【第1局】黒と白の転校生
林 玥。中国からの転校生。
自己紹介は、実にシンプルだった。
「林玥です。よろしくお願いします」
それだけ。両親の仕事の関係で、こんな僻地に……
……まぁ、アニメでは、ありがちなパターンかぁ。
どこか近寄りがたいバリアを纏っていて、クラスの誰もが「きれいだけど話しかけづらい」と口を揃えた。僕もそう思っていた。
少なくとも、あの昼休みに“あれ”を見るまでは。
その日、僕は廊下から教室を覗いた。ユエは、ひとりで席に座り、鞄から小さなポーチを取り出していた。何気なく目に入ったのは、彼女のリュックについたキーホルダー。
ちょっと色あせたそれは、黒石と白石を抱えてにっこり笑うパンダのぬいぐるみがぶら下がっているキーホルダーだった。
“囲碁パンダ”。中国の囲碁グッズ界では知る人ぞ知る“ゆるキャラ”で、あざと可愛い笑顔が特徴。……クールビューティーには、およそ似つかわしくないアイテム。
僕の囲碁レーダーが反応した。……もしかして、
「囲碁やるの?」
思わず声をかけた僕に、ユエは少し驚いた表情を見せた。
「……どうして、分かったの?」
「そのパンダ……囲碁パンダでしょ? 僕も持ってる。緑色のやつ。洗濯したら縮んだけど」
ユエは軽くため息をついた。
「昔のグッズ、よく知ってるね。でもこれ非売品のレアもの」
「すごい! じゃあ、やっぱり囲碁打てるんだ!」
思わず前のめりになる僕。だが、ユエはその熱量に反比例するように、ぐっと距離をとった。
「囲碁やっていることは、内緒にしていたけど、迂闊。」
「まさか、“囲碁パン”知っている人がいるなんて……」
「……打てるけど。日本じゃ、打つつもりはない。」
「と言うより、打っても意味がない。」
ユエは窓の外を見ながら、淡々と言った。
「え?」
「レベルが低い。大会映像も見たけど、持ち時間の半分も使わない。定石すら怪しい子がベスト8に残るなんて、信じられない」
「ま、まあ、日本も頑張ってはいるよ……たぶん……」
「中国じゃ、小学生でももっと読んでる。囲碁は文化でスポーツだよ。ここは、ただの“娯楽”って感じ」
正直、ぐぅ、の音も出なかった。
でも、それでも僕は引き下がれなかった。だって、僕の見つけた居場所は“囲碁”だから……
次の日の放課後。
「林さん、囲碁部、見に来ない?」
「……行かない」
「囲碁、好きなんでしょ?」
「別に。習ってただけ」
「じゃあ、僕と打とうよ」
「嫌」
翌日。
「1局だけでもいいから」
「無理」
そのまた翌日。
「じゃあ、観戦だけでも」
「暇じゃない」
その翌週。
「お菓子出るよ?」
「……いらない」
もはや部室が勧誘本部と化していた。
僕の語彙力は枯渇寸前。けれどそれでも、囲碁でつながれる誰かがいるかもしれないという希望だけで、踏ん張っていた。
そして、何度目かの昼休み。
「……分かった。一局だけね」
ユエは、半分あきれ気味に答えた。
ユエが遂に、折れた!
「やった! じゃあ放課後――」
「でも、条件付き。私が勝ったら、二度と誘わないで」
「……3日間くらいなら考える」
「二度と!」
「わ、分かったよ……!」
部室には誰もいなかった。というより、最初から「誰もいない」のが当たり前だった。
机の上に十九路盤を置き、二人で向かい合う。僕は久々に心臓が高鳴っているのを感じた。
「黒、そっちでいいよ」とユエ。
石を並べ、静かに始まる対局。
……結果は、あまりにあっけなかった。
序盤十数手で、僕の構想は崩壊した。模様を張ろうとした右辺は食い破られ、左下のコウには一手も打たせてもらえない。打ちたい手が、全部打てない。
プロでもなんでもないのに、こんな感覚を味わうとは。ちょっとは自信あったのに……
でも。
それでも、僕は打ち続けた。
投了すべき局面がいくつも過ぎた頃。
ある瞬間、盤の右上に、ふと「活きる」筋を見つけた。
――これは……ひょっとして……?
僕はその手を打った。たった一手、活路が開いた。まるで地獄の窓から一筋の光が差したようだった。
……が、その次の手で、自分の手順が破綻していることに気づいた。
おかしい。こんなはずじゃ――
結果、大敗。
「はぁ……」
対局後、ユエは盤面を静かに見つめたまま、ため息をついた。
「あの手。……悪くなかったけど」
「え、マジで?」
「そのあとがめちゃくちゃだったけど……」
「……ですよね」
彼女の表情は、どこか複雑だった。
優越感? 落胆? それとも――
「あなた、囲碁好きなの?」
「好きじゃなきゃ、あんなに誘わないですぅ。」
ユエは目を細めた。
「……変な人。変な囲碁。変な勝ち筋。でも、ちょっと、だけ……」
そこまで言うと、彼女は盤面から目をそらし、立ち上がった。
「また打ってあげる、とは言わないけど、誘われても、怒らないかな……?」
「……え、それって――」
「期待はしないで」
そう言って、彼女は部室を後にした。
十九路盤の上には、白と黒の石が、静かに沈黙していた。けれど、僕には確かに聞こえた気がした。
あの一手が、何かを変えた音を。