【第4局】敗北と再起
碁盤の前に座ったユエは、手元の白石を転がしていた。
ペア碁大会の敗北から、すでに数日が過ぎている。
あの一手――光志が打った奇抜な一手が、脳裏に焼きついて離れない。
自分のほうが経験もある。読みの深さも精度も、高かったはず。なのに、あの瞬間、自分は光志に引っ張られた。でも合わせられなかった。
「……私、つまらない碁を打ってた」
ユエはぽつりとつぶやいた。
AIに頼り、勝率だけを追い求めた自分。
気づけば、囲碁が“作業”になっていた。
そんなときだった。部室のドアが控えめに開き、光志が顔を出す。
「ユエ、打たない?」
「今さら何よ」
「……いや、ちゃんと勝負したこと、ないなって思って」
「ペアじゃダメだったの?」
「ペアじゃ見えない手がある。ユエの本気が見てみたい。俺も、俺の全部でぶつかってみたい」
ユエはしばらく黙っていたが、立ち上がって盤に向き合った。
「……いいわ。全部、見せてあげる」
石が盤に置かれ、静かな時間が流れる。
しばらくは無言だったが、盤面が中盤に差し掛かった頃、光志がぽつりと呟いた。
「ユエ……勝ちたいか?」
「当然よ。勝つことがすべてじゃないの?」
「俺、最近思うんだ。囲碁って……何かを得るための道具じゃなくて、問いかけみたいなものなんじゃないかって」
「問いかけ?」
「うん、自分自身に。俺は、AIで読みの力をつけたけど、なんか囲碁が遠くなった気もしたんだ」
「……私も似たようなこと、思ってた」
ユエは次の一手を、少し間を置いて打つ。
「勝つために、精度ばかり求めた。形の美しさとか、創造性とか……そんなのは弱者の戯れだと思ってた。でも、それを捨てたら、囲碁の世界が灰色になった」
「俺は逆で、楽しさだけを追ってた。でも、AIを通して精度に触れて、それもまた美しいと気づいた」
「……互いに足りなかったのね」
「そう。でも今は……少しだけ、わかる気がする。囲碁って、考え続けることそのものが、意味なんじゃないかって」
ユエの石が盤に落ちる。
「うん。考え続け、創造し続ける……そこにこそ、成長があるのかもね」
その日、勝敗はつかなかった。
終局の宣言もなく、二人は、気づけば笑っていた。
***
数日後。
定年退職する顧問の先生の送別会を終えたばかりの午後。
囲碁部に、新しい顧問がやってきた。
名前は、長嶺 誠。理科担当。40代。眼鏡の奥の目は弱々しく、ワイシャツの襟は曲がっている。
「えーと……こんにちは。囲碁は……ちょっと、ルールもよくわかりませんが……とりあえずよろしくお願いいたします。」
光志とユエは、ちらりと視線を交わす。
(……この人が次の顧問かぁ……未来は白紙、いや、無地かも)
どちらからともなく、同時にため息が漏れた。