【第3局】初めての大会
会場の体育館には、盤の数だけ、白と黒の小宇宙が並んでいる。
地方開催とはいえ、意外と参加ペアは多い。畳敷きの一角では、囲碁とは関係なさそうな将棋部が、なぜか観戦席でワイワイ盛り上がっている。
「駒落ちしないだけでマシだろ」
「いや、囲碁はパスできるからズルい!」
騒がしい。ルールすら違うのに、なぜ彼らはここにいるのか。
それよりも気になるのは、主催スタッフに紛れてやたら高そうな三脚を立て、碁盤を上から覗き込む老人だ。棋譜取りのようだが、ノートには判読不能の達筆で“幽玄”とか“厚み”とか書き込まれている。
「……いるよね、どこにでも、ああいう人」
光志が小声でつぶやいた。
「多分、アレが一番強いタイプだと思う」
「いや、たぶん“囲碁語りは好きだけど勝率は微妙”タイプ」
「……リアル」
二人の控えめな会話の横では、対局時計が“カチッ、カチッ”と規則正しく鳴っていた。普段の静かな部室と違い、ここの空気は少し乾いていて、落ち着かない。
***
ペア碁――正式には「ペア囲碁」とも呼ばれる。
ルールは単純で、男女ペアで交互に打ち進め、相談や話し合いは禁止。互いの読みと呼吸、信頼が試される。しかし仲が良ければ勝てるというものでもない。
光志とユエは、序盤から順調だった。
光志の成長は目覚ましかった。AIで学んだ変則布石や、判断の早さ、そしてなにより「考えた手を、責任を持って打つ姿勢」が身についていた。
「光志、そこ」
「打つよ」
ユエの目線に応える形で、黒石が盤に吸い込まれる。
その連携は、見ている者の目にも心地よかった。
光志のポンコツぶりは健在だが……
――右と左を間違えそうになったり、昼食のパンにカレーパンを重ねて持っていたり――が顔を出すたび、ユエはため息をついた。
「……この国の炭水化物、過剰すぎない?」
「愛だよ。糖質という名の応援」
「バランスの問題」
だが、こと囲碁に関しては、文句が出ることは減っていた。
そして、彼らは勝ち進み、ついに決勝に駒を進めた。
***
決勝の控室。
「ユエ?」
光志がユエの様子を見に行くと、彼女は静かに窓の外を見ていた。
「……来るとは思わなかった」
その視線の先――そこには、スーツ姿の大人に囲まれながら、どこか余裕を纏ったペアが入場してきた。
二人は、中国のナショナルユースの一員だった。特に男子の方――魯 凰は、ユエのかつての同期。
彼の目は、ユエを一目見るなり、驚いたように見開かれた。
「まさか……君が、"こんなところ"にいるなんて」
「……たまたま。別に。あなたは、観光でしょ?」
「はは、日本の地方大会。暇つぶしにはちょうどいいよ」
ユエの拳が、わずかに震えた。
魯の女ペア――沈 星は、笑みを浮かべながら言う。
「ユエ、あなたがこんなところで試合してるなんて。昔は、もっと上を目指してたのに……」
光志が思わず口を挟んだ。
「なんか会話が失礼じゃない?」
魯は、ちらりと光志を見て、興味なさそうに言った。
「君、彼女のパートナー? ふうん……まあ、がんばって」
その言い方は、明らかに「勝負にならない」と言っていた。
ユエは言い返さなかった。
――かつて、自分も同じように思っていたからだ。
***
決勝戦。盤を挟んで、再会と対峙が交差する。
序盤、相手は隙のない布石を展開してきた。ユエは対応するが、ほんのわずかな“読みの深さ”の差が、じわじわと効いてくる。
光志も喰らいつくが、相手はプロを目指すレベル。形勢は徐々に傾いていく。
(……差が、開いてる)
ユエは静かに思った。自分が日本に来る直前までは、魯と互角だったはず。だが、今は違う。どこかで“伸び悩んでいる”自分に気づいていた。
(やっぱり、私の決断は――)
そんな諦めが芽を出しかけたときだった。
「打つよ」
光志が、ぽつりと言った。
盤の中央――絶妙なタイミングで打ち込まれた“切り”。
ありえないようなタイミングだった。だが、盤面全体を読み切ったうえでの、生きる可能性を作る一手。
「え……?」
魯が思わず声を漏らす。
審判席にいた棋譜取りの老人が、筆を止めた。周囲もざわつく。
「なんで……そこで、その手?」
ユエが困惑をにじませながら見つめる。
光志は、照れ笑いを浮かべた。
「え、なんとなく?」
「“なんとなく”でそんな手、打つな」
しかし――その後のユエは、わずかに乗り遅れた。
調子を合わせきれず、細かい読み違いが出た。終局後の形勢判断では、相手の半目勝ちだった。
終局の鐘が鳴る。
光志は盤をじっと見つめていた。
「……ごめん、僕がミスった」
「……違う。むしろ、私が……」
魯が、席を立ちながら言った。
「光志くん。君のあの手、ユエが一番よく覚えてると思う」
「え?」
「今の君たちは、噛み合ってなかった。でも、あの一手は、面白かった」
そして、彼はユエに向き直る。
「ユエ、お前、前より表情が柔らかくなったな。そういう囲碁も、悪くないんじゃないか?」
そう言い残して、彼らは去っていった。
***
帰り道。バス停のベンチに二人で並んで座る。
「……あのとき、どうして、あの手を?」
ユエが、ぽつりと尋ねた。
「え? なんとなく、っていうか……AIなら絶対打たないけど、“面白そうだな”って思って」
「……」
「怒ってる?」
「……ううん。私、あなたの囲碁が“つまらなくなった”って思ってた。でも……」
そこでユエは、ほんの少しだけ、口元をゆるめた。
"つまらない囲碁を打つようになってたのは……私の方だったかも……"
ユエは少しだけ頬を赤らめて、そっぽを向いた。
光志は、笑いながら言った。
「ユエさ、今、俺の事“好き”って言った?」
「はぁ?言ってない。まだ“嫌いじゃない”の段階」
「だって、顔が赤くなっているから……なるほど、なるほど……昇段には程遠いな」
「じゃあ、光志も努力しなさい」
囲碁の実力も、感情も、きっとまだ噛み合ってない。
けれど、同じ十九路盤に座り、打ちたいと思える。
そんな気持ちが、ふたりのあいだに、生まれはじめていた。