校正者のざれごと――手書き原稿とGIレース
私は今、フリーランスの校正者をしている。
大学を卒業したあと、一般企業に就職し、とあるパンフレットを作る仕事をしていた時期がある。商品を企画し、ふさわしい写真を選び、そしてお客様にアピールするような魅力的な文章を書く。
制作を担当してくれていたのはある小さな編集プロダクションの男性2人。2人とも、当時の私より10歳くらい年上で、恰幅のいいおじさんという感じだった。野球好きで、名刺にはユニフォームを着てスイングする野球選手のイラストがあった。
社長で営業担当の森山さん(仮名)は、ノリのいい明るい雰囲気の人だった。電話がかかってくると、決まって「どうも、反町隆史です」と名乗った(似ても似つかない)。私はそれに対して「お待たせしました。松嶋菜々子です」と返した(こちらも似ても似つかない。まさに昭和のノリ)。そんな何気ないやりとりが楽しかったのを覚えている。
編集プロダクションのもう1人、デザイナーの松坂さん(仮名)はいかにも芸術家肌といった感じの、厳しい人だった。めったに笑わない。著者校正したものを返すと、「小山さん、いいかげん校正記号くらい覚えてよ」と冷たく言い放った。でも、こちらがデザインの希望を言うと、いつも一生懸命考えてくれる。私が説明しようとするあいまいでぼんやりとしたイメージを、必死に具現化してくれた。「これ、すごくいいですね。イメージ通りです」と言うと、「そうでしょ」と少しだけ得意そうな笑顔を見せた。
あるとき、入稿したものが初校として戻ってきたあと、気になるところがいろいろ出てきてほぼ全面的に書き直しをした。元のゲラ(校正紙)が真っ赤になるくらい赤字を入れた。それも手書きで。今なら絶対にデータ入稿にする。その大量の赤字を見て、松坂さんは絶句していた。いま思えば、文句を言う気力すらなくなったんだろう。当然だ。いまの私だったら、そんなふうに再校で真っ赤にされた手書きのゲラとの照合をやらされたら、絶対にキレている。
最近はほぼなくなったが、校正を始めたばかりのころは、原稿用紙の手書き原稿というのを見ることもあった。そしてそういう原稿にかぎって、文字は達筆すぎて(もちろん大人の表現だ)読めない。文字の入力作業をした人の苦労がしのばれる。たいへんだっただろうな。意味がつながらないところは、おそらく漢字が判読できなくて本来の文字とは違う字が入っている。どうしても判読できないところは●●などとしてある。そんなときは、前後の文章から必死に推理する。さんざん考えたあと、「あっ」とそれらしき漢字が思いついて非常にスッキリすることもある。
いまでは手書きの原稿というのはほぼないので、著者の打ち込んだものがそのままデータとして入稿されてくる(原稿整理は入っている)。なので、初校の段階で注意するのは文字の抜けや、漢字の変換ミスがメインだ。「意外と多い」が「以外と」になっていたり、「異業種に参入する」が「算入」になっていたり。使い分けの難しいものもある。「解放」と「開放」、「回答」と「解答」など。そのうえで、文字統一をしたり、内容について調べたりもする。
では、いまは手書きの文字と格闘することはないのかというと、そんなことはない。先ほど私がパンフレットの著者校戻しのさいにしたように、手書きで大量に赤字を入れてくる著者もいる。再校校正で悩まされるのがこの「赤字合せ」という作業だ。
右手側に再校ゲラを置き、左手側に著者(や編集者)の赤字の入った初校戻し校を置く。右手に赤ペンを持ち、左手には青の色エンピツを持つ。赤字が正しく再校に反映されているかを確認し、間違いがなければ初校戻し校のほうに左手の青エンピツでチェックを入れる。間違いを見つけたら、再校ゲラのほうに右手の赤ペンで指示を入れる。これぞ二刀流? ゲラをめくるたびに赤字で埋め尽くされているのを見ると、思わずため息が出る。まだ続くのか。必死に気力を振りしぼり、無心で作業を進める。こうして、著者の指示が正しく反映されていることを最後まで確認してから、あらためて素読みの作業に入る。
真っ赤にされた初校戻し校を見ると、私の原稿を見て絶句していた松坂さんを思い出す。パンフレットの制作に携わっていたのは約2年ほどだったが、楽しかったし、たくさんのことを学ばせてもらった。訳あって急に会社を辞めることになり、彼らには退職の挨拶もできなかった。いまはどうしているんだろう。ふと思い出してネット検索などしてみるが、消息はわからない。
「小山さん、結婚したんだってね」
ある打ち合わせの席で、森山さんがにやりと笑いながら、私に1枚の名刺サイズのカードをくれた。結婚祝いだという。見ると、それは私の結婚式の行われた日付に開催されたレースの、馬連の馬券。「東京11レース NHKマイルカップ」。馬番まで結婚式の日付になっていた。もちろん、はずれ馬券。
ユーモアのある、楽しい人だった。その馬券は、いまも私の財布のなかにそっと忍ばせている。