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第10話 扉の向こう(ルシアン視点)

巡回の途中、礼拝堂脇の休憩室の前で足が止まった。


昼下がりの回廊は、人の気配がひと呼吸ぶん薄い。

高い窓から落ちる光は角度を変え始め、床の石目を白く撫でる。

鎧の金具が鳴らないように歩幅を細くし、息を浅くして通り過ぎるつもりだったのに――


耳が、音を拾った。


「……先日のこと、感謝しております」


セレナの声だ。


いつもの柔らかさを崩してはいない。だが、底に、音の低い層が重ねてある。

言葉の粒の並び方は変わらないのに、間を包む空気だけが違って聴こえる。


「助けていただきました」


それはアナベルの声。


短い。抑えられている。

喉の奥に続きがあるのに、そこで切る、と決めた声。


手を離そうとした。

離れればいい。ただの巡回だ。

俺の務めは通路の安全を確かめ、気配の異常に目を向けること。


だが、足は動かなかった。

扉と石壁のあいだに、ちょうど人ひとりが立てる影の幅。その中に、釘で留められたみたいに止まった。


会話の間が、やけに長く感じられた。

呼吸の音もしない。

代わりに、遠くで噴水の水が落ちる音と、礼拝堂のどこかで布を畳む微かな擦れが聴こえる。

その上に、扉の向こうから、紙の上を花弁が撫でるほどの小さなざわめき。


「……その花は、あなたに差し上げますわ」


セレナの声が、わずかに和らいだ。

花。

部屋の中に花瓶があったはずだ。中庭に面した窓辺の、淡い色の薔薇。


アナベルが何と答えたのか、扉越しには拾えない。

けれど、その後の沈黙の重さだけが、こちら側にも伝わってくる。

言葉を置けば割れる硝子を、二人がいっしょに両手で支えているみたいな、張りつめた静けさ。


(セレナは、全部わかっている)


胸の奥がざわついた。

怒鳴られた方がまだ楽だ。

糾弾の言葉であれば、そこに返すべき言葉を用意できる。

謝罪も、否定も、理由も、形式がある。


だが、彼女はそうしない。

優雅さも、誠実さも崩さずに、事実をそのまま受け止める。

受け止めたうえで、誰の手も離さない。


それがどれほど重いことかを、俺は知っている。

重さは見えない。見えないまま、持つ側の骨に静かに食い込んでいく。


扉に手をかければ、何かが壊れる。

そう思っても、指先が扉の木目を探してしまう。

木目は乾いて、ところどころ柔らかい。

この部屋の扉は音を立てない。丁寧に手入れされているからだ。

押せば、すっと開く。

開けば、俺は二人の間に立つことになる。


想像が一瞬で形を持った。

扉が開く。

光が俺の鎧に反射する。


セレナが振り返り、目の端にだけ波が立つ。

アナベルは花を持ったまま、指先を固くする。


俺は何を言う。

“巡回です”か。“失礼します”か。

それとも――


「セレナ、すまない」


心の中で、言葉が音になった。

耳の奥で、自分の声が響く。


その“済まない”に、何を詰めるのか。

政のための婚約に穴をあけるつもりはない、と。

番の衝動は抑えられる、と。

彼女を傷つけない、と。


どの“と”も、薄く、頼りない。


言えば、安い。

言わなければ、逃げている。


アナベルの名を呼ぶことも思った。


“危なかったな”と。

“怪我はないか”と。


昨日と同じ台詞で、この部屋の空気を別の色に上書きしたかった。

だが、扉のこちらから、彼女の呼吸の拍さえ数えてしまっている俺に、そんな平静は似合わない。


鎧の内側で、汗がゆっくりと冷えた。

金具の接ぎ目に布が貼りつく感覚で、自分が生きていると理解する。

ここまでで、およそ十数呼吸。

それなのに、扉の向こうの時間は、別の単位で進んでいるように思えた。


足音を忍ばせ、その場を離れた。

退くときだけは、決められた通りに。

肩の角度、足の置き方、視線の高さ。

回廊の石に、俺の歩幅の癖を残さないように。


角を曲がって、扉が見えなくなると、胸の中の音が一段下がった。

だが耳の奥には、二人の声が残っている。

柔らかい礼と、短い返事。

そこに混じる微かな薔薇の香り――錯覚のはずの匂いまで。


(……どうすれば、いい)


問うたところで、答えは出ない。

答えが出るなら、とっくに出している。


俺は王都の騎士で、政の線の上に立つ者だ。

義務は明快で、任務は具体的で、報告の文には余白がない。

余白のない文を毎日読み、余白のない声で命令を出す。

なのに、今、胸の中にあるのは余白ばかりだ。

言葉の前と後ろに、沈黙が厚く重なる。


巡回の経路に戻る。


窓の外では、雲の縁がだんだん薄くなり、光が回廊の壁に浅い角度で当たっている。

石は熱を持たない。

熱を持つのは、皮膚の下だけだ。

手首の内側――あの金色の証が一度だけ浮かび、沈んだ場所。

手袋をしていても、そこだけ感覚が鋭い。

脈が速いのでも遅いのでもない、ただ近い。

近い脈は、冷静さの反対側にある。


角をまたひとつ曲がる。

礼拝堂の大扉は半開きで、内部から薄い香が流れてくる。

香の配合が今日は僅かに変わっている。

祭の前の、明るい調合。

それでも、俺の鼻が拾うのは薔薇の匂いの名残と、鉄の匂いの記憶だった。


倉庫で弾いた刃。肩に走った衝撃。

古い羊皮紙が舞い、香草の束が砕けた音。

アナベルの肩に触れた鎧越しの熱。

あのとき“離れろ”と告げた声は、命令の形をしていたが、実際には懇願だった。


(頼む、離れてくれ)

(さもないと、俺が越える)


越えて、何をする。


礼拝堂裏の扉を閉め、彼女を抱き寄せ、口にしてはならない言葉を言うのか。

想像は音を持ちすぎる。

心の中で言った言葉は、現実の言葉よりも生々しい。

その生々しさが、俺の職務と礼装のどちらにも合わないことぐらい、分かっている。


だから、言わない。

だから、言えない。

だから、余白だけが増える。


夕刻の号令が遠くで鳴った。

巡回の交代時刻が近い。

持ち場へ戻ろうとしたところで、別の足音が回廊の端から近づいた。

若い騎士だ。

肩で息をしている。


「副団長。礼拝堂裏の件、取り調べは政務棟へ移されました。外の見張りにも二重の線を。……それと、ルヴェリエ家から伝令です。条約文面、婚姻条項の文言は変更なしで確定、と」


「分かった。見張りは増員、巡回は交差を広く。祭前で人が多い。死角を作るな」


命じながら、自分の声がいつもの高さに戻っていることに安堵する。

声の高さは心の高さに連動する。

平らな声を保てる間は、まだ大丈夫だ。


「それと……副団長。お怪我は?」


「かすりだ。医務室で見てもらえと言ったが、あの子は?」


「ウィンダーミア嬢なら、先ほどまで医務室に。今は寮へ戻ったと」


頷きだけ返し、若い騎士を下がらせる。

簡潔な報告には、余計なものがない。


いい報告だ。

いい報告は、胸の騒ぎを少しだけ抑える。


日が落ちる前に、もう一度だけ礼拝堂の周りを一周する。

扉の蝶番、鍵の具合、窓枠の緩み、床の石の欠け――

目に入るものを順に確かめ、手で触れ、耳で音を拾う。

身体が覚えている日課に心を乗せていく。

乗り切らない部分は、そのまま背中に下げて運ぶ。


回廊の角を曲がった先で、思いがけずセレナとすれ違った。

深紅の裾が、歩幅の乱れなく動く。

俺を見ると、彼女は抑制の効いた微笑で軽く会釈した。

同じ礼を返す。

それだけで通り過ぎられる距離。

言葉を選ぶ必要のない、清潔な儀礼。

この街は、こういう儀礼でできている。

儀礼は、人を守る。

同時に、儀礼は人を黙らせる。

黙ることが美しいときもある。

だが、黙ることでしか守れないものがあることも、今は知っている。


彼女の背が角の向こうに消えるまで、数歩分だけその場に留まった。

鼻先に薔薇の香が残っている。

扉の向こうで渡された花の匂いだろうか、と考えて、考えるのをやめた。


夜が来る。

巡回の線が夜の形に変わる。

昼よりも耳に頼り、影の濃さに目を慣らす。


月が出た。

雲の切れ間から落ちる白い光が、石床を冷たく洗う。

その冷たさに、頭の中の熱が少し沈む。


回廊の端、礼拝堂の扉に手を置く。

木は冷たい。

扉の向こうの休憩室は、今は空だろう。

中庭の風が緩く通り抜け、花瓶の水面を震わせているかもしれない。

薔薇の花弁は、差し渡された時の形のまま、音もなく開いていくのかもしれない。

俺の想像は、また音を持ちたがる。

音を持たせる前に、手を離した。


巡回を終えて、詰所へ戻る。

報告を書き、署名を入れ、封蝋を落とす。

文は明快で、余白がない。

今日あったことは、紙の上ではこうだ。

礼拝堂裏に不審者。取り押さえ。負傷者なし。

巡回強化。

条約文面、変更なし。

それだけ。

それ以上でも、それ以下でもない。


蝋が冷えるのを待つ間、机の端で指が勝手に動いた。

木目の上に、無意味な円を描く。

円は、輪だ。

誓いの輪にも見えるし、断ち切られた輪にも見える。

角のない形は、触れる手のどこにも棘を作らない。

だが、棘がないものは、時に掴みにくい。


封を終え、立ち上がる。

外は、もう夜の匂いだ。

少し湿った空気の底に、鉄と石と、香の名残。

それから、名のない匂い。

胸の内側にしかない匂い。


俺は回廊へ出た。

月の光が、長い影を連れてくる。

影は俺の前を歩き、時々振り返って確認するみたいに、足元を横切る。

影を踏まずに進むのは、難しい。

彼女が言っていた。

“読むことのできない祈り”の上を、どうやって歩くのか、と。

答えは、まだ知らない。

ただ、歩く。

足音を数え、呼吸を数え、越えてはならない線を、今は越えないでいる。


扉の向こうの二人の声は、もう聴こえない。

だが、耳の奥に残ったままの沈黙は、音よりも長く続いた。

それは俺が抱えた余白の形をして、胸の内側に座り込んでいる。


(――どうすれば、いい)


もう一度だけ問う。


答えは出ない。


それでも、問うことそのものが、今の俺にできる唯一の正直さだと思えた。


月は雲に隠れたり、顔を出したりしながら、回廊を白く撫で続けた。

その光の下で、俺は歩き続けた。

扉を開けるべき時が来るまで、開けないという選択を、何度も何度も確かめるために。

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