5 喫茶&バー Ayameへの招待 <1>
六月に入り、天気の崩れる日が多くなった。週間天気予報は傘マークが連日続いていて、今日にでも〝梅雨入り宣言〟が出るだろう…と予想している人は多い。──とは言え、ほとんどの人は口に出さないだけで既に梅雨入りしたと思っているが…。
「絶対、梅雨に入ってるって。そう思わない、川上くん?」
勤務時間も残り十五分となり、携帯のウェザーニュースを見ながら椅子を九十度回転させた礼香が、後ろの席に座る和希に言った。和希も椅子を少し後ろに下げ、礼香の顔が見えるように回転させる。
「まぁ、入っていてもおかしくないですけど─…梅雨入り宣言があったからって、何も変わらないんじゃないですか?」
「気持ちの問題よ、気持ちの。梅雨入りしたって言われれば、もう諦めもつくでしょう?」
「諦め…」
「雨が降るのも気分が滅入るのも、湿気で不快指数が爆上がりしても〝梅雨だからしょうがない〟って」
「それは確かにそうですけど…」
「まぁでも? 中には梅雨とか関係なく、毎日が春風のような気分の人もいるけどねぇ?」
礼香は和希の顔を覗き込むような仕草で、意味ありげな目を向けた。
「僕、ですか…?」
「他に誰がいる? 今この部署で、背後に満開の桜が見えるのは川上くんだけよ?」
「いやいや、その例えはよく分からないですって」
「例の彼女のことよ。朝、彼女と話しながら通勤してるんでしょ?」
「そうですけど…」
「ほら、幸せオーラがダダ漏れじゃない」
「そんなにですか?」
「そんなによ。ただムラがあるのは気になるけど?」
「そ、そこまで…」
「──で、そのムラの原因はなんなの? 昨日も今日も桜が見えないけど?」
〝だから何で分かるんですか〟と言いそうになって、和希はグッと飲み込んだ。そう言えば、百発百中〝だから何で分からないと思うわけ?〟と返ってくるのが分かっているからだ。一瞬開き掛けた和希の口が閉じたため、礼香が更に付け足した。
「ホウレンソウよ、ホウ・レン・ソウ」
「これって業務でしたっけ?」
「一応、業務時間だからね」
「うわ、凄いこじつけ」
「何とでも言いなさい。それに言ったでしょ、進展があったら報告しなさいって」
「まぁ、それはそうですけど…」
「それで、どうなの? その後の進展とムラの原因は?」
礼香が更に椅子を寄せて、和希の机に肘を置いた。サシ飲みではないが、こう向かい合わせの状況になっては、もう逃げられない。和希は諦めたように口を開いた。
「礼香さんが期待するような進展はないですよ?」
「そんなわけないでしょうよ?」
「いや、本当に。毎朝、他愛もない話をしながら一緒に電車に乗ってるだけで、特にそれ以上の事は何もないですから。ただそれがすごく楽しいっていうくらいで…」
「ふ〜ん」
〝楽しいっていうくらい〟と軽く言うが、そこに〝すごく〟という言葉が自然に出てくるところが和希の素直なところで。しかも和希の背後に満開の桜が見えてしまう時点で、本音がどれだけ幸せな時間なのかが分かってしまうのだ。
「じゃぁ、気分のムラは?」
「それは─…話ができないというか、その時間に来ないというか…」
「んん? 来ない?」
「勤務時間がバラバラみたいで、いつもの電車に乗らない時があるんですよ。だから昨日も今日も会えてなくて…」
「つまり、気分のムラは会えない寂しさだったって事か。桜が見えなくなるくらい」
(──ってか、なにその初恋並のピュアさは!?)
本人はいつも通りにしているつもりだろうが、全くもって気持ちを隠せていない和希の態度に、より一層、礼香の中で推しへの応援が高まった。
「まぁ、そういう事になりますね…。桜が見える見えないかは分からないですけど」
「でも勤務時間がバラバラって、どういう仕事?」
「さぁ…」
「さぁ…って、聞かなかったの?」
「もちろん聞きました。でも分からないんですよね、答えが…」
「答え?」
和希が頷いた。
「礼香さん、男の人が幻想を持っている職業って何だと思います?」
「はぁ? なに突然…?」
「そう言われたんです。〝この世の男性のほとんどが幻想を持っている職業かな〟って」
「この世の男性のほとんどが幻想を持って─…?」
同じ言葉を繰り返したところで、礼香がハッとした。
「──ってかさ、女の私が考えて分かるわけないじゃない」
「まぁ、そうですよね…」
「川上くんは? 自分が幻想を持ってる職業ってないの?」
「…って、そもそもどういう幻想かにもよりませんか?」
「それはそうだけど、一般的に幻想を持ってるって言ったら、やっぱり、こう…夢みたいな良いイメージじゃないの?」
「夢みたい…ですか…」
職業に対して幻想はあっても、幻想を持った職業といわれるといまいち思い浮かばない。二人は〝うーん〟と口をつぐんだまま考え込んでしまった。そこへ、礼香の同期である田邊がやってきた。
「どうした、難しい顔して?」
その声に二人が顔を上げた。
「何か企画で悩んでんのか?」
「違う、違う。幻想を持つ職業とは何か、を考えてたのよ」
「幻想を持つ職業?」
「田邊はある? 幻想を持ってる職業」
「あー…そうだな、着物着たホステスのママさんとか?」
「絶対に違いますね」
和希の即答に田邊は不思議な顔をして、礼香はクスッと笑った。
「じゃぁ、社長秘書?」
「違います」
「女性警官」
「違います」
「保育士」
「違います」
「キャビンアテンダント」
「違うと思います」
「──ってか、これ何の話? 正解は?」
〝幻想を持っている職業は何か〟と聞かれ、思いつくまま答えたにもかかわらず全否定とは。いったい何の話をしているのか分からなくなり、思わずそう聞き返した。
「分かりません」
「んん?」
和希の予想外の答えに、田邊は礼香に補足を求めた。
「川上くんの想い人よ」
「ちょ、礼香さん──」
「あぁ! ずっと探しててやっと見つけたって人か!」
「え、なんで田邊さんが知ってるんですか…?」
「その人と毎朝一緒に通勤してるんだけど、勤務時間がバラバラで会えない時があるんだって」
「それで気分にムラがあったのか」
「そんなに分かりやすいですか、僕──…って、なんで椅子まで持ってくるんですか、田邊さん!?」
〝オレも話に混ぜろ〟とばかりに、空いている椅子を持ってきた田邊に和希がツッコんだ。──が、当然ながら田邊は当たり前のように話に加わる。
「勤務時間がバラバラだから、仕事はなにかって話なんだな?」
「そういう事」
「でも、本人に直接聞けばいいだろ?」
「それが、〝この世の男性のほとんどが幻想を持ってる職業〟って言われたんだって」
「じゃぁ、やっぱり着物着たホステスの──」
「だから、絶対に違いますって!」
「いやいや、でもそうやって濁すってことは、あんまり言いたくない職業ってことだろ?」
「いいえ、違います。少なくとも田邊さんが考える〝言いたくない職業〟じゃないです、絶対に」
否定する和希の真剣さに、礼香と田邊は顔を見合わせ笑った。
「は…? ちょ、もしかして…またからかわれたんですか、僕──」
「ほんと、お前は可愛いよ。その純粋さ。お前がオレの弟だったらなぁ…」
「絶対にお断りします」
「まぁまぁ、そう言うなって」
田邊は和希の肩をポンポンと叩いた。
「職業の答えは、もっと仲良くなれば教えてもらえるだろ? 今はその〝もっと仲良くなる方法〟の方が大事なんじゃないのか?」
「そ、それは─…」
「お前の事だから、まだ二人で食事に行ったりしてないんだろ?」
「そうですけど──…って、僕のこと何でも分かるのやめてもらえます?」
「いやいや、お前の方からオレらにアピールするから分かるだけだって」
「もう、スルーしてください…」
「そんなことできるわけないでしょ。私たちは可愛い後輩くんを応援したいだけなんだから」
「そうそう。──で、とりあえず〝話し相手〟の立場から一歩進むにはだな、プライベートの時間を二人で過ごすことだ。食事に誘え、食事に」
「いきなりですか?」
「いきなりって…何の脈絡もなく突然〝食事に行きませんか〟って誘えって言ってんじゃないぞ? 好きな食べ物の話とか、残業になるとコンビニ弁当ばっかりになる…とか、そういう話の流れがあるだろ?」
「田邊さん、僕のこと中学生だと思ってます…?」
「まさか。でもまぁ、それくらいの純粋さであるとは思ってるな」
「不思議なくらい喜べないんですけど…」
「そうか? 喜んでいいくらいの長所だけどなぁ」
冗談ではなく本気でそう思っているのだが、なぜか和希はこういう時の言葉を素直に受け取らない。
「まぁ、それはさておき、よ。問題は、どういう風に誘うかでしょ? 〝美味しいお店を知っているから一緒にどうか〟って誘うのか、〝オススメのお店を教えて欲しい〟っていうところから誘うのか──」
「酒は? 美味しいお酒の飲めるところで─…とかいいんじゃないか?」
「あぁ、それいいかも。食事より気軽だものね。──彼女、お酒は飲めるんでしょう?」
「あー…はい、多分、かなり飲めると思います」
「じゃぁ、お酒で決まりね。あとは自分で店を勧めるか、相手に勧めてもらうかだけど──」
「確か、想い人って年上だったよな?」
「そう。幾つ年上かは分からないけどね」
「だから、なんで田邊さんが知ってるんですか? ──ってか、礼香さんどこまで話してるんですか?」
「もちろん、聞いてるところまでよ」
「まさかこの部署の人全員じゃないですよね? もしそうだったら──」
「大丈夫、大丈夫。言ったのは田邊だけだから。こういう恋愛事には、男女の意見が必要でしょ? だから同期の田邊に協力してもらえるようにと思ってさ〜」
そう言った礼香の表情がとても楽しそうで、和希は直感的にある可能性が頭に浮かんだ。
「二人して、僕の話を酒のつまみにしてません?」
「…うん? …っと、なんの話だっけ?」
「あ、誤魔化した」
「自分で店を勧めるか、相手に勧めてもらうか、だろ?」
「田邊さんまで──」
「ほら、もう時間ないんだから、川上くんはちょっと黙ってて─…」
「えぇー…」
「相手が年上で酒が飲めるなら、甘えた方がいいだろうな」
「私もそう思う。特に川上くんはリードするよりされる方が合ってるし、川上くんの魅力はそういうところだしね」
「よし、じゃぁ決まりだ。川上──」
田邊は、何を言っても無駄だと諦めたようにうなだれている和希の肩を、気合いを入れるが如く強めに叩いた。
「いいか? 〝どこか美味しいお酒が飲めるところを知りませんか?〟って聞いて、教えてもらったら〝勝手も分からないし、一人じゃつまらないので一緒にどうですか?〟って誘え」
「そうね、それがいいわ。自然だし、年上からしたら〝もう、しょうがないなぁ〟ってオーケーしやすいしね」
「だろ?」
〝うん、うん〟と二人が乗り気な一方、和希は無言だった。
「おい、川上?」
「川上くーん、聞いてるー?」
礼香がわざとらしく耳元で問い掛ければ、
「…はい、はい聞いてます…」
──と、少々面倒臭そうに顔をしかめて答えた。
「もう、そんな顔しないの。別にからかってるわけでもなんでもなく、本当に応援してるのよ、川上くんの事。上手くいかなかったら私たちのせいにしていいから、とにかくそうやって誘ってみなさいって」
「そうそう。その時はなんでも好きなもの奢ってやるから、な?」
そう言った二人の手が両肩にかけられ、その重みはまさに〝ノー〟と言えない圧力にも感じた。ただ、今の状況から更に一歩進もうと思うと、正直〝ノー〟と言う気持ちも起きなかったのだが…。
「…分かりました。もしもの時は、自分の言った言葉、忘れないでくださいよ」
そうは言ったものの、〝二人のせいにする事〟も〝好きなものを奢ってもらう事〟も、できればないほうがいいと思っている。それは二人のためというよりも、〝絶対に上手くいきたい〟というのが自分の望みだからだ。
和希が諦めつつも〝分かった〟と言った事で、二人は顔を見合わせて微笑んだ。それは面白がってるのではなく、上手くいって欲しいという正直な笑みだった。
「よしっと。じゃぁ、時間も来た事だし帰るか」
「そうね。──じゃ、川上くんお疲れ〜」
「報告待ってるからなー」
「お疲れ様です…」
問題を一つ解決したような足取りで帰っていく二人の背中を見つめながら、和希は椅子の背もたれに全体重を預けた。
(いやほんと、たった十五分でこの疲れって……)
一歩前に進む覚悟はできたものの、この疲れは仕事よりキツイと思ってしまう和希だった──
翌朝、花弥木駅の南口に選挙カーが止まっていた。議員候補の一人が道行く人に挨拶をしつつ、当選した暁には云々…というお決まりの公約を声高らかに宣言している。絢音はその横を、皆と同じように足早に通り過ぎた。決して急いでいるわけではないが、〝握手〟という挨拶で行く手を遮られないためにも、皆と歩調を合わせた方が無難なのだ。公約の内容は〝日本語を喋っている〟という程度に耳に届くだけで、何を言っているかまでは正直分からない。──というより、聞く気がないためただの〝音〟として捉えているからなのだが。その音が背後で小さくなっていくのを感じながら、絢音が改札口を抜けホームに続く階段に来た時だった。
「あ…早瀬さん!」
ちょうど反対の方から和希と会った。
「おはようございます」
「おはよー」
挨拶を交わして一緒に階段を上がっていく。
「何か急いでます?」
「ううん、逃げてきただけ」
「逃げ─…え、何からですか!?」
「議員候補者」
「議員候補─…はい?」
意外な答えに思わず繰り返し、再び疑問系で返した。
「北口にもいなかった? 議員候補者」
「いましたけど…別に逃げなきゃいけないほど追いかけてはきませんよね?」
「うん、追いかけてはこないねー…とっ」
〝これで最後〟と、階段の最後の一段を上り切った絢音。そしていつもの場所まで移動した。
「あの人たち、顔と名前を覚えてもらおうと必死じゃない?」
「まぁ、それが目的ですから…」
「この朝の忙しい時間に、余裕があるからってゆっくり歩いてたら捕まえにくるでしょ? 握手して名前名乗ってさ…そしたら〝頑張ってください〟って言わなきゃならないじゃない」
「ま、まぁ、普通はそうですね…」
「あれが嫌なんだよね…。別に〝頑張って欲しい〟とも思ってないし。むしろ、当選させて欲しいってお願いしてるのはあっちなのに、当選した途端、こっちが〝先生〟って呼ぶっておかしくない?」
「あぁ、ほんとだ! 確かにそう言われればそうですね」
「でしょ? でも誰が最初に〝先生〟って言い始めたんだろ…」
「さぁ…」
「議員は議員なんだからさ──例えば川上くんだったら──川上議員って呼べばいいじゃない?」
「…ですね、早瀬議員」
和希もノリでそう答えた。
「そう、それよ。だいたい、議員を先生って呼ぶからみんな勘違いするのよ。〝自分は偉いんだ〟って。権力も手にするから、尚更威張っちゃってさー。だから自分に非があっても、変なプライドが邪魔して謝りもしないし、謝らなくてもいいように屁理屈をこねたり、揉み消したりするようになるんだって。なんかさ、国民に政治家を選ぶ権利が与えられるなら、同時にダメな議員を辞めさせる権利も与えて欲しいって思わない?」
「あ、それは思います! そうすれば、議員も辞めさせられないように気を付けるだろうし」
「でしょー」
「…って、政治家、かなり嫌いですね?」
「嫌いだねー。川上くんは?」
「僕は…正直、あまり関心がないっていうか──」
「無関心は〝嫌い〟の上だね」
「え…」
「ま、どっちかっていうと私も関心持ってないけど。──あ、今度の投票、〝先生と呼ばせない人〟って書いちゃおうかな」
「それ、誰に票が入るんですか?」
それはまた面白そうだと聞けば、
「〝該当者なし〟ってはじかれるんじゃない?」
──ともっともな、だけど絢音らしい返答で和希は笑ってしまった。
「早瀬さんとの会話は、本当に楽しいです」
「そう?」
「僕が普段考えないような事っていうか─…見ている角度が違ったり、返ってくる答えが予想外だったりするので、色々と発見があって面白いんです」
「それは貴重な存在だわ」
「早瀬さんがですか?」
「ううん、川上くんが」
「え、僕が…?」
「人はさ、自分と同じ見方をする人や、同じ考えを持ってる人の方が共感しやすいし、一緒にいて安心するじゃない? でも見ている角度が違うとその共感ができないっていうか、話が合わなくてつまらないって思うのがほとんどなんだよね。それを〝発見があって面白い〟って思えるって事は、相手を認めてるって事だし、それができる川上くんの存在はすごく貴重だと思う」
「あー…いや、まさかそんな風に言われるとは……」
「それに私も楽しいよ、川上くんとの会話」
「本当ですか!?」
その瞬間、それまで少し照れていた顔がパッと輝いて、いつぞやの時と同じ十代のような笑顔になった。
「そう、そういう純粋なところがねー」
絢音はそう言って、脳裏に浮かぶワンコの姿に目を細めた。一方、和希は〝純粋〟という言葉を素直に嬉しいと感じていた。
(同じ言葉なのにこうも違うとは─…)
昨日の帰り際のことを思い出して感動していた和希は、同時に〝あの事〟も思い出した。
「あ、あの!」
「うん?」
「発見ついでに、その─…お酒の美味しいお店があったら教えて欲しいです」
「お酒?」
「たまには外でゆっくり飲めたらなと思って─…」
「あー…」
〝お酒かぁ…〟と思ったところで、ふと誠司の顔を思い出した。
「お酒が美味しいかどうかは分からないけど、雰囲気のいいお店なら知ってるよ。常連客になったらマスターの日替わり夕食も食べられる、おすすめのお店が」
「じゃぁ、そこがいいです! あ、でも常連客じゃなかったら──」
「大丈夫、私が一緒に行くから」
「え、一緒に行ってくれるんですか!?」
「もちろん。──ってか、私がほぼ毎日通ってる店だからね」
「そうなんですか!?」
「ぶっちゃけ、そこ以外の店って知らないんだよね。あ、でもご飯が美味しいのは保証する。それでよければ、だけど」
「そんな─…全然、全然いいです!」
(早瀬さんと一緒ならどこでも…!)
和希は心の中で付け足した。
「じゃぁ、いつにする?」
「あー…じゃぁ、今週の土曜日とかは…?」
「土曜日ね。オッケー、大丈夫。今日と同じ時間だし、帰りに南口で待ち合わせしようか?」
「はい!」
「それじゃぁ、携帯出して」
「え、携帯…?」
絢音が〝そう〟と頷きながら、自分の携帯を鞄から出した。和希も慌てて上着の内ポケットから携帯を出す。絢音は携帯のメッセージアプリを立ち上げると、そのまま和希に差し出した。
「よろしくお願いします」
「え…?」
いきなり丁寧に言われ驚く和希に、絢音はイタズラっぽく笑って言った。
「自分のQRコードの出し方とかよく分かんなくてねー。だから、設定よろしく」
「あぁ! そういう事ですか! 分かりました、ちょっと待ってくださいね」
「急に残業になった時とか連絡できないとねー」
「そうですね」
和希は慣れた手付きで二人の携帯を操作すると、あっという間に設定を終え、確認のために〝よろしくお願いします〟というスタンプを絢音に送った。
「これでオッケーです」
「ありがとー」
絢音は携帯を受け取ると、早速〝こちらこそ〟というスタンプを返した。
「あ、あと携帯の番号もいいかな? 連絡手段は二種類あると安心だから」
「分かりました。じゃぁ、もう一回携帯貸してください。そっちから僕の携帯に電話を掛けるので」
「オッケー」
再び絢音の携帯を受け取ると、和希は自分の携帯に電話をかけ、着信すると同時に切った。
「あとは発信履歴から電話登録できるので─…って、それはできますよね?」
「大丈夫。最悪、紙にメモっておくから」
「アナログですね」
「アナログは最強よ?」
「確かに、そうでした」
懐中時計の話を思い出し、二人は笑った。
そのあとは、絢音の行きつけの店が時間によって喫茶店とバーになる事や、十八時以降に日替わり夕食が食べられる事、そして喫茶店のマスターの父親がバーのママだという事など、大まかな説明を受けた。ただひとつ、マスターやママが和希に会いたがっているというのが気になったが、それもほんの一瞬だった。何より、プライベートの時間を絢音と過ごせる事や、連絡先の交換ができたことの方が嬉しかったからだ。
そしてもちろん、それは会社に着いた途端に速攻で礼香たちにバレてしまったが──