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第11話 選択の夜(ルシアン視点)

夜半、王城に緊急の鐘が鳴った。

鋭く短い音が、石壁を震わせる。

一撃ごとに空気が薄くなり、眠っていた廊が目を覚ます。

詰所の戸が次々と開き、鎧の金具が重ねて鳴った。


「報告を!」

「侵入者、城内二か所に同時発生!」


「場所は?」

「政務棟・北翼の執務列――ルヴェリエ家の滞在区画付近。もう一か所は礼拝堂裏の回廊、東棟寮へ近い通路です!」


胸の奥が、瞬時にざわめいた。

鐘の残響に、二つの地図が頭の中で重なる。


政務棟。セレナがいる。


礼拝堂裏。東棟の寮。アナベルがいる。


「副団長、どうされますか!」


時間はない。どちらも数分の猶予しかない。

頭は理解している――政務棟だ。

そこには外交の要があり、条約の草案と印璽がある。

国防の命運がかかっている。


王都の騎士として、選ぶべき線は一本だ。


それでも――胸の内側で、別の線が同じ太さで引かれていた。


「……礼拝堂裏だ」


判断は一瞬だった。


言葉が空気に出た時には、足はもう動いていた。

詰所を蹴り出る。馬では間に合わない距離だ。

走りながら、鎧の留め具を二つだけ外す。


音を殺すため。

速度を上げるため。


木の床から石の回廊へ踏み出すたび、靴底に冷たい反響が返ってくる。


夜の城は音がよく通る。

高窓を過ぎる風が、長い笛のように鳴る。

兵舎寄りの廊から、合図の角笛が三度。

政務棟側からは、短い号令が二度。

礼拝堂の鐘楼は沈黙。

沈黙が、逆に急かした。


角をひとつ、またひとつ。

暗い場所では壁面の燭台の高さで距離を測る。

衣擦れを避けるために肩を絞り、影に体を入れて走る。

東棟の渡り廊へ出た瞬間、薄い月光が石床を白く洗った。


そこに、黒い影が一つ。

振り上げられた刃が、角灯の反射で刹那だけ白く光る。

標的は、廊の突き当たりに立つ小柄な影へ向かって一直線。


「アナベル!」


声が自分の喉から出るより先に、体が前へ出ていた。

剣が金属音を響かせ、相手の手首を弾く。

刃先が石床をかすめ、火花が飛んだ。


驚いたように振り向いた彼女の瞳に、月光が映る。

一瞬、彼女の影が俺の影に重なり、すぐに剥がれた。


「下がれ!」


命令の形にして声を張る。

彼女は躊躇いながらも二歩下がる。


背中で彼女を庇い、相手を狭い回廊へ押し込む。

幅がない。

ここなら相手の踏み替えが制限される。

刃と刃が何度もぶつかり、火花が低く散る。


相手の動きは鋭いが、迷いがない。

本気で殺しにきている。

狙いは俺ではない――俺の後ろ。

踏み込みの角度が、はっきりと告げていた。


「右へ!」


アナベルの裾が石床を掠め、彼女は柱の影に身を寄せる。

その瞬間、相手が床の溝に足をかけ、低く潜って刃を横に払った。

鎧の継ぎ目へ来る線。

剣の腹で受け、相手の視線を一瞬だけ奪う。

足の甲で相手の踵を踏み、肩で押し返す。

金具と金具がぶつかり、骨まで響く衝撃。

痛みを前に押し出して、距離を詰める。


黒い布の下の顔は若い。

目に、感情がない。

任務だけが、そこにあった。


刃が俺の側頭部を掠め、髪の束が宙に舞った。

鉄の匂いが遅れて届く。

腕に力を集めて上段から叩きつけるふりをし、寸前で手の内を返して相手の手元を払う。

刃が滑って壁に当たり、短い音を置いた。

その音と同時に、回廊の向こうから足音が増える。


騎士だ。

合流まで、あと二呼吸。


「伏せろ!」


背後に声を投げ、踏み込みの線を相手の膝へ落とす。

黒い影が崩れ、床へ肩を打つ音がした。

取押えに入ろうとした瞬間、相手は体を捻り、刃だけを置いて両手を壁に当てて跳ね上がる。

狭さを逆に使い、窓枠の下へ滑り込む。

月光が細く差し、影が斜めに走った。


「逃がすな!」


駆けつけた二人が両側から押さえ、一人が手枷をかける。

俺は相手の刃を蹴り飛ばし、背後を振り返った。


アナベルが、柱の影に立っていた。

顔色は悪いが、立っている。

目が合う。

喉が乾いているのに、言葉は先に出た。


「怪我は……ないか」


「……はい」


その一語で、全身の筋肉が僅かに緩んだ。

安堵と同時に、遅れて汗が背中を伝う。

彼女の手首に視線が吸い寄せられる。

袖口の下で、何も見えないはずの“証”が、脈の速さで存在を主張してくる気がした。


今、触れたら――光る。

光れば、俺はもう戻れない。


「副団長!」


部下の声が駆け込んだ。

息が上ずっている。

嫌な予感は声より先に胸へ届いた。


「政務棟の警護が突破されました! 北翼の執務列、封鎖も間に合わず――ルヴェリエ家の区画で小競り合い! 負傷者一名!」


全身から血の気が引いた。

選ばなかった方が、破られた。


セレナ。


頭の中で、彼女の顔が浮かぶ。

責める瞳ではなく、あの静かな笑みのままで。

その笑みの奥に、硬い芯があるのを俺は知っている。

その芯に、俺の選択が触れたのだ。


「……っ、急げ!」


部下に指示を飛ばしながら、アナベルの肩にかけていた視線を離す。


「ここは第三隊に引き継ぐ。負傷者の搬送、捕縛者の引き渡しは規定通り。

 アナベル、東棟から出るな。ニナと一緒に。司祭のそばを離れるな」


「……はい」


短い返事。

一瞬、彼女の指が裾を掴んで緩むのが見えた。

言いたいことがあると、分かる。

言わせたら、俺は動けない。

だから、動く。


走り出す背中に、何かが絡みつくような感覚が残った。

それは番の衝動か、後悔か――自分でもわからない。

ただ、胸の内で重さを持ち始めた何かを、脇に抱えたまま走るしかなかった。


政務棟への渡り廊は、夜の冷気で石が滑る。

靴底の角度を変え、速度を落とさずに角を曲がる。

北翼へ近づくほど、空気がざわめいていた。

命令の声、短い悲鳴、鉄が触れ合う音、そして――薔薇の香。

この香りが、こんな時にも届くのが酷く現実的で、俺は奥歯を噛み締める。


「通せ!」


先行の隊が道を開ける。


角の手前で二人の騎士が肩を貸し合い、出血は軽い。

廊の先、ルヴェリエ家の滞在区画の扉が開け放たれ、室内に灯りが溢れている。

薄紅の絨毯に黒い足跡。

窓枠にぶつけた傷。

机の上の書類が散らばり、封蝋の欠片が床に落ちている。


「セレナ!」


声が出た。

その名を、職務の声でも、恋の声でもない、素の高さで呼んでいた。


「ここよ」


奥の間から、彼女の声。

いつも通りの柔らかさで、底だけが低い。


扉の柱に背を預けた侍女が蒼白で、護衛の一人が腕を押さえて座り込んでいる。

短剣が床に転がっていた。

刃先に血はない。


部屋の中央――セレナが立っていた。

深紅の裾は乱れておらず、髪もほとんど崩れていない。

だが、その手はかすかに震えていた。

震えをごまかすように、机の上の書類を整え、封蝋の欠片を指先で揃えている。


「間に合ったのか」


近づきながら、俺は周囲を見た。

窓が一つ開いている。

外へ出る線は細いが、熟練なら抜けられる。


足跡は二人分。

侵入は二名。

そのうち一人は捕縛され、一人は逃走。

置き土産は――机の端に、空になった印璽箱。


喉の奥が焼ける。


「印璽は?」


「持ち去られたわ。草案の写しも一部」


彼女は淡々と答えた。

声の表面は静かで、底には小石が沈んでいる。

俺は拳を握り、爪が掌に食い込む感覚で現実に戻る。


「負傷者は?」


「護衛が腕を切られたけれど、大事には至らないわ。

 侍女は転んだだけ。……私は無事よ」


俺は彼女の肩の高さまで視線を落とし、呼吸を整える。

無事――その二文字に、胸がひとつだけ緩む。

同時に、机の上の空の箱が視界の端で火のように赤い。


「遅れて、すまない」


言葉が出た。

言葉は軽い。

軽さを自覚していても、言わずにはいられない。


セレナはわずかに首を振った。

その仕草はいつもよりゆっくりで、慎重だった。


「あなたの判断は、誰かの命を守ったのでしょう?」


刺すでも、撫でるでもない言い方。

事実だけを置く声。

俺の胸の中で、何かがくぐもった音を立てた。


「政務は――私たちは立て直すためにいるの。

 だから、間に合わなかったことを責める役目は、私にはないわ」


「だが、印璽を奪われた」


「奪われたのは印璽であって、決意ではないわ。

 文は書き直せる。署名も。

 必要な限り、何度でも」


必要な限り。

彼女が条文に足した言葉が、今、彼女自身の口から出た。

俺は一度だけ目を閉じ、息を吐く。

胸の内側で、二つの重さが並んで座っている。

救えたものと、救えなかったもの。

どちらも軽くない。


部屋の外で、呼子が鳴った。

逃走者の追跡線が城外へ伸びた合図だ。

俺は顔を上げ、部下へ指示を出す。


「北門に増援、城壁沿いの影を潰せ。

 内回廊の交差点は三人一組で巡回、死角を作るな。

 印璽の偽造対策で文の体裁を変える。政務棟と教会で照合手順を二重化。

 ……それから、礼拝堂裏の捕縛者の取り調べは俺が立ち会う」


「はっ!」


部下が散っていく。

扉のところで立ち尽くしていた侍女に「座って」とセレナが声をかけ、包帯の準備を侍医に指示する。

動きはいつもの通り。

けれど、その瞳だけが、一度だけ俺を真っ直ぐに見た。

責めていない。

けれど、見た。

俺が今、どちらへ走ってきたかを、見ている瞳。


「……ウィンダーミア嬢は?」


彼女が言った。

俺は一瞬、答えに迷い、それから正直に言う。


「無事だ。俺が――間に合った」


「そう」


短い返事。

薔薇の香がかすかに強くなる。

香炉ではなく、彼女の袖から。

その香りに、俺の喉が乾いた。


「あなたの足がどちらへ向かうかを決めるのは、あなたよ、ルシアン。

 私ではなく、条文でもなく、祈りでもなく。

 それはあなたにしか選べない」


言葉の刃先はどこにも向いていない。

だからこそ、まっすぐ胸に届く。

俺は頷くほかない。

頷くことさえ、十分な答えにならないと知りながら。


「仕事に戻って」


彼女は微笑んだ。

夜の花のように、静かな微笑。

俺は敬礼し、踵を返す。

廊から回廊へ出ると、夜気が肺の奥まで入っていく。

冷たさが、さっきまでの熱の輪郭を露わにした。


礼拝堂へ戻る線と、城外へ伸びる追跡線。

二つの線が、床石の上で交差する。

どちらも必要で、どちらも足りない。

俺はまず、礼拝堂裏の捕縛者の取り調べに向かった。

あの若い目の奥に、誰の命令が置かれていたのかを確かめるために。

それは職務であり、逃避でもある。

職務の顔で逃げ込む場所は、安全だ。

だが、そこにいればいるほど、胸に溜まる余白は増える。


回廊の角を曲がる。

高窓の月光が、床に長い矩形を作る。

その矩形の縁を踏まずに進む。

誰かの言葉が胸の内で形を持った。


――読むことのできない祈り。


扉の向こうで、二人の声が交わっていた休憩室。

そこを通り過ぎる時、指先が扉の木目を探した。

今度は触れない。

木は冷たいか、温かいか。

そのどちらも、今は知らない方がいい。


外で、遠くの鐘が一つ鳴った。

夜が更けた合図。

俺は歩を早めた。

選んだ線の先で、まだ選ばなければならないことが山ほど待っている。

そして、選ばなかった線は、俺の足跡の後ろで静かに延び続ける。


どちらの線にも、誰かの息がある。

その息を切らさないために、今夜も走る。

答えは出ないまま、足だけが前へ出た。

胸の奥では、番の衝動と後悔が、互いに形を崩し合いながら、同じ場所を温め続けていた。

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