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6 絢音がいない日のAyame

 初めて絢音が和希を店に連れてきてから、十日が経とうとしていた。その間、和希がどれくらいの間隔で店に来ていたかというと──

 ズバリ、〝仕事のある日は毎日〟だった。──と言っても、毎朝〝今日は行く、行かない〟という話をするわけでも、帰りに絢音と待ち合わせをするわけでもない。もちろん、プライベートの時間を絢音と過ごせるという事が最大の魅力であり目的ではあるが、絢音が言っていた通り料理の美味しさだったり、店の居心地の良さや誠司との会話も楽しみの一つとして通いたくなったからだ。

 一時間ほどの残業を終えた和希が、今日もその楽しみを満喫しようと店にやってきた。扉には準備中の札がかかっているが、最近はその扉を開けるのにも少し慣れてきた。

「こんばんは」

「おー、お疲れー」

 誠司の返す言葉が、ここ数日で〝いらっしゃい〟から〝お疲れー〟に変わった事も、和希は嬉しかった。

 カウンターには、扉に一番近い席に女性が一人座っていた。〝カラン〟という音に釣られ、反射的に振り向く。女性は和希とも目が合い、その瞬間、〝わっ、イケメン〟という空気のような声を漏らした。細身で綺麗だが、どちらかというと可愛らしさのある女性だった。

 和希はすぐにカウンターの奥に目をやった。残業したためそこにいるものだと思っていたのだが、なぜか絢音の姿はなかった。朝も会えなかったため、今日のこの時間を楽しみにしていたのだが…。

(ひょっとして、仕事が休みだったとか…?)

 ──そう思いながら、いつもの椅子の背もたれに上着をかけていると、カウンター内の誠司から声が掛かった。

「いつものでいいのか?」

 〝いつもの〟とは、絢音と初めて一緒に食べたビールと枝豆と唐揚げの三品だ。

「…あ、はい。お願いします」

 和希はそう答えて椅子に座った。視線が自然と扉に向かうが、その扉に重なるようにさっきの女性がいるため、これまた自然と目が合ってしまった。先に反応したのは女性の方だった。小さな笑みと共に軽く会釈され、和希も反射的に会釈を返した。

(誰だろう…?)

 何の挨拶なのかが分からず、取り合えず扉の方を見るのをやめてメニュー表に目を落としていると、その女性が誠司に話しかける声が聞こえてきた。

「ねぇ、誠司にぃ。あそこのイケメン誰なの?」

(またイケメンって──…ん? ってか、〝誠司にぃ〟?)

 〝イケメン〟と言われる事に軽く抵抗があり〝またか…〟と思ったが、直前の〝誠司にぃ〟という言葉が遅れて脳内に引っ掛かってきた。

(もしかして、誠司さんの妹…!?)

 思わず顔を上げると、女性に耳を傾けている誠司と目が合った。誠司は〝あー…〟と何かを考えるように和希と女性を交互に見たあと、和希の方にやってきた。

「和希、ちょっといいか?」

「あ、はい」

「常連客の一人なんだけど、紹介していいか?」

 誠司は女性の方に向かって親指をクイっと動かした。

(常連客…? 妹さんじゃない…?)

 思っていた人物とは違ったが、断る理由もないため〝はい〟と頷いた。

 誠司は女性の方に向かって手招きした。女性はパッと顔を輝せて嬉しそうにやってきた。

「彼女は真野椿。学生の時からの常連客だ」

「初めまして、真野椿です。今、キャバ嬢やってます」

「キャバ─…」

 自分には縁のない世界の人で、思わず大きな声が出そうになって慌てて口を閉じた。思った通りの反応だと笑ってしまったのは誠司だ。

「まぁ、うん、裏切らないな」

「え、何がですか?」

 誠司は〝いや〟と首を振った。そして椿を見た。

「椿、彼は川上和希さん。絢ねぇの落とし物を拾ってくれた事がキッカケで、絢ねぇと仲良くなった人だ」

「絢姉さんと!?」

「絢姉さん…?」

 椿の顔がまたパッと輝くと同時に、和希も僅かな間があってからハッとしたように口を開いた。

「もしかして早瀬さんの妹さんですか!?」

 どちらでもいいと、その答えを求めるべく誠司と椿の顔を交互に見たが、二人とも〝ん?〟とお互いの顔を見合わせた。

「え、違うんですか? じゃぁ、やっぱり誠司さんの妹さん…?」

 〝常連客〟という言葉などすっかり忘れ、最初に思った方だったか…と確認する和希に、二人の顔は更に〝んんん?〟と傾いた。

「え…だって〝誠司にぃ〟って─…」

「あー! それでか!」

「え…?」

「あぁ、いや…何がどうなって〝オレの妹〟になったんだろうって思ってな。そうか、そういう事か。〝絢姉さん〟って言ったから、椿が絢ねぇの妹だと思ったわけだ?」

「そうですけど…どっちも違うんですか?」

「違う、違う」

(そういや、オレが〝絢ねぇ〟って言った事で、オレが弟と思ったくらいだもんなぁ)

 当然といえば当然だが、言葉通りに受け取るところが和希らしいと、誠司はフッと笑ってしまった。

「椿は一人っ子だ。それに、絢ねぇとは二十も離れてんだぞ。オレと絢ねぇが姉弟ならまだしも、椿と絢ねぇが姉妹って無理があるだろ」

「はぁ…」

「絢姉さんは私の大好きな先輩だから、尊敬と親しみを込めてそう呼んでるの」

「先輩─…」

 そう繰り返した途端、会社の先輩である田邊の言葉を思い出した。

 〝やっぱり、着物着たホステスのママさんとか──〟

「も、もしかして、早瀬さんと一緒に働いてたりとかって─…?」

 恐る恐るそう聞けば、〝まさか〟と椿が笑った。

「絢姉さんはもっとちゃんとした仕事してるよ〜」

「そ、そうですよね…」

 ホッとしたのも束の間、その言い方も失礼だとハッとした。

「あー、いや…キ、キャバ嬢の仕事がちゃんとしてないっていう意味で言ったんじゃ──」

「ふふ、分かってますよ〜。でもこの数分で和希くんの事、分かっちゃったかも」

「え、和希く─…」

「こら、椿。自分より年上の、しかも初対面で〝和希くん〟はやめろ」

「えー、でも〝和希さん〟より〝和希くん〟のほうが合ってるでしょ?」

「そもそも、何で下の名前なんだよ?」

「じゃぁ、〝川上くん〟」

「〝さん〟だろ」

「〝くん〟が合ってる」

「〝さん〟」

「〝くん〟」

「〝さ──〟」

「あー、あの、大丈夫です!」

 カウンター越しに誠司と椿の〝くん・さん合戦〟が始まり、和希が慌てて間に入った。

「あの、もう〝和希くん〟で大丈夫ですから」

 上の名前でも下の名前でも〝くん〟という呼び方を変える気はないようで、ならば、せめて絢音とは違う呼ばれ方の方がいいと思ったのだ。

「いやいや、年下だぞ?」

「でも〝くん付け〟は確定してるみたいなので…」

「ならせめて上の名前で──」

 ──と言いかけたところで、〝あぁ、そうか〟と和希が妥協した理由に気が付いた。

「あー…まぁ、お前がそれでいいならいいけど──」

「はい! じゃぁ、そういう事で─…和希くん、一緒に飲もう?」

 誠司からオーケーが出たところで、椿はさっきまで自分が座っていた席に戻りグラスやお皿などを持ってきた。

「あ、いやでも早瀬さんが──」

「絢姉さん…?」

 椿が繰り返した直後、誠司が〝あぁ、そうだ〟と何かを思い出した。

「今日は、絢ねぇ来ないぞ」

「え…」

「何だ、絢ねぇがいないなら来なきゃ良かったとか思ったか?」

「あー…いや、そうじゃないですけど──」

「絢ねぇに会いたかったなーって?」

「はい、朝も会えなかったので……って、あぁ、いやそれだけじゃなくて、誠司さんの料理も店の居心地の良さも好きで──」

「あぁ、いい。分かってる、分かってる」

 誠司が手を振った。

(相変わらず素直だよなぁ…)

 そういう部分を目にするたびに誠司の心はほのぼのとし、和希を応援したくなる。きっと、椿が頑なに〝さん〟ではなく〝くん〟が合うと言ったのも、既にそういう部分を見抜いたのだろう。

「まぁ、そういう事だから─…今日は椿と一緒に飲んでいったらどうだ?」

「はぁ…」

「キャバ嬢と飲める機会なんて滅多にないぞ? ──って言っても、今日は仕事じゃないけどな」

「そうそう。普段は夕方の五時から五時半くらいまでしかいないから、滅多に会わないしね」

「あと、あれだ」

 誠司が言いながら注いだばかりのビールを出した。

「絢ねぇの情報が得られるメリットもある」

「え、早瀬さんの…!?」

 いまいち乗り気でなかった〝はぁ〟からの、この反応。本当に自分より年上かと疑問に思うほどの素直さに、椿は新鮮さとワクワクが止まらなかった。

「それで、和希くんは絢姉さんとはいつから?」

 言いながら、自然とカウンターの端の席──ちょうど和希と膝を九十度に付き合わせる席──に座った椿。和希もそれにつられるようにして腰を下ろした。

「あー…話すようになってからは一ヶ月くらいですね」

「じゃぁ、まだ絢姉さんの事は全然なんだ…」

 冷静に会話を続けるが、心の中は推測と興味が入り乱れている。

(一ヶ月でこれって…もしかして一目惚れ!? あー、聞きたい…!)

 聞きたいけどまだダメ…と、椿は必死に自分に言い聞かせた。

「椿さんは?」

「ん?」

「早瀬さんとは、どれくらいの付き合いなんですか?」

「あ〜…っと、その前にタメ口で話さない?」

「タメ口…」

「おぃおぃ、それ言っていいのは和希の方だからな」

 〝年下のお前から言うな〟と、誠司がカウンター内から顔も見せずにツッコんだ。

「こういう時は〝どっちから〟とか、いちいち細かいこと気にしないの。〝頭固い〟って言われるよ、誠司にぃ?」

「ほっとけ」

「でも実際、タメ口の方が距離も近くなるから色々と話しやすくなるでしょ? そしたら和希くんも色々と聞けていいと思うんだけどなぁ」

 〝そう思わない?〟と和希に視線を向けた。

「それは─…確かに、そうですね」

「でしょ〜」

「分かりまし──…あ、いや…分かった。僕もタメ口で話す…よ」

 元々、和希は年下でも〝です・ます〟口調で話すのが普通だった。もちろん相手が子供や友達ならタメ口だが、急に、それも初めて会った人にタメ口をきくのは慣れていない。そのため言葉がどうもぎこちなくなってしまったのだが、椿にとってはこれまた新鮮で楽しさが増したのだった。

「じゃぁ、とりあえず乾杯しよ? 二人の出会いに」

「二人の─…」

(え、なにこれって仕事バージョン…?)

 素なのか仕事なのか分からず戸惑う和希だが、ここで躓いていたら先に進めない気がして、すぐにビールのグラスを持った。

「じゃ、カンパーイ!」

「カ、カンパーイ…」

 隣同士でグラスを傾け、椿がレモン酎ハイ、和希がビールをそれぞれ一口飲んだあと、椿がさっきの質問に答えた。

「絢姉さんとは四年くらいになるかな」

「四年…」

「私も絢姉さんも、ここに通ってたのはそれよりずっと前からなんだけどね。それまで接点がなかったの」

「じゃぁ、何がキッカケで接点が?」

「私が〝大学辞めてキャバ嬢になる!〟って宣言してから、かな」

「え? 大学!?」

 絢音とキャバ嬢の接点が気になったものの、まさか大学に行っていた事実が明かされるとは。驚いて思わず声が大きくなったが、それ以上に理解が追いつかない事があった。

「大学辞めてキャバ嬢に…?」

「そう。キャバ嬢が大学行ってたとか意外でしょ? お客さんからもよく言われるのよね」

「だよね…って、いやそうじゃなくて─…大学辞めてキャバ嬢って…え、どういう事?」

 同じ質問しかできない上に、それすらも理解ができない。

「だから、キャバ嬢になるために大学を辞めるって言ったの」

「いやいや、言い換えても同じだよね…ってか、むしろ〝なるため〟の方がもっと理解できないんだけど──」

「え〜、そう? 私的には真っ当な理由なんだけどなぁ」

「真っ当─…」

 〝二人の出会いに〟は何とかスルーできたが、理解できない事には思考能力にブレーキが掛かる。

「せ、誠──」

「安心しろ。お前が正しい」

 和希が誠司に助けを求めようとしたところで、タイミングよく枝豆と熱々の唐揚げを出しに来た。そして続ける。

「それが普通の反応だ。オレたちだって最初は〝はぁ!?〟だったからな」

「オレたち…?」

「オレや親父や他の常連客だ。みんな〝はぁ!?〟って言ったまんま次の言葉が出てこなかった」

「じゃぁ、早瀬さんも…?」

「いや。その時は、まだ絢ねぇは関わっていなかった。二人とも常連だったけど、来る時間帯が別々だったからな。たまに夕方に重なる時があったくらいだ」

「それがいつ早瀬さんと関わる事になったんですか?」

「あー…そういや、オレも知らないな。気が付いたら〝絢姉さん〟って呼ぶようになってたよな、椿?」

「まぁね〜。あの時、唯一反対しなかったの絢姉さんだけだったから」

「あの時?」

 和希が〝知ってます?〟と視線で誠司に聞けば、誠司は一瞬考えたあと椿に確かめた。

「つまり、オレらが反対してた時…って事か?」

「そう。あのあとみんな一斉に説得し始めたでしょ? せっかく大学に入ったのにもったいないとか、大学を辞めてまで目指すものじゃないとか─…」

「そりゃそうだろ。毎日勉強して大学に入ったの知ってるし、辞める理由がキャバ嬢になるからって、〝おいおい、待て待て〟ってなるだろ」

「ですよね。僕も今その気持ちです」

「だろ? けどまぁ、親父から椿の本音を聞かされてからは、それ以上言わなかったけどな」

「椿さんの本音…?」

 繰り返した言葉に椿が小さく微笑むと、お酒をひとくち口に含みグラスの縁を軽く指でなでた。

「実はさ…ママに本音を言ったのも、絢姉さんに言われたからなんだよね〜」

「は? 絢ねぇが…?」

「誠司にぃたちが反対してる時、しばらく店に行かなかった時があったでしょ?」

 言われて記憶を辿るように顔を上げると、ややあって〝あー、そういえば〟と顔を戻した。

「あったな。それまで毎日のように来てたのにパッタリ来なくなって、みんな心配してた時が」

「そう、その時にね──」

 椿はその時の事を思い出すように話し始めた──



 それは四年前の、平年通りで行けば、あと二十日前後で梅雨が明けるという七月の始め──

 誠司や他の常連客たちから毎日のように説得されていた椿は、正直かなりウンザリしていた。顔を見れば説得が始まるため、ここ半月ほど店にも行っていない。更に言えば、大学もニ週間休んでいる。他の人には〝たった〟かもしれないが、それまで病気以外で休む事がなかった椿にとって、二週間は〝長期〟であり〝初〟だった。それもインフルエンザの時の一週間が最長だったのだ。最初こそ病気でもなく休む事に罪悪感があったが、一週間を過ぎるとどこか吹っ切れてしまった。

 今日は電車で三十分ほどの風見駅で降りて、その周辺を見て歩いていた。ここは花弥木町のようなアーケード商店街はなかったが、それなりに人が行き交って心地よい賑やかさがある。一転空を見上げれば、まるで自分の心の中を見ているようなほどの曇天模様だ。雲は今にも雨が降りそうな色で、椿は近くのショッピングモールに入った。

 正面入り口から入ると、そこは天井部分が吹き抜けになっていて、一階部分は様々なイベントができるような広い空間が広がっていた。ちょうど今の時期は大きい笹が二本飾られていて、訪れる人が短冊に願い事を書いて飾っている。

(短冊か…。書いてどうなるってものでもないしなぁ…)

 色とりどりの短冊と人の願いを、なんとはなしに見ながらそう思っていると──

「願い事、書いてみたら?」

 不意に隣から声が聞こえた。自分に言ったのかどうか分からず、反射的に振り向いた椿。そこにいたのは、どこか見覚えのある女性だった。こちらを見てニッコリと微笑むその女性が、再び椿に言った。

「書くのはタダだよー」

「タダって─…でも、叶うかどうかは別問題です」

「それは言えてる。私の願いも全然叶わないしなー」

「…何を願ったんですか?」

 椿の質問に、女性は〝これ〟と飾る前の短冊を目の前に出した。そこに書かれていたのは、

 〝世界平和 絢音〟

 ──だった。

「世界平─…それはさすがに──」

「そうなんだよねー。もう何年も同じこと書いてるけど何も変わらない。だから、いつか必ず叶う願い事も書いて一緒に飾ってるんだよね」

「いつか必ず叶う…?」

「そう。いつか必ず。唯一〝絶対〟って言える事、かな」

「何ですか、それ…?」

 気になって聞けば、絢音は〝内緒〟と一言だけ言って小さく笑った。

「でもさ、心の中にあるものを言葉や文字に出すって結構大事よ? 言葉にすれば自分の耳からも入ってくるし、文字に書き出せば目からも入ってくる。改めてその願いを再認識すると、〝絶対に叶えたい〟とか〝叶えてみせる〟って思えたりするんだよね」

「世界平和を…?」

「うん、まぁそれは建前みたいなもんだけど」

「建前…」

「だから、椿ちゃんも書いてみたら? 〝キャバ嬢になる!〟って」

「………!?」

 何で自分の名前を知ってるのかと思いきや、直後の言葉に驚いた。──と同時に、その言葉から連想するように誠司や常連客の顔が浮かび、更にカウンター席にいた女性の姿も思い出してハッとした。

「もしかして、誠司にぃのところにいたお姉さん…!?」

「ピンポーン。ごめんね、急に話しかけて。でも見たことあるなー…って思ったら、誠司くんが心配してた〝椿ちゃん〟って思い出してさ。──あ、私は早瀬絢音。椿ちゃんと同じ、常連客の一人です」

 そう言って絢音が軽く頭を下げた。誠司と繋がっているなら、この人も自分を説得しようとするのだろうと、早々に立ち去ろうとしていた椿だったが…。

「あー…私は真野椿です」

 真面目な性格故に、椿もまた軽く頭を下げていた。

「お姉さんも──」

「あー、名前でいいよ。私も〝椿ちゃん〟って呼ぶから」

「じゃぁ…絢音、さん?」

 絢音は〝うん〟と頷いた。

「絢音さんも、私を説得しようと…?」

「まさか」

「え…?」

 意外な、それも即答した一言に驚いた。

「説得するつもりなら、願い事に〝キャバ嬢になる!〟って書いたら、なんて言わないって」

 言われて確かに…と椿は思った。

「じゃぁ、逆に応援─…とか?」

 そうであったらいいのにと思う反面、流石にそれはないだろうと思いながらも聞いてみれば、案の定、〝うーん…〟と唸ってしまった。

「応援はしないかなー」

「…ですよね」

「でも、自己判断の手助けはできるかな」

「自己判断の手助け…?」

 言っている意味がよく分からないと、椿は眉を寄せた。絢音はそれに答えず話を進めた。

「しばらくお店に来てないんだって?」

「あー…はい、まぁ…」

「誠司くんも他の常連さんも、みんな心配してたよー?」

「でも、行ってもいつも同じ事言われるから…」

「だよね。そりゃ行きたくなくなっちゃうか…」

 椿は頷いた。

「分かってるんです。誠司にぃの言う事も、他の常連さんが言う事も…。せっかく入った大学を辞めるなんてもったいないとか、辞めてまでするものじゃないとか─」

「人を見る目を養うのは、卒業してから色々と経験すればいい…とか?」

「聞こえてたんですね…」

「まぁねー」

 軽い返事に、椿が小さく笑った。

「みんなの言ってる事が正しいって分かってるから、私の言う事はみんなには届かない。その〝正しさ〟を覆せるほどのものじゃないから、みんなに納得してもらえないんです。だんだんと返す言葉もなくなってくるし、言われっぱなしっていうのが苦しいっていうか…」

「…そっか。でも〝正しい事〟が必ずしも〝正解〟とは限らないけどね」

「え…?」

「政治なんかはさ、正しい事だけで国が成り立つならそれに越したことはないけど、実際は本音と建前があって、水面下で大金を払う交渉だってあると思うのよね。ま、あくまでも推測だけど。でも結果として国にとって良い方向に向かえば、その方法が正しくなくても正解だったと言える」

「…確かに」

「それに、理科の実験で答えが分かる人と、頭の中の知識を組み合わせて答えが分かる人といるじゃない? 数学でも、答えはひとつだけど、答えを導き出す方法は複数あったりしてさ。その方法はどれかが正解で、どれかが間違ってるわけじゃないでしょ?」

「そうですね。でもだから…?」

「だから、椿ちゃんにとって導き出す答えが〝人を見る目を養う〟って事なら、そこに辿り着く方法はひとつしかないわけじゃない。誠司くんたちが言ってる方法は誠司くんたちにとっての方法で、椿ちゃんにとっての方法は椿ちゃんが選べばいいってことよ。それで人を見る目を養えれば、椿ちゃんの方法も正しかったって事になる。ただし、自分が選んだのなら、それが〝正しかった〟って言えるようにしないとね」

「正しかったって言えるように…?」

「そう。みんな何かを選ぶ時って、絶対に〝正解を選びたい〟って思うでしょ? でもさ、そもそも〝正解〟ってどうなる事だと思う?」

「どうなるって…その選択が間違っていない…失敗しない…問題が起きない…物事がうまくいく…順風満帆─…」

 椿が連想ゲームのように言葉を足していくと、絢音がひとつの結論を口にした。

「そんなに〝正解〟を選びたいなら、人生経験を積んだ親の言う通りに進めばいい」

「え…?」

「そうすれば、躓くような石もない綺麗に舗装された道があるし、川には渡れる橋もかかってる。極力トラブルもなく最短距離で目標地点に辿り着ける。──でしょ?」

「そうですね…」

「でもね…残念ながらそういう人は、自分で選択する勇気も自信も得られないんだよね。逆に、その〝正解〟を選ばなかったら道はガタガタだし、石も岩もある。川に橋なんか掛かってないから自分で作るか、渡る方法を考えなきゃいけない。回り道をして大幅に時間をロスしたり、壁にぶつかって挫折する事もあるかも。それでも自分で選択する勇気や自信は得られるし、最後には〝この選択で良かった〟って思える人生なら、それはその人にとって〝正解〟だと思うんだよね」

「つまり─…自分で選ぶ道を、そういう人生にしていけばいいって事…?」

 自分の中で咀嚼し理解した言葉が椿の口から出てきて、絢音は大きく頷いた。

「それにさ、納得してもらう必要があるのは、お金を払って大学に行かせてくれてる両親だけで、誠司くんたちには必要ないんじゃない?」

「でも…みんな私の事を心配して──」

「あー、いいの、いいの」

 絢音は〝どうでもいい〟というように手を左右に振った。

「そんなの勝手に心配させときなさい。子供が本気で選んだ事なら、親でも心配する事しかできないんだから。あとはもう、〝椿ちゃんは大丈夫だ〟って思ってもらえるような姿を見せていけばそれでいいの。──あ、でも私は別に応援してるわけじゃないからね。これはあくまでも椿ちゃんの自己判断だから、そこんとこよろしく」

 あまりにも軽い最後の言葉に、椿は思わず笑ってしまった。

 確かに、応援していると言われたわけでも、キャバ嬢になる事を勧められたわけでもない。あくまでも自己判断するための考え方や、判断材料、必要な覚悟を与えられただけだ。それなのに、こんなにも背中を押されたような気持ちになるなんて─…と、椿は嬉しくて背筋がピンと伸びた気がした。

「それとあともうひとつなんだけど─…」

「………?」

「〝人を見る目を養いたい〟っていう、本当の理由をお店のママに話してみたら?」

「え…?」

 突然、核心をつかれた言葉に椿の表情が固くなった。絢音は更に続けた。

「あるんでしょ、本当の理由が?」

「どうしてそう思うんですか…?」

「髪も染めない、化粧もしない、校則もちゃんと守る。真面目に勉強して大学に入った椿ちゃんが、ある日突然、その大学を辞めてまで〝人を見る目を養いたい〟なんて、何かなきゃそう思わないでしょ」

「…………」

「それに…何かあったからって、この選択がヤケクソになった結果だとは思えない。頭の良い椿ちゃんのことだから、もっと先の事を考えたんじゃないかなーって。まぁ、これは私の推測だけどね」

 そう言いつつも絢音の顔は自信に満ちていて、椿は降参だとばかりに小さく息を吐いたのだった──



「それから短冊に〝絶対にキャバ嬢になる!〟って書いて、その日のうちにママに話したの。〝絢姉さん〟って呼ぶようになったのもそのあとからよ」

 一通り話したあと、椿は喉を潤すようにお酒をゆっくりと一口飲んだ。

「結果、親父に話して正解だったってことか」

「〝ママは愛情深いから、きっと椿ちゃんの味方になってくれるはず〟って、絢姉さんが」

「そりゃ、男に騙されたって聞けばな…」

「でも、それだけじゃないのよ、ママが味方になってくれたのは」

「どういう事だ?」

「私が本気で〝変わりたい〟って言ったからなの」

「変わりたい?」

 今度は和希が聞いた。

「実はさ…友達はとっくに見抜いてたの、あの男が私を騙してるって。でも私自身が〝信じられる〟って思った人だったから、友達の言う事を信じなかったのよね。結局、騙されたって分かった時に〝あぁ、私はみんなが分かるようなことすら分からない人間だったんだ〟って気が付いた。そしたら急に怖くなったの、これから何を根拠に信じたらいいんだろうって。このままだと、一生自分で決められなくなる。何かを決めようとするたびに、誰かが〝いい〟って言ってくれないと不安で前に進めなくなるんじゃないかって。そう思ったら、それは絶対にダメだって思った。だから変わろうと思ったの、大学を卒業してからじゃなく、今すぐに─…って」

「それで何でキャバ嬢なんだって話だけどな?」

「だって、その時の私と正反対でしょ、キャバ嬢って」

「だから、尚更みんな反対したんだ」

「でも私にとってはそれが重要だったの、変わるために。絢姉さんの話を聞いて、ハッキリと分かった。自分が選択する時に、自分自身を信じられる人間になりたいって。その為には、今までとは全く違う環境に飛び込まなきゃって。いわゆる、試練みたいなものね」

「試練ねぇ…」

「でも、今はこれで良かったって思ってるよ〜。毎日楽しいし、色んな人と接して、大学では学べない知識も得られてる。それに何より、今の自分が好きだしね」

 強がりでも何でもなく、本当にそう思っているのは顔を見れば分かることで。誠司はそんな椿を見て、フッと笑った。

「そうだな。実際、今の椿は生き生きとしてるし、意外にもその道が合ってたのかもな」

「でしょー。将来は自分のお店持っちゃうかもよ〜」

「それはそれで大成功な人生だ」

 誠司の言葉に椿は嬉しそうに笑った。

「あ、そうだ。和希くん、これ見て」

 椿が左手の甲を顔の近くまで上げて、和希に見せた。それはまるで、芸能人の結婚会見で指輪を見せるような仕草だった。だから一瞬、指輪かと思ったのだが──

「可愛いでしょ? ペンタスっていう花なの」

 〝花〟と言われ、ようやく見て欲しいものが〝それ〟だと分かった。指先には、薄いピンク色で、少し変わった紫陽花のような花が描かれていた。

「ネイル?」

「そう。実はこれ、絢姉さんのアイデアなの」

「早瀬さんの?」

「大学を辞める前に〝今までと違う事がしたい〟って言ったら、〝ネイルをしてみれば?〟って言われたの。〝デザインは花で毎月変えるのがいい〟って」

「花…限定?」

「ついでに花言葉も覚えれば話のネタにもなるし、見た人にも季節を感じてもらえて一石何鳥にもなるからだって。あ、ちなみにこの花の花言葉は〝願い事〟ね」

「なるほど…」

「ま、一番の理由は〝面倒くさい〟だけどな」

 〝何鳥っていくつだろう…〟と考えそうになったところで、誠司の声が飛んできて、その思考が途切れた。

「面倒くさいって─…何がですか?」

「デザインよ」

 今度は椿が答えた。

「〝こういうのにして欲しい〟ってネイリストさんに注文するでしょう? その注文を考えるのが面倒だから、花に統一したらって事なの。花なら種類もたくさんあるし、月ごとに分ければ、そこから選ぶだけだしね」

「そういう事か…」

「〝超〟がつくほど面倒くさがり屋なんだ、絢ねぇは」

「そうなんですか? 全然、そんな風に見えないですけど─…」

「いやいや…もう、着る服だって考えるのが面倒だからって、大体いつも決まってるし、学生時代なんか〝制服って最高!〟って言って着てたからな」

「メイクもしないしジュエリーも身に付けない─…私からしたらすごくもったいないんだけどなぁ」

「もったいない?」

「椿は絢ねぇを着飾りたいんだよ」

「どうして…?」

「だって、絢姉さんベースがいいじゃない? 一度でいいからトータルコーディネートしたいのよ。でもメイクはさせてくれないし、服だって動きにくいのは嫌だって言うし─…あ、髪は何とか触らせてくれるけどね。今なら、絶対みんなが振り返るくらい変身させる自信があるわ、私」

「いや、それは困る…」

 自信満々に言った椿の傍で、和希がボソリと呟いた。

「ん? 何か言った?」

「あ、いやー…えっと、髪はどうして触らせてもらえるんだろうな…って」

「触られるのが好きなんだって」

「好き?」

「あ、でもあれよ? 撫でられるとか頭をポンポンってされるとかそういうのじゃなくて、適度に髪を引っ張られたりキュッて縛ったり…そういう感じ? だから美容院も好きなんだって」

「頭皮マッサージみたいで癒されるんじゃないか? …って言っても、美容院も年二回くらいしか行かないけど」

「へぇ…」

「絢姉さん、よく言ってるもんね。〝この世の便利なものは面倒くさがり屋のアイデアと、人の為に何とかしてあげたいって思う人の技術でできている〟って」

「あー、言ってる、言ってる。面倒くさがり屋だからこそ、〝こうだったらいいのに〟っていうアイデアが出るってな。しかも、〝出すだけ〟っていうのがリアルで笑った」

「そうそう。あと、面倒くさがり屋だから二度手間とか嫌がるしね。〝同じ事を二回繰り返すのバカみたい〟って言ってるし。あ、そう言えば料理でもそんなこと言ってなかった?」

「あー、カツ丼な」

「そう、カツ丼!」

「カツ丼…?」

「カツ丼って、一度トンカツを作るだろ? それだけで一品として成立するのに、更にそこから煮込む過程が必要で、二工程した上に出来上がるのが一品っていうのが許せないらしい。作ってもらう分にはいいけど、自分では作りたくないってさ」

「二工程で一品…確かに、言われてみれば─…」

「忘れ物して取りに帰るのも嫌なのよね。だから、忘れ物だけはしないようにってすっごく気を使ってる」

「忘れ物─…」

 繰り返して、和希は少し前の事を思い出した。

「じゃぁ、あれってすごく珍しかったんだ…」

「あれって? 忘れ物したの、絢姉さん?」

「あぁ、うん。少し前に朝の電車で…。一緒に乗ったんだけど、すぐに降りて─…〝忘れ物したから取りに行ってくる〟って」

(忘れ物…か)

 珍しいとは思うが、おそらくそれは嘘だろうと誠司は思った。

「それすっごいレアな絢姉さん見れたかも」

「本当に? なんかそれはちょっと嬉しいかも」

(え、それでちょっとなの?)

 それ以上のものが溢れてるような表情に、椿は胸がムズムズしてきた。

「絢姉さんの事、もっと知りたい?」

「あぁ、うん、知りたい」

(うそ、何この真っ直ぐさ…。本当に年上…!? 可愛いんだけど!?)

 この瞬間、椿は礼香同様、和希が〝推し〟になったのだった。

「絢姉さん、ああ見えて、すごく涙もろいのよ」

「あれは涙もろいっていうか、歳で涙腺が壊れてるだけだ」

「もう、そういうこと言わないの、誠司にぃ」

「けど、年々酷くなってるぞ? お前も覚えてるだろ、正月に見た映画のDVD」

「あー、あれね。すっごい感動作だったやつ」

「感動作なら泣いて当然なんじゃないんですか?」

「ずっと見てたんならな」

「………?」

「元々、映画を見てたのはオレと親父と椿の三人。途中から絢ねぇが来たんだけど、ちょうどその時に、主人公の父親が回想シーンで出てくるところだったんだ。主人公が泣きながらその時の事を語ってたら、真っ先にティッシュ取ったの絢ねぇだぞ?」

「え…?」

「それだよ。まさにその時のオレたちと同じリアクション」

 和希の反応に誠司が笑えば、

「そうそう。私、絢姉さん知ってるんだ、この映画…って思ったのよ? でも聞いたら〝見てない〟って返ってきたから、また〝え…?〟って言っちゃった」

 そう言って椿も笑った。

「だから〝なんでストーリーも知らないのに、このワンシーンだけ見て真っ先に泣くんだよ〟ってツッコンだもんな、オレ」

「そしたら絢姉さん、ひとことこう言ったのよ、〝想像力〟って」

「想像力…!?」

「ビックリだろ? ストーリーを省略できる想像力ってどんだけだよって─…いや、ほんとあれには参った。答えが予想外過ぎて、三人で大爆笑したもんな」

「結局、その後の映画はまともに見れなくなって、全然感動できなかったのよね~」

「いやほんと、折角の感動作品だったのになー」

 〝台無しだった〟と言いながらもとても楽しそうで、和希は少し羨ましく思った。

「──あ、けどもっとヤバイこと思い出したぞ」

「え、なになに?」

 椿が身を乗り出した。

「CMだ。この前CM見て泣いてたんだ、絢ねぇ」

「え、ウソ!?」

「テレビの、ですか?」

「あぁ。なんか最近ドラマ仕立てのCMが増えてきただろ? 父親と反抗期を迎えた娘の話だったかで、最後に父親の愛情を知らされる─…みたいなやつがあったんだ。それのロングバージョンが一回だけ放送される、って何かで話題になってた。たまたまそれを見たんだよ、奥の休憩室で」

 誠司は親指で、店の奥にある休憩室をクイっと指差した。

「あの時はマジでビビった。扉開けたら泣いてんだぞ? 〝何だ、どうした!?〟って聞いたら、ひとこと〝CM〟って─…。もう、〝は!?〟って言ったまんま、しばらく思考回路が止まったわ」

「それは止まる!」

「だろ?」

「でもさぁ、絢姉さんって時々そういう〝え?〟って思うような事言わない? 想像の上をいくっていうか、斜め上をいくっていうか──」

「あー、〝そうくるか〟ってやつな。普通はそんな事考えないだろって事をポロッと言うから、こっちも一瞬〝は?〟ってなる」

「あ、それは分かります、僕も!」

 ようやく話の中に入れそうな話題で、思わず手を上げそうになった。

「お! 和希も何か言われたか」

「言われたというか─…朝の会話の中で色々と聞きました。長距離走や登山は折り返し地点があるから嫌だとか、親から〝後ろの目をもらってない〟とか、どうして議員を〝先生〟って呼ぶのかとか──」

「あー、言ってんなぁ」

「言ってる、言ってる〜」

「けど、そんな話されても困るだろ? いいんだぞ、つまらないなら〝つまらない〟って言っても──」

「いえ全然。むしろ、すごく楽しいですよ?」

 〝まさか〟という声まで聞こえてきそうな言葉に、誠司と椿が〝意外〟というように驚いた。

「絢ねぇの話が…?」

「…楽しいの?」

 逆に和希にとってはそれが意外で、少し目を丸くして頷いた。

「自分とは違う視点というか、〝あぁ、そんな見方もあるんだ〟って新しい発見ができて─…だから、早瀬さんとの会話は面白くて楽しいでんす」

「ほぉ〜」

「そーなんだぁ…」

 これまた意外だったが、今度のそれは嬉しい思いが大半だった。

「え…なんなんですか、その反応…?」

「いや? ちょっと確信しただけだ。お前もこっち側だったか、って」

「こっち側…?」

「そう、こっち側」

 椿が自分と誠司を交互に指差した。

「…………?」

「オレらも楽しいと思ってんだよ、絢ねぇの話が」

「あぁ、そういう事ですか! だったらすごく嬉しいです」

「──だろうな」

 たとえ口にしなくてもその表情だけで伝わってくるな…と、誠司は小さく笑った。

「あ、ねぇ。じゃぁさ、美容師の話は聞いた?」

「美容師? いや、聞いてないけど─…」

「私、お気に入りの美容師さんがいるのね。髪のセットはもちろん、カットもすごく上手な人。その人、美容師になってから練習を欠かさないみたいで、今でも仕事が終わってからカットの技術を磨いたり、ヘアアレンジとか考えてるんだって」

「へぇー、すごい…」

「でしょ? その技術の高さはクラブのママさんも贔屓にするくらいで、その人にやってもらったあとは、なんかもうみんな幸せな気分になるのよね。ある時、それを絢姉さんに言ったらさ、なんて返ってきたと思う?」

「え…?」

 椿のお気に入りの美容師とどう関係があるのかと思っていたら、まさかの〝絢姉さんがなんて言ったでしょう〟とは…。予想外の質問に戸惑っていると、椿が〝時間切れ〟とばかりにニッコリ笑って言った。

「〝美容師さんって可哀想だよねー〟って」

「え…可哀想? どうして?」

「ねー、そう思うでしょう? 私もそう言ったの。そしたらね、〝自分の磨いた技術を自分に使えないんだよ?〟だって」

「あぁ!」

 言っている意味が分かり和希が人差し指を立てれば、

「そうなのよ!」

 椿もまた人差し指を立てた。

「お客さんにとっては幸せな事なんだけどねぇ…。どんなに技術を磨いても、自分の髪をカットするのにその技術が使えないって何だかなぁ…って感じでしょ? 〝自分がもう一人いればいいのに…って絶対思ってると思う〟って言われて、確かに…って思っちゃった」

「なるほど…。あ、それでいうなら医者もそうだ。神の手って言われるくらい手術が上手くても、自分では手術できない」

「そう。美容外科医とか歯科医師もね。なんかそれを言われたら、感謝しかないなぁ〜って」

「確かに…」

「オレは競馬の事を言われたぞ」

 誠司がカウンターに片手を付いて言った。

「競馬? 絢姉さんって、競馬するの?」

「──じゃなくて。競馬のニュースを見てポロッと言ったんだ。〝ここにいる人って、どれだけの人が純粋に馬が好きなんだろう〟って。──考えたことあるか、そんな事?」

「…ないですね」

「…だろ? 純粋に馬が好きで見にくるというより、勝つか負けるかでしか馬を見てないんだろうな…って思ったら、目をキラキラさせた客の顔を見ても、どんなにカッコいいCMを作っても純粋に〝良い!〟って思えないってさ」

「んんー…確かに」

「そんな風に考えた事なかったわ…」

「あと、犬猫の話もあったな」

「あ、それは聞いたことある! 〝筋肉痛〟じゃない?」

「おー、それ」

「筋肉痛…って?」

 和希が聞いた。

「〝犬や猫に筋肉痛はあるのか〟って話よ」

「犬や猫に─…いや、それはないんじゃないかな」

「どうしてそう思うの?」

「いやだって、犬や猫が筋肉痛でまともに歩けなくなったのって見た事ないし──」

「確かにね〜。でも、筋肉痛になる仕組みって人間と同じじゃない? 絢姉さんが言うには、〝初めてドッグランに行って走り回ったら筋肉痛になってもおかしくない〟って」

「あー…それは…確かに─…」

「猫だって何かから必死に逃げてたら凄く筋肉使うし─…とか考えたら、何かもう分からなくなっちゃって…。結局、絢姉さんと二人で〝考えるのやめよう〟ってなったわ」

 椿はその時の事を思い出して笑った。──が直後、〝あれ?〟と疑問符が浮かんだ。

「その時、誠司にぃっていなかったよね? どうして知ってるの?」

「絢ねぇだぞ? 考えるのやめたって言っても、気になって眠れなかったんだろ。オレにも聞いてきたんだよ。まぁ、その時は主に〝調べろ〟って事だったけどな」

「へぇ〜。調べたんだ、誠司にぃが…」

「しょうがねーだろ、絢ねぇだぞ?」

 繰り返したその言葉の意味は──

「面倒くさがり屋だもんね〜」

 ──だった。

「それで? 調べた結果どうだったの?」

「結論から言うと、〝筋肉痛になる〟だ。ただし、猫は筋肉の質が人間と違うのと、もともと体力があまりないから本能的に筋肉痛にならないようにしてるとか何とか書いてあったな」

「へぇ〜、そうなんだ」

「意外でした…」

 思っていたのと違う結果に、けれど新しい情報に驚いた二人を見て、誠司は思わず笑ってしまった。

「何がおかしいのよ、誠司にぃ?」

「んー? いや、それが普通の反応だよなと思ってさ」

「普通─…って、逆にそうじゃない反応ってなに?」

「絢ねぇに決まってんだろ」

「絢姉さん、違ったの?」

「あぁ。めちゃくちゃ大きな溜息ついて、〝なんだ、つまんない〟だってよ」

「え、どうしてよ!?」

「筋肉痛になる仕組みは同じだけど、筋肉痛にならないっていう、謎めいた結果が欲しかったらしい」

「「えー…」」

 意外過ぎた絢音の希望に、和希と椿がそう言ったのはほぼ同時で…しかも、二人ともすぐには次の言葉が出てこなかった。ややあって、見計らったようにお互いの視線が合うと、これまたほぼ同時に吹き出していた。

「やだもう! 絢姉さん、ヤバすぎ…!」

「まさかここで予想を軽く超えてくるとは─…ほんと面白すぎです!」

 誠司を含めた三人が大笑いすると、その後も絢音の話で盛り上がったのだった──



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