7 制裁 <2>
〝制裁日〟が次の日曜日と伝えられたのは、それから数日後の事だった。〝近々制裁が下る〟という知らせはあっという間に本人以外の常連客にも広まり、何も知らない和希以外の全員が、まるで町のイベントを心待ちするかのようにその日が来るのを待っていた。まぁ、広めたのは誠司なのだが、実はそれがいつもの流れなのだ。
そうしてついに、その日がやってきた──
「ねぇ、まだ来ないの、誠司にぃ?」
椿がいつもの席に座って、待ちくたびれたとばかりに言った。
「まだって…今、十二時半だぞ? さすがに十二時には来ないだろ」
昼から来ると聞かされていた椿は、実は十二時ジャストに店に来て待っていたのだ。
「だって、お昼ご飯をここで食べるかもしれないじゃない」
「赤ちゃん連れての外食って、そんな簡単なもんじゃないからな? 散歩に行くだけでも、事前にやらなきゃいけない事が山ほどあるんだ。親が十二時に飯を食えるなんてほぼないと言っていい」
「…誠司にぃって、親でもないのによく知ってるよね」
「オレがどれだけ制裁の数を見てきたと思ってんだよ」
「え、そんなに見てきたんですか!?」
思わず和希が口を挟むと、振り返った誠司が小さな溜息をついた。
「お前も早く来すぎだ」
「すみません…。でも制裁がなんなのか分からないし、遅れたらもっと分からないと思って─…」
「真面目か」
「あ、でもそれだけじゃないですよ。ここでお昼を食べるっていうのも目的のひとつで──」
「分かった、分かった。別に本気で呆れてるわけじゃないさ。ただ絢ねぇと相談して時間を合わせれば、一緒に飯も食えただろうに…って思っただけだ。オレも、夜みたいにゆっくり相手してやれないし──」
「そんなの大丈夫よ。代わりに私が話し相手になるから」
「そうそう。私だっていますし」
椿に続いたのは、今日初めて和希と会った夏帆だ。少し前から耳にしていた〝和希〟という名前。絢音と親しくしていている人だと分かった時は、正直、少し複雑だった。誠司と絢音の関係がモヤモヤしていた中で、その存在が二人にどう影響するのかと心配になったからだ。そんな時、椿からその〝和希〟と会って話をしたと聞かされた。椿曰く〝真っ直ぐで純粋で可愛いくて、とにかく応援したくなる人〟と聞き、最初は三十歳を過ぎてそんな人がいるのかと疑ったが、実際に会って話してみると、その疑いはものの数分で消えてしまった。聞いていた通り真っ直ぐで純粋で─…反応ひとつひとつに好感度が増していくのだ。しかも、会話から誠司も本気でそう思っているのが伝わってくれば、夏帆も心から和希を応援したくなった。そしてそれは絢音に対する誠司の気持ちが、特別ではあるけれど恋愛ではないのだと、初めて分かった瞬間でもあったのだ。
「まぁ、そうは言っても絢ねぇが来るのも時間の問題だろうけど?」
「え、そうなの?」
「もしかして連絡したんですか、マスター?」
「あぁ。〝和希が来てるぞ〟ってな。脈があれば、もうそろそろ来るはずだ」
「脈かぁ〜。確かに、絢姉さんは興味のない事や人には、全く反応しないもんね」
「夜も毎日のようにご飯を食べてるって聞いてるし、興味ないわけないですよね〜」
反応見たさに夏帆がそう言うと、誠司も椿も一緒になって和希を見た。三人に見られた和希は、
「興味とか脈とか…そんな─…」
あってくれれば嬉しいが、期待し過ぎてもダメだとゆるむ顔を懸命に堪えた。そんな表情に三人がニヤニヤとするから、和希は堪らず目を逸らしコーヒーをすすった。そんな時だった。カランとドアの鐘が鳴って、反射的にみんなの顔がその一点に向いた。
「ほんと、いっつもこう──」
「絢ねぇ!」
「絢姉さん!」
「絢音さん!」
「早瀬さん…!」
入ってくるなり絢音が言いかけた言葉を、四人が四人とも、それぞれの呼び名を同時に叫んで遮っていた。もちろん、突然の大声に驚いたのは絢音だ。それも一斉に自分の名前が呼ばれた事に、思わずつんのめりそうになった。
「なに、一体──」
──と言いかけたものの、これまた目の前にいた誠司、椿、夏帆の三人がニッと笑った。かと思ったら、今度はカウンターの奥に座る和希に向かって同時に親指を立てた。途端に和希が両手で顔を隠す。それを見て、また三人が可笑しそうに笑った。
「なに、なんなの、そのサイレント会話は?」
「あぁ、いや何でもない」
「そうそう、こっちの話〜」
「何それ」
敢えて隠すような態度に少しムッとすると、止まった足を動かしていつもの席に着いた。和希はまだ顔を隠していて、椿はその右隣に座った。
「絢音さんが来てくれて良かったなぁ…って事ですよ」
水とおしぼりを目の前に置きながら、唯一、夏帆が理由らしい事を言ったのだが、その意味は全く分からなかった。
「そりゃ来るでしょ。川上くんがもう来てるって言われたら─…ってか、二人とも来るの早過ぎ」
「すみません…」
ようやく、和希が顔を見せた。
「何時くらいに来るのがベストなのか分からなくて──」
「あー、そっか。川上くん、初めてだもんね。〝昼から〟って、曖昧すぎたか…ごめん、気が付かなくて」
「あぁ、いえ…お昼ご飯を食べながら待てばいいかな…って思ったので…」
「お昼…」
言われて、そういえば自分も昼食がまだだったと気が付いた。
「誠司くん、オムライス。ふわふわの卵で」
「了解ー」
オーダーを受けて奥の厨房に消えると、和希がふと絢音の髪が濡れている事に気付いた。
「雨、降ってたんですか?」
「あぁ、うん、そう。出た直後にね。ほんと、いつもこのパターンで嫌になる」
店に入って言いかけた事が、ここに来てようやく言えた。
「いつものパターン? あ、良かったらこれ──」
言いながらポケットからハンカチを出したが、
「あー、大丈夫。タオル借りるから。夏帆ちゃん──」
「はい、どうぞ」
〝貸して〟という言葉より、夏帆がタオルを持ってくる方が一瞬だけ早かった。絢音は〝ありがとー〟と言って受け取ると、髪や顔、濡れた服を拭き始めた。
「それで、いつものパターンって…?」
ハンカチをしまいながら、和希がその疑問を口にした。
「私が動くと雨が降る」
「え…?」
「家を出る直前にちゃんと確認したのよ、雨が降ってないって。それで鞄と鍵を持って家を出たらさ、一分もしないうちに降ってくるわけよ、さっきまで降ってなかった雨が」
「あー、そういう時ってありますね…」
「絢姉さんの場合、そういう時ばっかりだけどね〜」
〝たまたま〟という解釈を、椿が即否定した。
「そういう時ばっかりって…?」
「雨女なのよ、絢姉さん」
「え、そうなんですか?」
〝意外だ〟という顔を向けた和希に、絢音が〝まぁね〟と頷いた。
「でも少し前までは〝雨女じゃない〟って言い張ってたんだよね。それが急に否定しなくなって─…何かキッカケでもあったの?」
良い機会だとばかりに、その理由を聞いてみた。
「別に、単純に諦めただけよ。毎回〝雨女じゃない〟って言うのも面倒だし、認めた方が楽だから」
「…でもそうなると、普通は傘を持って出ませんか? どうせ途中で降ってくるだろうと思って─…」
店に入る前の絢音を見ていないため、傘を持ってきたのかどうかは分からない。ただ髪や服が濡れていたのはもちろん、数日前の事を思い出せば、傘を持っていても差さなかったのではなく、それ自体を持ってこなかった事が容易に分かるのだ。案の定、絢音は否定しなかった。
「それはさ、なんか悔しいじゃない?」
「悔しい…?」
「〝雨女〟だって認めるのは認めるけど、だからってその運命に従って傘を用意するって、負けた感じがしてさ」
「負けた感じ…」
繰り返しながらその感覚がいまいち分からないと首を傾げたが、ここでふと〝もしかして〟という思いが浮かんだ。
「…本音は?」
そう聞くと、絢音がにっこりと笑って言った。
「傘を持って歩くのが面倒」
「やっぱり」
予想が当たって、和希も嬉しそうに笑った。
「それにさ、前にテレビで実験してたのを見たんだよね。雨の中、同じ距離を歩くのと走るのとでは、どちらが濡れにくいか…って」
「そんな実験あったんですか?」
「あったのよ、これが。私は傘を持つのも差すのも面倒だから、ちょっとくらいの雨だったら走っちゃうんだけどさ。──で、どっちが濡れにくいと思う?」
「え、どっちだろう…」
「同じ距離なら濡れる量も同じなんじゃない?」
和希が考えている間に椿が言った。
「そう? 私は走った方がずぶ濡れになる印象があるけど─…」
続いたのは夏帆だ。
「つまり、歩いた方が濡れにくいって事ね?」
「…ですね」
「川上くんは?」
絢音が再び和希に向き直った。
「どっちだと思う?」
「えっと…じゃぁ、走った方が濡れにくい方で…」
何か根拠があるわけではなく、ただ全員の答えが違う方がいいだろうという理由だけでそう答えた。
「走った方ね。了解。じゃぁ、正解は──」
絢音は少しもったいつけるように三人の顔を見比べたあと、〝ズバリ〟と指を差したのは和希だった。
「え、ほんとですか? やった」
勝負ではなかったが、〝当たり〟と言われると嬉しいもので─…思わず口に出た言葉に絢音たちがクスッと笑った。
「まぁ、あくまでも〝その実験では〟だけどね」
「…って事は、他にも実験があるんですか?」
「実験っていうか、机上の計算?」
「机上の計算…?」
「そう。他にも走った方が濡れにくいっていう根拠を探そうとネットで調べてみたら、説明文より記号だらけの数式の方が多いんじゃないかっていうくらいのサイトがあってさ。まぁ、読む気も失せたからまともに読んではいないんだけど─…最後の結論だけ見ると、どうやら歩いても走っても同じだっていう結論だったんだよね。しかも、ネット上ではその質問に対しての回答が〝同じ〟っていう人の割合が多かった」
「──って事は、正解は椿さん?」
「計算上ではそうなのかも。でも計算上ではそうだけど現場では違うって事もよくあるじゃない? 設計図上では設置できる大きさなのに、実際に設置しようとすると微妙に位置が違って設置できないとか──」
「あー! あります、あります! 設計図上にはない出っ張りがあったり、奥行きの角度が付いていて斜めになっていたり──」
「でしょ? つまり、基本は机上の計算が正しいかもしれないけど、現実には身長や体の大きさとか歩く早さ、走る早さとかで変わってくるんじゃないかと思ってさ」
「…という事は?」
「私の中で、机上の計算結果は排除する事にした」
「排除…!?」
「だから、今ここでの正解は川上くん」
「え、いやそれは椿さんに悪いんじゃ──」
「あら、別に良いわよ〜」
正解かもしれないのに正解じゃないと言われ、申し訳なくて椿をチラリと見たところで、椿が手を振った。
「何か賭けてたわけじゃないし、絢姉さんが和希くんを選ぶなら私は全然気にしないから」
「いやそんな選ぶって─…」
誤解してしまう─…というよりは、期待してしまう椿の言い方に、和希は慌てて自分の心にブレーキをかけようとした。ちょうどその時だった。
「単純な話、〝傘を持って歩く理由を排除したかった〟ってだけだろ? ──ほら、できたぞ。ふわふわたまごのオムライス」
誠司が言いながらカウンターに出てきて、オムライスとスプーンと緑のタバスコを目の前に置いた。
「排除って…そういう事だったんですか!?」
「他にどんな理由があると思うんだ?」
「え、あー…いや、それは……」
自分の心にブレーキをかけたにも関わらず、やはりどこかで〝自分(和希)を正解にしてあげたい〟という思いがあったのではないかと期待していたらしい。もちろん、恥ずかしくてそんな事は言えないが…。
「ほんと、誠司くんはよく分かってるよねー」
絢音はそう言ってから無言で手を合わせ、オムライスを食べ始めた。
「そりゃそうだろ。いつからの付き合いだと思ってんだよ? ──ってか、絢ねぇが〝面倒くさがり屋の塊〟でできてると思ったら、大抵のことは想像がつくからな」
「面倒くさがり屋の塊って─…失礼ね。まぁでも、否定はしないけど」
「しねーのかよ」
「その方が誠司くんも容易く想像できて楽でしょ? 私も分かってくれてる誠司くんがいると楽だし」
「ウィンウィンみたいに言うな」
「いいじゃない、ウィンウィン。誰も損しない、むしろお互いにとって良いことしかないんだから、最高でしょ。──ねぇ?」
〝そう思うでしょ?〟と同意を求めた相手は和希だ。一瞬、どう答えるのが正解なのかが分からず誠司の顔を伺ったが、絢音に対する理解力は羨ましいほどで──
「い、良いと思います、ウィンウィン。僕もウィンウィンになれるよう頑張ります!」
「おぉ、やった! ウィンウィンが二倍!」
「ポイントかよ…」
誠司が呆れる一方で、〝わぉ!〟と無声の口の動きだけして顔を見合わせたのは椿と夏帆だった。
「ちなみに川上くんは? 晴れ? 雨?」
「あー…僕はどっちでもないと思います。晴れの日も雨の日もあるし、〝あ、また雨だ〟とか思ったこともないので」
「そっか。でもそれはそれで川上くんらしいかもね」
「らしい─…って中途半端とかどっちつかずとか、そういう──」
「あー、違う、違う」
絢音が左手で手を振った。
「そういうマイナスの意味じゃなくて、良い方の意味よ。なんていうのかな…川上くんにピッタリな言葉でさ…春っぽくて暖かい感じの─…」
和希を見ていれば出てきそうだと、食べる手を止めてその顔をジッと見つめていると、それに耐えられなくなったのは和希の方だった。
「いや、あの…大丈夫ですよ、そんな無理に思い出さなくても──」
「ダメ、気になる。…ってか、もうこの辺まで出かかってるから─…」
そう言って〝この辺〟と喉を指差した。
(いやいや、ヤバイって─…心臓もうるさいし、それ以上見つめられたら顔が…)
真っ赤になりそうだと──いや、既になっているかもしれないが──必死に冷静さを装いつつ会話を続けた。
「オムライスが冷めちゃいますから、せめて先に──」
〝食べてください〟と言おうとした矢先、絢音が驚いたように息を吸った。その直後──
「陽だまり!!」
「え、ひ、陽だまり…!?」
「あー、スッキリした」
つかえていたものが取れたと、スッキリした笑顔を見せたあと再びオムライスに手をつけ始めた。
「や、あの…陽だまりって…?」
ついさっきまでこれ以上見ないで欲しいと思っていたのに、〝陽だまり〟という一言だけ残して通常に戻るから、〝ちょっと待って〟と思ってしまった。
絢音は口に放り込んだオムライスを飲み込んでから、また和希の方に向いた。
「猫が集まるような暖かい陽だまりよ。誠司くんみたいな、時々〝ウザっ〟て思うような晴れ男じゃなくて──」
「誰が〝ウザ〟だ、誰が」
即座に誠司がツッコんだが、当然それはスルーされた。
「ポカポカして居心地のいい陽だまりって感じ」
「陽だまり男…?」
「そう。晴れ男でも雨男でもなくて、陽だまり男。どう、ピッタリじゃない?」
「あー…」
晴れ男か雨男かの二択だからこそ、他愛のない話で盛り上がれるのだが、まさか全く別のキャラが誕生するとは…。ウィンウィンの時と同様、どう答えるのが正解なのかと言い淀んでいると──
「それ良い!」
椿がパッと顔を輝かせて言った。そして夏帆が続いた。
「うん、ピッタリだと思う! 柔らかい感じっていうか、一緒にいると和む感じ?」
「そうそう。陽だまりって心地良いもんね〜。そこにいるとうたた寝しちゃうくらい気持ちよくてさぁ…。なんか、ずーっとそこにいたくなるんだよねー」
本当にピッタリだと思ったのは事実だが、それ以上に〝ずっとそこにいたくなる〟と言った時の二人の反応が見たくてそう言った。その意図に誠司も気付く。──が、肝心の絢音は〝ほらね〟と言ったあと、緑のタバスコをオムライスにかけて食べ進めただけだった。ある意味予想を裏切らない反応なのだが、ここは裏切って欲しかったと三人とも小さな溜息をついた。一方で、和希は椿がわざとそう言った事など気付きもせず、純粋に〝ずっとそこにいたくなるという事は、自分のそばにいたいと思ってくれるのかも〟と考えが及び嬉しそうな表情を見せた。それは求めていた通りの反応で、ホッとすると同時に癒された。
「それはそうと、それってなんですか? さっきから気になってるんですけど…」
再び緑のタバスコを手に取った絢音に、和希が指を差して聞いた。正直に言えば、オムライスと一緒に出てきた時点で気になっていたのだ。
「これ? これはタバスコ」
「タバスコ?」
瓶の形からしてそんな気はしていたのだが…。
「赤じゃなくて緑の…?」
「珍しいでしょ? 売ってる店も少ないしね。だから誠司くんに仕入れてもらってんのよ。ちなみに、マイボトル」
「マイ─…え、タバスコを?」
「そっ」
〝ほら〟と瓶に書かれた〝絢音専用〟という文字を見せた。
「ほんとだ…って、オムライスにタバスコって合うんですか?」
「もちろん。トマト系ならタバスコは合うでしょ。さすがにデミグラスソースのオムライスにはかけないけどさ。── 一口食べてみる?」
「え? あ、いや──」
「あ、大丈夫よ。これそんなに辛くないし、ちょっと酸味がある感じでマイルドな辛さだから」
「でも──」
「百聞は一見にしかず。誠司くん、スプーンちょうだい」
そう言って手を伸ばせば、
「ほいよ」
──と即座に新しいスプーンが手渡された。〝一口食べてみる?〟のくだりから、こうなる事が分かっていたからだ。
「味変にちょうど良いんだよね。ちょっと大人のオムライスって感じになって─…はい、どうぞ」
言いながらスプーンにすくうと、それを和希の口に近付けた。
「え…や、あの──」
(こ、このシチェーションはヤバイ…)
和希は思わず手の平を見せてストップをかけたが、それはそれで全拒否していると取られかねないため、
「た、食べます─…」
慌てて絢音からスプーンを受け取って口に入れた。正直、この状況で味が分かるのか心配だったが、一噛み二噛みすると、トマトケチャップの中に混ざった程よい酸味と辛味が、万人受けする味をグッと大人の味へと引き立ててきた。更に、ふわふわの玉子がまろやかにも変えてくれる。
思っていた以上の相性の良さに、声を出すより先に目が感想を言っていた。その表情に、絢音がにっこりと微笑んだ。
「でしょー?」
和希は小さく首を縦に振ると、口の中のものを飲み込んでから言った。
「緑のタバスコって初めて食べたんですけど、良いですね、これ。辛すぎないし、絶妙なスパイシーさが更にまた食べたくなるっていうか──」
「いいよー。もう一口、いっとく?」
「あぁ、いえ─…それはもう早瀬さんが食べてください。僕はまた違う時に頼んでやってみるので…」
「じゃぁ、その時は私の使っても良いから。誠司くん、その時は出してあげて」
「了解ー」
そんな絢音と和希のやり取りを微笑ましげに見ていた椿と夏帆。ただこの時、椿は職業柄これまでになんとなく思っていた疑問が、不意に大きな疑問となって口から出ていた。
「どうして年の差の恋愛って男の人が年上なんだろ…」
椿の溜息混じりの言葉に、みんなが〝ん?〟と顔を上げた。
「どうしたの、急に?」
夏帆が聞いた。
「んー…なんか、前から気になってたのよね、それが。店に来るお客さんから〝友達が若い奥さんをもらって羨ましい〟とか〝若い子と付き合いたい〟とか頻繁に聞くし。恋愛ドラマだって、最近はアラサーが主人公のドラマも出てきたけど、ほとんどはみんな若いでしょう? しかも年の差カップルと言ったら、漫画でもドラマでも女の人ばっかり若くてさ…。街のインタビューとかで年の差夫婦を紹介しても、やっぱり若いのは女の人なのよね」
「確かに、言われてみればそうね…」
「なんかそういうのを見たり聞いたりすると、女の人の魅力は若さだって言われてるみたいで、こう…すごくモヤモヤするのよ。もっとさ、大人の恋愛とか女の人が年上の恋愛ドラマとかが増えたら、その世代の参考にも希望にもなると思うんだけどなぁ…。なんで女の人ばっかり若い設定なんだろ…」
〝なんで〟という疑問だが、それはどちらかというと〝気に入らない〟という口調だった。
(女の人が年上の〝年の差恋愛ドラマ〟でもあれば、和希くんにとっても参考になるし、何より絢姉さんが恋愛に前向きになる気がするのになぁ…)
絢音と和希の関係が良い方向に進んでほしいと思うからこそ、女の人が希望を持てるようなドラマが増えてほしいと思ったのだ。
「本能と男女の夢と精神年齢」
そこに感情はなく、まるで紙に書かれた答えを読み上げるくらいの口調で言ったのは絢音だった。その言葉に、今度はみんなの視線が絢音に移る。
「どう──」
「あー、美味しかった。ごちそうさまー」
どういう意味かと聞こうとした椿の声は、ほぼ同時に発した絢音の声によって遮られてしまった。空になった食器をカウンターの向こうにいる誠司に手渡すのを確認してから、椿がもう一度同じ質問をした。
「どういう意味、絢姉さん?」
「んー? 椿ちゃんが言う、恋愛や夫婦で男の人が年上で女の人が年下になる理由よ」
「それが本能と男女の─…?」
「本能と男女の夢と精神年齢」
絢音が淡々と繰り返した。
「えっとー…つまり…?」
それだけ聞いても意味が分からない、と更に説明を求めた。絢音は誠司が食後に出してくれた紅茶を一口飲んでから言った。
「女の人の体の中には、最初から〝一生分の卵〟がある…っていうのは聞いたことある?」
「あー…うん、前にテレビか何かで言ってた気がする」
「私も聞いたことがあります」
「…で、一生分の卵には寿命があってさ…。簡単に言うと、歳をとると卵も老化していくのよね。一方で男の人は、六十歳になっても体内でオタマジャクシが作られる。つまり、幾つになっても繁殖能力があるって事よ」
「いやいや、オタマジャクシとか繁殖能力とかってよ─…」
「幾つになってもっていうのはちょっと─…」
恥ずかしげもなく説明する絢音とは対照的に、誠司と和希は〝人間〟というより〝動物〟だと言われているようで、なんだか居た堪れなくなっていた。
「どうして二人がそんな顔してんのよ? 男女の体の違いと本能の話をしてるだけでしょ?」
「まぁ、そうなんけど─…」
〝そういう事じゃねーんだよな…〟と思いつつも、口にすれば説明を求められるため、誠司はガシガシと頭を掻いてその言葉を飲み込んだ。その仕草が〝黙って聞く〟という返事だと受け取った絢音は、その続きを話し始めた。
「野生の動物が相手に求めるのは〝健康で強い遺伝子〟って言われてるでしょ? メスはオスに〝強さ〟を求めて、オスはメスに〝健康〟を求める。つまり、老化した卵より、若くて健康な卵を求めるって事よ」
「だから男の人は若い女の人を好む…?」
「それが本能だから…?」
椿と夏帆の結論に、絢音が〝そういう事〟と頷いた。
「じゃぁ、男女の夢っていうのは?」
〝なるほどねぇ…〟と納得する椿の横で、今度は夏帆が聞いた。
「男の人ってさ、変にプライドが高くて見栄っ張りなところがあるじゃない? 弱いところを見せられないっていうか、強さを誇示したいっていうか─…頼り甲斐のある男でありたい、カッコよく見られたいとか思って」
「あー、ありますね」
「いやいや、それくらい普通だろ。どこが変なプライドなんだよ?」
「じゃぁ、道に迷った時、すぐ人に聞ける?」
「え? あー…いや、それは──」
〝変なプライドじゃない〟と主張する誠司に絢音が質問すれば、一瞬で反論の言葉を失った。代わりに和希が続いた。
「ぼ、僕は聞けます!」
手を上げそうな勢いだ。
「おまっ…和希、裏切る気か…!?」
「べ、別にそんなつもりは──」
「それ、彼女と一緒にいても?」
絢音が冷静に追加の質問をすれば、
「え…彼女と…一緒に…?」
勢いが一気に衰えた。
「や、でもそれは…道に迷ったなんてダサいとか思われたら──」
「それよ、〝変にプライドが高い〟っていうのが。道に迷ったらとっとと人に聞いて、迷った場所から脱出した方が効率いいでしょ? 彼女と一緒なら尚更。変なプライドで長時間歩き回らせるより、そうする方が断然スマートで頼りになる。それに、道に迷ったくらいでダサいって思うような彼女だったら、別れるのが正解よ」
「え…じゃぁ、早瀬さんはそういう事で〝ダサい〟とか思ったりは──」
「しないわよ。二度手間嫌いだし、さっき通った道を戻って…とか最悪。〝道に迷った。よし、人に聞こう〟ってすぐ言うわ」
「そう、なんですね。──分かりました。じゃぁ、これからは道に迷ったらすぐに聞きます!」
「うん、それがいいと思う」
素直に聞き入れる和希の言葉に、これまた素直に〝それがいい〟と答える絢音。それだけの会話なのに、誠司たちの気持ちはほのぼのとした。
「それで、どこまで話したっけ…?」
話を元に戻そうと、夏帆に問いかけた。
「あー、えっと…弱いところを見せられない、強さを誇示したいっていう──」
「あぁ、そう、そうだった。──要はさ、本能とも関係してくるんだけど、人より優れていたいと思うわけよ、男の人は。だから自然と自分より弱い人をそばに置きたがるの。その人から頼られたり、自分がその人を守る事で、自分の価値を見出すっていうか、こう…気持ちよくいられるわけよ。それに年上の女性に対して〝オレに頼れ〟って言うより、年下の女性に対しての方が言いやすいしね。一方で女の人は、甘えられる人とか弱い自分を守ってくれる人を求めがちでしょ? 相手が自分より年下だと色々セーブもかかるけど、年上だったら甘えやすいじゃない? つまり、それぞれが持ってる〝こうありたい〟っていう夢が合致しやすい形っていうのが、そういう結果になってるわけ」
「なるほど…」
椿同様、夏帆もその言葉を呟いた。──が、同時に和希の表情が目に入った。〝女の人が甘えやすいのは年上だ〟と言われ、少し落ち込んだ表情だ。夏帆は、慌てて追加した。
「でもそれは一般的に…って事ですよね?」
「もちろん。人の好みは色々あるからね。あくまでも、一般的によ」
「ですよね〜」
そう言いながらチラリと和希の方を見れば、少しホッとした顔になっていたから夏帆も胸を撫で下ろした。
「じゃぁ、精神年齢はどういう事?」
聞いたのは椿だ。
「それは同じ年齢でも、精神年齢が男の人より女の人の方が高いって事よ。カップルとか夫婦とか、長い時間一緒にいる人にとって、重要なのは実年齢より精神年齢の方なの。大人と子供が付き合うってどっちも疲れるし長く続かない。例えばよ? 実年齢と精神年齢の差が、男の人がマイナス三歳、女の人がプラス三歳だったら、同じ年齢の男女は既に六歳の精神年齢差がある事になる。その差をできるだけ縮めようと思ったら、どうしても男の人が年上になるわけ。つまり、そういう三つの要素が複雑に絡み合って、年上男性、年下女性のパターンが多くなるってことね。ま、あくまでも一般的に、だけど」
二人は〝なるほど、そういう事か…〟と納得したものの、和希の顔が再び曇った事に気が付いた。
今度は椿が新たな質問をした。
「絢姉さんはどっちなの?」
「どっちって、なにが?」
「年上男性と年下男性、どっちが好き?」
それはもう、和希に脈があるのかないのかという、ある意味直球の質問で─…絢音以外の三人は〝どうして今それを聞く!?〟とばかりに一斉に椿を見た。
「んー…私は──」
(いやいや─…いやいや、そんなの答えないでください、早瀬さん…!)
何とか話題を変えたい…と思ったのは和希だけではなく──
「あ、は、早瀬さ──」
「絢ねぇ──」
──と絢音の言葉を遮ろうとしたその時だった。
「おーい、航介はまだかー?」
扉の鐘の音と同時に、サカズキが現れた。
「お、おぉ、サカさん…!」
〝いいところに来た!〟とホッとしたのは誠司と和希と夏帆。椿は〝タイミング悪っ!〟とサカズキを睨んでいた。
「ん…? なんだ? 椿ちゃん、なんか怒ってる?」
「もう、来るの早すぎだって! 誠司にぃから、まだ連絡いってないでしょ?」
「いやぁ、だって久しぶりだから待ちきれなくて…。みんなから様子を見に行ってくれって頼まれたんだよ。でもそういう椿ちゃんも早いんじゃないのか?」
「んー、もう!」
本来、サカズキより早く来ている時点で、相手に対して〝早すぎ!〟というセリフは間違っているわけで…。椿は〝もういい〟とばかりにそっぽを向いた。
「えー…」
なぜ椿が怒っているのか分からず〝参ったな…〟と頭を掻くサカズキに、これまた怒っている理由が分からない絢音が声を掛けた。
「みんなって、誰が来るの?」
「うん? あぁ…誰って、みんなさ。絢ちゃんに制裁受けた連中、みんな」
言いながら、カウンター席の真ん中に座った。
「ほんとに!? なに、みんなヒマなの?」
「ヒマってそんな言い方─…むしろ、すすんで時間作ってんだよ。特に、カミさん連中は〝とことん、教育してこい〟ってオレたちのケツ叩きまくってくるからな」
「学んだ事は人に教える事で身につくっていうからね〜」
「それならオレは十分身についてるな」
「そうね。何てたって、制裁の第一号はサカさんだもんね」
「え、そうなんですか!?」
〝制裁〟だの〝教育〟だの…ますます話の内容が分からなくなっていた和希は、〝サカズキが制裁の第一号〟という言葉に思わず反応した。制裁を受けた本人に聞けば何か分かるかもしれない、そう思ったからだ。
「いやぁ…絢ちゃんの制裁はキツかった、ほんと。その後の教育も、オレ、泣きそうだったからな」
サカズキは思い出したように顔をしかめた。
「絢ねぇは、怒るとマジで怖いからな。年上だろうが何だろうが、容赦ないし」
「そりゃそうよ。女の地位を男と同様にするためには、根本的な意識改革が必要なんだから。それでも変わらない奴は、一生、寂しく孤独に生きていけばいいのよ」
「けど、そこまで言っても意識が変わらない奴はいたよな」
「…そういう人はどうなったんですか?」
話の中身はよく分からないが、とりあえず〝制裁〟や〝教育〟は意識改革の為で、その意識が変わらなかったらそれ以上の事が起きるのかと気になって聞いてみた。
「絢ちゃんの希望通り、一人になったさ」
「え、本当に!?」
被せるように言ったその言葉に、和希が驚いてサカズキを見た。
「そういうのを見てきてるからこそ、オレたちは絢ちゃんに感謝してんだ。認識を変えなかったら、オレも一人になってただろうからさ。カミさんも絢ちゃんには感謝してるし、〝イイ男になった〟ってオレのことも褒めてくれるしな」
サカズキがそう言って嬉しそうに笑ったから、絢音たちも〝良かった〟と微笑んだ。──とふとここで、夏帆が何かを思い出した。
「意識が変わらないって言えば─…あの人ってどうなったんだろう…」
「あの人って?」
椿が聞き返す。夏帆は事実確認をするように誠司に尋ねた。
「五年くらい前だったか、絢音さんと言い合いになったお客さんいましたよね?」
「絢ねぇと言い合い…?」
「ケンカしたんですか、早瀬さん?」
ボソリと本人に尋ねると、絢音は〝んー…いたっけ?〟と首を傾げた。
「なんか見た目に拘ってるような服装で──…確か一ヶ月後に結婚する予定があるとかなんとか言ってた─」
そこまで言った途端、考えるように俯いていた絢音と誠司とサカズキの顔がバッと上がった。
「おー! いたいた! 〝オレ様〟的な男な」
「うわっ、思い出した。あの男…!」
「関係ないのに途中で入ってきた奴…!」
「えー…私知らないんだけどー」
和希を除くメンバーの中で自分だけが知らないことに、椿が悔しそうに言った。
「椿は学生だっただろ? けど、いなくて正解だったぞ」
「どうして?」
「絢ねぇがいつ手を出すのかヒヤヒヤするくらい、言い合いがすごかったんだ。他のお客さんにもめちゃくちゃ迷惑かけたし─…あれがキッカケで、制裁日は〝貸切〟にしようってなったんだからな」
「それ、逆に見たかった…」
〝絢姉さん〟と呼ぶ仲になった今だからこそ、椿は本当に見たかったと思った。
「そういやあの男、あれから一度だけ絢ねぇを尋ねてきたぞ」
「え、うそ…。なんで?」
「アドバイスが欲しいって」
「アドバイス?」
絢音が眉を寄せた。
「結婚して半年くらいしたら、奥さんに離婚したいって言われたってよ」
「うそっ! ちょっ…なんで言ってくれないのよ!?」
「いや、だって絢ねぇは仕事だったし、そもそもそんな奴にアドバイスしたいと思わないだろ?」
「当然でしょ」
「え、じゃぁどうして〝言って欲しかった〟みたいに言ったんですか?」
わけが分からないと、思わず和希が聞いた。
「決まってるじゃない。そいつの目の前で〝ざまあ〟って言ってやりたかったからよ」
「ざまあー…」
予想外な返答に思わず同じ言葉を繰り返したが、その直後、同時に絢音らしいとも思って笑ってしまった。同じように誠司たちも笑った。
「なんで笑うのよ? なに〝ざまあ〟が古いって事?」
「いえ…いえ、そういう事じゃなくて──」
「じゃぁ、なによ?」
「斜め上なんだよ、絢ねぇは」
「はぁ!?」
「だから絢姉さんと話するのって好きなのよ、私」
「私も。楽しくって」
「最高だよ、絢ちゃん」
「え、なに、どういう──」
「良いんです、それで。早瀬さんらしくて、すごく良いんです!」
戸惑う絢音に、和希は心からそう言った。
「なに、川上くんまで──」
和希が本気でそう思っているという事は不思議と伝わってきて、だからこそ、まぁいいか…とも思えてくるのがこれまた不思議で…。
「まぁ、結局どうなったかは分からないけどな」
「いや、分かるぞ。あいつは離婚してる」
サカズキが自信たっぷりに言い切った。
「なんで分かるんだよ、サカさんが?」
「絢ちゃんのアドバイスをもらえなかったんだぞ? それでなくても女の人が〝こう〟と決めたら、それはもう決定事項だ。子供が〝別れないで欲しい〟って泣いてすがれば覆る可能性もあるが、そこに愛情はないだろうしな。離婚を決めた原因が男なら、関係を修復したいって思った時はすでに遅い。──だよな、絢ちゃん?」
「さすが、サカさん。その通り。謝って許してもらってるうちが心を入れ替えるチャンスだって事、気付かないんだよねー」
絢音の言葉に、サカズキが〝ほらな〟という顔をした。
「なるほど。オレもまだまだか…」
「そうでもないよ。誠司くんはちゃんと合格してるから」
「合格?」
〝なんのだよ?〟と無言で聞けば、
「〝近未来型モテ男テスト〟」
──と、とってつけたようなテスト名が返ってきたから思わず笑ってしまった。
「なんだよ、それ」
「小学校の時から散々言ってきたからね、誠司くんには。その甲斐あってイイ男になったし、もう、誰と付き合っても結婚しても、相手は幸せになる──そう言い切れるわ」
「いやいや、オレの幸せは?」
「相手が自分と一緒にいて幸せだと思ってくれたら、自分も幸せでしょうが?」
「それはまぁー…」
「幸せって事はさ、不安や不満がないって事なんだから。その不安や不満がないって、怖いくらい幸せな事なのよ? その幸せが手に入るテストに合格してるんだから自信持って」
「いや、別にオレは自信無くしてるわけじゃ──」
「ま、その前に相手を見つけないと、だけどねー」
「うっせえわ、ほっとけ」
そんな二人の会話にまたみんなが笑うと、その笑い声に混じってドアの鐘の音が聞こえた。一斉にそちらを見れば、入ってきたのは待ちに待った航介たちだった。