17 和希に近付く元カノ <3>
〝調べて欲しい〟と頼んでから五日後。
雅哉から連絡があり、仕事終わりに再びあのカラオケボックに集合する事になった。遅出出勤のため、カラオケボックスに着いたのは二十一時前。扉の前に来た絢音は、ガラス越しに雅哉の一人熱唱カラオケが見えて思わず踵を返しそうになった。──が、必要なのは情報だと割り切って扉を開けた。
「イエーイ! アヤ、おかえりー!!」
マイクを通してでかい声が響く。絢音は顔をしかめながらテーブルの上のタブレットを手に取ると、速攻で〝演奏中止〟のボタンを押した。途端に雅哉の声がアカペラ状態になり、演奏が途絶えたことでようやく雅哉の歌も止まった。
「何で消すんだよ、せっかく気持ちよく歌ってたのにー」
「私が来るまでの時間潰しだから、もう必要ないでしょ?」
「アヤが来たならもう一曲、愛を伝える歌を──」
「いらない」
再び曲を選ぼうとタブレットに伸ばした手を、絢音がパシッと叩いた。
「思ったより早かったわね」
余計な間を与えれば本題に入れなくなる…と、すぐに話を振った。立って歌っていた雅哉は、マイクを置いて絢音の向かい側に座る。熱唱した後の喉を潤すように、残っていたビールを一気に飲み干した後、追加の酎ハイと絢音用の飲み物と食べ物を注文した。
「あいつの店に行って、他の後輩に聞いたらすぐに分かった」
ピザを一切れ口に入れながら言った。
「元カノの事も?」
「あぁ。けど、大変だったぜ〜」
「聞き出すのが?」
「いや、手伝いが」
「手伝い?」
「そっ。聞き出すのは簡単だ。ただあいつがアヤと関わるために仕事を休んでるから、その助っ人をしてくれって頼まれてさ」
「はぁ…?」
「他の後輩も、〝先輩のテクニックをぜひ生で!〟とか言ってくるからしょうがなく、な」
「しょうがなくって─…好きなんでしょ、そういうの?」
「いや、オレはああいう店はムリだ」
「なんでよ? 働いてたんじゃないの?」
「まさか。一度も働いた事はない」
「じゃぁ、何でその店に後輩がいっぱいいるのよ?」
「あぁ、それな。実は今の店長ってのが、高校時代の後輩でさ。そいつに頼まれたんだ、従業員のホストにテクニックを伝授してくれって。──で、そいつらに教えたら、これがまぁ客に好評で、売り上げも右肩上がり。このまま店で働いて欲しいって…そりゃまぁ、毎日のように頼まれた」
「あぁ、そう…」
半ばどうでもいい話で、相槌に心がこもらない。
「けどオレは、金を貰っても好みじゃない女には優しくできない性格だ」
「それはまた正直な話で…」
言い切ったところで更に呆れ、絢音は目の前のポテトを口に放り込んだ。
「だから断った。そしたら、あいつも諦められなかったんだろうな。今回の情報提供と本人への口止めを交換条件に、店を手伝ってくれ、ときた」
「なるほど。それで手伝いが大変だった、と」
「そういう事だ」
「それはご苦労様でした。──じゃ、早速だけどその情報を教えてくれる?」
「おいおい、それだけか?」
「なに、それだけって──」
「いや、もっとこう…労いの言葉というか、お礼というか、ご褒美というか──」
「雅哉のことだから、その日の売り上げはナンバーワンだったんでしょ? プロのホストを抑えて一位なんて、普通あり得ないから。それを簡単にできるなんて、雅哉だからこそよねー。すごい! ほんと、(コミュニケーション能力は)尊敬する!」
──と心にもない事を、心にあるように褒め称えれば、みるみるうちに雅哉の顔が意気揚々と輝いてきた。
「──で、そうやって手に入れた情報を惜しげもなく披露してくれるなんて、さすが、雅哉! そんな雅哉には(私以外の)みんな惚れちゃうよー」
「ぬわははは! そうだろ、そうだろ。オレは心が広いからなー」
──と言ったところでガチャっと扉が開き、店員が注文していた商品を運んできた。
「おー、お前も聞いてくか、オレの話?」
「はいはい、それは私にだけ話してくれたらいいから。──あ、気にしないでね。ちょっとテンション上がって、頭おかしくなってるだけだから。はーい、ありがとー」
このままだと店員の肩をガッチリと組んで話しかねないため、絢音は商品をささっと受け取って、店員を帰らせた。
「はい、酎ハイ」
絢音は〝ほら、ちょっと落ち着いて〟と雅哉に酎ハイを渡し、自分もウーロン茶を口にした。
「──で、情報は?」
言いながら、運ばれてきたパスタをひとくち口に入れる。雅哉はゴクゴクと喉を鳴らし二口飲むと、ようやく絢音のテンションが中和剤となり少し落ち着いた。
「あー…そうだな。まず結論から言うと、その和希の元カノがオレの後輩を使ってアヤを落とそうと近付いたって事だな」
「やっぱりねぇ…。──で、理由は?」
「あの元カノ、何年も前からホストに入れ込んでて、結構な大金を注ぎ込んでたらしい。特にオレの後輩にな。金があればホストなんて誰にでも優しくなれる。逆に金がなくなれば不要な客だ。客として接していても、勘違いする奴は少なからずいる。その一人があの元カノだ。優しくされて自分だけは特別だと思い込み、それで散々金を注ぎ込んだ。けどそんな大金がいつまでも続くわけがないだろ。結局、注ぎ込む金がなくなった途端、冷たくされて逆上したらしい。あれだけ注ぎ込んだんだから付き合って当然だと言い寄って、結婚まで迫ってな。それでも断られた結果、ストーカー行為を始めたんだと」
「ストーカー…」
「それが半年くらい続いたときに、たまたま元カレの和希に再会。元カノの中では昔の気持ちが再燃したのか、はたまた年齢的に焦ってよりを戻して結婚までこぎ着けたかったのか…それは分からんが、どちらにせよ、ターゲットが元カレになったのは確かだな。ただ、隣には仲の良さそうなアヤがいた」
「だから邪魔な私を排除しようとした、か」
「そういう事だな。オレの後輩へのストーカー行為をやめる代わりに、アヤを落とせ、とな」
「なるほどねぇ…」
「まぁでも、相手が悪かったな。オレでも落とせとない難攻不落のアヤを落とそうなんて、あいつには一生かかっても無理だ」
雅哉はそう言って笑ったが、すぐに真面目な顔になった。
「…けど、問題はストーカーをするような元カノに狙われた和希だ。大丈夫なのか、あいつは?」
「んー…最後に会って話した時は、駅で和くんが帰ってくるのを待ってから店に来るって言ってたけど…」
「待ち伏せか…」
「この前は和くんの仕事が早く終わったから、慌てて店に来て二人で個室に逃げ込んだのよ。そのあといつもの時間に元カノが来たから、そこからはもう息を潜めるように過ごしてさ…面白かったわよー、あの緊張感の中バレないように…って過ごすの」
その時の事を思い出してクスッと笑った絢音だったが、雅哉が何か引っ掛かったような顔をしているのを見て、スッと笑顔が消えた。
「なに、どうしたの?」
「元カノがいつもの時間に来たって言ったな?」
「そうだけど──」
「和希に連絡はきたのか? 元カノから〝今どこにいる?〟とか〝残業なのか〟とか?」
「少なくとも私と合流してからはなかったわね。店に着いてからは〝どこにいるの?〟とか〝近くにいるんでしょ〟とか、何度もメッセージは送られてきたけど」
「近くにいる…?」
雅哉が眉を寄せた。
「バイブ音が鳴るたびに携帯のトップ画面で確認してただけだからさ、既読にならない事でイライラしてきたみたいよー、彼女」
「元カノはいつまで店にいたんだ?」
「さぁ、時間までは覚えてないけど…。でも電話がかかってきた時はさすがに焦ったわよ。だから不在着信になった途端に電源を落として─…それからしばらくしたら帰って行ったかな、確か」
改めて元カノの行動を説明して、絢音も何か違和感を感じた。
「ねぇ、ひょっとして─…」
雅哉は〝あぁ〟と頷いた。
「多分、仕掛けてる。それも割と早い段階でな」
その言葉で、絢音は自分が考えた事と同じだと理解した。
「どうする? 今すぐ和希に話すか?」
「んー…」
絢音はしばらく悩んだ。和希に知らせるのは簡単だが、そこに至るまでの説明は不可欠だ。電話でそれを伝えることもできるが、こんな大事な話は会って話したい。ただそれには誠司も含め四人が集まる機会がないと─…。
「和くんに話すのは、一度みんなで集まってからの方がいいわ」
「…まぁ、そうだな。先に知ってしまうと、あいつの性格からして絶対にウソはつけないだろうし。態度にでも現れて、ストーカー行為に拍車がかかっても厄介だしな」
「そうね」
それが一番怖い、と絢音は頷いた。
それから更に数日後の二十二時過ぎ。
ちょうどバーを手伝っていた誠司が、仕事を切り上げてエプロンを外す時だった。
〝ヴィヴィ〟という音と共に、ポケットの中から振動があった。エプロンを外しながら店の奥に行き、携帯を取り出してから休憩室の床に腰掛けた。開いた携帯の画面に表示されたのは、椿からのメッセージ。しかも〝椿がスタンプを送信した〟というもので、すぐに内容までは分からなかった。
(あいつ仕事中だろ…?)
仕事中に連絡をしてきたのは初めてで、訝しげにメッセージを開くとその内容に思わず〝はぁ!?〟と声が出た。
【誠司にぃ、さっきやっと分かった。結論から言うと、私が見た二十代の男の人と誠司にぃが言ってた三十五歳の男の人は同一人物で、ホストよ。そして和希くんの元カノはそのホストの客だった。つまり、二人は知り合いよ。明日、私は同伴でそっちに行けないから、詳しい事は今日仕事が終わったら電話するね。ちゃんと起きててよ】
──という内容と、〝寝ちゃダメ〟というスタンプだった。
(ホストと客…?)
〝寝て待て〟と言われてもできない内容に、すぐにでも詳しい事を聞きたかったが、仕事の邪魔をするわけにはいかない。
(あと二時間くらいか…。とりあえず、やる事やって待つしかないな)
誠司は休憩室から住居の二階へ上がると、事務処理や風呂、歯磨きなどを済ませて椿からの電話を待った。
ソファの上で横になりながらテレビを見ているが、その内容は全く頭に入ってこなかった。目の前で映像が流れているのに、見えているのは脳内の記憶。ホストの顔は分からないが、これまで見た元カノの姿がいくつも再生されていた。
(あの元カノがホストの客って…。それに何で、絢ねぇとホストが…? ただの偶然か、それとも─……いや、でも何のために…?)
情報がないため、疑問が何一つ解決しないまま時間が過ぎて行った。そして、
(あー、ダメだ。コーヒーでも飲も…)
──とソファに起き上がった時だった。左手に持っていた携帯が〝ヴィー〟と震えた。見れば待ちに待った椿からの電話で、誠司の指が反射的に動いていた。
「おー、お疲れ」
努めて冷静に言ったが、一回目のコールで出た時点で椿にはバレている。
『お待たせ、誠二にぃ』
「お、おぉ…。──で、あれは本当なのか?」
『ホントよ。実を言うね…もっと早くに分かってたんだけど、確証がなかったのよ。だって半年くらい前にチラッと見ただけだったからさぁ』
「半年前…?」
『そう。元カノの写真を見た時にね、〝あれ、この人もどこかで見たことがある〟って思ったの。その時にフッと頭に浮かんだのよ、絢姉さんと一緒にいた男の人の顔が。そしたら急に二人がケンカしてる映像が出てきて、〝あ、これだ!〟って』
「ん? ケンカ?」
『半年前─…ゴールデンウィーク明けの仕事に行く途中で、二人が路上でケンカしてるのを見たの。男はいかにもホストって感じの人で、女の人は〝彼女なのに…〟とかなんとか言ってて…。あー、よくあるケンカね…って思いながら通り過ぎたの』
「──って事は、二人は付き合ってたのか?」
『それが、そうじゃなかったのよねぇ…。私もその時にチラッと見ただけだから自信がなくてさぁ…。同じ道を通ってくる店の子たちに聞いてみたの、ケンカしてた二人の事を覚えてないかって…。でもさすがに半年前の、それもよくあるケンカなんて誰も覚えてなくて…』
「そりゃそうだろうな」
『でもね、あの元カノの写真を見せたら〝見たことある〟って言う人が結構いたのよ』
「マジか! すげーな、お前らの記憶って」
『まぁ…職業柄、人の顔を覚えるのは得意だからね〜』
「確かに、仕事に必要な能力ではあるな…」
『…でね、〝見たことある〟って言った人たちの話をまとめると、この近くのホストクラブに通ってた客だってことが分かったの。それも〝通い詰めてた〟って言った方がいいくらいのね。だから付き合ってたんじゃなくて、〝付き合ってると思ってた〟っていうところからのケンカだったみたい』
「ホストクラブに通い詰めた挙句、付き合ってると勘違いって─…なんだよ、それ…」
『まぁ、そうなんだけど─…少なからずいるのよ、勘違いしちゃう人って。男でも女でもさぁ…』
椿の言葉に、誠司は呆れたように溜息をついた。
『──で、その人がホストだって分かってから年齢も判明したんだけど、誠司にぃが言ってた通り三十五歳だったの、しかも車はスポーツカーよ。それでピンときた、同一人物だって』
「なるほど…」
(だから、年齢を知ってた元カノは三十代半ばって言ったのか…)
『それから─…絢姉さんとそのホストの事なんだけど…』
「うん?」
『偶然だと思う? 絢姉さんに声を掛けたのって』
「あー、それな…」
それは、椿から電話が掛かってくる前に浮かんだ疑問だった。〝偶然〟というのは、つまり声を掛けたのがたまたま絢音だったのか、という事なのだが…。椿の話を聞いて少し落ち着いてくると、その疑問も順を追って考えることができた。
まず、道を尋ねるという行為が典型的だったのと、ホストが携帯を忘れるとは思えない…という点で、〝ナンパ目的〟というのは確かだろう。その上で、ホストをやっている人間がわざわざナンパをするかという点が疑問だ。しかも店ならお金ももらえて、もっと若い人が沢山いるはず。外でナンパするにしても、やはり年齢的なことを考えると──
(いや…もちろん、絢ねぇも年齢より若く見えるよ。見えるけど、普段から化粧はしてないし、若く見えると言っても三十代で……二十代はムリだ。道を聞かれる事は多々あるが、それはあくまでも純粋に道を聞かれただけで、今までナンパされたなんて聞いた事もないしな…。──って、別に絢ねぇをディスってるわけじゃなくて……)
考えている事が、絢音に怒られそうな事だったため慌てて首を振った。
(とにかく──)
誠司は改めて考えた。
ナンパがほぼ確定したところで、それが偶然ではなく〝敢えて絢音を狙った〟ものだとしたら何故なのか。一つ考えられる事は、和希と一緒にいる絢音を邪魔に思った元カノが、二人を引き離そうとした可能性だ。ホストと元カノが現れた時期を考えると、可能性としては高いだろう。ただそこに、ケンカをしていたホストが絡んでくる理由が分からなかった。何故なら、ホストが絢音と過ごしている時間は、通常であれば仕事をしている時間帯だからだ。わざわざ仕事を休んでまで絢音と会っているのだとしたら、そこまでする理由が分からない。
〝偶然か否か〟というところから順を追って考えてはみたものの、やはり今ひとつハッキリしない。
誠司は推測の域を超えない事を口にするのをやめた。
「ひとつ確かな事は、偶然にしろそうじゃないにしろ、あの男は信用できないって事だな」
『確かに、それはそうね…』
「ま、この事は絢ねぇに伝えておく。ありがとな、教えてくれて」
『和希くんは?』
「あぁ?」
『和希くんには言わないの?』
「あー…まぁ、状況見て伝えるよ」
『…分かった』
「椿も客に勘違いされないように気を付けろよ」
『はーい。じゃぁね〜』
「おー」
誠司は電話を切ると、ひとつ大きな息を吐き出してソファに寝転がった。
(ホストとその客ってか…。絢ねぇも和希も変なものに捕まったもんだな…)
明日は絢音の勤務が夜勤明けのため、伝えられるのは早くても夜だ。
(まぁ、和希が帰ってから連絡するか…)
──と思ったところで誠司の意識がスーッと沈んでいった。途中、寝返りを打った時に目が覚めたが、部屋の暗さと布団が掛けられていた事に気付くと、その温もりに再び意識が薄れていった。
翌日──
この日の和希は、既に店に来た時から苛立っていた。正確に言えばこの二週間ほどで徐々に…なのだが、それが一気にピークを迎えた。理由は簡単、個室で会ったのを最後に絢音に会えていないからだ。
ここのところ、絢音に会えるのは朝の通勤時間帯のみ。話ができるとはいえ、みんなに聞こえてしまうくらいの限られた空間と時間で話せることなど、たかが知れている。故に絢音と会える夜の時間は貴重なのだが、その時間を全て結花に潰されているのだ。
(こんな事なら、そのまま家に帰った方がマシだ…)
──そう思い一度断った事もあるが、〝分かった〟と言うどころか〝じゃぁ、気分転換に違う店に行こう〟と聞く耳を持たなかった。全く知らない店に行って二人きりになるくらいなら、誠司のいる店の方が断然良い。せめて自分一人で店に行けたなら、ここまでの苛立ちもストレスも溜まらなかっただろう。更にその日は仕事でミスをしてしまったこともあり、毎日のように駅で待ち伏せする結花の姿を目にして一気に苛立ちが増したのだった。
「──でね、その二日後に二人でハワイへ行ったら、なんと初日にプロポーズされたんだって! 二日前に大ゲンカして〝別れる!〟って言って、旅行もキャンセルする勢いだったのよ? それがプロポーズって…しかも、彼女も即オッケーして、ラブラブな写真まで送ってくるんだから、夜中まで愚痴を聞いてた私は何だったの? って感じよ。そう思わない?」
同意を求めて隣に投げかけたが、グラスを手に持ったまま何かを考えるように一点を見つめていた和希には届いていなかった。いや、考えているというより苛立ちを抑えていたのかも知れない。
「和希? 聞いてる?」
左腕を軽く掴み揺らせば、ようやく〝あぁ〟と溜息混じりに視線が合った。
「もー、なんか今日は全然元気がないよね。どうしたの? 元気がない時は食べるのが一番なんだから─…あ、これ食べてみれば? すごく美味しいから」
そう言って勧めたのは、結花が食べていたカレー。誠司が作ったカレーなら美味しいのは分かっている。分かっているのに食べる気が起きないのは、一緒にいる相手が絢音ではないからか…。
「いや…」
──と断ると、結花は更にスプーンをグイッと寄せてきた。
「ほんと、美味しいから。ほら、食べてみてって」
「いいって、ほんとに──」
「分かった。私が食べさせてあげるから。はい、あ──」
「やめろって!」
堪らず和希が声を荒げた。
「和希…」
驚く結花の声で、ハッとした。
「あ…悪い…ちょっと会社で色々あって…。ここは払うから、今日は一人にしてくれないかな…」
「…………」
「…頼む」
無言の結花に再度頼むと、ややあって、ようやく〝分かった〟と返ってきた。そして居た堪れなさを感じた結花は、鞄と上着を引っ掴むようにして席を立つと、
「じゃ、ごちそうさま。マスターも、残しちゃってごめんなさい…」
──とだけ言って、足早に店を出て行った。
残されたのは、俯いたままの和希。誠司は小さく息を吐くと、〝大丈夫か?〟という言葉を押し込んで、優しく声をかけた。
「会社で何があった?」
苛立ちの原因は分かっているため聞く必要はない。ただここまでの苛立ちを見せたのは、〝会社で色々あった〟という事が言い訳ではないだろうと思ったのだ。案の定、和希が話し出した。
「ミスをしたんです…」
「それって、損害を与えるような大きなミスか?」
「いえ、そこまでは…。すぐに気付いたので、他の人のフォローもあって何とか収まりました」
「じゃぁ、良かったじゃないか」
「でも他にも小さなミスをしてるんです、色々と─…普段だったら絶対にしないようなミスを……」
「あー…」
「分かっているんです。イライラして仕事に集中できてないって。絢さんには会えないし、昔は一緒にいて楽しいと思った結花まで、どんどん嫌いになってくる…。結花がいなければ…って思ってしまう自分がすごく嫌な人間に思えてくるし、それで余計にイライラして─…」
「悪循環だな」
その言葉に、和希は頷く代わりにグイッとお酒を飲み干した。
「でもまぁ、いいよ、お前は」
「何がですか…」
「正直だし、優しいし、分かりやすい」
「はい?」
「つまり〝いいヤツ〟って事だ」
「意味が分からないです。特に最後の言葉は」
「ははは。まぁ、いいじゃないか。オレ的には褒めてんだし。──とりあえず酒はそのくらいにして、飯を食え、な?」
誠司はそう言うと、いつかの時と同じようにエビフライが三匹乗ったカレーを目の前に出した。それを目にして、少し気分が上がった和希。エビフライが乗っているということよりも、絢音と一緒に食べたという記憶に心が少し踊ったのだ。
「いただきます」
「おう、食え食え」
和希が一口、二口と食べるのを確認した誠司は、ママに〝少し頼む〟と言って店の奥に入って行った。
他の客の相手をしていたママは、一人になった和希を気にかけながら上手に話を切り上げると、そっと隣に座った。
「結構、参っちゃってるわね」
「あ…はい、まぁ…」
「…ねぇ、和くん。〝大丈夫〟って言っちゃダメよ?」
「え…?」
「辛い時や大変な時に、〝大丈夫〟って自分に言っちゃダメ。逆に、人に〝大丈夫?〟って聞いてもダメだからね。〝大丈夫〟は魔法の言葉じゃないから」
「魔法の言葉じゃない…ですか?」
「子供が転んでケガした時、母親が〝大丈夫、大したことないよ〟って言うでしょ? あれは〝痛いけどママが大丈夫って言うなら大丈夫だ〟って、ママを信じてる子供にとっては魔法の言葉になる。でも大人になると、それは呪いの言葉にもなるものなの」
「呪いの─…それ、誠司さんも言ってました」
「悠人くんのことね」
「はい…」
「本当は辛くて大変なのに、〝大丈夫、まだ自分は大丈夫〟って言い聞かせていると、自分の限界が分からなくなって、ある日突然プツンと糸が切れてしまうのよ。だから〝大丈夫〟って思えるうちはいいけど、〝まだ大丈夫〟って思い始めたらそれは〝呪い〟に変わった瞬間だから、そこから先は絶対に〝大丈夫〟って自分に言っちゃダメ。どんな事でもいいから、早い段階でちゃんと私たちに話しなさいね。──まぁ、和くんは素直だし正直だから大丈夫だと思うけど」
「ママさん…」
事のつまり、苛立ちも含め思っている事は全部吐き出せ、という事なのだろう。
和希は、敢えて言わないようにしていたことを、ひとつひとつ口に出してみた。
「待ち伏せされるのはキツイです」
「うん」
「ここには来て欲しくない」
「うん」
「絢さんに会いたい」
「うん」
「絢さんに戻ってきてほしい」
「私もそう思うわ」
「絢さんと一緒にご飯が食べたい」
「楽しいものね」
「僕の隣に絢さんが座っていてほしい」
「私も二人が並んでるところを見るのが好きなのよ──って、あら、ごめんなさい。私が座ってたわ」
「え…? あー! いやそんな事─…」
一瞬、何のことかと思ったが、絢音がいつも座っている場所にママが座っていたことに気付いて思わず笑ってしまった。
「ほらね、言いたいこと言えばちゃんと笑えるようになるでしょ?」
「そうですね。なんか少し楽になりました」
「そう、じゃぁ良かった。──しっかり食べちゃいなさいな」
「はい、ありがとうございます」
声にも少し元気が戻ったところで、少し安心したママはニッコリと微笑んで他のお客さんの相手をしに戻って行った。
一方、店の奥に行った誠司はメッセージアプリから絢音に電話をかけていた。三回目のコールで絢音の声が聞こえた。
『もっしもーし』
「こっちは陽気だな」
『うん?』
「いや何でも…。ってか、絢ねぇ、今どこにいる?」
『えーとね、カラオケボックス』
「は? カラオケ…? え、歌ってるのか?」
子供の頃に〝歌が下手だ〟とからかわれてから、人前で歌うことなどなかった絢音。故にカラオケボックスにいること自体珍しいのだが、まさか、一人でなら歌っていたのかと思い聞いてみれば…。
『歌ってない』
「は?」
確かに音楽は聞こえないが…。
「じゃぁ、何でそんなところにいるんだ?」
『まぁ、色々とあってね』
「そっちも色々かよ」
『え、〝も〟ってなに?』
「…いや、いい加減こっちに顔出せないかと思ってな。オレもちょっと話したいことがあるし」
『そうねぇ…』
「それに、そろそろ和希が限界だ」
『和くんが?』
『お、和希がどうしたって?』
「な──…!?」
一人でいるものだと勝手に思っていたところで、突然男の声が聞こえたから驚いた。
(もしかしてあのホストか…!?)
「おい、絢ねぇ、今誰といる!?」
『あー…ちょっと待って、スピーカーにするから』
「いやいや──」
(ホストの前でスピーカーで話すって…)
──と慌てたところで、再び聞こえてきたのは聞き覚えのある男の声で更に驚いた。
『ヤッホー! 聞こえるか、誠司ー』
「はぁ!? 兄貴!?」
『おー、兄貴だ。──で、和希がどうしたって?』
「いやいや…なんで兄貴が絢ねぇといるんだよ!?」
『だから色々あるんだよ』
「色々ありすぎるだろ…」
『まぁまぁ…それより和くんが限界ってどういう事?』
「あー…」
〝話を戻すわよ〟とばかりの落ち着いた絢音の声に、誠司も少し冷静さを取り戻した。
「元カノのせいで絢ねぇに会えなくて、ずっとイライラしてるんだ。そのせいで仕事にも集中できなくて、今日は色々とミスしたらしい。何をやってんのか知らないけど、一度顔を出してやってくれよ」
『……………』
その気がないのか、それとも雅哉と何か相談でもしているのかすぐに返事が返ってこなかった。
「絢ねぇ?」
『あー、うん…』
再び問いかけて、ようやく返ってきた。
『…今、元カノは?』
「さっき和希が帰らせた。イライラが爆発してな」
『和くんはまだいるの?』
「今、ようやくメシを食い始めたところだ」
『…そっか。──分かった、じゃぁ今日そっちに行くわ』
「マジか!」
『ちょっと、和くんに代わってくれる?』
「お、おぉ、分かった」
『誠司ー、ビデオ通話にしろ』
「は?」
『いいから、ビデオ通話ー』
「分かったよ、めんどくせーな…」
面倒くさいと言いつつも、和希にとっては顔が見れた方が嬉しいだろうという雅哉の考えは誠司も同じで…。すぐにビデオ通話にすると、和希を店の奥に呼び寄せた。
「何ですか、誠司さん…?」
「いいか、表に聞こえるから声は抑えろよ」
「え、意味が分からないんですけ──」
「いいから、ほら」
そう言って携帯の画面を見せた誠司。
「あ─…!」
画面に映っていた絢音の姿に思わず大きな声が出たが、瞬時に誠司に腕を叩かれて、グッと抑え込んだ。そこからは必死に声を抑えて話しかける。
「あ、絢さん!? 絢さん、今どこにいるんですか?」
『カラオケボックスよ』
「カラオケ…? え、駅前のですか?」
『そう、そこ』
「あ、じゃぁ、今行きます! 今すぐ──」
『ちょっ、和──』
「待て待て待て待て…!」
『おー! いいねぇ、その反応!』
「え…!?」
絢音と誠司に止められたと同時に聞こえてきた別の男の声に、荷物を取りに行こうとした誠司が躓きそうになった。
「だ、誰ですか? 誰と一緒にいるんですか、絢さん!?」
画面に食い入るように問い掛ければ、
『オレだ、オレ』
雅哉の顔がグイッと絢音の隣に入ってきた。
「ま、雅哉さん!? どうして──」
『まー、色々と秘密のやりとりをなー』
「え…!? ひ、秘密のやりとりって…あ、絢さん…!?」
『はいはい、もう雅哉は黙ってなさいって。──和くん、気にしなくていいよー。雅哉、和くんの反応が面白くてからかってるだけだから』
「からかって……」
『──で、本題なんだけど。和くん、明日休みだよね?』
「あ、はい、休みですけど──」
『じゃ、遅くなっても大丈夫だね。私たち今日そっちに行くからさ、和くんは一旦家に帰って、またそこに来てくれない?』
「絢さん、来るんですか!? 今日!?」
思わず隣を見れば、誠司が〝そうだ〟と頷いた。
「え…でも一旦家に帰って…って? 僕なら大丈夫ですよ。ここで待ってますから」
『いや、帰れ』
再び割り込んだのは雅哉だ。
『お前は一旦家に帰って、携帯を置いてからそこに戻ってこい』
「携帯を…?」
『説明は後でしてやるから、絶対持ってくるなよ、いいな?』
わけが分からず、何か知っているかと誠司を見たが、彼も分からないという顔をした。とりあえず〝説明は後でする〟と言うし、ここでゴネても雅哉には勝てないだろうというのは分かる。それに何より絢音が何も言わないという事は、そうする事に同意しているという事だ。
「…分かりました」
『じゃぁ、誠司くんの仕事が終わる頃に行くから、店の裏口開けといて』
「おー、分かった」
『和くんも店の裏から入ってねー』
「はい、分かりました」
『じゃ、あとでー』
そう言って和希が画面に手を振り返したあと、通話は切れた。その消えた画面から、すぐには目を離せない和希。
「誠司さん…」
「うん?」
「絢さんが来るって…」
「はは…あぁ、そうだな」
(ほんとアラサーとは思えないこのピュアさ。兄貴がからかいたくなるのも分かるな)
さっきまでとは別人の如く、幸せそうな和希だった。
和希が言われた通り一度家に帰って携帯を置き、店に戻ってきたのは二十一時頃。それから一時間後、誠司と和希が店の奥の休憩室に移動すると、ややあって絢音と雅哉が裏口から入ってきた。
「絢さん…!」
「あー、和くん。夜に会うの久しぶりだねー」
「オレは朝も会ってないけどな」
「あはは、確かに。誠司くんの方がもっと久しぶりか。──はいこれ、差し入れ」
絢音が持っていた袋を手渡した。中身はペットボトルのお茶とコーヒー、そしてお菓子だった。
「お菓子、多くないか?」
「いやー…なんか夜にこうやって集まると、修学旅行とか合宿みたいでちょっとワクワクしちゃってさ。──あ、そう言えば和くん、会社でミスったんだって?」
「え…何でその事──」
「誠司くんに聞いたの。それで凹んでるって。だから、そんな和くんにはこれをあげる」
そう言うと、絢音はもう片方に持っていた小さな箱を渡した。
「何ですか、これ─…」
「ナヤプリンよ」
当然のように答えるが、さっぱり分からない。
「ナヤ…プリン…?」
「そう。正式名称は〝七転び八起きプリン〟。略して七八プリン。これ、めちゃくちゃ美味しいのよ」
「はぁ…。でもどうして僕にこれを…?」
「私は固めのプリンが好きなんだけど、最近売ってるのって〝とろける〟シリーズばっかりでしょ? 固めのプリンを探して色々食べたんだけど、いまいち〝これ!〟ってものが見つからなくてさ…。買っては裏切られ、買っては裏切られ…を繰り返す中で、たまたま入ったケーキ屋さんでそういう話をしたのよ。そしたらその店も固めのプリンに力を入れてて、〝試作品があるんだけど食べてくれないか〟って言われて…。──で、食べたら私が求めていたものに一番近くてさ、〝あと少し、あと少し…〟って言っては何度も作り直して、それでようやく完成したものなの。それまでにも試行錯誤を繰り返して、でも繰り返してるうちにだんだん混乱してきたみたいでさ。何度も諦めようとしてた時に私と会って─…で、やっと完成させることができたってわけ。そしたら名前を決めて欲しいって言われてさ、それで付けたの。何度も諦めようとしたけど諦めずに完成させたから〝七転び八起きプリン〟って。ただちょっと名前が長いから通称は〝七八プリン〟って呼ぶようにポップも付け加えたんだけど。──ほら、売れるアーティスト名とかドラマのタイトルって略するのが多いって言うじゃない? だからそれにあやかって略したんだけど、これが大当たりよ。まぁ、商品の美味しさから言えば当然なんだけどね。──つまり、仕事でミスった和くんには、これを食べてまた元気を出して頑張れーって事よ。オーケー?」
「オ、オーケーです! ──ってか、嬉しいです。これだけで元気が出ます!」
「そっ。なら良かった」
命名した経緯は驚きだが、その名前の意味を含め自分の為に買ってきてくれたことが和希には嬉しかった。
「…久々に聞くと話長いよな、絢ねぇって」
「うるさいわね。こういう理由は大事なのよ。〝五角形〟だから〝合格〟って語呂合わせすれば何でもいいってもんじゃないんだから」
「それ、合格祈願してるところで言うなよ?」
「言わないわよ。──ほら、それより本題よ、本題」
「──だな」
本来の目的はそれだと、ようやくみんながテーブルを囲って座った。
「それで…誠司くんの話したい事って何?」
「あー…」
誠司は少し躊躇いがちに和希を見ながら、椿から聞いた話を口にした。
「昨日、椿から聞いたんだ。絢ねぇに道を尋ねてきた男と、和希の元カノとの繋がりをさ」
「繋がり…?」
思わず繰り返した和希の横で、絢音と雅哉は顔を見合わせた。
「繋がりってなんですか、誠司さん?」
「…椿がな、絢ねぇとその男を見かけた時に〝なんか見た事がある〟って思ったらしいんだ。その時は思い出せなかったんだが、元カノの写真を見せた時に思い出した。過去に、元カノとその男が言い争ってたのをな」
「つまり、知り合いだった…?」
「そういう事だ。でも見たのはその一度だけだったから、店の子達にも聞いてみたんだと。そしたら、男はホストで元カノが客だったらしい」
「え…!?」
「だから絢ねぇ──」
「なら、話が早いな」
「は?」
〝あの男は信用ならない〟と言おうとした誠司だったが、思わぬ雅哉からの言葉に僅かに思考が停止した。代わりに質問したのは和希だ。
「話が早いって─…雅哉さん達もその事を知ってたんですか…?」
「まぁな」
「マジか…」
思わず呟いた自分の声に、誠司の思考が動き出す。
「いつからだよ?」
「元カノの写真を撮って送って欲しいって頼んだでしょ。あの時」
「は!? あの時にはもう分かってたのか!? 何で言わないんだよ!?」
「あの時はまだ疑った段階。それを確かめる為に写真が必要だったのよ。お陰で二人の接点も分かったし、計画も目的も分かったけどねー」
「計画…?」
「目的ってどういう事ですか…?」
二人同時に聞き返してきたが、更に誠司が疑問を加えた。
「──ってか、そもそも何がどうなって二人を疑うようになった?」
「んー…まぁ、簡単に言ったら男に対する既視感…的な?」
「はぁ?」
「いや、実はさ──」
絢音は目の前にあったポテチの袋を開けて一口食べると、最初から〝なにか知ってる気がする〟という感覚があって警戒心が緩んだ事から話し始めた。既視感を覚えたのは、車のドアや店の扉を先に開けてくれたり、人の話を聞かずグイグイと来るところや、別れた後に感じる疲労感だ。そして店内での座り位置──角の席と壁を使って、視覚的に女性が自分しか目に入らないようにする方法──が、雅哉と同じだと気付いた事。そこから湊を知っているか聞いたらこれがビンゴで、元カノとその男が現れた時期が近いという事から、二人に何か接点があるのでは…と疑い調べた事など順を追って話した。二人のトラブルはもちろん、計画や目的を聞いた誠司と和希の二人は、驚きと怒りもあってすぐには声が出なかった。特に和希は自分の知らないところで絢音が湊に付きまとわれていた事に、ショックと怒りが湧いてきた。怒りは気付かなかった自分と結花と湊に対してだ。そんな沈黙を破ったのは絢音だった。
「まぁ、そういう事だからさ─…和くん、ごめん」
「…え?」
「何が〝ごめん〟なんだよ? 絢ねぇが謝ることなんかひとつもないだろ」
「いや…だってさ、よりを戻すなら応援するって言ったから─…」
「は…?」
「和くんにとって良い人なら応援しようと思ってたんだけど、ちょーっと、応援できないじゃない、この状況知っちゃうとさ。だから──」
「いやいやいや、何言ってんだよ、絢ねぇ!」
〝今その話か?〟というツッコミはもちろん、それ以上に大事な事を理解していないその言動に、誠司の声も自然と大きくなった。
「そもそも、和希はよりを戻したいなんて思ってないし、言ってないだろ!?」
「そうですよ! その気はないって前にも言ったし─…ってか、僕は絢さんの事が好きだって言いましたよね!?」
「あーー」
「マジで!?」
反応は雅哉の方が大きく、絢音の声をかき消した。
「ホントにしたのか、告白!?」
「しましたよ!」
ほぼやけくそのように声を大にした。
「いつ?」
「二ヶ月くらい前に──」
「へー、やるなぁ。──で、なんて言われた?」
「そ、それは─…」
「どんな言葉でフラれたんだ?」
「どんな言葉……って、え…どうしてフラれる一択?」
状況からして〝フラれた〟事は分かるだろうが、なぜか解せなくて独り言のように呟けば、
「フラれる理由が多い方が、攻略も見えてくるだろ? 情報収集だよ、情報収集」
──と、暗に〝絢音の攻略は難しい〟と言われた気がした。けれどここはもう一度ハッキリと言うチャンスでもあると、和希は気持ちを切り替え絢音に向き直った。
「とにかく! いいですか、絢さん。僕は絢さん以外の誰かと付き合う気はないですから!」
「あー…あ、そう…。なら良いんだけど…」
あまりにも真っ直ぐな目で言われ、絢音もそう返すのがやっとだったが…。
(いやいや、何がいいのよ? 今の状況で元カノとよりを戻す気がないのは良かったけど、え、なんかそれ以上の事を言われたような…? ──ってか、この胸の痛みってマズくない?)
それまで何度か和希の言動で胸が痛くなったことはあったが、何か初めて違うものが刺さった気がして心なしか動揺してしまった。
「和希、それ食っとけ」
「え…?」
「七転び八起き─…手強いからな、相手は。諦めんなよ」
「あ、はい!」
仕事でミスをして凹んでいた事などすっかり忘れ、今やナヤプリンの目的は絢音の攻略に変わっていた。
そんな会話も動揺していた絢音には届いておらず、次に耳に入ってきたのは和希の〝うまっ!〟という声だった。反射的にそちらを見れば、プリンを口にしていた和希の姿。誠司のカレーを食べた時と同様、美味しさに驚いた表情を目にしたからかスッといつもの絢音が戻ってきた。
「でしょー!」
「すごい濃厚!」
「そうなの! 何口食べてもちゃんとたまごを感じるくらい濃厚で、でも主張しすぎてないってところが──」
「あー、分かります! たまごが多ければいいってわけじゃないんですよね」
「そう、そうなのよ! あ、あとカラメルね。ほら食べてみて」
言われて、底に沈んだカラメルまでスプーンを入れると、プリンの割れ目からカラメルがスッと湧き出てきた。それをたまご感満載の部分と一緒に口に入れた和希。
「ん! ほろ苦! え、でもなんか他のとちょっと違う──」
「でしょ、でしょ! 〝ほろ苦〟っていうよりは〝ほど苦〟って感じで、苦味がほんの少し立ってるの。あ、でもだからって子供が食べられないほどじゃなくて──」
「上の部分と一緒に食べる事で、甘さが際立って食べられるんですね」
「そう!」
「凄い…絶妙なバランス──」
「食レポか」
思わず誠司がツッコんだ。
それまで絢音に思いが伝わらないと地団駄踏んでいたのに、プリンひとつでこの状況だ。最初こそ〝いいコンビなんだよなぁ、この二人〟と微笑ましく見ていたが、当の本人たちがそれに全く気付いてないないのがなんだかバカらしくなってきたのだ。
誠司は話を戻す事にした。
「それで、兄貴たちはどうするつもりだったんだ? 最近、絢ねぇが来なかったのもその話だったんだろ?」
ついこの間まで、店に来なくなったのは絢音が気を使ってるからだろうと思っていたが、今の話を聞いて〝色々と…〟と言っていたことが本当の事だったんだとようやく分かった。
「まぁな。後輩の方はオレが制裁を下すとして、問題は元カノだ」
「何も知らないフリして、和希に元カノをフラせるか? ──って言っても、オレとしては男でも女でもストーカーは許せないけどな」
「同感だ」
誠司の言葉に雅哉が言った。
「でも下手に冷たくして離れようとするのも危険よ? その行為がエスカレートするかもしれないし─…それは絶対に避けたい」
「だよなー。今でさえ駅で待ち伏せとか…ストーカーされてるみたいだし」
「〝みたい〟じゃなくて、ストーカーだ」
雅哉が言い切った。
「うん…?」
「おそらく、和希の携帯にGPSアプリが仕込まれてる」
「は!?」
「え!?」
驚きの声を上げたのは、誠司と和希の二人同時だった。
「な、何でそうだと分かる?」
「アヤから聞いた。和希の仕事が早く終わってアヤと合流した日の事をな。その日、元カノはいつもの時間に店に来たんだろ? 怪しいと思わなかったか?」
「いや、別に。和希がいつもの電車に乗ってなくても、先に店に来てると思って来たんだな、くらいにしか思わないだろ? 逆に和希が遅くなったとしても、先に店に行ってればそのうち来るって思えば、駅で待ったりしないんじゃないのか?」
誠司の返答に、雅哉が呆れたように息を吐いた。
「お前はいつも何を見てたんだ?」
「はぁ!?」
「これまで、いつも同じ時間の電車に乗って帰ってきてたんだろ、和希は?」
「あぁ」
「それがある日、その電車に乗ってないと分かって、〝先に行ったのかも〟とか〝先に行って待ってればそのうち来る〟ってどうして思う? しかもお前から見て、和希が好きで元カノとこの店に来てたと思うか?」
「それは──」
「元カノだって、好きで自分と一緒にいてくれてると思ってないから、毎日待ち伏せしてたんだろ。──って事は、いつもの電車に乗ってないと分かったら、普通はもう一本待ってみるとか、携帯に連絡するはずだ。それもなく、いるかどうかも分からない、後で来るかも分からない店に、迷いなく先に自分だけ来るっておかしいだろ。どう考えたって、先に行ってる事を知ってた行動だ」
「───── !」
「───── !」
「それに、店にいる時に送ってきたメッセージで〝近くにいるんでしょ?〟って言葉があったっていうじゃないか。GPSでも数メートルの誤差はあるから、隣の店にいるのかも…くらいには思ったんだろうし。携帯の電源を切ったらすぐに帰って行った事も、その追跡ができなくて諦めたって事だろ」
雅哉の説明に、〝まさかそんな事は〟と言える余地はなかった。そしてようやく、和希は雅哉が自分にさせた行動を理解した。
「…だから、携帯を家に置いて来いって言ったんですね?」
「そういう事だ。苛立ったお前が元カノを帰らせたって聞いたから、心情的にどこかで待ち伏せする事はないだろうと思ってな。GPSもある事だし、和希が家に帰ったあと携帯が動かなければ、お前だけが家を出ても気付かれない」
「なるほど、そういう事か…」
誠司も納得した。
「でも、いつの間にGPSを…?」
そんなタイミグはなかったはずだと和希が聞けば──
「元カノに携帯を触らせた事があるならその時だな。例えば、面白いゲームがあるからって言って、ダウンロードしやすいように本人の携帯を預かって検索するっていう手がある。あとは、トイレに行くタイミングで連絡先の交換をしようって提案して、本人がトイレに行ってる間に〝私が交換しておく〟って預かれば、余裕で──」
そう言った時、和希が〝あー…〟と大きく溜息を付いた。
「あったな?」
「…トイレのパターンです。会社を辞めた時に一度リセットしたくて、電話番号を変えたんですよね…。それで連絡先の交換をって…」
「まぁ、これからは簡単に携帯を人に触らせないようにする事だな。あと、家に帰ったらそのアプリを削除しておけ」
「…はい、そうします」
和希は、何だかどっと疲れた気がした。
まさか元カノがGPSまで仕込むとは…。しかも携帯を手にする流れがあまりにもスムーズで、手慣れた感が否めない。それが余計に気を重くさせた。ただそれと同時に、何も知らないフリはできないと思った。
「──で、どうする?」
今度は誠司が和希を見て言った。そこへ続けたのは雅哉だ。
「相手は元カノだし、GPSを仕込まれたのもお前だ。お前がどうしたいか決めろ。オレたちはそれを尊重する」
「雅哉さん…」
絢音の過去を知らなければ、おそらく何も知らないフリをして結花を遠ざけようとしただろう。でも今は過去を知っている。誠司や雅哉がストーカー行為を許せないと思う気持ちは、和希にも十分わかる事だ。それでも敢えて自分の気持ちを尊重すると言ってくれた懐の大きさに、〝何も知らないフリはできない〟という思いが更に強くなった。
「結花に話します。ホストとのトラブルやGPSの事、それからホストを絢さんに近付けた計画も全て知っている、と。それから結花の気持ちには応えられないという事も、ハッキリと伝えます」
「そうか」
「…けど、それで分かってくれなかったらどうする? そもそも話して分かる相手なら、ストーカーなんかしないだろ」
「まぁ、確かに誠司の言う事も一理ある。けどな、大事なのは伝え方だ。オレもアイツらに口説き方を伝授した時に言ったんだぜ? 大事なのは別れ方だって。言い方ひとつ、態度ひとつ…誠心誠意で話をすれば、こんなトラブルにはならないもんだ。ほら、よく言うだろ? 飛行機も離陸より着陸の方が難しいって。でもちゃんと無事に着陸できれば、また新しい飛行が──」
「はいはい、ストップ! その例えはもういいから。──それより大丈夫、和くん? 話してもダメそうだったり、逆上しそうだったら無理に話を続けなくてもいいから──」
「いえ、無理でもします」
「え…?」
「これ以上、皆さんに迷惑は掛けれないし、掛けたくないんです」
「でもね──」
「それに何より、僕自身がこの状態に我慢できません。早く元に戻りたいんです…この店で、絢さんと一緒に過ごすいつもの時間に」
「和くん…」
気持ちの伝わるその言葉に、また絢音の心がキュッと痛んだ。
「おー、よく言った。オレもカウンターから見える景色は、お前ら二人の方がいいからな」
「別に、オレとアヤの二人でもいいと思うけどな」
「やめろよ、兄貴。オレはそんな絵面見たくない」
「私もお断りね」
「いやいやいや、何でだよアヤまで─…」
「疲れるのよ、ほんと」
「何が?」
「相手するのが。あんたと一緒にいるとストレスが溜まる一方で、ちーっとも癒されない」
「それは相手をしようとするからだろ」
「はい?」
「つまり、オレの相手をしようとするから疲れるんであって、逆にオレに甘えればいいって事。一度、全部オレに委ねてみれば──」
「ないない、絶対にないから。委ねるなら、人間をダメにするクッションにするわ。その方が最高に癒されるから」
「何だよ、オレはクッション以下か?」
「正確に言うと、普通のクッション以下ね」
「かー、相変わらず厳しいな、アヤは」
そう言うと諦めたようにソファの座面上にそり返り、天井を仰ぎ見た。
(こういう会話がすでに疲れるのよ)
絢音はそう思ったが、言えばまたそこから新たな会話が始まるのも分かっている為、敢えて口には出さなかった。
「…あるんですか?」
会話が途切れたのを見計らって、和希が問いかけた。
「何が?」
「その…人間をダメにするクッションが、家に?」
「え、そこが気になったの?」
「いやちょっと…僕もいいなと思ってたので、あのクッション」
「あぁ、そういう事。──ううん、ないわよ」
絢音がキッパリと言った。
「でもさっき──」
「例えよ、例え。もちろん私もいいなぁ…とは思ってるけど、使うと絶対ダメになる自信しかないからさ」
「それはすごく分かります」
「それに処分方法とか考えると、ちょっとねぇ…」
「どういう事ですか?」
「だって、あの大きさよ? 普通のゴミで出せないじゃない。──となると粗大ゴミ扱いだから、月に一回の収集しかない。しかもどういうわけか、私が〝あーもう、捨てよう!〟って思うタイミングって、いつも申し込み可能期間が終わった直後とか、収集日のすぐ後だったりするんだよねー。そうするとさ、ゴミと化した大きなものが一ヶ月も家にあると、邪魔でしょうがないわけよ。それにいろんな手続きを踏まなきゃならないし──」
「つまり、面倒って事ですね?」
スケジュールやタイミングなどの問題はあるだろうが、結局のところ最後の言葉が一番の理由だと思いそう言えば、
「その通り」
極々当たり前だとでも言うような口調に、和希は思わず笑ってしまった。
「え、何で笑うのよ?」
「いや、何か絢さんらしいなって思って…」
「そう? でも〝便利だな〟とか〝いいな〟って思って買ったけど、手入れが面倒で数回使ったらしまいっぱなしとかよく聞かない?」
「あー…そう言われると僕の家にもいくつか─…」
「ほらー。テレビショッピングとか、安さに釣られてホイホイ買っちゃダメよ」
「分かりました。もし買う時は絢さんに相談してからにします」
「まっかせなさーい。究極の面倒くさがり屋の私がオッケーした物なら、絶対後悔しないから」
「面倒くさがり屋って、そんな自信持って言うことか?」
久々に見る二人の楽しそうな会話に、誠司も自然とツッコんでいた。
そして和希が元カノと話をする時は事前に報告することを決めて、その日の夜は楽しく更けていったのだった。