第1話 番に出会った日
王都は、思っていたよりも眩しかった。
白い城壁は朝日を受けて鈍く光り、石畳を行き交う車輪の音が、潮騒みたいに街全体へ広がっていく。
焼きたてのパンの匂い、革と油の匂い、どこかで焚かれている香の甘い煙――嗅ぎ慣れないものがいっぺんに押し寄せて、胸がすこし浮いた。
私は荷車から降ろした小さな鞄を抱え直し、門前の喧騒を見回した。
王都に来るのは初めてだ。辺境の村で暮らしてきた私には、目に入るもの全部が新しい。
「ウィンダーミア嬢、ですね」
背後から、低くよく通る声。
振り返ると、人波の向こうで一人、銀の鎧が陽を弾いていた。
背は高い。黒髪はきちんと束ねられ、青の瞳は驚くほど静かだ。
胸甲の左には、王族直属騎士団の細工紋。噂でしか知らない、遠い存在。
「教会までの護衛を任じられました。ルシアン・ヴァルセインです」
名乗りと同時に、彼は手袋を外した。
礼儀だ。握手は“ここでは”普通の挨拶。
けれど、辺境の癖はすぐには抜けない。私は一瞬だけ身を強ばらせ、それから遅れて手を伸ばした。
「初めまして。アナベル・ウィンダーミアです。よろしくお願いいたします」
――指先が触れた。
皮膚の上を、ぬるい熱が走る。
驚いて手を引こうとしたその瞬間、光が――彼の甲から、私の手首へ蔦のように伸び、同じ模様を描き出した。
金色。
淡く、けれど確かに、心臓の鼓動に合わせて脈打っている。
「……っ」
息が詰まった。
物語の中の話、祈りの中の言葉。
出会えば人生が変わる、神が定めた魂の半身――“番”。
「番……なの……?」
自分の声が震えているのがわかった。
見上げた彼の青い瞳に、ほんの一瞬、抑えきれない驚きが閃く。
だがそれはすぐに消えて、湖面に落ちた影のように深く沈んだ。
「……すまない」
謝罪だけが、先に来た。
「え……?」
彼は私の手から視線を外し、そっと指を離した。光はすぐに肌の下へ沈み、痕跡だけが熱として残る。
騎士は、いつもの手順を取り戻すように一歩下がって礼を取った。
どこにも乱れのない所作。言葉だけが、ひどくかすれている。
「俺には……すでに婚約者がいる」
朝のざわめきが、いっせいに遠のいた気がした。
白い壁、石畳、荷車の軋み。すべてが薄い膜で隔てられたみたいに、音を失っていく。
婚約者。
その単語は、物語を終わらせるのに十分だった。
同時に、物語を始めてしまうのにも。
「ご案内します。教会まで」
それだけ言って、彼は踵を返した。
私の返事を待たない。背筋は真っ直ぐで、歩幅は迷いを許さない長さだった。
私は鞄の紐を握り直し、彼の背を追った。
胸の奥で、さっきの金色がまだ微かに熱を持っていた。
王都の中心へ向かう道は、幅も匂いも音も、すべてが濃い。
露台から吊るされた布は鮮やかで、広場の噴水は陽に砕けて虹を作る。
通りの向こうでは、子どもが走り、犬が吠え、軒先で薬草を裁つ小刀の音が短く響いた。
「初めてですか、王都は」
沈黙に耐えかねたのは彼の方だった。
一瞬だけ振り返り、すぐ前を向いたまま問われた。
「ええ。――いえ、私は……はい、初めてです」
自分でも何を言っているのかわからなくなって、慌てて言い直す。
彼の肩がほんの僅かに揺れた。笑ったのだと気づくのに、数歩分かかった。
「王都は、よく晴れます。風が強い日は香の匂いが街中に回る」
それは案内とも雑談ともつかない短い言葉だったが、私は救われた気がした。
緊張で固まった喉が、ようやく動き始める。
「星環教会の研修は、長いのですか」
「一季節の予定です。延びるかもしれませんが」
「そうですか」
会話はすぐに途切れる。
彼は余計なことを言わない。
私も、余計なことを訊けない。
――“番”は、どうしますか。
喉まで出かかった問いは、唇の裏で溶けて消えた。
手を合わせた瞬間の光。肌の下に残る熱。
私たちにしか見えない“証”。
本当に、夢じゃない。
彼は、婚約者がいると言った。
ならば、これは何なのだろう。
神の戯れか、それとも、誰かの運命の上に成り立つ、私たちの祈りか。
王都の中心部に近づくと、街の音が少し変わった。
笑い声は静かになり、足音は揃い、装飾の多い馬車が目立ち始める。
通りに立つ衛兵の鎧は磨かれて、陽を反射して眩しい。
教会の尖塔は、王城の塔と高さを競うように空へ伸びている。
白い石に縁取りされた窓からは、薄青いガラス越しに光が漏れ、鐘楼には金の小さな星がいくつも吊るされていた。
近づくほど、胸の中の緊張が静かに形を持っていく。
「こちらです」
彼に続いて、私は高いアーチの下をくぐった。
石造りの回廊はひんやりとして、香の匂いがわずかに濃い。
彩色された壁面には星や蔦の紋様が描かれ、足元の石はよく磨かれている。
一歩ごとに靴底が短く鳴り、音が天井に跳ね返って消えた。
「この先の受付で、研修の手続きができます」
言われた方向に、人影が見える。
青い法衣の司祭と、書記官たち。
皆、忙しそうに羊皮紙を運び、印璽を押し、封蝋を冷ましている。
「ここまでで」
彼は立ち止まり、私に向き直った。
鎧の金具が小さく鳴る。
青い瞳は、出会った時と同じ色で、さっきよりも遠い。
「先ほどのことは……どうか忘れてください」
忘れられるわけがない、と喉の奥で言葉が暴れた。
けれど、声にはならなかった。
「あなたを巻き込みたくない」
“あなたを”――そこだけ、わずかに熱を帯びていた。
彼は言葉の最後を飲み込み、形式通りの礼を取る。
それ以上、何も言わずに踵を返した。
背中が回廊の角で消える。
私は、その場に立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。
――巻き込む? 誰に。何に。
私の問いは、薄い香の煙みたいに、その場でほどけて消えた。
「ようこそ。星環教会へ」
受付に近づくと、司祭が微笑んだ。
淡い緑の瞳が、上から下まで私を丁寧に観察して、手元の名簿に印をつける。
名前、出身地、滞在予定、研修課程――最低限の情報が確認され、木札の通行証が渡された。
「寮室は東棟の三階、階段を上って右手の突き当たりです。共同浴室は二階、食事は鐘の三つです」
「ありがとうございます」
「王都は初めてですか?」
「はい」
「でしたら当面は、夜の外出を控えてください。最近、物騒な話が少し」
司祭は言葉を濁し、笑みだけを残した。
何かを――言わないままにしている笑み。
私の胸の奥で、さっきの“巻き込みたくない”が、小さく脈打つ。
「それから、もう一つ」
司祭の視線が、私の手首をかすめた。
私はとっさに袖口を押さえる。
そこには、もう光はない。ただ、熱の記憶だけ。
「教会では、個人的な印について詮索はしません。……ご安心を」
彼はそう言って、何事もなかったように名簿へ戻った。
詮索しない、という言葉は、詮索できる、という事実と対になっている。
ここでは、見える人には見えてしまうのだ。
番の証も、神の気まぐれも。
木札を握りしめ、私は回廊を抜けた。
東棟へ向かう途中、広い中庭が見えた。
石造りの噴水の周りに、小さな花壇。
赤、白、薄紫。
風が吹くたびに香りが混ざり、とても静かだった。
そこで私は、彼女を見た。
深紅のドレス。
陽を含んだ金糸の髪。
立ち方に迷いがなく、笑みは背筋みたいに真っ直ぐだ。
「あなたがアナベル・ウィンダーミア嬢ね」
声は、柔らかい。
だけど、芯がある。
呼び捨てでも卑下でもない、正しい距離の呼び方。
「私はセレナ・ルヴェリエ。ルシアンの――婚約者です」
自分の名前と並べて、彼女は置くように言った。
私は僅かに頭を下げる。
「初めまして。ご挨拶が遅れてしまい、申し訳ありません」
「いいえ。ようこそ王都へ。星環教会は慣れるまで大変だけれど、みんな親切よ」
セレナは一歩、私に近づいた。
香が、すこし強くなる。
花壇の薔薇と違う、控えめで澄んだ匂い。
「……ルシアンが、あなたを案内したと聞いたわ」
「はい。門からこちらまで」
「彼は、不器用でしょう?」
思わず顔を上げる。
セレナは笑っていた。
誰かを悪く言う笑いではない。
ただ、真実だけを言葉にして、場の空気を軽くする笑い。
「けれど、誰よりも誠実よ」
“誠実”という言葉が、胸の内で小さく刺さった。
誠実だから、あの場で謝る。
誠実だから、背を向ける。
誠実だから――私を巻き込まない。
「またお会いしましょう、ウィンダーミア嬢。教会の食堂で見かけたら声をかけて」
セレナはそれだけ言って、深紅の裾を揺らし、回廊の先へ去っていった。
残されたのは、薔薇の香と、私の心臓の音だけ。
私は袖口を握る。
光はとっくに消えたのに、熱だけがまだ、皮膚の下で脈を打っている。
――番に出会えば、人生は変わる。
――でも、それが“良い方へ”だなんて、誰も約束していなかった。
鐘が一つ、ゆっくりと鳴った。
王都での最初の一日が、ようやく動き出す。
東棟の寮室は、簡素で清潔だった。
細長い窓、石壁、支給の粗いシーツ。
鞄を机に置き、深呼吸をひとつ。
落ち着いたら、まず昼の祈りの補佐に行かなければ。
そして午後は書庫の整理、夕刻は式典の花飾りの手伝い――と、司祭は言っていた。
忙しい方が、きっといい。考える隙がなければ、胸の奥の熱もそのうち冷める。
窓を開けると、風がカーテンを持ち上げた。
遠くで、騎士団の号令の声。
規律正しい、短い音の連なり。
彼は、そこで暮らしている。
王都の風景の中に、当然のように。
私は机の引き出しを開け、小さな布包みを取り出した。
母の形見の髪飾り。
辺境を出る時、父が黙って握らせてくれたもの。
髪に差す。
ほんの少しだけ、息が整う。
――忘れてください。巻き込みたくない。婚約者がいる。
言われた言葉を、私は心の中で何度も繰り返してみる。
角が取れて丸くなるかと思ったけれど、何度繰り返しても痛みは変わらない。
むしろ、形がはっきりして、触れるたびに痛む。
私は、窓を閉めた。
音が少し遠くなる。
胸の中で、今度は別の音がする。
それが“諦める音”なのか、“始まる音”なのか、自分でもわからない。
机に、通行の木札がころりと転がった。
“許可”の文字。
許可されるものと、許されないもの。
境界線は、たぶん思っているよりずっと薄くて、踏めば簡単に破れる。
――踏まないように、歩けるだろうか。
その問いに答える前に、廊下の向こうから誰かの足音が近づいた。
軽い、弾むみたいな音。
扉がノックされ、私は慌てて姿勢を正す。
「ウィンダーミア嬢? 同室のニナです。午後の持ち場、一緒になったから迎えに来たよ」
扉を開けると、栗色の髪を三つ編みにした同年代の少女が笑っていた。
明るい瞳。人懐っこい笑顔。
この王都で、最初の“同僚”。
「よろしくお願いします、ニナ。私、アナベルです」
「アナベルだね、了解。――あ、そうだ。見たよ、さっき。門のところで」
「えっ」
「あの騎士様、王都一の目の保養って有名なの。笑わないから余計に見ちゃうのよね」
さらりと言って笑う。
私は何も言えず、ただ曖昧に笑い返した。
ニナは私の表情を“緊張”と解釈したらしく、肩を軽く叩いた。
「最初はみんな固いの。大丈夫、教会の仕事はやれば覚えるし、失敗しても大抵は祈っときゃ収まる」
「祈りで、収まりますか」
「収めるの。収まるまで祈るの」
なるほど、強い。
私は少し救われた気がして、自然と笑みが出た。
「じゃ、行こっか。昼の祈り、サボると本当に怖いから」
二人で部屋を出る。
扉を閉める瞬間、机の上の木札が、陽を受けて薄く光った。
許可されること。許されないこと。
その境界を跨がないように、私は自分の足元を見た。
けれど――境界は、いつだってこちらに滲んでくる。
---
昼の鐘が三つ鳴り、東棟の寮室からニナと連れ立って回廊を進む。
昼の祈りは、教会内の大聖堂で行われる。
星環教会の中心、その象徴のような場所だ。
大扉をくぐると、冷んやりとした空気と、天井の高さに息を呑む。
柱の間には星や蔦の紋様が刻まれ、祭壇の背後には巨大なステンドグラス。
陽光が色とりどりの破片になって床に落ち、まるで星が降っているようだった。
「わあ……」
思わず声が漏れる。
ニナは「最初はそうなるよ」と小声で笑った。
式次第に沿って列を作り、私は祈祷の補佐の位置につく。
聖水の鉢や香炉を整え、祭壇前の布を広げる――そうしているうちに、大扉の外から規律正しい足音が近づいてきた。
振り向く前に、背中でわかった。
私の鼓動が先に反応する。
銀の鎧。
深い青の瞳。
ルシアンが、護衛として祭壇脇に立った。
距離はある。
けれど、同じ空間にいるだけで、皮膚の下の熱が目を覚ますのがわかる。
袖の下の手首が、かすかに疼いた。
儀式は粛々と進む。
香が焚かれ、聖歌が響く。
私は聖具を持ち運び、祭壇の左側へ――ちょうど、彼の前を通る形になった。
一歩、二歩。
布を直そうと身をかがめた時、指先が鉢の縁を滑り、わずかに水がこぼれる。
反射的に手を伸ばした瞬間、別の手が私の手首を掴んだ。
金色の蔦が、ふっと浮かび上がる。
ほんの刹那のこと。
見えるのは、きっと私たちだけ。
「……!」
息を呑む間もなく、彼はすぐに手を離し、一歩下がった。
瞳は表情を持たず、護衛としての位置に戻る。
その動きはあまりに自然で、周囲は何も気づかない。
でも、私の心臓はもう元には戻らなかった。
儀式が終わり、人々が退出していく中、私は聖具を片付けながら何度も彼の方を見た。
けれど、彼は私を見なかった。
見ようとしなかった。
(……忘れてください。巻き込みたくない)
朝の言葉が蘇る。
理解しようとすればするほど、胸が締め付けられる。
「素敵な祈りでしたわね」
不意にかけられた声に振り返ると、深紅のドレスが目に入った。
セレナ・ルヴェリエ。
午前中に中庭で会ったばかりの女性。
「セレナ様……」
「私、少し早めに参列していたの。
祭壇の光、とても綺麗だったわ。まるで――」
彼女は一瞬だけ言葉を区切り、微笑んだ。
その瞳の奥に、ほんのわずかな探るような色が宿る。
「まるで、番同士のように」
空気が、すっと冷えた。
でも、その笑顔は壊れない。
咎めるでも、責めるでもなく、ただ事実のように置かれた言葉。
私は喉の奥が渇いて、やっとの思いで答える。
「……偶然です」
「そう。――偶然、ね」
セレナは視線を外し、祭壇に向かって一礼した。
その所作は美しく、揺らぎがない。
だからこそ、胸の奥のざわめきが消えなかった。
祈りの後の回廊で、私は深く息を吸った。
香の匂いと、金色の記憶が混ざって胸に滲む。
――番に出会えば、人生は変わる。
でも、それが誰の祈りを壊すことになるのかは、まだ知らない。
鐘が二つ、静かに鳴った。
王都での二日目が、始まろうとしていた。