7 制裁 <1>
客の入りが少し落ち着いた朝の十時前、ドアの鐘が鳴って絢音が入ってきた。
「おー、お帰りー」
「お帰りなさ─…って、今日はずいぶん疲れてますね…?」
誠司の後に、夏帆が絢音の顔を見てそう言った。
「ほんっと…疲れた…」
ここが自分の家で目の前にソファでもあれば、そのまま倒れ込んでいるところだろう。実際、店には寄らず家に帰ろうとも思ったのだが、いかんせん、家に帰ってもすぐに食べられるものがないのだ。
「眠れなかったのか?」
「あー…もう、全然…」
疲れた足取りでいつもの席に着くと、同時にカウンターに突っ伏した。当然、目は閉じている。
「鍵という鍵が開かなくてさー…」
「…鍵? 何の?」
「はー…ゆで卵食べたい…」
「ゆで卵って…いやいや、鍵の話は?」
「茹でたての卵にマヨネーズをたっぷりかけてさ──」
──と言ったところで、口の中に広がる味を思い出してハッと顔を上げた。
「誠司くん、たまごサンド! 温かいやつ!!」
「ホットサンドな」
「そう。あと、たまご多めでねー」
「飲み物は?」
「んー…今日はホットミルクにしようかな、甘めで」
「了解─…っておい、寝るなよ?」
再び絢音が突っ伏しそうになったため、敢えて釘を刺した。
「出来上がるまでだって、寝不足で頭痛いし─…」
「ダメだ。今寝たら絶対起きないだろ」
「あー、もう…」
「はい、絢音さん」
夏帆が、タイミングよく冷たいおしぼりと水を目の前に置いた。〝寝たい〟〝寝るな〟のやり取りはこれまでに何度もあり、それを収めるにはこのタイミングだと、夏帆も心得ているのだ。
「ありがと、夏帆ちゃん」
一度冷たいおしぼりを広げ再び長方形に折り畳むと、絢音はそれを目に当てた。
「…じゃぁ、何か喋って」
「喋ってって─…その前に鍵の話はどうした、鍵の話は?」
さっきから、〝鍵〟が気になって仕方がなかったのだ。
トーストにからしマヨネーズを塗りながら、その返事を待つ誠司。絢音はおしぼりを目に押し当てながら、面倒臭そうに力無く話し始めた。
「だからさー…初っ端から鍵がちゃんと入らないのよ」
「どこの?」
「場所じゃなくて仕事」
「は…?」
「鍵を入れてもつっかえる感じっていうの? それでも何とか鍵が開いたー…と思ったら、次から次へと違う場所でロックが掛かって…それをまた解除しようとするんだけど、スムーズに入らない…。しかもそういう時に限って、ストックが切れてて、下の階とか上の階に借りに行ってさー…もう、足もパンパン…」
聞けば聞くほど理解ができず、ホットサンドを作る手も止まりがちだ。こういう時はあの言葉だと、誠司はそれを口にした。
「つまり…?」
「つまりー…初っ端から物事がスムーズに進まない上に、次から次へとトラブル発生。もう朝までバッタバタよ」
「だったら、最初からそう言えって」
「あ〜…自分があともう二人いたらなー」
〝とにかく人手が欲しかった〟と呟けば、トースターのタイマーを回した誠司が〝フハッ〟と笑った。
「こっちは〝あと二人〟か」
「なに、〝こっちは〟って?」
笑われたのはもちろん、〝こっちは〟の意味が分からず、思わずおしぼりを離した。
「昨日、ちょうど美容師の話をしてたんだよ」
「美容師?」
「絢ねぇ、前に言ってただろ?」
一分ほどして取り出したトーストにたまごをたっぷり乗せたあと、再びトースターの中に入れながら言った。
「美容師が自分の磨いた技術を自分に使えなくて可哀想。自分がもう一人いたらいいのにって思ってるはずだって」
「あー、あれね。言った、言った。でも、何でその話?」
「絢ねぇは、時々〝え?〟って思うような事を言うよな…って話から、三人で盛り上がってなー…」
言いながら、鍋に牛乳と砂糖を入れ火にかけた。
「三人?」
「オレと和希と椿」
「椿ちゃん来てたの?」
「昨日は仕事が休みだったからな。和希を見るなり〝あのイケメン誰?〟って。しょうがないから紹介したさ」
「椿ちゃんがキャバ嬢やってるって言った?」
「自分で真っ先に言った」
「川上くん、驚いてたでしょ?」
「あぁ。裏切らないな、あいつの反応は」
「…やっぱり。ちょっと見てみたかったなー」
絢音はその時の事を想像すると、面白くて一瞬、頭の痛みも忘れてしまった。
ホットミルクが出来上がる頃、タイミングよくトースターのタイマーも鳴った。たまごが乗ったトーストに、もう一枚のトーストを乗せてサンドする。軽く抑えてから、食べやすいように三角形に切り皿に盛り付けると、誠司はそれをホットミルクと一緒に絢音の前に置いた。
「ほら、たまごと砂糖の増し増し」
「んー、美味しそう〜」
おしぼりで手を拭いた絢音は、両手を合わせて〝いただきます〟と言ってから、両手でパンの耳の部分を軽く抑えながらかぶりついた。
「んー、サックサク! 中のたまごもあったかくてホワホワだし、塩加減も、からしも最高だね!」
「そりゃ良かった」
毎回、食レポはいらないけどな…と思いつつも、言われたら言われたで嬉しいもので。でもそれ以上に、絢音が幸せそうに食べる姿を見られるのが何よりもホッとして嬉しく思えた。
「そういや、聞いたぞ。椿が〝絢姉さん〟って呼ぶようになったキッカケ」
「キッカケ?」
「短冊に〝キャバ嬢になる〟って書けって言ったんだって?」
「あー、あれね」
「まさか、絢ねぇが一枚噛んでたとはな?」
「噛んでたって─…」
絢音がホットミルクをすすって、口の中のものを飲み込んだ。
「何かのずるいキャラみたいに言わないでくれる? 私はただ、自己判断の手助けをしたまでよ。周りの言葉を聞きすぎて悩んでたみたいだったから。それに大事でしょ、〝自分で決断する〟って」
「まぁな」
「今、多いんだよね。自分で考えて自分で決断できない人。誰かが〝ダメ〟って言ったら、そのちゃんとした理由も聞かないまま諦める人とかさ。背中を押して欲しい気持ちは分かるけど、人の言葉で左右されて生きていたら、いつまで経っても自分の判断に自信が持てないし、その行動に責任を持てないじゃない」
「多いもんな、失敗したら誰かのせいにするやつ」
「でしょ?」
「だから、〝絢姉さんの話を聞いて覚悟が決まったんだ〟って言ってましたよ、椿ちゃん」
店内の様子を伺いながら二人の話を聞いていた夏帆が、付け足すように言った。それに驚いたのは誠司だ。
「夏帆ちゃん、知ってたのか? バックに絢ねぇがいたって──」
「黒幕みたいに言わない」
本音が出たような言葉にツッコむ間が絶妙で、夏帆は吹き出してしまった。
「椿ちゃんとは歳が近いし、説得できるような経験も自信もなかったから何も言えなかったんです。それに周りから説得されている椿ちゃんを見てたら、それ以上何も言えないっていうか…ちょっと可哀想になってきちゃって…。でも逆にそれが良かったみたいで、色々と話してくれましたよ」
「つまり、夏帆ちゃんは敵対視されなかったわけだ」
「それはオレが敵対視されてたって事か?」
「そりゃされるでしょうよ。自分がこうしたいって言う事に対して、ずーっと反対してくるんだから」
「いやいや、オレらは椿のためを思って──」
「それよ」
絢音が冷静な口調でそう言って指を差した。
「何が?」
「敵対視される原因」
「は? なんで──」
「そうやって言えば、ほとんどの人が反論できないでしょ。自分の為を思って言ってくれてる人に反論すれば、自分が悪者みたいに思えてしまう。重い石で自分の気持ちに蓋をさせられて、それ以上話す気になる? 選択肢を与えられるならまだしも、進もうとしている道に目の前でバリケードされるようなものなんだから。それに、言った本人も〝その人のためを思って言っているんだ〟っていう正義があるし、周りもその人が正しいと思うしね」
「あー…」
「その一言ってさ、良い言葉に思えて、実は相手を抑圧させる力を持ったひどい言葉にもなったりするんだよ」
「…なるほど、な」
最初こそ〝なんで〟と思ったが、絢音の説明を聞いて〝確かに〟と納得した。特に〝そう言われたら反論できない〟というところはよく分かる。誰にでも一度はそう言われたことがあるだろうし、事実、誠司もそう言われた時にグッと飲み込んだ言葉があったからだ。そして夏帆もまた、驚きと感心を持って納得していた。
(やっぱり、絢音さんの物の捉え方はすごいなぁ…。あの言葉を言われても、〝自分のために言ってくれてるんだ〟って嬉しいと思えなかったのはそういう事だったんだ…)
そう思えない自分が間違っているとさえ思っていたが、そうではなかったんだと分かって気持ちが軽くなった夏帆だった。そしてちょうどその時、客から会計に呼ばれたためレジへと向かった。
そのタイミングで、誠司が少し声を落として絢音に聞いた。
「それはそうと、忘れ物したって本当か?」
「うん? 何の事?」
二つ目のホットサンドにかぶりついた絢音が顔を上げる。
「この前、和希と電車に乗ってすぐ〝忘れ物した〟って降りたんだろ? 和希が言ってたぞ」
「あぁ、あれねー…」
「二度手間が嫌いで忘れ物には気を付ける絢ねぇが?」
真偽を確かめるような口調だが、誠司には分かってるのだろう…と思えば、案の定、その一言が飛んできた。
「ウソなんだろ?」
〝やっぱり…〟と思いつつも、誠司やママにバレる分には安堵の方が大きかった。それは誰かにバラされる心配がないというのではなく、ちゃんと自分を分かってくれているという安心感と嬉しさだ。
「川上くんは疑ってた?」
「いや。〝レアな絢姉さんが見れたね〟って椿と一緒に喜んでただけだ」
「そっか。なら、良かった」
「けど、これからどうするんだ? 一緒に電車に乗るなら、これからだって同じ事があるだろ? その度に〝忘れ物〟を理由にはできないぞ? ──ってか、〝二度手間が嫌いで忘れ物には気を付ける〟って話したから、二度目の理由としては通用しないからな」
「そうだよねー…」
〝どうしようか…〟と思ったところで、ふと気が付いた。
「──ってかさ、私の話が多くない?」
「多いっていうか、昨日はそれ一本で盛り上がったからな」
「はい?」
「和希は、まだ絢ねぇの事あまり知らないだろ? だから絢ねぇの話をすると目をキラキラさせて食いついてくるんだ」
「それ、個人情報の漏洩」
「いやいや、共有だ、共有」
「ものは言いようね」
呆れたようにそう言って、再びホットサンドにかぶりつた時だった。
「んん!」
「なんだ、なんだ?」
「んーん!」
「は?」
絢音が片手を出して〝ちょっと待って〟と合図し、慌てて飲み込んだ。
「それ!」
「は、どれだよ?」
「そんな話ばっかりしてるから、こっちがバッタバタだったんじゃないの!?」
「はぁ?」
「うん、絶対そう。昨日のバタバタは誠司くんたちのせいだ」
「いやいや、わけ分からん」
「──って事で、朝食代は誠司くんの奢りね」
「いや、全然関係ねーし」
「じゃぁ、共有代って事で」
「かー! そうくるか!」
「んふふふ〜」
どうやっても今日の朝食代は誠司が奢る事になるようだ、と今度は誠司が諦めの溜息をつけば、それが返事だと絢音が受け取った。
そうして残りの朝食を食べ終えた絢音は、疲労感と眠気に抗いつつ、満腹感と幸福感に浸りながら家へと帰って行ったのだった。
昼から降り出した雨は夕方になって止んだ。ただウェザーニュースでは、数時間後にまた降り出すと言っている。
和希が店にやってきたのは、そんな雨が止んでいるタイミングだった。梅雨時期に持ち歩く傘を、最初こそ何も気にせず傘立てに入れていたが、一週間もすると自然と定位置が決まっていった。そしてその日も、自分の名前が書いてあるかの如くいつもの場所に傘を入れると、少しの期待を込めてドアを開けた。
「こんばんは」
「おー、お疲れー」
「雨が止んでいて良かったわねぇ」
「はい」
「あ、ちょっと待っててね。今、唐揚げ仕上げるから。──どうぞ、座ってて」
そう言って促されたママの手を追いかければ、自然と一番奥の席にも視線が向く。僅かな差だが、その表情を見れば和希が何を思っているのかすぐに分かった。
「安心しろ。今日は来るから」
視線に気付いた誠司の言葉に、和希の顔がほころんだ。
(ほんっと、分かりやすい)
グラスにビールを注ぎながら、誠司が小さくフッと笑った。そして和希がいつもの席に座ると同時に、ビールと枝豆を出した。
「ありがとうございます」
「まぁ、来るって言っても遅めだけどな」
「そうですか…」
(遅め…ってどれくらいだろう…)
いつもの時間ならもうすぐ会えるはずだったが、そうではないと分かって少し残念に思った。それがまた意図せず顔に表れたから、誠司は笑いそうになった。
「そんなに好きか、絢ねぇのこと?」
「あ、はい…」
思わず出た返事に和希がハッとした。
「あ、いやその─…じゃなくて、えっと……えぇ!?」
「ブハハハハッ!」
「え、誠司さん!?」
バレてないと思っていた事がバレていて、だけど思わず肯定した自分の返事に驚き、〝いや〟と否定してしまう。でもそれも違うと更に否定しつつ、〝ってか、なんで分かった!?〟という疑問の〝えぇ!?〟──という和希の一連の心の声が全部詰まった慌てぶりに、誠司は堪らず吹き出してしまった。
「いや、お前─…慌てすぎ──…ってか、分かりやすっ…!」
「そんなに分かりやすい事してますか、僕って?」
「服に〝早瀬さんが好きです〟って書いて歩いてるくらいな」
「そ、そこまで…!?」
絶対にバレないように…と隠してるつもりはないが、かと言って〝好き〟とアピールしているわけでもない。極力、普通にしているつもりなのに、まさかそこまでの態度が出ているとは…。正直、バレない程度の態度がどこまでのものか全く分からなかった。
「お前、みんなからよく言われるだろ。〝分かりやすい〟って?」
「…言われます。〝何で分かるのか〟って聞いたら、〝逆に、何で分からないと思うのか〟って言われて──」
──と言ったところで、はたと気が付いた。
「もしかして早瀬さんにもバレて──」
「あー、ないない」
手を振ってまで、被せるように誠司が否定した。そして改めて否定する。
「絢ねぇは気付かない。そういう事には〝超〟が付くほど疎いからな」
「え、そうなんですか…?」
(それはそれで、何だか残念な気がする…)
──と思えば、
「また、複雑な顔してんな?」
──と誠司に読まれてしまった。
「…もう、ほんと読まないでくださいよ。もしくはスルーしてください」
〝お願いですから〟と言いそうな顔に、誠司はまた笑ってしまった。
「長所なんだけどなぁ、お前のそういうところ」
「そんなわけないじゃないですか。僕がスパイなら最弱ですよ?」
「スパ──… あははは、いいねぇ! オレはそっちの方が好きだ」
「それ、早瀬さんに言われたら喜びます…」
〝だから今は全然嬉しくない〟という態度が、これまた面白い。ただ、これだけ素直に絢音の事が好きだと分かると、誠司はひとつだけ確認しておきたい事があった。
「分かったよ。絢ねぇを好きだっていう気持ちはよーく分かった。──けど、お前はそれで本当にいいのか?」
「どういう事ですか…?」
「いや…年齢のことちゃんと知ってんのかと思ってな?」
「年齢…? 年上ってことですか?」
「あぁ…まぁ、そうだけど─…いくつ上か知ってるか?」
「えっと…誠司さんが僕より四つ上で、早瀬さんの弟さんと同い年だから、最低でも五つは上ですよね?」
「まぁ、〝最低〟でもな」
「いくつ上なんですか? ──って、早瀬さんに許可も取らず僕が聞いちゃダメか…」
「いや、それは問題ない。直接聞いても隠す性格じゃないし」
「そうですか…」
「…絢ねぇはな、今年で四十二になる」
「四十二…!? え、見えない…」
「まぁ、三十代後半くらいには──…って、そこか?」
「え、何がですか?」
「いやいや、十歳も離れてるんだぞ?」
「はい」
「んん? それで何も思わないのか? 普通は〝十歳も!? それはさすがに無理〟とかなるだろ?」
「え、でも…年齢で好きになったわけじゃないし、年齢が諦める理由にはならないです。若くても、早瀬さんじゃなければ意味がないので」
理想的な、そして綺麗事ともいえる返答だった。──が、そこに嘘がないのは誠司にも分かった。
(こうも、ごくごく普通の事のように言えるとはな…)
いい意味で裏切られ、和希に対する好感度はますます上がった。
「…それより、僕は子供っぽいって思われることの方が不安です」
「あー、そっちか…」
「ただでさえ年下なのに、頼りなかったりカッコ悪かったりしたら幻滅されるんじゃないかって─…」
「そんな心配かよ?」
「そんなって…好きな人には嫌われたくないじゃないですか?」
「そりゃそうだが─…ってか、絢ねぇの前で〝頼り甲斐のあるカッコイイ自分〟でいようとしてたのか?」
「それは─…しようと思ってもできなかったっていうか…話し始めたら楽しくて──」
「素だったんだな?」
「…はい」
「じゃぁ、いいじゃないか。無理にそんな自分を演じたって絶対続かないし、素が一番だぞ? お前の良さはそこに全部詰まってる。大体、オレたちが〝頼りになる〟とか〝カッコイイ〟って思ってる事が、絢ねぇにとってもそうとは限らないだろ。人と違う見方をする絢ねぇだぞ?」
「それはまぁ…」
「それに、絢ねぇはそんな事で人を好きになったり嫌いになったりしない。作られた〝完璧〟より、カッコ悪くても素を見せてくれるやつの方が絢ねぇにとっての好感度は高いからな」
そう言われ、そういえば前にも同じような事を言っていたような…と記憶を辿れば、寝癖の話の時だったと思い出した。
〝いつも完璧でいられるとさ、自分も完璧じゃなきゃいけないような気になるじゃない? 私、ああいう堅苦しい付き合いとか関係って、面倒で嫌なんだよねー〟
その時の気持ちも思い出し、和希は〝そうだった…〟と小さく笑った。その時、奥からママがやってきた。
「絢ちゃんは、そういうのを見抜く目が鋭いからね〜。自分に嘘をついてたり、一生懸命演じてるとすぐバレるのよ」
「そうなんですか?」
「作り笑いとか一発よ? ──はい、唐揚げどうぞ」
「あ、ありがとうございます」
「そういう事だから、お前は今まで通りそのままでいろ。その方が絢ねぇも素でいられる」
「…分かりました、そうします」
「よし。じゃぁ、食え」
言われて〝はい〟と頷き、出来立ての唐揚げを頬張った時だった。ドアの鐘が鳴って反射的に誠司は振り向き、和希が顔あげると、そこで目にした人物に驚きの声をあげた。
「は!? 絢ねぇ!?」
「は、早瀬さん!」
「あー、やっぱり川上くん来てた」
「どうしたの? いつもより全然早いじゃない?」
ママも〝珍しい〟と目を丸くした。
「熟睡っていうより、もう爆睡よ。この時間に目が覚めたら二度寝もできないし、何より──」
「腹だな?」
「そう、正解」
〝ピンポン〟と人差し指を立てながら、いつもの席に座った。
「この時間なら川上くんも来てるだろうし、一緒に食べようかなーって。──食べる、川上くん?」
「はい、食べます!」
「じゃぁ、誠司くん日替わり二つね。──ちなみに、今日は何?」
「今が旬のカキフライ」
「カキフライ! いいねー。あ、タルタルソースたっぷりねー」
「了解ー」
絢音とは別の理由で嬉しそうな顔をしている和希を見つつ、誠司はカウンターの奥へ消えて行った。
絢音は、すぐに和希の方に顔を向けた。
「そういえば聞いたよ、誠司くんから」
「え、何をですか?」
「椿ちゃんと盛り上がったんだって?」
「あー…はい。昨日、色々と聞きました。早瀬さんと椿さんが仲良くなったキッカケとか─…」
「ビックリしたでしょ、キャバ嬢って聞いて」
「まぁ…初めて会う職業の人だったのでどう接したらいいのか─…あ、でも話してみたら凄くしっかりしている子だなって…」
「そうなの。基本、真面目だし頭いいからね。それに、人を見る目も養われてきたし。言われたらしいじゃない、〝あのイケメン誰?〟って」
「いや、人を見る目ってそういうのじゃないですよね…?」
「うん、違う」
気持ちいいほどキッパリと言い切った。
「でもやっぱり、一般的に〝イケメン〟は確定でしょ」
「えー…」
「ん? 嬉しくない?」
それこそ一般的な反応と違った事に、絢音は眉を寄せた。
「見た目だけで言われるのがちょっと─…」
「中身を知らないのに…って事?」
「はい、まぁ…。もちろん、初めて会った人の中身なんて分からないから、見た目でそういう印象を持ってしまうのは仕方がないんですけど…」
「なるほど。つまり、相手が持つ印象と自分が認識している〝自分〟に差があるから嫌だと?」
「まぁ、そんな感じです。勝手にハードル上げて、勝手に幻滅される…みたいな──」
「あー、そういう事ね…」
〝それならよく分かる〟と、絢音は深く納得した。
「あの…早瀬さんは─…」
「うん?」
「早瀬さんにはどう見えてるんですか、僕のこと…? ホームで初めて僕を見た第一印象って─…」
言われて、その時の事を思い出すように少し上を向いた。
「あの時は─…〝優しそうな人〟だったかな」
「じゃぁ、イケメンとは…?」
「それより〝可愛い〟が先に来た」
「可愛い…」
「今もその印象は変わってないけどね。むしろ、増幅されてる」
「増幅…」
「あ、でも男の人は〝可愛い〟って言われる方が嫌か…」
「あぁ、いえ…まだそっちの方がいいです。会社の先輩にもよく言われてるので、慣れてるっていうか──」
「じゃぁ、正解だ」
「え、正解ですか?」
「正解でしょ。長い付き合いのある先輩がそう言うんだから。川上くんの事をよく知った上で〝イケメン〟じゃなく〝可愛い〟って言ってるんでしょ? だったら、間違いない」
「でも〝可愛い〟って言われる年齢でもないのに──」
「〝可愛い〟は若い子だけに与えられた形容詞じゃないから」
「え…?」
「〝イケメン〟だって、男を表す〝MEN〟とか顔を表す〝面〟とか中身がイケてるっていう意味が含まれてるじゃない? 〝可愛い〟だって、〝小さくて可愛い〟もあれば、〝色が可愛い〟とか〝赤ちゃんが可愛い〟っていうのもある。〝可愛いおばあちゃん〟もあるんだから、年齢なんて関係ないのよ。人それぞれが感じる可愛さがあるわけで、川上くんの場合は〝純粋な反応が可愛い〟ってこと」
「純粋─…」
(そういえば、礼香さんにも同じような事を言われたな。あの時は素直に喜べなかったけど─…)
今は素直に嬉しいと思える…と胸が躍った。が、すぐにハッとした。
(え、ちょっと待って。それって子供と同じなんじゃ──)
──と焦ったところで、誠司がカウンターに現れた。しかも、
「最弱のスパイってどう思う、絢ねぇ?」
和希の胸の内を読んだかのように、カキフライ定食を差し出して言った。絢音が受け取りながら答える。
「最弱のスパイ?」
「ちょ、誠司さん──」
誠司は〝まぁまぁ〟と片手で制し、和希のカキフライ定食を目の前に置いた。絢音はカキフライに視線を落とし、割り箸を割りながら聞いた。
「何それ、映画かなにか?」
「いや。そういうスパイがいたらどう思うかって話」
「えー…スパイで最弱ってさ、そもそもスパイになれないんじゃないの? 適正とか資格とかで弾かれるでしょ」
〝何を言ってんの?〟と顔をあげた。
「そうだけど、そういう細かいところを省いてどう思うかって事だよ」
「じゃぁ、何をもって最弱? 記憶力が弱いとか体力がないとか、対戦能力が低いとか──」
「思った事が顔や態度に出る」
色々と選択肢がある中で、誠司がズバッと言い切った。
「あー…それは確かに最弱かも。嘘がつけないとねー…」
「だろ?」
「うーん…でも、一方では強みかも」
「強み? なんで?」
「そのスパイが男でも女でも、嘘がつけないってことは、結果〝良い人〟ってことでしょ。そういう人を嫌いにはなれないじゃない? むしろ〝可愛い〟とか思っちゃうから、敵さえも虜にさせるかもよ」
「虜…こりゃまた、意外な展開だな」
誠司は、本気で〝意外〟だと驚いた。
「虜になったらそばに置いておきたいと思うし、敵でも味方でも〝もうスパイなんかやめなさい〟って辞めさせたくなる。─で、結局スパイの道から足を洗えて、真っ当な人生を歩む事ができました、チャン、チャンよ」
〝めでたし、めでたし〟という効果音に誠司と和希の目が合うと、次の瞬間、二人が大笑いした。
「ブハハハハ! そう来たか!」
「あははははー…さ、さすがです、早瀬さん!」
「は…なに、その爆笑は…?」
「いや、相変わらず斜め上っていうか──」
「悩み事を吹き飛ばしてくれるというか──」
「なに、悩み事だったの、これ?」
「いえ、何でもないです…あはは…ほんと、どうでもよくなりました。あ、投げやりってわけじゃなく、良い意味で─…」
「…だな」
「はぁ?」
「まぁまぁ、いいから、いいから。──ほら、冷めないうちに食えって」
「はい、いただきます!」
和希が元気よく返事する一方で、いまいち納得できないのは絢音だった。それでも空腹と食事を目の前にしたら、もう我慢も限界なわけで…。絢音も〝いただきます〟と言うと、早速たっぷりのタルタルソースを乗せてカキフライにかぶりついたのだった。
「んー! 美味しい!!」
「レモンもいいですけど、タルタルも最高ですよね!」
「ねー」
幸せそうに食べる二人を見て、誠司も胸が温かくなった。
「そういや、傘って持ってきたか、絢ねぇ?」
「降ってないのに?」
つまり〝持ってきてない〟という事だった。
「いや、今が降ってないだけで、数時間後にはまた降ってくるぞ?」
「そうなの?」
「あ…じゃぁ、帰り送りますよ。僕、傘持ってきてるので」
「あー、大丈夫、大丈夫」
絢音が手を振った。
「忘れた傘がいくつかあるから、それ差してく」
「いやいや、そこは〝オレから借りる〟って言うところだろ。何で人の忘れ物を当たり前のように使おうとしてんだよ」
「いいじゃない、誰も取りにこないんだし。有効利用よ、有効利用。あれ、有効活用だったっけ?」
「どっちでも一緒だ」
「まぁ、まぁ。とにかくさ、今流行りの〝シェアする〟っていうのと同じだって」
「ものは言いようだな」
朝の時とは反対に、今度は誠司が溜息をついた。
「それに、明日は休みだから面倒臭くなったらここに泊まっていけばいいし」
「え、泊まる? ここに泊まるんですか!?」
まさかの発言に、和希が二度聞いた。
「そう、奥の休憩室でね」
そう言って個室がある通路の更に奥を指差した。上体を反らせその指差した先を見れば、〝関係者以外立ち入り禁止〟と書かれた扉があった。
「もともと、誠司くんたち従業員の休憩所なのよ。昔はママのお客さんが泥酔して帰れなくなった時に、そこに泊まらせたりしてたんだけどね。もう今はそういう人もいないし──」
「──ってか、絢ねぇがそうさせないように厳しくしたんだろ」
「だって、人に迷惑かける飲み方が嫌いなんだもん。みんなこの店が好きだから、〝出禁にする〟って言ったら一発だった。結果、みんな楽しく飲めてるんだからいいじゃない」
「まぁな」
「──って事で、休憩所兼私が泊まる部屋になったわけ」
和希の方を向いてそう説明すると、〝そうだったんですか…〟と小さく頷いた。
「けど、泊まるなら二階で寝ればいいのに絶対あそこだよな? うるさくないのか?」
「それがいいんだって。すぐ近くに人がいて、動いてる音とか声を聞きながら目が覚めるのがさ。静かなところがいいなら家に帰って寝るって」
「…まぁ、それもそうか」
「──ねぇ、それよりカキフライってもうないの?」
「は?」
「おかわりしたい」
そう言われて絢音の皿を見れば、すでに五個あったカキフライは全部なくなっていた。
「揚げればあるけどー…やめとけって」
「えー」
「あ…じゃぁ、僕のでよければ─…まだこっち側は手をつけてないので──」
「あー、いい」
言いかけた言葉を遮ったのは誠司だった。
「それはお前の分だ。絢ねぇにやらなくていい」
「でも──」
「じゃぁ、おかわり」
「ダメだ」
「なんでよ」
「胃もたれするだろ」
「くっ…痛いところを突いてきおって─…」
「フハッ! なんでいきなり時代劇になってんだよ。それに、今日は椿からケーキの差し入れがあったんだ。食いたいだろ?」
「食べたい! ──ってか、そういう理由なら早く言いなさいよ」
「言わなくても、自分で自制くらいしろよ。今までも食い過ぎて胃もたれした事あっただろ。しかも、年々油物に弱くなってるし」
「うっさいわ」
そんな二人のやり取りに、今度は和希が笑った。
「…すみません。でも、二人とも仲が良くていいな…って。本当の姉弟みたいですよ」
「まぁ、子供の時からだからな」
「そうねー。姉として教育もしたし」
「教育…?」
──と言ったところで、ドアの鐘が鳴った。
「いらっしゃ──って、コウちゃんまた来たの?」
反射的に〝いらっしゃいませ〟と言いかけたものの、入ってきたのが渡辺航介だと分かってママがそう付け加えた。
航介は普通の会社員で、新人の時に先輩に連れてきてもらってからの常連客だった。それも今では結婚して二年半、ついこの間、一児の父になったばかりだった。
「またって…そんな言い方しないでよ、ママ」
上着を脱ぎつつカウンターに座る航介。
「だってあんた…二ヶ月前に子供が産まれたばっかでしょ? こんなとこに入り浸ってる場合じゃないでしょうが」
「そんな入り浸ってるってほどじゃ──」
「週四日も来てりゃ、立派に入り浸ってるって言うのよ、それは。奥さんは赤ちゃん抱えて大変なんだから、まっすぐ家に帰りなさいな」
「えー…でも、オレがいない方がいいと思ってるよ、絶対」
「そんなわけないでしょ」
「だって家に帰っても奥さん機嫌が悪いんだよ。最近は夕飯もロクに作ってくれなくて買ってきた惣菜が多いし、家の中もなんかごちゃごちゃで、洗濯物も毎日畳んでタンスにしまってたのに、それもハンガーに掛けっぱなしだったりしてさ…。帰っても居心地がな─…」
「あのねぇ──」
「コウちゃん、赤ちゃんって母乳? ミルク? それとも混合?」
呆れるママの言葉を遮って、二人の会話を聞いていた絢音が明るい声で聞いた。
「あー…っと、確か混合」
(〝確か〟ねぇ…)
曖昧な言葉に絢音が内心イラっとした。──が敢えてそれは隠して続けた。
「じゃぁさ、今度奥さんと赤ちゃん連れてきてよ」
「えー、連れてくんの? ここ、オレの癒やしの場所なんだけどなぁー…」
「いいじゃない、たまにはさ。私たちも純真無垢な赤ちゃんの癒しが欲しいのよ。そもそもコウちゃんの赤ちゃん、まだ見てないんだよ?」
「んー…でも、春香が来るって言うか──」
「そこを何とか説得して連れてくるのが夫の役目でしょうが。──ね、一度でいいからお披露目してよ」
全くもってそんな役目はないのだが、彼の性格上敢えてそう言えば…。
「分かった。何とかするよ。──だから、今日はここにいていいだろ、ママ?」
──と了承する代わりに、ママに交換条件を出した。ママも分かったもので、
「しょうがないわね…」
──と許可を出すと、ようやくいつも航介が頼むお酒を作り始めた。そして〝やったぁ〟と喜ぶ航介を横目で見ながらボソリと呟いたのは誠司だった。
「アホなやつ…」
「え…?」
誠司の声が聞こえた和希が思わず聞き返した。
「絢ねぇの術中にハマったのも知らずにアホだなーと思ってさ」
「早瀬さんの…術中って…?」
反射的に絢音を見るが、当の本人はニッコリと笑っただけだった。再度、誠司に尋ねてみる。
「どういう事ですか…?」
誠司は航介の方をちらりと見たあと、カウンターの方に身を乗り出し声を潜めて言った。
「絢ねぇにお願いされて〝仕方なく受ける〟代わりに自分の要求を通したつもりなんだろうが、そもそもそこが絢ねぇの罠なんだ。自分の要求が通れば、絢ねぇのお願いは絶対だ。それができなければ、二度とここには来れないだろうからな。絢ねぇの目的は、奥さんと赤ちゃんをここに連れてくる事だけ。それが自分の〝制裁〟になるとも知らずに浮かれてんだから、アホとしか言いようがないって事だ」
「え、制裁…?」
誠司が〝そっ〟と頷いた。
(制裁─…)
奥さんと赤ちゃんを連れてくると、どうして制裁になるのか。全くもって意味が分からない…と思ったら、それが顔にも出たのだろう。誠司がフッと笑って言った。
「まぁ、その時が来たら分かるさ」
「そうそう、その時は川上くんも呼んであげるから。──ほら、楽しみは後に取っておいて、今は食べよ?」
「はぁ…」
既に〝楽しみ〟と表現したことも理解できなかったが、聞いたところで答えてくれないのも分かることで…。和希は楽しそうにお酒を飲んでいる航介をチラリと見た後、再びご飯を食べ始めたのだった。
そうしてまた、いつものような他愛もない話で時間が過ぎていった。椿から差し入れされたケーキを食べる時は、その場にいた常連客との〝本気ジャンケン争奪戦〟で盛り上がり、絢音はモンブラン、誠司はイチゴのショートケーキ、和希はフルーツタルトを獲得した。
そんな楽しい時間はあっという間に過ぎていく。誠司の仕事が終わる二十二時が、お開きのタイミングだ。その時間になると外は予報通りの雨で、和希は持ってきていた傘を広げて帰っていった。一方絢音はというと…。こちらもある意味予報通りで、そのまま店に泊まることを決めたのだった──