいい。
今、私が持つべき重さは、私の胸の中だけで足りる。
寮室に戻ると、机の引き出しから紙と羽根ペンを取り出した。
父に手紙を書くつもりだった。
王都の春は、風が強いこと。
教会の仕事は丁寧で、私はそれを好きになりかけていること。
ただ――この街には、言わない方がいい言葉が多いこと。
書き始めて、ペン先が止まる。
私は一行目だけを残して、紙を裏返した。
裏側は真っ白で、ここにはまだ何もない。
何も書かないことも、選択だ。
選ばないことで守れるものが、確かに存在している。
午後、ニナが約束通り甘いパンを持って寮室に来た。
「ほら、蜂蜜を詰めるのを一口ぶん多くしてもらった」
「ありがとう」
パンはふかふかで、蜂蜜が温かかった。
口に入れると、胸の奥がほんの少し緩む。
「ねえ、昨夜さ……」
ニナが言いかけて、私の顔を一瞬見て、言葉を飲み込んだ。
「ごめん。今は、食べよ」
その判断が嬉しかった。
言わないことを選んでくれる人は、世界を少し柔らかくする。
夕方が近づくと、礼拝堂の光の色が変わった。
色ガラスの赤が深くなり、青が冷たくなる。
影は長く伸び、床に文字のような形を作る。
読むことのできない祈り。
セレナ様がそう呼ぶ影だ。
私は回廊の角で立ち止まり、その上を踏まないように足の角度を変えた。
その時、政務棟の方から、落ち着いた足音が近づいてきた。
反射で胸が強く打つ。
角を曲がった先に、深紅の裾。
セレナ様。
彼女は私を見ると、わずかに微笑んだ。
私も礼をした。
言葉は交わさなかった。
交わさないことで、保たれる距離がある。
すれ違う一瞬、薔薇の香りが頬を掠める。
その香りの奥に、夜の冷たい光がかすかに残っていた。
夜。
寝台に身を横たえても、すぐには眠れなかった。
窓の外から風の音がする。
遠くで、城壁沿いの見張りが交代する合図の笛が鳴った。
私は袖口の上から手首を押さえた。
もう光は出ない。
熱の記憶だけが、皮膚の下で細く続いている。
「あなたも、セレナ様を」――
喉の奥に残った言葉が、波のように寄せては引く。
言えないことは、嘘よりも重い。
けれど、言えないことが世界を繋ぎ止めている夜もある。
今夜は、そういう夜だ。
目を閉じる。
呼吸を数える。
吸って、二拍。吐いて、二拍。
半拍の空白を通り過ぎるたび、胸の熱は形を曖昧にしていく。
やがて、眠りが来た。
夢の中で、礼拝堂の床に落ちる影は言葉にならず、私の足はその縁を踏まないように歩き続けた。
言えないことを抱えたまま歩くのは、思っていたより難しくない。
難しいのは、言えることと、言えないことの境目を、毎日新しく引き直すことだ。
朝になればまた仕事がある。
花を整え、布の皺を伸ばし、祈りの線をまっすぐにする。
言葉にならない祈りを、形にする手の仕事。
私はそれを続けられる。
続けることが、今の私の答えだ――そう思いながら、眠りの底へ静かに沈んでいった。




