第12話 背を向ける足音(セレナ視点)
夜半、政務棟に甲高い警鐘が響いた。
鋭く尖った音が、石造りの廊下と高い天井を震わせ、幾重にも反響して耳を打つ。
夜番の事務官たちが顔を上げ、手にしていた羽根ペンが紙を滑り落ち、インク壺の蓋が転がった。
廊下の絨毯の端が踏み乱れ、侍女たちが怯えた顔で駆け寄ってくる。
裾の広いドレスに触れないよう気を遣いながらも、その手は私の腕や肩をしっかりと押さえていた。
「お下がりください、セレナ様!」
「……ええ」
短く答え、彼女たちの誘導に従う。
政務棟の応接室まではすぐだが、そのわずかな距離にも緊張が張り詰めていた。
壁に掛けられた油灯が揺れ、炎が細く伸びては縮む。
廊下の奥で兵の声がし、短く切られる命令が反響する。
夜の静けさはもうなく、政務棟全体が一つの心臓のように脈打っている。
扉を閉めても、外の音は遮られない。
交錯する刃の音が、すぐそこまで迫っているのがわかる。
金属のぶつかり合う乾いた音の合間に、靴音と短い息遣いが混ざる。
距離は、思っていたより近い。
(もう……来るはず)
耳を澄まし、あの足音を探す。
甲冑の継ぎ目が擦れる、低く落ち着いた音。
何度も政務の場や式典で聞き、戦場の話を聞くたびに想像してきた、規則正しい歩幅。
それを聞き取ろうと神経を尖らせるが――見つからない。
代わりに聞こえるのは、別の兵たちの慌ただしい動き。
短く鋭い号令、倒れた物の転がる音、息の乱れ。
私は視線を扉に向けたまま、両手を重ねて指先に力を込めた。
この力を緩めれば、胸の奥の何かが揺れてしまう気がした。
やがて、部下たちが賊を押し返したと告げた。
応接室の扉が開き、護衛が姿を現す。
私はまだ無事だった。
衣も髪も、ほとんど乱れていない。
だが、胸の奥には別の冷たさが沈んでいた。
あの背中は来なかった。
いつもなら真っ先に現れるはずの、銀の背中。
政務の席でも、儀式の場でも、私が立つ場所の前に必ずあった背中。
その確かさが、この夜は欠けていた。
後で知った。
礼拝堂裏も同時に襲われていたこと。
そして、ルシアンがそちらへ向かったこと。
それが本能の選択か、偶然か――聞かなくてもわかる。
あの人が迷わず足を運んだ理由を、私の理性は理解していた。
番。
選べないもの。
だからこそ、どうしようもない。
胸の奥に、風が通るような感覚があった。
そこに何かを詰めるつもりはないが、空白は確かに存在している。
その存在を認めたくなくて、机に置かれた書簡を手に取り、意味もなく封蝋を撫でた。
(もし私が彼の番だったら……)
想像は、喉元で切った。
それは私らしくない。
必要のないことだ。
政のために置かれた立場と、彼が背負う務めは別々の線を描く。
それを交差させる役目は、私にはない。
それでも、頭の隅に浮かんだ場面が消えない。
もし彼の足が私の方へ向かっていたら――
その瞬間、私は何を感じただろう。
安堵か、誇りか、それとも恐れか。
その答えを知ることは、もうない。
深夜、政務棟の廊下で、偶然彼とすれ違った。
夜気が流れ込み、灯火がわずかに揺れる。
鎧は乱れ、肩口に浅い切り傷がある。
血は乾きかけ、鎧の端で黒く固まっていた。
彼は私を見ると、わずかに立ち止まった。
視線が絡み、何か言いかけた口が、ゆっくりと閉じられる。
結局、彼は何も言わなかった。
ただ背を向け、歩き出す。
その足音は淡く、だが一定で、ためらいがなかった。
石床に響くその音が、静かな廊下に長く尾を引く。
怒鳴り声よりも重く、胸に残った。
部屋に戻ると、侍女が暖炉に火を入れ直していた。
炎は明るく、部屋の隅々まで光を届けているのに、胸の奥は温まらない。
私は窓辺に立ち、外の空気を吸う。
月が雲間から顔を出し、冷たい光を落としていた。
尖塔や屋根瓦が銀色に縁取られ、静かな戦場のように見える。
その光は、銀の鎧の輝きに似ている――
手を伸ばせば届くと思っていた輝きに。
けれど、この夜、それは遠ざかっていった。
指先を伸ばしても、触れられるのは冷たい空気だけだった。
私は静かに息を吐いた。
背後から漂う薔薇の香りが、ゆっくりと私を包む。
目を閉じても、その香りの奥で銀の背中が遠ざかっていく気配が、いつまでも消えずに残っていた。




