3 期間限定・新作ビール
懐中時計が絢音の手に戻った日の夕方、仕事が終わった絢音は、弾むような足取りで商店街を歩いていた。
「お帰りー、絢ちゃん。何か良い事でもあったみたいだなぁ?」
声を掛けたのは、店名が〝酒好屋の盃〟という、酒屋の店主だった。名前はあるが、この辺のみんなは〝サカズキ(さん)〟とか〝サカさん〟と呼んでいる。
絢音は〝ただいまー〟と言いながら、店の方へ歩いて行った。
「良い事あったよー」
「ほぉ。──して、その良い事とは?」
「ズバリ!」
絢音は右手の人差し指を立てると、その先を続けた。
「失くしたものが見つかった!」
「おぉ! そりゃ、めでたい! こういう時はお祝いに限るな。しかもなんと、今日は期間限定•新作ビールが発売された! これはもう、試すしかないんでないかい?」
「それはもう、試すしかないでしょう! ──って、普通に言ってよ、サカさん」
「いやぁ、だって絢ちゃんノってくれるから。つい、な?」
「まぁ、良いけど。──で、どれが新作?」
絢音は店の中を覗き込んだ。サカズキは各社毎に分けて置いてある棚から、期間限定の新作ビールを一本ずつ取ると、それを絢音の前に並べた。全部で五本あったが、絢音はそのうちの二本を手に取った。青を基調にして天の川がデザインされたキリナンのビールと、緑を基調にして清々しい森と澄んだ水がデザインされたユウヒのビールだ。
「やっぱりそれかぁ」
「そりゃぁ、デザインがいいからねー。あ、これ二本ずつね」
新作ビールが発売されると、サカズキは決まって絢音に〝試してくれ〟と頼む。もちろん、絢音がお酒に弱く殆ど飲まない事は知っている。絢音も普段は全く飲まないのだが、たまに数口くらいは飲んでみたくなる時がある。ただ一缶買っても飲み切れないため、その時は誠司やママに差し入れして、少しだけ分けてもらっていたのだ。そのうち真新しいお酒を見つけると、どんな味か試してみたくなった。缶に書かれている文言では味の想像はできないため、単純に缶のデザインだけで選んでいたのだが、これが不思議とみんなが美味しいと思えるもので、〝絢音が気に入ったものは売れる〟というのが、サカズキのジンクスになっていたのだ。そのため、新作が出ると絢音に選んでもらっていた。
「じゃぁ、追加注文はこの二種類だな」
サカズキは注文票にチェックを入れると、絢音が選んだビールをレジに通した。
「責任は取らないからね」
「分かってるって」
「──ってかさ、サカさんが飲んで決めればいいんじゃないの?」
レジの画面に表示された金額を見て、絢音が財布から千円札を出す。
「オレはダメだ」
「なんでよ?」
「酒ならなんでも美味いと思うから」
好き嫌いなく何でも食べられる人は、どこに行っても美味しく食べられて食に困らない。それは幸せな事で、お酒に関しても当てはまるのだろうが…。
「人生としては幸せだけど、経営には向かないわね」
少々呆れながら、絢音はビール四本分の代金をサカズキに渡した。
「ナハハ。それ、カミさんにも言われたよ。はい、お釣り─…と、あとこれな」
レシートとお釣りを先に渡し、絢音が受け取ったあと更に渡したのは、二本分の無料チケットだった。
「ありがと。じゃぁ、早速お祝いしてくる」
「おぅ! 誠司とママにもよろしく」
「了解ー」
絢音はビールの入った袋を軽く上げて挨拶すると、変わらない足取りで誠司の店へと向かった。商店街に入ってくる五月の風は、とても爽やかで肌に心地良い。絢音の気分は更に上がり、スキップしたくなる気持ちを抑えようとして早歩きになってしまうほどだ。そうして、南口から出てすぐの店に着いた。
「ただいまー」
店に入ってきた絢音の第一声が昨日と違うことに、誠司とママはすぐに気が付いた。
「どうしたの、絢ちゃん?」
「何かあったな?」
〝お帰り〟もなく数日前と同じような質問だったが、明らかにその時とは違っていた。
「これ、差し入れ」
絢音がカウンター越しに袋ごと渡すと、誠司が中を覗き込んだ。
「サカズキに寄ったのか?」
「そう、声掛けられてね。冷えてないから冷凍庫に入れといてくれる?」
「いいけど─…冷凍庫って事は今日飲むのか?」
「飲むよー、お祝いだから」
「何の?」
〝今日飲む〟と言われ、早速、濡らしたキッチンペーパーを缶に巻きつけ冷凍庫に入れながら聞けば、絢音はいつもの席に座って意味ありげにニッコリと微笑んだ。
「何だよ? もったいつけずに言えって」
「んふふふ。実はさー…」
そう言うと、絢音はトートバッグの中のポーチから例のものを取り出した。そして〝ジャーン〟と、今では古いと言われそうな効果音を自分の口で出して二人に見えるように差し出せば──
「それ─…!」
「見つかったのか!!」
誠司がカウンターから身を乗り出し、ママも指差しながら走り寄ってきた。
「見つかった」
「どこで? やっぱ、線路とかに落ちてたのか?」
「そんな…何度見てもなかったんでしょう? きっと良い人が拾って届けてくれたのよ、ねぇ?」
「ピンポーン。ママが正解」
「ほらぁ」
「でも正確には〝直接〟だけどね」
「直接?」
「絢ねぇに?」
「そっ」
「何で絢ねぇが落としたこと知ってたんだ?」
「電車に乗る時に落とすところを見たんだって。それを拾おうとしたんだけど、ちょっと手間取って…拾った時には私が電車に乗ってたって」
「だったら駅員に渡せばよかったのになぁ。そうすればもっと早く戻ってきただろうに」
「あー…それは何度も謝られたから言ってあげないで。落としたのが私だって分かってたから、届ける事を思い付かなかったみたい。次の日に返せると思ったみたいでさ」
「まぁ確かに…落とした人が誰なのか分かってたら、届けるより自分で渡す方が手っ取り早いって思うか」
誠司はそう納得すると、日替わり夕食の準備に取り掛かった。代わりにママが会話を引き継いだ。
「ただ、タイミング悪く私の勤務時間がバラバラだったからね…」
「それは相手も焦ったでしょう。返せると思ったのに絢ちゃんに会えなくて…」
「だからもうほんと、戻ってきただけで十分って言ったの」
「そうね。それにしても、随分と傷付いて──え、えぇ!?」
改めて懐中時計を見たママが、今朝の絢音と同じように驚きの声を上げた。その声に、店の奥で鶏肉を揚げていた誠司が〝どうした?〟と店の方に顔を覗かせた。
「ちょ、ちょっと、誠司…これ…!」
「何だよ、今油使ってるから──」
「いいから! 見なさいって!」
絢音が座るカウンター席の方から何度も手招きされて、誠司は油の方を気にしながら菜箸片手に出てきた。そして〝見なさいって〟と差し出された懐中時計を見た直後、
「はぁ!? え、マジで!?」
二度見する勢いでママから懐中時計を奪い、それが見間違いじゃない事を確認した。
「ウソだろ…? 動いてる…」
誠司は瞬きするのも忘れるくらい驚いて、絢音の顔を見た。
「そう、動いてるのよ」
「何で? いつから?」
「その人が言うには、拾った時には動いてたって。だから、落ちた衝撃で動いたのかも…って」
「衝撃って…昭和のテレビかよ…」
誠司のツッコミに、絢音は思わず吹き出した。
「何だよ?」
「それ、私も言った」
「まぁ、そりゃ言うよな…。でも何やっても動かなかったのに衝撃でって…どんだけ強い衝撃だよ? 逆に壊れるだろ」
「アナログも、時に不可思議なことが起こるものよねー」
「その口調、もうどうでもいいって思ってるな?」
「だって戻ってきたんだよ? 戻ってきた上に動いてるって…なんかもう理由とかどうでも良くない?」
「そりゃそうだけど──」
「──ってかさ、揚げ物いいの?」
〝気にするとこそこじゃないでしょ〟と店の奥を指差され、誠司はハッとした。
「やっべ、忘れてた。──絢ねぇ、返す」
誠司は懐中時計をカウンターの上に置くと、慌てて店の奥へ引っ込んでいった。
「…まぁ、何はともあれ良かったわ。傷は付いちゃったけど、永遠に失うよりはずっといいものね」
「ほんとそれ。でも、ママの言う通りだった。〝人の思いが詰まったものは、必ず持ち主の手に戻る〟って、あの言葉」
「でしょう? でも〝思い〟だけじゃないのよ。〝縁〟があるって事も大事なの」
「縁か…」
カウンターに置かれた懐中時計を手に取った絢音は、〝確かにそうね〟と嬉しそうに眺めた。ママはそんな絢音の背中を優しく叩くと、何も言わずに他の客の元へ戻って行った。入れ替わるように誠司がカウンター内に戻ってくる。
「ほら、出来たぞ。唐揚げ定食と…祝いの酒だ」
盛り付けた唐揚げ定食と小さめのグラスを絢音の前に置くと、持ってきた缶ビールを開けた。絢音はグラスを手に持ち、誠司はそこにビールを注いだ。
「じゃぁ、戻ってきた懐中時計に…」
絢音がグラスを前に出すと、
「戻ってきた悠人に─…」
誠司が缶ビールをグラスに当てた。素材の違うチグハグな音を立てたあと、二人はビールを口にした。
「んん!」
「ウマいな、これ!」
「ね! 苦味もちょうどいいけど、香りがいい!」
「この喉にキュッとくるキレもいいぞ」
「やっぱり、キリナンはキレがいいよね。──よし、じゃぁ早速食べようっと」
「おー。ビールと唐揚げの相性は最高だからな」
絢音は〝いただきまーす〟と、一口目から唐揚げを頬張った。
「うん! 最強コンビ! 唐揚げがビールを呼んでるー」
更にビールを口にする絢音を見て、誠司は〝ハハハ〟と笑った。
「そういや、その拾ってくれた人にお礼ってしたのか?」
「んー、したと言えばしたけど、してないって言ったらしてないかな」
「何だよ、それ?」
「それがさ、お礼に食事でも…って言ったんだけど断られちゃって…」
「ふーん。──ん? でも〝したと言えばした〟とは?」
「食事は断られたけど、代わりに話し相手になって欲しいって言われた」
「話し相手?」
誠司が眉を寄せた。
「今ってさ、みんな携帯見てるでしょ。ずっと俯いて誰も喋らない。静かなもんよ、電車の中もホームもあんなに人がいるのにさ。それがなんだか寂しいんだって。もう少し人の声が聞きたい…みたいな?」
「人の声…」
「その人も一人通勤だし、他愛もない会話ができる人がいたら、通勤時間も楽しくなるだろうな…って、そういう理由でね」
「それでオーケーしたのか?」
「したよー。お礼だし、断る理由ないでしょ」
「まぁ、そうかも知んないけど─…因みに、性別は?」
「男性。三十代前半かな。川上くんって言って、すっごく優しそうな目をしてた。話し相手になるって言った時なんか、〝十代?〟って思うくらい顔がパァ…って輝いてさ、思わずワンコの顎関節辺りをムニムニ〜ってしたくなる衝動に駆られた」
「ハハ、何だよそれ」
「まぁ、それは言い過ぎだけど。でもなんか、いい笑顔だったよ」
「そうか。──じゃぁ、今度ここに連れてきたらどうだ? オレも一言、礼が言いたいし」
「分かった、機会があったらね」
「おー」
誠司は、食事を断って話し相手が欲しいという意図が気になった。絢音の懐中時計を拾ったのが、ただの偶然か否かは分からない。その人間が信用できるかどうかの判断は、絢音に聞くより直接自分の目で見て判断する必要がある、と誠司は思ったのだ。
一方その頃の和希は、礼香とイベントに必要な物をチェックしたり、不足しているものを調達したりと、最終的な準備で会社に残っていた。
「これでラストです」
「了解。あ〜…やっと終わった…」
和希が最後のダンボールを運び終えると、礼香は全身の筋肉を伸ばすように大きく伸びをした。
「意外に早く終わりましたね」
「誰かさんが張り切ってくれたからね」
「…誰かさんって?」
礼香が無言で和希を指差した。
「え、僕ですか?」
「一番張り切ってたでしょ? しかも朝からずっと」
「別にそんな─…いつもと同じだと思いますけど」
「いいや、違うね〜。明らかに張り切ってた。──ほら、白状しなさい。何か良いことあったんでしょ?」
〝隠しても無駄〟だと詰め寄れば、和希も諦めたように溜息を付いた。
「…何でいつも分かるんですか」
「逆に、何で分からないと思うわけ?」
「どういう意味ですか?」
「バレバレって事よ」
「バレバレ…」
「口の周りにチョコレート付けて食べてないフリしてるけど、めちゃくちゃ幸せそうな顔してる子供と同じくらい、気持ちを隠せてない」
「何ですかその例え…」
「それくらい素直って事。良い事じゃない、素直って」
言いながら、礼香はコーヒー自販機のところに移動する。和希もその後をついて行った。
「不思議なくらい褒められてる気がしないんですけど…?」
「そう? みんなベタ褒めだけどなぁ、〝川上は可愛い〟って」
礼香はいつものアメリカンのボタンを押した。
「可愛いって─…三十二ですよ、僕?」
「年齢じゃないのよ。川上くんの可愛さは。素直で気持ちが真っ直ぐで、見てるだけで気持ちが伝わってくるから、からかいたくもなるし…とにかく癒されるの」
「何でだろう…素直に喜べない…」
「まぁまぁ、嫌われるよりはいいじゃない」
「それはそうですけど…」
「よし。じゃぁ、本題」
出来上がったアメリカンを取り出し、次いで和希が飲むブレンドのボタンを押した。
「今日あった〝良い事〟とは?」
「それは─…」
コーヒーが出来上がるのを眺めつつ、今朝の事を思い出してまた嬉しさが込み上げてきた。
「ちょっと、一人でニヤけてないで言いなさいって」
腕をパシっと叩かれてハッと我に返った和希は、出来上がったコーヒーを手に取り一口飲んでから言った。
「話し相手になってもらえました」
「…はい?」
意味が分からず、礼香が疑問形で返す。
「いやいや、話を端折りすぎ。結論は大事だけど、まずは何の話なのか説明してくれないと」
「あぁ、そうですよね…すみません。えっと…この前話した人の事です。ずっと探してた人が見つかったっていう──」
「あー、はいはい、その人ね。一応確認だけど、女性…よね?」
和希は〝はい〟と頷いた。
「話し相手になってもらえたって事は、思い切って話し掛けたんだ? 頑張ったじゃない」
「まぁ、頑張ったというか…落とし物を拾ったので、それがキッカケで話し掛ける事ができたってだけですけど」
「何だっていいわよ、話すキッカケができたのなら。でも落とし物を拾った流れから、どうして〝話し相手〟に?」
「落とした物がすごく大事な物だったみたいで、お礼がしたいって言われたんです」
「まぁ、それは極々普通の流れよね。それで大抵は〝食事でも…〟ってなると思うけど」
「はい、そう言われました。でも断ったんです」
「断った? どうして?」
「いやだって…いきなり二人で食事とか展開が早すぎて、心の準備ができてないっていうか──」
「初恋も知らない青少年か」
礼香が思わずツッコんだ。
「でも、お礼で食事に行ったら、それで終わりな気がしませんか? 〝ありがとう〟〝どういたしまして〟で、貸し借りの関係がなくなったら、それで終わり…みたいな」
「いやいや、その食事から色んな話をして始まったりするもんでしょう? お礼の食事が終わったからって、ホームで会っても挨拶しないとかある? 絶対に挨拶するでしょ」
「まぁ…しますね…」
「そしたら自然に会話が始まるし、連絡先の交換なんかあっという間じゃない」
「え…じゃぁ、食事に行った方が良かった…とか?」
「どう考えたって、その方が自然でしょ。──てか、話し相手になって欲しいって、君は孤独な独居老人か」
「そんなに変ですか?」
「じゃぁ、彼女は? それ言われて変な顔してなかった?」
「変な顔…?」
その時の事を思い出してみて、確かに不思議な顔をしていたな、と和希は思った。
「ひょっとして、変なやつだと思われている可能性あります…?」
「そんな顔してたんだ?」
「まぁ…不思議な顔はしてましたけど─…」
「んー…まぁでも、それでオッケーしてくれたのならいいのかなぁ。ただ、食事に行くまでの道のりが少々長くなったとは思うけど」
「えー…そうなんですか…?」
「いいよ、いいよ。川上くんは、それくらいのペースの方が合ってるって。ただあんまりゆっくりしてると、誰かに取られる可能性もあるけどね〜」
〝気を付けなさいよ〜〟と、ニヤニヤしながら和希の顔を指差して、クルクルっと回した。──が、礼香はその表情に〝え?〟となった。
「な、何、どうした?」
「あ、いや…そう言えばそういうこと何も知らないなって─…」
「うん?」
「だからその…彼氏がいるとかいないとか、結婚してるとかしてないとか──」
「あー…まだそういう段階だったか…って、まぁ、そうよね。ずっと探してて、数週間前にやっと見つけたんだものね…」
「全然、考えてなかった…。え、どうしよう…彼氏がいたり…結婚とかしてたら──」
「あー、はいはい。取り敢えず一旦落ち着こう。ね、川上くん」
探すことが最優先で肝心な事を考えてなかった…と焦った和希を、礼香は〝まずはコーヒーでも飲んで〟と勧めた。
(何というか…弟と一個しか変わらないとは思えないこのピュアさはなんなの…? 可愛すぎる。──ってか、全力で応援したくなるじゃない)
礼香はまるで、推しのアイドルを見つけたような気持ちになった。
「とにかく、そこを探るところからね。彼氏がいたり結婚してたら、ほとんどの人は指輪をしてるだろうし、それがなければ──」
「ないです」
「え、早っ…」
「装飾品は一切身に付けてないです」
(一切…?)
それもどうかと思ったが、指輪を付けているよりは安心できるのは確かで…。
「まぁ、それなら大丈夫かもね」
そう答えた礼香の言葉に、和希はホッとした顔を見せた。
「よし、じゃぁ、存分に会話を楽しみなさい。その後の報告、楽しみに待ってるから」
「…分かりました。進展があったら話します」
「進展させなさいよ」
再び腕をパシっと叩き、礼香は残りのコーヒーを飲み干した。
「じゃ、飲みに行こう!」
「は─…え、帰るんじゃなくて!?」
思わず〝はい〟と言いそうになって飲み込んだ。
「一人暮らしの人間が、今から家に帰ってまともなご飯を食べると思う?」
「食べ…ないですね…」
実際、和希も帰る途中にコンビニに寄ろうと思っていたのだ。
「でも飲みに行くってことは、既に〝まともなご飯〟じゃないですよね?」
「それがさ、美味しい唐揚げがあるお店知ってるのよ」
「それ、絶対にメインがお酒になるやつじゃないですか」
「まぁまぁ。ちゃんと惣菜もあるから、そこはほら、自分で責任持って選べばいいわけだし?」
「それはそうですけど──」
「分かった。お酒の分は奢る! これでどう?」
もう一押しとばかりにそう言えば、和希も和希で断る理由はないわけで…。
「分かりました。そこに行きます」
──と、諦めたように頷いた。
「よーし! そうと決まれば、ほら行くよ!」
「あ、ちょ…待ってください──」
持っていた紙コップを捨てて、さっさと帰り支度を始めた礼香。和希も慌てて残っていたコーヒーを飲み干しゴミ箱に入れると、礼香を追うように会社を後にした。
(ふふふ。これで色々と聞き出せるわ)
平静を装いつつ、ワクワクが止まらない礼香。何故〝お酒を奢る〟と言ってまで飲みに誘ったのか、それを和希が知ったのは少し酔いが回ってきた時だった──
懐中時計を手渡してから二日後の月曜日──
前の晩、和希はどんな話をしようかと考えてなかなか眠れなかった。朝も早くに目が覚めてテレビや携帯のニュースに見入っていたが、どれもこれも話が広がるような気がしない。結局、話す内容は家を出てからも思い付かないまま、ホームへ続く階段を登っていた。それでもホームに立っていた絢音の姿を見つけると、何を話そうか悩んでいた事などすっかり忘れ、一気に胸が高鳴った。そのままの勢いで足を踏み出す。──が、次の瞬間ふとある事を思い出して足を止めた。
〝気持ちを隠せていない〟
二日前、礼香に言われた言葉だった。しかもその後、飲みに行った所で絢音の事を色々と聞かれ、挙げ句の果てには〝子供っぽいと思われたら恋愛にも発展しないから〟と言われてしまったのだ。もちろんそんな忠告をしたところで、和希が〝大人の男〟になれないのは礼香も分かっていた。同時に、それが和希の良さである事も知っていたのだが…。
和希は舞い上がりそうな気持ちを抑えようと、その場で呼吸を整えた。そして絢音の少し斜め後ろに立ち並んだ時、できるだけ落ち着いた声で挨拶をした。
「おはようございます、早瀬さん」
和希の声に絢音が振り返る。
「おはよう、川──…んん? どうしたの、それ?」
和希の額に貼られた絆創膏が目に入り指差せば、〝あぁ…〟と和希は少し恥ずかしそうに手をあてた。
「土曜日が残業で…仕事が終わってから、職場の先輩とご飯がてら飲みに行ったんです。それで久々に飲み過ぎて──」
「分かった、転んだんだ?」
「はい、家で…」
「え、家で!?」
思っていた場所と違い、絢音は少し目が大きくなった。
「靴を脱ぐのに足がもつれてしまって、ローカに思いっきり…」
「あー…じゃぁ、結構アザが目立つ感じね?」
「はい、鍵の跡がくっきりと」
「鍵…?」
これまた予想外の返答に、絢音の目が更に大きくなった。
「転んで手を付いた時に持っていた家の鍵を落として…でも手に力が入らなかったので、そのままダイレクトに鍵の上に頭が…って感じです」
「んー…それは痛い。でも、もったいないなぁ」
「もったいない…?」
どこにもったいない要素があるのだろう、と今度は和希の目が丸くなった。
「せっかく家まで無傷だったのに、最後の最後でそれって…なんかもったいなくない?」
「あぁ、そういう…」
「ゲームで言うと、終盤まで回復アイテムを使わず来れたのに、ラスボス直前に大打撃を受けてしょうがなく使った…みたいな」
「それはもったいない…」
「でしょー。でもちゃんと一人で家に帰って来られたんだから、それはそれで偉いと思う」
「………?」
「ほら、お酒飲んで一人で歩けないとか、タクシーを呼んだはいいけど行く先を言えないとか、目的地に着いたけど起きないとか…いるじゃない? ああいう、人に迷惑かける飲み方するのはちょっとねぇ…」
「あー…」
「もしかしてある、そういうの?」
「あぁ、いえ。かろうじてまだ…」
「なら良かった。どうせ飲むなら、最後まで楽しくなきゃね。人に迷惑かけない飲み方なら、誰も文句言わないし」
「…ですね。心掛けます」
「よろしい。──って、あ、そうだ」
絢音は、ふとある事を思い出した。
「川上くんって、ビールは好き?」
「はい、好きです」
「良かった。今の若い人って、苦いからビールが苦手っていう人もいるからさ」
「僕は、基本なんでもいけます」
「ちなみに、好みのメーカーとかは?」
「そうですね…キリナンは結構好きです。喉にくる感じとかキレの良さとかが──」
「ほんと!? じゃぁ、ちょうど良かった」
そう言うと絢音はトートバッグから財布を取り出し、中から例の〝無料券〟を二枚出した。
「これあげる」
「え…いいんですか?」
無料券と絢音の顔を交互に見てから手に取ると、店名を読んだ。
「さけずきのさかずき…?」
「惜しい。〝さかずきのさかずき〟よ」
「あぁ、ダジャレですね」
「多いんだよねー、あそこの商店街。こういう類の名前がさ」
「商店街って…南口の?」
「そう─…って、あ、もしかしていつもの改札口と正反対? だったら──」
「あ、いえ、大丈夫です」
いつもの改札口と反対という理由だけでこの会話を終わらせたくなくて、和希は被せるように言った。
「行きます、全然行きます!」
「そ、そう…?」
「ちなみに早瀬さんのオススメって何かありますか?」
「タイムリーな話で、キリナンの期間限定・新作ビール」
絢音が指を立てた。
「それってもしかして青色の──」
「天の川がデザインされたやつ」
「あー! それ、気になってたんです!」
今度は和希が指を差した。
「じゃぁ、決まりね。あともう一本は自分で選んで、美味しかったら教えて?」
「分かりました。じゃぁ、いくつか買ってみます」
「え、買うの? わざわざ──」
「あ、でも飲むのは休みの前だけですけど」
〝わざわざ買わなくてもいいのに〟と続けようとしたが、〝飲むのは休みの前だけ〟という言葉に、絢音は〝ひょっとして…〟と思った。
「飲む時はがっつり派?」
「そういうのじゃないんですけど…その、翌朝顔が─…」
「あ、むくみかー」
「昨日も、そのむくみがなかなか取れなくて…」
「いいじゃない。むくみを嫌がるのは若い証拠」
「え…?」
「私なんか、朝鏡を見て少し顔がむくんでると気分が上がるよー」
「…どうしてですか?」
「若返って見えるから」
「はい…?」
「シワが目立たないのよ、これが。ま、ものの一時間くらいで元に戻っちゃうけど。束の間のタイムスリップね」
「タイムスリップ…」
一瞬なんて答えればいいのかと悩んだ和希だったが、その最後の言葉で笑ってしまった。
「それはまた、貴重な経験ですね」
「そうよー。そのうち川上くんも経験できるようになるから」
「いえ、今日から飲むことにします」
「え…?」
「顔のむくみもポジティブに考えられれば、楽しくお酒が飲めますから」
「あは、毎日飲みたい気持ちはあったんだ?」
「もちろんです!」
「じゃぁ、量だけは決めて飲み過ぎないようにね」
「分かりました」
何を話そうか悩んでいたのがうそのようだった。ひとたび話が始まれば会話は途切れることなく続き、電車が来るまでの時間はあっという間に過ぎていった。
電車に乗れば多くは喋れなかったが、サカズキの酒屋が商店街のどの辺にあるかとか、和希が加良須野駅で絢音はその次の風見駅で降りるとか、懐中時計を落とさないようカラビナで繋げたとか…ちょっとした事を小さな声で話すのが和希にはとても楽しい時間だった──