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22 倒れた和希と過去の思い

 絢音が退院してから、全ての生活がいつもの日常に戻った。和希と出会う前の、なにも変わらない日常だ。朝の通勤時間に和希に会うこともなくなり、絢音は一人、いつものように電車に乗る。店の常連客にはママから箝口令が敷かれたため、和希の話も一切出てこなかった。

 最初こそ無理して笑っているように見えた絢音も、周りが和希の話を出さないこと以外変わらなかったからか、次第に自然と笑えるようになっていった。ただ和希と一緒にいた時の絢音を知っている人にとっては、その頃の笑顔には遠く及ばないように見えた。そしてこの〝いつもと変わらない〟というのは、ホッとできて、ありがたくて、嬉しいと思える事だったはずなのに、今では寂しくて、物足らなさを感じるものになっていた。

 そんな不満を毎日のように誠司に愚痴っていたのは椿だった。全ての事情を知っているのはママと誠司と雅哉のみ。それゆえに、〝なんとかしてよ〟という気持ちが募っていったのだ。もちろん夏帆や他の常連客も同じ気持ちではあったが、絢音の幸せを誰よりも願い、そうしたいと思う気持ちが強い誠司やママを見ていると、そんな簡単な事ではないのだという事も分かる事だった。

 その一方で、誠司は和希の事も心配していた。〝連絡する〟と言った通り、何度か連絡を取った。言える事はなかったが、唯一絢音の事で話ができたのは〝元気で変わりない〟という事だけだった。あとはとにかく和希と話をしようと、他愛のない話をした。ただそれも、一ヶ月もすると激減した。仕事が忙しいらしく電話に出なくなり、メッセージのみのやり取りで終わる事がほとんどになったのだ。最後に電話で話したのは三週間ほど前になるだろうか─…。

 五月も残り僅かとなった日、カフェ&バー Ayameに懐かしい人がやってきた。

「こんにちは…」

「いらっしゃ──」

 カウンターの中から顔を上げた誠司は、その顔を目にして頭の中にある記憶のページを高速でめくった。

「あー…えっと…確か和希の会社の──」

「はい、佐々木礼香です。一年ほど前に文房具を置かせていただいた──」

「そうそう、あの時の! あれからもうすぐ一年ですか…早いですね」

「えぇ、本当に。その節はお世話になりました」

 礼香が仕事モードで頭を下げたため、誠司も慌てて頭を下げた。

「いえ、こちらこそ─…お客さんにも好評で、思ってたより早くなくなりましたよ」

「それは良かったです」

「あ、どうぞこちらに──」

 誠司が目の前のカウンターに〝どうぞ〟と手を差し出すと、礼香が軽く頭を下げ椅子に座った。──がその表情はとても固く、客としてここに来たのではないだろうと直感的に感じた。それでも敢えて聞いてみる。

「何か飲まれますか?」

 案の定、礼香は無言で首を振った。

「今日は、お願いがあって来たんです」

「──というと?」

「川上くんを止めてほしいんです」

「和希を止める…? それは一体どういう─…?」

 意味が分からず聞き返すと、礼香はひとつ深呼吸をしてから話し始めた。

「仕事をやめないんです……あ、〝やめない〟っていうのは退職という意味じゃなくて…複数の仕事を抱えて朝から夜遅くまでずっと仕事をしてるのをやめないっていう意味で…」

「あ、あぁ…そういう…」

「ある日突然、元気がないな…って思ったら、急に仕事に打ち込むようになったんです。最初は〝すごいやる気だな。どうしたんだ〟ってみんな軽く言ってたんですけど、しばらくしたらそうじゃないって気付いて…」

「和希は休んでないんですか…?」

 礼香は頷いた。

「何かに取り憑かれたように仕事をして、早く帰るように言っても帰らないし、日付が変わるまで会社に残って、休みの日まで出てくるんです。日に日に顔色は悪くなってくるし、元気もない。最近は昼ごはんすらまともに食べなくなってきました。だから上司や私が〝命令として、仕事をセーブしなさい〟って言ったんですけど、〝何かをしていないとどうにかなりそうなんです〟って…。その顔を見た時、最悪の事が頭をよぎったんです…。このままでは身も心も壊れてしまう。でも仕事を取り上げても同じ事になる…命を落としかねない…って」

「あいつ…」

「それで誰かに助けを求めなきゃって思った時に、この店を思い出したんです。川上くん、会社で何か嫌な事があっても、ここに来ると全てをひっくり返してくれる人がいるから元気が出るんだって言ってたんですよね…。すり減ったライフゲージが復活するって…。最近はここにも来てないんですよね?」

「えぇ、まぁ…」

「やっぱり…」

 礼香が残念そうに俯いた。

「それまでは毎日のように話に出ていたんですよ、絢さんの名前が…。それが出てこなくなったから、何かあったんだろうな…とは思ったんですけど…やっぱり、そういうことなんですね…」

「……………」

 誠司は何も言えなかった。付き合っていないため別れたというのも違うし、絢音が和希を守るためにしたことを彼女に話すのも違う。ただこれ以上、黙っている事はできないと思った。

「…分かりました。オレが和希と話します」

 誠司の言葉に、礼香がバッと顔を上げた。

「本当に…?」

「はい、近いうちに必ず和希と話します」

「お願いします。もうほんと…見ていられなくて……」

 ホッとした感情と、見ていられないほど苦しい状況の和希を助けることもできない辛さが、その声にも表れていた。

「ではお願いします。どうか川上くんを助けてあげてください」

 礼香は立ち上がってそう言うと、再び頭を下げて店を出て行った。

 誠司はママの方を向いた。

「親父──」

「何やってんのよ。早く連絡取りなさい」

 〝和希に話すからな〟と言おうとしたその時間すら惜しいとばかりに、ママが急かした。

「こういう時は、近い未来の約束をするのが大事だって絢ちゃんも言ってたでしょ。ほら、早く早く!」

「あ、あぁ…」

 まるで追い払われるような手の仕草を受けて、誠司はポケットから携帯を取り出しつつ店の奥へ入って行った。絢音から送られた勤務表を確認してから電話を掛けると、五コール目で和希の声が聞こえた。

「はい…」

 その第一声は数週間前とは明らかに違っていた。今までにないくらい弱く、どれだけ参っているのかが伝わってくる。誠司は後悔した。もう少し頻繁に…いや、もう少し早く本当の事を伝えるべきだった、と。

「和希、今仕事か?」

「…はい」

「明日、店に来い。いつもの時間に」

「でも仕事が──」

「仕事なんてどうだっていい!」

 電話越しでも和希の様子が分かるくらいの声だというのに。それでもまだ仕事が…という言葉を聞いて、誠司は思わず声を荒げてしまった。自分でもそれに気付き、冷静さを取り戻すように一呼吸おいた。

「…大事な話がある」

「大事…? 大事って、もしかして絢さんの事ですか…?」

「そうだ。仕事なんかやってる場合じゃないぞ?」

 その言葉に和希がハッとした。深い霧の中を歩いているような、夢うつつの状態から現実に引き戻されたような、そんな感覚だ。

「あ…絢さんに何かあったんですか!?」

 途端に言葉が色を持ち、和希の心が宿った声だった。

(お前を生かすも殺すも、絢ねぇの存在次第だな…)

 自分の事すらまともに考えられないのに、真っ先に絢音の心配をし、正気に戻った声を聞いて誠司はそう思った。

「そういう心配は、自分が元気な時にしろ」

「え…?」

「いや…大丈夫だ、絢ねぇは元気にしてるよ」

「…そうですか、良かったです」

 それは本当に安堵した声だった。

「とにかく、明日は絢ねぇも夜勤でいないから店に来い。大事な話なんだ、いいな?」

 本当は〝絢ねぇがいないから店に来い〟なんて言いたくなかった。和希も、本来そんな言葉は聞きたくなかっただろう。でも本人が望まないのに会うというのも、会いたいのに会えないのと同じくらい辛いもので、和希はしばらく考えたのち〝分かりました〟とだけ言って電話を切ったのだった。



 翌日、絢音が仕事に向かってしばらくした時だった。店の電話が鳴り、ちょうど準備を始めようと二階から降りてきたママが受話器を取った。

「はい、カフェ・バー Ayameです」

『あの…私、昨日お伺いした佐々木ですけど…」

「あー、はいはい。佐々木─…確か、礼香さんだったわね?」

『はい。それであの…マスターにお話があって…』

「分かったわ。今、代わるわね」

 ママは保留音を流し、誠司を呼んだ。

「礼香さんよ。昨日よりずっと元気がないわ」

 〝言葉に気を付けて〟という無言の言葉に、誠司は〝分かった〟と小さく頷くと保留音をオフにして電話を代わった。

「もしもし、お電話代わりました」

『あの…今日、川上くんが倒れて救急車で運ばれました…』

「は…!?」

『今、病院にいるんですけど──』

「病院って…どこの─…」

『さざなみ総合病院です』

「さざなみ…総合病院…」

 誠司は繰り返しつつ、その声で振り向いたママと目が合った。ママは時計と店内の状況を見てから、小さく頷いた。

「分かりました。オレもできるだけ早くそっちに行きます」

『お願いします。一人だと心細くて…。──あ、それと部屋は東棟の五〇三号室です』

「東棟の五〇三…」

 誠司は電話横のメモ用紙にその文字を書いた。

「…じゃぁ、もう少しだけ待っていてください」

『はい…お願いします…』

 電話を切った誠司はメモ用紙をエプロンのポケットに入れると、店の扉に掛かっていた〝営業中〟の札を〝準備中〟に変えた。その様子を見ていたママが、戻ってきた誠司に確かめた。

「和くんがどうしたって?」

「会社で倒れて、救急車で運ばれた」

「容態は? 意識はあるの?」

「それはまだ聞いてない」

「そう…。昨日今日でこんな事になるなんて─…あぁ、それはそうと、オーダーは? 全部捌いたの?」

 誠司は頷いた。

「追加オーダーがなければ、これで終わりだ」

「じゃぁ、大丈夫そうね」

 各テーブルに配られた料理が、ほぼ空になりつつあるのを確認してそう言った。あとはどれだけ談笑が続くか…だったが、時計を見ながら待っていると、意外にも早く十五分ほどでみんな会計を済ませて帰って行った。

「後の片付けはやっておくから、ほら、急いで」

 レジの対応が終わったママが、またもや追い払うような手の動きで急かせば、誠司もそれを受け、短く〝じゃぁ、頼んだ〟とだけ言って出て行った。


 病院のロビーに着いた誠司は電話口でメモした紙を確認し、再びポケットにその紙をしまった。

(東棟…東棟は─…と、こっちか…)

 院内の案内図を見て、東棟のエレベーターに乗り五階のボタンを押した。誠司以外にも何人か乗っていたが、皆一様に階数が表示される数字を見上げていた。二階、三階、四階…と各駅停車のように止まり、ようやく目的の五階に到着した。

 扉が開いてエレベーターから降りると、左右を確認しナースステーションがある方へ向かった。部屋番号は聞いているため、あとはその数字を探すだけだ。──とは言え、〝五〇三〟という数字からナースステーションに近い場所か、もしくは遠い場所であることは間違いなく…案の定、近い場所に和希の名前を見つけた。二人部屋だが、ネームプレートを見るとどうやら入っているのは和希一人だけで、ベッドの位置も窓際だと分かった。

 誠司は軽く二回ノックし、扉を開けた。カーテンが半分ほど引かれていて和希の顔は見えなかった。椅子には礼香が座っていて、入ってきた誠司を目にすると、少しホッとした表情で軽く会釈した。

「お忙しいのにすみませんでした」

「いえ…少し早めに切り上げただけなので。それで、和希は…?」

 そう言いながら和希に目をやった。少しやつれて顔色も悪く、眠っているだけでも酷い顔だと分かる。誠司は〝もっと早くに…〟という後悔が更に強くなった。

「過労と睡眠不足と栄養不良で、ニ・三日の入院が必要だろう…って」

「そうですか…」

「川上くん、今日は定時に帰るって言ってたんです。聞けばマスターのお店に行くからって…。私も上司も少しホッとしてたんですけど、その矢先にこんな事になって……」

「でも、連絡をもらえて助かりました。あとはオレが見てるので、良かったら帰って休んでください」

「いいんですか…?」

「はい。目を覚ましたら、ガツンと説教してやりますから」

 少しでも気を紛らわそうと冗談半分で明るく言うと、少しだけ礼香にも笑みが戻った。

「じゃぁ、目を覚ましたら〝仕事の事は心配いらないから〟って伝えて下さい」

「分かりました」

「では、お願いします」

 礼香は荷物を持って軽く頭を下げたあと、そっと部屋を出て行った。

 誠司は言わなかった後悔と和希の心配、そしてただ待つしかないこの時間の重さを感じながら、さっきまで礼香が座っていた椅子に腰を下ろした。

 目を覚ましたら最初になんて言ってやろうか…。

 誠司は点滴の落ちる雫をぼんやりと眺めながら考えていた。〝心配かけやがって〟と怒るのか、それとも〝無理しすぎだ〟と優しく言うのか、あるいは〝そんな事してたらいつか死ぬぞ〟と脅しをかけてみるのか…。

 色々と考えてみるものの、〝いや、違うな〟と誠司は思った。

(オレが言うべき言葉は──)

 ──と思ったところで、和希の顔が僅かに動くのが見えてハッとした。身を乗り出すように覗き込めば、何度か瞬きを繰り返したのち、ようやく焦点があったかのように誠司と目が合った。

「誠司さん…!?」

「ようやく目が覚めたな」

「え…どうして─…って、ここは…?」

「病院だ」

 記憶が飛んでいるせいか、すぐには状況が把握できないようだ。

「お前、会社で倒れて救急車で運ばれたんだぞ。過労と睡眠不足と栄養不良でニ・三日は入院が必要らしい。さっきまで佐々木さんが付き添ってくれていたんだけどな」

「礼香さんが…」

「仕事の事は心配いらないって。──お前なぁ、自分で自分を追い詰めるなよ」

「…………」

「──っていうのは嘘だ。悪かったな、和希…」

 その言葉を口にして、自分が最初に言うべき言葉はこれだと改めて思った。

「どうして誠司さんが謝るんですか…?」

 〝全く意味が分からない〟と、和希が眉を寄せた。

「もっと早くに言うべきだったんだ、お前がそうなる前に…」

「言うべきって…いったい何を──」

「絢ねぇが、お前を遠ざけた理由だ」

「遠ざけた…? もしかして、あの時の理由が分かったんですか?」

「あぁ。正確にはあの日、親父が絢ねぇから聞いていた。オレもその日に親父から聞いた。けど──」

「やっぱり、僕には言えなかった…?」

 誠司は〝あぁ〟と頷いた。

「オレが絢ねぇの立場でも、同じ事をした。そうするしか方法がなかったからだ─…お前を守るためには」

「─────!?」

「お前を守るために、絢ねぇは自分から遠ざけた」

 誠司は、あえてそう繰り返した。

「僕を守る…ため…? じゃぁ、〝守れないって分かった〟っていうのは─…」

 その言葉に驚き、和希は起きあがろうとしたが思った以上に体が重く動かなかった。

「あぁ、待ってろ。今起こしてやるから」

 〝そのままで聞け〟と言っても無理な話だろうと、誠司はベッドの横に掛けてあるリモコンを使って頭の方を上げた。

「これくらいで大丈夫か?」

「…はい。それで、守れないって分かったっていうのは─…?」

「絢ねぇが、お前を守れないって事だ。一緒にいたらお前を守れない、ってな」

「絢さんが僕を──…」

「お前に会わないって言ったあの日、警察が事情を聞きに来たらしい。その話によると、あいつは絢ねぇを刺すつもりはなかったって、ずっと言い続けてるんだと」

「そんな事──」

「あぁ、そうだ。そんな言い訳が通用するか、って誰もが思った。けど絢ねぇは、それを聞いた時に分かったらしい」

「分かったって、何を…?」

「刺された時に、あいつが想定外だったみたいに狼狽えて、何度も〝違うんだ〟って言ってた理由だ。──お前、絢ねぇが背中にぶつかって、それで振り向いたら刺されていた…って言ってただろ」

「はい…」

「あれは刺されたからぶつかったんじゃなくて、群集に押されてぶつかったから刺されたんだ」

「……………!?」

「押されて、お前がいた場所に絢ねぇの体がズレたー…そう言えば分かるか?」

「─────!!」

 今度はハッキリと分かったように、目を見開いた。

「そういう事だ」

「それはつまり─…絢さんは僕の代わりに刺された……僕のせいで──」

「お前のせいじゃない」

 〝絶対にそうじゃない〟と、即否定した。

「そう思われるのも、絢ねぇは望んでない。むしろ、お前の代わりに刺されて良かったって思ってるよ。自分のストーカーから、お前を守れたってな」

「そんな…」

「けど、あいつが狙ってたのはお前だけじゃなかった」

「え…?」

「前にジャケットの裾が破れた時があっただろ。親父が破れた所を縫って、代わりに絢ねぇがポテトサラダを作った時だ」

「あ…ぁ、はい…二十年ぶりにポテトサラダを作った─…」

 誠司が頷いた。

「それと夏祭りの日、店の手伝いに戻ってきたアキラの服も同じように破れていた」

 言われてその時の事を思い返すと、確かに絢音が破れた服を指摘していたと思い出した。

「どこかに引っ掛けたって…」

「あぁ。ただその〝引っ掛けた〟っていうのが、絢ねぇは腑に落ちなかったらしい。それがハッキリと分かったのが、今回の事だ。確実に狙っていたのが和希だと分かって、全部が繋がった。あれは引っ掛けたんじゃない。あいつがわざと狙って切ったんだって。つまり、あいつはその時から絢ねぇに近付くやつを狙ってたんだ」

「───── !」

「家族を失ってから──特に悠人を失ってからの絢ねぇは、恋愛感情で人を好きになる事をやめた。大切な人を失う辛さを知ってるからな。ずっと一人で生きていくって決めてたんだ。だから何かあっても大丈夫なようにお金は大事にしてきたし、体調を崩しても一人で何とかしてきた。そうできる事が絢ねぇの自信になっていたんだ」

 そう言われて、和希は愕然とした。お金が大事だと言った理由を知った気になっていたが、実はもっとシビアで悲しい理由があった事に。そして以前、〝自信を失いたくないんだろ〟と誠司が言った本当の理由を知って、胸が苦しくなった。そんな和希の表情を見ながら、誠司が続けた。

「でもそこにお前が現れた。素直で純粋で、とにかく真っ直ぐで─…期待したよ、オレは。いや、オレだけじゃない。親父も兄貴もそうだ。絢ねぇの幸せを願う人はみんな、お前と話してる絢ねぇを見て期待した。絢ねぇが、もう一度誰かを好きになるんじゃないかって。実際、見ていても分かったよ、絢ねぇがお前に惹かれてるっていうのは。──って言っても、本人は自分の気持ちに気付いてないだろうけどな」

 誠司は〝ほんと、呆れるくらい鈍感だろ〟と、小さく笑った。でもそれは嘘だった。あの日ママから話を聞いた時、絢音はハッキリと自分の気持ちに気付いている事を知った。でもそれは、誠司が和希に伝える事ではないと思ったのだ。そして続けた。

「だから、絢ねぇが和希を遠ざけた理由を親父から聞いた時は、はらわたが煮え繰り返る思いだった。警察に捕まってなかったら、見つけ出して殴り殺したいって思ったくらいだ。頑なに〝一人で生きる〟って思っていた絢ねぇが、ようやく〝人を好きになる事〟を受け入れるかもしれないって時だったのによ…。あいつのせいで、絢ねぇはまた元の絢ねぇに戻っちまった…」

 誠司は込み上げてくる怒りを吐き出すように、〝あー、くそっ!〟っと天井に向かって言った。そしてまた、声のトーンを元に戻した。

「それでも、絢ねぇが弱音の一つでも吐けば、すぐにでもこの話をお前にしようと思ってた。そうすれば、お前は間違いなく行動を起こすだろうからな」

「…もちろんです! 弱音なんか吐かなくても──」

「いや、それじゃダメなんだ」

「………?」

「絢ねぇは〝こう〟と決めたら、絶対だ。どんなに周りが〝助けたい〟と思って手を差し伸べても、その手を取ろうとしない。だから〝一人で生きていく〟って決めた絢ねぇに、兄貴やアキラがぐいぐい迫っても、気持ちが揺らぐどころか〝鬱陶しい〟って思われるだけなんだ。唯一気持ちが変わる時があるとすれば、それは自分がそう思った時だ。〝寂しい〟とか〝会いたい〟とか、そう思った時に手を差し伸べられて、初めてその手を取る。意志が固いというか頑固というか…。だからその時を待ってたんだけどな…」

「いつもと変わらない…?」

 電話で絢音の様子を聞いた時、誠司が言った言葉だった。誠司も〝あぁ〟と頷いた。

「もともと普段から弱音を吐いたりはしないんだけど、特にこういうことに関しては隠すのがうまいっつーか、見せようとしない。短冊に書いたもう一つの願い事を、誰にも見つからないようにこっそりと飾ったのと同じだ。だからって、こっちから聞いたところで本音は言わないだろ? それで何とか本音が表れないかって待ってたんだが─…先にお前が限界を迎えた。──悪かったな。何の説明もできなくて、辛い思いをさせた…」

「いえ…僕の方こそ何も知らなくて…」

 誠司は〝知らなくて当然なんだ〟と首を振った。

「──だから、オレはこれを利用するぞ」

「…………?」

 どういう事かと疑問の目を向ける和希に、誠司は小さくニッと笑った。

「明日、絢ねぇを連れてくる」

「え…?」

「多分、これが最後のチャンスだ。体が動かないって寝てる場合じゃないからな。思いっきり抱きしめたいんだろ? だったら絢ねぇが来たら絶対に離すな。何を言われても、絢ねぇにはお前が必要なんだから」

 〝だから、しっかりメシを食って少しでも体力を戻せ〟と言われ、和希は体の底から力が湧き上がってくるのを感じた。

「はい…!」

 その返事は久々に聞く力強い声で、誠司も一安心した。

「じゃ、また明日な」

 誠司はそれだけ言うと、少し顔色が良くなった和希に手を上げて部屋を後にした。



 翌日、いつもの時間に夜勤明けの絢音が店にやってきた。

「おはよー」

「おー、お疲れ。その様子だと、何もなかったみたいだな?」

「平穏も、平穏。何事もなく、ちゃんと仮眠も取れたわよ」

「そりゃ良かった。──で、今日は何にする?」

「んー…オープンサンドにしようかな。あと、アイスティーね」

「了解」

 注文を受けた誠司は、早速オープンサンド作りに取り掛かった。

 からしマヨネーズを塗ったパンとベーコンを、トースターに入れ数分のタイマーをセット。その間にトマトをスライスし、熱したフライパンには溶いた卵を流し込んだ。少し固まった卵の外側から、斜め内側に向かって数回箸を入れながらフライパンを回転させると、丸い形のふんわりとした玉子焼きが出来上がる。

 待っている間に携帯のニュースを見ていた絢音は、画面にズラッと並ぶ事件や事故の記事を目にして、〝はぁ〜〟と大きな溜息をついた

「何だよ、溜息なんかついて?」

「んー…? なんか、事件や事故ばっかだなと思ってさー。前から思ってたんだよね。新聞でもそうだけど、毎日毎日、よく書く記事があるなって。だって一日よ? たった二十四時間、しかも毎日何かがあるじゃない? 逆にさ、一日ぐらい何の事件も事故もない日があってもいいと思うんだけど、それは絶対にないし」

「それ言ったら出産だって同じだろ? 一分間に数人生まれるとか言うし、逆に生まれない日がないだろ」

 言いながら、誠司は焼けたパンの上にトマトやチーズ、ベーコン、玉子焼きなどを乗せていった。

「まぁ、そうなんだけど…。でも事故や事件は、個々が気を付ければ無くすことができるじゃない? そしたら一日くらい──」

 なんとなく納得いかないと、それらの記事を無造作にスクロールしていた絢音は、ある画像を見て指が止まった。早速、その記事をタップする。

「おぉ…」

「何だ、どうした?」

「誠司くん、今日フラワームーンだって」

「は…? フラワー…?」

「──花じゃないですからね、マスター?」

 テーブルの空いたグラスに水を入れ終わった夏帆が、カウンターの方に戻ってきて言った。

「フラワームーン。五月の満月をそう言うんですよ。気温が温かくなって、たくさんの花が咲き誇る季節にちなんで名付けられたって言われてます」

「へぇ…」

「夏帆ちゃん、よく知ってるねー」

「和風月名みたいに、それぞれ名前がついてるのって覚えたくなるんですよね。数年前のニュースで、毎月の満月にも名前がついてるって知って調べたことがあるんです」

「毎月ってことは、来月の満月にも名前がついてるの?」

「来月はストロベリームーンです。アメリカの方だとちょうどイチゴの収穫時期で、月が赤くなる事も多いからそう呼ばれるようになったとか」

「へぇー、面白い」

「ちなみに、満月は〝達成〟とか〝実り〟を表すって言われてるので、今日は何か良い事があるかもしれませんよ?」

「良い事か〜。とりあえず今は、空腹を満たして爆睡できたら幸せだけどねー」

「確かに、今はそれが一番必要ですね」

 〝でしょー?〟と絢音と夏帆は笑った。

「ほら、出来たぞ?」

 二人が話している間に、仕上げの塩コショウを振りかけ、アイスティーを入れた誠司がカウンターに出した。

「おぉ〜、美味しそう〜! じゃ、いただきます」

「おー」

 大きくガブっとかぶりつけば、絢音の満足そうな笑みが浮かんだ。

「んー、美味しい〜。──あれ、でも今日のはなんかちょっと違わない?」

「お、気付いたか?」

 〝なんだと思う?〟と誠司がカウンターに身を乗り出した。それを受けて、絢音が味覚に集中する。

「あ、バターだ」

「正解」

 誠司が指を差した。

「バターで卵を焼いた」

「おぉー。それ、絶対正解!」

 今度は絢音が指を差した。

「コクが出て美味しい」

「そりゃ良かった」

 二人してフッと笑ったところで、ちょうど他から追加のオーダーが入ったため、誠司はすぐに仕事に戻っていった。

 絢音はそんな誠司の動きや店の客の様子を、まるでテレビでも見るような感覚で眺めつつ朝食を食べ進めた。店内の音楽はゆったりと流れ、そこに食器が擦れる高い音や客の他愛のない会話が重なり合う。いい具合に誰が何を喋っているのか分からなくなった雑音は、ぼんやりと聞き流すのにちょうど良かった。余計な事は考えず、心に波風の立たない穏やかな時間が流れていく。それが夜勤明けのいつもの光景なのだ。

 そうして最後にアイスティーを飲み終えた絢音は、これまたいつものように会計を済ませ家へと帰っていった。

 あまりにも平穏で物足りなさを感じるが、多分それくらいでいいのだと絢音は思う。何も変わらない一日を、一週間、一ヶ月、一年…と積み重ねて過ぎていけばいいのだと。そして絢音は、そうなるものだと信じベッドの中で目を閉じたのだった──



 それからどれくらい経っただろうか。

 夜勤明けの睡眠で、絢音は珍しく夢を見ていた。

 足元には色んな種類の花が咲いていた。花がなければ雑草かと思うくらい、本当に色んな花だ。大きい、小さい、背の高い、低い…それら全ての花がかたまることなくバラバラに咲いている。

 テレビや漫画で〝薔薇の絨毯〟なるものがあったりするが、絢音はそれを見るたび〝こいつらバカなの?〟と思っていた。何がそんなに嬉しいのかよく分からない。歩けばせっかくの花を踏んでしまうし、踏まないようにしようとすれば〝超〟がつくほど歩きにくい──というか、歩けない。〝あれは単なる足止め作戦でしょ〟と誠司に言ったのはいつの事だったか。

 これが夢だと分かっていても、絢音はそこから動けないでいた。すると、次第に景色が赤みがかってきた。夕焼けかと思いふと空を見上げると、そこにあったのはピンク色に染まった丸い大きな月だった。

(あぁ、そうか…これがストロベリームーンね…)

 寝る前に見聞きした事が夢に出てくる事はよくある。特に絢音は影響されやすく、しかも何故かバラバラになって出てきたりする。今回の場合、花が咲き誇るのは〝フラワームーン〟なのに、月は翌月の〝ストロベリームーン〟だ。でもそれを疑問にも思わないのが夢であり、辻褄やストーリーの流れがなくても〝それが当たり前〟だと思う世界が夢だったりする。だからこの時、後ろから音楽を鳴らしながら自転車に乗ったおじさんがやってきても、なんら不思議に思わなかった。

(そっか…自転車のタイヤは細いから花を踏まないんだ…)

 ──なんて変な理由で納得してしまうのも夢であるがゆえの事。ただ、音楽だけは気になった。サビの部分なのか、短いフレーズを何度も繰り返している。しかも、どこか聞いたメロディーだ。

(なんだったけなぁ、この曲…)

 思い出そうと目を閉じて集中していると、自転車に乗ったおじさんが近付いてきて、それに比例して音楽の音も大きくなる。

(聞いたことあるのになぁ…)

 もう少しで何かを思い出しそうだと思った時だった。おじさんが絢音の真横を通り過ぎた途端、その姿がフッと消えた。──にも関わらず、音楽だけは鳴り止まない。そして〝なんで…?〟と思うが早いか、それがメッセージアプリの電話の音だと理解して目が覚めた。

 カーテンは閉めてあるが、隙間から漏れる光からまだ日が高い時間だと分かる。

(──ったく、誰よ…)

 普段から電話は滅多にかかってこないため、寝る前にマナーモードにはしていなかった。

(次からは絶対鳴らないようにしよ…)

 ──と、枕元で未だ鳴り止まない携帯を引っ掴み、薄目のまま画面を確かめてみれば…。そこに表示されていたのは〝誠司くん〟の文字だった。

(誠司くん…?)

 夜勤明けだと知っている誠司が電話をかけてくることはまずあり得ない。故に〝何かあったのか〟とも思ったが、平穏なこの日々から考えて頭に浮かんだのは〝何かの拍子で指があたって、本人も気付かないまま電話が掛かっただけだろう〟という事だった。

(出て無言だったらすぐに切ってやる…)

 ──と思いつつ、目を閉じたまま電話に出た。目に光を入れてしまったら確実に目が覚めてしまうからだ。

「はーい…」

『絢ねぇ、悪いな…』

「あれ、出た…」

『は…?』

「あー…ううん、なんでもー。それよりどうしたの……まだ全然明るいんだけど…?」

『あのな、絢ねぇ…』

 少し言い難そうな間を置いて、誠司が言った。

『…和希が倒れた』

「そう…和くんが──」

 〝倒れたんだ…〟と頭の中で続けた瞬間、その意味を理解してバッと飛び起きた。心臓が大きな音を立てて体まで揺らした。

「倒れたってどういう──」

『分からない。会社の人──去年、店に文房具を持ってきた和希の先輩がいただろ? あの人から連絡があって、和希が倒れて救急車で運ばれたって…』

「い、意識は…? 意識はあるの!?」

 〝文房具を持ってきた和希の先輩〟がどんな人だったのか…正直、今はどうでもよかった。重要なのは意識の有無だ。その答えが怖くて心臓が更に早鐘を打ち始めた。視界が揺れているのは心臓のせいか、それとも気が動転しているせいだろうか…。

 誠司から返ってきた言葉は──

『意識はないらしい』

「─────!!」

 途端に、冷や汗がどっと出てきた。誠司の言葉が耳の奥でこだまして、現実の音が遠くの方で聞こえてくる。

『絢ねぇ…?』

(意識がないって…いったい何が…?)

『絢ねぇ、聞いてるか?』

(〝倒れた〟ってことは、事故じゃない…。普通に倒れて意識がないって事は貧血…? それとも低血糖…? もしかして心臓か脳疾患だったら──)

 軽いものから重いものまで、意識がなくなる可能性を考えていくうちに、絢音は次第に怖くなり体が震えてきた。

『絢ねぇ!!』

 遠くに聞こえていた現実の音を突き破るように、誠司の声が落雷の如く耳をつんざいた。そこでようやく、絢音は我に返った。

「せ、誠司く──」

『いいか、絢ねぇ?』

 絢音の声が聞こえてホッとした誠司が、〝落ち着け〟とばかりにゆっくりと言った。

『今そっちに行くから、着替えて待ってろ。一緒に和希のところに行くぞ』

「で、でも──」

『いいから、着替えて待ってろって。じゃぁな!』

 〝でも…〟のあとの言葉は言わせない、と誠司はそれだけ言って切ってしまった。

(和くんのところに─…って、今更? 私が行ける…? あんな風に突き放しておいて…?)

 心配で今すぐにでも行きたいが、同時に行くべきではない…いや、行く資格はないという気持ちもあって、絢音はすぐに動く事ができなかった。


 一方、リビングで電話を切った誠司の横では、ママが心配そうな顔を見せていた。

「絢ちゃん、パニックになっていなかった?」

「あぁ、まぁ…ちょっとな…」

「ちょっと? 意識がないなんて言われて、ちょっとのパニックで済むものかしら? 相手は和くんなのよ?」

「しょうがないだろ? こうでも言わないと、絢ねぇは動かないんだから」

「そうだけど…。なんか心が痛いわ…。嬉しいドッキリは好きだけど、こういう見ていて辛いドッキリは好きじゃないのよねぇ…」

 昨日、病院から帰ってきた誠司がママに提案したのは、〝一芝居打つ〟という事だった。今の和希の状態を言えば、絢音は絶対に会いに行こうとはしない。だから絢音が寝ている時に緊急の電話を掛け、和希の意識がないと嘘をついて、是が非でも病院に連れて行こうとしたのだ。その為に絢音が立ち寄る午前中だけ通常に営業し、午後から店を休む事にした。

「親父の好き嫌いなんかどうだっていいんだよ。重要なのは絢ねぇの幸せだろ? そうなるために必要な嘘なんだから我慢しろって」

「分かってるわよ。──あぁ、もう! じゃぁ、早く行って元気な和くんに会わせてあげなさいよ」

 一秒でも早くホッとさせてあげたい、とママは誠司の背中を押して急かした。

「──ってか、話しかけてきたのは親父の方だろ」

 〝それがなければとっくに家を出てた〟とばかりに言うと、誠司は壁に掛けてあった車のキーともうひとつ別の鍵を引っ掴み、急いで店の裏から出ていった。


 それから数分後──

 誠司は絢音の家のインターホンを押した。

 〝でも─〟の先の言葉を言わせないようにして電話を切ったため、もしかしたら出てこないかもしれない。その可能性を考え〝もしもの時に〟と預かっていた合鍵を持ってきたが、ややあって扉が開いて絢音が顔を出した。当然だが、その表情に午前中のような明るさはない。ただ着替えは済んでいた。

「用意はできたか?」

 誠司がそう言って扉に手を掛けると、絢音はドアノブから手を離し無言のまま背を向け家の中に入っていった。慌てて誠司も家の中に入る。

「おい、絢──」

「ムリ…」

「は…?」

「やっぱり行けない…」

「何言って──」

「あんな風に突き放したのよ!?」

 絢音はバッと振り向いた。

「自分でも酷い言い方したって分かってる。嫌われて当然だし、むしろ私のことなんてキレイさっぱり忘れた方が和くんのためよ。私に─…会いに行く資格なんてない」

「資格があるとかないとか…今はそんなのどうだっていいだろ! 大事なのは、絢ねぇが和希に会いたいかどうかだ。着替えたって事はそういう事じゃないのか?」

「それは─…」

「絢ねぇの事だから、どうせ〝和希がどこにいても元気でいてくれたらそれでいい〟とでも思ってたんだろ。けどそれは、ただ自分の心を平穏に保つために作った都合のいい言い訳だ」

「…………!」

(分かってる…。分かってるわよ…でも今和くんに会ったら──)

 引き返せなくなれば和希に迷惑がかかる。ストーカーの件もそうだが、他の人なら叶えられる夢を自分が奪ってしまうかもしれない。そうと思うと、絢音はどうしても自分の気持ちに正直に動けなかった。

 そんな絢音の気持ちを察したのか否か、誠司は〝しょうがない…〟と大きな溜息を付いた。

「絢ねぇ、覚えてるか? 悠人が亡くなった後、あいつが行ったことのある場所や店を探しては、そこに立ち寄ってた事」

「なに、急に─…」

「五月の終わりだったかな、駅の西側…通り沿いの店で、絢ねぇは飯を食ってた。まぁ、食ってたって言っても、悠人が好きだった枝豆とか揚げ出し豆腐とか、そんなもんくらいだと思うけど。そこでは、ある会社の新人歓迎会が行われてたんだ」

「だから何でそんな話を──」

「いいから聞けって」

 本音は和希の事が心配で居ても立っても居られない。でも行くべきじゃないと自分に言い聞かすその葛藤の中、十年前に行った店の話をされても意図が分からず苛立ちが募る。それでも誠司は絢音の言葉を遮って続けた。

「その会社は、悠人のいた会社と同じ体質だった。パワハラ、モラハラ、セクハラ、男尊女卑…それが当たり前のようにある会社。無礼講なんてあってないようなもので、ほぼ死語だ。上司は新人に何度も〝酒を飲め〟と要求し、〝飲めない〟と言っても〝俺の酒が飲めないのか〟って強要する。ついこの間まで学生だったやつだぞ? 飲めるわけないだろ。もう本当にこれ以上は無理だ…と思った新人は、土下座をして断ろうと思った」

 〝聞け〟と言われて聞いてはいたが、腹の底から怒りが湧いてくるその内容に、

(吐き気がする)

 ──と絢音は思った。その気持ちが顔にも表れたのだろう。誠司がそれを口にした。

「〝吐き気がする〟──そう思っただろ?」

「当然でしょ。それ以上は聞きたくも──」

「十年前もそう言ったんだ」

「は…?」

「十年前のその時も、絢ねぇがブチ切れた。上司の目の前の机を叩いて、新人に飲ますはずだったウィスキーのロックを一気に飲んだんだ。そしてこう言った。〝今時、上司の酒が飲めないのかとか、お茶汲みは女の仕事だとか…ここだけ時空が歪んでのかってくらい吐き気がする〟って。それから新人に向かって〝こんな会社に将来なんてないから、あなた達もとっとと辞めなさい〟ってな」

「十年前の私、よく言った。でもまだ甘いわね。今なら一発ぶん殴ってるところよ」

「そうだな。けど、その新人は絢ねぇの言葉で目が覚めて、次の日には会社を辞めた。そして一年後、辞めずに会社に残った同期の一人が自殺した事を知った」

「……………!」

「絢ねぇに言われなければ、死んでいたのは自分だったかもしれない。新人はそう思ったんだ」

「…そう。だったらブチ切れて良かったわ。私は覚えてないけど」

「ウィスキーをロックで飲んだからな。迎えに行った時はまともに歩けなかったし、店に連れていって、寝て起きたら記憶は飛んでた」

「迎えにきたって事は、一緒にいなかったのよね? なのに何でそんなに詳しいの? ひょっとして、誠司くんの知り合い?」

 誠司の知り合いなら聞いていてもおかしくない。最初は酔っている間に自分が喋ったのかも…と思ったが、〝土下座をして断ろうかと思った〟なんて、新人の気持ちまで分かるはずないのだ。

 覚えていない上に、なぜ今この話を誠司がしているのかも分からず、早く話を切り上げたいという気持ちだけが強くなる。気になるのは和希の事だけで、一刻も早く誠司に容態を確かめに行ってもらいたかったのだ。

(やっぱり思い出さないか…)

 誠司は小さく溜息をついた。

 その時の状況を話せば少しくらい思い出すかも…と思ったが、返ってきたのが〝誠司くんの知り合い?〟とは…。

(まぁ、しょうがないか…。悠人の死から三ヶ月…心が壊れそうだった時から、ようやく外に出られるようになった時期だしな。十年も前っていうだけで、オレも絢ねぇが酔っていた時の事は忘れてたし…)

 それでも話さないわけにはいかない、と誠司は絢音を真っ直ぐに見つめた。

「その新人は─…」

 誠司は僅かに間を置いた。そして言った。

「和希だ」

「─────!?」

 あまりにも意外な名前に、絢音は声が出ないほど驚いた。一瞬、脳内に雷が落ちたような音と衝撃が走った気さえした。

(か…和くん…!?)

 明らかに動揺している絢音を前に、誠司は構わず続けた。

「和希は、その日からずっと絢ねぇを想ってた。もう一度会いたいと願って、気が付けば十年だと。昨日今日、好きになったやつが告るのとはわけが違う。あいつは、中途半端な気持ちで絢ねぇに向き合ってたわけじゃないんだ」

(昨日、今日─…?)

 誠司の言葉を前にも聞いた気がすると心の中で繰り返せば、イチョウ並木を歩いた時の記憶が蘇ってきた。

 〝諦められません。昨日、今日好きになったのならともかく、そうじゃないので──〟

(あれはそういう事だったの…? 十年も前からずっと…?)

「十年前のあの日…絢ねぇが、悠人が行ったっていうあの店に行かなかったら…? 悠人から貰った懐中時計を落とさなかったら…? そしてそれを和希が拾わなかったら…? 幾つもの偶然が重なって、二人は出会ったんだ。普通はそれを〝奇跡〟って呼ぶんだろうけど、オレは全部、悠人がそうしたと思ってる」

「悠人…が…?」

 誠司は〝あぁ〟と頷いた。

「懐中時計を見てみろ」

「懐中─…?」

 余計な事は考えられず、言われるがまま床に置いてあったトートバッグの中から懐中時計を取り出す。表面に傷がついた懐中時計は、今の時刻を正確に刻んでいた。一秒、一秒、心地良いリズムが聞こえてくる。

「悠人が亡くなってから動かなくなったそれが、落とした衝撃か何か知らないけど動き始めたんだろ? 和希の手に渡って、初めて動いた。そして今も動いているなら、それはもう、絢ねぇと和希が過ごしてきた時間を刻んでるって事だ」

 そう言われて、絢音は何かが喉の奥から込み上げてきた。必死で息を止め飲み込もうとすれば、今度は視界が歪み始める。

 誠司は、ここで敢えて少し話を変えた。

「あともう一つ、小学校の修学旅行のこと覚えてるか?」

 急に全く関係ない修学旅行の話が出てきて、一瞬、思考が止まった。──が、それはそれで絢音はようやく息が吸えた。

「も…もちろん、小刀と小拳銃でしょ?」

 鼻をすすりながら答える。

「そう、それ。あれさ、絢ねぇのイメージで…ってだけで、本当に相談なく選んだんだ」

「それがムカつくっていうのよ」

「まぁ、ぶっちゃけ絢ねぇの反応が楽しみで冗談で選んだんだけどな」

「なにそれ」

「冗談で選ぶってこともそうだけど、オレと悠人は考える事が似てんだ。特に、絢ねぇに対して思う事は。だから、オレがこれから絢ねぇに対して言う事は、悠人が言うのと同じだと思っていい」

 誠司はそう言うと、ひとつ呼吸を置いてその言葉を言った。

「絢ねぇ、幸せになれ」

「───── !」

「オレはあいつを認めてる。絢ねぇを幸せにできるやつは、あいつだけだって。両親や悠人の事があって、もう何も失うものがないように…って生きたくなるのも分かる。けど、もう一度だけ…もう一度だけでいいから〝失いたくないもの〟を手に入れる勇気を出せ!」

「───── !」

「オレも悠人も絢ねぇの両親も、オレの親父や店の連中もみんなそうだ。絢ねぇの幸せを心から願ってんだよ。だから、自分の意思で選べ。幸せになる人生を!」

「─────!!」

 壊れかけていた心の扉に、誠司の言葉が矢のように飛んで突き刺さり一気に壊した。修学旅行の話で一瞬止まった涙が自分ではどうすることもできないくらい溢れてくる。

「──因みに、拒否権はないぞ。なんてったって、イチョウの葉っぱの雄雌問題で、〝オレの言う事をひとつ聞く〟っていう約束だったからな」

 敢えてそう言ったが、鎧を脱いだ絢音にとってその強制力が無意味な事は誠司にも分かっていた。今なら誰かに制止されても、それを振り切って和希に会いに行くに違いない。

 誠司はようやくホッとした。そして涙の止まらない絢音を軽く抱きしめ背中を叩くと、

「ほら、行くぞ」

 ──と言って絢音を車に連れ出した。

 車中で絢音の涙が止まったころ、誠司は一芝居打ったことを話した。和希が倒れたのは昨日の事で、過労と睡眠不足と栄養不良が原因だった事、そして今はちゃんと意識もあって和希を遠ざけた理由を話した事も全て伝えた。

 絢音は最初こそ騙されていたことに腹が立ったが、それもほんの僅かな時間だった。こうまでしないと自分が動けない事を知っているが故に付いた嘘なら、それはもう〝ありがとう〟という思いしかない。それに何より、和希がこうなったのは自分のせいだという事にも気付いてしまったからだ。

 病院の駐車場に着いた誠司は、

「部屋は東棟の五〇三だ。オレはここで昼寝でもしてるから、好きなだけ和希と話してこい」

 ──と言って絢音を送り出した。まだ目の赤い絢音は〝ありがとう〟と言うと、少し早歩きで院内に入っていった。そんな後姿を目で追いながら、誠司は心の中でもう一人にエールを送る。

(頑張れよ、和希…)

 誠司は、病院の壁に反射する光を眩しそうに眺めながら、車のシートを倒して目を閉じた…。


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