2 十年後の出会い
花弥木商店街の南口を出て、西に向かったちょうど右手の角に〝喫茶&バー Ayame〟がある。元々は誠司の父親(=宮本昭一=店のママ)が夜だけ経営する〝バー Ayame〟だったのだが、今から十四年ほど前──誠司が二十二歳の時──に昼間は喫茶店として共同経営するようになった。
店に入ると目の前にレジがあり、そこから右の奥に向かって緩やかにカーブしているカウンターがある。座れるのは七人ほどで、カーブした一番奥は絢音がいつも座る席だった。左手側には二人用と四人用のテーブル席がそれぞれ三席ずつと、カウンターの奥には隠れ家的な個室がひとつあった。喫茶店にしては小さめだが、行列ができるほど混雑するわけでも、閑古鳥が鳴くほど暇でもない。昼間は誠司と従業員の夏帆、短時間のアルバイトが一人、そして夕方からママが加わった三人で何とか回せていけるくらいには人が入ってくる。夜のバーは、そのほとんどが常連客という事で、二十二時以降はママが一人で切り盛りしていた。
五月のゴールデンウィークが明けた今日は、ようやくいつもの日常が戻ってきた。いつもの時間、いつもの顔が店内に並ぶ。それを見て、夏帆はつくづく〝あぁ、落ち着く…〟と思った。見慣れた光景だからというだけでなく、この店にしかない独特の時間の流れを感じるからだ。その〝独特〟はきっと、普通の喫茶店にあって当然のものが、ここにはないからだろう。
「マスター。私、最近分かった気がします」
「うん?」
注文の品を全て運び終えて戻ってきた夏帆が、カウンターの中を覗き込むようにして話しかけた。夏帆は二十歳の時に働き始めた従業員で、今年で七年目になる。
「前に、マスターが〝この店にモーニングは要らない〟って言った理由」
「あぁ、あれな…」
実は、この店にはモーニングというものがなかった。それが不思議で尋ねた事がある。モーニングがあれば客数も売り上げも伸びるのに…と。でも誠司から返ってきたのは〝ここには必要ない〟という言葉だけで、その時は理解できなかったのだ。それから数年─…特にこういう連休を何度か経験して、ようやくその意味が分かった気がした。
「客数とか売り上げとか─…そういう事じゃなかったんですね。ここに来た人がいかにゆったりと心地良く過ごせるか…それを大切にしているからこそモーニングは必要ないんだな、って」
誠司は〝その通りだ〟と頷いた。
「朝から客の注文を捌くのにバタバタするより、客の顔を見ながら、時には世間話をしたりするような時間を過ごせる方がいい。客もそれを求めてここに来てるしな。まぁ、赤字になるくらい客が来なくなったら、そうも言ってられないんだろうけど」
「それは大丈夫だと思いますよ。確実に常連さんの数は増えてますから。それに、私も好きなんです。この店のいつもの雰囲気というか、独特な時間の流れがある感じが─…」
「〝異空間〟の沼だな」
「異空間…」
それも独特な言い回しだと笑ってしまったが、同時に似たような独特の言い方をする絢音の事も思い出した。
「そう言えば、絢音さんも今日から来るんですよね?」
「あー、連休も終わったし…いつもの時間に来るんじゃないか?」
絢音も常連客の一人ではあるが、他と違って誠司の家とは家族同然の付き合いだ。知り合ったのは誠司が小学三年生の時、親友の姉としてだった。ほぼ毎日のようにこの店で夕食を食べるようになって、かれこれ二十年以上になるだろうか。それでも常連客と同様、連休で店が忙しい時期になると敢えてここには来なくなる。ゆったりとした時間が過ごせないというのもあるが、どちらかと言えば普段来ない客に譲る気持ちと、誠司たちの負担を増やしたくないという思いの方が大きい。
「必ず戻ってきてくれるって、嬉しいですよね」
夏帆は、店内でにこやかに談笑している常連客の顔を見ながら言った。
「あぁ。──それに、夕飯の〝日替わり〟を考える楽しみもあるしな」
「それは、主に絢音さんが食べるからじゃないんですか?」
そこに特別な感情があるのでは…と、普段の二人を見ていて期待してしまうのだが──
「何作ってもウマそうに食うし、食ってる時の幸せそうな顔を見てるとこっちも安心できる。それが目的といえばそうだが─…まぁ、作り甲斐があるって事だな」
──と返答はいつもどこか期待はずれで。
(安心できる…って、どう考えても恋愛感情じゃないわよねぇ…)
そんなハッキリしない二人の関係性に、夏帆はなんだかモヤモヤしてしまうのだった。
「でも絶対に〝普通の喫茶店〟じゃないですからね」
「何が?」
「だから─…」
夏帆は他の客に聞こえないよう、少し声を小さくした。
「〝日替わり夕食〟ですよ」
「いやいや、喫茶店としての営業時間は終わってるから関係ないだろ。──ま、あれは言うなればオレの趣味の時間だ」
喫茶店は十八時に閉まり、ママが経営するバーは十九時から始まる。その間の一時間は準備時間になるのだが、その準備時間を含めた十八時以降から食べられるのが誠司の〝日替わり夕食〟だった。もちろん知る人ぞ知る…という状況なので、食べられるのは長い付き合いの常連客くらいだが…。そしてその日替わりも誠司の気まぐれメニューなので、出てくるものは本当に色々だった。
「マスターって、本当は喫茶店より定食屋を開きたかったんじゃないですか?」
夏帆の勤務は喫茶店の営業時間と同じで十八時に終わる。故に〝日替わり夕食〟を見たことはないのだが、常連客から聞いているメニューからするとそう思ってしまうのだ。
「作りたいと思ったものを作りたい時に作れるっていうのがいいんだよ。それも数少なくな。多くなったらいくら好きな事でも大変なだけだ」
「まぁ、それは確かにそうですけど─…」
──と言ったところで〝お会計、お願いします〟という声が掛かったため、夏帆は話を止めて仕事に戻って行った──
イベント会社に勤める川上和希は、二十日ほど前から少し早起きして一本早い電車に乗るようになった。連休が終わると会社に行きたくないと思う人は多く、和希もついこの間まではそうだったのだが、今では連休はもちろん日曜日ですらなければいいのに…と本気で思っていたりする。
ゴールデンウィークが開けた今日は、待ちに待った出勤日。通勤のため花弥木駅に向かう足取りは、前を歩く人をスイスイと追い抜いてしまうほど軽かった。改札口を抜け、ホームに上がるエスカレーターを横目で捉えつつ、迷わず隣の階段を上っていく。上り切ってから更にホームの端の方に目をやれば、
(いた…!)
まるで検索エンジンにかけて瞬時に答えが表示されるが如く、彼女の姿を見つけ出していた。他の人が携帯を見るのに俯いている中、彼女はいつも顔を上げて電車が来るのを待っている。だからこそ見つけやすいのかもしれないが、和希にはそれとは違う理由が確かにあった。そしてこのホームで彼女を見つけるたびに、胸が高鳴るのを感じるのだ。
肩につくかつかないかくらいの髪は、緩いウェーブがかかっていて後ろにふんわりと流れていた。その髪が風に揺れて動く様は、まるで綿毛のように飛んでいきそうで思わず手を触れたくなる。そんな気持ちを抑えながら毎回のように彼女を見ていた和希は、ここ何日かで分かった事があった。それは彼女の服装がいつもパンツスタイルでとてもラフな格好だという事。そして装飾品を一切身に付けず、化粧もしていない事だった。一般的に見れば本当に仕事に行く人なのかと疑ってしまうところだが、和希にとってそれはどうでもいい事だった。仕事でもそうでなくても、ここに来れば彼女に会える。その事実があるだけで十分なのだ。ただひとつ不安があるとすれば、彼女が毎日同じ時間、同じ電車に乗っているわけではないという事だった。
〝それでも──〟と和希は思う。
(あとは話すキッカケさえあれば─…)
実はそれが一番難しく、未だに見ている事しかできないでいるのだが…。
そしてなんのキッカケも思いつかないまま、今日もまた電車がホームに入ってきた。扉が開くと降りる人が優先で、乗る人は扉の近くで待っている。
和希が彼女と同じドアから乗ろうと人の流れに合わせて移動していた時、一人の男が、人混みが邪魔だと言わんばかりに乱暴な動きで降りてきた。平気で周りの人を押し除けるように、体でぶつかってくる。ぶつかられた人は水の波紋のようにまた別の人にぶつかり、そのうちの一人が彼女にもぶつかった。肩から掛けていたトートバッグが後ろに引っ張られ、人と人の間に持って行かれそうになったが、彼女はそうならないようにと、手提げ部分をギュッと握り脇を締めた。その時だった──
手提げ部分に取り付けてあった丸い何かが、すれ違った人の鞄に引っ掛かり外れて落ちてしまったのだ。彼女はそれに気付かず電車に乗ろうとしている。
和希は落ちたその丸い何かを目で追って、慌てて拾おうとした。──が、手が届くと思った瞬間、人の足に当たって別の方向へ飛ばされてしまった。それをまた追いかける。人にぶつかりそうになりながら、あるいは出した手を踏まれそうになりながらも二度三度かがみ込み、何とか拾い上げた時には既に電車は走り出していた。
(間に合わなかったか…)
元々一本早い電車のため、仕事に関しては乗り遅れても支障はない。ただ〝渡せなかった〟という事が何だか残念でならなかった。電車を見送りながら小さな溜息を付いた和希は、握りしめていた手を解いた。そこにあったのは、ピンクゴールドで縁取られた蓋のないシンプルな時計だった。金属部分や文字盤部分のガラスには、落として蹴飛ばされた時にできたであろう傷が幾つかあった。それでも幸いだったのは壊れずにちゃんと動いていた事だ。ただ何故か、時間は合っていなかったが──
(懐中時計…)
携帯が普及している今の時代、腕時計をしない人も増えてきたというのに懐中時計とは更に珍しい。
それはそれで不思議なのだが、今の和希は別の事を考えていた。
すぐに渡せなかったという事は、裏を返せばいつでも返せる──つまり、話すキッカケはいつでもあるという事だ。時間が迫った今日ではなく、電車を待っている時間に話しかけられる明日の方が、落ち着いて話ができるかもしれない。
そう思うと今から出勤だというのに、明日が更に待ち遠しくなってしまった。
和希は自分のハンカチに懐中時計を包むと、それをそっと胸の内ポケットに入れて次の電車に乗り込んだ。
電車で三十分ほど揺られたあと、駅から十分ほど歩くと和希の会社がある。
先月から早めに出勤していた和希が通常の時間に来た事で、他の社員から〝どうした?〟という言葉がよく飛んできた。早めに来るようになった時も聞かれたが、今日のそれは〝やっぱり、早起きは続かなかったか〟という意味合いが強い。──とはいえ、別にバカにしているわけではない。むしろここの社員はみんな良い人たちばかりで、良好な関係だと言える。
その中でも特に三歳年上の先輩──佐々木礼香──とは、入社した時からお世話になっていて、嬉しいことはもちろん、色んな愚痴や悩みも聞いてもらっていた。早速、後ろの席にいた礼香が椅子ごと和希のところに移動してきた。
「挫折した?」
「今みんなの心の声を代表しましたね?」
「まぁ、それが私の役目でもあるからね〜。──で、どうなの? 挫折なの?」
「違いますよ」
「本当に?」
「今日もちゃんと早く起きました。事情があって乗り遅れましたけど…」
「そうなの? ──じゃぁ、良かった」
「良かったって──」
〝乗り遅れたのに何が良かったのか〟と、同じ言葉を繰り返したところで和希はハッとした。
「もしかして、礼香さん!? 僕が早く出勤することで何か賭けたりしてるんじゃ──」
「もちろん、その〝もしかして〟よ。──あ、でも私だけじゃなくて、ここの部署全員だから」
「えぇ!?」
「それぞれ継続期間で賭けてるの。一ヶ月続くか、二ヶ月続くか──」
「それ、最長で何ヶ月なんですか?」
「三ヶ月」
「短かっ…! え、そんなに根気がないって思われてます、僕って?」
「根気がないのは川上くんじゃなくて、私たちの方よ。夏の飲み会までに勝敗を決めたいから」
「賭けたのはお酒ですか?」
「その店で一番高いやつね~」
和希は呆れたように、だけどお酒が好きな人たちばかりなため〝しょうがない〟と溜息を付いた。
「礼香さんが何ヶ月に賭けたか知らないですけど、敢えて聞かないので、礼香さんも言わないでくださいよ?」
「言わないわよ。言って忖度してもらわなくても勝つ自信あるし」
「言っても忖度しませんけど」
「分かってるって。──それより、何があったの?」
「何がって…?」
「最近、楽しそうだからさー。会社にも早く来るようになって、やる気満々って感じじゃない?」
「あー…いや、仕事がってわけじゃない…ですけど…」
「そうなの? じゃぁ、どうして?」
誰が聞いても明確な理由が返ってこず、正直ずっと気になっていた事だった。しかも〝早く来る〟というだけではない。明らかに毎日が楽しそうなのだ。──となると〝混む時間帯を避ける〟というよくある理由は当てはまらない。他の理由として〝仕事が楽しくなった〟というのもあるが、何か特別な仕事があったかというと、これまた全くなかったのだ。だからこそ、礼香はここぞとばかりに突っ込んだ。〝社内に好きな人でもできたのか〟というもうひとつの可能性を──
「早く来る事で何か良い事があるとか?」
その質問に、和希は思わず笑みをこぼしてしまった。内ポケットの中にあるものを思い出したからだ。礼香はニッと笑って〝はい、ビンゴ!〟と指を立てた。
別に隠すつもりはなかった。ただもう少し進展があってから、時間のある時にでも話そうと思っていたのだ。
(でも、これもいい機会かも…)
──と和希は思った。
「見つけたんです、ずっと探してた人を…」
「え…?」
それは、礼香にとって予想外の言葉だった。今まで色んな話を聞いてきたが、誰かを探しているなんて聞いた事がなかったからだ。
「先月、商品の納品が遅れてイベント当日になった日があったじゃないですか?」
「あー、朝一に届いてギリギリ間に合ったっていう──」
「そうです。だからあの日、いつもより一本早い電車に乗ったんですけど…。その時にホームにいたんです、その人が。もう、ビックリですよ。まさか同じ駅を利用してたなんて…」
「その日って、確か川上くんの誕生日じゃなかったっけ? 三十二歳の」
和希は〝はい〟と頷いた。
「だからすごく嬉しくて…」
その嬉しそうな表情を見れば、最後まで言わなくても分かる。
〝最高のプレゼントを貰った気分だ〟
──と。
「それで、その人に話しかけたの?」
礼香も嬉しくなって先を急かしたが、和希は〝いえ〟と首を振った。
「どうして?」
「そんな…話題もキッカケもないのに、話しかけるなんて無理ですよ」
「でも探してたんでしょ? だったら〝ずっと探してました〟って言えば──」
「いやいや、無理ですって。知らない人にいきなりそんな事を言われて、〝あぁ、そうですか〟って納得します? 警戒されるだけですよ。──それに、気付いたら電車に乗ってなかったし…」
〝知らない人〟という言葉に一瞬〝ん?〟となったが、〝ホームにいたのに電車に乗らなかった〟という新しい情報に、その疑問が上書きされてしまった。
「乗らなかったの?」
「どうしてかは分からないんですけど…。でもその時間ならまた会えるかも…って思って、次の日から電車を早めたんです」
「あ〜…なるほどね。それがビンゴだったってわけだ?」
「はい」
礼香は〝なるほど、なるほど〟と思った。つまり、会社に早く来るようになったのは、その人に会うためだったわけだ、と。そしてそれは同時に、〝いつまで続くか〟という例の賭けに勝った、と確信した瞬間でもあった。
やっと会えた人に時間を合わせたという理由なら、そう簡単には挫折しないはず。
(三ヶ月にして正解だったわ)
賭けさえなければまだまだ色んな事を聞き出していただろうが、今の礼香には〟どんなお酒が飲めるのか〟という事を考える楽しみの方が勝ってしまっていた──
キャバ嬢の真野椿は、学生の時から〝喫茶&バー Ayame〟に来ている常連客の一人だった。同伴のない日は必ず出勤前に寄って、誠司やママと他愛もない話をしてから仕事に行く。
それも今では見慣れた姿だが、高校時代の椿は今とは全く違っていた。他の子が当たり前のようにしていた化粧はもちろん、髪を染める事も、毎朝コテを使って髪を巻く事もしない。学校が終わるとほぼ毎日のようにレジ横のカウンターに座って、一人黙々と宿題やテスト勉強をする真面目な学生だったのだ。だから大学に入って一年後、突然〝大学を辞めてキャバ嬢になる〟と宣言した時は、常連客のみんなが言葉を失うくらい驚いた。そして次の瞬間にはもう、嵐のような説得が始まった。
〝せっかく大学に入ったのにもったいない〟
〝大学を辞めてまで目指すものじゃない〟
〝椿には無理だ〟
〝合わない〟
〝長く続けられる仕事じゃない〟…等々。
当然、親にも大反対された。〝大学を辞めるなら親子の縁を切る〟とまで言われたようだが、椿は諦めるどころか〝それで良いなら喜んで〟と返した。そこで焦った親は〝だったらせめて大学を卒業して欲しい…〟と泣きついたのだが、一度〝こう〟と決めた椿にはどんな言葉も心には刺さらなかった。結局、椿は大学二年の夏休みを機に中退し、今の店に入った。常連客はとても残念がり、中にはもっと他にいい説得方法があったんじゃないかと悔やむ人もいた。そんな彼らに〝椿の本音〟を伝えたのは店のママ(誠司の父親)だった。
〝大学に入ってすぐ、男に騙された。だから、もう二度と騙されないように、人を見る目を養いたい〟
──というのが根底にあったのだ、と。
ママはよく人から悩みを打ち明けられたり、愚痴を聞かされたりする。それはママがとても聞き上手で、愛情深く相手に寄り添ってくれるからだ。だからこそ、ママから伝えられたその言葉が〝椿の本音〟だというのもよく分かった。もしこれが気まぐれで選んだ選択なら、今も椿を見るたび残念な気持ちになったのだろうが、そうでなかった事に少なからず安堵し納得もできた。ただ、
〝だとしても、キャバ嬢じゃなくても…〟
──というのもまた、常連客の本音でもあったが…。
ゴールデンウィークが明け、多くの人が気だるそうに仕事に向かい、そして帰ってくる頃──
五月病とは無縁の椿が、いつものように店にやってきた。
「おはよー、ママ、誠司にぃ」
「おはよう、椿ちゃん」
「おー」
同じ会話を続けて三年と九ヶ月が経つ。
「いらっしゃい、椿ちゃん」
テーブル席から食べ終わった食器を引き上げてきた夏帆が、レジ横のカウンター席に座った椿に言った。
「夏帆ちゃん、おはようー」
振り向きながら答える椿。そして、
「ねぇ、これ見て」
食器をカウンター越しの誠司に手渡す夏帆に、自分の両手の甲を見せるように掲げた。
「あ、新作?」
「そー。ついさっきね。五月に咲く花から選んだんだけど、どう?」
「すごく可愛いわよ。でも初めて見る花ね」
椿のネイルには薄いピンク色の変わった花が描かれていた。
「これ、カルミアっていう花なんだって」
「カルミア…。名前も可愛い」
「でしょー。ちなみに、花言葉は〝優美な女性〟とか〝大きな希望〟」
「良いじゃない」
「でもこの花、毒があってね─…」
「え、そうなの?」
「だから〝裏切り〟とか〝野心〟っていう花言葉もあるんだって。ドラマで言ったら〝復讐する美女〟って感じね、きっと」
「その肩書き、椿にはまだ早いな」
椿は綺麗だが、どちらかと言うと可愛い系。〝美女〟とか〝優美な女性〟になるには、年齢もまだまだ早い…と誠司が言えば──
「ふっふっふ。見た目に騙されないでよ、誠司にぃ。私だってこの花みたいな女になるから。特に私を騙すような男にはねぇ〜」
キャバ嬢になった一番の原因と対策に、誠司はフッと笑った。
「──だな。その時は毒でも盛ってやれ」
そう言って虎が獲物を襲う時によくやるジェスチャーをすれば、
「やるよー」
──と、椿もカルミアが描かれた両手の爪を〝ガオー〟と真似た。そしてふと思い出した。
「そう言えばさぁ、この店の名前って何で〝あやめ〟なの?」
「は? 今更?」
「んー、今更っていうか…さっき、五月の花を探してた時に〝あやめ〟も見つけたからさ。そう言えば何でなんだろうなぁー…って」
「確かに。私も名前の由来って聞いたことないわ。何か意味があるんですか、マスター?」
店の名前に花や木の名前が使われる事の多いこの町では、疑問に思う事の方が珍しい。故に、改めて聞く人も聞かれる事も滅多になかった。
誠司はママをチラリと見てから言った。
「〝あやめ〟は、オレの母親の名前だ」
「え、そうだったんですか!?」
「えー、初耳ー!」
意外な答えに驚きつつも、初めて聞く誠司の母親の話に二人とも身を乗り出した。
「じゃぁ、もしかして最初に店を始めたのは、誠司にぃのママさん?」
「あー…その質問に対する答えは、イエスでもありノーでもあるな」
「んん? ママさんでもあり、ママさんでもない?」
「どういう事ですか?」
〝意味が分からない〟と、お互いに顔を見合わせてから聞いた。代わりに答えたのはママだった。
「最初に〝バー Ayame〟を開いたのは、誠司の〝実のママ〟じゃなくて、この私──ママ──って事よ」
その説明に、二人揃って〝あー、そういう事か〟と納得した。
「店にママさんの名前を付けるなんて、ママは、ママさんの事が大好きだったのねー」
「ややこしいな、その言い方」
思わず誠司がツッコんだ。──が、会話はかまわず続く。
「まぁ、償いの意味もあるんだけどねぇ…」
「償い? ママがママさんに?」
「そう。いっぱい泣かせちゃったから…。だから、私がどんな姿になっても、最後まで愛したのは彼女だけだって伝えたかったの。それに花言葉も素敵だったし」
「あぁー、分かる〜。さっき調べた時に〝これも良い!〟って思ったのよ。えっとね…確か〝愛〟とか〝希望〟とか─…あ、あと〝あなたを大事にします〟っていう意味!」
「えー、素敵! ママの思いにピッタリじゃないですか!」
「まさに、〝名は体を表す〟よね。ママのお店も誠司にぃのお店もさ、そういう空間になってると思うもん。すごく居心地がいいし、私、ここが大好きよ」
「あら。ありがとう、椿ちゃん」
「独特な時間の流れ…っていうのも、そういう事なのかもしれないですね。愛のある空間、的な?」
夏帆が朝の会話に繋がった…と視線を送れば、誠司は〝どうだかな〟と少し照れたように笑った。
「あー、誠司にぃ、照れてるー」
「照れてない」
「照れてるじゃん。〝愛のある空間〟も即否定しないし、意外にロマンチストなんだよね、誠司にぃって」
「うるさい。ロマンチストで悪いか」
「全然〜。むしろ好きー」
「はいはい。──って、もう時間だろ?」
「えー、もう? もっと話したいのに…」
「だったら仕事で話せ。その方が金になる」
「んー…まぁ、それもそうね。──じゃぁ、行ってくる」
「目一杯、稼いでこい」
「分かった。じゃあねー」
椿はそれぞれ三人に向かって手を振ると、いつものように店を後にした。
すぐ近くでは、予約したタクシーが既に待っていた。それに乗り込み十分ほど走ると、店の裏口に近い通りで降りる。そこから細い路地に入って行った時、不意に男女の言い争う声が聞こえた。この辺ではよくある光景のため、誰も気にしない。〝私は彼女なのに…〟と訴える言葉すら、ホストっぽい男相手では深刻さも違ってくるものだ。
椿は、こういうトラブルを見聞きするたびつくづく思う。
(ほんと、別れ方が下手なのよね…)
──と。
そんな二人を横目で見ながら、椿は呆れたように小さな溜息と共に店へと向かったのだった──
ゴールデンウィーク明けの仕事が無事に終わったというのに、その後の絢音は最悪な気分で帰りの途についていた。
とても大事な物を失くしたと気付いたのは、仕事が終わって帰ろうとした時だ。慌ててトートバッグの中を探したが見当たらず、ロッカールームやゴミ箱を探してもなかった。だとすれば、落としたのは朝の通勤中だと、歩いてきたところは全て──駅のホームも線路も──探したのだが見つからない。最後の頼みの綱である駅員にも聞き、わざわざ忘れ物センターまで問い合わせてもらったが、物はもちろん、情報のかけらさえ得られなかったのだ。
(悠人─…悠人…ごめん…)
正直、泣きたい気持ちだった。
そんな絢音の足取りは気持ちに比例してとても重く、誠司の店に着いたのは、いつもの時間より二時間もあとだった。
「お帰り、絢──」
「遅かったな。残業──」
ドアが開くと同時にママと誠司が声を掛けたが、絢音の顔を見て言葉が最後まで続かなかった。
「どうしたの、絢ちゃん?」
「何かあったのか、絢ねぇ?」
泣きたい気持ちを必死で抑えているような表情に、ママがカウンターから出てきた。誠司も手を止めて絢音を見つめる。
「…失くした……」
半ば呆然とそう言って、誰とも目を合わさずいつもの場所へ歩いていく絢音。心配で寄り添うママが、椅子をそっと引いて絢音を座らせると、自分もその隣に座った。
「失くしたって─…何を失くしたの?」
改めてされた質問に、絢音はゆっくりとカウンターに突っ伏して顔を埋めた。そしてボソリと答える。
「…懐中…時計…」
その言葉にママと誠司が顔を見合わせる。
((懐中時計…))
心の中で同じ言葉を繰り返す間のあと、お互いにハッとした。
「懐中時計って、絢ねぇ──」
「悠人くんの…!?」
誠司はカウンターから身を乗り出し、ママは絢音の背中と腕に手を掛けた。絢音は力無く〝そう…〟と答えた。
「いつ失くしたの?」
「多分、朝…通勤途中だと思う…」
「それで探してて、遅くなったのか?」
「でも見つからなかった…。途中の道も駅のホームも線路の上も─…駅員さんに聞いても落とし物は届いてないって… 。悠人にもらった大事な物なのに─…」
〝見つからなかったらどうしよう…〟そんな思いばかりが溢れてきて、絢音は堪らず拳をギュッと握った。
「大丈夫…」
ママは絢音の背中を優しく撫でた。
「大丈夫よ、きっと見つかるわ。人の思いが詰まったものは、必ず持ち主の手に戻るものよ」
「そうそう。オレも買い出しの時に探してみるし、明日以降、誰かが拾って届けてくれるかもしれないだろ」
「…壊れてるのに?」
「壊れていても、いなくても─…拾ったら届ける。そういう町だろ、この町の人間は。きっと戻ってくる」
〝だから元気出せ〟と、誠司は敢えて少し荒々しく絢音の頭を撫でた。
何の根拠も保証もない理由だが、一人で必死に探している時より、不思議と〝もしかしたら…〟という気になってくるのはどうしてなのか。おそらくそれは本気で絢音の事を心配し、気休めではなく、自分たちも心から〝見つかる〟と信じている言葉だからだろう。
(こうやって何度も救われてるのよね、私は…)
さっきまで〝絶望〟という闇の中にいた絢音は、誠司たちの言葉で少し光のある方へ引き上げられた気がした。〝見つからないかもしれない〟という思いが和らぐと、思考回路も動き出す。
(腹が減っては何とやらよ)
絢音は両手をバンッとカウンターに叩きつけると、勢いよくガバッと起き上がった。そして、
「お腹すいた!」
いつもの張りのある声を響かせた。突然の言動に誠司もママも驚いたが、ここは余計な事を言わず流れに乗るのが正解だと経験値から学んでいる。故に、誠司もいつものテンションで返した。
「よしきた! 今日は絢ねぇの好きな天丼だからな」
「やった!」
「しかも、今ならもれなく茶碗蒸しも付いてくる!」
「なんと! 二つも私の大好物が! ─で、例のものは?」
絢音が内緒話をするようにカウンターにグッと近付いて言えば、誠司も身を乗り出してニッと笑った。
「もちろん、抜かりなく」
しかも指で〝三〟を作っている。それを見て、絢音の顔がまた一段と明るくなった。
「やっぱり、誠司くんは最高だわ」
「だろ?」
「じゃ、一秒でも早くよろしくー」
「あいよー」
いつもの二人らしい会話に、ここにいる誰もが安心した。絢音の辛い顔は、もう誰も見たくないからだ。
店の奥の厨房から仕上げの二度揚げの音が聞こえてくると、絢音は隣にいるママにそっと言った。
「ママ、いつもありがとうね」
「あら、なに急に…?」
「んー…なんかさ、いつもママや誠司くんに救われてるなーって…」
「そ~お?」
ママは、敢えて大袈裟に返した。
「今日の事だって、前の私だったら家に帰ってた。でも今は、自然とここに足が向いちゃうんだよね…。二人ならいつもの自分を取り戻させてくれるし、どんな私も受け入れてくれるって分かってるからかな…」
「絢ちゃん…」
「あ、ごめん…。本当は多分、甘えてるだけね。もっと、ちゃんと強くならないと──」
「ならなくていい」
ママは、それ以上言わせないように絢音の言葉を遮った。そして、絢音の右手にそっと手を添えて続けた。
「それ以上、強くなんてならなくていいの。ここはもう、絢ちゃんの家でもあるんだから。外ではどんなに強がってもいいけど、家の中では甘えたり、ワガママ言ったり、弱音を吐いてもいいのよ。そういう場所が〝家〟なんだから」
「ママ…」
「何もなくてもここに来て、何かあってもここに来る。絢ちゃんにとってここがそういう場所なら、私はとっても嬉しいの」
その言葉に、絢音の胸がじんわりと温かくなった。
(やっぱり、ここは私を救ってくれる…)
絢音は改めてそう思った。
「ありがとう、ママ」
「こちらこそ。いつも売り上げに貢献してくれてありがとう」
「ママ、それ言ったら家じゃないから」
「あらやだ、そうよねー」
冗談で言っているのは百も承知で、だからこそ二人は楽しそうに笑い合った。
「あ…でも今の話、誠司くんには内緒ね」
「もちろん分かっ──」
ちょうどその時、誠司が出来上がった天丼を持って奥から出てきた。ママは〝分かってるわよ〟という返事でさえすぐに飲み込んだのだが──
「誰に内緒だって?」
既に聞こえていたようだった。
「ママ以外の全員〜」
「そっ。女同士の秘め事よ」
「何だそれ。──ってか、戸籍上〝女同士〟じゃないだろ」
「大事なのは心よ。戸籍なんてただの紙切れなんだから」
「はいはい、そうですか。──ほら、絢ねぇ。天丼と─…抜かりない茶碗蒸しだ」
誠司はそう言いながら、絢音の目の前に天丼と茶碗蒸しを置いた。
「わ〜お! 海老天が三匹!」
「ちょっと小さめだったからな」
「じゃぁ、いただきまーす」
「おぅ!」
まずは最初に海老天を一口。
「んー! サクサク、プリプリ!」
次いで、タレが絡んだご飯。そしてイカ、ご飯、シシトウ、ご飯─…と交互に食べすすめていった。
何時間も探しまわってお腹も空いていたからだろう。その食べっぷりも表情もいつも以上だった。そんな絢音の食べる顔を見ていると、誠司やママは誰かが言った〝美味しいって幸せ〟という言葉を実感する。
天丼を食べ終える頃には、ママも他のお客さんの所に戻っていた。そしてシメの茶碗蒸しに取りかかった絢音は、スプーンを一番下に入れて〝例のもの〟を探し始めた。クルクルと数回かき混ぜ持ち上げると、スプーンの上に黄色いギンナンが乗っかってきた。時期的に冷凍されていたものだが、茶碗蒸しにギンナンがないよりはずっといい。しかも誠司が指で記した数、つまり好物のギンナンが三個も入ってるなら大満足だ。
(…大丈夫。きっと見つかる)
食べている時の幸せ感から、良い事を考えようと自分にもそう言い聞かせた──
それから五日後──
通勤途中の道や駅のホーム、線路の隙間は何度も見たし、駅員や落とし物センターにも毎日問い合わせをした。──が、懐中時計は見つからなかった。折角〝もしかしたら…〟と思えたあの気持ちも、日に日に薄れていく。
その日、絢音は少し早めに駅に行く事にした。土曜日で平日に比べて人が少ないため、ホームの端から端まで探してみようと思ったのだ。もちろん可能性は低いだろうが、だからと言って何もしないでいるよりは気が紛れていい。
絢音がいつも最後尾の車両に乗っているのは、真ん中の車両の位置がちょうどホームから改札口に続く階段が近くにあり混みやすいからだ。故に少なくとも真ん中から一番前の車両が止まるホームに、落とした懐中時計があるはずもないのだが…。それでも探し物が見つからない時は、意外な所で見つかることもあるため僅かな望みを持っていた。
一両目が止まるホームの端に行った絢音は、椅子の下や柱の隙間、線路に敷き詰められた石の間やホームに隠れてしまうギリギリの所に何か光るものがないかと目を凝らした。特に線路の方は入念に探した。ワイヤレスイヤホンも、耳に引っ掛けるタイプが主流になる前はよく線路に落ちていたからだ。線路から下を覗き込む姿に、〝何をしているんだ〟〝大丈夫か〟という目が向けられる。そんな人の目が気にならないと言えば嘘になるが、それを気にして諦めるほどどうでもいい探し物ではない。もしこの駅になければ、次は降りた駅だ。ただ探すとしたら休日の明日になるが…。
(お願いだから見つかって…)
祈るような気持ちで中央の階段周りを探していた時だった。
「あ、あのっ──」
伺うように…と言うよりは、思い切った感じの声が聞こえた。少しかがみ込むように隙間という隙間を覗き込んでいた絢音は、反射的に声がした方を振り返った。そこにいたのは、スーツ姿で三十代前半くらいの優しそうな男性だった。
「はい…?」
なぜ突然声を掛けられたのか分からず疑問系で返したが、直後、もしかしたら不審人物だと思われたのかも…と心配になった。慌てて説明しようと口を開きかけたその時──
「良かった…」
思ってもみなかった──しかも心底ホッとしたようなその言葉に、絢音は一瞬自分の耳を疑った。
「あのー…?」
「あー! すみません、突然─…あの、実はこれを返したくて──」
そう言って、今度はその男性が慌てて胸の内ポケットに手を入れ、ハンカチを差し出した。正確には、ハンカチに包まれていたものだ。それを目にした瞬間、絢音は驚くと同時に両手で掴み取っていた。
「うそ…これ、どうして─…」
ずっと探していたものを手にして、嬉しさのあまり涙が溢れそうになった。懐中時計を持っている手も震えている。
「ここであなたが落としたのを見たんです。すぐに拾おうとしたんですけど、ちょっと手間取ってしまって─…手にした時にはもう、電車に乗って行かれてて…」
「そうだったんですか…。ありがとうございます、拾っていただいて…」
「いえ…」
「ずっと探してたんです。歩いた所とか乗り降りする駅とか…駅員さんにも聞いたりしたんですけど〝届いてない〟って言われて──」
「あぁー! すみません…!」
「え…?」
「そうか…届けた方が良かったんだ…」
半ば独り言のようにそう言うと、改めて絢音の方を見て謝った。
「すみません。落としたのがあなただと分かっていたので、次の日に渡せばと思ってしまって…なのになかなか会えなくて─」
「あぁ、いえ…見つかったならもうそれで─…」
「でも大事なものだったんですよね…?」
懐中時計を目にした時の反応や表情を見れば、どれだけ必死に探していたのか、そして──理由は分からなくても──どれだけ大事な物なのかは伝わってくる。
「弟が─…」
絢音は〝大事な物〟という言葉に、その時の事を思い出したように懐中時計を見つめて言った。
「弟が初任給で買ってくれたものなんです」
そう言った直後だった。絢音はある事に気付いて声を上げた。
「え…うそ! なんで…!?」
「え?」
一瞬、絢音が何に驚いたのか分からなかったが、すぐに〝傷〟の事だと察した。
「すみません、拾おうとした時に人に蹴られて少し傷が─…でも、ちゃんと動──」
「動いてる!」
言おうとした言葉が絢音の声と重なった。
「そうです。幸い壊れずに──」
「どうして? ずっと動かなかったのに…」
「え…動かなかった…?」
「そう。電池を換えても修理に出しても原因が分からないまま、ずっと止まってたのに…」
その言葉を聞いた途端、拾った時に時間が合ってなかった理由がやっと分かった。
「じゃぁ、落とした衝撃で動き出したのかも」
「落とした衝撃で…」
繰り返した絢音は、思わずフッと笑ってしまった。
「昭和のテレビと一緒か」
(昭和の─…?)
絢音が呟いた言葉を心の中で繰り返した直後、そう言えば親がそんな事を懐かしそうに話していたな…と思い出した。
「叩いたら直るっていう、あれですか?」
「そう、あれ。なんで今まで動かなかったのか分からないけど、基本、アナログ最強説は本当だと思う」
「確かに。今のデジタルは故障原因が分かりにくいですしね」
「その原因を見つけるために修理に出したのに、結局原因が分からなくて──」
「分解手数料だけ取られるとか」
「そう、そう! だから気軽に修理に出せないっていうか、手っ取り早く買い替えちゃえって──…って、そうじゃないか…」
本題とはズレた話で盛り上がりそうになって、絢音はハッとした。
「えっと…お礼を─…そう、お礼をさせてください」
「え…? あ、お礼なんてそんな─…むしろ、落とし物として届けていたらもっと早くお返しできたのに──」
「あー、もうほんとそれはいいの」
絢音は両手と顔を左右に振った。
「手元に戻ってきただけでほんと…本当に十分だから。逆に何もしなかったら私の気が済まないし、きっと弟にも怒られる。そういう事、厳しいから…」
「はぁ…」
「どこか美味しいお店で食事とか─…あ、もちろん私がご馳走するから──」
「いやあの…しょ、食事はまだ──」
〝まだ心の準備が…〟と言いそうになったが、同時に心配が一つ持ち上がった。お礼として食事に行ったら、彼女との関係がそこで一区切りついてしまうという事だ。それは絶対に避けたい。
「…食事じゃなくて、僕の話し相手になってくれませんか?」
「………?」
それはあまりにも意外な提案で、絢音は同じ言葉を繰り返す事さえできなかった。そんな絢音の表情を見て、男性が慌てて付け足す。
「その…みんな携帯を見て俯いたままじゃないですか…。それが何か寂しいというか、もう少し人の声が聞きたい…みたいな…。僕も一人なので、天気とか今日のニュースネタとか、ドラマや映画の話なんかをこう…他愛もなく話せる人がいたら通勤時間も楽しいだろうなって─…あ、いや、でも迷惑ですよね、やっぱり──」
「いえ」
絢音は首を振った。そして振った自分に驚いていた。この歳になると顔見知りくらいがちょうど良くて、新たな人とそれ以上の関わりを持ちたいとは思わない。それが何故か、彼の提案が迷惑だと思うどころか、自分も通勤時間が楽しくなるような気がしたのだ。
「そんな事で良ければ全然──」
「本当ですか!?」
「むしろ、そんな事でいいのって感じなんだけど…」
「良いです! それが良いです!」
三十代の顔が、突然十代のようにパッと輝いて見えた。それはまるで〝やったぁ。遊んでくれるの!?〟という顔を見せる子犬のようで、不思議と絢音も笑顔になる。
「じゃぁ、改めまして─…私は早瀬絢音です」
「あ…ぼ、僕は川上和希と言います」
「川上…さん? …くん?」
最初の印象では〝さん〟だが、今の表情を見てしまうと〝くん〟の方が合っている気もするのだが…。初めて会う人に、しかも年下とはいえ大人の男性に〝くん〟は失礼か…と思った矢先、
「〝くん〟で大丈夫です。会社の先輩からも〝川上くん〟って言われているので」
「そう? じゃぁ、川上くんで」
「はい。──あ、それとタメ口で全然オッケーですので」
「分かった。じゃぁ─…おはよう、川上くん」
「おはようございます、早瀬さん」
改めて挨拶した途端、お互い何だか照れ臭くて笑ってしまった。
それからややあって、ホームに電車が入ってきた。自然といつものドア付近まで移動すると、二人はこの日初めて同じ昇降口から一緒に乗り込んだのだった──