23 とんだ誤算は、うれしい誤算
カーテンを開けた時、ちょうど点滴が終わった針を看護師が外すところだった。それは絢音にとって日常的な光景で、一瞬、冷静な自分が戻ってくる。ただその奥で横になっていた和希の姿を目にすると、再び胸に込み上げてくるものがあった。同時に、和希が絢音の姿を目にした。
「絢さん…!?」
看護師が空になった点滴ボトルを持って絢音の横を通り過ぎた時、絢音もようやく声が出た。
「あ…ご、ごめん─…」
少しやつれた、でも懐かしい顔とその声に、また涙が溢れそうになった。溢れてくる感情を抑える自信がない。今までに感じたことのない衝動が怖くて、思わずカーテンを閉めようと手をかけ、踵を返した時だった。
「待ってください!」
起き上がると同時に聞こえたその声に、反射的に絢音の足が止まった。
「行かないでください、絢さん……お願いです…」
最後に聞こえたその声が絢音の胸を締め付けた。カーテンを掴んだ手に力が入る。少し苦しくなった胸に、敢えて空気を入れようと大きく息を吸い込むと、涙をぬぐってから、ゆっくりと振り向いた。
「やっと会えた…」
その顔は、絢音の顔を見てホッとしたような、嬉しいような、それでいてどこか苦しそうだった。更に胸が締め付けられそうになるのを跳ね返そうと、できるだけいつもの口調を取り戻す。
「倒れるまで仕事をさせるなんて…そんな会社辞めなさい」
誠司から十年前の事を聞いたからか、思わず出たのはそんな言葉。それが和希にも十年前の事を思い出させたのか、小さく微笑んだ。
「なによ?」
「…違います」
「何が?」
「勝手に仕事を背負い込んでいたのは僕です。会社からは、ずっとセーブするように言われてました」
「だったらどうして──」
「絢さんと離れてからずっと辛かったからです。絢さんに会いたい、絢さんと話したい…って、少しでも時間ができるとそればっかり…。だから…考える間もないくらい仕事をしていたかったんです。そうじゃないとどうにかなりそうで…」
「だからって、倒れたら意味ないでしょ」
「そうですね…。でもそれでダメなら、僕はもういいと思ってました」
「なに言っ──」
「それくらい辛かったんです。誠司さんから聞いていました。絢さんはいつもの絢さんに戻ってるって…。それを聞いたら、あぁ…絢さんにはもう二度と会えないんだ…絢さんにとって僕はなくてもいい存在なんだって思って…そしたらなんかもう、生きている意味があるのかなって…」
「そんなこと─…」
「でも実際、絢さんは僕がいなくても平気だったんですよね? いつもの絢さんでいられるってことは──」
和希の言葉を聞いているうちにどんどん胸の中がぐちゃぐちゃになってきた。それまで一生懸命折りたたんで仕舞い込んでいた感情が、ひっくり返った引き出しからあふれ出してくる感覚に、絢音の気持ちが一気に流れ出した。
「平気よ。和くんがいなくても平気。ちゃんと今まで通り一人で生きていける」
絢音の言葉に、和希の体から力が抜けた。
「やっぱり、そうですよね…」
「…そう思ってた」
「え…?」
「そう思おうとしてた…!」
感情が喉を詰まらせ、少し声が強くなった。
「一人で生きていけなくなるのが怖いから…そうならないように必死だったのよ。そのうち少し落ち着いてきて…やっと少し自信を取り戻してきたのに……そうじゃなかった…」
「…絢さん?」
「今日、和くんが倒れたって聞いてやっと気が付いた。大丈夫だって思えたのは、和くんと会えなくても必ずどこかで生きているって信じてたからだって…。でももしそうじゃなかったら…このまま二度と会えなくなったらって思ったら、なんかもう怖くて怖くて─…」
「絢さん──」
「こんな気持ち気付きたくなかった…! 知らないままなら一人で生きていけたのに──」
喉につかえていた感情が堰を切ったように溢れ出し、それでも必死に声を抑えながら話していたが、最後の言葉が限界だった。
(和くんと共に生きていきたい…!)
心の中でハッキリと認識した瞬間、嗚咽と共にその場で崩れ落ちそうになった。そんな絢音の言葉をたまらない気持ちで聞いていた和希は、感情のまま体が動いて絢音を抱きしめいていた。
(やっと…やっと抱きしめることができた…)
絢音の過去を知った時に感じた〝無性に抱きしめたい〟という思い。和希はそれを思い出し、強く、それでいてとても優しく抱きしめた。そして、絢音が少し落ち着くのを待ってから改めて聞いた。
「絢さんにとって、僕が必要だと思っていいですか…?」
その質問に、絢音は和希の胸に顔を埋めながら答えた。
「ほんと…とんだ誤算だわ…」
少し照れた嬉しそうな口調に、和希も嬉しさが込み上げてくる。
「僕にとっては、うれしい誤算です」
そう言えば、自分の腕の中の絢音が〝クスッ〟と笑ったのを感じた。そしてこの時、〝絶対に離すな〟と言った誠司の言葉を思い出し、それを実行するのは今だと確信した。
「絢さん」
「うん…?」
「僕はストーカーなんかに負けません。絢さんの前からもいなくなったりしませんから。必要なら武術でも護身術でも習って、自分も絢さんも守ります。それと、絢さんが感じている未来の不安は、僕の人生をかけて必ず取り除きます。だから─…」
和希は、一旦そこで切って大きく息を吸った。
「──だから、僕と結婚してください」
その言葉に絢音は驚き、思わず顔をあげた。けれどそこにあったのは、自分とは正反対なほど嬉しそうに微笑む和希の顔。それを見た瞬間、何故か不思議とそれまであった不安がどうでもよくなってしまい、フッと笑ってしまった。
「すっ飛ばしてきたわね…」
「絢さんの気持ちが変わらないうちに、です。それに──」
「それに?」
「それにこれでも、最上級の愛情表現としてはまだ足りないくらいです」
そんな言葉に胸が痛くならないわけはなく──
絢音は両手を伸ばし和希の首に回した。
「ほんっと、心臓が持たない…」
〝イエス〟の意味でキュッと腕に力を入れれば、和希の絢音を抱きしめる腕にも更なる力が加わった。そして次に腕の力が緩んだ時、和希は絢音の頬に手を当てて優しい口づけを落とした。
ようやくお互いの気持ちが通じ合った二人は、それから一時間ほど話をした。誠司から十年前の出会いを聞いた時は驚いた…と話せば、その頃からずっと絢音を想っていて、再会したのが誕生日だった事や、みんなにはバレバレだった絢音への気持ちも、本人には全く伝わらなくて複雑な気持ちだったという事も聞かされた。優しい声と口調と言葉と─…その全てから和希の愛情が伝わってくる。絢音は今までにない幸せを感じ、その気持ちをどう伝えようかと考えていた。──が、帰り際になって、考えるよりもずっと自然に体が動いていた。
(…………!)
絢音からの突然の口付けに、和希は一瞬固まった。そんな和希がまた可愛くて、愛おしくて─…更には今までにはない自分の行動に恥ずかしさも加わって、絢音は〝また、明日ね〟と軽く言って病室を出ていったのだった。
駐車場に戻ると、車の中では誠司がシートを倒して眠っていた。絢音は運転席側の窓をコンコンと叩いた。その音に気付いて誠司が目を開ける。それを確かめて、絢音は助手席に乗り込んだ。
「お待たせ」
絢音の言葉を受けつつ、誠司がシートを元に戻した。
「──で?」
エンジンをかける仕草もなく、その先を聞いた。
「付き合う事になったのか?」
絢音は〝んーー…〟と考えるように視線を上に向けたあと、首を横に振った。
「は? 付き合わなかったのか?」
「付き合わなかった…」
「なんでだよ? ──ってか、和希は言わなかったのか!?」
「言わな…かったねぇ…」
「はぁ!? いやいや─…いやいや、おかしいだろ…」
(あいつ─…なにやってんだよ!? 最後のチャンスって言ったろ!?)
このまま帰れるわけもなく、もう一度病室に連れて行こうかと思った時だった。
「ほんと、おかしいよね…すっ飛ばしてくるんだから」
「すっ飛ばす…? なにを?」
「付き合う過程」
「付き合う…過程…?」
意味が分からず繰り返した誠司は、もう一度別の質問をした。
「和希になにを言われたんだ?」
その質問に、絢音は空を見上げて言った。
「結婚してください、って──…」
「けっ…こ─……プロポーズ!?」
絢音は〝そう〟と頷いた。
「は!? マジで!? プロポーズしたのか、あいつ!?」
絢音はもう一度頷いた。だけどその顔はとても幸せそうで──…
「はは…マジか─…」
(確かに〝絶対に離すな〟とは言ったけど、まさかそこまで〝真っ直ぐ〟だったとは─…)
さすがにそれは想定外だったと驚いたが、目の前の幸せそうな絢音を見れば、心から和希で良かったと思える。しかも──
「もちろん、受けたんだろうな?」
──と聞けば、
「断る理由がないからねー」
──と返ってきたから、誠司は本当に嬉しかった。一人で生きるつもりだった絢音が、結婚まで考えられるようになった事に涙が出てくるくらい嬉しかった。
誠司はそれを隠すように、すぐに電話を掛けた。そしてママに〝絢ねぇが結婚するってよー〟と伝えると、電話の向こうで一瞬沈黙があったのち、歓喜の声が響いたのだった。
そんな報告がされているとは知らない和希は、こちらもまた幸せな余韻に浸りながらベッドの上で過ごしていた。絢音の事を考えていると、あっという間に時間は過ぎていく。気が付くと夕食の時間になっていて、自分でも驚いたほどだった。
二十一時の消灯で部屋が暗くなると、カーテンの隙間から光が入ってきた。あまりにも明るくて、どこか外の照明でも付いているのかと、和希はベッドから降りてカーテンを開けた。そこにあったのは大きな丸い月だった。
(あぁ…月か。しかも満月…)
そう言えば、しばらく空も眺めてなかったな…と、久々に見た月の光をぼんやりと眺めていた。
和希は、〝九時に寝られるわけがない〟と言った絢音の言葉を思い出して〝ほんと、そうだ〟と納得していた。昨日までならすぐにでも寝られただろうが、夕方の出来事と心の充実感で疲れや眠気が全くないのだ。
(まだ起きてるかな…)
絢音が来たのは、夜勤明けの…それもいつもなら寝ているはずの時間だ。この時間なら寝ていてもおかしくないだろう…と思ったが、和希はどうしても一言だけ言いたくて月の写真を撮った。そしてメッセージアプリを開くと、その写真と共に最近よく話題になった有名な言葉を添えた。
【月が綺麗ですね】
返信がなくても良かった。ただその一言を伝えたかったから…。けれど、予想に反して〝既読〟が表示された。
(まだ起きてたんだ…)
そんな驚きと嬉しい気持ちが混ざり合いながら待っていると、これまた予想に反した返事が返ってきた。
【今日はフラワームーンなんだって。明るいよねー】
──と。
(つ、伝わってない…)
──と思うと同時に、誠司が言った言葉も思い出した。
〝呆れるくらい鈍感だろ?〟
その時は笑う事もできなかったが、今は思わず笑ってしまった。
(そうだよな。直球でも伝わらない時があるのに、こんな言葉で伝わるわけがない)
苦笑しながら椅子に座ると、次の言葉を考えた。
【予想以上に明るくてびっくりです】
【和くんはさ、夜に影ができるっていつ知った?】
【どういう事ですか…?】
【私は小学校の時だったな。理由は忘れちゃったけど、夜中に外に出た時があってさ…。その時にふと地面を見たら、自分の影があったのよ。周りを見たら、他のものにもハッキリとした影があって…あぁ、夜でも影ができるんだって感動した。その時に〝月って明るいんだなぁ〟って初めて思ったんだよね】
そんなエピソードを聞いて、和希はほっこりとなった。小学生の絢音の顔は知らないが、今の顔を幼くした絢音が、外に出て月の明るさに感動している姿が想像できてしまったからだ。
【影ができるって考えた事はないですけど、月の明るさを実感したのは中学生の頃だったと思います】
【ひょっとして、夜中に悪さしてたなー?】
【修学旅行の夜にこっそりと…】
【その話、あとでゆっくり聞かせてもらうわ(笑)】
【分かりました】
一言伝えられれば…と思っていたメッセージのやり取りは、そこから更に三十分ほど続いた。
【じゃぁ、もうそろそろ寝ないとねー】
【絢さん】
【うん?】
【愛しています】
月の言葉が伝わらなかったため、今度は直球を送った。──が、それまではすぐに返ってきた返事が、しばらく待っても返ってこなかった。
(え…絢さん…?)
少し心配になり、もう一度何かを送ろうとした時だった。
【私も、です】
──というメッセージと共に、〝おやすみ〜〟というスタンプが送られてきた。
(なんでまた〝です〟なんて言葉…)
絢音らしくないその文面を見て、和希は小さく笑ってしまった。その言葉を返すまでに、〝なんて返そうか〟と照れながら悩んでいる絢音の姿が目に浮かんだのだ。
(ほんと、可愛すぎですよ、絢さん)
和希は幸せな気持ちになりながら、〝おやすみなさい〟というスタンプを送った──
─完─
終始ほのぼのとして話がなかなか進まずイライラした方もいるかと思いますが、「諦めず読んで良かった」と思える最後だったらいいなと思います。
そして…絢音、和希、誠司、ママさん、雅哉、礼香、田邊のキャラは、どの俳優さんを思い浮かべたでしょうか?
私が思い描いていた俳優さんと一緒なら、イメージ通りに書けたんだな、とちょっと嬉しくなります。
最後まで読んでくださって、ありがとうございました。
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