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13 一日デート <2>

 九時半から開場予定で、着いたのは九時十分だった。

「じゃぁ、僕はチケットを発券しに行ってくるので、絢さんはここで──」

「私はあれに並んでおく」

 そう言って指差したのは、フード&ドリンクのコーナーだった。

「分かりました。発券したら僕もそっちに行きます」

「オッケー」

 二手に分かれて絢音が列に並び始めて数分後、不意に後ろから声をかけられた。振り向くと、声は列の外からだった。そこにいたのは──

「あー、木村さん!」

 四十代前半の男性で、絢音と同じ病院で働く検査技師だ。

「やっぱり、早瀬さんだ。──映画?」

「そう」

「珍しい。普段どこにも出かけないって言ってた人が─…しかも朝からって」

「まぁ、ちょっと面白そうな映画があったからね」

「面白そうって事は、もしかして〝あなたはきっと騙される〟っていう──」

「そう、それ!」

「やっぱり。それ、オレも気になって観にきたんだ」

「そうなんだ。──って事はもしかして九時半からの?」

「え? あー…うん、そう。あ、もし良かったら一緒に──」

「絢さん…!」

 見た限り知り合いのようで話が終わるまで待っていようとしたが、〝もし良かったら…〟という言葉が出た時点で反射的に割って入っていた。しかも、〝九時半からの?〟と聞かれた時の反応が、明らかに〝話を合わせた〟ものだったからだ。和希は列に並んでいる絢音の横に移動した。

「これ、チケットです」

「あー、ありがとう」

 絢音がチケットを受け取った。

「えっと、もしかして─…親戚の──」

 〝絢さん〟と名前で読んだ時点で〝弟〟の線は消え、だとしたら…と思ったのが〝親戚〟だった。

「あぁ…違う、違う」

 絢音が手を振った。

「彼は──」

「初めまして、川上です。今、絢さんとお付き合いさせていただいてます」

「え!?」

「ちょ…和くん──」

 そう言いかけた所で、和希が耳元で囁いた。

「今日一日は恋人同士、ですよね?」

「…………!」

(そうだけど─…え、その設定ってこの状況から貫くってこと…?)

 単純に二人で出かける…くらいにしか考えてなかった絢音は、まさか第三者の前で〝恋人のふり〟をするとは思っていなかったのだ。

「彼氏、いたんだ…?」

「え? あ、あー…うん、まぁ…」

「そうなんだ…。前に、誰とも付き合う気はないって言ってたから、ちょっと驚いた…」

「そ、そうだよね。あ、でも他の人には黙ってて─…」

「分かった。──じゃぁ、また病院で」

「うん」

 〝またね〟と手を上げると、木村は早々に去っていった。

「まさか〝付き合ってる〟って言うとはねー…」

「すみません、なんか思わず…」

 本当に〝思わず〟だったが、それは元彼の時も同じで─…その感情に自分でも驚いていた。

(僕は、自分が思ってる以上に絢さんを独り占めしたいみたいだ…)

 今まで付き合った人はいたが、自分が思っている以上に〝独り占めしたい〟という感情はなかった。そんな戸惑いが絢音には反省しているように見えたのか、〝しょうがないなぁ…〟と小さく笑った。

「まぁ、いいけどねー」

 列を進みながらそう言ったところで、絢音は〝あれ?〟と疑問に思った。

「そういえばあの人、九時半から同じ映画観るって言ってたのに─…」

「あぁ…それ、嘘だと思いますよ」

「え、嘘…?」

 和希が頷いた。

「映画を観にきたのと、絢さんに偶然会ったのは本当だと思います。でも観ようとしていた映画は違うものだと思います」

「なんでそう思うの?」

「なんでって─…」

(逆になんで分からないんですか…?)

 明らかに、絢音に対して好意を持っている態度だったのに─…と思ったが、それは言うのをやめた。

「絢さんの言葉でいうところの─…〝観察眼〟って事ですかね?」

「観察眼…。んー…私の目も曇ってきたのかな…?」

 〝全然、分からなかった〟と木村とのやりとりを振り返る絢音に、和希は〝いや、違う〟と思った。

(曇ってるんじゃなくて、フィルターを掛けているからだ…)

 誠司が言っていた〝恋愛も結婚もしない人生〟というフィルターで、自分に対して向けられる好意が見えなくなっているのだ、と。

(だから、みんなにはバレるような僕の好意でさえ、絢さんは気付かないんだ…)

 和希はこの時、ようやくそれが分かった気がした。

 自分たちの番が来て、絢音と和希はポップコーンのキャラメル味とコーラを二つ頼んだ。注文した品を受け取り、そこからエスカレーターで二階に上がる。上映場所は九番の会場で、その数字を目で追いながら会場に入り指定席に座った。照明が落ちると、鑑賞時の注意動画と他の映画の宣伝が十分程続いた。そこから更に照明が落ちたあと、本編が始まった。テレビのCM通りテンポよく話が進み、コメディに定評のある俳優の演技が光っていた。会場からは何度も笑い声が聞こえ、絢音と和希も、コーラやポップコーンを食べる手が何度も止まった。それが一時間ほどした時から様子が変わってきた。笑い声が徐々にしなくなり、コーラやポップコーンを食べる手が完璧に止まってしまったのだ。最後の三十分は笑いなど一切なく、代わりに観客の鼻を啜る音だけが聞こえてきた。それはテレビのCMだけで泣いてしまう絢音も同じで、途中からハンカチを出して涙を拭いていた。

 エンドロールが流れると大抵の人はすぐに会場を出ていくが、そこにいた人は照明が点くまで席に座っていた。もちろん、絢音たちもだ。エンドロールが終わるまでになんとか涙は止まったが、絢音は〝最後に会場を出たい〟と言った。通路を降りていく人がいなくなり、和希が改めて後ろを確認する。

「僕たちが最後です」

 和希がそう言うと、絢音は〝分かった〟と立ち上がった。通路を降り、会場から出るまで二人は無言だった。映画の余韻がすごいのだ。

 会場を出ると、軽く左右を見た絢音は右手の方に歩き出した。同時に左に歩き出した和希が〝え?〟と振り返る。

「ちょ…絢さん、どこに行くんですか?」

 言われて絢音も後ろを振り返る。

「どこって、出口だけど?」

 当然のように答えたのだが…。

「出口はこっちですよ?」

 和希が左を指さした。

「うそ、だってこっちから入ってきたんじゃ──」

 真っ赤な目をして、出口とは正反対の方向を指差す絢音。しかも本気でそう思っている顔だ。和希はふと花屋の場所を聞かれた日の事を思い出した。

(本当に方向音痴だったんだ…)

 それを目の当たりにして、和希は更に絢音が可愛く思えた。

「こっちです」

 和希はニッコリと笑って絢音の手を引っ張ると、そのまま出口へと向かった。それでもすぐには納得できず、〝いやいや、そっちは奥に行っちゃうって…〟と聞こえてくる。

(いやいや…はこっちのセリフですよ。なんでそんなに可愛いんですか、絢さん…!)

 方向音痴という、いつものしっかりしている絢音とは違う姿に胸の中がくすぐったくなる。

「それにしても、裏切られたわ…」

 ふと絢音の足が止まり、つられて和希の足も止まった。振り返ると、通路に飾られた映画のポスターを見ていた。さっき見終わった映画だ。

「あの予告でこんなの想像できる?」

「…できないですね。でもまぁ、嘘はついてなかったですね」

 ポスターに書かれたメッセージを見て、和希が言った。それはCMで二人が惹かれた文言だ。

「ほんっと、騙された…。コメディで楽しいものだと思っていたのに、すっごい感動作だったなんて…」

「まだ目が真っ赤ですよ?」

「だから嫌なのよ。年取ると涙腺壊れるし、一度泣いたら目の赤みが引くのも時間がかかるから──」

「でも、可愛いです」

 思わず、だけど素直にそう言うと、絢音は僅かに意表を突かれたような顔をしたあと、少しムッとした。

「あー、もう、そういうのいいから。とにかく、人込みを避けるわよ?」

「分かりました」

 ムッとした表情も可愛いと思えるのは、照れ隠しだと分かったからだ。

 絢音は和希に手を引っ張られながら、その背中に隠れるようにして出口へ向かった。

(なに照れてんだか…。和くんは癒しなのに、なんで胸が痛くなるかなぁ──…って、本当に出口ってこっちだったんだ…)

 見覚えのない通路を曲がった途端出口が見えて、絢音は頭の中にあった地図が百八十度回転した──


 車に戻ると、昼食は何を食べようかという話になった。

「絢さんは何が食べたいですか?」

「んー…何だろ…」

 悩む絢音に、和希は〝もしかして…〟と思った。

「お腹、空いてないですね?」

「ぶっちゃけ、そう。──和くんは?」

「僕も食べれなくはないですけど、そんなに…って感じですね」

「だよねー。やっぱり炭酸じゃなくてお茶にしとけば良かったかな」

「少し遅らせますか?」

「…の方がいいと思う」

「じゃぁ、このまま水族館に行って──」

 〝その後に…〟と続けようとした時、絢音が〝あ…〟と思い出した。

「そういえばさ、あそこの水族館って館内にレストランがなかった?」

「レストラン──…」

 繰り返しながら頭の中で館内の地図を開く。ややあって、和希も絢音と同じような顔をした。

「ありましたね、確か一番上の階に─…」

「そう、それ! そこで食べない?」

「いいですね! じゃぁ、お昼はそこで、ってことで─…今から水族館に向かいます」

「はーい」

 絢音の返事で、和希は車を発進させた。

 道中の車内では、さっき観た映画の話で盛り上がった。誰と誰の掛け合いが面白かったとか、あの時の顔がすごかったとか、言葉のチョイスがツボだったとか──…。だけど結局、〝まさかあんな風に騙されるとは…〟という驚きに全て持っていかれた。

 水族館に着くと──当たり前だが──同じ売り場でチケットを買った。ただ和希にとっては大きな違いがある。あの時は一人分のチケットだったが、今日は二人分なのだ。それも隣には絢音がいる。それだけで、同じ景色とは思えないほど輝いて見えた。

 入ってすぐの巨大水槽にはマイワシの大群やサメ、エイ、ハゼ、クエなど、様々な魚が泳いでいた。サメがマイワシの横を通ると、風でシルクの布がなびくように形を変える。その度に、上から照らされたライトがマイワシの体に当たってキラキラと光った。

「なんかさ…イワシってあれに似てない?」

「あれ、とは?」

「昔のキラキラした看板─…知らない?」

 〝キラキラ〟が想像できなくて、和希は首を傾げた。いつの時代も、電飾でキラキラした看板はあるからだ。

「これくらいの丸いプラスチックの板で─…」

 絢音はそう言って親指と人差し指をくっつけて〝マル〟の形を作った。

「その板がキラキラしてんのよ。艶があるっていうのか、反射板みたいな素材が貼ってあるのか知らないけど。いろんな色があってさ、それを看板の文字とか背景の色に当てはめて大量に引っ掛けるの。今でいう、〝ドット絵〟みたいなものね。その看板に風が当たると、キラキラ輝いて人の目を惹くってやつで─…電気もいらない、ある意味、今の時代にぴったりな看板。あ、携帯で調べれば──」

「あぁー、いいです。大丈夫です、分かります」

 絢音の説明でなんとなく思い浮かんだというのもあるが、分からなかったとしても、携帯で調べることはしたくなかった。せっかくこうして一緒に過ごしているのに、携帯をいじって時間が過ぎていくのはもったいない。それよりも、分からない事を分かるまで話す方がずっと楽しいのだ。

「イワシを見て思い浮かぶのが看板って─…なかなかないですよ?」

 和希が小さく笑った。

「そう?」

「普通は〝綺麗〜〟とか〝すごい〟って思うくらいだと思いますけど」

「それはつまり、あの看板も同じくらい綺麗だったって事でしょ」

 その返答に、和希はまた笑ってしまった。

「なに、そんなにおかしい?」

「おかしいんじゃなくて、楽しいんです」

「ほんとに?」

「本当です」

「…ならいいけど」

「ちなみに、前回もその話ってしたんですか?」

 少し気になって聞いた。

「まさか。あの時は〝綺麗〜〟とか〝すごい〜〟とか言ってただけよ。心の中では〝誠司くんに塩焼きにしてもらいたい〟とか〝刺身でもいいな〟って思ってたけど。〝網でもすくえそう〟とかねー」

 それを聞いて、和希はなんだかすごく嬉しい気持ちになった。

「多分、網では無理だと思いますよ」

「うそ、なんで?」

「網ですくえるなら、サメに食べられてます」

「あー…それもそうか。残念…」

 まるですくおうとしていたかのような〝残念〟の言葉に、和希はまた笑った。

 ウミガメのエリアではアオウミガメ、アカウミガメ、そしてその子ガメたちがいた。絢音は泳いでるカメを見ながら、独り言のように呟いた。

「カメって進化しないなー」

 当然、和希が聞き返す。

「進化しないって…?」

「鶴は千年、亀は万年っていうじゃない?」

「言いますね。それが…?」

「別に本当に万年生きるわけじゃないけどさ、長く生きてきたのに、欠点が進化してないと思うんだよね」

「欠点…」

「あの甲羅の形、もしくは手足の長さよ。ひっくり返って起きれなかったら死ぬんだよ? 何それって感じじゃない? 死因が〝ひっくり返って起きれなかったから〟とか、自分が亀だったら絶対嫌なんだけど?」

 その説明に和希は思わず吹き出した。

「また笑った…」

「だって─…まさかそこを〝進化しない〟って見るとは思わないので──」

「でも死ぬんだよ? 生死に関わることって、普通、進化するでしょ?」

「まぁ、そうですよね。でも進化しないってことは、進化が必要なほどの〝死亡率〟じゃないってことじゃないですか?」

「死亡率…」

「甲羅が硬いのは身を守るのに必要だからだし─…それに、海で泳ぐウミガメはひっくり返ることってそんなにないと思いますよ?」

「そう言われるとそうか…。──じゃぁ、リクガメは?」

「リクガメ…?」

「甲羅が高くて、ひっくり返ったら絶対起きられないでしょ…っていうようなのがいるじゃない?」

「あー、いますね」

「あれがひっくり返ったらどうなる?」

「仲間が助けていたのは、動画で見たことありますけど─…」

「仲間…」

「ひっくり返ったら危険だっていうのは、カメも分かってるって事ですね」

「なるほど。助け合い精神が進化したのか…」

「〝進化した〟ってどうやって分かるんですか?」

「んー…なんとなく?」

「なんとなく─…」

 それ以上なんて言えばいいのか分からなくなったが、ふと梅雨時期の洗濯物の話を思い出した。

「ぶっちゃけ、どうでもいいって事ですね?」

 そう言うと、絢音は〝ふふ〟と笑っただけだった。それは〝正解〟という意味だ。

 次に行ったのはホッキョクグマがいる所だった。

「ホッキョクグマの毛って、実は白じゃないって知ってました?」

「え、そうなの?」

「実は半透明で、中はストローみたいに空洞になってるんです」

「空洞!? あの細い毛一本の中が!?」

 和希が頷いた。

「しかも、地肌は黒です」

「黒!? え、地肌が黒で毛が半透明なのに、どうして白に見えるの?」

「半透明の毛を通過した光が黒い地肌で反射して、その反射と太陽光が空洞で乱反射して白に見えるみたいです」

「えー、なにそれ…。つまり錯覚って事?」

「…ですね。それに毛を通過した太陽光が地肌を温めて、更に毛の中が空洞なので熱を逃がしにくくなっているんです。中が空洞だから軽いし、濡れても乾きやすいっていう特徴があるみたいですよ」

「羨ましい…。人間の髪の毛もそうなったらいいのに」

「え…?」

「頭洗った後、乾かすの面倒なんだよねー」

「そっちですか…!」

「だって、すぐ乾くじゃない?」

「まぁ、そうですけど─…」

「でもさ、ホッキョクグマもパンダも得してると思うんだよね」

「得…?」

「そう。可愛いって言われるけど、クマよ? ツキノワグマとかヒグマとかと同じ、クマ科よ? パンダなんか垂れ目に見えるあの柄だから可愛く見えるけど、あれが逆だったら絶対に人気なんか出ないでしょ」

 言われて目の周りの柄を逆さにしたのを想像したら…。

「出ない…絶対に出ないですね…!」

 想像するのは難しかったが、頭に浮かんだ途端、あり得ないと笑ってしまった。

「もう─…どうしてそんな事を思い付くんですか、絢さん…! これからそういう風にしか見れないじゃないですか…」

「いいじゃない。楽しいでしょ、見方が変わるって。ホッキョクグマだって同じよ。全身黒かったら、絶対〝可愛い~〟って言ってもらえないからね。しかも地肌が黒って─…可愛いって見せかけた腹黒か? …ってツッコミたくなるわ」

「腹黒っ…!」

「あとラッコ。あれも可愛いけど、貝を叩き割ってる時のあの強さ知ってる? 極悪非道よ? 石の上で──」

「もういいです、もうやめましょうって─…」

 絢音の話に笑いが止まらなくなってきた和希は、とにかく次の場所に行って話題を変えようと絢音の手を引っ張った。

 次のエリアはクラゲの展示室だった。大きな水槽に水クラゲが大量に泳いでいて、離れたところから見ると白い花びらでも舞っているかのようだ。少し近付いて透けた体がところ狭しと浮遊する情景は、白いレースが揺れているようにも見えてくる。

「こういう白いスケルトンって、青い色に映えるよね…」

「綺麗ですよね」

「うん…」

 水の中をフワフワと泳ぐ姿を見ていると、時間がゆったりと流れているように感じる。二人は自然と無言になって、浮遊するクラゲを眺めていた。それからしばらくして、絢音がふっと笑った。

「どうしたんですか?」

「んー、なんていうのかな…。でも、クラゲなんだよなー…と思って」

「……? …まぁ、そうですね。クラゲですけど─…」

 〝それのどこがおかしいのか〟という目を向ける和希に、再び同じ言葉を繰り返した。

「クラゲなんだよ?」

「…ですね」

「綺麗だな…って見惚れてるんだよ?」

「はい─…え、だって綺麗ですよね?」

「そうなんだけど─…海水浴に行ってクラゲがいたら〝綺麗だなぁ〟って見惚れる?」

「いやいや、それはさすがに─…。むしろ逃げます」

「でしょー。こんなに大量にいたら大パニックよ? どっちかって言ったら嫌われ者なのにさ、こういうのを見たら〝綺麗〜〟とか言うんだから、自分も含めて人間って勝手だなーと思ってさ」

「なるほど、そういう─…また、絢さんらしい視点ですね」

 和希は小さく笑った。

「でも、もっと若い子なら素直に感動して可愛げもあるんだろうけどね」

「どういう事ですか…?」

「変なこと考えずにさ、〝綺麗〜〟とか〝すごーい〟とか〝幻想的…〟って感動してる子と一緒の方が楽しいだろうな、って事。私は余計なこと考えちゃうから──」

「楽しいですよ、僕は」

 絢音から〝自分ではなく他の人だったら〟という言葉が出てきたのと、〝素直に感動できない自分〟を責めているように見えて、思わず絢音の言葉を遮った。

「前にも言いましたけど─…絢さんが見ている視点は、僕にとって新鮮ですごく楽しいんです。素直に感動するのもいいですけど、〝綺麗〟とか〝すごい〟ってだけで終わる会話より、絢さんと一緒の方がもっとたくさんの会話ができるし、考えてる事とか思っている事が知れて嬉しいんです」

「あー…そうなの…ね」

 あまりにも真剣で想定外とも言える反応に、絢音は少し戸惑ってしまった。

「だから他の人だったら…とか言わないでください。僕は、絢さんとデートしてるんですから」

「あー…うん、そうだよね。ごめん、分かった…」

 単純に、素直に感動できる人なら…と思っただけだったが、仮にもデート中に言う事じゃなかったのだと少し反省した。そんな絢音に和希はスッと手を差し出した。

「………?」

「デートらしく、ここから先は僕と手を繋いでください」

 そう言って和希は優しく微笑んだ。その笑みが、不思議なくらい絢音の心を温かくする。

「…分かった」

 和希の笑みにつられて絢音も微笑むと、その手に自分の手を重ねた。その時初めて、絢音は〝手を繋いでいる〟と実感した。映画館を出て出口と反対の方向に行こうとした時も、ウミガメのエリアから和希が手を引いて連れ出した時も、〝こっち、こっち〟と手招きされただけの感覚だった。それが初めて手に神経が集中して、和希の手の大きさや形や温度を感じたのだ。その変化に気付いた和希は嬉しくなって、更に絢音の手をキュッと握った。

「じゃぁ、行きましょう」

 そう言って向かったのはペンギンのエリア。そこにはコウテイペンギン、イワトビペンギン、フンボルトペンギンなどがいた。

「絢さんは、どのペンギンが好きとかありますか?」

 ガラス越しにペンギンを見ながら和希が言った。

「私は断然、イワトビペンギン」

「どうしてですか?」

「CMの影響…かな?」

「CM…?」

「そう。男性の整髪料のCMでさ、イワトビペンギンが使われたやつがあったんだよね。そのCMが面白くて…しばらく歌ってた」

「歌ってた!?」

「思いっきり企業の策略にハマってるよね。ちょっと楽しい事があると鼻歌歌ってんだから、無料で周りに宣伝してるようなもんでしょ?」

 その言い方に和希が笑った。

「確かにそうですね」

「あのヤンキー感がいいっていうのかな─…他のペンギンは〝動物〟って感じだけど、イワトビペンギンは自我があって喋りそうな気がするんだよね」

「自我…」

「和くんは? 好きな種類はあるの?」

「あー…僕は、ザ・ペンギンっていうコウテイペンギンが好きです」

「理由は?」

「堂々とした感じですかね。自分にない部分なので─…」

「自信って事…?」

「そうです」

「でも、足は負けてないよ?」

「…足? え、足ってなんですか?」

「ペンギンって、実は足隠してんのよ」

「え…?」

「見えてる部分だけが足だと思ったら大間違い。あそこは踵から先の部分だけで、その上の部分は、あの脂肪でふっくらした体の中に隠してんの」

「え、そうなんですか!?」

「そっ。ちょうど人間がしゃがんで歩いてるのと同じね。でもその足を伸ばして立ったとしても、和くんの足の長さには負ける。だから、自信持って」

「へぇー、そうなんだ──…って、自信を持つ根拠がおかしいですって」

 和希のツッコミに、今度は絢音が笑った。

「ま、それはさておき─…和くんは和くんの良さがいっぱいあるんだから、自信持っていいよ。少なくとも、人から愛されるキャラであるのは間違いない」

「キャラ…」

 たとえキャラでも、それが絢音から見てもそうであるなら大いに自信が持てると思えた。

「じゃぁ、次はあっちね」

 次は小さな水槽がたくさん並んでいるエリアだった。カニが展示されているエリアでは、ひたすら〝美味しそう〟という言葉が出てくる。チンアナゴの前では、チンアナゴの〝チン〟は〝珍〟ではなく、〝(ちん)〟という犬の種類に似ているからその名前が付けられたのだと、和希が知識を披露した。その他にも色々と回り、その都度、絢音としかできない会話を楽しんだ。最後はメインとも言えるイルカショーだったが、次のショーまで一時間ほどあったため、レストランに行く事にした。

 レストランの中にはこれまた巨大な水槽があり、熱帯魚がメインのカラフルな魚が泳いでいた。その水槽を横に、絢音と和希が向かい合わせに座る。水とおしぼりが運ばれ、二人はメニュー表を開いた。

「何にしますか?」

「んーー…」

 ざっと見て、絢音はすぐに決まった。

「ポテトとパフェ」

「え、昼食に!?」

「これはもう、三時のおやつ」

「三時の──」

「夜食べたいものが決まったから、加減しておかないとね」

「夜…? なんですか、食べたいものって?」

「ここでは言えない」

「え、言えないって…。──あ、ちょっと待って…じゃぁ、携帯に送ってください。僕も予想して送りますから」

「予想?」

 和希が携帯を取り出すと、絢音もそれはそれで面白そうと携帯を開いた。

「一緒に〝せーの〟で送るので、先に入力だけしてください」

「オッケー、分かった」

 絢音は和希に見えないようにテーブルの下で入力した。和希も同じだ。

「書けました?」

「書けたよ」

「じゃぁー…せーの──」

 同時に〝送信〟のボタンを押すと、瞬時に自分と相手のメッセージが表示され、同時に〝既読〟がついた。表示されたのは、

【お寿司】

【お寿司】

 ──だった。

 二人が反射的に顔を上げると、和希は〝やっぱり〟という笑顔で、絢音は〝なんで?〟という顔だった。

「ずっと〝美味しそう〟って言ってたのと〝ここでは言えない〟って言ってたので、絶対これだなって─…」

「あー…ハハ…まぁ、そうか…」

「じゃぁ、会社の先輩から教えてもらった──」

「あぁでも、和くんがほかに食べたいものがあれば──」

「全然─…むしろ僕も同じ口になっていたのでそれがいいです」

「そう? じゃ、回るところで」

「え…?」

「回遊魚と同じ、回るところがいい」

「回遊魚…」

 これまた独特な言い方だと、和希が笑った。デートなら…と色んな種類のお店を教えてもらったが、まさかの回転寿司を希望とは…。

「敷居が高いのは──」

「食べた気がしない、ですね?」

 〝フォークとナイフ…〟の話を思い出しそう言うと、絢音も〝その通り〟と指を差した。

「じゃぁ…僕も少し抑えてパスタだけにしておきます」

 和希は店員を呼んで、パスタとポテトとパフェを頼んだ。料理が運ばれてくる間にも色んな話をしたが、ふと今まで写真を撮ってなかった事に気付き、店の水槽をバックにコッソリと写真を撮った。

 運ばれてきた料理は互いに少しずつ食べ比べ、終わった後も他愛のないお喋りであっという間に一時間が過ぎていった。

 イルカショーは、三匹がとても息のあった演技を見せてくれた。大きなジャンプを繰り返し、時折水しぶきがかかったりもしたが、それはそれで楽しい時間だった。飼育員とのコンビもいい。背中に乗ったり飼育員の足裏を押してロケットのように飛び上がるのも訓練の賜物だ。歓声と拍手でショーが終わると、二人は最後にお土産屋に寄った。ぬいぐるみや置物はいらない。ただ記念にいつも持ち歩けるものという事で、お揃いの携帯ストラップを買ってその場で一緒につける事にした。

 水族館を出たのは十七時を過ぎていた。

 喫茶店の予定はなくなったが、予定なんてものはそんなものだ。人が動いている以上、ハプニングも予定外の事も起きる。振り返れば、コメディだと思っていた映画が感動作だった事から予定通りにはいってないのだから。それでもイベントを企画・実施している和希にとって、これくらいの事は気にならない。むしろ絢音と一緒に過ごせるなら、予定は重要ではなかったからだ。ただここから先のプランは、どうしてもクリアしたい事が二つあった。

「この後の予定は?」

「もちろん、ありますよ。でも、ここから一時間くらいかかるので、眠くなったら寝てください」

 シートベルトをして出発すると、ややあって絢音が聞いた。

「ちなみに、場所を聞いても…?」

「内緒です」

「内緒か…。じゃぁ、寝ない」

「え…?」

「だって気になるじゃない、どこ行くんだろうって。それに、助手席では寝ないって決めてるし。まぁ、この前はダメだったけどね」

 それはワインを飲んだ日の事だ。

「どうしてですか?」

「んー、運転手のガム─…的な?」

「ガム…?」

「そう、ガム」

 〝分からない〟とチラリと絢音を見たが、ふふっと笑っただけでそれ以上は答えてくれなかった。結局、また他愛もない話で一時間が過ぎ、目的の場所に着いた時にはあたりは暗くなり街の光が煌々と照らされていた。

 車から降りて、和希に手を引かれて連れてこられたのは──

「展望台…?」

「そうです。前に、夜景が見たかった…って言ってたので」

「あー…言ったね。それでわざわざ…?」

「わざわざ…というより、僕が絢さんと一緒に見たかったんです。それに、デートプランにはもってこいだったし─…」

「…そっか、ありがとう」

「ちなみにここ、屋外展望台もあるんですよ」

「え、そうなの?」

「だから絢さんの好きな方で──」

「もちろん、外でしょ。絶対、外がいい」

 それはもう、ジェットコースターにでも乗るような目の輝きだった。

(ほんと可愛い…)

 和希は〝じゃぁ、屋外で…〟と言って、絢音を連れて展望台へ登って行った。エレベーターで通常の展望台まで行き、そこから外に出て階段を登る。屋外展望台は思ったより広く、三百六十度の夜景が見て回れるようになっていた。風は湿気も少なく、その高さのわりには強くもなかった。

 絢音と和希は両腕をフェンスにかけてもたれると、眼下に広がる世界に見入った。赤や黄色やオレンジ、白、そして青白い光─…様々な色が不規則に組み合わさって、また違う色が作られ混ざり合う。一方で、ビルの明かりは同じ色で規則的に積み上げられ、それがまた景色を引き締めていた。更に、道路には白いヘッドライトの光が繋がり、そこに沿うように赤いテールランプが線のように走っている。それはまるで光の川のようだった。

(誰だっけ、〝ヘッドライトの川〟って表現したのって…)

 表現通りの景色に、ふとそんなことを思った。

 地上から見るとそれ以外の何物でもない単体の光が、ぐっと離れた途端、見入ってしまうほど美しい光の景色に変わるのが絢音にとっては感動的だった。

「夜景って、こんなに綺麗なんだ…」

 絢音が、思わず感嘆の溜息を付くように言った。和希は一瞬〝ん?〟となったが、絢音の言葉を頭の中で繰り返し、その意味を察した。

「こんなにって─…もしかして初めてなんですか、夜景を見るの?」

「うん、初めて…」

「え、一度も!? 元カ──」

 〝元カレとも?〟と言いかけて、すぐに飲み込んだ。

「誠司さんやママさんと一緒に…とかは?」

「ないない。むしろ、止められてた。夜景に限らず高いところに行くのを」

「止められてた…? どうしてですか?」

「飛び降りそうって思ったんじゃない?」

「え…」

 あまりにも不吉な言葉がさらっと出てきたから、一瞬声を失った。

「高いところに登って下を見てるとさ、そのうち脳が錯覚するんだって。遠近感っていうのかな、高さを感じなくなる…みたいな。そうなると恐怖心がなくなって、ピョーンって飛び降りれる気がしてくるって」

「えぇー…ほんとですか?」

「現実感がなくなるんじゃない? 下に見える景色が小さすぎるとミニチュアを見てる感じになってさ、分かんないけど…」

「ミニチュア…」

「でも実際、自分でも飛び降りかねないって思ったから、今では止められて正解だったな…とは思うけどね」

 そう言った目はどこか寂しそうだった。誠司たちが〝飛び降りそう〟と思った理由が、脳の錯覚云々ではないと分かったのもこの瞬間だ。何もしなければ、このまま夜の闇に吸い込まれていきそうな気がして、和希は思わず絢音の腕をとって引き寄せていた。

「え、なに──」

「あ、いや…なんか危なくてつい─…」

 和希の心配そうな顔に、絢音はクスッと笑った。

「大丈夫だって。飛び降りたりしないから」

「…本当ですか?」

「ほんと、ほんと。こんな綺麗な景色を知ったら、また次も見たいって思うでしょ。それに、夜景は高いところから見るから綺麗なんだから」

 〝ゆえに、飛び降りたりしない〟という言葉に、和希は少しホッとした。──と同時に、〝次も見たいと思う〟という言葉にも反応した。

「いつでも言ってください。どこにでも、何度でも僕が連れていきますから」

「ほんとに? じゃぁ…次は人が少なくてボーッと見れる場所がいいかな」

 半分は冗談で半分はもう一度見られるなら…という思いで言えば、

「分かりました。穴場的なところ、探してみます」

 ──と、それはもう〝絶対に見つける〟という気持ちが伝わってきたから、胸の中がほんのりと温かくなった。絢音はニッコリと微笑むと、再び夜景に目を向けた。

「誠司くんの店の明かりもこの中にあるんだよね…」

「…ですね。見えるかどうかは別として、ですけど。ただ─…」

「ただ…?」

「方角的には、真後ろです」

「え、そうなの!?」

「はい」

 素で驚く絢音に、和希が笑った。暗いと余計に分からないというのもあるが、絢音の場合は昼間でも分からないだろうと思った。

「絢さん…」

「うん?」

「方向音痴の人がもと来た道を戻ろうとする時は、見覚えのない方向に行くといいそうです」

「見覚えのない方向?」

 絢音が和希の方を振り向いた。

「目的の場所に向かっている時って、ずっとその方向を見てるじゃないですか? だから景色の記憶が残るんですけど─…反対に、後ろは必要がなければ振り返らないのでその景色の記憶がないんです」

「あー、確かに…」

「目的の場所に着いて再びそこから帰ろうとした時、帰るべき方向と反対に行ってしまうのは、その方向が行く時にずっと見てきて見覚えのある景色だからなんです。でも見覚えがあるからこそ実は間違いで──」

「だから見覚えのない方向へ行くと帰れる…?」

「そうです」

「でも方向音痴の人が見覚えのない方向へ行くのって、かなり勇気がいるよ?」

「ですよね…。じゃぁ、絢さんが初めての場所に行く時は、僕を呼んでください。一緒に行きますから」

「ほんとに? じゃぁ、仕事で来れなかったら?」

「その時は、見覚えのない方向に僕がいると思って進んでください」

 極々当然のように、だけど絢音にとっては想定外の言葉に思わず吹き出してしまった。

「え? な、何かおかしいですか?」

「あー…いや、なんか…そこは携帯のナビを使って…じゃなくて、精神論なんだと思って…」

「あ…ぁ、そっか、そうですよね…」

「…でも、それはそれで和くんらしくて良いね。見覚えのない道でも、その先に和くんがいるって思ったら少し安心できるかも」

「絢さん…」

(それが誠司くんでもママでも─…)

 そう考えると、少し勇気が出せる気がした。

「──よし!」

 絢音はフェンスを両手でポンと叩いた。少し感傷的になっていた気分が、陽だまりのような和希の優しさに触れて元気が出てきたのだ。

「じゃぁ、ご飯食べに行こ!」

「え? き、急ですね…」

「お腹空いてきたし、キラキラした景色見てたらイクラが食べたくなってきた」

「イクラ…」

 まさか夜景でイクラを連想するとは…。今度は和希の方が想定外で笑ってしまった。でもそれがまた楽しいと思える。

「分かりました。回遊するお寿司、食べに行きましょう」

「うん!」

 和希はまた絢音の手を引いて展望台を降りた。そしてすぐに車を走らせ回転寿司店へと向かった。チェーン店のメリットは、その数と見つけやすさにある。和希は展望台から十分程のところにあった店に入った。店内は混んでいたが回転率は良く、思ったより早く席に着くことができた。

「和くん、ひとつお願いがあるんだけど─…」

「なんですか?」

「一皿を二人で分けて食べない?」

「二人で? 別にいいですけど─…」

「良かった。二貫ずつだと種類が食べられないからさ」

「あぁ、そういう─…。全然いいですけど、嫌いなものとか苦手なものは大丈夫ですか?」

「好みはあるけど、ゲテモノ以外なら基本なんでも大丈夫」

「ゲテ─…」

「子供の時から〝給食は美味しい〟って思ってたし、〝美味しい〟って思える範囲は広いから、何食べても幸せだしね」

「なるほど…」

「和くんは? 舌、肥えてる?」

「いえ、まさか…。僕も大抵のものは美味しく思える方ですよ。好き嫌いもほとんどないですし─…」

「なら良かった。じゃぁ、さっそく食べよ。私はイクラから──…」

 ちょうど目の前に流れてきたイクラの皿を取ると、和希もマグロの皿を取り─…あとはもう、タッチパネルでの注文が始まった──

 そうして最後は茶碗蒸しで締め、二人は満足げに店をあとにした。


 車を走らせながら、和希は車内の時計をチラリと見た。時間は二十時を過ぎていた。

「絢さん、この後なんですけど─…」

「うん?」

「時間って大丈夫ですか? 明日の仕事が早いとか──」

「明日は休みだから大丈夫だけど─…」

 それを聞いて、和希は〝良かった…〟と小さく呟いた。

「実は…もう一ヶ所、行きたいところがあるんです。ここからだと四十分くらいかかると思うんですけど…いいですか?」

「いいけど─…どこに行くの?」

「あー…と、それは──…」

 言い淀んだところで絢音が察した。

「また内緒なんだ…?」

「…でも、これで最後です」

「最後ねぇ…」

(まぁ…プランは考えてもらったものだし、私も楽しみにしてるって言ったもんなぁ…)

 そう思うと和希に申し訳ない顔をさせるのも違うわけで…。

「分かった。何も聞かない。その代わり─…」

「そ、その代わり…?」

 何を言われるのかと不安な顔を見せる和希に、絢音はフッと笑って言った。

「楽しみにしてる」

 そう言われて、和希はホッとして笑顔を見せた。

 車の中での会話は、朝からずっと話しているにもかかわらず途切れることがなかった。学校の給食で何が好きだったとか、面白いキャラの先生のエピソードとか、道中で気になる看板を見つけただとか、ラジオから流れてくる歌の歌詞のここが好きとか─…。あまりにもとりとめのない話ばかりで、寝る時に思い出しても〝なんの話をしたんだっけ〟と首を傾げてしまうレベルだ。だけど、二人にはそれが楽しかった。楽しくて、絢音は目的地近くの看板を見過ごしていた。それからほどなくして、車は小高い丘の駐車場に入って行った。車を止めて外に出る。絢音はようやく、ここが月乃宮という町にある〝星見ヶ丘〟という場所だと気が付いた。星見ヶ丘は郊外から少し離れた場所にあり、周りも民家や街灯がない。その名の通り星を見るための場所として、あえて人工的な光を設置しないようにしているのだ。

「星だったんだ…」

「わざわざ、じゃないですよ?」

 和希は、トランクからレジャーシートと膝掛けを取り出しながら言った。

「お詫びとかお礼とかじゃなくて、デートとして僕も絢さんと一緒に見たくなったんです。──あ、まだ上は見ないでくださいね」

「分かった」

「じゃぁ、行きましょう。こっちです」

 和希が手を伸ばすと、絢音が自然とその手を取った。手を繋いだまま、駐車場から丘へ続く階段を登っていく。

 丘の上には、それなりの数の人が寝転がっていた。それでも敷地が広いため、まだまだ余裕がある。和希は自分達が寝転んでも、周囲とある程度の距離が保てる場所を見つけ、そこにレジャーシートを敷いた。

「どうぞ、座ってください。あと寒かったらこれを─…」

「ありがと…」

 絢音は膝掛けを受け取ると、靴を脱いでシートの上に座った。次いで和希も隣に座る。

「それじゃぁ…せーの──」

 顔を見合わせ、和希の〝せーの〟という声に合わせて、二人は同時に体を後ろに倒した。

「「…………!」」

 一瞬、二人は声を失った。ややあって、感嘆の息に乗せるように絢音の声が聞こえた。

「すごぃ…」

「…ですよね…。僕も、こんなに見えるとは思いませんでした…」

 これが昨日まで見ていた空なのか…と思うほど、そこには初めて見る数の星があった。いつもならすぐに見つかる星座も、それまで見えなかった無数の星が邪魔をして見つけるのに時間がかかる。黒なのにどこか深い青が混じった夜空に、星が密集して白っぽく見える場所もあれば、満遍なく点在しているところもあって色の濃淡が浮かび上がっていた。これだけの星が見えるのは、月の光が少ない事も大きな理由だろう。

「さっき見たのが地上の夜景なら、これは空の夜景だね…」

 気付くとそう口に出していた。

「空の夜景…。なるほど、そうですね」

「今日一日で両方見られるって─…なんかすごい贅沢した気分」

「同時に見られたらもっと最高ですけどね」

 地上の夜景が綺麗であればあるほど空の夜景は見にくくなり、逆に空の夜景を堪能するには地上の夜景を遮断する必要があるのだ。同時に見られれば、宙に浮いているような気分になれるのだろうが…。

「これで十分。〝最高〟を経験すると、それ以下のものに感動できなくなって〝幸せだ〟って思う機会が減るよ? 贅沢も度を超えると不幸になるだけなんだから」

「じゃぁ…今、絢さんは幸せですか?」

「もちろん。こんなに綺麗な星が見れたんだから─…」

 そう言いながら、絢音の脳裏にある出来事が蘇ってきた。それが目の前の夜空に映し出されるように見えてくる。記憶の中の夜空と今の夜空が重なり、隣から懐かしい声が聞こえてくる気がした。目に映る星の光は、何億光年と離れているのを教えるように小さくゆらゆらと揺れて見える。絢音は、喉の奥から込み上げてくるものを飲み込もうと懸命に息を止めた。だけどそうすればそうするほど今度は鼻の奥が痛くなり、次第に星の光が大きく滲み出してきた。必死に流れ出ないように堪えるものの、一度湧き出た涙はそう簡単には止まらず、目の端から溢れてしまった。絢音は和希に気付かれないよう、そっと手で拭った。──が、好きな人の動きというのはどんな些細なことでも気付いてしまうものだ。もちろん、〝盲目〟にもなりうるが…。

 和希が反射的に絢音の方を向くと、微かに見える絢音の顔がなんだかおかしいことに気付く。

「絢さん…?」

「うん、なに…?」

 バレないようにといつも通りに答えるが、その声は明らかに涙声で和希は思わず肩肘をついて起き上がった。

「え…どうし──」

「あー、ごめん…。何でもない。──あれかな、自然の大きさに感動しちゃった、みたいな…?」

 絢音は〝ふふ…〟と笑って鼻をすすったが、何故か和希にはその言葉が本音ではないと分かった。はっきりと顔は見えないが、展望台の上で〝自分でも飛び降りかねない〟と言った時と同じものを感じたのだ。

(本当の事が知りたい…)

 その思いから、和希は涙をぬぐっていた絢音の手をそっと握ると、そのまま また仰向けになった。

「一日だけですけど、僕は絢さんの恋人です。だから、どんな事でも話してください。どんな事でもちゃんと聞きますから─…ってか、どんな事でも聞きたいです」

 そう言うと、和希は握った自分の手の甲で絢音の涙を拭いた。絢音は頬に触れる手の温もりに目を閉じた。

(一日だけ…か)

 その限定的な言葉が〝一日だけなら…〟と思ったのか、それとも〝一日しかない…〟と思ったのかは絢音自身にも分からない。ただ心の扉を優しくノックされたのは確かだった。

 絢音は少し冷たく乾いた空気をゆっくり吸うと、その理由を話し始めた。

「ちょっと、弟の事を思い出して…」

「弟って─…悠人さん、ですよね?」

 和希の口から悠人の名前が出てきて、絢音は少し驚いて横にいる和希を見た。

「知ってたの、悠人の事?」

「すみません、絢さんが短冊に書いた事が気になって誠司さんに聞いたんです…。なかなか会えない所にいるって─…」

(短冊─…って…あれ見つかってたんだ…)

 〝世界平和〟以外に書いた、もうひとつの願い。できるだけ見つからないようにと、みんなから見えないところの笹にこっそり飾ったものが、まさか和希に見つかっていたとは…。でも何故か、嫌な気持ちにはならなかった。

 絢音は再び空に顔を向けた。

「なかなか会えない…か。そういう言い方をしたんだ、誠司くん…」

「違うんですか?」

 和希の問いに、絢音は僅かな間を置いた。

「亡くなったの」

「え…!?」

 今度は和希が驚いて絢音を見た。

「十年前にね…」

「す、すみません…それは知らなくて──」

「あー、いいの。私が話そうと思ったことだから。それより、気を重くさせちゃったらごめんね…」

 謝る絢音に、和希は〝そんな事ない〟と大きく首を振った。

「…聞いてもらってもいい?」

「もちろんです。絢さんが話したいことなら何でも聞きたいです」

 〝聞きます〟ではなく、〝聞きたい〟という和希らしい言葉に、絢音の心が少し軽くなった。そして、ゆっくりと話し始めた。

「七夕って…彦星と織姫が一年に一度会える日なのに、日本は梅雨時期だから天の川も見れない─…そう悠人に言った時があってさ。そしたら働き始めた年の七夕に、プラネタリウムに行こうって言われて…」

「プラネタリウム…」

「さすがにプラネタリウムって年じゃないでしょ? だから最初は乗り気がしなかったんだけど…。でも〝今のプラネタリウムは、あーやが知ってるのと全然違うから〟って言われて、結局ニ人で行く事になったの。そしたらさ、悠人の言う通り、子供の時に行ったプラネタリウムと全然違って─…ちょっと感動しちゃったんだよね。〝すごく良かった〟って言ったら悠人も満足げで、〝次は山の上にでも行って本物を見せてやるからな〟ってなんか気合入っちゃってさ…。でも、それから仕事が忙しくなっていつの間にかそんな約束も忘れてた…。なんかそれを思い出しちゃって─…」

 〝忘れてた〟というその未来には、悠人の死がある。絶対に叶わない約束は、心の中にいつまでも残ってしまうものだ。それをどうにかできるものではないが、少しでも心が軽くなれば…と和希は以前何かで聞いた事を口にした。

「前に誰かが言ってました。ふとした時に亡くなった人の事を思い出すのは、亡くなった人がその人にメッセージを送っている時だって」

「メッセージ…?」

「まぁ、霊能力があるわけでもないので、実際どんなメッセージを送ってきているのかは分からないんですけど…。でも、〝自分はここにいるよ〟とか〝自分の事を思い出して〟とか〝頑張れ〟とか…そういう思いをキャッチした時に、ふとその人の事を思い出すんだ…って」

「悠人のメッセージ…」

「だから今、悠人さんが近くにいるんだと思います。一緒にこの星を見て〝やっと見れた〟って言ってるのかもしれませんよ」

「やっと見れた…」

 その言葉を繰り返すと、不思議なほど心の中にスッと落ちた気がした。

「…そっか。うん、そうかもね…」

 あれから十年、星を見るたびに叶わない約束を思い出して悲しくなった。それが全て、悠人がそばにいてメッセージを送ってきたからだとしたら─…。それは悲しいことばかりじゃないんだと思えた。

 絢音はもう一度目を閉じた。そして悠人がすぐ隣で寝転がり、一緒に星を見ている光景を想像してから目を開けた。もう涙は出てこなかった。

「ありがとう、和くん。なんか、ちょっとスッキリした」

 その声はいつもの絢音の声で、和希は〝良かったです〟と言った。

「──それはそうと、〝あーや〟って呼ばれてたんですね?」

「あぁ、それね。ほら、赤ちゃんの言い易い言葉って、母音が〝あ〟の言葉じゃない? 〝ママ〟とか〝パパ〟とか。〝お姉ちゃん〟って教えてもなかなか言えなくてさ…。両親が私の事を〝あやね〟って名前で呼んでたから、悠人も〝あやね〟って言おうとしてたんだけどそれも言えなくて…結局〝あーや〟って覚えちゃったんだよね。で、そのままずっと…って感じ」

「だから絢さんにとっては特別な呼び名で、雅哉さんに呼ばせなかったんですね?」

「そう。──って、それも誠司くんから?」

 和希は頷いた。

「お祭りに一緒に行くかどうか…の賭けをしていた時に聞きました」

「あー、あの時ね…。雅哉に呼ばれたら、悠人の思い出が上書きされそうじゃない? 呼ばれて頭の中では悠人が出てくるけど、振り向いたら雅哉とかさ…。その呼ばれ方が嫌いになりそうだから、全力で拒否した」

「それは正解かも…」

「でしょー」

 和希は頷いた。〝和くん〟という呼び方が──ママさんはともかく──親しくない人には呼ばれたくない。それが苦手な人や関わりたくない人なら、自分も絶対に拒否したいと思うからだ。それと同時に、自分以外の誰かに〝絢さん〟と呼ばせないで欲しい…とも思った。

(それは僕のわがまま…か…)

 そう思った時だった。視界の中で白い光が横切ったのを目にして、思わず〝あっ…〟と二人同時に声が出た。そして同時に顔を見合わせ言った。

「見た!?」

「思い出した…!」

「「え?」」

 当然それが見えたから〝あっ…〟と言ったのだが、そのあとの言葉が全く違っていたから絢音の目が点になる。それに気付いて、和希が慌てて言葉を足した。

「あぁ、見ました。ちゃんと見えまし──」

「思い出したって何を?」

 絢音は絢音でそっちが気になったのだ。

「あぁ、いやその─…実は今日、おうし座流星群が見える日なんです」

「え!? そうなの!?」

「…はい。だからどうしても今日ここに来たくて─…」

「そう、だったんだ…。じゃぁ、まだこれから見れるんだ、流れ星…」

「はい」

「よし。じゃぁ、勝負しよ」

「え、勝負?」

「先に十個見つけた方が勝ちで、負けたら次の食事を奢る─…で、どう?」

「それは別にいいですけど─…普通は願い事しませんか?」

「あれは、かぐや姫が出した結婚の条件と同じよ」

「え? か、かぐや姫…?」

 流れ星が見れると分かって勝負を挑むのも意外だが、願い事から竹取物語の話が出てきたのは意外過ぎて全く意味が分からなかった。改めて聞き直す。

「結婚の条件と同じ…ってどういう事ですか?」

「かぐや姫ってさ、求婚者に結婚の条件を出すじゃない? でもその条件って絶対クリアできない事だったでしょ」

「そうですね…」

「あれはそもそも結婚する意思がなくて、わざとクリアできない条件を出してるの。つまり、流れ星の願い事も同じ。誰が決めたか知らないけど、あの短い時間に願い事を三回唱えるって、ハナから叶えるつもりがないって言ってるのと同じだから」

 〝納得いかない〟と言わんばかりの絢音の説明に、一瞬どう言えばいいのか迷ったが、次の瞬間には笑っていた。

「絢さん、面白すぎ…!」

「え、なんでよ?」

「流れ星の願い事からかぐや姫に繋がるって─…初めて聞きましたよ」

「そりゃそうよ。初めて言ったもの」

「そうなんですか!? じゃぁ、他では言わないでください」

「え、なに…そんなに変な事!?」

「変っていうか…他の人に言って欲しくないだけです」

 それは絢音の体裁を守る云々ではなく、単純に絢音と自分だけが知る話にしておきたいだけだった。もちろん、絢音はそこに気付かないのだが…。

「まぁ、言わない方がいいっていうなら言わないけど──…」

「その代わり、流れ星十個の勝負は受けます」

「やった。じゃぁ、今からね」

「いいですよ」

 〝よーい、スタート〟の合図はないが、二人は一斉に夜空に注目した。しばし無言で空を見つめ、流れる星を待つ。──が、すぐに無言になる必要もないのだと気付いた。

「ねぇ、目が足らなくない?」

「え…?」

「普段そう思う事ってないんだけどさ─…この空見て実感する、人間の視野って狭いって。絶対、二個じゃ足りないでしょ」

「だから、目がたくさん欲しいと…?」

「そう。だって、この空全部を視野に収められれば、全ての流れ星が見えるんだよ? いやもう、流れ星に限らず、この空全体を自分の目に収めて見てみたい」

 多分、それが今最も望む事なんだろう…と和希は思った。

「魚眼レンズは、案外そういう思いから作られたのかも…」

「魚眼レンズ─…あぁ、魚眼レンズね! なるほど、その手があったか」

「その手って…今レンズ持ってないですよね?」

「うん、持ってない。持ってないけど、それがあればこの綺麗な空も収められるんだ…って思っただ───…あっ、一個目!」

「え…!?」

 会話に気を取られ、無意識のうちに絢音を見ていた和希は、〝一個目!〟という声にハッと顔を戻した。──が、当然遅い。

「男の人は、二つの事を同時にするのが苦手って知ってた?」

「え…?」

「人と会話しながら探し物を見つけるってできないパターンだね、和くんは」

「…………」

 それはもう、〝戦略みっけ〟という声が聞こえそうな口調だった。ただ、和希はそれでもいいと思った。絢音と話さず勝負に勝つより、負けても絢音と話している方が楽しいし、むしろずっと話していたいくらいなのだ。

(夕食代くらい出しますよ、全然…)

 和希は心の中で言った。

 それから二個目の流れ星はなかなか見られなかった。十分経ち、二十分が経ち、三十分が経った頃──

「こんなに少ないもの…?」

 絢音の一言で携帯で調べた和希は、判明した事実に笑いが込み上げてきた。

「え、なに? なにどうしたの?」

「これ、見てください…」

 そう言って見せた携帯の画面には──

 〝おうし座流星群は一時間に数個という地味な流星群〟

 ──と書かれていた。それを見た瞬間、絢音は懸命に声を抑えて笑った。

 結局、勝負は中止し──星空も十分に堪能したという事で──そのまま帰ることにした。


 誠司の店の前に車が着いたのは、二十二時半を少し回っていた。絢音の家まで送ると言ったが、これまた〝誠司の店で泊まるから〟と言われたのだ。前回といい今回といい、それが少し気になったのだが、それ以上に心の中で膨らんだ想いを伝えることの方が重要だった。

「今日はありがとう。久々にすごく楽しかった」

 シートベルトを外しながら絢音が言った。

「僕もです。僕もすごく楽しかったです。写真撮るのを忘れるくらい…」

「あは、ほんとだ。結局、撮ったのって水族館の一枚だけだったもんね」

「あとで携帯に送ります」

「うん、分かった。じゃぁ、また明日か─…明後日はいないから、その次ね」

 そう言って絢音がドアを開けようとした時だった。

「あ、あの、絢さん…!」

 和希が絢音の右手を取って引き止めた。

「ん? え…何か忘れてる?」

「あぁ、いえ、そうじゃなくて─…」

「うん?」

 和希は手を離した。一日が終わる─…その時間が近付くにつれて、膨らんだ想いをどう伝えようかずっと考えていた。上手くまとまらないままその時が来て、今や緊張で心臓の音がすごい。それでも言うのは今しかない、と大きく息を吸った。

「あの…このままじゃダメですか?」

「このまま…?」

「今日は一日だけの恋人同士ですけど─…その…このままずっと恋人同士じゃダメですか?」

「え…?」

「好きなんです、絢さんのこと」

「─────!」

「今日一日一緒にいて、すごく楽しかったです。視点の違う絢さんの見方や考え方は新鮮だし、話していて面白いし発見もある。話は尽きないのに、時々無言の時間があっても居心地がいいんです。方向音痴なところもギャップがあって可愛いと思うし、迷いそうなところは全部一緒に行きたいって本気で思ってます。繋いだ手だって、このまま離したくないって思いました。今だって、この時間が終わらなければいいのにって思ってます。だから──」

「ちょ、ちょっと待って…ちょっと待って和くん…!」

 なんだか胸が痛くなるような内容に、絢音は思わずストップをかけた。周りから見れば誰でも分かるような和希の思いだが、絢音は〝好きなんです〟と言われて初めて和希の気持ちを知った。想定外で内心プチパニックだが、雅哉やアキラが挨拶するくらいの軽いのりで言っているのではないという事はさすがに分かる。だからこそ驚いた。

「あ、あのさ…私、自分の年齢って言ったっけ?」

「いえ…でも、誠司さんから聞きました。…すみません」

「あ…ぁ、そう。いや、知ってるならいいんだけど…」

 そう言ったが〝ん?〟と思った。

(知ってるからいいのか…? いやいや、知っていてなおその気持ちって──)

「僕にとって年齢は関係ないんです。年上なのは知ってたし、誠司さんから聞いた時も〝あぁ、そうなんだ〟って思っただけでしたから」

「思っただけって…」

「そもそも年齢は気にしてません」

「いやいや、そこは気にするところでしょ。十歳だよ? 十歳も上なんだよ? 和くんだったら、他にもっと若くて可愛い子が──」

「それは店の屋上でも言いました。僕は絢さんがいいって。どんなに若くてどんなに可愛くても、絢さんじゃなければ意味がありません。むしろ、自分が年下で子供っぽく見られないかとか、頼りないって思われないかって…そっちの方を気にします」

「そんなこと──」

(…そりゃ〝可愛い〟とは言ってるけど、子供っぽいっていう意味じゃないし、全然頼りなくもない。今日だって和くんの言葉に救われたし、今までも何度か救われてる。隼人と比べても、和くんの方がずっと大人で頼りになるし─…)

 それは間違いない。でも〝だけど…〟と思った。

「あのね、和くん…」

 絢音はちゃんと言おうと、体ごと和希に向き合いまっすぐとその目を見つめた。

「ありがとう、そんな風に思ってくれて…。自分でも意外なんだけど、アキラくんの時よりずっと嬉しいって感じてる。和くんが素直で純粋で正直で─…そこが可愛いなぁ…って思ってるのは本当だけど、子供っぽいって思ったことはないし、頼りないって思った事も一度もないよ。むしろ、一緒にいて安心感がある。誠司くんとは違う居心地の良さでさ、ずっとこうしていられたらいいなって思うくらいの安心感が─…」

「絢さん、それって──」

「でも─…」

 一瞬〝パァ…〟っと明るくなった表情だったが、〝でも〟というたった二文字の言葉で一気に消えた。その悲しそうな顔に絢音の心が〝チクン〟と音を立てて痛めば、その先の言葉に迷いが生じる。だけど──

「…その─…やめた方がいいと思うんだよね」

「え…?」

 話の繋がりはもちろん、何をやめた方がいいのか分からず和希の思考が止まった。絢音は、一度大きく息を吸ってから言葉を足して繰り返した。

「私だと色々問題あるからさ─…だから、やめた方がいいと思う」

「い、色々って─…」

「んー…自分ではどうしようもない事、かな。まぁ、それ以外にも色々あるし─…和くんにはもっと相応しい人がいるよ。なんてったって、愛されキャラなんだから」

 〝それは私が保証する〟とまで聞こえてきそうな口調に、和希はそれ以上言葉が出てこなかった。それが〝分かった〟という返事だと思った絢音は、〝いつもの絢音〟に戻った。

「じゃ、また明日か三日後にね」

 車を降りた絢音は、窓越しに〝ありがとう。気を付けて〟と手を振り和希の車を見送った。和希は自分の家に向かう車の中で思う。

(愛されキャラも、絢さんに愛されなければ虚しいだけなのに…)

 そんな気持ちになるだけで涙すら出てこなかったのは、不思議なくらい〝フラれた〟という実感がなかったからだろうか──


 一方その頃──

 絢音は、誠司が入れてくれる紅茶が出てくるのをいつもの席に座って待っていた。店の常連客は、デート帰りの絢音の話が聞きたくてウズウズしている。ただ絢音の性格上、芸能レポーターのように興味津々で群がると嫌われるだけというのも分かっていた。だから素知らぬ顔でお酒を飲むフリをしながら、誠司が聞き出すのを耳をダンボにして待っているのだ。

「ほいよ」

 カウンター越しから絢音の前に紅茶を置くと、誠司は外に出てきて自分のお酒が置いてある席に戻ってきた。〝この時間くらいに着く〟と絢音からメッセージが届いたため、仕事が終わった後も遅めの夕食とお酒を飲みながら待っていたのだ。

「それで、今日はどうだった?」

 紅茶を飲んで一息ついたのを見計らって誠司が聞いた。

「誠司くんの言う通りだった」

「うん?」

「〝相手が変われば楽しみ方も変わる〟ってやつ」

「…ってことは、楽しかったんだな?」

「うん、楽しかった。楽しくて、癒されて、救われて──」

「救われて?」

「あぁ、ううん、なんでもない。──思えばさ、隼人の時は〝綺麗ー〟〝すごいー〟〝可愛いー〟って言ってるだけだったから、あっという間に見終わったんだよね」

「今日は?」

「ずっと喋ってて、出てきたのは閉館間近だった」

「マジか。逆になに喋ってたんだよ?」

「んー、色々。イワシの大群が昔のキラキラした看板みたいだとか、亀は助け合い精神が進化したんだとか、あと──…あ、ホッキョクグマの毛がなぜ白いか、とかね。あとはホッキョクグマとパンダは見た目で騙されてるだけとか、クラゲを見て〝綺麗〟って言ってる人間の勝手さと、ペンギンの足の話もした」

「へぇ…」

(なんだそれ…全く分からん。──ってか、なに話してんだよ。デートだろ…?)

 内容から、おそらく絢音が主に喋ったことだろうというのは想像がついたが、〝デートで話す内容か?〟という疑問の方が大きい。

「それ、和希はどんな顔して話してたんだ?」

「どんなって…笑ってたけど? ラッコの話を始めたら笑いが止まらなくなってきて、強制的にホッキョクグマのところから移動させられた」

「そ、そうか…」

 なんだかもう、聞いているだけでは全く分からない。だけど和希も楽しめていたというのは、〝笑いが止まらなくなって〟という言葉で容易に想像がついた。

「あとはどこに行ったんだ? 確か、夜は和希のプランだろ?」

「あー、あれね」

 絢音は、区切るように紅茶を一口飲んでから言った。

「展望台と星見ヶ丘だった」

「展望台─…夜景か…」

「そっ。しかも屋外展望台から見てきた。綺麗だったよー。この店の光もこの景色の中にあるんだよね…って言ったら、それは真後ろだって言われたけど」

「ハハハ。相変わらず方向音痴だな。どうせ映画館から出た時も、正反対の方向へ行こうとしたんだろ?」

「まぁね。でも、もう大丈夫。攻略法は教えてもらったから」

「攻略法?」

「大事なのは、見たことない景色へ踏み出す勇気だって」

「は…? いや、全然分からん」

「分かんなくていいよ。方向音痴じゃない誠司くんには関係ないし。──それよりさ、今日、おうし座流星群だって知ってた?」

「いや。けど、それで星見ヶ丘に行ったのか?」

「そう。でさ…じゃぁ、〝先に流れ星を十個見つけた方が勝ち〟っていう勝負をしたんだけど─…ちょっと調べてみてよ、〝おうし座流星群〟って」

「は?」

 〝何でだよ?〟という顔を向ける誠司に、〝いいから、いいから〟と促す。誠司が面倒くさそうに携帯で検索すると──

「は? 一時間に数個!?」

「そうなの! しかも、流星群の中では地味だって──…もうそれ知って和くんと二人で笑っちゃってさー…」

「勝負つくまでやったら夜が明けるな」

「だからやめた。でも、さすがは星見ヶ丘。すっごい星の数で綺麗だった。夜景も星も─…すごい贅沢した気分」

 絢音は、その時の光景を思い出すように空を見つめながら言った。

「…そうか、なら良かったな」

 頷く絢音の顔を見れば、今日一日が幸せだったと分かる。あえて言わないが、絢音にとって今日という特別な一日が幸せなら、それだけで誠司たちは十分だと思えた──


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