13 一日デート <1>
商店街の夏祭りが終わって半月以上経っても、まだ〝一日デート〟の具体的な話はできないでいた。八月はどうしてもイベントが多く、和希の仕事が忙しかったからだ。でもそれも、九月の第二週目の週末でようやく終わりを迎えた。
(やっと具体的な話ができる─…)
仕事がひと段落した事はもちろん、一日デートという約束が実現に向かって動き出すのが嬉しくて、店へ向かう和希の足取りは仕事帰りとは思えないほど軽やかだった。
和希は〝準備中〟の札が掛かった扉を開けた。
「こんばんはー」
「おー、和希。ちょうど良かった。ちょっと、絢ねぇ見てやってくれ」
「え、絢さん…?」
「今、休憩室にいる」
「休憩─…あ、はい、分かりました」
何がなんだか分からないが、休憩室に行けば絢音がいるということは分かった。いつもの椅子の上に鞄を置くと、そのまま休憩室へと向かった。〝関係者以外立ち入り禁止〟と書かれた扉を開けて、休憩室の引き戸を開けると──
「え…!? ちょ…絢さん──」
思っても見なかった光景に驚いて、思わず靴を脱ぎ捨てかけ上がった。絢音が机の上にパイプの丸椅子を置いて、その上に登っていたのだ。
「お…ぉ、和くん─…ビックリしたー」
「すみません─…って、いやそうじゃなくて、何やってるんですか?」
「何って…電球を替えようと思って」
「え…?」
「切れちゃったのよ、電球。〝この際だからLEDにしたら?〟って言ったんだけど、ママが〝ストックがもう一つあるのよ〜〟って言ってさ─…」
絢音はママの口調を真似て言った。いつもの席に座って話すならクスッと笑えるが、机の上に置いたパイプの丸椅子に乗って言われたらそんな余裕などない。しかも脚のキャップがひとつ外れていて、小さくカタカタと揺れて不安定なのだ。せめて四角のパイプ椅子なら─…とも思うが、現実は違う。
「じ、じゃぁ、絢さんは降りてください。僕が替えますから」
「え、いいよ別に。自分で変えられるし」
「そういう事じゃなくて、危ないからって意味で─…」
「それ、私の体幹バランスの問題?」
「ち、違いますよ─…」
暗に〝衰えてるって言いたいの?〟と言われてしまい、慌てて否定した。
「その状況が危ないっていうか──」
「じゃぁ、和くんが変わったところで、〝危ない〟って事は変わらないよね?」
「それは…まぁ、そうですけど─…」
「じゃぁ、交代する理由はないわけだ。──って事で、そこの新しい電球持って待ってて」
絢音は新しい電球を指差してから、古い電球を外し始めた。和希は電球を持ちながらも、絢音がバランスを崩した時に対応できるように待機する。軽く両手を広げ、椅子がカタッと動くたびに和希の手もピクッと動いた。ややあって電球とグロー球が外れると、それを和希に渡し、代わりに新しいものを受け取って付け替えた。最後に電気の紐を引っ張って電気が点く事を確認する。
「これでよし、っと」
絢音はここでようやく、和希が伸ばした手を自然と取って椅子から降りた。そしてパイプの丸椅子と古い電球を片付けてから店内に戻った。
「交換終了したよー」
言いながら二人がいつもの席に座った。
「おー、サンキュー。和希にやってもらったか?」
そう言いながら和希を見ると、
「いえ…」
──と首を振った。
「は?」
「交代する理由がないって言われて…」
「理由って─…別になくても代わってもらえば良かっただろ?」
今度は絢音に言った。
「自分でできるのに、理由もなく交代する必要がある?」
「いやいや、そうじゃなくて─…普通に危ないからって事だろ?」
「それ和くんも言ったけどさ…人が変わったって〝危ない〟って事には変わらないじゃない? それが分かってるのに、〝危ない事〟を人に変わってもらうって、なんか嫌なのよね」
「あー…それが本音か。──ったく。ほんと、絢ねぇは甘え下手だな」
「悪い?」
「別に悪かないけど、甘えられる方が可愛げもあるだろ?」
「いらないわよ、そんなの。できる事を〝できない〟って言ってやってもらうって、結局、自分を甘やかしてるだけじゃない。できる事は自分でやる、私はそれでいいの」
「じゃぁ、頼ったらいいんじゃないですか?」
和希が言った。〝自分を甘やかしている〟という〝自分視点〟も、誰かの視点になれば別の感情が存在する。和希にとって、さっきの〝危ない事〟を変わってもらえなかった時の気持ちがそれだった。だから言葉を変えることにした。
「甘えなくていいので、頼ってください。甘えるのが〝自分を甘やかす事〟なら、頼るのは〝相手に少しだけ自信を与える事〟だと思うんです」
「相手に自信を与える…?」
和希は頷いた。
「だって、頼られたら嬉しいじゃないですか? 〝あぁ、自分でも頼りになるって思ってくれてるんだ〟って思えるし、それが自信にもなるんです」
「…………」
(自信…か。なるほど、そういう考え方もあるんだ…)
一人で生きていこうと思っていた絢音には、〝甘える事〟も〝頼る事〟もただの〝甘え〟だと思っていた。それが誰かにとっては自信になる事もあるのだと知って、なんだか少し息がしやすくなった気がしたのだ。一方、和希は黙ってしまった絢音の事が気になった。
「…僕では頼りにならないですか?」
「え? あー…ううん、そんな事ないよ」
「じゃぁ、頼ってください。そしたら僕も、少しだけ自信を持てるので」
「わ、分かった…。今度はちゃんと頼る─…うん」
半ば自分に言い聞かすようにそう言うと、和希は嬉しそうに微笑んだ。
(オレが言ってもこうはならないな…)
誠司は二人のやりとりを見てそう思った。それは多分、相手が和希だからだろう。人に甘える事も頼る事も、泣き事を言う事もわがままを言う事も─…自分たちにさえ多くは見せない絢音が、和希の前では素直に出せているという事が誠司には嬉しかった。
「よし。じゃぁ、飯を食え。──ほら、今日の日替わりは〝サバの味噌煮定食〟だ」
誠司は、和希が来てから準備していたサバの味噌煮定食を二人の前に出した。
「サバの味噌煮…って、ママの?」
「そう。久しぶりに安く手に入ったのよ〜」
誠司に聞いた声はカウンターの奥にいたママに届いて、そこからチラリと顔を覗かせた。
「絢ちゃん、好きでしょう?」
「もちろん! ママが作る味噌煮が一番好き。他より甘くて─…でも甘すぎないのよね。食べると、疲れた体にこう─…優しさが染み込んでいく感じ? とにかく、元気が出てくるんだよねー」
「もう、ほんと褒めるの上手よねぇ、絢ちゃんは。──いいわ。今日は二人ともタダにしてあげる」
「え、ほんと、ママ!?」
「いいんですか、僕まで!?」
「いいわよ。家庭の味を堪能しなさいな」
「やった。ありがとう、ママ」
「ありがとうございます!」
〝どういたしまして〟と微笑むママは、とても嬉しそうに厨房へと戻っていった。
「じゃぁ、早速─…いただきます!」
「いただきます!」
両手を合わせた後、二人は真っ先にサバの味噌煮に箸をつけた。とろみのついた煮汁をたっぷりつけて、口に入れる。
「んー、これこれ!」
「んんっ! ほんとだ…。甘めで…でも甘すぎない…。これ、ごはんが進みますね!」
「でしょー。お店の味噌煮も美味しいんだけど、私はママの味が好きなんだよね」
「でも、それだけじゃない」
〝だろ?〟と、誠司が付け足すように言った。
「えー、他に何かあったっけ?」
「〝食べやすさ〟」
「食べやす─…」
繰り返し言いかけて、〝あぁ!〟と気が付いた。
「それね。うん、確かにそれもある」
「え…なんですか、食べやすさって」
和希が二人に問いかけた。答えたのは誠司だ。
「骨だよ」
「骨…?」
「親父が作る煮魚は、小骨も全部抜いてある」
「え! そうなんですか!?」
言われて、改めて骨のある場所を確認すると──
「ほんとだ、ない…」
「手間かかってんのよー。でもそうするようになったキッカケは、誠司くんだけどね」
「何かあったんですか?」
「骨が喉に刺さっちゃった…っていう、よくある話よ。刺さった骨がちょっと大きくて、耳まで痛いってギャン泣きでさ。その姿があまりにも可哀想だったから、それ以来、小骨まで取るようになったの」
「へぇ…すごい愛情ですね」
「愛情も度を越すとただの過保護。さすがに中学になってまでやるのはどうよ、じゃない? だから、魚に骨があるのは当たり前なんだし、このままだと〝魚は骨がない生き物だ〟って思っちゃうよ、って言ったんだけどね」
「…ですね。確か、〝魚は切り身の状態で泳いでる〟って思ってる子供がいたっていうのを何かで聞いた事があります」
「でしょー」
「でもそう言ってた絢ねぇが、今は一番、〝骨なし〟を望んでるけどな」
「あはは…だって、骨なしって食べやすいんだもん。一度これに慣れちゃうと、骨ありが面倒で、面倒で─…あ、でも、抜いた骨の部分に味が染み込みやすいっていうのもあるから、それも美味しさがアップする要因だと思うよ。結果、骨を刺してくれた誠司くんに感謝、骨なし最高って事ね」
「オレが自分で刺したみたいに言うな。──って、オレも全然覚えてないけど」
「まぁまぁ、いいじゃない。美味しければそれでさ」
「──ですね」
そうやって話している時にも箸は進み、二人ともすぐに完食してしまった。
「ごちそうさまー」
「ごちそうさまでした。美味しかったです、ほんと」
「そりゃ良かった。──で、このあとはなに飲む?」
食べ終わった食器を引き取りながら、和希に聞いた。ビールか酎ハイか─…そう思っていたのだが、
「今日は─…やめておきます」
──と意外な返事だった。
「どうした、珍しいな?」
調子が悪いわけではなさそうだが…と思っていると、
「今日はちょっと…色々と詰めたいことがあって─…」
和希は絢音に向かって言った。誠司も絢音に視線を移す。
「詰めたいこと?」
絢音が聞き返す。
「なに?」
「その…お祭りの日にした約束っていうか─…忙しくて日にちとかもまだ決めてなかったので、そういうのを詰めていけたらって─…」
(お祭り…約束…日にち──)
頭の中でそのキーワードを繰り返した直後、ハッと思い出した。
「あー、一日デートね」
「一日デート!?」
「そっ。この前のお詫びとお礼を兼ねてね」
驚くように繰り返した誠司の声で、店の客の視線が和希に集まった。常連客も驚いたが、すぐに顔がニヤけてきた。
「や…そ、そうですけど…声が大きいですって、誠司さん─…」
「ん? あぁ、大丈夫だ。みんな知ってるから」
「だとしても──…え、知ってるって何が?」
〝知ってるからいいってわけじゃなくて─…〟と思ったが、そもそも〝知ってる〟ってどういう事だ? ──とその言葉に引っかかった。
「みんな知ってるって、何を知ってるんですか?」
「お前の気持ちに決まってんだろ」
〝何を今更〟という口調に驚いた。
「え…? え、もしかして喋ったんですか、みんなに!?」
「喋るかよ。オレはこれでも口は堅いんだぞ?」
「じゃぁ、なんで──」
「お前を見てれば誰だって分かる。一人を除いてな」
「…………!」
思わずその〝一人〟の方に目を向ければ、〝日にちかー〟と勤務表を見ていたから、ホッとしたような残念なような─…。
〝ほらな〟という顔を向ける誠司に溜息を付きつつ、和希は気持ちを切り替えることにした。
「…いつが空いてますか?」
「んー…日曜日だったら次の次が休みだけど…」
「次の次…って事は──」
「二十一日」
「じゃぁ、その日がいいです」
本当は明日でもいいくらいだったが、仕事があるならしょうがない。それでも、来週一週間はどんなに大変な事があっても乗り切れる、と思えた。
「分かった。じゃぁ、この日ね」
絢音がスケジュール帳に書いているのを見ながら、
(最高の日になるといいな)
──と思っていたのは誠司だった。
「じゃぁ、次は行くところだね。和くんの行きたいところは?」
「僕は…やっぱりデートらしく映画を見に行きたいです」
「定番だねー」
「あ…でも絢さんにとって面白いのがあれば、ですけど」
「実はさ、今月から公開した映画で気になってるのがあるんだよね。この前テレビのCMで流れてて─…」
「そうなんですか? 実は僕もひとつあるんです」
「そうなんだ。──タイトルは?」
「それが覚えてなくて─…絢さんは?」
「私も覚えてない」
「サイトで調べてみますか…」
「あ…じゃぁさ、二人で同時に調べて、見つけたら〝いっせーのーで〟で見せない?」
「いいですね」
そう言うと、早速二人が自分の携帯で映画館のサイトを開き調べ始めた。数分後、〝見つけました〟と和希が言うと、少し遅れて絢音も〝見つけた〟と言った。
「それじゃぁ、行くよ?」
「はい。いっせーのーでー…」
バッと二人同時に携帯の画面を見せ合えば──
「「おぉー! 一緒だ(ですね)」!!」
顔を見合わせて同時に声を上げていた。画面に表示されていたのは、この人が出れば間違いなく面白い…という俳優が主演の映画だった。
「CMも面白かったし、何よりこの〝あなたはきっと騙される〟っていう一文に惹かれたんだよねー」
「分かります! 僕もそこがすごく気になったんです。あとは絢さんが〝笑える映画がいい〟って言ってたので、これなら─…って思いました」
「んー、グッジョブ! じゃぁ、これに決定ー」
「ついでに、このまま予約しておきますか?」
「そうだね」
「時間とか希望の席はどうします?」
「ここでお昼食べてから行ける時間で──」
「いやいや…朝から行けよ、朝から」
〝なに言ってんだよ〟と誠司がツッコんだ。
「──で、終わってからランチに行けばいいだろ」
「ここで?」
「なんで戻ってくんだよ。別の店に行け、デートなんだから」
「えー、美味しい店がいいじゃない。勝手知ったる店っていうのも楽でいいし──」
「最後の言葉に集約されてんな、絢ねぇの本音が。──でもダメだ。一日くらい〝特別感〟を大事にしろ」
「特別感、ねぇ…。んー、分かった。じゃぁ、朝十時くらいにしよう。席は無難に真ん中がいいかな」
「分かりました。じゃぁ…朝十時頃からで、真ん中の席を予約しておきます」
操作を何度か繰り返し、ややあって、チケットの予約が完了した。
「ランチはどうします? なにが食べたい、とかありますか? なければその時に決めてもいいですけど」
「それはその時にしない? 食べたいものって、空腹じゃないと出てこないからさ」
「確かに。僕も今ご飯を食べた後で、全然思いつかないです。じゃぁ…ランチはその時に決めることにして─…その後はどこに行きたいですか?」
「んー…どこかな…。和くんは? 他にないの?」
「次は、僕じゃなくて絢さんが決めてください。その代わり、夜は僕が考えるので」
「そう言われてもなー…」
「水族館でいいんじゃないか?」
考えたこともない絢音には無理だろうと、代わりに誠司が言った。
「でも水族館はこの前行ったし──」
「相手が変われば楽しみ方も変わるさ。それに和希だって上書きしたいだろうし、なぁ?」
「え…や、それは──…」
(正直、それはある…)
──と内心思った。
「上書きって、何を?」
「あぁ、いえ…大したことないので、気にしないでください。ほんと、絢さんが行きたいところで──…」
「でも、思いつかないんだよね…」
「じゃぁ、動物園とかは?」
和希が候補としてあげた。
「動物園か……んー…いや、やっぱり屋内がいいかな」
「じゃぁ、水族館だな」
誠司が言った。
「水族館─…」
絢音が悩む。
「屋内なら美術館とかもありますけど──」
「あぁ、それはない」
和希の候補に、誠司が手を振って否定した。
「どうしてですか?」
「絢ねぇに芸術は無理だ。特に、絵はセンスのかけらもない」
「え、でもこの前のメッセージカードに描かれていたビールの絵、可愛かったですよ?」
「あれは、元絵がママなのよ。私はママが描いた絵を真似して描いたの」
「そうなんですか!?」
「昔から、どうも上手く描けないんだよねー。あと観るのは写真みたいに見える絵だと〝すごいなー〟って思うけど、それ以外だと良し悪しが分からない…」
「あー…」
「やっぱ水族館だろ? ──ってか、水族館にしとけ。どうせこの前の水族館だって、まともに見てなかったんだろ?」
「んー…見てないっていうか、あんまり覚えてない」
「分かりました。じゃぁ、水族館にしましょう」
〝覚えてない〟というその一言で、和希が即決した。
「その後は、落ち着いた雰囲気の喫茶店で休憩して、夜は僕がプランを立てます。──それでもいいですか?」
「あー、うん、もう全然。考えてくれて、すごく助かる。ありがとう」
「いえ─…僕も考えるのが楽しいので」
和希にとってイベントの企画を考えるのは楽しいことだった。そこに来てくれる人が楽しむ姿を思い浮かべ、実際に楽しんでくれているのを見ると自分まで幸せな気持ちになるからだ。それが好きな人と一緒に過ごすために考える事なら、四六時中でも考えていたいくらいだった。ただそんな気持ちがダダ漏れでも、伝わらない人には伝わらないもので──
「和くんって、今の仕事好きでしょ?」
「……え?」
「だって、イベントの企画を考えるのと似てるじゃない?」
「あー…まぁ、そうですね。好きですけど──」
「やっぱり。想像できるんだよね、企画を考えている時の和くん。絶対、そういう楽しい顔してると思う。天職なんじゃない?」
「天職…」
そう言われるのは嬉しいけれど、今のこの〝楽しさ〟は別格だ。否定も肯定もできないもどかしさのまま、和希は〝そうかも…ですね〟と言うしかなかった。
一方、誠司や耳をダンボのようにして聞いていた常連客は、絢音に気付かれないよう小さな溜息をついた。
「和希。この際、何でもいい。これでもかっていうくらい絢ねぇにリクエストしてやれ」
言いながら、コーヒーと紅茶をそれぞれ二人に出した。
「リクエスト…ですか?」
「なに、何か欲しいものでもあるの?」
「え? いえ別──」
「あるだろ? どうしても欲しいものが、たったひとつだけ」
そう言ってチラリと絢音を見た。
「そうなの?」
「ちょ…誠司さん──」
特に思い付かなかったため〝別にない〟と言おうとしたが、遮るように言った誠司の言葉が何の事を言っているのか分かって焦った。
「まぁでも、それはすぐに手に入るものじゃないからな。今はデートに関する事だ。絢ねぇにして欲しい事とかあるだろ? 例えば、こういう服を着て欲しいとかさ」
「服…ですか…」
「え、ちょっと待って─…もしかしてフリルのついた服を着て欲しいとか、ミニスカートがいいとかそいうのじゃ──」
「あー、いえ、そんな!」
和希が手と顔を横に振った。
「そんなのは全然─…。普通がいいです、僕は。いつもの絢さんのままの方が──」
「いいのか? 〝いつもの〟って言ったら、パンツスタイルだぞ? 本当はこの前みたいなワンピースとか着て欲しいんじゃないのか?」
「それは─…まぁ、あれもすごく素敵でしたけど…」
「ワンピース、ねぇ…」
絢音が思い出しながら呟く。
「いや、でも本当にいつもの絢さんがいいです」
「そんなこと言ってると、化粧もしないぞ?」
「え、化粧もするの?」
絢音が〝考えてもなかった〟と驚いた。
「ほらな?」
「い…いえ、大丈夫です。絢さんは化粧をしなくても素敵なので。それに、この前みたいだと余計に差ができるというか、僕の方が追い付けないので─…」
女性は化粧をするとグッと大人になる。ただでさえ十歳の差があるのに、この前のような化粧をされると、隣に並んだ和希が年の離れた弟くらいに見えてしまうのだ。和希の言いたい事を理解した誠司は、〝それもそうか〟と納得した。
「確かに、並んでても今の方がしっくりくるか…」
和希は〝はい〟と頷いた。
「なに、どういう事?」
「んー? いや、リクエストがないって事だよ。良かったな」
「え、そういう事?」
いまいち理解できないと和希に尋ねれば、和希も少し可笑しそうに笑いながら〝そうです〟と頷いただけだった。
「んーー…」
「絢ちゃん」
まだなお納得できない顔をする絢音に、お酒を作りに来たママが言った。
「ありのままでいいって言ってるんだから、楽しんでらっしゃいな。面倒くさいでしょう、考えるの」
言われてフッと思考の糸が切れた。
「それもそうね。分かった、和くんの企画楽しみにしてる」
「企画って…仕事じゃないですからね?」
「分かってるって。でもほんと、楽しみにしてるから」
「はい、頑張ります。僕もすごく楽しみです」
二人のやり取りを聞いていた常連客は、一段落した内容にホッとした。そして大きくなっていた耳も通常に戻り、自分たちの時間を過ごしたのだった。
翌週になり会社が始まると、礼香たちはすぐに和希の変化に気が付いた。当然、隠そうとしても無駄のため和希も話す。一日デートに至った経緯は〝色々あって…〟と省いたが、一週間後にデートするという事実に比べれば些細な事だと、礼香たちもそれ以上の事は聞いてこなかった。
デートプランの作成は、礼香と田邊も参加した。一人で大丈夫だと言った和希に対し、〝情報は多い方がいい〟とランチの店や喫茶店、夜のプランまで様々な情報を提供してくれた。それはもう、仕事より楽しそうに…。そのため一週間はあっという間に過ぎていき、デート当日の朝には〝最高の一日になりますように…〟という二人からのメッセージで目が覚めた。時間は朝の六時だった。
(絶対、朝まで飲んでたな…)
今日のデートが楽しみでなかなか寝付けなかった和希は、あともう一時間だけ…とタイマーをセットして目を閉じた…。
二度寝をして遅刻するのはよくあるドラマの話で─…実際は、楽しい事が待っている日に寝坊というのはほとんどない。ゆえにタイマーをセットした和希も、アラームの音でパッと目が覚めた。パジャマのまま軽く朝食を済ませ、昨日悩みながら決めた服に着替える。時計をはめ、歯も磨いて髪型も整えた。待ち合わせは八時半に誠司の店だが、もうあとは家を出るだけの状態で時刻は八時だった。こういう時は家にいても気持ちばかりがはやり、時間もなかなか過ぎないもので…。和希は鞄と車のキーを取ると、早めに誠司の店に向かった。家でジッとしているより、コーヒーでも飲んで誠司と話している方が落ち着けるのだ。
店には数分で着いた。扉を開け鐘の音が響く。
「おはようござ──」
言いかけて、声が途切れた。いないと分かっていても無意識に見てしまうその場所に、絢音がいたからだ。
「え、絢さん…!?」
「おはよー、和くん」
絢音が小さく手を振った。
「あ…おはようございます。早くないですか?」
「和くんもねー」
「いや、まぁ…そうですけど──」
言いながら、いつもの席に座った。
「絢ねぇは、朝メシだ」
「三十分くらい前に来たんですよ。──なにか飲みますか?」
夏帆が水とおしぼりを置いてから聞いた。
「あー…じゃぁ、ホットをお願いします」
誠司と夏帆の顔を交互に見ながら言うと、夏帆が伝票を書き、誠司が〝了解ー〟と言った。
「和くん、朝ごはんは?」
「僕は軽く食べてきました」
「──って事は、やる事がなくなってここに来たんだな?」
コーヒーを注ぎながら誠司が言った。
「まぁ、そんなところです…。家にいても落ち着かないし─…ここだったら誠司さんと話ができて気も紛れるかなって…」
「おいおい、オレはそんなにヒマじゃないからな? むしろ、客が二人分増えてんだ。三十分手伝ってくれてもいいんだぞ?」
誠司がコーヒーを出しながら言った。
「いやいや、それはやめといた方がいいと思うよー」
「私も、やめた方がいいと思います」
絢音に続き夏帆も言った。
「何でだよ?」
「三十分後、後悔するから。──ねぇ、夏帆ちゃん?」
「しますね、間違いなく」
「だからなんで──」
「前に言ったでしょ、〝イケメンの貢献度は大きい〟って。──まぁ、和くんは言われたくないだろうけどね」
「そういう事か…」
誠司はようやく納得した。
「でも良かったんじゃないですか? 絢音さんとも早めに会えたし」
夏帆が〝ですよね?〟と目で言うと、和希も〝良かった〟と頷いた。その会話に絢音がふと何かを思い出し、バッグから封筒を取り出した。
「早めにと言えばさ─…これ、先に渡しとくね」
「え…なんですか、これ…?」
「私の分のデート代」
「え!?」
「映画のチケット代とかさ、その場で割り勘にするのも面倒じゃない? だから先に預かっといてもらった方が、支払いも楽だと思って。余っても返さなくていいし、もちろん足らなかったらちゃんと出すから」
「そんな…今日の分くらい僕が──」
「あー、それはダメ。今時、デート代は男が払うものとか思ってちゃダメよ。それが当たり前だと思ってる人とも付き合わなくていいし。それにこれはお詫びとお礼だから、本来なら私が全額払うところなんだけど──」
「それはやめとけ…ってオレが言ったんだ」
誠司が続いた。
「全額払ったら和希の立場がないだろ、って。それに〝デートは対等だ〟ってよく言ってたからな。──だろ?」
誠司が絢音に問いかけると、絢音も〝その通り〟と頷いた。仕事に上下はあっても、デートに上下はない。絢音はそう思っているからだ。
「ついでに、今日一日は〝恋人同士〟って事でタメ口にしたらどうだ?」
「えぇ!?」
「あー、それはそれでおも──」
「いぃ、いやダメです! 無理です!! それはさすがにまだ──」
絢音まで〝面白そう〟と言いかけたから、慌てて首を振った。まだ本当の恋人になってない上に、いきなりタメ口はハードルが高すぎる。和希は跳ね上がった胸の鼓動を落ち着けようと、コーヒーを口に運んだ。
(距離が縮まるいいキッカケなんだけどな…)
そう思いながらも予想通りの反応で、誠司は小さく息を吐いた。
「じゃぁ…写真、撮りません?」
言ったのは夏帆だった。
「一日デートの〝始まり〟の記念って事で」
「おー、いいね。この前は絢ねぇの写真だけだったからな」
「逆に一人で良かったでしょ。あいつの写真なんか、私もいらないし」
「けど、撮ったんだろ? デート中の写真?」
「向こうがね。私は一枚も撮ってない。撮ったものを送ってきたけど、次の日には全部消したし。ついでにメッセージの〝友達〟からも消去したから」
「ハハ…マジか。相変わらず潔いな」
「携帯のメモリーだって限りがあるんだから、無駄なデータでメモリーを使いたくないだけよ。ついでに頭の中の記憶も消せればいいのに─…」
「あー…それな…」
嫌な思い出は忘れられた方が幸せだ。楽しい思い出だけで生きられたら、毎日が楽しく生きられる。ただ好きな人の記憶に関して言うならば、たとえ元彼の記憶が楽しいものだったとしても、全部消えて欲しいと思ってしまうのは和希だけではないだろう。でもここで、和希は〝いや〟と思った。今回の仕返しは、最初の〝股掛け交際〟という記憶があったからこそだ。だとすると──
「その記憶があるから、同じ手に引っかからないとも言えるんじゃないですか?」
和希の言葉に絢音たちは〝ん?〟と思ったが、すぐに〝なるほど〟と納得した。
「記憶は、血液でいうところの〝抗体〟か…」
それは絢音らしい例えだった。
「じゃぁ〝免疫〟は?」
誠司が聞いた。
「〝抗体〟を得て強くなった新しい自分…?」
「…なるほど。そりゃ、潔くもなるな」
「…ですね」
「さすが、絢音さん」
例え方もそうだが、なんの疑問もなくその例えを受け入れ納得している自分たちが可笑しくて、思わず笑ってしまった。
「よし! じゃぁ、夏帆ちゃん。絢ねぇと和希のツーショット撮ってやって」
「分かりました! 絢音さんが消したくなくなるくらい楽しい一日になるよう、念を入れて撮ります! ──ほら、二人とも立ってこっちに来てください」
「え、ほんとに撮るの?」
「もちろん撮りますよ。椿ちゃんにも頼まれてるんです。〝二人のツーショット、絶対に撮っておいて!〟って」
「あー、椿ちゃんね…」
文房具を配布する時でさえ仕事を休む椿だ。おそらくここで写真を撮れなければ、もう一度同じ格好をさせられるか、次にまたこういう事があったら仕事を休むに違いない。しかも次もあるという可能性が極めて低いとなると、もう一度同じ格好をするまで諦めないというのも容易に想像できる。
「…分かった。じゃぁ、和くん撮ろっか」
「あ、はい…!」
思ってもみなかった展開に、和希は嬉しくて胸がドキドキした。しかも椿の要望という事で、腕を組むショットまで撮れたのだ。
(椿さん、ありがとう!)
和希は心の中で強く感謝した。
写真を撮り終わった夏帆は絢音と椿と誠司に写真を送り、絢音は和希に送った。その写真を眺めながら、夏帆はカウンターに戻った二人に聞いた。
「服って…お互いどういうのを着ていくかって話したんですか?」
「服? ううん、そんな話はしてないけど」
「してない、ですね」
「え…じゃぁ、この色の組み合わせも偶然…?」
「まぁ、そうね」
絢音はネイビーの細めのパンツと上のインナーは白で、マスタード色のシャツワンピースを羽織っていた。和希はベージュのパンツと上のインナーは絢音と同じ白色。そこにネイビーのシャツを羽織っていたのだ。
「すごい、ピッタリ…」
「でも無難な色じゃない? それによそ行きの服ってフォーマルしか持ってないし。オシャレに決められなくて申し訳ないけどさ─…」
「いえ、そんな─…全然ですよ! どんな格好でも、絢さんらしくて素敵だと思います」
「パジャマでも?」
「はい、パジャマで─…え、いやそれは普通に外で着ないでくださいね。家なら全然いいですけど」
真面目な答えに、絢音と夏帆はお互い顔を合わせて笑ってしまった。
そんな他愛もない会話で三十分という時間はあっという間に過ぎ、二人はようやく七夕祭があったモール内の映画館に向かった。