4 束の間の二人の時間
二人が駅で挨拶を交わすと、不思議なくらい自然と会話が始まった。それはきっと、話す内容が本当に他愛もない事だからだろう。最初こそいくつか話す事を頭に入れていた和希だったが、絢音の顔を見た途端それとは全く別の、しかも敢えてこの貴重な時間に話さなくてもいいような事を口にしてしまうのだ。──にもかかわらず、〝どうしてこんな話をしたのだろう〟と後悔しなかったのは、返ってくる絢音の言葉からどんどん話が広がっていくからだった。それがすごく楽しくて、和希はものの数日で考えるのをやめた。
ある朝、〝電車が十五分ほど遅延している〟というアナウンスがホームで流れた。一番の原因は、道路工事による交通規制や通行止めが始まった事だった。迂回や渋滞で遅刻を避けようと、車通勤の人が電車に流れてきたのだ。人が増えれば乗り降りするのに時間がかかり、荷物がドアに挟まるなどして開閉を繰り返す事も増える。少しずつの遅れが、花弥木駅では十五分になっていたのだ。そのため、本来の時間に乗るはずの人と次の電車に乗る人が混じり合い、ホームはいつも以上に混雑していた。
「やっぱり凄い人ですね…」
和希が、予想していた通りだと溜息まじりに言った。その言葉に絢音が返したのは質問だった。
「川上くんって、長距離派だった? それとも短距離派?」
「長距─…え、何がですか?」
当然の事ながら、和希には理解できない。
「子供の頃の得意な走りよ。長距離走か短距離走か…ってやつ」
「あぁ、そういう…。まぁ、どちらかと言うと長距離走の方が好きでしたけど─…って、何で突然?」
「こういう時ってさ、長距離が得意な人って〝よし、走ろう〟ってなるのかなって思って」
「…はい?」
「ほら、普段からジョギングとかマラソンしてる人って、走ることに慣れてるじゃない? 一駅くらいなら、ちょっとそこのコンビニ行ってくる…くらいの感覚で走り出しそうだし。ここで何もせず十五分待つくらいなら、〝十五分走ろう〟ってなりそうだと思ってさ」
「でも走ったとしても、十五分って距離としては短くないですか? 確か、マラソン選手が三分から四分で一キロ走るって聞いたことがありますよ?」
「四分で一キロって事は─…素人で五分くらい?」
「…ですかね」
「…ってことは、十五分で三キロ」
「駅にすると、短いところで一駅か二駅…ってところですかね」
「…………」
「…………」
「走らないか…」
「…ですね」
なんとはなしに浮かんだ疑問だが、考えていくうちに途端に現実が見えて結論が出る。その拍子抜けした感じがおかしくて、二人は笑ってしまった。
「ちなみに、早瀬さんは長距離か短距離…どっちが得意だったんですか?」
「私は断然、短距離派。すぐ結果が出るし、何より片道だしね」
「片道…?」
「マラソンとかだと、折り返し地点ってあるじゃない? あれがすっごく嫌だったんだよねー。そもそも持久力がないからさ、折り返し地点まで行くのも大変なのよ。なのに、あそこからまた同じ距離を走らなきゃならないでしょ? 普通は先が見えない事に絶望するけど、あれは先が見える事で絶望する」
「そこまで?」
「そうよー。だから、登山も好きじゃない。登って〝やったー〟って満足したあと、また同じ距離を歩いて下りなきゃならないじゃない? しかも、疲れ切った足だと登る時より下りる時の方が疲れるって言うし。ほんと、往復は無理…」
まさか長距離走が苦手という理由に、〝往復〟があったとは…。自分の想像を超えてくる返答に、和希はいつも新鮮な驚きと楽しさを感じた。一方で、そんな和希の表情を目にしてほっこりした気持ちになっていたのは絢音だった。
「川上くんって、イライラする事ある?」
「それはもちろん─…って、また急ですね?」
「んー…なんか周りを見てると、みんな結構イライラしてるからさ。でも川上くんは通常営業でしょ?」
「あー…それは多分、一本乗り遅れても大丈夫っていう、時間の余裕があるからだと思います」
(本当は、早瀬さんと一緒にいるからですけど)
和希は本音を隠した。
「それって、いつも早めの電車に乗ってるって事?」
「そうです」
「素晴らしい。時間の余裕は心の余裕ってやつね」
「でも早瀬さんも結構余裕ですよね?」
「まぁねー。私も一本乗り遅れても大丈夫なように早めに来てるから」
「素晴らしいです」
今度は和希が言った。
「じゃぁ、早瀬さんこそあまりイライラしないんじゃないですか?」
「ところがどっこい、よ」
「え、あるんですか?」
「あるある」
「例えばどんな事が…?」
「んー…店の通路を塞ぐように喋ってる人とか?」
「あー、いますね。しかも、そういう人に限って人が来ても避けなかったりするんですよね」
「そう、それ。避けるならまだしも、避けないのよ、これが。それと、レジで金額を言われてから財布を出す人とかね」
「あぁ、いますね! たまに、ですけど」
「あれは何なんだろうねー。金額に納得いかなかったら払いませんっていう意思表示なのかな」
「いやいや、そんな買い物の仕方ありますか?」
「じゃぁ、後ろの人に対する嫌がらせ?」
「見知らぬ人に謎の嫌がらせって…何のために?」
「さぁ…。理解できない人の考えが分かったらノーベル賞ものかもね」
「何ですかそれ」
和希は可笑しくてツッコんだ。
「でも、そういう人を見かけたらどうするんですか? 注意とかするんですか?」
「まさか、しないよ。ただ、〝後ろの目をもらってないんだなー〟って思うだけ」
「う、後ろの目?」
またもや不思議な言葉が返ってきて、同じ言葉を繰り返した。
「例えばさ…今って、通路の真ん中に子供が立ってた時、親が子供になんて言うか知ってる?」
「えっと─…〝こっちにおいで〟とかですか?」
「その前の段階」
「名前を呼ぶ…?」
思わぬ、だけど真っ直ぐすぎる答えに今度は絢音が笑った。
「とりあえず、名前は除外かな」
「で、ですよね…」
「多くの親はこう言うの。〝危ないから、こっちにおいで〟って」
「あぁ、確かに」
「でも危ないのは、人とぶつかって〝子供の方が〟ケガをするから…っていう理由でしょ? 確かにそれも大事だけど、〝そこにいたら通路を歩く人の邪魔になる〟って教える事も大事だと思うんだよね」
「あー!」
言われて和希が思い出した。
「そういえば、僕も言われてました! 〝そこにいたら邪魔でしょ〟って」
「でしょ? 私もよく言われた。だから、どこかで立ち止まる時とか、多くの人がいるところで何かを見ようとする時は、後ろの人の邪魔にならないようにとか、歩く人の邪魔にならないようにって考えて行動するようにしてる」
「分かります。僕も結構そういうのを気にして、隅っこの方に移動しがちです」
「じゃぁ、川上くんは親からちゃんと〝後ろの目〟をもらったわけだ」
「なるほど、そういう事ですね」
「まぁ、周りを見すぎると生き難くなるんだけどさ、ある程度はみんなが周りを見られると平和になると思うんだよねー」
「確かに…」
和希は大きく頷いた。
「じゃぁ、次。川上くんのイライラする事とは?」
絢音がマイクを向けるジェスチャーをした。
「ぼ、僕ですか?」
「さっき〝もちろんある〟って言ったからね。──ほら、何がイライラする?」
「そう…ですね…。似たような事ですけど、車のライト…とか?」
「車のライト?」
和希が頷いた。
「夜、送り迎えかなんかで車が止まってたり、立体駐車場とかで止まってる時に、ずっとライトがつけっぱなしの車です」
「それ、単純に消し忘れじゃなくて?」
「…じゃなくて。人も乗っててエンジンもかかってて、駐車してる車です。スモールライトだけならいいんですけど、ヘッドライトをつけっぱなしって意外と邪魔で眩しくて─…」
「なるほど。それもやっぱり〝後ろの目をもらってない人〟か、もしくは──」
絢音はそこで一旦切って和希をじっと見た。
「え…も、もしくは…?」
「もしくは、ただ点いてるライトが見えてない〝ただのバカ〟」
「ただのバ──」
そんな言い方もするんだと驚きつつ、思わず最後まで繰り返しそうになって慌てて口を塞いだ。でもその次の瞬間、二人で吹き出していた。
「なんかもう…次そういう人を見てもイライラしない気がします」
「そう? なら良かった」
そう言って絢音がニッコリ笑えば、ちょうど遅れてきた電車がホームに入ってくるところだった。
「なんか、十五分ってあっという間だったねー」
「ですね」
(本当にあっという間でしたよ、早瀬さん…)
絢音との会話が楽しくて、どうせならもっと遅れてくれればいいのに…と思ってしまう和希だった。
ある時は、寝癖の話から始まった。
絢音が三日続けていつもの時間に来なかった次の日、階段を上がってきた和希がその姿を見つけて心躍らせた。三日間の疲れが一気に吹き飛んだ気分だ。
「おはようございます…!」
本音を言えば、目に入った瞬間〝早瀬さん!〟とその場で声を掛けそうになった。でも流石にそれは迷惑だと、グッとその名前を押し込んだのだ。そうして喉の奥を閉めたまま絢音のところまで行くと、ようやくいつもの挨拶を口にした。ただ押し込めていた分、少し言葉に力が入ってしまったが…。
「おはよう─…って、もしかして寝坊した?」
振り向いた途端、和希を見てそう言った。
「え…どうして分かるんですか?」
「髪がアニメっぽい」
「アニメ…?」
「そう、ここがねー」
──と言いながら、絢音は和希のつむじ辺りを触った。触れられた瞬間、心臓が大きな音を立て、内側からブワっと体温が上がった感覚に襲われた。
(や、やばい…そんな急に─…)
「ほら、触ってみて」
言われてつむじ辺りを軽く触ってみれば、頭から手を離したにもかかわらず、空中で髪の毛が触れる。
「え…こんなに!?」
「さすがに直んないね、それは…」
「うわ…どうしよう…」
何とか手櫛で直らないかと掴んだり押さえたりするものの、跳ね具合は変わりそうもなかった。
「いいんじゃない? 抜け感があって」
「えー…。抜け感って、そういう使い方するんでしたっけ?」
「完璧な所から、どこかひとつ抜けてる感じは一緒でしょ」
「それ、ただの〝マヌケ〟を意味する〝抜け感〟じゃないですよね…?」
「え、〝抜け感〟って〝マヌケ感〟って意味なの?」
「いや、違いますけど…。でも、マヌケに見えませんか、僕…?」
「見えない、見えない。──ってか、むしろ可愛く見える」
「可愛く…!?」
「完璧よりも、そういうちょっと抜けてるところがある方が良くない?」
「やっぱり、マヌケ感のように聞こえる…」
「そんな事ないって、ほんと。私的には完璧な人より、そういう人の方が話しやすくて好きだけどなー」
「え…?」
「ほら、いつも完璧でいられるとさ、自分も完璧じゃなきゃいけないような気になるじゃない? 私、ああいう堅苦しい付き合いとか関係って、面倒で嫌なんだよねー」
「そうなんですか?」
「だって、そこで完璧に仕上げてもさ、素は絶対違うでしょ? プライベートな部分まで完璧な人って絶対いないと思う。家の中じゃ、ソファに寝っ転がって〝あー疲れたー〟って言いながら、足上げてたりするって、絶対。休日だったら昼くらいまでダラダラ寝てたり、着替えずに一日過ごしたり、閉めきれなかった冷蔵庫の扉を体使って閉めたりとかさ…そういう〝あるある〟が見える人の方が、私は安心するけどなー。その寝癖も、なんか〝無防備感〟があって可愛く見えるし」
「無防備感…」
そう繰り返した時には、正直、〝まぁ、いいか〟と思っていた。〝可愛い〟という言葉よりも、〝そういう人の方が好き〟という言葉に全て持っていかれたからだ。もちろん、自分の事が好きだと言われたわけでないのは和希も分かっている。ただ自分が〝そういう人〟と思われているのなら、それはすごく嬉しい事だった。
「早瀬さんもそういうところがあるんですか?」
そういう部分があって欲しいと思い聞いてみれば──
「まさか…」
──という言葉に驚いた。
「ないんですか…!?」
「…なわけないじゃない。もー、家ではダラダラよ、ダラダラ」
絢音は最後の〝ダラダラ〟という所に力を入れた。それを聞いた和希が心底ほっとした顔をした。
「あー…あぁ、そうですよね…」
「あ、でも──」
絢音がふと思い出した。
「仕事じゃ、そのアニメ髪はダメか」
「ですよね─…って、アニメ髪はやめてください。なんか、コスプレしてる人に聞こえます」
「あはは、それもそうだ。じゃぁ、ピンハネ?」
「それはもう犯罪──って、面白がってますよね?」
「あは、バレたか。でも、寝癖も直せてないって事は、朝も食べてないんじゃない?」
「はい、まぁ…。三日前から急に忙しくなって、色々と乱れまくってます…」
「じゃぁ、とりあえずは会社に着く前に喫茶店にでも寄って、寝癖を直してから何か食べた方がいいわね。一本早い電車だから、その時間くらいはあるでしょ」
「ですね…。でもやらなければいけない事も考える事もいっぱいあって──」
「それでも、食事と睡眠は大事よ。それさえちゃんとしてれば、大抵の事は乗り越えられる。逆にそれが乱れたら頭は冴えなくなるし、睡眠不足が積み重なると人間壊れちゃうからね」
「壊れるって─…またそんな怖い事を…」
「怖いのよ、飢餓と睡眠不足は。──ほら、映画で〝死亡フラグ〟ってあるじゃない?」
「はぁ…」
なぜ急に映画の話なのかと思ったが、とりあえず和希は聞くことにした。
「あれ、〝地獄のフラグ〟もあると思う」
「地獄?」
「それを言ったら、絶対に地獄のような生活になるっていうセリフよ」
「どんなセリフですか?」
「〝何でもする〟よ。追い詰められた時にさ、〝何でもするから、それだけはやめてください〟とか言っちゃうと、大抵、負のスパイラルにハマっちゃうでしょ? 抜け出したくても抜け出せないような状況にさ」
「確かに…」
「だから絶対に言っちゃいけないセリフなんだけど…。飢餓と睡眠不足も重なると同じよ。そういう追い詰められた状況と同じようになって、正しい判断もできなくなるんだよね。──ってまぁ、それは究極の話だけどさ。でも試験勉強の時に先生に言われなかった? 夜一生懸命覚えても、寝たら半分くらいは忘れるから朝覚えた方がいいって」
「あー、それは聞いた事があります。テレビか何かで」
「でしょ? 大事な事を忘れたら困るけど、大抵大事な事は覚えてるものよ。それにいい具合に忘れると記憶容量が増えるから、整理もしやすくなる。そうするとさ、ある時ふと良い考えが浮かんだりするのよ、これが。だから、寝るって大事なの」
「そう…なんですね?」
「そうよー。だから今日は家に帰ったらご飯を食べてすぐ寝なさい。そして五時くらいに起きてみて。きっと集中力も上がって効率よく仕事ができるから」
「分かりました、やってみます」
そう言った和希の目は、社交辞令と言うには真っ直ぐで…。
絢音は軽いノリで〝よろしい〟と頷いたものの、〝まさかね…?〟と思っていた。それが本当に実践したと知ったのは翌日の事で、〝早瀬さんの言う通りでした〟と嬉しそうに報告するその姿を見て、絢音も何だか胸が温かくなった。
(ほんと、なんて素直な人なんだろう、川上くんって…)
またある時は、絢音の仕事の話になった。
その日も、絢音と会えない日があった次の日だった。ホームにはまだ絢音が来ておらず、今日も来ないのかと思った直後、後ろから声が掛かった。
「おはよー」
「あ、早瀬さん! おはようござます─…って、良かった…」
ホッとした和希の口から、思わずその言葉が出た。
「ん? 何が?」
「あぁ、いえ…今日は会えたので良かったなって…」
「あー…そっか。私の勤務時間ってバラバラだから、この時間だったり、もっと早かったり、逆に遅かったりする時があるんだよね」
「そうなんですか。じゃぁ、良かったです。体調が悪いとかじゃなくて」
「全然。むしろ体は強い方よ。子供の時は風邪引いても熱が出なくて、学校を休ませてもらえなかったんだよね。だからもう、休める子がめちゃくちゃ羨ましかった」
「僕は逆によく熱を出して休んでたみたいです、幼稚園の頃は」
「あー、あるある。小さい時は男の子の方がよく熱を出すっていうからね」
「みたいですね。でも勤務時間がバラバラって─…何の仕事なんですか?」
「んー…」
「あ、言いたくなければ無理に──」
言い淀んだことで、すぐにそう付け足そうとしたが、
「〝この世の男性のほとんどが幻想を持ってる職業〟…かな」
──と、まるで謎解きのような答えが返ってきた。
「え…っと─…幻想って、僕もですか?」
「川上くんの頭の中は分からないけど、私の勝手な想像では人一倍持ってる気がする」
「え、ほんとですか!? 人一倍…!?」
そう言われて、和希は何だか恥ずかしくなって慌ててしまった。その姿に絢音がクスッと笑う。でもすぐに、何かを見つけたのか視線が動いた。そして追いかけるような視線に和希も気付き、その方向に顔を向けようとした時だった。
「ごめん、ちょっと待ってて」
そう言うや否や、絢音は一人の女性の元に向かって行った。
女性は絢音に声を掛けられて振り向いた後、驚いたように背負っていたリュックを見た。そして慌てて背中から下ろすと、半分ほど開いていたファスナーを閉じた。それから二言三言会話をしたのち、女性は頭を下げ、絢音は軽く首を振ってこちらに戻ってきた。
「大丈夫でした?」
「うん。財布をしまったあと、閉め忘れただけみたい」
「良かった。でも、躊躇いもなく声を掛けるって、すごいですね」
「躊躇わないわけじゃないけど、〝気になる!〟っていう気持ちが勝るだけよ。迷うとずーっとその人の事を見ちゃうし、だったらもう、〝声を掛けちゃえ!〟みたいな。──あ、でも相手と状況によるよ?」
「相手と状況?」
「今回みたいな事とか、目の前で何かやり方が分からなくて困ってる人だったら、思わず声が出るかな。声を掛けるというより、〝それはこうするとできますよー〟とか。まぁ、自分が分かれば、だけど。でも男性のさ…ズボンの前が開いてるのはちょっとね…。声掛けられても、相手も気まずいだろうし」
「確かにそれは─…」
「でしょ? だから、その時はよろしく」
「はい─…え、よろしくって?」
思わず〝はい〟と口に出たが、すぐに〝よろしく〟の意味が分からなくて聞いた。
「もしそういう人がいたら、コソッと教えに行ってきてよ」
「えぇ!? 僕がですか!?」
「同性なら大丈夫でしょ」
「同性でも知らない人にいきなりそれは──」
「じゃぁ、私が言うしかないか…」
「いやいやいや、それはさすがに──」
「じゃ、決まりね」
「えぇー…」
「大丈夫だって。そんな人、そうそういないから」
「そう願いますけど…」
正直、絢音も本気でそんな事は思っていない。ただ和希の反応があまりにも素直なため、そういう会話を楽しんでいるだけだ。絢音はホームに入ってくる電車を見ながら、和希に気付かれないよう小さく笑った。
扉が開いて人が降りたあと、扉の横で待機していた人が順番に乗り込んだ。最後の方にいた絢音たちが乗り込み、数人がその後に続いた時だった。何気に顔を動かした絢音は、ある姿を目にしてハッと息を呑んだ。途端に鼓動が速くなり、緊張と共に冷や汗がどっと出てきた。周りの音が遠くに聞こえるように、意識が現実から離れていく感覚に襲われる。
(逃げなきゃ─…)
そう思った時には既に体が動いていて、絢音は電車からホームに降りていた。
「早瀬さん!?」
自分の名前が呼ばれて、一気に現実の音が戻ってくる。反射的に振り返れば和希の顔が見えて、絢音は少し冷静さを取り戻した。
「どうし──」
「あー…ごめん。忘れ物を思い出したから、取りに戻るわ」
「え…? でも次の電車に間に合わないんじゃ─…」
「大丈夫、すぐだから。じゃぁ─…」
そう言ったのは扉が閉まりかけた時で、その隙間から聞こえた和希の声を背に受けて、絢音は足早に階段を下りていった。
和希を乗せた電車がゆっくりと動き出す。その音を、絢音は下りた階段の壁に寄りかかるようにして聞いていた。
(大丈夫…もう大丈夫…)
気持ちが落ち着くまで、絢音は何度もそう自分に言い聞かせた。そして同時に、和希に対してもうまく誤魔化せていることを願わずにはいられなかった──