18 イチョウの賭けとクリスマスツリー
いつもの日常が戻った数日後──
前日が零時近くまで残業だった和希は、早めに上がらせてもらえる事になった。本来なら家に帰って休むところだが、今はそんな時間が惜しいと思うほど絢音と一緒に過ごしたい。
(今日の勤務はなんだろう…)
朝は会えなかったため日勤でない事は確実なのだが─…と、珍しく加良須野駅で誠司に連絡すると、今日は絢音が早めに店に来る日だと教えてもらった。それが分かれば〝家に帰って休む〟という選択肢はなくなる。たとえ今日が徹夜明けでも、そしてどんなに疲れがたまっていたとしても、絢音に会えると思うと全て吹き飛んでしまうのだ。結花の事があってしばらく一緒に過ごせなかった事が、そういう気持ちに拍車をかけているのだろう。
花弥木駅に着いて電車を降りると、はやる気持ちで自然と足早になった。前を歩く人の合間をぬって改札口へと向かう。──と、その視線の先に見覚えのある後ろ姿を見つけて胸がドキリと鳴った。ベージュ系のロングコートと首元の赤いマフラー。あれは──…絢音だ。
和希は思わず名前を呼びそうになったが、さすがにここで名前の安売りをするわけにはいかないとグッと飲み込んだ。代わりに歩くスピードが更に増す。そして──
「絢さん…!」
改札口を出た直後、絢音が後ろから名前を呼ばれ振り向けば、ちょうど和希が隣の改札機から出て来るところだった。
「あれ、和くんも同じ電車に乗ってたんだ? 珍しいよね、こんな時間に一緒になるなんて」
「昨日は夜遅くまで残業したので、今日は早めに帰らせてもらえたんです」
「そっか」
「この後、絢さんは誠司さんの店に?」
「もちろん、行くよー」
「じゃぁ、僕も一緒に行きます」
「そう? でも折角こんな時間に帰れたんだから、家でゆっくり休んだ方がいいんじゃない? 私と違って家とは反対の方向だし、また遅くなっちゃうよ?」
「いいんです。一人でいるより、みんなといる方が元気になれるので」
(特に絢さんと一緒にいると…ですけど)
和希は心の中で付け足した。
「まぁ、それは確かに分かる気がする。──じゃぁさ、ちょっと寄り道してもいい?」
「いいですけど…どこに行くんですか?」
「黄色い絨毯のところ」
「黄色い絨毯─…?」
何の事か分からず繰り返すと、絢音は〝ふふっ〟と楽しそうに笑って歩き出した。慌てて和希もついて行く。
向かったのは公園だった。公園は駅から東に向かって歩き、南北に走る片側二車線の道路を南に行くと左側にある。ちょうど商店街の東口と面する道路の反対側だ。その通りの右側には、ハロウィンの日に元カノと再会したコンビニがある。
公園を目にして、和希はようやく〝黄色い絨毯〟が何なのか分かった。
「イチョウ…ですか」
公園の外周がイチョウ並木の遊歩道になっていて、落ちたイチョウの葉が歩道を埋め尽くしていたのだ。
「好きなんだよねー、イチョウ並木って。特に、この黄色一色に染まる今の時期がさ。──ぐるっと一周回っていい?」
「もちろん、行きましょう!」
デートではないが、好きな人と二人きりなら実質デートと同じだと、和希は嬉しくなった。
風が吹いて落ちてくるイチョウの葉。それが地面に落ちる乾いた音や葉の上に重なる音、そして二人が踏みしめるカサカサとした音がとても耳に心地よく聞こえる。
「イチョウが好きなんですか? それとも色が?」
和希が聞いた。
「んー、何だろ。夏のイチョウは惹かれないから、色なのかな…」
「じゃぁ、黄色の花とかは?」
絢音が首を振った。
「バラの花束をもらった時にも言ったけど、花には全く興味がない」
「…そうでした。家に花瓶もない…って言ってましたもんね」
「その通り。だから一番いいのは団子よ、団子」
「団子?」
「花より団子。食べ物が一番嬉しい。ギンナンも好きだしねー」
「あぁ、確かに。ギンナンは僕も好きです。子供の頃は苦手だったけど…」
「分かる、私もそうだった。ふふ、お互い大人になったものねー」
「あはは、そうですね。──でも花に興味がないって事は、桜もですか?」
もしそうなら花見に誘えないな…と思い聞いてみれば、
「ううん、桜は好きよ」
──と返ってきたからホッとした。
「あの薄いピンク色が川沿いに並んでる感じとか、終わりかけの桜が川や歩道を埋めてピンク色になる景色とか──って、別にピンクが好きってわけじゃないんだけどね」
「色じゃないって事ですね」
「うん?」
「──じゃぁ、例えば向日葵が一面に咲いてたら?」
「あー、それは好き。ラベンダーもいいよね。あの青紫色が一面に広がってる光景とかさ」
絢音が何気なく答えるその中に、和希はイチョウに惹かれる理由を見つけた気がした。それを確かめる為、もうひとつ聞いてみる。
「もしこのイチョウ並木が紅葉の木だったらどうですか?」
「紅葉?」
「真っ赤になった紅葉の葉と、それが落ちてこの歩道を埋め尽くしてたら─…」
そう説明すれば、同時に絢音も頭の中で想像したのだろう。
「良いねー!」
──と即答だった。和希は確信した。
「分かりました」
「ん? …何が?」
「絢さんがイチョウ並木に惹かれる理由です」
「うそ、解明できたの!?」
冗談か本気か分からないが、大袈裟とも言えるその言い方に和希は笑ってしまった。
「え、何…?」
「いえ、やっぱり楽しいなと思って…」
「うん? ──ってか、理由は?」
「あ、そうでした。──えっと、やっぱり色です」
「色…?」
「特定の色とかじゃなくて、〝一色〟というのが惹かれるんだと思います」
「一色…」
「自然の景色って、いろんな色が混ざり合ってできてるけど、〝一色に染まる光景〟ってなかなかないじゃないですか。イチョウ並木の黄色も桜のピンクも、向日葵もラベンダーも紅葉も…人の手が加えられて一面にひとつの色を作り出してるんですよね。だから〝自然の色〟だけど、〝自然〟じゃないっていうか…そこだけ別世界になる感じが惹かれる理由なんじゃないかと思って…」
そう説明して絢音を見れば、僅かに歩く速度が落ちて和希の後ろにいた。
「絢さん…?」
何かを考えているその表情に〝あれ、違ったかな〟と思った直後だった。絢音がパッと顔を上げたかと思うと、
「それよ!」
──と和希の右腕をパシッと叩いた。
「え…」
「すごいよ、和くん! それ正解! 自然なのにそこだけ別世界─…そう、まさにそれ!」
「あ…ぁ、良かったです、合ってて…」
「そうか、そういう事だったのねー。いやぁ、なんかスッキリしたわ。ありがと、和くん」
問題ではないのに問題が解決したかのようなスッキリした絢音の表情に、和希もまたクスッと笑ってしまった。
他愛もない話がとても楽しい。絢音が好きな景色や〝花より団子派〟だったという事も、知れた事が嬉しかった。
「…他に、どういう景色が好きなんですか?」
「景色?」
「例えば、夏とか?」
「あー…夏は断然、入道雲ね。それも発達中の真っ白で密度の濃い入道雲」
「発達中…限定?」
「もちろん青い空にこう…そびえ立つくらいの大きい入道雲も好きよ。〝ザ・夏!〟って感じがして、なんかワクワクするし。でも光り輝くくらいの真っ白な濃い入道雲って、〝今まさに雲ができてます!〟っていうくらい、その動きが見えるじゃない? あれがなんかずーっと見てられるんだよね。それに、雲ができる実験みたいなのはテレビで見たりするけど、実際の目で自然に雲ができる瞬間を見れると思うと感動しない?」
「あー、確かに」
「でしょ? ちなみに、私的にはあの雲の事を〝爆発雲〟って勝手に言ってる」
「爆発雲?」
「あ、これ内緒ね。人によっては傷付けちゃうかも知れないからさ。あくまでも心の中で言ってるだけ」
「…分かりました。──じゃぁ、冬の景色は?」
「冬はやっぱり雪でしょ。一面銀世界っていうのが、いつもの景色と違って──」
──と言いかけて、思った事が一緒だったのか和希と目が合った。
「別世界、ですね」
「だねー」
そこで二人で笑った。
「バケツとかタライに水を張って氷ができるとさ、その厚さが厚いほど嬉しかったりしない? たまに、氷ができる過程のような結晶も見れたりしてさ、それも感動した」
「ビデオの早送りで氷になる過程の痕跡が、そのまま自分の目で見れた感動ですね」
「そう、それ!」
絢音は〝それ!〟と指を立てた。
「今年の冬は、久々にやってみようかな」
「じゃぁ、僕もやってみます」
「よし。じゃぁ、お互いにやって、できた氷の写真を送り合おう」
「いいですね」
「ふふ…なんか子供に戻っ──たぁあっ!」
「あぶ──…!」
〝戻ったみたい〟と言おうとした瞬間、絢音の足が滑り転びそうだったところを、和希がガッと支えた。
「あー、びっくりした…」
「大丈夫ですか?」
「うん、大丈夫。ありがとう。でも…」
「でも?」
「これ、誠司くんには内緒ね」
「え…?」
「私がこの道好きなの知ってるんだけど…枯葉ってさ、よく滑るんだよね。前に一緒に歩いた時にも転んじゃって、大笑いされた上に〝もうここを歩くのやめた方が身の為だ〟って言われてさ。でも好きだからしょうがないじゃない? だから毎回、滑らないようにと思って気を付けるんだけど─…」
「今日は転んでないからセーフじゃないですか?」
「まぁ、和くんがいたからね」
「じゃぁ、今度からここを歩く時は僕も一緒に歩きます」
「介護?」
「ち、違いますよ…!」
意外な捉え方をされて焦ったものの、絢音の笑った顔に冗談だと分かった。
「うそよ、うそ。──でも、一緒なら安心かな」
「手を繋げばもっと安心ですけど?」
「手かー…」
「腕を組めば更にもっと安心です」
「やっぱり介護じゃ──」
「違います! ──って、絢さん!?」
わざとはぐらかされているのが分かり、和希は真剣に聞いて欲しくて立ち止まると絢音に向き直った。
「あはは、ごめん、ごめん。──うん、真面目な話ね。でもそれは、私じゃなくて恋人とするものでしょ」
「だったら、僕の恋人になってください」
「あ…いや、それは前にも言ったけどさ─…」
「僕に〝やめた方がいい〟って言ったのは、十歳の年齢差と、付き合った先にある結婚とか子供の事が問題だからですか?」
絢音にとって、正直この話は終わっているものと思っていた。〝やめた方がいい〟と言った後も、〝好きだ〟と言われる事はあったが、他に好きな人ができるまでだろうと軽く受け流してきたのだ。でもまさか、〝問題〟の確認までされるとは…。ただあの時と同様に、軽く受け流してはいけないというのも分かる事だった。
「…その通りよ」
絢音はひとつ息を吐いて言った。
「十歳の年齢差は大きな問題なの。特に私の年齢で、年上っていうのはね。付き合っている時は二人だけの問題でも、結婚となるとそうじゃなくなる。和くんが真剣に自分の未来を考えるなら、相手は私じゃない方が──」
「だったら問題ありません」
「え…?」
「僕が真剣に自分の未来を考えるなら、相手は絢さん以外にいませんから」
和希がキッパリと言い切った。
「それに僕にとっての問題は、絢さんが抱える不安だけです。周りの声や思いは問題じゃありません」
「いや…和くんにとってじゃなくてさ、ご両親の気持ちっていうか──」
「だから、それは問題じゃないんです。問題じゃないから、絢さんには不安に思って欲しくないんです」
「で、でもね…和くん──」
「とにかく、僕は諦めません。──というか、諦められません。昨日、今日好きになったのならともかく、そうじゃないので。──だから決めました」
「き、決めたって何を…?」
「僕が絢さんにとって、なくてはならない存在だって思ってもらうまで絶対に諦めないって」
「い、いやいやいや…それは困るって…」
「じゃぁ、どうするんですか?」
「どうするって…そ、それは…そのー…」
(ほんと、それは困る…。今までずっと、そうならないように生きてきたのに…。でもだからってどうすればいい…? どうやって言えば納得してくれる?)
そう思ったが、すぐに〝違う、そうじゃない〟と頭の中で首を振った。なのに、絢音は言葉が出てこなかった。
一方、絢音からハッキリとした言葉が返ってこない事で、和希はホッとすると同時に嬉しくもあった。本当に無理なら、元カレやアキラの時のように〝付き合えない〟と言うはずだからだ。それが分かっただけでも、今日はもういいと思えた。
和希は優しく微笑んで、話題を変えることにした。
「絢さん、二十四日か二十五日のどちらかって空いてますか?」
「え…なに急に──」
再び歩き出した和希を、今度は絢音が追いかけた。
「どちらかでいいので、一緒に過ごしたいな…と思って」
「あー、ごめん…。そういうイベント日は仕事を入れるようにしてるんだよね」
「どうしてですか?」
「だって大事でしょ、若い子にとってのそういうイベント日っていうのはさ。特にクリスマスは夜がメインだし」
「じゃぁ、どちらかが夜勤…?」
「そっ、二十四日ね」
そう答えた直後、絢音は〝ん?〟と顔をしかめた。
「何で夜勤があるって…?」
「誠司さんから聞きました。絢さんが元カレとデートする事になった経緯の中で」
「あぁ、そっか。意外に早くバレてたんだ」
「でもあれは、当たってると思います」
「あれって?」
「〝世の中の男性のほとんどが幻想を抱く職業〟」
「あー、それね」
絢音がクスッと笑った。
「若い子が合コンに行くとさ、よく愚痴ってたのよ。〝看護師〟って言うとイメージが先行してモテるんだけど、いざ付き合ってみたら〝キツイ〟とか〝優しくない〟って言われてフラれるって。まぁ、実際そうなんだけどさ。でも勝手に幻想を抱いてるのは相手だし、それによってこっちに非があるようなフラれ方するのも納得いかないよね…ってなって。それでいつの間にか、そういう言葉で濁すようになっていったんだよね」
「イメージって勝手ですからね。──って、そういう自分も幻想を抱いてたんですけど…」
「やっぱり」
「すみません」
和希がそう言ってわざとらしく頭を下げて笑ったから、絢音もつられるように笑ってしまった。
「──じゃぁさ、二十五日の夜はどう? その日は毎年、喫茶店が終わったら店を閉めてみんなでクリスマスパーティーするから」
「いいんですか、僕も?」
「いいもなにも、みんなの中では既にメンバーに入れられてると思うよ?」
「じゃぁ、絶対に行きます」
「良かった。──あ、因みにプレゼントとかはナシだから」
「え…どうしてですか?」
「一度交換すると、次も、またその次の年も…って終わりがないでしょ? プレゼントを選ぶ楽しみがあるって言う人もいるけど、毎年となると悩みの種にもなるからさ。だから、とにかくみんなが気兼ねなく集まって楽しく飲んで食べる、それをモットーにしてるの」
「良いですね、それ!」
楽しみだと言わんばかりの笑顔に、絢音も自然と笑みがこぼれた。
「ちなみにですけど、お正月って──」
「仕事ー」
「ですよね…」
〝分かってましたけど〟と、少し残念そうに笑った。
「──それにしても見事だよね」
歩いてきた道を振り返り、絢音が言った。
あまり風も吹いておらず、それでもパラパラと黄色いイチョウが舞ってくる。道に降り積もるイチョウの葉は、まさに黄色い絨毯だ。真っ直ぐ伸びた道と両側のイチョウ並木、そして一定の距離で置かれた茶色いベンチ。そこに夕焼けの赤い色が差し込み、それはもうドラマや映画のワンシーンさながらの美しさだった。
そんな景色に見惚れている絢音を見ていた和希は、自然と携帯のカメラを起動しシャッターを押していた。音に気付いた絢音が振り返る。
「撮ったなー?」
「はい、すごく綺麗だったので」
「それはどっちが?」
冗談半分に聞いた。
「もちろん絢さんが─…って言いたいんですけど、どっちも本当に綺麗だったので。特にその赤いマフラーが、イチョウの黄色と夕焼けの赤色にピッタリだったんです」
そして、〝ほら、見てください〟と携帯の写真を見せた。
「おぉ〜、ほんとだ! ──ってか、和くん写真撮るの上手いじゃない! あ、ねぇ…和くんも一緒に撮ろうよ」
「え…?」
「ほら、早くしないと夕焼けが終わっちゃうよ? 冬なんかあっという間に暗くなるんだから。あと、これね」
絢音は自分のマフラーを外すと、和希の首に一周巻いてから、自分の首にも一蹴巻いた。
「え、ちょっ─…」
戸惑ったのは和希だ。
「絢さん…これ、わざとですか?」
「え、何が?」
「マフラーを二人で巻くって─…」
「だって一人で巻いてたらバランス悪いでしょ」
「バランス…?」
「この景色に二人が写るなら、二人とも巻かないと〝色のピッタリ感〟が出ないじゃない」
当然だが、絢音は純粋に写った時のバランスを気にしていただけだったのだ。
(ダメだ、可愛すぎる…。これがわざとじゃないなんて、ほんとヤバイですよ、絢さん…)
心臓が持たない…と顔まで熱くなる和希。顔が赤くなっても夕焼けのせいにできるだろうか。そんな事を思いながら、できるだけ気付かれない為にも俯くしかなかった。
「んー、でもやっぱり一人用だとちょっと短いか…」
首の周りを触りながら、〝どうしようかな〟と考える絢音。このままでは、一人だけのマフラーになるかも知れない。そんな不安が頭をよぎった和希は、折角の〝恋人巻き〟を解消されたくなくて、絢音の肩をグッと引き寄せた。
「え、和──」
「こうやって近付けば大丈夫です。──ほら、撮りますよ?」
(心臓の動きが気付かれませんように…)
和希は懸命に冷静さを装って携帯を構えた。一方、絢音も自分の胸がいつもと違う音を立てている事に焦っていたが、それを悟られないよう通常の口調を心掛けて言った。
「そうね。──じゃぁ、ハイチーズ」
〝カシャ〟
シャッター音を聞いた二人は、そのままの状態で撮れた写真を確認した。
背景はイチョウ並木と奥に真っ直ぐ伸びた遊歩道。その右側に等間隔に置かれたベンチ。そして左下には、ちょうど赤いマフラーが写るくらいの絢音と和希の姿があり、頭上では落ちてきたばかりのイチョウの葉がちらほらと舞っている瞬間が写っていた。
正直、二人とも写真の笑顔に心の中が透けて見えているのでは…と心配だった。──が実際に確認してみると、思った以上に自然な笑顔だったため、内心ホッと胸を撫で下ろしていた。
「うん、良いじゃない!」
「じゃぁこれ、絢さんの携帯にも送っておきます」
「ありがとー」
和希が携帯の操作をしている間に、絢音は和希からマフラーを外し自分の首に巻き直した。
「さてっと…寒いから商店街の中を通って行こうか」
「ですね」
こうして和希にとって収穫の多かった〝イチョウ並木デート〟が終わり、向かった店にはいつもより一時間ほど早く着いた。
「この時間に二人揃って来るなんて珍しいな?」
「僕が早く帰れたんです、昨日の残業で─…」
「それで偶然、絢ねぇと会って公園に行ったのか」
いつもの席に行ってコートを脱ごうとした和希たちは、誠司の言葉に驚いて手が止まった。
「何で知ってるのよ?」
「そりゃ、この時期だし、絢ねぇが好きな場所だからな。それに──」
そう言うと、誠司は和希の方を見て顎をしゃくった。
「え、僕…?」
「もしかして和くん、さっきの写真って誠司くんにも送った?」
「いえ──」
「何だ、写真って?」
「え? あ…ううん、何でもない」
和希が首を振ったのと誠司の反応から、絢音は余計な事を言ったとすぐに首を振った。──が、その反応に誠司はピンときた。
「はは〜ん、ひょっとして良い写真でも撮れたな、和希?」
「あ…まぁ──」
「あぁ、もうその話はいいから、和くん」
絢音が慌てて止めた。
もちろん、良い写真は撮れた。色合いや構図もバッチリで、普通だったら躊躇いもなく見せているところだ。それができないのは、単純に〝バランス〟を考えて和希にマフラーを巻いただけだったのに、その和希に肩を引き寄せられ心臓が慌ただしくなった途端、急に現実を把握した気がしたからだ。元々そんな気持ちではなかったにしろ、客観的に見れば〝そういう関係の二人〟にしか見えないもので、故に写真の話は早く終わらせたかった。
「それより、和くんの〝何が〟公園に行ったって分かったの?」
「あぁ…それだ、和希の首の後ろ」
そう言って、誠司は和希の首のあたりを指差した。つられて和希が首を回し、絢音が首の後ろを覗き込む。見つけたのは絢音だ。
「イチョウの葉っぱ…」
絢音が摘まみ上げて和希に見せた。
「こんな所に…」
「上から落ちてきたのが、丁度、コートとジャケットの襟元の隙間に入ったのね」
「知ってるか、イチョウの葉で木の雄と雌が分かるって?」
「知らない。──ってか、葉っぱなんてどれも同じなんじゃないの?」
「違うんだな、これが」
「知ってる、和くん?」
「いえ、知らないです」
二人は後ろの壁掛けに上着を掛けてからいつもの椅子に座った。
「よーし、じゃぁ、オレの豆知識を教えてやろう。ここに、イチョウの葉を描いてみな」
そう言うと、誠司は紙とペンを二人の前に置いた。
「イチョウの葉って言われても、まんまコレでしょ」
絢音は、さっき摘まみ上げた本物のイチョウの葉を見て描いた。いわゆる、普通の扇形のイチョウだ。
「はい、和くん」
次に、和希がペンを渡された。
「他にありましたっけ?」
「イチョウの葉のイラストとか、漫画で出てくるような絵を思い出してみろ」
「そう言われても…」
「普通の葉っぱでも、まっすぐな葉っぱや、枯れた葉っぱ、曲がった葉っぱ、虫食いの葉っぱとか、色々あるだろ? そういう色んなバージョンの葉っぱを思い出せ」
「んんー…」
眉間にシワを寄せる和希の隣で、絢音もまた空を見つめて思い出そうとしていた。──とその時、
「あっ! こういうのもありましたね」
──と、今度は扇形の真ん中が切れている絵を描いた。
「おー! それだ、それ。そのどちらかが雄で、どちらかが雌の木だ。──さぁ、どっちがどっちだ?」
「えー…どっちだろ…」
「実のできる方が〝雌の木〟ですよね…」
「あの公園、ギンナンって落ちてなかったんじゃない?」
「──って事は、この葉っぱが…雄の木?」
「そうよ、そういう事じゃない!? よし、それで行こう。──この葉が雄の木!」
絢音が実物のイチョウの葉を前に差し出し、自信満々に言った。
「ファイナルアンサー?」
「ファイナルアンサー」
「間違ってたら、オレの言う事ひとつ聞くって言っても?」
「ふっふっふ、そんな脅しには乗らないから。一つでも二つでも聞いてあげるわよ。──ほら、どうなの? 答えは?」
答えが早く知りたくて急かす絢音と、その性格を知ってわざと答えを焦らす誠司。ニヤニヤした顔で〝まさか間違ってる?〟と不安にさせようとするが、自信満々な絢音はそんな策には全く動じず、これまた余裕の笑顔で誠司を見ていた。が──
「ザンネーン!」
カウンターを軽く叩く仕草と、とても嬉しそうな〝ザンネーン〟をもらってしまった。
「え、うそっ!?」
「雄じゃないんですか!?」
「はっはー。オレの言う事、一つや二つ、聞いてもらおうか」
「いやいや…そんなの分からないわよ? 私たちが知らないのをいい事に、うそ言ってる可能性だって──」
「絢さん、うそじゃないみたいです…」
「えぇ…?」
〝何で分かるの?〟と思い和希を見れば、携帯で調べた画面を見せられた。そこには誠司の言う通り、〝扇形が雌の木〟、〝割れているものが雄の木〟と写真付きで載っていて、更に覚え方まで書いてあった。
「その葉を上下逆さまにして、ズボンのように割れているのが〝雄の木〟、スカートのように見えるのが〝雌の木〟って覚えるんだ」
ご丁寧に、誠司の音声までついてきた。
「あの公園には一本だけ雌の木があるんだ。たまたまその葉っぱが和希の襟元に落ちてきたんだな。ある意味、奇跡じゃないか。──よーし。じゃぁ、言う事を聞いてもらおうか」
「はいはい、分かったわよ。どうぞ、言ってみんしゃい」
「じゃぁ、早速。──さっき言ってた写真を見せろ」
「え、ちょっと待って、それは──」
「これは和希の分だから、絢ねぇに拒否権はないぞ。ほら見せろ、和希」
携帯を渡せと誠司が手を伸ばせば、それをさせまいと絢音が割って入る。
「ちょ…和くんは関係ないで──」
「いや、ある。同じ答えだったからな。それに、絢ねぇの分は〝ここぞ〟って時まで取っておくから」
「はぁ!?」
「ほら和希、携帯貸せって」
「や…でも絢さんが──」
「そうよ、ダメよ──」
「いいのか? 色々と情報持ってんのはオレだぞ?」
「そ、それはー…」
「ちょっと、和くん、なに動揺して──」
誠司が言う〝情報〟が何なのかは言わずとも分かり、止めようとする絢音に和希は大いに迷ってしまった。迷ってしまったが、やはり〝未知なる情報〟への興味には勝てず、結局、誠司に軍配が上がってしまった。
「すみません、絢さん…」
ご機嫌斜めの絢音に謝る和希。
「でも、本当にいい写真なので隠さなくても…」
「それはそうだけど…」
隠す必要がないと言われればそれまでで、少し冷静になってみると、何もここまで必死にならなくてもいい事だと気付く。謝る和希を目の前にして、大人気なかったと少し恥ずかしくもなった。
「まぁ、勝手に賭けた私が悪いしね…」
二人のやりとりを横目で見ながら、和希の携帯に表示された写真を見ていた誠司は、何とも幸せそうに笑っている二人の顔を見て嬉しく思った。
(ほんと分かりやすいよなぁ、こういう時の絢ねぇは…)
マフラーの〝恋人巻き〟をした経緯は分からなくても、絢音自身、そこに意図がなかった事は誠司にも分かる。──にも拘らずそれを隠そうとしたところが、既に〝気持ちの変化があった〟と言っているようなものなのだ。おそらく写真として客観的に見た事で気持ちに変化が生まれたのだろうが、誠司としては、その〝隠そうとした分かりやすさ〟に思わず笑ってしまったのだった。
絢音と和希が歩いた公園のイチョウ並木は、それから一週間もすると葉が全て落ちてしまった。黄色の色味がなくなると、それはもう見事なまでに秋から冬へと景観が変わる。そんな殺風景な景色も、日々入れ替わるように光が足されていった。クリスマスに向けてのイルミネーションだ。
日々変わらない日を過ごし、迎えた二十五日の夜。集合時間は喫茶店が終わる十八時から十九時の間だが、常連客の中には店をやっている者もいるため、それぞれ都合がついたら…というようになっている。
夜勤明けの絢音はいつもより一時間早く店に行く予定だが、その前にひとつだけどうしても確認したい事があり更に三十分早く家を出た。それは店のクリスマスパーティーと同じで、絢音にとっては毎年の恒例行事なのだ。
イベント行事で遅くなりがちな和希は、礼香たちのアシストもあり十八時半には店に着く事ができた。二人きりではないが、絢音とクリスマスを過ごせるというだけでいつも以上にワクワクする。そんな和希を目にして、誠司は絢音の居場所を伝えた。
「商店街のクリスマスツリー…ですか?」
「毎年、そこに寄ってからここに来るんだ。一緒に見てこいよ」
そう言えば、〝はいっ!〟と満面の笑顔を見せて再び店を出て行った。
商店街の中心はイベントができるよう円形になっていて、そこに大きなクリスマスツリーが飾られている。そこに絢音がいた。
(絢さん…)
クリスマスツリーを見上げる絢音の横顔が、ライトに照らされて色が変わる。瞳は中までライトがあるのかと思うほどキラキラと輝いていた。
何を思ってツリーを眺めているのかは分からないが、その姿がとても幻想的に見えるのは自分だけだろうか…。そんな事を思った和希は、気が付けば携帯で写真を撮っていた。その音に絢音が気付き振り向いた。
「あれ、和くんも来たんだ」
「ここにいるって聞いたので…」
「そっか」
「綺麗ですね…」
「そうなんだけどねー…」
何故か、不満そうな返事だった。
「どうかしたんですか?」
「いやぁ…なんかもう目がチカチカしてさ…」
絢音はそう言って目をパチパチさせた。
「ライトで、ですか?」
「そー。だからなかなか見つけられなくて…」
「…何を?」
「何を…って、サンタクロースだけど?」
「はい?」
「サンタクロースのオーナメントよ。今年は何色だと思う?」
「あの…意味がよく分からないんですけど…?」
「え…? 誠司くんに聞いてここに来たんじゃないの?」
「そうですけど…。僕は絢さんがここにいるって聞いて来ただけで…」
「あー、なんだそうなの? てっきりツリーの事を聞いて来たのかと思ったわ」
「ツリーの事…?」
「ほら、見てあそこ」
絢音はそう言って、すぐ目の前にぶらさがっているサンタクロースのオーナメントを指差した。
「あのサンタクロースの服って、普通の赤色でしょ? ツリーにはあのオーナメントがそこら中に飾られてるんだけど、ひとつだけ服の色が違うサンタクロースがあるの」
「へぇー、そうなんですか?」
「──で、その服の色が毎年違うの。この商店街の会長さんが色を決めて、いつの間にかこっそりと飾るもんだから、誰も〝今年の色〟が分からないんだよね。だから毎年、そのサンタクロースを見つけるのがみんなの楽しみでもあってさ。──ほら、間違い探しとかって、みんな夢中になるじゃない? それと同じね」
「なるほど…。楽しそうですね」
「毎年やってるから、見つけられないとなんかずっとモヤモヤしちゃって…ここから離れられない人、結構いるのよねぇ」
〝自分もそのうちの一人なんだけど〟とでも言いそうに、絢音が笑った。
「じゃぁ、僕も探します」
「ほんと? 助かる〜」
「因みに、去年は何色だったんですか?」
「青よ」
「じゃぁ、少なくとも青じゃないって事ですね」
「そうね。でも、もうそろそろ来そうな気もするのよ、あの色が」
「あの色って?」
「ゴールドよ。私が覚えている限り十年は普通の色だったから、そろそろ来てもいい頃なんだよね。それに、これだけ見てて見つからないってことは、周りの色に溶け込んでる可能性もあるし」
「確かにこのキラキラした中に入れられたら、見つけるのは大変ですね…」
「でも和くんが来たなら何とかなるかも。ねぇ、私は真ん中から下を見るからさ、和くんは上半分を探してくれない?」
「分かりました」
二手に分かれて絢音が右回りで探せば、和希は邪魔にならないよう左回りで探し始めた。
「サンタクロース…サンタクロース…のあの服は──」
「赤…赤……赤でしょ……あれも赤……」
絢音は見落としがないよう、ひとつひとつ指をさしながら確認していった。
「あそこの陰にあるのは──…」
和希が覗き込むように体を曲げる。
「…っと、あれも赤か…」
「あ、そうだ─…」
ここでふと、絢音が大事なことを思い出して顔を上げた。
「もし見つけても〝見つけた!〟って言っちゃダメだからね」
「え、どうしてですか?」
〝探してるのに?〟と、和希が不思議そうな顔を向けた。
「そんなこと言ったら周りの人にバレちゃうでしょ? 自分で見つけたいと思ってる人も多いし、簡単に分かっちゃったらつまんないじゃん。謎解きゲームで人があふれ返ってくると、答えが飛び交って興醒めしちゃう、あれと同じよ」
「あー、確かに…」
「だから、みんな暗黙の了解で見つけてもバレないようにそっと確認して帰っていくの」
言いながら再びツリーに視線を戻すと、和希も〝なるほど〟と視線を元に戻した。
「…ちなみに、これって見つけたら何か良い事があったりするんですか?」
「良い事?」
「願い事が叶うとか、来年良い事が起きるとか…そういうジンクス的な事です」
「さぁ、どうかな…。でも、必ずみんな平等に訪れる事はあるよ」
「えー、何だろ…」
「それは見つけた時のお楽しみだねー」
(お楽しみか…)
それが何なのかは想像もつかないが、〝平等〟という時点で特別なことではないのかもしれない。それでも絢音と一緒に探して見つける事ができたら、それは和希にとって幸せな思い出の一つになる事は間違いなかった。
(絶対見つけたい…)
そう思ってツリーを半周ほどした時だった。
「あ──」
〝ありました!〟と叫びそうになって、ハッとした。ここは、バレないように知らせなければならない。
和希は少し考えて、いつもの口調で絢音を呼んだ。
「絢さん」
「んー?」
絢音はツリーを見ながら返事をした。
「先に写真を撮りませんか?」
「写真?」
「見つけたら、テンション上がって写真を撮るの忘れそうなので」
そう言うと、絢音の視線がオーナメントからツリー全体を見るように上の方へ移動した。
「あー、確かに忘れるかも。──オッケー。じゃぁ、どこで撮る?」
「ここがいいです」
和希は自分のいる足元を指差した。
「そこ? でも、ツリーの正面じゃないよ?」
「そうなんですけど…バランス的にここが丁度いいんです」
「バランス…?」
〝意味が分からない〟と繰り返すも、和希は説明するどころか〝ほら、こっちに来てください〟と再び足元を指差す。絢音は諦めて
「分かった」
──とだけ言って和希がいる場所まで移動した。
「じゃぁ…絢さんはこっちに立って─…はい、いきますよ?」
自分の左側に絢音を立たせ右手の携帯をインカメラにすると、ツリーの先端まで入るよう少し下からのアングルで固定した。
「はい、チーズ」
その声と共に〝カシャ〟というシャッター音が聞こえた。すぐに、和希が写真を確認する。
「どう、綺麗に撮れた?」
「バッチリです」
「どれどれ見せてごらん〜」
楽しそうに促す絢音に、和希が写真を見せた。
「おー、いいんじゃない? ブレてないし色味も綺麗に写ってる」
「ですね。でも、もっといい所があるんです。──見てて下さいね」
和希はそう言うと、写真を指で拡大しながら、画面に写る場所を調整していった。徐々に大きくなるツリー。画面に写るのはツリーの一番上の大きな星。そしてその下、それも少し奥に入った所に、微かに見えたのは──
「──── !」
絢音は声を出しそうになって、咄嗟に口を押さえた。そして反射的に横を向けば、嬉しそうに微笑む和希と目が合う。和希はそっと人差し指を立て〝シー〟と言うジェスチャーをした。絢音は〝了解〟と頷くと、小さな声で聞いた。
「見ていい?」
和希がゆっくりと頷くのを待ってから、平静を装って出来るだけ自然に振り向いた。
一番上の星の下。その少し奥に入った所に、それは確かにあった。絢音が予想した通り、ゴールドの服を着たサンタクロースのオーナメントが。
しばらくして、絢音が落ち着いた声で言った。
「和くん…」
「はい?」
「帰ろっか」
「…そうですね」
和希は、さっきの写真を絢音に送ってから携帯をしまった。そして空いた手を差し出した。
「今日はクリスマスなので、手を繋いで帰りませんか?」
そう言って見せた微笑みは、とても優しくふんわりと心を包み込んでくれるようだった。だから思わず〝恋人でもないのに?〟と意地悪な言葉を返そうと思っていたのに、言葉が浄化されるようにフッと消えて、自然と笑みがこぼれてしまった。
「敵わないなぁ、その笑顔には…」
もうそう言うしかなくなった絢音は、諦めたように息を吐き出してから和希の手を取った。〝恋人でもないのに…〟と思っているのは和希も同じだが、だからこそ絢音が自分の手を取ってくれたことが嬉しかった。
「絢さん、見つけたら必ずみんな平等に訪れるって言う、あれなんですけど…」
「あー、あれ? あれはねー…」
絢音はそこで一旦区切ると、ニッコリと笑って言った。
「達成感と幸福感」
その回答に、和希がクスッと笑った。
「間違いないですね」
「でしょー」
見つけたことで味わえる達成感と幸福感は特別な事ではないけれど、絢音と探して一緒に見られたことは手の温もりと同じくらい幸せな事だと和希は思った。
店に着くと、大体のメンバーは集まっていた。料理は誠司やママ、常連が持ち寄り、飲み物は酒屋のサカさん、クリスマスケーキはケーキ屋〝かすみ〟の篠さん、デザートのフルーツは苺一会の店主から…と、ほぼ常連客からの提供だった。
夜の零時を過ぎてもにぎやかさは変わらず、仕事を終えた椿が合流すれば、更にそこから盛り上がったのだった。