16 絢音の過去
ハロウィンが終わってから一週間ほど経過したある日──
絢音が夜勤で店に来ない日に、和希は思い切って聞いてみることにした。一週間ずっと気になっていた事─…正確には無料で配布する文房具を袋詰めしたあの日からだ。ママからは〝絢ちゃんには何も聞かないであげてほしい〟と言われ、そうする方がいいと自分でも思ったから何も聞かないでいた。でも一週間ほど前のハロウィンの日、絢音が死神の仮装を見て再び発作を起こした。使い道が分からないまま持たされた布だったが、発作を起こしているのを見てやっと誠司の言っていた事が分かったのだ。フードにトラウマがあると言われていたのに、何も想像できていない自分が情けない。そう思ったら、やっぱり何があったのか知りたいと思った。知って、全力で守れるようになりたい──…そう思ったのだ。
「誠司さん、教えてくれませんか?」
「ん? 何をだ?」
「絢さんがフードを恐れる理由です」
「……………」
「ここに来る人達はみんな知っているんですよね?」
「まぁ、ほとんどはな。けど、何も関係ない奴にわざわざ何があったかを喋ったわけじゃない。絢ねぇが好きで毎日のように来ていた連中が、その時の絢ねぇを守るために情報共有したまでだ。中途半端に関わるくらいなら知らない方がいい事もある」
前もそうだった。フードの事を聞いた時〝絢ねぇ自身の問題だ〟と、それ以上の事は教えてもらえなかった。もし今回も〝本人の問題で他人が首を突っ込む事じゃない〟とか〝軽々しく口にできる事じゃない〟と言われたら引き下がるしかなかったが、〝中途半端に関わるくらいなら──〟という理由なら、自信を持って〝違う〟と言える。むしろ、真正面から向き合う覚悟があると声に出して誓えるくらいだった。
和希は〝今しかない〟と、絢音との出会いを話すことにした。
「十年なんです」
「うん?」
「絢さんを好きになって十年…今年で十一年目です」
「は!?」
思わぬ告白に誠司が驚きの声を上げた。
「え…十年前から知ってんのか、絢ねぇの事?」
和希は〝はい〟と頷いた。
「十年前に一度だけ─…それも、〝見てた〟ってだけなんですけど」
「ん? んん? 見ただけ? 話したとかっていうんじゃ──」
「ないです」
「いやいやいや…意味が分からん」
「実は、今の会社は二社目なんです。大学を卒業して最初に入ったのは別の会社で─…入ってから分かったんですが、そこはかなりの〝昔体質〟でした。パワハラ・モラハラ・セクハラ…男尊女卑だという認識さえないくらい、それが当たり前のようにあるんです。でも初めて入った会社だし、入った以上は最低でも三年は続けないと…って思っていたので我慢していました。二ヶ月目に入った時に新人歓迎会が開かれたんですけど、案の定、〝昔体質〟のオンパレードで…。散々飲まされ、流石に限界だと思ってもまた強要されて…正直、土下座でもして断ろうと思っていました。そんな時に絢さんが現れたんです。上司の目の前の机を、こう…バーンッと叩いて、僕が飲むはずだったウィスキーのグラスを一気に飲み干しました」
「ウィスキー!?」
「それもロックで」
「ロック…!?」
驚きのあまり、ツッコミも食い気味だ。ただ、同時に気が付いた。
「それで、絢ねぇは〝お酒が飲めない〟って聞いた時に驚いてたんだな?」
「そうです。ウィスキーをロックで一気飲みしたのを見てたので」
「はは…、そりゃそうなるか」
「それで、絢さんは呆気に取られる上司に向かって言ったんです。〝今時上司の酒が飲めないのかとか、お茶汲みは女の仕事だとか…ここだけ時空が歪んでのかってくらい吐き気がする〟って。それから僕たちに向かって〝こんな会社に未来は愚か人生の貴重な一秒すら費やす価値はない。だから正常な感覚があるうちにとっとと辞めなさい〟って」
「は、はは…相変わらずキツイ…。けど、絢ねぇらしいな」
そう言った途端、ふと和希が制裁の日に言っていた言葉を思い出した。
〝ああいう一面があるのは知っていたので…〟
(そうか…。その時にはもう目にしていたってことか─…)
そんな出会いからなら、そりゃショックでもなんでもないな…と誠司は少し笑ってしまった。
「僕にとってその言葉は衝撃でした。〝あぁ、辞めてもいいんだ〟って初めて自分で認識したというか…。たった二ヶ月ですけど、ずっとことわざのように〝三年間は…〟って思っていたので…。〝辞めなさい〟って言われた瞬間、思いっきり頬を殴られたみたいに目が覚めたんですよね。だから、次の日に〝退職届〟を出して辞めてきました」
「それはまた思い切ったな」
「でもそれで、僕の命は救われました」
「命…?」
「一年後、その時に辞めなかった同期の一人が自殺したんです」
「───── !」
「理由は想像通りだと思います。だからその時に思いました。あの時、絢さんに言われて辞めていなければ、死んでいたのは自分だったかもしれないって…」
「……………」
「でもそれが理由で好きになったわけじゃありません。僕が絢さんを好きになったのは、初めて出会ったあの時です。〝あぁ、なんてカッコいい人なんだろう〟と思って…。でも、カッコいいだけじゃなかったんですよね」
「…………?」
「啖呵を切ったその後、当然のように上司が反論しようとしたんですけど…。絢さん、その上司の胸ぐらを掴んですごく怒ったんです。〝あんたみたいなのがいるから─…〟って。その声は今にも泣きそうなくらい震えていました。それがすごく気になって、ずっと頭から離れないんです。あの後ろ姿とあの声を思い出すたび、なぜか無性に抱きしめたくなるというか、守ってあげたいっていう衝動にかられて…。もしもう一度会えたら…って何度も思ってたんですけど、全然会えないまま気付いたら十年が経っていました」
和希の話を聞いていた誠司は、幾つもののキーワードが頭の中に浮かんでいた。
〝十年前〟〝昔体質〟〝新人歓迎会の時期〟〝お酒〟〝あんたみたいなのがいるから〟という言葉…。
「そのあと─…〝あんたみたいなのが──〟の後、絢ねぇはなんて言ってた?」
和希は首を振った。
「ちょうどその時、絢さんに電話がかかってきたので、そのまま帰っていきました」
その言葉に、誠司は確信した。
(あの時か…)
誠司は小さく息を吐き出すと、チラリと時計を見た。時間は二十一時半を回った頃だった。
(そろそろ話してもいい頃だな…)
そう判断した誠司は、ママの所に行って和希に絢音の過去を伝えてくると言い、仕事を切り上げた。そして店の冷蔵庫からペットボトルのお茶を二本取り出すと、一本を和希に渡した。おそらく、今からする話にアルコールは入れたくないという事なのだろう。
休憩室に移動し、テーブルを挟んで向かい合って座る。最初にペットボトルのお茶を飲んだのは誠司だった。
敢えて休憩室に移動したことも、アルコールではなくお茶を渡されたことも、これからする話がどれだけ重要な事なのかを考えると、緊張から和希の口も乾いてくる。和希は次に誠司が口を開く前に、慌ててペットボトルの蓋を開けゴクゴクと二口飲んだ。そして蓋を閉めたのを確認した誠司が、静かに話し始めた。
「前に、家族愛の話をしただろ? あの時にもチラッと言ったと思うが、絢ねぇの両親は二十年以上前に車同士の事故で亡くなってるんだ。原因は相手の飲酒とそれによる居眠り運転。しかも無保険だったから、実質、入ってきたのは両親が掛けていた保険金だけだった」
「そんな…よりによって無保険の車って─…」
「…だよな。当時、絢ねぇは看護学校の二年生で、悠人は中学二年生。これからお金がかかるっていう時だ。親戚の家に行く話も出たらしいが、二人とも…特に悠人が両親と過ごした家を離れたくないって言って、頑なに首を縦に振らなかった」
「でも、二人だけで生活するのって大変ですよね…?」
「あぁ、簡単に想像できる事じゃない。想像を絶する大変さだ。──けど、絢ねぇは悠人のために動いたんだ。よくあるだろ、最初の三十分は無料だっていう、弁護士に相談できるやつ。ああいうところを転々として、どうやったら二人だけで今の家に住めるのか、悠人が大学を卒業するまでにいくら必要なのか、そこからできるだけ節約するためにどうしたらいいのか…それはもう、ありとあらゆる相談をして、少しずつ相続の手続きも進めていったんだ。その上、悠人の心のケアまで…」
「全て一人で…?」
「あぁ、一人でだ」
驚くと同時に、以前〝お金は大事だからね〟と言っていたその理由も分かった気がして胸が痛くなった。
「看護学校には事情を話して、卒業後は指定の病院で働く事を条件に奨学金をもらう手続きもした。しかも、バイトまでするって言い出したから、それはやめろって説得したくらいだ」
「どうしてそこまで─…」
「そうせずにはいられなかったんだろ。悠人は絢ねぇがいたから生きられたし、絢ねぇも悠人がいたから生きてこられた。オレたちは親父のことで絢ねぇに助けられたから、できることなら何だってしたかったんだけどな…。結局その時のオレたちにできたことは、毎日ここで夕飯を一緒に食べるって事だけだった。それでも絢ねぇが看護師として働き始める頃には、悠人も元気を取り戻していて、高校も大学も無事に卒業する事ができたんだ」
「良かった…」
和希は思わず呟いていた。
「あぁ、良かったよ。受験で合格した時や卒業式、成人式、誕生日、クリスマス…色んな行事でお祝いしてさ、看護師の国家試験の合格や悠人の就職が決まった時なんか、本当にみんな喜んで祝ったものだ。これで絢ねぇの苦労も報われた、これからは普通に幸せになれる…そう信じてな。けど─…」
「…悠人さん、ですか?」
誠司は胸の中に溜まっていた重い空気を吐き出すように、一度大きく息を吸ってから〝あぁ〟と言った。
「悠人が就職した会社は、お前が辞めた所と同じで昔体質の会社だったんだ。けど昔からそうなら誰も疑問に思わない。上司が〝こういうものだ〟と言えば、ついこの間まで学生だった者は〝そういうもんなんだ〟って思い込んでいく。しかも、良くも悪くも適応力が邪魔をして慣れていくんだよな…。悠人の場合は五年経っても慣れるってことはなかったが、何より絢ねぇに心配をかけたくなくて、どんなに辛くても辞めるとは言わなかった。まぁ、そんな思いだったって知ったのは亡くなった後に見つけた手帳だったけど。最後の一年が最悪だったみたいだ。パワハラもモラハラも仕事量も責任もプレッシャーも…何もかもがあいつにのしかかって、心身ともにボロボロになっていった。ギリギリまで〝まだ大丈夫だ〟って日記には書いてあったけど─…〝まだ大丈夫〟っていうのは呪いだ。その呪いであの日…あいつは川から身を投げた…」
「──────ッ!!」
「誕生日だったんだぜ、あいつの」
「悠人さん…の…」
「仕事が終わって、ここで誕生日会をする予定だった。珍しく定時に帰れるって言ってたのに予定の時刻になっても来なくて…。そのうち、絢ねぇにメールが届いた。そのメールを見た時、何か嫌な予感がしてな。その場にいたみんなが悠人にメールしたり電話したりしたが、メールは既読にならないし電話も繋がらなかった。そのうちレスキュー車やパトカーのサイレンが聞こえた…。男性が橋から飛び降りたっていう通報があったらしい。まさかと思ったが、そのまさかだったんだ」
和希は、思わず持っていたペットボトルの手に力が入った。
「それからの絢ねぇは、もう見ていられなかった…。悠人の通夜も葬式もオレたちが手配して済ませたが、絢ねぇはずっと部屋に引きこもって出てこない。目を離したら、いつあいつの後を追って自殺するかも分からない…そんな状態が続いてな。このままではダメだって、無理やりこの店に連れてきた。そこからオレと親父と兄貴が、交代で絢ねぇの傍について色々と話しかけていた。何を話しても反応がなかったが、悠人の話をした時だけはポロポロと涙を流してさ…オレも泣きながら話したもんだ。それでも〝思い出を共有する人と話す〟っていう必要生は分かってたから、どんどん話したよ。アルバムとか見てさ、気に入った写真は全部データに起こして絢ねぇの携帯にも入れた。いつでも見られるように…って。その甲斐あってか、徐々に会話をするようになって、三ヶ月くらいしたら外にも行くようになった。悠人が行ったことのある場所に行って、悠人がどういうものを見て何を感じていたのか…そういう心の整理みたいなものを始めた時だったんだ、お前に会ったのが」
「じゃぁ、十年前のあの時って─…」
「その店も悠人が立ち寄ってた店だ。ただそこで悠人を思って静かに時間を過ごしていた絢ねぇが、その状況を見てブチ切れたんだろ。追い込まれてるお前と悠人が重なって…。〝あんたみたいなのがいるから、悠人が死んだんだ〟…そう言いたかったんだと思う」
「じゃぁ、前に誠司さんが言ってた〝絢さんは人が追い込まれていく姿に敏感で、すごく気にするから…〟って言ってたのは、悠人さんの事があったから…?」
「そうだ。二度と同じようなことが起きてほしくないって思ってるからな」
「…………」
「病院の方も、絢ねぇが働く時に両親の事を学校から聞いていたみたいで…悠人まで亡くなった事を知って、色々とフォローしてくれた。仕事に出てこれなくても退職扱いにはせず、復帰できるようになるまで待つって言ってくれて…ありがたい職場だよ」
「復帰するまでにどれくらいかかったんですか…?」
「…一年だ。完全復帰とまではいかなかったけど、徐々に慣れていったってところだ。ただ、絢ねぇにとっての〝生きがい〟はなくなった。看護師として悠人を救えなかった自分を責め、償いの意味で看護師を続けようとしていたんだと思う。それでも患者の笑顔を見ているうちに少しずつ喜びを感じるようになって、一年後ようやく元気を取り戻した。そんな時だ、あいつが現れたのは」
「あいつって─…」
「ストーカーだ」
「─────!?」
「そいつは絢ねぇが担当した患者で、入院中に優しくされた事が嬉しかったのか、絢ねぇに惚れちまってな。他の患者に優しくしているのを見れば機嫌が悪くなり、退院した後も絢ねぇのことをつけ回すようになった。最初は一人で何とかしようとしたらしいんだが、拒否すればするほど行為がエスカレートしてきて、とうとう家にまでつけてくるようになったんだ」
「家までって…それかなりヤバイんじゃ──」
「あぁ、ヤバイ。けど、遅かった」
「え…!?」
「絢ねぇも、さすがにヤバイと思って逃げようとした。けど、その行為が逆に相手を焦らせたのか、追いかけた上に〝こんなに好きなのに何で逃げるんだ!〟って逆上だ。結果、絢ねぇは酷い暴行を受けた」
「─────ッ!!」
「その男がフードを被ってたから、絢ねぇは今でもそれがトラウマになっている。家を教えようとしないのもそのせいだ」
「そんな…事が─…」
「通行人が通報してくれて、絢ねぇは救急車で運ばれた。病院から電話がかかってきた時は驚いたし、病院で警察から話を聞いた時はもっと驚いた。ストーカー被害にあってたなんてこれっぽっちも知らなかったからな。しかも意識が戻った絢ねぇが、オレたちを見た時なんて言ったと思う? 〝悠人に会えなかった…〟だぞ」
「─────ッ!!」
和希はもう、すでに言葉を失っていた。
「その時に分かったんだ。絢ねぇは、心のどこかでいつ死んでもいいって思いながら生きてたんだなって…」
「……………」
「あれから八年。今もそう思ってるのかどうかは分からない。ただオレは、お前の存在が絢ねぇの何かを変えるんじゃないかって思ってる。オレだけじゃない。親父も兄貴もだ」
「雅哉さん…も?」
意外な人物の名前に、和希の声がようやく出た。
「クソだけど─…絢ねぇの幸せだけは本気で願ってんだよ、あれでも」
ナンパ感覚で絢音に言い寄っているだけかと思っていたが、そうでないと知って驚いた。
「だとしたら僕は何を──」
「別に何も」
そう言うと分かっていたのか、誠司は被せるように言った。
「特別なことはしなくていい。ただ今まで通り、お前がお前のままでいればいいんだ」
「僕が僕のままで…」
それは一体どういうことだろうか…。
和希は、あまりの情報量の多さに頭の中が整理しきれなかった。〝今まで通り〟がどういう事だったのかさえ思い出せない。その混乱ぶりを感じた誠司は、小さな溜息をついた。
「変に気を使ったりしたら、絢ねぇはお前から離れていくぞ?」
「そ、それは嫌です…!」
焦った和希の言葉に、誠司はフッと笑った。
「それでいいんだよ。──お前はそれでいい」
誠司は大事な事だとばかりに、二回言った。
「とにかく、これが絢ねぇの身に起きた事だ。──どうだ、聞いて後悔したか?」
「…いえ」
和希は首を振った。内容が内容だけに重い空気に押し潰されそうだったが、不思議とその言葉に迷いはなかった。
「過去を知ったから僕が何か力になってあげられる…なんて偉そうな事は言えないし、思ってもないですけど…知らないよりは知って良かったです。ただ─…」
「ただ…?」
和希はそこで大きく息を吸うと、僅かな間を置いて言った。
「ただ今は、無性に抱きしめたいです、絢さんの事…」
あまりにも真っ直ぐで正直な言葉だった。さすがの誠司も少し恥ずかしくなる。けれど同時に、和希がこれほどまで純粋で真っすぐで素直な理由が分かった気がした。
(十年も前から絢ねぇの事を一途に思ってりゃ、恋愛初心者並みなのも当然か…。ま、恋愛初心者並みなのは絢ねぇも同じだけどな)
似た者同士の組み合わせに、誠司は更に絢音には和希しかいないと思えた。
「そうだな。今度会ったら抱きしめてやれ」
会った途端に抱きつくアキラのような行動が出来ないのも分かっているが、もしそういう機会があるならば、思いっきり抱きしめてやればいい。誠司は心からそう思った。