5 喫茶&バー Ayameへの招待 <2>
待ち合わせ当日の朝、和希はいつもの時間に来なかった。絢音がその時間の電車に乗る時は必ず和希がいたため、初めて〝どうしたんだろう〟と心配になった。──と同時に、何も知らせず自分が別の時間帯の電車に乗っていた時の和希も、同じように心配したのだろうか…とふと思ったりもした。もちろん今では絢音の勤務時間が不規則だと知っているため、そんな心配はしないだろうが。
一人で電車を待っている間、絢音は和希の来ない理由を考えていた。会社が休みなのか、単なる遅刻なのか、それとも体調を崩してしまったのか─…。仕事によっては他の理由もあるだろうが、そうであって欲しくないと思う理由は体調不良だ。絢音は〝そうでなければいいけど…〟と思いながら、予定時刻に到着した電車に乗り込んだ。そしてドアが閉まり走り出した時だった。人の隙間から見える窓越しに、階段を走って上ってきた和希の姿を目にした。
(単なる遅刻か…)
絢音は少しホッとした。そして携帯を取り出すと、メッセージアプリで〝お先にー〟と送った。すぐに返ってきたのは、悔しそうに泣いているスタンプだった。それがなんだか和希らしくて、絢音は小さくクスッと笑った。そして再びメッセージを送る。
【じゃ、仕事が終わったら南口で】
【はい。楽しみにしてます!】
たったそれだけの文面なのに、絢音には和希の満面の笑顔が見えた気がした。
その日の仕事は、二人とも順調に進んだ。特に和希の場合は力強い味方がいた。今日の事を知っている礼香や田邊が、〝何かあっても絶対に定時で帰らせる〟と朝から全力でサポートする気満々だったのだ。そのお陰もあってか特に問題もなく終業時間を迎え、二人揃って不思議な達成感を感じながら和希を見送ることが出来た。
和希が加良須野駅に着いて携帯を開くと、十五分ほど前に絢音からのメッセージが届いていた。内容は和希が送ろうと思っていた言葉と同じで、〝今から電車に乗る〟というものだった。時間的に、ちょうど一本前の電車に乗ったようだ。和希も〝僕も今から電車に乗ります〟と送った。すぐに〝既読〟が付き、〝了解〟という二文字と親指を立てた手のスタンプが送られてきた。たったそれだけ──よくある言葉やスタンプ──のやり取りだったが、和希はとても嬉しい気持ちになった。離れているのに電話で声を聞くと近くに感じるのと同じで、なぜか文字から絢音の声が聞こえるような気がして近くに感じるのだ。
ホームにアナウンスが流れると、和希は胸の内ポケットに携帯をしまった。その場所がほのかに温かく感じるのは、自分の手で温められた携帯のせいだけではないだろう。
(あと三十分──)
和希は心の中で繰り返した。
(あと三十分で早瀬さんに会える─…)
はやる気持ちを抑えながら、和希は務めて冷静に電車に乗り込んだ。
一方、絢音が花弥木駅の改札口を抜けてから十数分後──
待ち合わせの南口で、もうそろそろ来る頃だと携帯の時間を確認した時だった。
「あのー…すみません…」
不意に話しかけられ顔を上げると、そこにいたのはグレイヘアを綺麗に整えた七十代くらいの女性だった。
「ごめんなさいね、この辺に花屋さんってないかしら?」
「花屋さん…ですか?」
「えぇ。駅の近くに〝弥生〟っていう名前の花屋があるはずなんですけど、見つけられなくて─…」
単純に花屋に行きたいだけなら商店街の花屋を案内すればいいのだが、店指定となるとそうもいかない。
「弥生─…弥生…花屋さん…」
繰り返して考えてみるも、いかんせん、花に興味がないと近くを通っていたとしても名前までは覚えていない。
「地図ではすぐ近くにあるみたいなんですけどねぇ…」
そう言って差し出したのは、手紙の一部に書かれた地図だった。それによると、確かに花弥木駅のすぐ近くに〝弥生〟という花屋があった。ただ、どうも駅周辺の道がこことは違っている。
「この花弥木駅…というのは間違いないですか?」
「えぇ。〝花弥木で花屋…ってピッタリでしょう?〟ってよく言ってたから、間違いないわ。でもねー…」
「道の走りが地図と違う─…」
「そうなの。一時間くらい、ずっとこの辺りを歩いてみたんだけれど、目印になる建物もなくて…」
「一時間…それは大変でしたね」
だとしたら、尚更なんとかしてあげたいと絢音は思った。
(でもどうやって? 電話番号さえ分かれば場所を聞くこともできるけど、知っているなら一時間も探し回らないだろうし…)
──と思ったところで、〝そうだ、携帯だ〟と思いついた。
「調べてみましょうか?」
「あら、本当に?」
「ちょっと待ってくださいね」
絢音はそう言って鞄から携帯を出し、画面を開いた。そして検索スペースに〝花弥木駅〟〝弥生〟〝花屋〟と打ち込んだ時だった。
「早瀬さん…!」
後ろから自分の名前が呼ばれ、〝検索ボタン〟を押そうとしていた手が止まった。振り返ると、ちょうど和希が数メートル先から駆け寄ってきたところだった。
「お待たせしま──」
「ちょうど良かった、川上くん!」
「え…?」
「弥生って花屋さん、知らない?」
「花屋…?」
「そう。この駅のすぐ近くにあるみたいなんだけど、地図がどうも違ってるみたいでさ…。この方、もう一時間もずっと探してるんだって」
絢音はそう言いながら、さっきの地図を和希に見せた。
「駅名は違ってないみたいなんだけど──」
「これ、反対ですね」
「え…?」
地図を見てすぐにそう言った。そして今来た方角に体を向けて、繰り返した。
「反対側の北口の地図です」
「え、そうなの!?」
「はい。毎朝、この花屋さんの前を通ってくるので──…あ、一緒に行きましょうか?」
「ほんと!? 助かるー!」
絢音は、すぐ女性の方に向き直った。
「この人が知ってるって。一緒に行きましょう?」
「あらまぁ、本当に? それはありがとうございます。助かります」
店を知っている人が現れて、ようやくこれで辿り着ける…と女性は心からホッとした笑みを浮かべた。
北口に向かう僅かな時間に、女性は少しだが花屋との関係を話してくれた。それによると子供の頃から仲の良かった子が〝弥生〟という名前で、結婚を機にこの町に引っ越して花屋を経営する事になったらしい。結婚後はお互い忙しくて会うことができず、やり取りは手紙か電話のみ。この歳になってようやく自由に動けるようになり、サプライズで彼女を訪ねようとしたという事だった。
それを聞いて、絢音は〝そういう事か〟と納得した。電話番号を知らないのかと思っていたが、実際は〝サプライズ〟故に電話もかけず探し回っていたのだと。
「きっと喜びますね、弥生さん」
絢音は、女性同士の歓喜の声が聞こえてくる気がしてそう言った。
「顔を見て分かればいいけれどねぇ」
少し不安な気持ちもあるだろうが、その顔は〝楽しみ〟という気持ちが溢れていた。
「あ、あれです。外壁がレンガ作りでレトロな感じの──」
和希が指差した方向には、確かに地図通りの場所に〝フラワーショップ弥生〟と書かれた看板がかかっていた。それを見て、女性の顔がパァっと輝いた。
「まぁまぁ、本当だわ! 間違いない、ここです!」
「良かったです、見つかって」
和希が言った。
「ありがとうございます。本当に助かりました。何かお礼を──」
「あぁ、いえ、そんなお気になさらずに─…」
今度は絢音が両手を振った。
「私たちも、お二人の再会のお手伝いができて良かったです。どうぞ、楽しんできてください」
「えぇ、ありがとう。本当にありがとう。では、失礼します─…」
女性は何度も頭を下げてから、花屋に向かっていった。
絢音と和希は女性が花屋に入って行くのを見届けてから、再び南口へと足を向けた。直後、その背後から思った通りの〝歓喜の声〟が聞こえた。思わず見合わせたその顔には、お互い満面の笑みが浮かんでいた。
そうして花弥木駅の南口から商店街を抜けて、右に曲がった最初の角にある喫茶&バー Ayameにやってきた。時間は十八時半になろうとしているところで、扉には〝準備中〟という札が掛かっている。普通なら入ろうとはしない状況だが、絢音は躊躇いもせず扉に手を掛け入っていった。
「ただいまー」
「おー、おかえ─…ん?」
「お帰り、絢ちゃん─…って、あら、こちらは?」
絢音の後ろで軽く頭を下げた和希を見て、ママが聞いた。誠司も初めて見る客に、〝絢ねぇの知り合いか?〟と目で投げかけた。
「あ…初めまして、僕は──」
「川上和希さん─…〝川上くん〟よ」
和希の挨拶を遮って、絢音が通称のように紹介した。誠司とママが頭の中で〝川上くん?〟と繰り返す間があったその直後──
「「川上くん!!」」
「は、はい!」
二人から同時に名前を叫ばれて、和希が思わず反応した。
「そうか! あんたが〝川上くん〟な!」
「は、はい、そうですけど──」
「そうなのねぇ…。嬉しいわ、やっと会えた」
ママが和希の手を取った。
「え、あ、あの─…早瀬さん…?」
どういう事かと説明を求めたが、絢音はニッコリと微笑むだけだった。どうやら、この状況を楽しんでいるようだ。
「ちょ…早瀬さん、僕はいったいどうすれば──」
ママに手を握られたまま困ったように立ち尽くす和希が、絢音には可愛く見えた。
「はいはい。とりあえず、川上くんはこっちに座って」
絢音がサッと自分の席に行って隣の椅子を軽く叩けば、
「ささ、こちらにどうぞ」
──とママがその手を引いて席に案内した。そして、ようやくその手を離してから和希の右隣に座った。
「待ってたのよ、この日を」
「えっと…どうして僕の事を…?」
「一言お礼を言いたかったから」
「お礼…?」
「拾ってくれただろ、絢ねぇの懐中時計」
カウンター越しから聞こえた声に、和希が振り返る。
「あぁ、はい、拾いまし──」
──と言いかけて、はたと気付いた。
「あ! ひょっとして早瀬さんの弟さんですか…!?」
「おと─…ハハ、違う、違う」
誠司は手を振った。
「でも今〝絢ねぇ〟って──」
「絢ねぇは、オレの親友の姉貴。子供の頃からつるんでたから、オレにとっても姉貴みたいなもんなんだ」
「そうなんですか…」
「その親友─…弟から貰った大事な懐中時計をなくしたって聞いた時は、ほんと、オレたちも焦った」
「絢ちゃんの落ち込みようったら、もう凄くてねぇ…。その日の夜なんか〝ご飯も食べない〟って言い出すんじゃないかって心配したのよ。まぁ、それでも〝絶対に見つかるから〟って励まして、ちょっとは元気が出たみたいだけど」
「それからずっと探し回って、ようやく五日目にして手元に戻ってきた。聞けば〝川上くん〟が拾ってくれたって言うだろ? だから、これは一言礼を言わないと…って思ったんだ。──ありがとうな、絢ねぇの大事なものを拾ってくれて」
「ありがとうね、川上くん。ほんと、感謝よ」
「あー…いえ、そんな…」
改まって誠司とママからお礼を言われ、和希は恐縮したように首を振った。
「僕が落とし物として届けていたら、もっと早く手元に戻ったのに──」
「あー、もうそれはいいんだ。絢ねぇから聞いてるし、本当に手元に戻ってきただけで十分なんだから。しかも、動いて戻ってきたなんて最高だろ?」
「そうよぉ。もう、なんの奇跡かと思っちゃうくらい、びっくりしたわよ」
「奇跡…」
「ま、そういう事だから。オレたちの礼は素直に受け取ってくれ」
「あ、はい…分かりました」
今更ながら、和希は喫茶店のマスターとバーのママが自分に会いたがっていた理由がこれだったのだと気付いた。
「──にしても、絢ねぇも連れてくるなら連れてくるって言えよ?」
「機会があったら…って言ったでしょー。今日がその〝機会〟だったってだけじゃない」
「とか言いながら、直前に決まった事じゃないんだろ?」
「あら。そうなの、絢ちゃん?」
「あはは、バレたか」
「──ったく。何日か前に決まってたんなら言えって」
「そうよ。そうしたら張り切って色々と準備したのに…」
「だから言わなかったのよ。この店は自然なのが一番なんだから。初めて来たところで盛大におもてなしされたって、緊張と萎縮で楽しめないでしょ。それに、川上くんは絶対に引く」
「あー、確かに親父のおもてなしは引くな。──ってか、この状況ですら緊張してるみたいだし?」
そう言って和希に視線を動かせば、絢音も和希の方を向いた。
「緊張してる?」
「あー…いや…はい、まぁ、少しですけど…」
素直な感想に、絢音はクスッと笑った。
「大丈夫。飲んで食べればすぐ慣れるから。みんな良い人だし、安心して」
「…はい」
「よし。──じゃぁ、最初は何飲む?」
絢音が一枚のメニュー表を手渡した。表には飲み物が、裏には一品料理が書いてある。和希は一通り目を通してから言った。
「じゃぁ、僕はビールで…あと、枝豆と唐揚げをお願いします。早瀬さんは?」
「あー、私はいい」
「え、飲まないんですか?」
「いやいや。絢ねぇはな、〝飲まない〟んじゃなくて〝飲めない〟んだ」
「え…えぇ!? そうなんですか!?」
「んー…全く飲めないわけじゃないんだけど、飲むと苦しくなっちゃうんだよね」
「ビールならこれ一杯、アルコール度数が高ければこの半分ぐらいが限界だな」
そう言って見せたのは、そば猪口よりも小さいグラスだった。
「それでですか…!?」
「誠司くん曰く、アルコールが体に合わないんだって。まぁ確かに、飲むとすぐ赤くなるし、アルコールを分解する酵素が少ないんだなーとは思うけど。──不公平だと思わない?」
「え、不公平…?」
誠司が〝また言ってんな〟と思う一方で、和希は何が不公平なのか分からず聞き返した。
「味が嫌いとか苦手だから〝飲みたくない・飲めない〟はいいのよ。コーヒーだって飲みたいと思わないから、それは別にいい。でもさ、お酒は美味しいのもあるわけよ。美味しいから飲みたいと思っても、飲むと苦しくなるから飲みたくないとか飲めないって、不公平だと思うんだよねー」
「あぁ…まぁ、それは確かに─…って、早瀬さん、コーヒー苦手なんですか?」
「うん、苦手。あの苦いのがね。──って、気になったのそこ?」
「あ、はい。新たな情報だなって…」
「新たな情報…」
主に情報収集する側だった絢音は、反対の立場になって思わず笑ってしまった。
「あ、でも…〝甘くしたら飲めるんじゃないか〟って言わないでよ? そこまでして飲みたいものじゃないから」
「分かりました、言いません」
素直に頷く和希を前に、
(なんだこの星が見える感じは…?)
──と思ったのは誠司だった。
「じゃぁ、私は─…誠司くん、今日の日替わりは?」
「今日はたけのこづくしだ。昨日、差し入れでたけのこを貰ったから──…って、そうだ。差し入れで思い出したけど、今日サカズキから絢ねぇに…って差し入れがあったぞ?」
「サカさんから?」
「あぁ。なんか、絢ねぇから勧められて買いに来た人がいて、その人が買った時に店にいた女性客が〝あのイケメンが買ったのと同じものをください〟って言って買っていったらしい」
誠司はその女性客の口調を真似て言った。
「へぇ…」
「そしたら、その翌日から一気にその酒が売れて、更に追加注文する事になったって喜んでたぞ。──で、そのお礼って事でビール十缶持ってきた」
「そのビールってもしかして…?」
「前に絢ねぇが買ったキリナンのビールだ、期間限定のな。誰に勧めたんだ?」
「んー?」
絢音は意味ありげにニッコリと微笑むと、次いで横にいる和希に顔を向けた。
「良かったねー、イケメンだって」
「いや、別に僕ってわけじゃ──」
「でも、身に覚えはあるでしょ? 女性客に?」
「ま、まぁ…女性客は確かにいましたけど──」
「じゃぁ、間違いない。それに、アレ勧めたの川上くんだけだったしねー」
「そ、そうなんですか…?」
「んん? じゃぁ、サカズキに買いに行ったのって─…?」
「川上くん」
誠司の質問に絢音が和希を指差して答えた。
「あ、じゃぁさ。ビール、それにしようよ。冷えてるんでしょ?」
「あー、そうだな」
「え、でも早瀬さんに差し入れされたものじゃ──」
「いいの、いいの。だいたい、貰ってもそんな量飲めないし。それに差し入れされるほど貢献したのは川上くんだしね」
「それは早瀬さんが勧めてくれたからで──」
「〝イケメン〟の貢献度って大きいのよー」
「またイケメンって─…」
「どっちだっていいだろ。タダで飲めるんだ、気にするな。──ってか、オレも飲むし」
「あ、じゃぁ私も飲もうっと」
「え…大丈夫なんですか、飲んで?」
「少しだから大丈夫だって。──って事で、私も枝豆と唐揚げね、誠司くん」
「了解ー」
返事と共にカウンターの奥へ消えていくと、入れ替わるようにママがカウンターに出てきた。手には唐揚げが乗ったお皿を持っている。そしてカウンター内で枝豆と唐揚げを別皿に乗せると、それを絢音と和希の前に差し出した。
「はい、枝豆と唐揚げ。それとあと、お箸ね」
どうやら和希が〝枝豆と唐揚げ〟と言った時点で、既に準備を始めていたらしい。それも絢音の分も予想して。
「ありがとー、ママ」
「ありがとうございます」
「ほい、グラスとビール」
誠司もすぐに戻ってきて、絢音にはグラスを、和希にはグラスとビール缶を直前で開けてから手渡した。絢音は和希のビール缶を手に取った。
「はい、グラス持ってー」
「あ、はい…」
和希が慌ててグラスを持つと、そこにビールを注いだ。
「ありがとうございます…」
「明日は雨だな」
その光景を見ていた誠司が言った。
「え、そうなんですか?」
唐突に天気の話になり、不思議に思いながらも和希が返した。そこに続いたのは絢音だ。
「そりゃ、梅雨だからねぇ…」
「いやいや、梅雨のせいにすんなって。明日が歴史的に晴れる確率が高い〝体育の日〟だったとしても、絶対に雨だろ」
「どういう事ですか?」
「それだけレアって事だ。絢ねぇが誰かに〝お酌〟をするのがな」
「え!? そうなんですか!?」
「まー、今日は川上くんへのおもてなしだからね。──あ、でも最初だけだけど」
「〝女がお酌するのが当たり前〟っていうのをぶち壊したいんだよな?」
「そりゃそうでしょ。そんなものはね、男女関係なく、お酌をしたい相手にお酌をしたい時にすればいいの。楽しく飲めれば手酌だって美味しいし、自分の飲みたいペースで飲めるんだからさ。それにだいたい、お酒を飲めない人にしてみたら、人に注いでるだけで自分には注いでもらえないじゃない? ジュース飲むのに誰か注いでくれる?」
「注ぎませんね…」
「でしょ? ほら、もうすでに不公平じゃない」
「…ですね」
「そういう考えなんだよな、絢ねぇは」
誠司がそう言いながら絢音のグラスにビールを注いだ。
「悪い?」
「いえ、悪くないです」
即答したのは和希だった。
「僕も、その考えには賛成です。お酒の場で女性ばかりがお酒を注いだり、〝グラスが空になってるぞ〟って暗に〝注いでこい〟って言う人を見るたびに、なんでなんだろうって─…腑に落ちないというか、あまりいい気がしなかったので……」
「おぉー。ちょっと、誠司くん聞いた? なにこの感覚、素晴らしくない!?」
「初めて絢ねぇの教育が不要だったな」
「ほんと。──じゃぁ、その貴重な存在に乾杯しよ」
絢音がグラスを持った。
「いやいや、もうちょっとなんかあるだろ?」
「なんか、って何が?」
「あー…そうだな。──じゃぁ、〝喫茶&バーAyameにようこそ〟は?」
「あー、いいね!」
「じゃぁ、行くぞ。喫茶&バーAyameに──」
「「ようこそ!!」」
最後の言葉を絢音と誠司が一緒に言うと、三人がグラスを掲げて音を出した。和希が〝ありがとうございます〟と答え、それぞれがビールを一口飲んだ。
「んー! やっぱウマいな!」
「んん、いいキレ!」
「美味しいですね!」
「この後に食べる唐揚げが最高なんだよねー」
「分かります! 僕も家で飲んだ時、無性に唐揚げが食べたくなりました」
「今は目の前にあるから、ほら、食べて、食べて」
「はい! いただきます!」
そうして二人同時に唐揚げを頬張れば、同じように天井を見上げて幸せそうな顔をしたから誠司もなんだか微笑ましい気持ちになった。
「そういえば─…早瀬さん、お酒ってよく買うんですか?」
唐揚げの後、ビールを飲み込んだタイミングで和希が聞いた。
「よくは買わないかな。──どうして?」
「あまり飲めないのに、美味しいお酒をどうやって見つけるんだろうと思って…」
「あー…それはたまたまっていうか──」
「見た目だ」
ハッキリ言いそうにない絢音の言葉を遮って、誠司が答えた。
「見た目…?」
「絢ねぇは、缶に書かれてる味の説明を見てもよく分からないからな。とりあえず、見た目が気に入ったやつを買ってくるだけなんだ」
「つまり、缶のデザインって事ですか?」
「そういう事。でもこれが、不思議なくらい当たりなんだよな」
「じゃぁ、このキリナンのビールも見た目で?」
「そっ! だからサカズキも、新作が出ると絢ねぇの〝千里眼〟に頼ってくるんだ」
「そこまで…?」
「今のところ、外れたことがないからな」
「すごっ…。でも、何か特徴とかあったりするんですか、その気に入ったデザインに?」
和希は絢音に聞いた。
「ううん、全然」
絢音は枝豆を食べながら言った。
「でも、見た目で選ぶようになったキッカケはあるかな」
「キッカケ…?」
「そう。──川上くんはさ、風に〝形〟ってあると思う?」
「風に形…ですか? あー…でも、あったとしても見えないですよね?」
「だよね、普通はそう思う。私も見えないと思ってたし、そもそも風に形があるって考えた事もなかったからさ。でも、ある絵を見て〝そうきたか!〟って思った事があったんだよね」
「絵で…?」
絢音が頷いた。そしてビールを口に含むと、空になったビールの缶を手に取った。
「随分前にさ、キリナンが缶のデザインを募集した時があったんだけど─…知ってる?」
「いえ…」
和希は首を振った。
「写真でも絵でも切り絵でも何でも良くて、最優秀賞になった絵が缶のデザインに採用されたんだけど。それが一面の麦畑だったの」
「麦畑…」
「ビールの原料のね。この辺から上三分の一くらいが綺麗な青空で、その下が全部黄金色の麦畑」
絢音は〝この辺〟と缶を指差した。
「──で、そこにタイトルが書いてあったわけ。〝風の形〟って」
「その絵にですか?」
「そう。わけ分かんないでしょ、ただの麦畑に〝風の形〟って」
「はい。だって、見えないですよね?」
「そうなのよ。そうなんだけど、最優秀賞に選ばれたからには、何かあるんだろうな…ってそれが気になってさ。その缶の前で、こうやってずっと見てたの」
「腕組みで?」
「そう。周りから見たら何怖い顔して見てんだって感じよね」
絢音は自分でそう言って笑った。
「でもとにかく答えが知りたくて、〝どこに風が描かれてるんだ〟ってもう必死よ。そのまま帰ったら、絶対に眠れないって思ってさ」
「それで、分かったんですか?」
「分かった。十分くらいずーっと見てて、見えたのよ、その風が」
「え、どういう風に…?」
和希が気になって、少し前のめりになった。
「麦の中よ。風に揺れる麦の形がそれだったの」
「風に揺れる麦の形って──…え、そういう事!?」
和希が軽くのけぞった。
「そう、そういう事だったのよ。広い麦畑の中に風で傾いた麦畑が描かれていて…つまり、それが風の形ってわけ。それが分かった時、〝うわっ〟って思ってさ。見えないものと思っていたのが、麦を通して目に見えるっていう、その表現に感動したんだよね」
「それは確かに─…」
「それから、何となく普段の物の見方が変わったっていうか、気付けるようになったかなーって。ほら、水面に映った逆さ富士もさ、普段は見上げるものじゃない? それが見上げずに見れるって感動するでしょ?」
「そうですね」
「雲の形も、見上げずに見れた時に不思議な感動があった」
「山に登って雲が下にあった時…とかですか?」
「まさか、山には登らないって」
「あ、そうでした。山登り嫌いでしたもんね」
絢音が頷いた。
「車で山道を登って行って、下に広がる山を見た時に雲の影が映ってたんだよね。それが流れていくのを見て、もし自分がその影の下にいたら、〝あ、曇った〟って思うんだろうなって。その時は全部の景色が曇ってるんだって思ってたけど、上から見ると隠れてる部分ってすごく小さいんだって知ってさ…。ほら、雨が降ってると全部が雨だと思うけど、実際は一部じゃない? 雨と晴れの境目なんかを目にしたら不思議な感動があるみたいに、普段は目にしない角度からものが見えた時に感動したりするんだよね──…って、あんまり分からないか」
「いえ」
和希は首を振った。
「そんな事ないです。普段、そんな風に考えた事はなかったですけど、言われて想像したら〝なるほど〟って思います」
「ほんとにー?」
「ほんとです! でも─…だから早瀬さんと話をするのが楽しいんだなって分かりました。いつも想像を超えてくるんですよね、早瀬さんから返ってくる言葉って」
「それって喜んでいい事?」
「もちろん! すごく楽しいって、良い事じゃないですか!」
どこに喜べない要素があるのかと全力で肯定する和希の姿に、絢音は笑ってしまった。
「そっかそっか。じゃぁ、素直に喜ぶわ」
絢音の言葉に、和希は〝はい!〟と満面の笑みで答えた。そんな様子を見ていた誠司は、
(キラキラしてんなぁ…)
──と、ビールを口にしながら和希の周りに見える星を眺めていた。
「そういえばさ、今日って寝坊?」
「え…?」
「朝遅れてきたでしょ?」
「あー…あれはちょっと寄り道しちゃって…」
「寄り道?」
「見つけちゃったんですよね、猫を」
「それって迷子猫…?」
「いえ、普通のノラです」
「「…ん?」」
絢音と誠司が僅かな間のあとそう言うと、同時に顔を見合わせた。
「それって、遅刻するほどの事か?」
誠司が聞いた。
「え、だって可愛いじゃないですか」
「お? おぉ、もちろん猫は可愛い。オレも絢ねぇも猫は好きだし──」
「早瀬さんも!? あ…じゃぁ、ちょっと待ってください─…」
和希は、椅子の背もたれに掛けてあった上着の内ポケットから携帯を取り出した。そして写真のアプリを開き、今朝撮った写真をタップして表示させた。
「この子です」
そう言って見せられた絢音と誠司は〝あー…〟と声を漏らした。
「うん、遅刻するわ」
「…だな。これはしょうがない」
前言撤回とばかりに、二人は納得した。そこに表示されていたのは、生後半年も経ってないくらいの三毛猫だったのだ。写真をスライドさせると、似たような写真がいくつもある。それでも二人が目を細めているのを見て、和希は最後の写真をスライドさせた。──と、突然、その写真が動いた。
「ちょっ…動画!」
「おぉ!」
とりわけ絢音は食いついた。それがまた和希は嬉しかった。
目をキラキラさせながら画面に見入っていた絢音だったが、しばらくしてふと大きな息を吐いた。
「あー…胸が痛い…」
「え、胸!?」
吐く息とともに出たその言葉に、和希が驚いた。
「だ、大丈夫ですか!? え…お酒が多かったとか──」
「あー、違う、違う」
焦る和希とは対照的に、誠司がいつもの事だと片手を振って否定した。
「絢ねぇの〝胸が痛い〟っていうのは、〝キュン〟っていう意味だ」
「え…?」
「だから、絢ねぇもその表現やめろって。若い時ならまだしも、今言ったら洒落になんないだろ?」
「この歳で〝キュン〟って言えって?」
「いやいや、〝キュン〟じゃなくて〝キュンとした〟って言えばいいだけだろ」
「キュンとした、ねぇ…」
「何で嫌そうな顔してんだよ」
〝意味が分からん〟と誠司が笑った。
「──ってか、少なくとも誤解を招く言い方はやめろって。いざって時に信じてもらえなかったらどうすんだ?」
「大丈夫だって。本当に痛い時は〝うっ…〟って言って胸押さえて倒れるから。その時は救急車でも呼ぶか、なんなら放っておいてくれればいいからさ」
「なんで〝なんなら〟の選択肢があるんだよ」
「だって色々面倒じゃない。助かっても食事療法とか薬とか生活改善とかさー…」
「いやいや、それ自分で言うか?」
「何言ってんの。大変さを知ってる私だから言えるんじゃない」
「いや、だから──」
「だ、大丈夫です!」
何か心配になったのか、突然、和希が両手を出して間に入った。
「倒れたら、僕がちゃんと救急車呼びます。だから大丈夫です。安心してください、早瀬さん」
和希の真剣な眼差しと口調に、絢音と誠司は一瞬ポカンとした。──が、すぐに胸の内がほっこりと温かくなった。
「──だって」
絢音が誠司に向かって言えば、誠司もまた感じたものが同じだったのか、フッと笑った。
「なら安心だな」
そう言うと同時に、和希の周りがキラキラしていた理由が分かった気がした。
その時、和希の手元から〝ニャー〟という声が聞こえた。反射的に三人が視線を落とすと、そこには既に終わっていると思っていたさっきの動画がまだ続いていたのだ。
「長編ね」
「そりゃ、遅刻するはずだ」
「ノラがこんなに逃げないのって珍しくないですか? だから──」
──とその時、
「あ、ちょっと──」
和希の言葉を遮って、絢音が手元の携帯を引き寄せた。
「これって、さっき行った花屋さんじゃない?」
「花屋? さっき?」
「そうです。あそこの近くで見つけて、後をつけていったんです」
「花屋に行ってたのか? 絢ねぇが?」
〝花に興味がないのに? ウソだろ?〟と誠司は半信半疑の目を向けた。
「道を聞かれたから案内しただけよ」
「なんだ、道か。──って、また聞かれたのか?」
「また…?」
誠司の言葉に和希が反応した。
「〝また〟ってどういう事ですか?」
「絢ねぇは、昔からよく人に道を聞かれるんだ。初めて行った場所でも聞かれたことあったしな」
「初めての場所でも…? それはさすがに─…」
「だろ? しかも当の本人は方向音痴ときた」
「え…そうなんですか!?」
「だからあの時、川上くんが来てくれてほんと助かったのよ。地図を見て、すぐにあれが駅の北側だって気付いてくれたしね」
「じゃぁ、僕が行かなかったらどうするつもりだったんですか?」
「もちろん携帯で調べるつもりだったよ。今は便利なものがあるからねー」
「──って言いながら、地図を読むのも苦手なのが方向音痴だけどな。カーナビ使ってても道を間違えるくらいだし?」
「それは否定しない」
誠司のツッコミに絢音は素直に同意した。
「でもまぁ、地図さえ表示できればなんとかなるでしょ、相手に見てもらうとかさ」
「まぁ、それはそうですね…」
「それに、携帯のおかげで道を聞かれる事もほとんどなくなったし」
「そうそう。聞いてくるとしたら年配の人か、ナンパ目的くらいだろ」
「ナン─…!?」
思わず大きな声で言いそうになって、和希は慌てて口をつぐんだ。
「ないない。今どき道を聞いてくるナンパなんて、時代遅れもいいとこでしょ。それに──」
「だ、ダメですよ…!?」
〝それにこの年でナンパはされない〟と言おうとした絢音の言葉を遮って、和希が念押しした。
「ナンパ目的の道案内は絶対にダメです」
今日の事を思い出せば、地図だけではなく一緒に目的地まで行きそうな気がして心配になったのだ。一方で、絢音と誠司は本日二度目の〝ポカン顔〟を披露していた。
「え、なんで二人とも黙るんですか…?」
「…いや、なんか分かりやすいなと思ってな」
「え…?」
星が見えた理由が、誠司にはハッキリと分かった瞬間だった。もちろん絢音には、誠司が言った〝分かりやすい〟というのがどういう意味かは分からなかったが…。
「そもそもナンパされるような年齢だと思う、私が?」
「年齢は関係ないです」
「でもだからって、道を聞かれて無視するわけにもいかないでしょ?」
「それはそうです…けど─…。じゃぁ、せめて相手が男性の時は、今日みたいに一緒について行かないでください」
あまりにも真面目な顔で言うから、絢音はクスッと笑ってしまった。
「え、なんで──」
「まるで保護者だなーと思って」
「保護者?」
「〝知らない人について言っちゃダメよ〟っていう、そんな感じのね」
「え? あ、いや…僕はどちらかと言えば──」
思わず〝彼氏目線で─…〟と言いそうになって、グッと飲み込んだ。
(まだ彼氏でもない…。ただ、好きな人がナンパされるのが嫌なだけだ…)
和希は、これ以上は言うべきじゃない…と口を閉じることにした。
そんな和希の態度に、誠司は小さく息を吐いた。
「まぁ、何にせよ…だ。この先、道を聞かれる事はほぼないから心配すんな。それより次の酒を決めろ。絢ねぇも、そろそろ日替わりいくか?」
「あぁ、うん。お願い。──あ、川上くんも今のうちに日替わり食べといたら? あとで一人で食べるより、一緒に食べた方が美味しいでしょ」
「そうですね! じゃぁ、僕も日替わりとレモン酎ハイをお願いします」
「了解ー」
〝一緒に食べる〟
その一言だけで、こうも表情が変わるのか…。
誠司は注文の品を準備しながら、和希に対する好感度がグンと上がっているのを感じていた。
それから誠司の仕事が終わる二十二時まで、三人の他愛もないお喋りは続いた。帰る頃には、誠司と和希が四歳差という事もあり、誠司は〝川上くん〟から〝和希〟へ、和希は〝誠司さん〟と呼ぶようになっていった。そしてこの時にはもう、食事を断って絢音に話し相手になって欲しいと言った意図の事など、完全にどうでもよくなっていた。たった数時間で、和希の〝人の良さ〟が分かったからだ。
(ただ素直で真っ直ぐで純粋─…か。貴重な存在だな…)
その存在が絢音にどう影響するかは分からない。それでも、和希に対して希望を持ったのは誠司だけではなかった──