桜花爛漫 第一章~春の刻~
その光景に、見とれている私がいる。私も人生というステージでダンスを踊りたかったが、それはもう叶わない。
小さく息を吐くと、次のページに目を向ける。そこには、旅に出て最初に訪れた街での思い出の写真が写し出されている。
その写真は、桜舞い散る季節に、たくさんの子供たちと一緒に笑っている私の顔。その顔は、最初のページの写真より、少しやせ、衰えている。
「みんな、元気にしているかなぁ。私のこと、覚えているかな……」
再び、息を吐こうとするが、それだけでも体に痛みがはしる。しかし、それだけではない。痛みと共に寒気も襲う。本来なら、病院のベットで寝ていなくてはいけない体なのだから、あたりまえといえば、あたりまえだ。
この痛みを抑えるため、鞄から、薬を数種類取り出し、それを水と共に飲み込む。でも、即効性の薬にもかかわらず、殆ど効果はない。どうやら、もう薬では、抑えきれないぐらいまで病魔が体を蝕んでいるようだ。
その痛みに耐え、掌に不意にのった一枚の桜の花びらを見つめながら、春のこと思い出す。
車を走らせること、約六時間。やっとの思いで、伊神市に到着する。
病の体で、始めた今回の旅。最初の目的地にこの街を選んだのは、訳がある。それは、亡くなった私の姉である、縁茜が生前、一番良い場所だと言っていた月読島があるから。私も姉が見た風景を、由衣ちゃんとの思い出の地を、改めてちゃんと見ておきたいと思っていたから。そして、神宮へ行って、今回の旅の安全祈願もしておこうと思う。
月読島には、姉の恋人である黒曜翼さんが、医師として赴任している。その島には、船でしか行けないため、市役所で時刻を確認することに。
「えっ、島には渡れない? なぜですか」
「すみません。月読島で発生した事件の対応で、島の住民以外、中に入れるなと警察から通知がありまして。この対応もいつ解消されるか、わからない状況でして」
「そうですか・・・・・・ ちなみに怪我人の中に、黒曜翼さんという人は、いらっしゃいますか。その人、義理の兄みたいな人でして」
「少々お待ち下さい。黒曜、黒曜・・・・・・ そういった人の名前は、リストに記載されていませんね」
「そうですか♪ 有難うございます。今回は、そういった事情なら、諦めます」
「本当に申し訳ありません」
まさかの展開に、市役所の正面掲示板の所で途方に暮れてしまう。一応、伊神市の観光案内パンフレットは貰ってきたが、どうしたものか。
ひとまず、神宮へ行こうと鞄を探すが、鞄がどこにもない。役所内に忘れたのかと思い、中を探してみるが、こちらにもない。職員さんや守衛さんたちにも確認するが、届いていないという。
一時間ほど探してはみたものの、結局見つからず。職員さんたちの勧めもあり、警察に被害届を提出。何か進展があれば、連絡をしてくれるという。
服などが入った鞄は、車の中に置いてきてあるので、旅は続けられる。でも、なくした鞄の中には、旅で必要だと思い、おろしたお金や通帳・印鑑、キャッシュカードの全てが入っている。免許証だけは、車のダッシュボードの中に入れてあるから、無事だが。まさか、初日から一文無しになってしまうとは、神さまのイタズラにしても、度が過ぎていると思う。
先程と同じ場所で、途方に暮れていると、掲示板に《急募 伊神市立小中学校 臨時教員》という貼り紙に気づく。旅のためにも資金をどうにかしなくてはならない。
その思いで、役所の職員課という所へ行き、張り紙の話をすると、今から面接をしたいという。
何の準備もしていないこの状況で、色々なことを聞かれるのではないかと心配していたが、数回の質問に答えただけで、採用とのこと。
詳しい話を聞いてみると、張り紙の小中学校で、急な欠員が出て、急ぎ募集をかけてみたものの、締切日である今日まで、誰の応募もなく、困っていたところに、私が来たらしい。むこうにとっても、渡りに船の状況だったのだ。
「それでは、縁さん。大変急な話になりますが、明日から出勤ということは可能でしょうか」
「明日ですか・・・・・・ わかりました。よろしくお願いします」
「有難うございます。こちらから、学校の方には、連絡を入れておきますので、縁さんは、朝の八時に職員室へ行って下さい。そのときに必要な書類を受け取って下さい」
「わかりました。よろしくお願いします。それと・・・・・・」
今の状況を説明し、一万円を借りることができた。ちなみに給料の締切日、一週間前から勤務開始であるため、今月の給料から、借りたお金は、天引きしてくれるという。
面接が終了し、学校の詳しい資料を貰い、二十分ぐらいかけて、海が見える堤防へと到着する。
コンビニで購入したお弁当を食べながら、一つの心配事が頭から離れない。それは、私の病気のこと。面接で、教員免許の確認のために、勤めていた学校などに私のことを聞くと言っていた。そこで、病気のことがばれてしまわないか。そのせいで、病院へ戻ることになるんじゃないかと考え始めると、美味しいはずのお弁当の味もわからなくなる。
今のところ役所からの連絡はない。体も持ってきた薬のおかげで、幾分かまし。結局のところ、明日になれば、全てがわかるはず。
問題が解決しないまま、車の中に簡易なベッドを作り、期待と不安にかられながら、眠りにつく。
次の日、私は、朝七時に目を覚まし、簡単な身支度を整える。また働くことになるとは思っていなかったため、スーツ類は持ってきてはいない。そのため、少しでも清楚感が出るように白黒で上下をまとめる。
車を走らせること、約十分。学校が見えてきた。
私がこれから勤務する学校は、周囲を田んぼに囲まれた所にあり、近くには公園や公民館がある。学校自体は、どこにでもある建物だが、まだ出来たばかりで、もの凄く綺麗。
この学校は、小中一貫体制となっており、もらった資料によると、周辺の生徒数が少なくなってきたために、合併したと書いてあった。
学校の案内板に従い、職員室へむかう。
職員室の前に着くと、ドアに手をかける。その手は、若干震えている。
「失礼します。本日から、こちらでお世話になる縁葵といいます」
「どうぞこちらへ。私がこの学校の校長をさせていただいております。よろしくお願いします」
最初に挨拶をしてくれたのは、初老の男性。いかにも校長先生という感じだ。職員室も広く、かなり綺麗。ただ、職員室にいる先生方は少ない。たぶん、ホームルームなどで出ばらっているのだろう。
「はい、こちらこそ」
「いやぁ、縁先生。前の学校の方、たしか、橘先生でしたか。お電話で、あなたのことをお聞きしたら、かなり優秀な先生だったそうで。こちらとしても、期待をさせてもらっています。よろしくお願いしますね」
「橘先生は、他に何か言っていましたか」
「いえ、何も・・・・・・ 何か気になることでも」
「いえ、元同僚でしたので、何か変なことでも言っているのではないかと思いまして」
「そうでしたか。特には何も・・・・・・ あっ、そういえば、『頑張れ』って言っていましたよ」
「そうですか・・・・・・」
電話に出てくれたのが、由衣ちゃんでよかった。これで、病気のことがばれるまでの時間は、稼げるはず。なら、私は、残り少ない命をかけた旅を達成できるように頑張らなくては。
「縁先生には、あるクラスの副担任をしていただきたいと思います。大丈夫でしょうか」
「はい、私でよければ」
「有難うございます。この資料も渡しておきますね。それで、縁先生。本日は、先生方への顔合わせということにさせていだだいて。本格的な勤務は、明日からということでよろしいでしょうか」
「私も、色々と準備がありますので、そうしていただくと助かります」
「それでは、明日は、朝八時に職員室に来ていただけますか。生徒たちへの紹介は、そのときに行いますので。それと、先生。お住まいは、お早めに決めてくださいね。契約上、問題になるといけませんので」
「わかりました。改めて、明日からよろしくお願いします」
職員室にいた先生方に、軽く挨拶を済ませると、学校をあとにする。
昨日と同じ場所に車を止め、銭湯で火照った体が冷めないように、ここへ来る前に立ち寄ったスーパーで購入したおにぎりとうどんを食べる。
それらを食べながら、明日からの学校勤務に胸が踊る。ただ、物を飲み込むたびに、少し痛む心臓が、改めて、自分が病人だということを実感させられる。
次の日、予定通りの時間に職員室に着く。
「おはようございます。今日からお願いします」
「はい、お願いします。机は、あちらを使って下さい。昨日言い忘れましたが、先生には、社会全般を担当していただきたいと考えています。 授業などで使う教科書は、机の上に用意してありますので、そちらを使って下さい」
「有難うございます。こちらも科目担当制なのですね」
「ええ、それでは、もう一方紹介させていただきますね。こちらが、縁先生が副担任をしていただくクラスの担任である神楽命姫先生です」
「神楽といいます。よろしくお願いしますね」
校長先生の後ろから現れたのは、長い黒髪の女性。雰囲気からして、かなりおとなしそうな印象を受ける。
「縁葵です。よろしくお願いします」
「詳しい話につきましては、神楽先生から聞いて下さい。それでは、先生方、よろしく」
簡単な挨拶を済ませると、校長先生は、職員室の奥にある部屋に消えていった。たぶん、奥が校長室なのだろう。
「それじゃ、行きましょうか」
「はい」
廊下に出て、右へ歩き始める。窓から差し込む春の日差しが、廊下全体を照らし、白を基調とした学校全体が、暖かさに包まれている感じだ。
「私たちが受けもつクラスは、二階の端にある三ーAです。生徒の数は、十五人。みんな、良い子たちばかりなので、すぐ馴染むと思いますよ」
「そうですか」
教室が近づくにつれて、賑やかな声が聞こえてくる。
ドアを開けると、教室の中を走りまわっている数名の生徒の姿が。ただ、神楽先生は、そんな生徒たちに対して、何も言わない。
「こら、ホームルームの時間だよ。早く席につきなさい」
私の一言に驚きをかくせない様子。これだけでも、日頃から、神楽先生が注意をしていないことがわかる。
「それじゃ、ホームルームを始める前に、みんなに新しい先生を紹介したいと思います。縁先生、お願いします」
「今度、この学校に赴任してきました、縁葵といいます。担当科目は、社会です。よろしくお願いしますね」
ざわざわし始める教室。子どもたちが、互いに何か言っているようだが、声が小さすぎて、はっきりとはわからない。ただ、雰囲気から、私のことを噂しているのはわかる。
「先生は・・・・・・ 何か特技が・・・・・・ ありますか」
「えっ」
突然の質問に驚いたというよりは、質問をしてきた子が、自分から進んで発言をするような感じを受けなかったからだ。
「先生の特技ね・・・・・・ よし、ちょっと待ってね。神楽先生。生徒たちの名簿はありますか」
「ここにありますが、何に使うんですか」
「まぁ、見てて下さい」
神楽先生から名簿を受け取ると、ばっと開き、ざっと目を通し、名簿を閉じる。時間にして、数秒。
「それでは、出席確認をとります。井上たけ(いのうえたけ)君」
「あっ・・・・・・ はい」
返事をしてくれたのは、私に質問をしてくれた男の子。先程もそうだが、やはり元気がない。
その後、名簿番号順に名前を呼んでいく。みんな、元気に返事をしてくれるものの、戸惑いをかくせない様子。
「はい、今日は、全員出席をしてくれているようでよかったわ。井上君も、ここ二・三日、欠席をしていたみたいだけど、風邪かな?」
「えっ、はい・・・・・・」
「治ってよかったね。それじゃ、神楽先生。ホームルームを始めて下さい」
「えっ、そうですね・・・・・・」
どうやら、戸惑っていたのは、生徒たちだけではなかったようだ。
「先生、どうして俺たちの名前知っているの?」
「ふふっ、それは秘密。また教えてあげる」
これ以上、ホームルームの時間を割くわけにはいかない。
「それじゃ、ホームルームを始めます。連絡事項は・・・・・・」
ホームルームも終わり、いったん職員室へ戻る。
「いつ、子どもたちの名前を覚えたんですか。まさか、あの一瞬で・・・・・・」
私が席につくなり、話しかけてきた神楽先生。どうやら、隣の席が彼女で、そのほうが担任と副担任という関係上、色々と都合がよいのだろう。
「あの一瞬で覚えたんですよ。私、瞬間記憶能力といいますか、見たものを一瞬で覚えることが出来るんですよ。昔から」
「便利な特技じゃないですか」
「たしかに何かを覚えることに関しては、便利かもしれませんが、忘れないということに関しては、嫌なことも忘れることができないということですから」
「ごめんなさい。私ったら・・・・・・」
「いえいえ、気にしていませんよ」
忘れられない。私にとっては、家族の死がそれだ。息をひきとるまでの全てを覚えている。そして、自分の余命が宣告された日のことを。あの光景を思い出すたびに、胸が痛い。
でも、不意に思う。私が死んだら、一体どれぐらいの人たちが、自分のことを覚えていてくれるのだろうと。そのことをいつまで、記憶し続けてくれるのだろうと・・・・・・
「縁先生、本当に大丈夫ですか」
「えっ、大丈夫です。少し考えごとをしていただけですから」
―キーン♪ コーン♪ カーン♪ コーン♪
チャイムの音に合わせて、慌ただしく職員室を出ていく先生たち。
「それじゃ、私も授業がありますから、行きますね。もし、構内の案内が必要なら、気軽に言ってください」
「ありがとうございます。そのときはお願いします」
神楽先生を見送ると、貰った資料に目を通す。今日は、私の授業はないが、帰るわけにはいかない。明日以降の授業のために、各クラスのテキスト進行具合を把握し、授業を円滑に進めるための資料を作らないといけない。いくら慣れていることとはいえ、かなりの重労働だ。
この学校に来て、一週間が過ぎ、なんとか授業も滞りなく進めることが出来るようになった。子どもたちとも、うまいことやっていけていると思う。ただ、階段や授業で使う資料を持って動くと、すぐに息が上がってしまう。今のところ、発作は起こっていないが、不安は消えない。
そんな感じで、次の授業の準備のために、職員室へ戻っていると。
「やめてよ。返して!」
男の子の悲鳴に似た声が、耳に届く。声の方向からして、廊下奥の階段踊場からだろうか。
二階から踊場を覗き込むと、そこには誰もいない。一階に降り、まわりを見てまわったが、周囲に該当しそうな生徒はいない。たぶん、遊びか何かで、悪ふざけをしていただけだと思うのだが。でも、あの声、聞き覚えがあるような気がする。
ふと、腕時計に目をむけると、休み時間終了まであと五分を示している。急ぎ職員室へ戻る。
次の日、今日の授業は、私が副担任をしているクラスだ。
「それじゃ、授業を始めるわよ。プリントは、全員にいき渡りましたね。テキスト十ページを開いて。今日は・・・・・・」
テキストに沿いながら、授業を進めていく。授業中、ほとんど私語もなく、黒板に書くチョークの音と私の声だけが、教室に響く。
「プリントにも書いてあるように、この伊神市には神宮があります。さて、それじゃ質問。この神宮に祭られている神さまの名前は、なんでしょうか。わかる人はいますか」
私の質問に、元気よく手を挙げる生徒たち。
「それじゃ・・・・・・ 一番早かった、森田君」
「はい、天照大神です」
「うん、正解。この天照大神は、日本いる神さまたちの中で、一番偉い女性の神さまです。じゃぁ、この神さまは、何を司っている神さまでしょうか」
この質問は、難しかったのか、手を挙げる生徒はいない。
「誰もいないかぁ。正解は、国に勢和と豊かさを与える神さまです。みんなは、神宮にお参りに行ったことはありますか」
『は~い、あります』
生徒たちの声が、元気にハモる。
「それはいいことですね。私は、この街に来て、まだ日が浅いので、行ったことがありません。今度行ってみようと思います。そういえば、神宮の近くに城下町みたいな横丁があるみたいですが、何かお薦めのお店やお土産は、ありますか」
皆が口々にお店やお土産の名前を挙げてくれるが、四方八方から声が飛んでくるためか、かなりわかりずらい。
「はい、はい。ありがとうね。今度、先生、行ってみるから。そのときに行ってきた感想も言うから。さて・・・・・・」
腕時計にちらっと目をむけると、授業終了まであと十五分。
「あと少しで、授業が終わります。なので、今日勉強をしたところを復習もかねて、簡単な小テストを行いたいと思います。今日の授業をちゃんと聞いていたら、解ける問題ばかりです。それじゃ、前の人から順番に回していってくれるかな」
『先生ひどい。おに』
「はいはい。文句はあとから聞きます。受け取った人からテストを始めて下さい」
文句を言っていた生徒たちも、テストが始まると真剣に解答しているらしく、私語はない。
私は、そんな生徒たちの様子を観察しながら、見てまわる。すると、何か小さな物を蹴飛ばしたような気がした。
蹴飛ばした物をひょいっと拾い上げる。拾った物は、小さく切られた四角い消ゴム。たぶん、カッターかハサミで切ったものだろう。よくよく見てみると、教室の床に、数個落ちている。
ーキーン♪ コーン♪ カーン♪ コーン♪ー
なぜこんなものがと思っていると、授業終了のチャイムの音。
「はい、本日の授業はここまで。テストは、前の教壇へ、各自で提出して下さい」
結局、生徒たちに消ゴムの件を聞くことはできなかった。ひとまず、次の授業の準備があるため、職員室に戻ることにする。
職員室に戻ると、先程の件を隣の神楽先生に聞いてみる。
「教室の床に、小さな消ゴムね・・・・・・ たぶんだけど、生徒の誰かが、遊び半分で、切ったんじゃない? あの年代の子どもたちなら、どんなことでも遊びにしちゃうから」
「それならいいんですけど・・・・・・」
神楽先生の言う通りかもしれないけど、同じ場所に固まって落ちていたことが心のどこかで不安に感じていた。
この街に来て、二週間が過ぎ、今日は、初めての休日。
休日といったら、友達や家族と一緒にどこかへ出かけたり、何かをしたりと、人それぞれ様々な過ごし方がある。ただ、私の場合は、この街に、こんなに長く滞在をするとは思っていなかったため、目立った予定というものはない。
ひとまず、やることがあるとすれば、給料を貰いに行き、警察に私の鞄がどうなったかを確認しに行くぐらい。
いつも利用している銭湯で朝風呂を済ませ、役所で給料を貰ったあと、車で警察署へむかう。
警察署で確認をしてもらったが、二週間前と何もかわっていなかった。結局、役所で貰った給料だけで、今月をのりきらなくてはならない。まぁ、今のところ、お金をほとんど使う予定がないため、このお金だけでなんとかなるとは思う。
用事が全て終わってしまうと、することがなくなってしまう。このまま、いつもの場所に戻って、体を休めてもいいけど、今の体の状態を考えると、少しは体を動かしておいたほうがいいと思う。
そうと決まれば、どこへ行くかを考える。目的地にうかんだのは、数日前にクラスの生徒たちから色々教えてもらった、神宮近くの横丁だ。あのとき、生徒たちに、行ってきた感想を言うとも約束してしまったから、丁度いいのかもしれない。
車を走らせること、約十五分。市営の駐車場に車を止め、さらに歩くこと約十分。神宮に到着する。
横丁は、神宮のすぐ隣に位置しており、神宮も含めて、かなりの賑わいだ。
最初にむかったのは、神宮。近くを流れる川のせせらぎを聴きながら、ゆっくりとした足取りで、神宮の森を進んでいく。
いくつかの鳥居をくぐり抜け、目の前にあらわれたのは、本殿に続く大階段。その周辺から、かなりの人でごったがえしている。
階段を上がり、隣の観光客らしき人の真似をして一礼。そして、本殿前に入る。すると、今までの空気というか、空間そのものの感じが変化する。今までの道中も清らかさはあったが、ここは空気そのものが新鮮。やはり、神さまが住んでいるため清められ、浄化されているからだろうか。
本殿前で、手を合わせ、想いというか願いを伝える。本来、神社は、神さまに自分の近況と感謝を伝える場所。でも、私は、報告すべきことは何もない。だから・・・・・・
全てを伝え、神宮をあとにする。次にむかったのは、隣の横丁。ここは、神宮と違う意味でかなりの賑わい。
いくつかのお店を見てまわり、軽く昼食を済ませると、すでに午後二時。このまま帰ってもいいのだが、明日以降の授業の参考となる資料がないかと思い、市営図書館へ。
最初に行った図書館の検索機で、自分が見たいと思っていた本を調べた結果、ほとんどの本が、もう一つの図書館にあることが判明。そのため、別の図書館へむかう。
探していた本も見つかり、その本をゆっくりと読むため、施設内の椅子に腰かけると、ぶるっと携帯のバイブが。
何かと思い、見てみると、かなりの数のメール。でも、おかしい。私は、今回の旅を始めたときにインターネット回線は、切ってあったはず。不思議に思い、よくよく見てみると、普段は使ったことがないワイファイが入っている。どうやら、使う機会がなかったため、外し忘れたみたい。
ふとしたことで開いた携帯。メールの差出人は、ほとんどが由衣ちゃんで、そのメールを読みたい衝動にかられるが、それをしてしまうと、旅の決意が揺らいでしまう気がして、そっと携帯を閉じる。
図書館での用事を済ませると、いつもと違う海辺に車を止める。車の中で、あらためて、メールの内容こそわからないが、人の温もりを実感し、由衣ちゃんの想いに抱かれながら眠りにつく。
次の日、いつもの時間に出勤すると、教頭先生から、学校のホームページチェックを頼まれる。
学校のホームページには、各種行事の写真やクラブ活動の様子などが掲載されている。その中に、生徒や保護者の方々が、学校に対して、意見などを書き込むことができる掲示板がある。
私は、いったいどんなことが書き込まれているのか興味があり、中を覗いてみた。そこには・・・・・・
「あれ?」
掲示板には、何も書き込まれていなかった。まぁ、ここに書き込むぐらいなら、直接学校に意見を伝えたほうが早いと考える人が多いということだろう。
ホームページのチェックも終わったので、閉じようとしたとき、何もリンクが貼られていない所で、手の形の表示が出る。
何かと思い、クリックしてみると、そこに表示されたのは、俗にいう学校の裏掲示板。
そこには、色々な生徒たちや先生方に対する悪口など様々ことが書いてあった。その中でも、目についたのは同じ生徒のことを書いたであろうと思われる様々な書き込み。その件数が、異常に多い。
すぐさま、私はこの件を教頭先生たちに報告し、学校の方でも調査をしてくれることになった。
学校の裏掲示板が発覚してから二日が過ぎ、この問題に対して学校側は、まだ調査中ということで、箝口令を出した。そのためか、外でも内でも騒ぎにはなっていない。
「皆さん。おはようございます。掲示板問題は、教育委員会とともに、現在調査中です。そのため、先生方には、生徒たち及び保護者の方々が、不安にならないように一層の努力をお願いしたい。さて、明日は、春の遠足です。特に一年生は、初めての行事となります。担当される先生方には、細心の注意をはらっていただくようにお願いします」
寝耳に水とは、まさにこのこと。私は、明日が遠足なんて聞いていない。いくら、掲示板問題があったとしても、伝えることは出来たはずだ。
「たしかに、縁先生の言う通りだわ。まぁ、私も伝えていなかったからね。ごめんなさい」
「いえいえ。いきなり当日伝えられるよりは、ましですから。ちなみに三年生は、どこへ行くんですか」
「私たちは、川辺にある森林公園に行く予定よ。今回の遠足は、写生会も兼ねているから」
「何か持っていったほうがいいものは?」
「特にはないわね。道具などは、生徒たちが持っていくから。ただ明日は、いつもより早く来てくれる? そうね・・・・・・ 六時ぐらいでお願いできるかしら。注意事項やルートの再確認をしておきたいから」
「わかりました。有難うございます」
学校が終わり、いつもの場所で、明日の準備をする。その準備をしながら、明日は一日、外での業務。体のことを考えると、無理はできないが、生徒たちが楽しく過ごせるように、私なりに出来ることをしようと思う。ただ一点気になることがある。それは、授業後、ある生徒が言っていた「明日、雨だったら、あいつのせいだ」という一言。これは一体、何を意味しているのだろうか。
遠足当日、天気は雨が降ってくるのではないかと不安になるほどの曇り空。ただ、私の体調は、天気に対して、良い感じ。
出かける準備を済ませ、もしものことを考えて、薬を多めに鞄に入れると、車を学校にむけて走らせる。眺める車窓からは、春の暖かな日差しが雲の切れ間から差し込む。これだけで、心が少し和む。
職員室に着くと、各学年の先生方で、様々な意見交換を行い、教室で生徒たちの点呼を行う。
「いい、みんな。道を歩くときは、車や自転車に注意してね。何かあったら、私か縁先生に言うんですよ」
『は~い』
「それじゃ、出発!」
みんなで一列に並びながら、森林公園を目指して歩いていく。交通量は、平日の九時半ぐらいということもあり、ほとんどない。おかげで、生徒たちも和気藹々と楽しく歩いている。
「横断歩道をわたるときは、右と左をちゃんと確認してからわたるように」
コンビニ前の信号をわたり、しばらく歩くと、赤い橋が見えてくる。
「この橋を渡った先が、公園よ。いいみんな。この橋は歩道がないから気をつけて行くように」
橋を渡り、川辺に続く坂道を下ると、川のせせらぎが聴こえてくる。
「それじゃ、みんな。今から自由行動とします。いくら自由行動といっても、川の深い所や高い木には登らないように。絵は、午後三時までに提出すること。最低限、下書きまでは描いてね。題材は、この公園にあるものを使うように。わかった?」
散り散りに好きな場所に走っていく生徒たち。木々のそばで、シートを広げるグループがあれば、公園の奥の方に、ちょっとした遊具が設置されており、その周辺で、写生よりも遊びを優先しているグループと様々。
私は、神楽先生と別れ、生徒たちの様子を見てまわる。すると、木のそばで、絵を描く井上君を見つける。
「あれ、井上君は一人? みんなは?」
「えっ、うん・・・・・・ 他のみんなは、あっちの方で絵を描きたいみたいで。僕は、ここがいいから・・・・・・」
そう言って、再び絵を描き始める井上君。ちらっと、彼の鞄に目をむける。鞄は、完全に閉まっておらず、中には、空っぽになったお弁当箱。周囲に彼以外の荷物はない。
「そう・・・・・・ なら先生、ここでお昼食べてもいいかな? 先生、少し歩き疲れちゃって」
「うん・・・・・・ 先生がそうしたいんなら、どうぞ」
「ありがとう」
私が取り出した昼食は、パン一個。出勤する前に、コンビニで購入したもの。それを井上君に席を少し空けてもらい、ちょこんと座り食べ始める。本来、成人女性なら、これ一個だけでは、少ない気がするが、今の私には、これでも多いぐらい。食べれるだけでもましだと思っている。
ちょびっとずつ食べる私が気になるのか、井上君がちらちらと見てくる。
「うん? どうかした?」
「何でもないです・・・・・・」
私は、少し気恥ずかしそうにしている井上君が、どんな絵を描いているのか気になり、絵を覗き込む。
「凄いじゃない、井上君。絵うまいんだね」
描かれていた絵は、写真とまではいかないが、それでも、写し紙で写しとったかのよう。これに色がつけば、相当なレベルになると思う。
「そんなんじゃないよ・・・・・・ ただ、絵を描くのが好きなだけ。でも、ありがとう」
少しだけ優しく微笑む井上君。彼のちゃんとした笑顔を見たのは、これが初めてかもしれない。
「あっ、葵先生。こんなところにいたんだ。私たち・・・・・・」
話しかけてきたのは、女の子四・五人のグループ。でも、全てを話終える前に、どこかへ行ってしまう。彼女たちの行動は、私を見たことによるものではなく、あきらかに井上君を見たことによるものだということは、はっきりとわかる。
「どうしたんだろうね。彼女たち」
「うん・・・・・・」
もう一度見た井上君の顔には、先程の笑顔はなかった。
三十分程かけて、一個のパンを食べきる。
「さて、先生。見まわりを再開するね。しばらく井上君は、ここにいる?」
「うん・・・・・・」
「何かあったら呼んでね」
それだけ伝えると、見まわり再開。ただ頭には、先程の光景。これはもしかして、俗にいう《いじめ》なのではないかと。ただ、先入観をもつのは良くないと思うが。
見まわりを続けていると、先程の女の子のグループを見つける。
「どう、みんな。絵は順調かな?」
「あっ、葵先生。絵って、こんな感じでいいのかな?」
見せてくれた絵たちは、小学生が描くレベルのもの。井上君の絵を見たあとでは、そう思ってしまう。
「私は、素人だから、よくわからないけど、絵でも何でも、描き方って、自由なんだと思うんだ。だから、あなたたちが、思ったようにまず描いてみたり、塗ってみたりしたらいいと思うよ。一番大事なのは、自分が納得できる作品にするところにあると思うから」
「うん、頑張ってみる!」
「それで一つ聞きたいんだけど、あなたたち、さっき何で行っちゃたの? 私、嫌われているんじゃないかって思ちゃった」
「先生を嫌いになったわけじゃなくて・・・・・・」
どう言おうか迷っているというよりは、言ってもいいのか悩んでいる様子。
「まぁ、嫌われたわけじゃないことがわかったから、先生安心した。あと一時間ぐらいで、提出時間だから、頑張ってね」
『は~い』
これ以上、この話をしても何も聞くことができないと判断し、見まわりを再開する。
提出期限の午後三時となり、生徒たちの描いた絵が集まってくる。完成をしているものもあれば、下書きだけで終わっている絵と様々。ただ、白紙で提出してくる生徒は、まだいない。
「うん?」
最後に提出してくれた井上君の絵は、先程見たものとは違い、白紙に近い状態。
「井上君、どうしたの? この絵。さっき見せてくれた絵は、色以外出来ていたと思うけど」
「えっと・・・・・・ 描き直していたら、時間がなくなちゃって。それで・・・・・・」
「それならいいんだけど・・・・・・」
それ以上何も話してくれない井上君。むこうが話してくれない以上、私も言葉につまってしまう。ふと彼の服装に目をやると、所々、汚れているのがわかる。
「縁先生、何をしているの。生徒たちを集めて下さい」
「あっ、わかりました。すみません」
すれ違う瞬間、神楽先生は、私にだけ聞こえるように、「この件は、明日、学校で話ます」と言ってきた。私も頷くだけで答える。
「さて、学校に帰る時間となりました。ただ、学校へ帰る前に、もう一度、自分たちが使っていた場所周辺に、ゴミなどが落ちていないか確認しましょう」
私も、他の先生方と一緒に各現場を確認し、学校へ戻る。その道中、先程のことが気になってしょうがなかった。
次の日、今日は、昨日の件が気になって、ろくに眠ることができずに出勤となった。
「おはようございます」
「あなた、すごい顔ね。寝不足?」
「ははっ、すみません」
「まぁ、理由はわかっている。昨日の件でしょう」
「はい」
「その件については、ホームルームが終わってからにしましょう。丁度、私もあなたも、ホームルームのあとは、授業がなかったから、そうね・・・・・・ ここじゃなんだから、屋上で話をしましょうか」
ホームルーム後、私と神楽先生は、屋上へむかう。
「あれ?」
「どうかしました?」
「いや、屋上の鍵、通常なら閉まっているはずなんだけど、開いていてね。まぁ、行きましょう。先生方の誰かが閉め忘れたんでしょう。鍵は、職員室にしかないから」
神楽先生によると、常時、屋上の鍵を閉錠しているのは、近年、学生による自殺問題が増加し、その対応の一環でのこと。
「さて、そろそろ本題に入りましょうか」
「お願いします」
深呼吸をはさみ、話を始める神楽先生。その内容は・・・・・・
神楽先生によると、井上君に対する今回のような行為は、この学校に来る前からあったそうだ。学校側が把握している行為は、授業中に後ろからちょっかいをかけることから始まり、彼の物を勝手に持ち出しては、どこかへ隠すようになり、服などで見えない部分を殴る・蹴るなどの行為へとエスカレートしていったという。ただ、これらの行為は、あくまで第三者からの情報提供であり、学校側が本人に確認したときには、「そんなことはされていない」と言っていたそうだ。結局、事実関係がはっきりしていない以上、本格的な行動が出来ていないという。
「つまり、学校側は、井上君に対して何もしていないということですか!」
「その発言は、間違いね。私たちとしては、出来ることはしているわ。昔と違って、今は、ちょっとしたことで問題になるの。だから、こういうデリケートな問題は、慎重に行動しないといけないのよ」
「だからって・・・・・・」
「あなたの言いたいことはわかる。でも、教師として、一人の生徒だけを特別扱いするわけにはいかないの。その点は、あなたもわかるでしょう?」
こう言われてしまうと、何も言い返せない。結局、私たちは、今のところ、見守ることしか出来ない。そこが歯がゆい。
「ちなみに、どうして、神楽先生は教師に?」
「私? そうね・・・・・・ 私の親も学校の先生でね。その背中を見ていたから、自然とこの道を目指していたかな。あとは、学生時代に、熱血教師みたいな先生がいてね。自分のことより生徒のことって感じで、走り回って、失敗はしていたけど、その先生のまわりは、いつも生徒たちの笑顔というか、笑い声で溢れていたことがあったの。私のことも本気になって叱ってくれたな・・・・・・ 私もそんな先生になりたいって思ったの。まぁ、現実は、かなり違ったけどね。ちなみに、あなたは?」
「私ですか。内緒です」
「あなたね・・・・・・ まぁいいわ。そろそろ戻りましょうか。縁先生、変な気だけは起こさないで下さいね」
「わかっています」
屋上での話し合いを終え、職員室に戻ってくる頃には、すでに次の授業が始まる十五分前。私も神楽先生も、急ぎ次の授業準備にとりかかる。その後、二人とも忙しく、この件について話をする機会はなかった。
井上君の話を聞いてから三日が過ぎたある日の放課後、いつものように授業を終え、明日の準備の資料を図書室へ借りに行こうとしていると、昇降口で佇む彼を見かける。
「どうしたの、井上君? もう下校時刻だよ。帰らないの?」
「えっと・・・・・・」
なかなか答えようとしない井上君。ふと、彼が何かを持っていることに気づく。
「どうしたの! その靴・・・・・・」
井上君が持っていたのは、べたべたに濡れた靴。今日は、雲一つない快晴といえば大袈裟なのかもしれないが、雨は降っていない。
「井上君、一体何があったのか、先生に言って。何も言ってくれないと先生、あなたを助けることが出来ないよ」
目の高さを井上君に合わせる私。そんな真っ直ぐな視線から、何も言わずに逃げ出す彼。そんな彼を見ながら、一体どこに原因があるのかと考える。
それから、休憩中や放課後、井上君の行動や様子を観察してみることにした。すると、色々な場面で、彼が何らかしらの嫌がらせをうけているところを目撃する。例えば、彼の机の中に生ゴミが入った袋が入っていたり、授業中に香水のようなものをふりかけられたりと様々。
そのたびに私は、井上君に話を聞こうとしたが、彼は、頑なに事情も助けも求めてこなかった。
そんなことが続いたある日、校長先生から来週に三年生の社会科見学の一環として、山の上にある風力発電施設に行くことが伝えられる。
社会科見学当日、私は井上君のことが気になっていた。
「さて、皆さん。今から行く風力発電所は、かなりの山の上にあります。道中、気分が悪くなった人は、必ず言って下さい。それじゃ、出発」
出発した小型バスは、川沿いを進んでいく。その川は、前に遠足で行った公園のそばを流れているものと同じ。透明度も高く、神楽先生曰く、日本の名水百選にも選ばれたことがあるほどの清流だとか。
そんな川沿いをぬけると、風景が街並みから山間部へと変わる。いくつかの信号を左に曲がり、いよいよ山道へと入っていく。
「今から約六キロぐらいはこういったうねうねした道が続きます。道自体は、ちゃんと整備されているため大丈夫ですが、気分が悪い人は、前の席に移動して下さいね」
バスが進んでいく道は、神楽先生が言っていた通り綺麗。ただ、道幅は、車一台が、ようやく通れるぐらいしかなく、右側は崖で、ガードレールが一部しか設置されていない箇所が多い。左側は、山肌がむき出しなため、雨などでいつくずれてもおかしくない状況では、不安になるほど。
山道に入って、二十分ほどが経っただろうか、ようやく、山頂付近の駐車場に到着する。生徒たちも道のりが短かったことと、バスのスピードが原付並みだったこともあり、誰一人気分を悪くした人はいなかった。
「バスはここまでです。この先は、歩いて風車のそばまで行きます。トイレに行きたい人は、行ってきて下さいね。他の人たちは、休憩とします」
「神楽先生、風車ってどこ?」
「皆さんの後ろですよ」
神楽先生の声に導かれるように、生徒たちの目線が後ろを向く。そこには・・・・・・
『でっか~い、大きい』
皆から出る感想は同じ。私も恥ずかしながら、同じ感想が声に出ていた。
「さて、全員揃ったようだし、風車にむけて出発」
「ここから、どれぐらいなの?」
「そうだね・・・・・・ だいたい十五分ぐらいかな」
神楽先生を先頭に、坂道を進んでいく。風車へと続く道は、先程バスで通ってきた道同様、綺麗に整備されており、歩きやすい。ただ、私にとっては地獄。
「葵先生、大丈夫?」
「うん・・・・・・ 日頃の運動不足がたたったのかな・・・・・・」
息を切らせながら、生徒たちにおいていかれないように懸命についていく。ただ、その度に心臓がちくちく痛む。
坂道を進みはじめて、十五分が過ぎた頃、少し広い場所に出る。目の前には、高く天に伸びた白い風車。ただ、羽は微動だにしていない。
「お疲れさまでした。さて、皆さんの目の前にあるのが、この地域最大の風車です。この風車については、案内も兼ねてウィングファームの方に説明をしてもらいたいと思います。よろしくお願いします」
「皆さん、こんにちは。私が、この風車たちを管理していますウィングファームの職員です。今日は、社会科見学ということで、ここにある風車たちについて説明をしていきたいと思います。まず、皆さんの前に・・・・・・」
職員の方の説明が続く中、生徒たちを後ろから見ていたら、井上君の周辺で、もぞもぞ何かをしている様子が目につく。よくよく見ていると、彼の背中を後ろから、つねったり、ちょっかいを出したりと様々。時々、小さな声で「いたっ」と聞こえてくる気がする。
「こらっ、職員の方の話を聞いていない人がいるようね。ちゃんと聞くようにね」
ここでピンポイントの注意も出来るのだが、他の生徒たちもいるため、今はこれぐらいしか出来ない。
「それでは、もう少し上の方にある風車も見にい行きましょうか。今度は、中に入って見学もしてもらいます」
職員の方を先頭に、今いる位置より、少し高い所に設置されている風車を目指して、坂道を進んでいく。歩きながら私は、ちらちらと井上君たちの様子を伺う。
坂を上がりきった先には、数機の風車。こちらは、下の風車と違い、羽が勢いよく回っている。
ここから見える風景は、私が今いる伊神市を含み、雲の切れ間から少しだけ、見わたせる。職員の方の話だと、晴れた日には、山むこうまで見えるとのこと。そう思うと、雲しか見えないこの風景は、自分のように思える。
「葵先生、みんな行っちゃったよ。早く」
「うん、ありがとう・・・・・・」
その後、風車の中と外を見学し、残り一時間から一時間半は、自由散策となった。
この風車が設置されている近くには、自然公園があり、春先や紅葉のシーズンになると、ハイキングや登山を楽しむ人たちで、賑わうという。
そんな感じの公園内を、私や先生方は、生徒たちが悪ふざけや危険な行為をしていないかを注意深く見てまわる。ただ、見まわりの最中でも、私は井上君のことが気になっていた。
「ねぇ、あれ大丈夫かな・・・・・・ 井上君」
「ほっときなよ。いつものことじゃん」
女の子たちの声が聞こえてくる。いたたまれず、私は、彼女たちに問いただす。
「むこうの方で、井上君にいつも絡んでいる男の子たちと井上君がいて、かなり崖の方だったから・・・・・・」
「むこうね、ありがとう」
私は、自分の病気のことも忘れ、ひたすら走る。
たどり着いた先で見た光景は・・・・・・
「あなたたち、ここで何をしているの!」
そこにいたのは、井上君を含む男の子数人。ただ、場所が崖の先端。それに彼の足には、何かが結ばれている。
「何をしているのって、先生は聞いているの。答えなさい!」
「やべぇ、逃げるぞ」
近づいてくる私から四方八方へ逃げ出す男の子たち。
「待ちなさい、あなたたち。えっ、ちょっと、井上君、離して」
逃げる男の子たちを庇うように、私に抱きつく井上君。
「あの子たちは、僕に何もしていないよ! ただ、みんなで遊んでいただけだから」
「それでも、話を、うっ」
突然の鋭い痛みが胸を襲う。その箇所を中心に、ナイフか何かで刺されたかのように熱い。こんなときに限って、いつもの痛み止の薬は、鞄の中。
「先生! 大丈夫?」
「誰か・・・・・・ 私の鞄の中から・・・・・・ 薬を・・・・・・」
「あっ、また疫病神が出た。井上が触ったから、葵先生は倒れたんだ」
「違う。これは僕のせいじゃ・・・・・・」
「何が違うんだ。お前のせいだ」
井上君と先程の男の子の一人が言い争いを始めてしまう。私の方も痛みが増すにつれて、意識が遠退いていく。
「あなたたち、そこで何をしているの! 縁先生は大丈夫?」
駆けつけてくれたのは、神楽先生。
「なんで・・・・・・」
「近くにいた生徒から事情を聞いてね。それで、あなたたちは、ここで何をしていたのかな?」
何も答えず、今度は井上君までも逃げ出してしまう。そのときの彼の顔は、悲壮感が漂っていた気がした。
「待ちなっ、まぁいいわ。詳しい話はあとからでも聞けるからいいか。それで、縁先生。あなた、薬か何か持っているの? ヤバそうだったら、救急車を呼ぶけど」
「少し目眩がしただけです・・・・・・ その薬が、鞄の中に・・・・・・」
「わかったわ。ひとまずベンチまで行きましょうか。歩ける?」
「はい・・・・・・」
神楽先生に肩をかしてもらいながら、ベンチへとむかう。その間も胸の痛みが体を襲う。ただ、ここで意識を失うことは、私の旅の終点。それだけは絶対に嫌。そうならないためにも痛みに耐える。
ベンチに腰かけると、神楽先生が持ってきてくれた薬を水と一緒に流し込む。
「あなた、いつもそんな大量の薬を飲んでいるの?」
「薬もありますが、ビタミン剤や栄養剤もありますから・・・・・・」
「そう、詳しくは聞かないけど、無理はしないでよ」
「ありがとうございます・・・・・・」
「あなたは、しばらくここで休んでいなさい。私は、あの子たちに事情を聞きに行ってくるから」
神楽先生の姿が見えなくなると、私はベンチに寝転がる。薬のおかげか、かなり落ち着いてきてはいる。
その後、社会科見学は無事に終了。私は、神楽先生に付き添われるかたちで学校の保健室へ。胸の痛みは引いたものの、予断は許さない状況。
彼女にあの後のことを尋ねたが、井上君を含め、あの場にいた全員が、遊び半分でやっていたとしか話さなかったらしい。学校側もこれ以上、追求はしないことになったようだ。ただ一点、井上君が思いつめた表情をしていたということが、どうしても気になった。
次の日、若干重い体で学校に出勤すると、昇降口の前で生徒や先生方が、なにやら騒いでいるのを目撃する。
最初は、何かのイベントかなと思っていたが、全員が屋上を指差したり、見上げたりしている。私もつられて見上げると・・・・・・
「うそ! なんで」
その光景に驚愕する。井上君が屋上の手すりより前に出て、飛び降りようとしているからだ。
私は、無我夢中で屋上へと走る。
屋上へとたどり着くと、大勢の先生方でごったがえしていた。そんな中、神楽先生の説得する声が聞こえてくる。
「井上君、何しているの! 危ないからこっちに戻ってきなさい!」
「嫌だ。僕は、もう戻らない」
「こんなことをして何になるの? あなたが死んでしまったら、先生悲しいよ・・・・・・」
「僕の命をどう使おうが、僕の勝手だ! 僕は生きていてはいけない人間なんだ・・・・・・」
その言葉に、私の中で何かが弾け飛ぶ。
「ねぇ、何でそんなに簡単に命を捨てられるの? 生きたくったって、生きられない人たちが、何人いると思っているの!」
「ちょっと、縁先生。待ちなさい!」
神楽先生たちの制止を無視して、井上君へと近づいてゆく。
「こっちにこないで!」
「どうして、死ぬ勇気があるのなら、それを生きる勇気に変えられないの?」
「それは・・・・・・」
「自殺は、究極の逃げなんだと私は思うんだ、この場合。このまま、いじめていた子たちに勝ちを譲るつもり? 負けっぱなしでもいいの?」
私の問いかけに何も答えない井上君。私は、それにかまわず、一歩一歩さらに近づいていく。
「そんなにいらない命なら私に頂戴よ。私ね、あと一年ぐらいしか生きられないんだぁ。でも私は死にたくない。だから、頂戴よ、あなたの命」
「えっ」
突然の告白に動揺を見せる井上君。それに合わせるかのように吹く突風。
「うわぁぁぁぁぁ」
ぐらつく井上君の体を、がっしりと手で掴みとどめる。
「やっと捕まえた。まだ、その悲鳴が出せるということは、生きたいということだよね?」
「先生、僕は、僕は・・・・・・」
「うん、だいじょっ」
泣きじゃくる井上君の姿を見れて安心したのか、体から急に力が抜ける。
「先生!」
「あれ?」
井上君の声が遠くから聞こえてくる。私の意識は、完全にブラックアウト。
気がつくと、見慣れた天井が目につく。周囲の消毒液や薬品の臭いからして、保健室のベッドのようだ。
「どうやら、意識が戻ったようね。大丈夫かしら?」
ベッドの横の丸椅子に腰かけながら話しかけてきたのは、この学校の保健医である幽月先生だ。この先生、すらっと伸びた黒髪が特徴だが、服装もセクシー。いつも黒いミニスカートにメガネ。この人が保健体育を教えたら、男子生徒が殺到しそう。
「気分はどう?」
「なんとかって感じです」
「そう・・・・・・ 縁先生には悪いんだけど、神楽先生に話を聞いて、前の学校へ連絡をさせてもらったわ。そうしたら、あなた。心臓に爆弾をかかえているそうじゃない。だから・・・・・・」
「病院には戻りません。たとえ死んだとしても!」
私のあまりに大きな声に、幽月先生は一瞬口ごもる。
「ふぅ~ 勘違いしないで。救急車は呼んでいないわ。学校側は、これ以上騒ぎになることを望んでいないし、それに、橘先生から、何回も「あの子のために病院関係には連絡をしないで下さい」ってお願いされていたからね。それで、私の判断で、少し様子を見ることにしたの。もし、このまま意識が戻らなければ、消防に連絡をしていたところだけど」
「ありがとうございます」
「その感じだと大丈夫そうね。それなら少しだけ待っててくれる? あなたに話がしたいという人たちがいるから」
そう言って、どこかへ連絡する幽月先生。数秒も経たないうちに、保健室のドアが開く。
「先生!」
入ってきたのは、神楽先生とクラスの生徒たち。ただ、そこには、井上君の姿はない。
「先生、大丈夫?」
「うん、なんとかね・・・・・・」
「それじゃ、私は少し用事があるから、これで失礼するわ。ちゃんとやりなさいよ。私の可愛い生徒さんたち♪」
保健室を出ていく幽月先生。
「ほら、あなたたち、何か言うことがあるんでしょう?」
神楽先生に促されるかたちで、井上君をからかっていた数名の生徒が前に出る。
「縁先生! ごめんなさい。僕たち、まさか井上の奴が、あそこまで思いつめていたなんて、知らなくて・・・・・・ あそこで、本当にあいつが死んだらって思ったら・・・・・・」
私は、彼らが続きを話し始めるのを待つ。
「怖くなって。怖くなったら、自分たちがしてきたことが原因なのかなって考え始めたら・・・・・・ だから、本当にごめんなさい!」
「私より、井上君にはちゃんと謝ったの?」
「うん・・・・・・ そうしたら、あいつまで謝ってきて」
ふと気づく。ここにいる生徒たち全員が泣いていることに。
「あなたまで泣いてどうするのよ」
「だって、みんな良い子たちばかりだから・・・・・・」
「まったく・・・・・・」
「神楽先生、井上君の様子は?」
「ひとまず親御さんが迎えきて、一緒に帰ったわ。しばらく様子見も兼ねて、学校を休ませるそうよ」
「そうですか・・・・・・」
「大丈夫かな! あいつ」
一人の生徒の頭に手を置きながら。
「うん、井上君が登校してきたら、笑顔で「おかえり」って迎え入れてあげなさい。それが、あなたたちに出来る一番の方法だと思うから」
「それじゃ、みんな。縁先生も疲れていると思うから、これぐらいにして帰ろうか。そろそろ下校時間だし」
そう言われて、初めて空が夕暮れであることに気づく。
「ばいばい、先生」
全員が帰って一人になると、あらためて死という恐怖が身近にあることに気づく。それが着実に私に近づいていることに。そう考えてしまうと、心の底から叫びたくなる。助けてと・・・・・・ でも、私は進むしかない。進んでいる方向が、前なのか後ろなのかはわからないが。ただ、自分の死に様は、自分で決めたいと思うから・・・・・・
その後、戻ってきた幽月先生に許可を貰い、学校をあとにする。
自殺騒動から二日が経ち、私はあの件で体調を少し崩していたこともあり、騒動後、初出勤となる。
校内は、平穏を保ってはいるが、どこかぎこちない。あの騒動があったあとなのだから、仕方がないとは思うが、どこかおかしい。特に生徒たちの私を見る目が。
「おはようございます。色々ご迷惑をおかけしまして、すみませんでした」
職員室も校内同様、私に対する対応が、若干ぎこちない。プラス、ひそひそ話。
「はい、おはようございます。縁先生、すまないが、校長室まで来てくれるかな?」
教頭先生とともに校長室に入ると、校長先生以外にスーツを着た男性二人。
「すまないね、急に呼び出して。縁先生、今回の騒動の件、お疲れさま。体調は大丈夫かな?」
「はい、なんとか・・・・・・」
「それでね、騒動の件で、保護者の人たちに説明を行ったところ、あなたについて色々意見が出ましてね。特に井上君に言ったことについて」
「校長、ここからは私たちが」
校長先生の言葉を遮るように、前へ出るスーツの男性たち。
「お久しぶりです、縁さん。市の教育委員会の者です」
「どうも、お疲れさまです」
「単刀直入に言います。あなたが井上君に発言した[あの言葉]。あれが、彼の自殺心をあおっていたのではないかという意見が多く出まして」
「あれは、そんなつもりで言ったわけでは」
「わかっています。ただ、あの発言を聞いた生徒たちや先生方の中からも同じ意見が出ています。それで、私どもとしましても、あなたの身辺調査を改めて行ったところ、心臓に大病を患っていらっしゃるとか」
「それは・・・・・・」
「学校側としては、あなたの体のことを考えて・・・・・・」
「ようはクビということですか」
私の発言に対して、何も答えない校長先生たち。この態度からして、自主退職のかたちをとりたいのだろう。
「はぁ~ わかりました。元々臨時講師という立場上、期間は決まっていましたし、本日付で、辞めさせていただきますが、一つだけお願いがあります」
「何でしょうか」
「生徒たちに最後の別れの挨拶をさせて下さい」
「わかりました。今日一日、教師を続けていただき、最後のホームルームで、その時間を取って下さい」
「わかりました。有難うございます」
校長室をあとにした私は、悔いを残さないように、授業準備を始める。
全ての授業が終了し、ホームルームが始まる。
「ホームルームを始める前に、縁先生からお話があるそうです。先生、お願いします」
「みんな、帰る前にちょっとだけいいかな。先生、今日で学校を辞めることになりました」
「病気だからですか」
その質問に、私の今の状況と病気のこと。そして、余命について、わかりやすく説明をする。
全てを話終えると、一息つく。生徒たちも目の前にいる私が、来年の今ごろにはこの世界にいないと実感したのか、涙ぐむ子もいるほど。それを見ていると、私の教師としての最後が、この学校でよかったと思う。このクラスに関わることが出来たことを誇りに思う。
「さて、湿っぽい話はここまで。最後に先生から一言。「みんな全力で生きてね」先生も簡単に死ぬつもりはないし、最後まで足掻いてみせるから。だから、一つだけお願いがあるんだ。記念にみんなの写真を撮らせてくれないかな」
この学校に来て、暇な時間をみつけては授業の風景や休憩中の様子を携帯のカメラで撮影してきた。
黒板の前に一列に並び、セルフタイマーでパシャッと一枚。
「ありがとう。これで先生の最後の授業を終わります」
校舎に別れを告げ、一人車へと戻る。辺りはすっかり夕闇。そんな中、一つだけ心残りがある。それは、井上君に会えなかったこと。写真の中の彼は、いつも暗い顔をしている。あのときの恥ずかしそうに笑う彼の顔を、もう一度見たいと思った。
次の日、いつもの堤防で車の整理をする。本来なら、昨日中に出発するつもりでいたのだが、体調のこともあり、今日にすることに。
全ての作業を終え、ガソリンも満タン。ただ、初日に盗まれた鞄だけは戻らない。
「先生!」
声のする方へ目を向けると、そこには、神楽先生と井上君の姿が。
「よかった、まだ出発していなくて。井上君がどうしても、縁先生に話したいことがあるって言うもんだから」
「先生、僕・・・・・・」
井上君は、はっきりと自分のことを話し始めた。
彼曰く、子どもの頃から不幸なことが続いていたという。例えば、学校や自治体の行事があれば、高確率で雨か曇り。友人の誕生日会に呼ばれれば、その友人が病気にと様々。不幸といってしまうには、あまりにも幼稚だが、子どもからすると、ちょっかいを出す口実としては十分。そして、そのことがさらなる噂を呼び込み、現在に至るという。
そんな井上君を助けてくれた人もいたという。同級生の男の子。でも、そんな同級生も彼と同じような目にあうと、助けてはくれなくなった。そのときの彼は、自分のせいで、同級生も同じ目にあったと思い、誰にも助けを求めなくなったそうだ。これ以上、誰も不幸にしないように。
「なるほど、そんなことが・・・・・・」
神楽先生も今回の話は、初めて聞いたらしく驚きを隠せない様子。
「だから、葵先生が助けようとしてくれたとき、僕は怖くなったんだ。先生が、あのときの男の子と同じになちゃうんじゃないかって。実際、先生は倒れちゃったもん」
「バカね・・・・・・ そんなことがあるわけないじゃない。それは、神楽先生も同じだと思うよ」
「当たり前よ。子どもは大人を頼ってなんぼなんだから」
「ありがとう・・・・・・ 先生」
「ちなみに鍵はどうしたの? 屋上は閉錠せれていたと思うけど」
「前に屋上のドア前で拾って、丁度、一人っきりになれる場所を探していたので、鍵をもう一つ作って、返したの・・・・・・」
「そういうことか・・・・・・ こりゃ管理体制を見直さないといけないわ。それで、縁先生は、もう行くの?」
「はい、そろそろ出発しようかと思っていたところです」
「先生、写真撮ろうよ。クラスのみんなとは撮ったんでしょう?」
「構わないわよ。それじゃ、三人一緒に撮りましょうか」
クラスのとき同様、携帯のカメラでパシャッ。
「さて、行くとしますか」
「費用なんかは大丈夫なの? なんなら貸すけど」
「まぁ、給料がだいぶ残っていますし。あっ、電話です。ちょっと待って下さいね」
携帯のディスプレイには、警察署の表示。
「はい、もしもし。はい、はい、そうですが・・・・・・ えっ、本当ですか。わかりました、今から伺います。有難うございました。失礼します」
「どうしたの?」
「私が、この街に来た初日に盗まれた鞄が見つかったそうで。中の通帳や印鑑も無事で。お金も」
「よかったじゃない」
「はい、そいうことですのですみませんが、私行きますね」
「先生! また会えるのね?」
「うん、必ず会いにくるよ・・・・・・」
「約束だからね。僕頑張るから」
指切りをし、車を発進させる。車のバックミラーには、いつまでも手を振る二人の姿が写っていた。
警察署で手続きを済ませ、いざ南へ進路をとる。
肌に感じる暖かな春の日差しで目を覚ます。春の日差しを遮るように見上げた先には雲一つない青空。ふと目をむけたアルバムの井上君の顔は、この青空のように、満面の笑顔が写っている。
「約束守れなくて・・・・・・ ごめんね」
一迅の風が髪を揺らし、パラパラとアルバムがめくれる。