14 恋の相談とデジャヴ
一日デートの翌日に有給を取った和希だったが、さすがに誠司の店には行けなかった。どういう顔をして会えばいいのか、会って今まで通り普通に話せるのか─…それが自分でも分からなかったからだ。しかも、絢音の言葉が一日中ずっと頭から離れない。デート中の事を思い出せば幸せな気分になるが、〝ずっとこうしていられたらいいなって思うくらい〟なのに、〝やめた方がいい〟という流れがどうしても腑に落ちないのだ。そんな悩みは、有給が明けた今も続いている。
礼香と田邊は、デート後で和希がどんな満開の花を咲かせてやってくるのか楽しみにしていた。どこに行って、どういう会話をして、どんな進展があったのか─…根掘り葉掘り聞いて酒の肴にしようとさえ思っていたのだが──
「何かやらかした?」
それは食堂でお昼を食べたあと、礼香に連れてこられた会議室の中で言われた。会議室にいるのは礼香だけだ。
「何かって…?」
一瞬、仕事で何かミスでもしたのかと焦ったが、次の言葉でそれがデートのことだと分かった。
「脳内お花畑の川上くんが来るかと思ってたのに、そうじゃないからさ」
言いながら、椅子を引いて座るよう勧める。和希が小さく頭を下げて座ると、礼香もその隣りに座って更に聞いた。
「デート、うまくいかなかったの?」
「そういうわけじゃ…ないですけど─…」
「じゃぁ、なにが理由でその暗さ? 悩んでる事があるなら話してみて。ちゃんと真面目に聞くから」
和希はチラリと腕時計を見た。休憩時間はまだ三十分もあった。わざわざ会議室に連れてきて、立ち話でもなく椅子にまで座らせたのだ。〝なんでもない〟と言ったところで、簡単に引き下がるつもりはないのだろう。まぁ…実際、なんでもなくはないし──意図せず──深刻さもバレているのだろうが…。
和希は諦めたように─…だけど本音は誰かに聞いて欲しくて口を開いた。
「礼香さんって、弟さんがいましたよね…?」
「いるよ、ニ個下の弟がね。──それがどうかした?」
「いえ、その─…弟より年下の男性ってどうなのかな、と思って…彼氏として…」
「あー…年下の彼氏がアリかナシかってことね?」
「…はい」
「ん〜…私の場合はナシかなぁ…」
「ナシ…ですか…」
「やっぱり弟みたいな感じがしちゃうし、一人の男性として見れないかも」
「そうですか…」
「いやでもさ、それはもう人それぞれよ? 好きになった人がたまたま年下だったってだけなら、それはそれで全然アリなわけだし」
「好きになった人がたまたま年下…」
「……ひょっとして、その想い人に相手にされてない─…みたいな感じ?」
「相手にされてないっていうか─…なんかそれも分からなくて…」
「うん?」
「…告白したんです」
「え? え! したの!?」
二度見ならぬ、二度驚きで思わず身を乗り出した。
「はい、デートの終わりに─…」
「そう…なんだ…」
(なに…なにこの急展開…スクープなんだけど!? 今すぐ田邊に──…っていや、違う、違う…)
和希のデートを勝手に想像し、それを肴に田邊とお酒を飲み明かしたが、さすがに一回目のデートで告白するという想像まではしていなかった。だからその急展開に〝田邊に報告ー!〟と思ってしまったのだが、この状況からして、それこそ〝さすがにそれはない〟と理性が働いた。礼香は務めて冷静に続けた。
「それで、想い人はなんて?」
「嬉しいって言ってくれました」
「嬉しい…!」
「年下だからって子供っぽいと思ったことも、頼りないって思ったこともない。むしろ、居心地が良くてずっとこうしていられたらいいなっていう安心感があるって──」
「ちょ、ちょっと、それってオッケーってことじゃない!」
想像していたのとは真逆で、机を叩く勢いで更にグイッと身を乗り出した。だけど同時に、この状況が理解できなかった。
「え…じゃぁ、どうしてそんなに暗いのよ!?」
「やめた方がいい、って言われたんです」
「は…?」
これまた思わぬ言葉に理解が及ばず、変に力が抜けた。
「自分だと色々問題があるからやめた方がいいと思う、って…。それってどういう意味だと思います?」
「どういう意味って──…」
(こっちが聞きたいんだけど─…)
──と思うが口には出せない。
「色々問題って─…なに、人に言えない事があるとか? 知られたらまずい過去とか、家族構成で何かマズイ事があって─…だからやめた方がいい、とかそういうの?」
「分かりません、何が問題なのか…。だから、分からなさすぎてフラれた実感もないんです…」
「あー…まぁ、それはそうよね…」
(フラれたっていうよりは、判断を委ねられただけなんだから。それよりも、問題がなにかって事よ。川上くんに対する感情は悪くない──っていうか、ものすごくいいんだから、その問題さえ分かれば対処のしようもあるんだけど──…)
「他にはなにか言ってなかった?」
とにかく情報が必要だと、思い出すよう和希に迫った。
「告白した時とか、それまでの会話で気になる事とかさ─…」
「んー…」
気になる事なら色々あった。──が、どれも聞かれたくないような気がして聞けないのだ。でもそれが〝問題〟なのだとしたら、そう簡単に知ることはできないだろう。もちろん和希としては、過去にどんな事があろうと全部受け止めるつもりでいるのだが…。
(気になる事は礼香さんには言えないし…。あと、告白した時に言われたことって言ったら─…)
告白した時に気になる事…と何度か頭の中で繰り返していたら、ふと〝そこは気にするところでしょ〟という絢音の声が記憶の中から飛び出してきた。
「そう言えば─…年齢の事は言ってました」
「年齢?」
和希が頷いた。
「絢さんの年齢を知ってるのかどうか聞かれたので、〝知ってる〟って…。でも、そもそも年齢は気にしてないって言ったら、〝そこは気にするところでしょ〟って言われました」
「なるほど、年齢ね…。ちなみに、その想い人の年齢って…?」
「今年、四十ニになるそうです」
「よん─…!? あ…ぁ、そう、四十二…ね…」
(見た目は三十代…。私より二つか三つくらい上なだけかと思ってたけど、四十二─…。川上くんとはちょうど十歳差か…)
数ヶ月前の自分の気持ちを思い出した礼香は、問題が何なのか分かった気がした。
「あ、あのさ…多分、問題はそれだと思う」
「年齢の差…ですか?」
「んー…まぁ、年の差が悪いわけじゃないんだけどさ…。ほら、同じ十歳差でも二十代と三十代のカップルと、川上くんくらいの三十代と四十代のカップルとでは、世間的な受け止め方って違うじゃない? しかも男性が年上の場合と女性が年上の場合とでは、その差はもっと大きくなる。男性が年上の場合は比較的〝羨ましい〟って思われるけど、その逆は〝もっと若い人がいるのに…〟って悲観的な目で見る人もいるからさ。もちろん、当人の気持ちが重要で、周りの言う事なんて気にしなくていいのよ? だけど、四十代の女性となると、付き合ったその先に、必ず結婚っていう二文字が出てくるじゃない。そうなると当人だけの問題じゃなくなるし、結婚したらしたで、当然のように〝子供〟の話が付いて回る。そう考えるとさ、年齢っていうのは大きな障害の要因になるわけよ」
「でも、四十代だからって絶対に子供ができないってことでもないですよね?」
「もちろん。でも男と女の体が違うように、自分ではどうする事もできない〝タイムリミット〟っていうものが女性にはあるのよ」
「自分ではどうすることもできない…」
繰り返して、途端に絢音も同じ事を言っていたと思い出した。
「年齢が上になればなるほど子供ができにくくなるのは事実だし、〝可能性〟に掛けたところで〝絶対〟はない。孫の顔が見たいと思う親にしてみれば、やっぱり女性は〝可能性の高い〟若い人の方がいいって思うのも正直な気持ちだと思う」
「でも僕は、親が何と言おうと彼女がいいんです。それで最終的に子供が出来なくても構わない…そう思ってます」
「うん、そうだよね…。川上くんはそういう人だと思う。ただ、人の気持ちも〝絶対〟ではないでしょ? 最初は本気でそう思っていても、周りの友達に子供ができて家族の様子を聞いているうちに、その気持ちが変わる人も多いのよ。〝やっぱり子供が欲しい〟って思ったら、お互いに辛い思いをすることになる。そういう未来を考えてしまうのよ、女性は…」
「だから〝やめた方がいい〟と…?」
「まぁ、そう言った可能性は高いわね」
「じゃぁ、その不安を僕が取り除く事ができたら…?」
「望みはあるかもね。でも難しいと思うわよ? だって、一生浮気をしないって誓っても、それを証明できるのは死ぬ時だもの」
「……………」
「でもまぁ、ひとつだけハッキリしてる事があるとすれば…川上くんに対して全く興味がないわけじゃないってことかな」
「え…本当ですか?」
「だって、全く興味がなかったら〝やめた方がいい〟なんて言わないわよ。十歳の年の差があるんだから、〝男として見れないから無理〟って言えば済むだけだもの。それをさ、自分の事を〝やめた方がいい〟って言うのは、少なからず相手のためを思って言ってるって事でしょ?」
「僕の、ため…」
「まぁ…本人に聞いても教えてくれないなら、想い人の事をよく知ってる人に聞くなり相談なりしてみたら? 例えばほら─…あの喫茶店のマスターとかさ。幼馴染みか弟みたいに仲良かったじゃない?」
七夕祭の時に見た二人の雰囲気を思い出してそう言えば、和希も〝そうですね…〟と答え、休憩時間の〝悩み相談〟は一区切りついた。
礼香と話した事で午後の気分は幾分かマシになり、その夜は誠司の店に行ってみようという気になった。絢音がいないというのも、誠司に聞くのにちょうど良かったからだ。
「こんばんは」
仕事が終わり、いつもの時間、いつものように店の扉をくぐった。〝おー、お疲れ〟と返ってくる誠司の流れもいつもの事だ。
「注文に変更は?」
「ないです」
誠司が〝ぶっ壊そうかな〟と言った壁掛けに上着をかけながら言った。席に座ると、ややあっていつもの三点セットが出てきた。
「今日の日替わりは〝秋の旬定食〟だ」
「秋の旬定食…」
「五目ごはん、なめこの味噌汁、サンマの塩焼き、レンコンのきんぴら、漬物、茶碗蒸しー…と、あとおまけだ」
「おまけが気になりますけど─…サンマっていうのがいいですね」
「初サンマだからな。ビールと一緒に食うか?」
「はい」
「じゃぁ、すぐ用意するから待ってろよ」
誠司は厨房の方へ行ってサンマを焼き始めると、カウンター内へ戻ってきて他の準備を始めた。
「すごく楽しかったって言ってたぞ、絢ねぇが」
小鉢に漬物を移しながら言った。和希もビールを一口飲んで答える。
「僕もすごく楽しかったです」
「そりゃ良かった。水族館でしたっていう話はよく分かんなかったけどな。イワシの大群が昔の看板みたいだとか、カメは助け合い精神が進化しただとか──」
「ホッキョクグマとパンダはあの見た目で得をしてるだけとも言ってました」
「どう考えたって、絢ねぇが主に話してたことだよな?」
「六割くらいですね」
「やっぱな」
誠司が笑った。
「でもそれが本当に面白くて、ずっと笑ってました」
「ラッコで笑いが止まらなかったって言ってたけど、それは──」
──と言ったところで、思い出した和希が吹き出した。
「だって、極悪非道って言うんですよ、絢さん」
「極悪非道?」
〝そうです〟と頷いた和希は、笑いを堪えながら説明した。他にも、イワシの大群の話、クラゲの話、ホッキョクグマの毛やパンダ、ペンギンの足の話なども全て説明した。
「ほんっと、絢ねぇの言うことは独特だな」
聞いていた誠司も、時折箸が震えるほど笑っていた。
「でもそれがすごく楽しくて、思った以上に長居してました」
「じゃぁ、写真もいっぱい撮れただろ。ほら──」
〝できたぞ〟と日替わり定食を出して言った。和希も〝ありがとうございます〟と受け取った。
「それが…撮ったには撮ったんですけど─…」
そう言いながら、画面に写真を表示して携帯を渡した。
「おー、いいじゃないか。テーブルがあるって事は──」
「館内のレストランです」
「…だな。で、次が──」
──と画面をスライドさせた誠司が〝ん?〟となり、再度逆にスライドすれば〝んん?〟と顔をしかめた。
「は? これだけ?」
サンマを食べていた和希が、申し訳なさそうに頷いた。
「楽しすぎて忘れてました…」
「マジか…」
少々呆れつつも、忘れるくらい楽しかったならそれもそれでいいかとも思う。
「ま、記憶に残ればそれでいいか。夜景も星も、本物には敵わないしな」
「…初めてだって言ってました」
「うん?」
「初めて夜景を見たって、絢さんが…」
「あぁー…」
和希は箸を止めて誠司を見た。
「夜景に限らず高いところに行くのを止められてた…っていうのは本当なんですか?」
「あー…まぁ、最初はな。途中からは単純にそういう機会がなかっただけだけど」
「そうですか…。でも、止められて正解だったって言ってましたよ」
「絢ねぇが?」
「自分でも飛び降りかねないって思ったからって─…」
「……………!」
「誠司さんたちが止めていた理由も同じだったんですか?」
「…まぁ、色々あったからな」
「それは悠人さんが亡くなった事と関係が…?」
「…聞いたのか?」
和希は〝はい〟と答えた。
「星を見ている時に絢さんが泣いていて──」
「は!? え、ちょっと待て…泣いた!? 泣いたのか、絢ねぇが!?」
「はい…」
(絢ねぇが、オレたち以外に涙を見せた…? マジか…)
まさか…と思う出来事に、誠司は本気で驚いた。それはママにも聞こえ、思わず顔を見合わせた。
「最初はごまかそうとしたんですけど、そうじゃないっていうのが分かったので聞いたんです。そしたら〝亡くなった〟って…。その悠人さんとした約束を思い出して涙が出てきたみたいです」
「悠人とした約束…?」
「一年に一回会える七夕の日は、梅雨時期だから天の川が見えないって言ったら、悠人さんがプラネタリウムに連れていってくれたって」
言われて〝プラネタリウム、プラネタリウム…〟と言葉の記憶を辿れば、悠人が働き始めて間もない頃の記憶が蘇ってきた。
「…そういやそういう事もあったな。なんで今更プラネタリウムなんだ、って言った覚えがある。そういう理由だったのか…」
「思っていたより良くて感動した絢さんに、今度は本物の星を見せてあげるからって約束したみたいです」
「それが叶わなくなったから、思い出して泣いた…か」
和希が頷いた。
「でも、話したらスッキリしたみたいです」
「スッキリ…」
繰り返したが、すぐに〝いや〟と思った。
「お前、なにか言っただろ?」
「え…?」
悩み事や怒りを口に出せばスッキリする事もあるが、叶わない事を口に出しただけではスッキリするどころか、それを実感して余計に悲しくなるだけだ。なのに、デート帰りの絢音の様子にウソはなかった。それはつまり、和希がただ〝聞いただけ〟ではないという事だ。案の定──
「僕はただ、以前なにかで聞いた事を言っただけです。ふとした時に亡くなった人の事を思い出すのは、亡くなった人がその人にメッセージを送っている時だ、って。だから今悠人さんが近くにいて、一緒にこの星を見て〝やっと見れた〟って言ってるのかもしれないって…」
それを聞いて、誠司は納得した。デートの感想を聞いた時に、絢音が言ったあの言葉の意味だ。
「だから〝救われてー〟だったんだな…」
「え…?」
「うん? いや─…お前で良かったな、と思ってさ。──あぁ、そうだ。次はふたご座流星群を見に行ったらどうだ?」
「次、ですか…」
「めちゃくちゃ見れるぞ、流れ星」
〝どうだ?〟と促されたが、和希の顔は曇っていた。
「どうした?」
「いえ、ちょっと…次があるのかなって─…」
「あるだろ、毎年」
〝なに言ってんだ?〟と言うくらいにツッコんだ。
「そうじゃなくて、その─…フラれた、みたいなので──」
「はぁ!?」
予想外の事にまた驚いて、一瞬思考が止まりかけた。
「え、ちょっと待て…フラれたみたいって、告白したのか!? え、いつ!?」
「ここに送り届けた時に、車の中で─…」
「マジか!? 全然気付かなかった…」
(そんなこと一言も──…って、いや今はそんな事どうだっていいか)
「それで、ハッキリとそう言われたのか? 〝付き合えない〟とか〝そういう対象として見れない〟とか──」
「そうは言われてないです。どちらかというと〝いい感触〟だと思ったんですけど─…〝やめた方がいい〟って言われたんです。〝自分では色々問題があるからやめた方がいい〟って…」
「問題…」
「それってどういう意味だと思います…?」
「どういう…って─…」
「フラれたみたいって言ったのも、正直、完全にフラれたっていう実感がないからなんです。でももしその問題が年齢の事なら、僕にはどうする事もできないじゃないですか…。だとしたら、やっぱり遠巻きにフラれたんじゃないかって…だから家にも送らせてもらえないのかなって──…」
「あぁ、いやそれは違う」
絢音の本当の気持ちは分からないが、それだけは絶対に違うと言えた。
「確かに家に送らせないようにはしてるけど、そういう理由じゃない。限られたやつ以外はみんなそうだ。まぁ…まだその中に入ってないっていう事実はあるけどな」
「それってフラれたのと同じなんじゃ──」
「〝まだ〟って言っただろ?」
「でも──」
「今の絢ねぇは──」
細かいことはいいから、と和希の言葉を遮った。そして続けた。
「今の絢ねぇは、オレと親父以外に涙を見せない」
「え…?」
「テレビや映画を見て流す涙は椿の前でも兄貴の前でも見せるけど、本当の涙は見せないんだよ。それがお前には見せた。それがどういう事か分かるか?」
「……………」
「少なからず、絢ねぇがお前に心を許してるって事だ」
「───── !」
「まぁ…本人がその事に気付いてるかどうかは別として、だけどな。それに、まだフラれたわけじゃない」
「え…?」
「バーゲン前の商品と同じだ」
「バ、バーゲン…?」
「よく言うだろ、〝一週間後にバーゲンが始まるから、今買わない方がいいよ〟って。けど、バーゲン前に売れてしまったら元も子もない。高くても今すぐ買って手に入れるか、売り切れるかもしれないけどバーゲンが始まるまで待つか─…選ぶのは自分だ。〝やめといた方がいい〟って言葉は、〝拒否〟じゃなくて〝判断〟を任されただけ。諦めるか諦めないかは、お前次第って事じゃないのか?」
「───── !」
そこまで言われ、和希はようやく〝フラれた実感がなかった理由〟が分かった気がした。突然バーゲンの話が出てきた時は訳が分からなくなったが、ある意味その説明が一番分かりやすい例えだった。
「諦めんのか、絢ねぇの事?」
顔を見ればどう答えるかは分かったが、誠司はあえて聞いた。すると──
「諦めません。絢さんに拒否されるまでは、絶対に」
──と返ってきたから、誠司は〝よし!〟と頷いた。
「じゃぁ、食え。早く食わないと、おまけの一番美味しい食べごろを逃すぞ」
「え、おまけの一番美味しい─…?」
「これだ」
そう言って和希の前に出したのは、表面が白くなったみかんだった。誠司の手が触れたところが、跡のようになって本来の色に変わっている。触ればほんの僅かな弾力があり、キンキンに冷えていた。
「冷凍みかん…」
「ちょっと溶けたくらいがシャリシャリしてて美味いんだよな。お前と給食の話をしていて思い出したって、昨日みかん買って冷凍庫に入れてったんだよ、絢ねぇが。それ食って元気出せ。んで、今まで通りのお前でいろ。それが一番だよ、絢ねぇには」
「は…はい!」
(あぁ、もう…本当にこの人たちは─…)
絢音にしても誠司にしても、話すと必ず元気が出てくる。不安になっても自信をなくしても、いつもの自分に戻してくれる人たちだ─…と、和希はなんだか涙が出そうになった。そうして定食を食べ終わった和希は、程よく溶けた冷凍みかんの皮を剥きながら、そんな話をしたデート中の絢音を思い出した。
「絢さんって、可愛いですよね…」
思っている事が思わず口から漏れたような和希の言葉に、他の客に出す料理の盛り付けをしていた誠司の手が止まった。
「可愛い…?」
誠司が改めて聞いた。
「言いたい事はズバズバ言うし、悩んでいる人がいるといつの間にかそっと隣に来て助けてあげたり…。しっかりしていて〝頼れるお姉さん〟って感じなんですけど、たまに天然の部分が出たり、方向音痴で迷子になったりして…。意外なところで照れたりもするし、それを隠そうとして一生懸命なところとか…なんかすごく可愛いな…って」
その状況を思い出しながら話す和希の声を聞きながら、誠司の脳裏に同じ言葉が浮かんだ。
〝オレが言うのもなんだけど、あーやって可愛いんだよなー〟
それは昔、一緒にお酒を飲んでいた時に悠人が漏らした言葉だった。
「本気でそう思ってんのか…?」
「はい。──あ、でも年上の女性に〝可愛い〟っていうのは失礼ですよね」
「いや、そんな事はないだろ」
誠司は再び止めていた手を動かし、盛り付けた皿をカウンターに座る客の前に出した。
「──ってか、絢ねぇの事を〝可愛い〟って言うやつは、お前で二人目だなと思ってよ」
「二人目─…ひょっとして一人目は雅哉さんですか?」
「いや」
誠司は首を振った。
「じゃぁ、誠司さん…?」
「おいおい、絢ねぇはオレの頭に拳銃を突きつけたやつだぞ?」
「えぇ!?」
「…とまぁ、それは置いといてだな」
「いやいや、置かないでくださいよ」
「けど、今関係ないし」
「えぇー…」
〝気になるのに…〟と言いたげな顔に、誠司が笑った。
「悠人だよ」
「え…?」
「最初に言ったのは悠人だ。悠人に言われて、オレも親父も、あの兄貴もそれを実感した。弟にしか見せない素と、弟だからこそ見えた絢ねぇの素。それに気付いたお前は、見込みもあるし見る目もある。だからもっと自信持っていいと思うぞ、オレは」
「誠司さん…」
そんな嬉しい言葉に、和希はまた一段と元気がでてきたのだった──
次の日、仕事が終わった和希はこれまで通り誠司の店へと向かった。二日前はどういう顔をして会えばいいのか分からなかったというのに、今では一分でも早く絢音に会いたいと思ってしまう。自然と足早になっているのに気付き、和希はフッと笑ってしまった。
(早く着いても絢さんはいないのに…)
昨日、絢音が店に来なかったのは夜勤の〝入り〟だ。次の日の今日は夜勤の〝明け〟のため、店に来るのは二十時頃なのだ。
和希は、無駄にはやる気持ちを抑えるため立ち止まると、一度深呼吸してから再び歩き始めた。それでも足取りは軽やかだ。
準備中の札がかかる扉を開けると、ちょうどレジの向こうにママがいた。
「いらっしゃい、和くん」
「こんばんは」
「おー、お疲れー。いるぞ」
いつもの返事に足された言葉に〝なにが?〟と目で返した直後、誠司の体に隠れて見えなかった絢音がひょいと顔を出した。
「え、絢さん…!?」
「お疲れー」
変わらない笑顔で手を振る絢音に、和希の顔が驚きと共にパァっと輝く。
「え…早くないですか?」
「大好物の茶碗蒸しのためだ。昨日は食べられなかったからな」
誠司の説明に〝そうなんだ…〟と思うと同時に、
(茶碗蒸し、大好物なんだ…)
──と新たな情報を得て嬉しくなるのは、やはり好きな人の事だからだろう。和希は、自然とこぼれてくる笑みを見せながらいつもの席に向かった。──とその時だった。
「あらまぁ! 和くん、それどうしちゃったの!?」
驚いたように声を出したのはママだった。再び〝なにが?〟と思いながら、ママが指さす所を目で追って視線を移すと、ジャケットの左後ろが十センチほど斜めに破れていた。
「え! いつの間に!?」
「なに、どうしたの?」
絢音が体を傾け、誠司もカウンターから覗き込んだ。和希はその部分を二人に見せるようにジャケットの裾を引っ張る。
「おぉ、結構やったな」
「どこかで引っ掛けたのかしらねぇ…」
カウンター内から出てきたママも寄ってきて、破れた所を触りながら言った。
(…デジャヴ?)
そう思ったのは絢音だ。
(引っ掛けた…ねぇ…)
いまいち腑に落ちない感覚だが、それが何なのかは分からなかった。絢音が〝何だろうなぁ…〟と思いながら目の前の光景を眺めていると、不意にこちらを向いたママと目が合った。
「そうだわ。絢ちゃん、手伝ってくれない?」
「え、手伝ってって…まさか縫うの!?」
「もちろん。これ着て帰れないでしょう?」
「いや、あの…大丈夫です。今日はもう帰るだけだし、手で持って帰れば──」
「あら、ダメよ」
家に帰れば他のジャケットもあるし、そんな手間はかけられない…と断ろうとした和希だったが、そんな猶予も与えられずスパンと言葉を切られてしまった。
「夜は冷えるのよ? 着ないままで帰ったら風邪引いちゃうじゃない。ほら、脱いで、脱いで」
「や、でも──」
和希が躊躇うのも気にせずに、ママは後ろに回り込むと手際良く上着を脱がせてしまった。
「絢ちゃん、お願い」
「ママ…私、裁縫苦手なんだけど?」
「そんなの知ってるわよ。だから、縫うのは私。絢ちゃんはポテトサラダを作って欲しいの」
「ポテトサラダ?」
「そうよ。今日作ろうと思ってたから、代わりにお願い」
「なぁんだ、それなら任せて」
裁縫じゃなければ問題ないと、絢音は気持ちも楽に休憩室の方から店の奥へと入っていった。
「ママさんが裁縫で、絢さんがポテトサラダ…」
そんな光景が見られるのかと、和希はカウンター内を眺めながら椅子に座った。するとすぐに、店の奥から髪を後ろに纏めた絢音がエプロン姿で出てきた。腕をまくりながら手を洗う。そのいつもとは違う姿が新鮮で、和希の胸が少し高鳴った。
「ジャガイモはいくつ?」
「六個くらいね。卵はもう茹でてあるから」
「オッケー」
ママも一度休憩室の方へ行って戻ってくると、テーブル席のひとつに座り裁縫セットを開けた。針と糸を取り出し、少し目を離しながら糸を通す。そして破れた箇所を慣れた手つきで縫い始めた。
「思えば昔から器用だったんだよなぁ」
誠司がママの方を見ながら、和希の前にビールと枝豆を置いた。
「ワイシャツのボタンが取れても、ズボンの裾がほつれてきても全部自分で直してたし。結構、上手いぞ」
「そうなんですか…」
「あぁ」
和希はビールを飲みながら絢音の姿を目で追っていた。洗ったジャガイモをラップで包みレンジに入れると、加熱している間にニンジンを千切りにし始めた。トントントントンと一定のリズムの後に一泊休みが入り、また一定のリズムが繰り返されるそのリズムが妙に耳に心地良い。
和希は頬杖をつきながら、絢音の腕の動きや表情をぼんやりと眺めていた。すると人参を切り終えたのか、ふと包丁の音が止まった。
(次はキュウリかハムか…?)
そう思いながら、のほほんと見ていた和希だったが…。
絢音が手を洗って向かったのは店の奥。そして今度は左手の指に絆創膏を貼りながら戻ってきたから、一気にのほほん感が消えた。
「もしかして…絢さん、指切ったんですか?」
「あぁ、うん。切った」
「え…ノーリアクション?」
「何が?」
「いや…普通、指切ったらリアクションがあるじゃないですか」
「リアクション?」
「だから、〝あっ!〟とか〝痛っ!〟とか─…」
「あー、ない、ない」
「ないだろ」
同時に否定したのは、絢音と誠司。しかも、二人揃って〝なに言ってんの?〟と続けそうな口調まで同じだった。
「生まれて初めて指を切った子供じゃあるまいし、こんな事くらいでいちいちリアクションなんてしないって。──あ、でも裁縫の針で刺した時は別ね。あれは何度刺しても声が出る。どうしてだろ…」
最後は独り言だった。
「お前、ひょっとして…〝大丈夫? 見せてみろ〟とか言って指を咥えたりするシチュエーションを想像してんのか?」
「べ、別にそこまでは──」
「あんなの付き合いたての若いカップルか、ドラマや漫画だけの世界よ? 現実は〝あぁ、また切った…。治るまで面倒だなぁ〟って心の中で思うくらいね」
「──だな」
「まぁ…」
(確かに、現実では自分もそうだけど…)
それでも何かモヤモヤしてしまうのはなぜなのか。一人の時ならまだしも、周りに仲のいい人達がいる状況で〝あー、切った…〟という一言さえなかったことが気になるのか。それともずっと見ている自分が、その瞬間に気付けなかった事が嫌だったのか…。和希にはその理由が分からなかった。
「けどまぁ、この年になっても絢ねぇはしょっちゅう切ってるから、それもどうかと思うけどな」
「なに、こんなにも軽快な包丁の音を聞きながら、私が不器用とでも言いたいわけ?」
「いや、不器用っていうか─…衰え?」
「はぁ?」
「右手が軽快に動いても、左手がついていかないんだろ。ほら、アレと同じだ。若い時に運動してたやつが、中年になって同じように走れると思ったら、気持ちだけが先走って体がついてこないやつ。──で、結果派手に転んでケガするっていう──うぉわ! あっぶねぇ! 包丁握ったまま指差すなって!!」
「だったら、私の代わりに左手貸してくれる? それなら誰もケガしないわけだし?」
「いやいやいや…それ、オレの指がなくなるやつ──」
「大丈夫。衰えてない人ならちゃんと避けられるから。ほら、しっかり押さえて」
誠司の左手を掴み、強制的に食材の上に押し付けようとするその手の強さに、誠司は慌てて降参した。
「わ、分かった、分かったって! オレが悪かった! 絢ねぇは不器用でも衰えてもいない! オレでもケガするから、な!!」
必死になってそう言えば、ようやく絢音が手を離した。
「はぁーー、あっぶねぇ…。マジで、絢ねぇが武器を持ってる時に言うもんじゃねーな。──って、何笑ってんだよ」
「いえ…なんかやりとりが本当の姉弟みたいだなぁ…って。それに、絢さんが楽しそうだったので…」
「言っとくが、その〝楽しそう〟っていうのはいい意味でじゃなく、サイコパス系だからな」
「そうですか?」
誠司がカウンターから顔を出しこっそり言うと、〝ほら〟と日替わりのアジフライ定食を差し出した。それを受け取った和希が〝いただきます〟と手を合わせる。
「そんな風には見えなかったですけどね…」
「それはアレだ。〝あばたもエクボ〟ってやつだ」
そんな言葉に、和希はまた可笑しくて笑ってしまった。
「でも、絢さん慣れてますよね。何がどこにあるのか分かってる感じで─…」
「まぁ、昔よく手伝ってたからねー。その時からほとんど配置も変わってないし」
聞こえてきた言葉に絢音がキュウリを切りながら言えば、ジャケットを縫っていたママが〝そうそう〟と思い出したように手を止めて顔を上げた。
「懐かしいわねぇ。あれ、何年前かしら?」
「私が働き始めた時だから…んー…ちょうど二十年前?」
「あら、もうそんなになる? 早いわねぇ…」
「──って事は、仕事をして更にこの店も手伝ってたって事ですか?」
「そっ」
「昼も夜もって…大変だったんじゃないですか?」
「若いからできた事よ。それに──」
言いかけたところで電子レンジが鳴った。絢音は誠司にジャガイモの皮剥きを頼むと、千切りにしたキュウリと人参に多めの塩を振りかけて塩揉みした。そしてハムを切りながら続けた。
「それに、何でもするって言ったのは私だしね。──あ、本来〝何でもする〟って言うのは禁句だからね」
言う相手にもよるだろうが、簡単に言ったらダメだと付け足したのは、〝地獄へのフラグ〟を思い出したからだろう。
「何でもする…って?」
オウム返しに聞き返すと、今度はママが話し始めた。
「あの時は不景気でね、倒産する会社がたくさんあったのよ。この辺も店をたたむ人が増えて、それはこの店も同じだった。お客さんは減っていくし、毎月の赤字はどんどん増えていく…。さすがにもうダメかもしれない…って言ったら、絢ちゃん、泣き出しちゃって…」
「え、うそ…そうだっけ?」
「そうよぉ。泣きながら〝帰る場所をなくさないで欲しい〟って…」
「あー…確かに、それは言ったわ」
「帰る場所って事は、それくらいここに来てたって事ですか?」
和希がどちらにでもなく聞いた。答えたのはジャガイモを潰し始めた絢音だった。
「学生の頃からよ。夕飯も食べさせてもらったし、働くようになってからもずっと…。私たちにとっては〝もうひとつの家〟って感じだったのよね。だからどうしても続けてほしくて、〝何でもするから潰さないで〟って頼んだの」
「それで店の手伝いを…?」
絢音が、調味料や全ての材料を混ぜ合わせながら頷いた。
「お店の手伝いや、お客さんの話し相手とかね。でもそれが結構楽しかったんだよねー」
「そうそう」
再びママが同意した。
「お客さんも絢ちゃんと話すのが楽しいって言って…それから少しずつお客さんも入るようになったのよね。あの時に来てくれたお客さんのほとんどが、今でも絢ちゃん会いたさに来てくれるし、常連客のほとんどはその頃の人たちよ」
「そうだったんですか…」
「だから、今のこの店があるのは絢ちゃんのおかげなの」
「やめてよ、ママ。大袈裟だってば。──ってか、本当はちょっと反省したのよ。経営の大変さも知らないで、あんなわがまま言っちゃってさ…」
「そんな事ないわ。あの時、絢ちゃんに〝帰る場所をなくさないで欲しい〟って言われて、すごく嬉しかったんだから。〝帰る場所〟って思ってくれてるんだ…って。だから頑張れた。頑張ろうって思えたの。わがままだって、もっと言っていいんだからね」
「んふふ…ありがと、ママ」
「なんかいい話ですね」
ちょうどご飯を食べ終えた和希が、最後のビールを飲み干してから言った。
「いい話だが、この話にはまだ続きがある」
誠司が意味ありげに言った。当然、和希は気になった。
「何ですか、続きって?」
「この店だ」
「………?」
「オレが高校の時に、たまたま作った厚焼き玉子を食った絢ねぇが〝めちゃくちゃ美味しい!〟って褒めてな。それ以来、厚焼き玉子をリクエストされて、そこからオムレツ、オムライス、親子丼、天丼、カレー、パスタ…まー、さまざまな料理を作らされた。絢ねぇも食うたびに〝美味しい! 天才!〟とか褒めるから、オレも調子に乗ってさ、気付いたらこれだ」
「これって…喫茶店…?」
「そっ。親父の店は夕方からだろ? 昼間に閉めてるのはもったいない、料理も上手いから喫茶店でも開けって言われて。思えば、あの不景気の時期がキッカケで、こうなるように仕向けられてたんだな」
「仕向けられた…って失礼ね。料理が美味しかったのは事実だし、その才能を活かす環境が目の前にあったから勧めただけよ。──なに、不満なの?」
「別に不満じゃないけど──」
「じゃ、結果オーライね。──はい、できたわよ。ポテトサラダ」
「お、おぉ…」
誠司が絢音からポテトサラダを受け取った時、ちょうど常連客の二人が入ってきた。一人は商店街の刃物屋の店主、安治。みんなからはヤスさんと呼ばれている。そしてもう一人はヤスさんの釣り仲間で銀行員の義正。こちらはヨシさんと呼ばれている。
「おぉっ!? 懐かしい光景!」
カウンター内にいる絢音を目にして安治が驚いたように言うと、それに義正が続いた。
「絢ちゃんがそこにいるって…何年ぶりだ?」
「二十年よ、二十年」
絢音はピースサインのように、手で〝二〟を作った。
「二十年!? もうそんなに経つのか…」
「早いな…」
「それ、私もさっき言ったのよ」
安治と義正の言葉にママが続いた。二人が声のした方に視線を向けると、テーブル席の方からジャケットを持ったママが現れた。
「はい、和くん。できたわよ」
「あ、ありがとうございます」
ジャケットを受け取った和希が破れた個所を確認する。
「おー、すごい! あまり目立たないくらい綺麗ですね」
「でしょ~。──じゃぁ、私は?」
「え…?」
一瞬、何のことを言っているのか分からなかったが、指を頬に押し当てた仕草で察した。
「あ、あぁ…はい、ママさんも綺麗です」
「ふふふ、ありがと~」
その言葉に、ママがにっこりと笑った。
「いやいや…さすがに二十年の経過は大きいだろ、ママ」
「そうそう。二十年前ならまだしも─…ん、まだ?」
〝まだしも〟と言いかけたものの〝二十年前なら本当にマシだったのか?〟という疑問がつい口に出てしまい、慌ててハッと口を閉じたのは義正だった。
ママはにっこりと微笑むその表情一つ変えず、絢音に言った。
「絢ちゃん、二人にはそのポテトサラダ出さなくていいから」
「そう? 出来立てで美味しいのに、ざんねーん…」
絢音がわざとそう言って出来立てのポテトサラダを二人に見せると、お互いに顔を見合わせた。
「もしかしてそれ──」
「絢ちゃんが作ったの!?」
息もぴったり、安治と義正の順に振り返りそう言った。
「そう。今日はママの代わりに私がねー」
絢音の言葉に、二人はバッとママの方に向き直った。
「あ、いや…ママ─…ママは二十年前と変わらず今も綺麗だよ。なぁ、ヨシさん?」
「そうそう。むしろ、今の方がずっと綺麗だ。なぁ、ヤスさん?」
「そう! 時間の流れに逆らう奇跡じゃないかな、これは」
「おぉ、それだ! 〝二十年、変わらぬ美貌はノーベル賞〟」
「いいね! 今度の川柳はそれでいこう! な、だからその…ママ─…」
必死で持ち上げ、何とか許して欲しいとママに訴えれば…。
「しょうがないわねぇ。──絢ちゃん、出してあげて」
──と何とか機嫌を直してもらえたようだ。
「──ったく、二人も二人なら親父も親父だな」
カウンター内から見ていた誠司が呆れるように言った。
「何とでも言え。二十年振りなんだぞ、絢ちゃんのポテトサラダ。誰だってこうなるさ」
安治が開き直ったように言えば、義正も続いた。
「賭けスピードで賭けても、いつも負かされるしなー」
「そうそう。ちょっとくらい負けてくれても、なぁ?」
「ダーメ。それじゃぁ、賭けスピードの意味がないでしょー?」
「「賭けスピードの意味?」」
初めて聞いた、と二人がハモった。
「そうよ。賭けスピードの目的は脳の老化防止なんだから」
「ろ、老化防止─…」
「ハハ…それは手が抜けない…か」
絢音の職業を知っているからこそ、そう言われたらしょうがない。
(ま、後付けだけどね)
二人が納得するのを見ながら、絢音は心の中でそう付け足した。
「はい、ヤスさん、マサさん。どうぞ、召し上がれー」
絢音は小鉢にポテトサラダを盛り付けると、箸と一緒にカウンターに置いた。二人は〝おぉ!〟と感嘆の声をあげると、それを持っていつものテーブル席に移動する。もちろん、ママにお酒の注文をするのも忘れなかった。
「そんなにレアなんですか、絢さんのポテトサラダ…?」
二人がテーブル席に移動したのを見計らって、和希が誠司に尋ねた。
「まぁ、店を手伝ってた時しか作ってないからな。レアってのもあるけど、一番はやっぱり味だ。ウマいんだよ、絢ねぇのポテトサラダは。懐かしさもあるけど、みんなまた食いたいって思ってんだろうな。──それより、お前はどうなんだ? 食いたくないのか?」
「も、もちろん食べたいです! 絢さんが作るものなら何でも──」
味がどうのこうのというよりは、ただただ絢音が作るものなら──という思いが強くてそう言えば、
「はい、どーぞー」
──と、いつの間にカウンターから出てきたのか、絢音がポテトサラダの入った小鉢を目の前に置いて、隣の席に座った。エプロンははずしているが、纏めた髪はそのままだった。
「ほら、食べてみて」
「あ、はい…いただきます」
絢音がカウンターに肘を乗せ、和希がポテトサラダを口に入れるのを見守った。二噛みほどして〝ん!〟と目が大きくなると、絢音の顔にも自然と笑みが浮かぶ。
「美味しいです!」
「ほんと? 良かったー」
「ママさんのポテトサラダも美味しいですけど、絢さんのはまたちょっと違いますよね? なにが違うんだろ…」
「基本的には同じよ。ただ塩加減と調味料がひとつ多いだけ」
「調味料?」
「そう」
〝何か分かる?〟と目で聞かれたが、和希は口の中に神経を集中させたもののいまいち分からなかった。
「食べた事がある味はするんですけど…」
その言葉に絢音がクスッと笑うと、みんなに聞こえないよう和希に顔を近付け囁いた。
「コンソメ」
内緒話の声と耳にかかりそうな息が、胸の音を大きくさせた。絢音の顔が近付いた側の耳や頬が、一瞬でカーッと熱くなる。和希はそれを必死で隠そうと、〝あー、なるほど!〟と言いながら左手を当てた。
(ふ、不意打ちヤバッ…! ってか、なにこれ、計算!?)
思わず絢音の顔を見たが、当の本人は至って普通だった。
(無意…識…? だとしたらヤバいですって、絢さん…!)
「これ、誠司くんとママ以外は知らないから。内緒ねー」
「は、はい。誰にも言いません…」
和希の返事に絢音は〝よろしい〟と頷いた。
「ち…ちなみに、他にはどんなものを作ってたんですか?」
胸のドキドキが収まらないのを何とか落ち着かせようと、和希が話を続けた。
「んー…簡単なものよ。オクラを刻んだやつとか、豆腐とザーサイのピリ辛和えとか──」
「あー ! あの豆腐、美味しかったです!」
和希は、初めて絢音が作っていった一品料理を食べた時の事を思い出して言った。
「まぁ、酒の肴だよな。オクラはすだちが効いてて美味かったし」
「でもお酒が飲めない人には難しくないですか、お酒に合うものを作るって…?」
「簡単よ。基本、濃いめの味にすれば大体みんな美味しいって言うから」
「ほんとに簡単だな…」
「じゃなきゃ、続かないって。でもちゃんと、シラフでも美味しいって思うものを考えてたし、探したわよ」
「ま、確かに。〝簡単〟限定だったな」
「それが一番大事。だから普通の料理とスイーツは誠司くんに任せてんの」
「だよ──」
「スイーツ?」
〝だよなー〟と言おうとしたところを、和希の声が遮った。
「誠司さん、スイーツも作るんですか?」
「あ、あぁ。ま、簡単なものだけど」
「た、たとえば…?」
「よく作るのはパイだ」
「パイ…!」
「アップルパイとかブルーベリーとクリームチーズのパイとか、イチゴのパイとか──」
「なに、甘いもの好きなの、和くん?」
どれも美味しそうと目を輝かせる和希に、絢音が聞いた。
「はい! スイーツ大好きなんです」
「お酒飲むのに珍しいんじゃない? 甘いのが好きって」
「そうですか? 僕の周りは結構いますよ、お酒も甘いものも好きだって言う人」
「へぇ〜」
「確かにそういう人は増えてるかもな。昔に比べて、苦いからビールが嫌いだっていう人もいるし、今は男も普通にパフェ頼んだりするぞ?」
「へぇ…そうなんだ」
「絢さんは? 甘いの苦手ですか?」
「まさか。大好きよー。だからいつも交換条件で作ってもらってんの」
「交換条件?」
「絢ねぇがジャムを作る代わりに、オレがそのジャムを使ってパイを焼くっていう交換条件」
「え…絢さんがジャムを作るんですか!?」
「イチゴとリンゴとブルーベリー限定だけど。──意外?」
「いや、だって…スイーツは誠司さんに任せるって言ったから──」
「あぁ、それね。量らなければまだいいのよ」
「え…は、量らなければ…?」
「時間とか量だ。絢ねぇは面倒くさがり屋だからな、時間とか分量とか量らないとできないものは、はなから手を出さない。全部、オレ任せだ」
「お菓子作りなんて、その典型的なものでしょー。少し分量が違ったら生地が膨らまないとかさ、細かすぎんのよ。しかも最後まで作ってみないと分からないって……なにそれ、ギャンブルなの? ──って感じじゃない?」
「ギャンブル…」
これまた意外な例えに、和希は思わず吹き出しそうになった。
「その点、ジャムは目分量でできるからいいのよ」
「でも砂糖の量って──」
「書いてある通りに入れたら甘すぎるって」
「絢ねぇが作るジャムは甘さ控えめなんだ。砂糖が少ない分保存に向かないから、店では出せないんだけどな。常連の客とかは自宅用で絢ねぇに作ってもらったり、それでオレがパイを作ってみんなで食ったり…ってしてるんだ」
「そうなんですか…」
「──そういや、今朝解凍したやつがあるから味見してみるか?」
「ジャムですか?」
「イチゴのな」
「はい、ぜひ!」
「じゃぁ、ちょっと待ってろ」
誠司はそう言うと店の奥に消えていった。すぐに戻ってくるかと思いきや、時間的にどうやら二階の住居の方に行っていたようだ。それが本当に〝自宅用〟なんだと感じられた。
「ほら、食ってみな」
戻ってきた誠司が小分けしたタッパーとスプーンを和希に渡した。
「はい。じゃぁ…」
心の中で〝いただきます〟と言ってからスプーンですくうと、市販のジャムよりずっと柔らかく、イチゴの粒も大きく残っていた。粒以外のところは、ジャムというよりシロップに近い感じだ。
和希はイチゴの粒をそのまますくいあげ、口に入れた。途端に広がるイチゴの甘味と酸味。砂糖の甘さは薄く、イチゴ感が存分に感じられた。
「んん! イチゴです!!」
「そりゃそうだ。それがリンゴだったらえらい事だからな」
「いや、そうじゃなくて──」
「ハハハ、分かってるって。イチゴな。砂糖の甘さがくるジャムじゃなくて、イチゴを食ってるって感じのジャムな」
「そう! それです!! すごく美味しいです、これ!」
「ふふ…ありがとー」
「みんなこの味にハマるんだよなぁ。だから時期が来ると、絢ねぇに〝作ってくれー〟ってイチゴとかリンゴを持ってくるんだ」
「いいですね。僕も作ってもらいたいです…」
「いいよー、作ってあげる。材料さえ持ってきてくれればね」
「ほんとですか!?」
「その代わり、作ったジャムは少し分けてもらうけど」
「もちろん! 半分でもいいですよ!」
「じゃぁ、その時期になったら商店街の果物屋に行ってみろ。果物の〝苺〟と四字熟語の〝一期一会〟を掛けた〝苺一会〟っていう店なら、ジャム用の苺やリンゴを仕入れてるから。そこの奥さんも、この絢ねぇが作るジャムを気に入ってるから、大量にあるはずだ」
「分かりました。絶対に買ってきます!」
それはもう買い占めそうな勢いだな、と絢音と誠司は思わず顔を見合わせ笑ってしまった──