【プロローグ】十九路盤の片思い
“カチッ。“
小さな碁石が、盤に吸い込まれるように置かれた。
その音だけが、しんと静まり返った碁会所に響いた。昭和で時が止まったようなこの場所には、灰皿と将棋盤と囲碁盤と、電気ポットしかない。
「そんなんじゃあ、こっちの三々が泣いてるぞ、光志くん」
そう言って、白髪まじりの老人――通称“先生”が、湯呑をすすりながらにやりと笑った。僕の名前は古賀光志、高校二年。地元では唯一の(そして自称最年少)碁会所会員だ。
「三々にも感情あるんですか……。じゃあこのケイマも、泣いてます?」
「そっちは嘆いてるな。“おい親、なんでこんなところに置いた”って顔してる」
碁石に感情移入してどうする。
……まあ、先生の言う通り、今日もボロ負けだ。
僕は中学のときに囲碁と出会い、見様見真似でルールを覚え、ひとりで地元の囲碁部を立ち上げた。が、部員は増えず、実質「囲碁を打つ場所」がないまま、高校に進学。気がつけば、部室の鍵は僕専用ロッカーと化していた。
だから今、こうして僕は、碁会所に通っている。
じいちゃんたちに囲まれ、渋茶と湿気のなかで、懐メロをBGMに打ち続ける十九路盤の日々。
……でも。
「AI囲碁ソフト、置いてもいいと思うんですよね。これからの時代、AIですし。研究用にもなるし」
「AIぁ? 機械に打たせて、勝って楽しいのか?」
「いや、勝てるわけないですけど、勉強には……」
「勉強っちゅうのは、人間とやるもんだ。こっちが“地”って言ってんのに、“陣地が効率的ではありません”とか言われてみな。ムカつくだけじゃ」
「……ですよね」
何度このやりとりを繰り返しただろう。僕の説得スキルが低いのか、じいちゃんたちの昭和バリアが強いのか、どっちなのかは分からない。
それでも僕は、打ち続ける。
ときに、納得のいく一手が打てたときには、じいちゃんがちょっとだけ目を細める。
……それだけで、ちょっとだけ報われる。
けど、本音を言えば、同年代と囲碁を打ちたい。
この街の高校生たちの囲碁に対する認識なんて、たぶん「おじいちゃんがやってるやつ」で止まってる。それでも、誰かと語り合いたい。負けてもいいから、全力でぶつかってみたい。
―― そんなことを考えていたある日、彼女は、ふらりと教室に現れた。