表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
19/37

11 元カレ <2>

 デート当日は、軽い昼食を済ませてから出かける予定だった。そのため十時くらいに起きれば間に合うと思っていたのだが、朝の八時に携帯が鳴って起こされてしまった。電話の相手は普段なら絶対に寝ているはずのママで、故に絢音は何かあったのかと驚いて起きたのだ。しかも〝財布と携帯だけ持って今から店に来てちょうだい〟と言うだけで、理由を聞いても〝来れば分かるから〟としか返ってこない。結局、わけも分からないまま電話が切られたため、仕方なく財布と携帯だけ持って店へと向かったのだが──

 店に着くと〝休憩室だ〟と誠司に言われた。言われるがまま休憩室に行けば、そこに集まっていたメンバーを見てすぐには声が出なかった。普段、この時間には来れない人間が三人もいたからだ。しかも、みんな目がキラキラしている。

「…なに? え、なんで健ちゃんたちや椿ちゃんがここにいるの? 仕事は?」

「もちろん休んだのよ、みんな」

 まとめて答えたのはママだ。

「休んだって、なんでまた? それにその笑顔はなに? 怖いんだけど?」

「まぁまぁ、いいからいいから。入って、絢姉さん」

 〝ちゃんと説明するから〟と、椿が絢音の手を引いて休憩室に招き入れた。

「絢姉さんは、何にもしなくていいから」

「は?」

「あーちゃんの事は、オレたちがよーく知ってるからさ」

「いやいや、なにが?」

「まぁ、予行練習みたいなもんだよ」

「なんの?」

「ちゃんと、薄化粧にするから安心してちょうだい」

「化粧…?」

「プロじゃないけど、簡単で綺麗系のネイルくらいなできるのよ、わたしも。アクセサリーも、シンプルなものにしたし──」

「ストップ、ストップ、ストップ!」

 全くもって意味の分からない会話に、慌てて絢音がストップをかけた。それも三回も連呼して。

「なに、なんなの!? 全然説明になってないし、何をしようとしてるのよ?」

「みんな、今日のデートを成功させようとしてるのよ」

「そのためには、相手を夢中にさせる事が絶対条件だからな。オレが作ったワンピースと──」

「オレのヘアセットと──」

「私のヘアメイクと──」

「私のネイルとアクセサリーで、絢姉さんを完璧にしてあげるの」

 それぞれがそれぞれの物を手に掲げて、自信たっぷりにそう言った。それがあまりにもやる気に満ちていて、絢音もすぐには言葉が出てこなかった。

 〝一日〟はともかく、〝デート〟の情報がみんなに知れ渡っているのは理解できる。賭けていた場所が場所だし、常連客もいたからだ。でもここまで意気込むほど〝デートの成功〟を願う理由が分からない。

「別にそこまでデートを成功させたいってわけじゃ──」

「〝制裁〟なんだろ?」

 言いかけた言葉を遮って、健ちゃんが〝分かってるよ〟と頷いた。更に椿が続ける。

「制裁のデートがどういうのかは分からないけど、それが目的なら絶対に成功させなきゃ、でしょ?」

「そのためには、相手を絢ちゃんに夢中にさせる事が必須だって─…誠司くんがね」

「だからオレたちがタッグを組んだんだよ。プロのヘアメイクと、将来有望なオレが作ったワンピース。それと男を虜にするテクニックを伝授する椿ちゃん。──どう、最強だろ?」

「最強、ねぇ…。ほぼほぼ自分たちがやりたいだけのような気がするけど?」

「まぁまぁ、いいじゃないの。みんなのやりたい事ができて、尚且つ、絢ちゃんのデートが成功する。最近よく言ってるじゃない、ほら、あのー…パンダみたいな名前の──」

「ウィンウィンね」

「そう! ウィンウィン!」

 名前が出てこないママの代わりに椿が言えば、〝そう、それよ!〟とママが指をさした。

「みんなの力を借りて、このデート成功させましょうよ、ね、絢ちゃん?」

 ママの言葉に絢音は小さく息を吐いた。最近聞いた〝ウィンウィン〟の中では素直に喜べないものだが、〝パンダみたいな名前〟と言われたら、なんだかもうどうでもよくなってしまったのだ。

「分かったわよ、もう好きにして。でも〝可愛い〟とかはやめてよ。年齢相応のヘアメイクとファッション、それと動きやすさ。そこにかかってるのは、翔、あんただからね」

「任しとけって。──ほら、ちゃんと見てみろよ」

 翔はそう言うと、手に持っていたワンピースを広げて見せた。色は白とベージュの組み合わせで、Ⅴ字に開いた胸元に形は綺麗に見えるAライン。いわゆるシャツ風のロングワンピースだった。

「素材は綿だけど柔らかい肌触りで─…肩の部分も突っ張らないようにゆったりめだし、ウェストのベルト部分もワンポイントになるように色を変えた。どうだ、あーちゃん?」

「あー…」

 そう言ったきり、次の言葉が出てこなかった。正直、驚いていたのだ。

(なにこれ、思った以上に私好みなんだけど…!? スカートなんて制服以外はいたことないのに、なんでこういう好みが分かるわけ?)

「あーちゃん?」

 〝いい〟とも〝悪い〟とも返ってこないため、翔が更に問いかけた。それでようやくハッとする。

「あ、あぁ…うん、いいんじゃない。…思ってたより良くて、ちょっとびっくりしたわ」

「だろー?」

 翔が満足げな顔をすると、今度はママが続いた。

「私はね、このワンピースに合う靴とバッグを選んできたの。ベルトの色に合わせてね。もちろん、ローヒールにしたから動きやすいと思うわ」

「わざわざ買ってくれたの、ママ?」

「このワンピース見た時、絢ちゃん、絶対気に入ると思ったから。今回だけじゃなくて、何回だって着れるように…と思ってね」

「そんな─…」

 確かに気に入ったが、次も着るかどうかは別問題で─…絢音は少し申し訳ない気持ちになった。

「ネイルはワンピースと同じベージュと白を使うわね。それからアクセサリーは、ホワイトゴールドでシンプルなデザインのを持ってきたわよ。絢姉さん、ピアスの穴って開けてないでしょ? でもこれマグネットイヤリングって言って、着けるとピアスしてるみたいに見えるのよ」

 そう言って、椿が自分の耳に着けて見せた。

「ほんとだ─…って、椿ちゃん、ピアスじゃなかったんだ?」

「そうなの。痛い、痛くないっていうよりは、なんか不必要に体を傷付けたくないなって…」

「そっか…。椿ちゃんらしいね」

 こういう考えを聞くと、改めて椿の真面目さを知る。

「あーちゃんは、なんでピアス開けないんだ?」

 翔がふと思った。

「私は着けたり外したりっていうのが面倒なのと、着けない時にも穴が塞がらないようにしなきゃ…って思う事自体が面倒だからよ」

「ハハ、あーちゃんらしいや」

「化粧しないのもそれだもんね、絢姉さんは」

「典型的でしょ、化粧は。私からしたら面倒の極みよ」

「でも今日はしないとね〜」

 メイク道具を持った健ちゃんの奥さんが、楽しそうに言った。

「口紅だけじゃダメ?」

「ダメ〜」

「じゃぁせめて、直さなくてもいいように化粧崩れしないようにして」

「分かった。極力そうならないようにするわ」

「ヘアセットはふんわりウェーブを生かして、〝大人爽やか〟にしよう」

「そこはもう、健ちゃんに任す」

「よしきたっ」

「じゃ、そういう事で─…あと、何かある? なかったら朝ごはん食べたいんだけど?」

 そう言うと、みんな〝どーぞー〟と嬉しそうに手を振った。


 一時間ほど店内でまったり過ごすと、再び絢音が休憩室に戻ってきた。待ち合わせは、十三時にこの店。本格的に動くまではまだ時間があり、その間、椿は相手を見つめる視線やボディタッチ、グッとくる仕草などを絢音に話していた。──が、正直どれもこれも絢音には〝らしくない〟事ばかりで、

(残念ながら、一生使う機会はないわね…)

 ──と、心の中で思ってしまった。

 待ち合わせ時間の一時間半前になり、ようやく健ちゃんが動き出した。ブラッシングから始まって、ヘアアイロンでふんわりとカールさせる。後ろに流れを作りつつ、下の方にも動きを出させて軽く仕上げていった。髪をセットする時間は、絢音にとって一番癒される時間だった。そしてメイクと同時に椿のネイルも始まった。職業柄どうしても爪は短く切るのだが、形は悪くないためデザインで綺麗に見せる事ができる。ヘアセット中はもちろん、メイクの間も鏡は見せてもらえない。気持ちは〝まな板の上の鯉〟状態だが、腕が確かなのは知っているため不安に思うことはなかった。ネイルが乾いて最後にワンピースを着た絢音は、そのサイズ感にも驚いた。服のサイズを教えたわけでもないのに、スッと着れるのにどこも突っ張ることなく、とても動きやすかったのだ。

 絢音の姿を見て、みんなが溜息のような感嘆の声を上げた。ワンピースもヘアスタイルもナチュラルなのに華やかなメイク、どれをとっても絢音の良さをグッと引き立てていたのだ。

「どうよ、オレのワンピースの着心地は?」

「サイズを教えてないのに、ここまでピッタリくるとキモイを通り越して尊敬するわ、ほんと」

「マジで!? それ、めっちゃ褒め言葉!」

 翔は〝よっしゃぁ!〟とガッツポーズをした。ワンピースを着てもらうというのは、ウェディングドレスまでの通過点だが、重要なのは着る人の好みとサイズ感、そして着心地の良さに満足してもらえるか、だ。絢音の言葉は一見誉めているように聞こえないが、間違いなく褒めていた。だから嬉しいし、次への自信にもなった。

「じゃぁ、最後にアクセサリーね」

 〝ちょっとジッとしててね〟と暗に言うと、椿はシンプルだけどⅤ字の胸元に映えるデザインのネックレスと、同じデザインのマグネットイヤリングを絢音に着けた。

「うん、似合う。すっごい、素敵!」

「ありがと…」

 自分で見ていないためなんとも言えないが、お世辞や嘘でない事は分かり、絢音は少し照れながら言った。

「さぁさぁ! じゃぁ、写真を撮りましょ。ほら、みんなはこっちに来て。絢ちゃんはそこにいてね」

 ママはみんなを手招きして自分の方に呼び寄せると、こんな機会は滅多にないとばかりに全員が携帯で写真を撮る。

「もう、それくらいでいいでしょ。それより、写真見せてくれない? まだ鏡も見てないんだけど?」

「あら、そうだったわ。なんかこんな絢ちゃんが見られて嬉しくなっちゃって─…」

 ──と携帯の画面を見せようとした時だった。厨房の奥から誠司がやってきた。

「絢ねぇ、来た─…ぞ」

 一瞬、言葉が切れたのは、絢音の姿を見たからだった。

「へ…ぇ、そうきたか」

 面白そうな誠司の顔に、絢音が小さく息を吐き出した。

「馬子にも衣装って言ったら、蹴り飛ばすわよ?」

「いやいや─…むしろ、いいモン見れたって感じだ」

「私は見れてないんだけどね?」

「そうなのか? じゃぁ、言葉遣いだけ気を付けたほうがいいかもな」

「はぁ?」

「ほらほら。もうそんな事はいいから、行ってきなさいな。──はい。絢ちゃん、バッグ。中にレコーダーも入れておいたから」

 〝レコーダー〟という言葉に、絢音は本来の目的を思い出してハッとした。

「そうだった…。ありがと、ママ。みんなも。──じゃぁ、行ってくる」

 絢音は用意されていた靴を急いで履くと、みんなに片手をあげて休憩室から出て行った。

 一瞬、店内の方の雑音が消えたが、ドアの鐘が響くと──絢音たちが出ていく間があって──再び音が戻った。休憩室の方では絢音の変貌ぶりに驚きつつ、椿が誠司に、誠司が和希に絢音の写真を送っていた。そして誠司たちが店内に戻った後も、今度は夏帆やアルバイトも加わって、しばらく絢音の話でもちきりになっていた。

 一方、尾行のため外の車で待機していた和希は、送られてきた写真と店から出てきた絢音の姿に胸の動悸が治まらなかった。同時に、絢音の隣にいるのが自分でない事を悔しく感じた。

 最初に向かったのはデートの定番、映画館だった。そしてこれまた定番の恋愛映画だ。できるなら後ろの方で二人の様子を見ていたかったが、さすがに恋愛映画のチケットを一人で買って入るのには勇気がいる。それに絢音たちがどの席にいるのか分からないため、二人より後ろの席を取るというのも難しいだろう。仕方なく、和希は〝終わるまで待つ〟という選択をした。

 時間の流れというのは、本当に気持ちに左右されるものだ。仕事をしている時の時間、睡眠の時間、ゲームをしている時の時間、絢音と過ごす時間、そして二人を待つ時間─…。今までのどんな〝二時間〟よりも、今が一番長く感じられた。自販機でコーヒーを買って飲んでみたり、映画のパンフレットに目を通してみたり、携帯でニュースを読んでみたり、犬や猫の動画を見てみたり─…。かろうじて犬猫の動画を見てる時だけ気持ちが安らぎ時間も忘れられたが、それ以外は全くダメだった。内容なんて頭に入ってこないし、時間も止まったかのように流れない。ただただ、脳内に今まで見た二人の姿が甦ってくるだけなのだ。しかも柏木の姿はもちろん、絢音の笑顔でさえその柏木に向けたものだと思うと悔しさが増していく。そんな気持ちを落ち着けられたのは、少し前に誠司から送られてきた絢音の写真だった。絢音しか写っていない、ママたちに向けられた視線。呆れた顔、笑顔の顔、何か言ってる時の顔、少し照れたのを抑えたような顔など─…。誰が何枚撮ったか分からないが、いくつもの表情の絢音を見ていると、心が落ち着いていった。

 そうしてようやく、長い二時間が過ぎた。映画館から出てきた二人は、心なしか映画を見る前より距離が近くなっているように見える。〝制裁のため〟と分かってはいても、好きな人が自分以外の誰かと楽しそうに話しているのは、正直、見ていて辛いものがあった。

 次に向かったのは、車で三十分ほど走ったところにあるオシャレな店構えのカフェだった。落ち着いた感じのオシャレではなく、今時の華やかなオシャレ感だ。二人がそこに入っていく姿は、はたから見れば何の違和感もないし、むしろ似合ってると思うだろう。だけど、その時の和希はなぜか思った。

(いつもの絢さんだったら、こういう店には入らないだろうな…)

 ──と。実際、絢音も心の中では思っていた。

(あー…落ち着かない…)

 ──と。それでも笑顔は絶やさなかったが。

 二人は窓際の席に案内され、それぞれアイスコーヒーとアイスティーのモンブランケーキセットを頼んだ。一方、和希は店内の観葉植物に隠れるように座ってメニュー表を開いた。周りのテーブルでも同じケーキセットを頼んでいる人が多く、改めてメニュー表を見れば、写真付きでそれが〝大人気〟と書かれていたため、和希も同じものを注文する事にした。その場所からは少し体を傾けないと二人の姿は見れず、当然ながら話している声も聞こえない。でも身振り手振りで楽しそうに話しているのを見ると、おそらくさっき観た映画の話で余韻を楽しんでいるのだろう、というのは推測できた。

 絢音たちの後に、和希の方にもケーキセットが運ばれてきた。〝モンブラン〟という名の通り、山のように盛られている。和希はそれを一口食べた。上にかかるねっとりとした餡は、甘みが抑えられている分、しっかりと栗の味を感じられた。中に詰まった栗のペーストと生クリームも甘さのバランスがとてもいい。確かに〝大人気〟になるな、というのはその一口でも分かったのだが…。そこから先は二人の様子が気になって、あまり味わえないまま食べ終わってしまった。しばらくして絢音たちも食べ終わったが、話はまだ続きそうに見えた。

(今のうちにトイレを済ませておこう…)

 待ち合わせをしているならまだしも、そうでない時に一人で時間を潰すというのは案外難しいものがある。しかも〝尾行中〟という状況では読み物にも集中できないし、読んでいるフリをしていても指を動かすペースがそれらしくできなくて、結果、早々に読むのをやめてしまうのだ。

 時間潰しも兼ねてトイレへ行った和希だったが、一旦席を離れ再び戻ってくると、さっきまでいた二人がいなくなっているのに気が付いた。

(え…!?)

 バッと扉の方を見ると、その向こうで二人が車に乗り込もうとしているのが見えた。和希も慌てて会計を済まして後を追う。車を出した時には既に何台もの車が間に入っていた。なんとかスピードを上げ数台を追い抜いていく。同じ車線から更にまた数台が途中で曲がっていったため、何とか見失わない距離にまで詰めることができた。あとは信号につかまらないことだ。そんな時、助手席に放り投げた携帯からメッセージの着信音が聞こえた。そんな場合でもなかったが、正直、そうであって欲しいとも思った。和希は何台も前の車の先に送っていた視線を、ほんの一瞬だけ光った画面に移した。そこに表示されていた中で見えたのは──

【水族館】

 ──という三文字だった。

(助かった…!)

 和希は心底ホッとして力が抜けた。送ってきたのは誠司だ。実は、和希が見失っても追跡できるよう、これまでにも行き先を知らせていたのだ。誠司に教えているのは絢音だが、それは万が一の事を考えてどこに行くかを知らせろと絢音に言ってあったからだった。ゆえに、その情報の目的が和希の尾行のためだとは知らないのだが。

 この先にある水族館なら場所は分かる、と和希の気持ちも楽になった。それから何度か信号でつかまって大きく離れたこともあったが、目的の場所に着いてチケット売り場に向かうと簡単に二人を見つけることができた。

 和希もチケットを買って中に入る。薄暗くなる中で二人の後をつけていると、時々、柏木の手が絢音の背中や腰に触れるのを目にするようになった。映画館を出た時に比べて、明らかに距離が近くなっている。ゆっくりと見て回る二人とは対照的に、和希はガラスの向こうをほとんど見ていなかった。鰯の大群もサメやマグロ、エイ、ペンギン、ラッコ、アザラシも─…なにひとつ目に入ってこなかったのだ。親密さが増していくたび、和希の気持ちが沈んでいく。その都度〝制裁のためだ〟と何度も自分に言い聞かせ、だから絢音もそんな気はないと思うのだが、いかんせん、絢音も嫌な顔ひとつせず楽しそうに見えるから不安と嫉妬がどんどんと募ってくるのだ。

(なにやってんだろう…)

 後をつけていて、だんだんとそんな気持ちが出てきた。だからといってこのまま帰ることもできず…結局、水族館を出てからも二人の車を追っていた。

 日が沈み、夜の街を走っていた車は大きなホテルの駐車場に入っていった。これには和希も慌てた。ただそこは宿泊者以外も利用できる食事処があるホテルのため、和希も駐車場に入ることができた。

 もしも部屋に入るような事があるなら、たとえ制裁のためでも阻止する…!

 和希は沈み込んでいた気持ちをはねのける勢いで車を降りた。

 何かあったらすぐにでも駆けつけられる距離、尚且つバレないような距離を保ちつつあとをつけていく。すると、二人がバー・レストランに入っていくのが見えた。照明を落とし、大人の雰囲気を演出した場所だ。〝もしも…〟が頭にあった和希は、そうでなかった事に安堵はしたが、その雰囲気に安心する事はできなかった。和希も二人に少し遅れて入っていった。

 店の一番奥にはバーカウンターがあり、テーブル席は仕切られた所とそうでない所があった。このうち二人が座っていたのは、仕切りのないテーブル席。和希は一人のため、できるだけ気付かれない奥のカウンター席に座った。そこから二人が向き合っている姿が見えるのだが、手前にバーテンダーがいるのと、照明の加減で向こうからは見えにくくなっている。和希はノンアルを注文した。

 既に注文が済んでいたのか、しばらくすると二人のところに料理が運ばれてきた。次いで柏木には赤ワイン、絢音にはロゼワインが注がれた。

(絢さんがワインを…? しかもあの量って…)

 本当に飲むのか、それとも形だけか─…和希は心配になった。〝乾杯〟とグラスを傾けてワインを口にする。絢音は少し驚いたようにワインを見た。以前ワインを飲んだ時のような渋い顔ではなく、〝意外に美味しい〟と驚いてるような顔だ。それを見て、柏木も嬉しそうな顔をした。そして料理を食べ始めると会話も弾んだようで、時折、笑う声も聞こえてきた。ワインも進み、料理を食べ終える頃にはグラスの中は空になっていた。

 和希は、二人が料理を楽しんでいる姿を見て大きく息を吐き出した。本当ならノンアルじゃなく、強いお酒でも飲んでいたいくらいの気分だ。でも車で来た以上そういうわけにはいかない。何かあれば、すぐに絢音を連れて帰らなければならないからだ。もちろん、本音は今すぐにでも─…だが。ただ理由もなくそれはできないし、何事もなく柏木が絢音を送り届けるなら、そこまで見届けなければ──…と思ったところで、ハッとした。

(元カレも車のはず─…なのにお酒を飲むって──)

 お酒を飲むという事は、これ以上車は運転しないという事だ。じゃぁ、どうやって絢音を送るのか。タクシーをつかまえる? 自分の車は? 代行を利用するのか? でもデートでそんな事をするのだろうか、いや、しないだろう。だとしたら──

(まさか、このホテルに泊まっていく…!?)

 その結論に、それまで丸まっていた背筋がピンッと伸びた。まさかと思うが、その可能性が一番ありうる事だった。

(いやいや─…いやいや、ダメですよ絢さん…!?)

 焦りと心配で心臓が騒がしい。そんな時、二人の元へ食後のデザートが運ばれてきた。


 プレートには、ガトーショコラとアイスのチョコレートがけがのっていた。

「んー、美味しそう」

「仕上げはこれからだよ」

「これから?」

 柏木はそう言うと、スタッフに目で合図した。スタッフはそれを受け、リキュールをアイスにかけて火をつけた。青い炎がボワッと立ち上り、すぐに小さくなってアイスの周りを彩った。しばらくして火が消えると、ここでようやく完成だ。スタッフも一礼して戻っていった。

「よくテレビで見るやつね」

「ただ甘いだけじゃなくて、少し大人の味になるんだ」

「大人ねぇ〜」

(ぶっちゃけ、リキュールもこの演出もいらないんだけど…)

 絢音はアイスを口に入れつつ、心の中で小さな溜息をついた。

 味は確かに大人だが、思った通り普通に食べた方が美味しいだろうと思った。

「ここは、このガトーショコラが人気でさ、これだけを食べにくる人もいるらしいんだ」

「そうなの?」

 溶けるアイスを食べ終わるタイミングで柏木が言った。絢音も〝どれどれ?〟とガトーショコラを食べ始める。

「ほんとだ、美味しい!」

「だろ?」

 絢音の言葉に柏木は満足そうな笑みを浮かべた。

(確かに美味しい。美味しいけど─…前に食べたガトーショコラの方が美味しい気がするのはなんでだろう…?)

 〝美味しい〟という表情を向けながらも、絢音はいまいち心からそう思えないでいた。

 そうしてケーキも食べ終わり、最後に紅茶を飲んでいると…。

「この後なんだけどさ─…」

 柏木が両腕をテーブルの上に置いて少し身を乗り出した。

「夜景でも見に行かないか?」

「夜景? どこの?」

「ここの上から」

 柏木はそう言って人差し指を上に向けた。

「上って─…もしかして屋上?」

「屋上─…んー、まぁ、近いかな」

(最上階の部屋だから、間違ってはいないよな)

 柏木は、自分の言葉を心の中で正当化した。そして更に続けた。

「なぁ、絢音?」

「うん?」

「オレたち、もう一度やり直さないか?」

 思わぬ柏木の言葉に、絢音は〝はぁ?〟という反応さえできなかった。

「今日一緒に過ごして改めて思ったんだ。やっぱり絢音と一緒だと楽しいって。それに、オレたちケンカして別れたわけじゃないだろ? 高校卒業して、お互い進む道が違って自然消滅っていうか──」

「まぁ、それは─…」

(自然消滅どころか、私が一方的に切っただけなんだけど…)

「それがさ、こうやって二十年以上ぶりに偶然出会って、しかも二人とも独身って、運命だと思うんだ」

(運命…!)

 あまりにもドラマっぽいセリフで、思わず吹き出しそうになった。でもそこはグッと我慢した。

「偶然とはいえ、再会して数週間でそういう気持ちになるもの?」

「好きになるのに時間なんて関係ないだろ? それにもともとオレたちは好きあってたんだし」

「だからって──」

「恋愛に偶然はつきものだよ。逆に言えば、偶然は恋愛への入り口だ」

「偶然は人を勘違いさせる、っていうのが私の考えだけど?」

「ハハハ、相変わらず面白いな」

「そういう隼人も相変わらずでしょ。優しいし、顔もイケてるし、その上独身─…って、他に言い寄ってくる人とかいるんじゃないの?」

「まさか!」

「じゃぁ、逆に好きな人は?」

「いたら、絢音に〝もう一度やり直そう〟なんて言わないよ」

「まぁ、それもそっか」

「だから──」

「悪いけど、帰るわ」

「え…?」

 絢音は柏木の言葉を遮って笑顔で言うと、スッと立ち上がった。

「私、嘘をつく奴と人を利用する奴って大っ嫌いなのよね」

「は? 絢音、なに言って──」

「言った通りよ。二十数年ぶりに会って──」

 ──と言いかけて、急に頭に血が上ったみたいに顔が熱くなり、周りの声が聞こえにくくなった。

(やばい…早く帰らないと──…)

「と、とにかく…隼人と付き合うつもりはない。そういう事だから──」

 そう言って踵を返した時だった。目の前の景色がグラッと揺れるのと右手を掴まれたのは同時だった。その反動と視界の歪みに体がついていかず、転びそうになったその時──

 左肩が誰かにぶつかる感覚がしたかと思うと、そのままグッと体を起こされた。力が入らず体を預けてしまったが、同時に爽やかな香りがふんわりと漂ってきた。

(…和…くん…?)

 そう思った直後、まさにその声が耳元で聞こえた。

「絢さん、大丈夫ですか?」

 その声にようやく絢音が顔を上げた。目の前にいる和希に驚いたが、同時にホッとした。

「和くん、どうして──」

「迎えにきました。帰りましょう、絢さん」

「あー…うん、そうね…帰ろう…」

 首のあたりで心臓の音が響き呼吸も早くなる中、なんとかそう言って歩こうとしたのだが、

「絢音──」

 柏木の声が聞こえるのと同時に、掴まれていた右手がグッと引っ張られた。振り解く力も入らず、再び体のバランスを崩しそうになるのを和希がグッと引き寄せる。

「すみません、その手を離してもらえますか?」

 言葉は丁寧だが、自分でも驚くほど声に怒りが混じっているなと思った。

 明らかに年下の、それも見知らぬ男──誠司の店にいたとは気付いてないのだろう──が突然現れ、自分の目の前から連れ去ろうとしている事に、柏木も気分を害していた。

「誰なんだ、君は? 突然現れて──」

「彼氏です」

 極々当然のように言った。なぜそんなにもスッと出てきたのか、和希自身にも分からなかったが、その言葉には柏木だけじゃなく絢音も驚いて顔を上げた。

「な、なにを言ってるんだ? どう見たって君は二十代だろ。絢音は──」

「三十二です。二十代ではありません」

「ハハハ、変わらないよ。大体、絢音は君みたいな年下より──」

「ほんとよ」

 絢音が遮るように言った。早く帰りたいのはもちろんだが、和希に対する発言に腹が立ったのだ。

「和くんは私の彼氏。久しぶりに高校の同級生と再会したって言ったら、楽しんでおいでって広い心で送り出してくれるような、そんな大人なのよ。だから離して、この手」

 絢音に言われて、柏木はようやく手を離した。

「それから─…今日のデート、記念に録音しといたから」

「え…!?」

「高校の股掛け交際も最悪だったけど、二十年以上経っても改めるどころか、人妻に手を出すようになるなんてね。慰謝料の請求も覚悟した方がいいかもよ?」

「─────ッ!!」

 それは、柏木が全てを悟った瞬間だった。高校の股掛け交際も、絢音と自然消滅した理由も、人妻に手を出していた事も、デート中の記録を残すためにわざと賭けスピードに負けた事も、全てだ。

 柏木の顔から血の気が引き、ふらふらと後ろの椅子に座り込んだ。もうそれだけで、人妻からは手を引くだろうというのは分かった。絢音は〝じゃぁね〟と言うと、和希に支えられながら店を後にした。


 和希が車の助手席に絢音を乗せた後、自分も運転席に乗り込んだ。肩で息をする絢音に話しかける。

「大丈夫ですか、絢さん?」

「んー、大丈夫…でも、ゆっくり走って…」

「分かりました。あと…家まで送るので場所を──」

「あー、いい、いい。誠司くんの店で下ろしてくれたらそれでもう─…」

「でも自分の家の方が──」

「ううん、誠司くんの店でいい…」

「…そうですか。じゃぁ、誠司さんに電話しておきますね」

「うん…」

 和希は報告も兼ねて誠司に電話を掛けた。まだ仕事中だが二回目のコールで誠司の声が聞こえた。

『おー、和希。どうだった?』

「今から絢さんを連れて帰ります」

『そうか。絢ねぇのミッションは無事に終えられたのか?』

「終えられたんですけど…」

『けど? どうした?』

「それが─…ワインを一杯飲んだのでちょっとフラフラで…」

『マジか…』

「それで家に送ろうと思ったんですけど、誠司さんの店でいいって言われて─…そっちに向かっていいですか?」

『それは別にいいけど─…』

「じゃぁ、店に向かいます」

『分かった。急がなくていいぞ。ゆっくり走ってこい』

「はい。じゃぁ、あとで…」

『おー』

 それで電話は切れた。和希は再び絢音に話しかけた。

「じゃぁ、動きますね、絢さん?」

「んー…」

 和希はゆっくりとアクセルを踏んだ。苦しそうな呼吸が静かな音楽の中に混じって聞こえてくる。心配しながら横目で絢音を見ると、虚な目で外を見ていた。

「寝てていいですよ?」

 和希の言葉に、外を見ていた絢音の顔が運転席の和希に向いた。

「…全力疾走したあとのさ─…」

「はい?」

「あの呼吸で寝れる…?」

「いや、それはさすがに─…」

「でしょー…そうなのよ。こんな呼吸だとさ…息苦しくて眠れないんだよね…」

「な、なるほど…」

「でも…和くんが来てくれて助かった…」

「ワイン、美味しかったですか…?」

「んー…どうだろ…。赤と白よりは飲みやすかったけど…梅酒の方が美味しい…」

「そうですか…」

 和希は少し笑ってしまった。

「ちょっとさ…愚痴ってもいい…?」

「もちろん、どうぞ」

「映画は…もっと笑えて楽しいのが良かった…」

「コメディが好きなんですか?」

「笑えるって幸せじゃない? 笑えてちょっと泣けるとか…観ていて幸せなのがいい…」

「なるほど…覚えておきます」

「…それから…オシャレすぎるのは落ち着かない…」

「カフェの事ですね?」

「オシャレな人間じゃないからさ…ガラじゃないっていうか…居心地悪くて…。誠司くんの店が一番落ち着く…」

「僕もそう思います」

「暗いのも嫌…」

「水族館ですか?」

「水族館はいい…。あれは魚のための暗さだし…美味しそうだったから…」

「美味しそう!? え、美味しそうって思って見てたんですか?」

 意外な言葉に思わず絢音の方を振り向いた。

「そうよ…あのマグロはお寿司で何人前なのかなー…とか、サバも脂が乗ってそうとか─…あんなに鰯がいたら入れ食いだなーとか─…」

 そう言ったところで和希はたまらず吹き出していた。あんなに楽しそうに話している時に、心の中でそんな事を思ってたとは…。心の声が読めていたら、自分も水族館を楽しんで見れていたかもしれない。

「えー…なに、おかしい?」

「い、いえ…おかしくはないですけど─…確かに、僕もそう思いますし…。でもまさか、デート中にそんなこと考えてたとは思ってなかったので…」

「関係ないわよ、そんなの。…だってもう小さい時から〝食〟として認識してるんだから、今更〝鑑賞物〟としては見れないって…。その証拠に…ペンギンを見て〝美味しそう〟とは思わないでしょ?」

「で、ですね…」

「…そう。そういう事なのよ…」

「…分かりました。──じゃぁ、暗いのが嫌っていうのは?」

「さっきの店よ…。照明を落としてたり、間接照明だったり─…本来の色がちゃんと見えないのって嫌いなんだよね…。電気の色もオレンジっぽいのじゃなくて白い色が好き…。人の表情も顔色もハッキリと見えるしさ…」

「なるほど…」

 〝顔色〟と聞いて、それは職業的な事もあるのかもしれない…と和希は思った。

「他に愚痴は…?」

「ナイフとフォークの食事は面倒…」

 和希はまた笑ってしまった。

「食べた気がしないですか?」

「しない…。箸のほうが使いやすいし…」

「分かりました。それも覚えておきます」

「うん…。あとはー…夜景は見たかったかなぁ…」

「夜景…?」

「…そう。〝夜景を見に行かないか〟って言われたんだけどさ…すぐに〝もう一度やり直さないか〟って言われて話が飛んじゃってね…」

「夜景って、どこのですか?」

「んー…屋上?」

「屋上? 屋上って、さっきのホテルの?」

「そう…。上を指さしてたからね…。〝屋上?〟って聞いたら〝それに近い〟って─…」

「そ、それダメなやつですよ、絢さん…!」

 驚いて、また絢音の方を向いた。

「…なにが?」

「なにがって─…」

 ホテルの屋上なんて─…いや、大抵の高い建物は安全対策として屋上は立ち入り禁止だ。つまり、それ以外で高いところから夜景を見ると言ったら部屋しかないわけで─…それに気付かない絢音に驚いた。だけど同時に、誠司の言葉も思い出した。

 〝情に絆されたり、ありきたりの常套句を間に受けたりすることもあるし…〟

(言われた言葉をそのまま受け取ったってことか…。いや、それにしても危ない─…)

「屋上はそう簡単に出られないんですよ、安全上─…」

「そうなの…? でもよくドラマとかで屋上のシーンとかあるじゃない…?」

「まぁ…うん、まぁ、そうですけど─…。でも、普通は立ち入り禁止で出られないので、そんな言葉を間に受けたらダメです」

「…そっか、分かった。──ってかさ、和くん、ずっとつけてきてたんだ?」

「え!?」

 突然の指摘に、ハンドルを握っていた手が大きく揺れた。その動揺が返事だと分かって、絢音はクスッと笑ってしまった。

「そっか…私が居場所を伝えてたのはそういう事だったのね…」

「あー…いや、そのー…」

 言い淀んだが、愚痴の中で絢音が言う前に〝カフェ〟や〝水族館〟と口にしていたのだ。その時点で弁解の余地はない。和希は怒られるのを覚悟で、本当の事を言うことにした。

「すみません─…誠司さんからデートの理由を聞いて、もし何かあったらって思ったら心配で…それで──」

「あー…うん、分かってる。心配してくれたんだろうなっていうのは…。むしろ、あそこにいてくれて助かったからさ…。ありがとう、って言いたくて…」

「いえ、そんな…。でも、もうこういう事はしないでください。僕はもう…絢さんが他の誰かとデートしてるなんて、嘘でも見たくないです…」

 そう言った和希の横顔に、絢音の胸がキュッと小さな痛みを感じた。思わず小さな溜息と共に心の声が漏れる。

「ほんと、胸が痛い─…」

「え…?」

「あー…ううん、ごめんねって言っただけ。今度、お詫びも兼ねてご馳走するから─…それよりさ、ちょっと冷房小さくしてもらっていい? 寒くなってきた…」

「あぁ、すみません。酔いが覚めてきたんですね」

 和希は少しホッとして冷房の温度を上げた。そして、ちょうどその時に信号で止まったため、後部座席に投げ込んであった上着を取って絢音にかけてあげた。

「あー…ありがと…」

 絢音は自分で上着を鼻先まで被ると、しばらくして〝ふふふ…〟と笑った。

「え、どうしたんですか?」

「んー? ふふ…なんかさ、やっぱり好きだなーと思って」

「え!?」

「この匂い…なんかすごく安心するんだよねー…」

 絢音は、再び大きく鼻で息を吸った。

「あ、あぁ、服の─…」

 一瞬、自分の事を言ったのかと思って胸が高鳴ったが、そうでないと分かって、これまた一瞬にしてテンションが下がった。当然だが、そんな事に気付かないのが絢音だ。絢音は〝んー…なんでだろう…〟と首を傾げながらも、気が付くと小さな寝息を立てていた──


 誠司の店に着いたのは、夜の九時過ぎだった。起こした絢音は足のふらつきこそなかったものの、ただただ眠くて仕方がなく─…休憩室に上がった途端、和希の上着を持ったままソファに倒れ込んでしまった。

「絢ちゃん、お化粧だけでも落としてから寝なさいな」

「んー…」

「絢ちゃん─…」

「…分かってるって、ママ…」

 そう言うも、目は閉じたままで起き上がる様子はない。

「肌がボロボロになっちゃうわよ?」

「…一日くらい…平気だって…」

「その一日が大きなダメージになるんだからね?」

「…だから…化粧って嫌い…」

「んもう、しょうがないわねぇ…」

 ママは大きな溜息をつくと、和希にある事を頼むことにした。

「和くん、悪いんだけど絢ちゃんのお化粧、落としてあげてくれない?」

「え…!?」

「これで拭き取ってあげれば簡単だから──」

 言いながら、棚の引き出しからクレンジングシートを出して手渡した。

「お客さんも待たせてるし─…お願い、和くん」

「あぁ、はい、分かりました…」

「…良かった。じゃぁ、あとお願いね」

 ママはそう言うや否や、サッっと店内の方へ戻って行った。

 和希は戸惑いながらもクレンジングシートの〝使い方〟を読んで、絢音の顔にシートを当てた。ジュワッと染み込むような間を置いて、サッと拭き取るとシートに化粧の色が付いて、絢音の顔には本来の肌の色が見えた。

「ん…冷たくて気持ち良い…」

 絢音はもっとやって…と顔を上に向けた。和希はその顔にドキドキしながら、だけどいつもの見慣れた絢音に戻っていくのが嬉しかった。

「襲うなよ?」

「ぇ…えぇ…!?」

 それは化粧を拭き取り、いつもの絢音に戻った寝顔を見ている時だった。突然上の方から聞こえたのはもちろん、その内容に驚いてキョロキョロと顔を動かせば、誠司が階段の真ん中あたりで座ってこっちを見て笑っているのが見えた。

「し…しませんよ、そんな─…」

「そうか? キスくらいはしようかなーとか思ってたように見えたけどな、オレには?」

 言いながら夏用の薄い掛け布団を持って降りてきた。

「思ってませんって─…そんな…相手の気持ちがあってのものなのに…」

「ハハハ、同意なしにはできないってか?」

「そりゃそうですよ。 それに─…気持ちがないのにキスしても虚しくなるだけだし…」

「あー…まぁ、それはそうか…」

 寝ている時にキスをしても、それは自己満足に過ぎない。相手はキスされた事も気付いてないわけで、酔った時のキスを相手が覚えてないと分かった時の虚しさと似てるのかもしれない。更に言えば、心のないキスは人形にしているのとそう変わらないのだ。それくらい、虚しいということだろう。

(ほんと、好感度しか上がらないな、和希は…)

 それはそれで嬉しい事で─…だからこそ、和希を応援したくなるのだ。

「──で、なんで上着を握りしめてんだ、絢ねぇは?」

 布団をかける前に、握りしめた上着を離そうと引っ張ったが、取られまいとする反射なのか更にギュッと握られてしまった。

「おぃ、絢──」

「あ、あぁ、いいんです、このままで…」

 和希が止めた。

「でもお前の上着──」

「大丈夫です、ほんとに。このままにしてあげてください」

 起こしたくないというのもあるが、自分の上着を離さないようにしているのが、たまらなく可愛くて嬉しかったのだ。

「…まぁ、お前がいいならいいけど」

 和希の表情からその気持ちは伝わってきて、誠司はその上から布団を掛けた。

「これでよし、っと。──そういや、メシは食ったのか、和希?」

「あぁ…いえ、まだです。そんな気分でもなかったので─…」

「なら、こっちに来い。飯作ってやるから。今日はタダだぞ」

「え、ほんとですか…!?」

「食う気になっただろ?」

「はい!」

 〝タダ〟が理由でない事は分かっている。ミッションが成功したのもあるが、何より絢音が無事に戻ってきた事が一番なのだ。

「よーし。じゃぁ、ミッション成功までの話、聞かせろ」

「分かりました」

 誠司は部屋の電気を消すと、和希と共に店の中へと戻って行った。

 和希は夕食を食べながら、デート場所での絢音の様子や途中で見ているのが辛くなってきた事、帰りに絢音が吐き出した愚痴まで全部、誠司に報告した。話し終えた時には気分もスッキリしていて、食後に飲むお酒も美味しく感じられた。

 夜の十時を過ぎると、仕事を終えた誠司が和希の隣に座り遅めの夕食を摂り始めた。いつもなら和希は帰る時間だが、今日の事があったため翌日はあらかじめ有給を取っていたのだ。

 和希はまだ話してない事で、疑問に思っている事を聞いてみることにした。

「誠司さん…」

「うん?」

「匂いで安心するってどういう気持ちなんですかね…?」

「は?」

 突然の疑問に、ビールを飲もうとグラスを持っていた手が止まった。

「アロマ的なものなのか、好きな匂いだから安心するのか──」

「いやいや、待て待て。話の前後が分からん。──ってか、何がどうなってその疑問が出てきた?」

「あー…いや、あの…上着です」

「上着?」

「帰りの車で上着を掛けたんです、絢さんに。酔いが覚めると寒くなってくるじゃないですか。冷房をかけていたので、上着を掛けたんですけど、〝この匂い、安心する…〟って言われて─…」

「あぁ、そういう事か…」

 誠司は、さっきの上着を絢音が離そうとしなかった理由が分かった気がした。

「アロマ的なものでも、好きな匂いだから…っていうのもあるだろうけど、一番は嗅ぎ慣れてるからじゃないか?」

「嗅ぎ慣れてる?」

「まぁ…〝嗅ぎ慣れてる〟って言うと、なんか聞こえが悪いけどな。けど、匂いって記憶と結びつきやすいんだよ。匂いひとつで当時の思い出が蘇ってきたりとか、あるだろ?」

「あー、確かにありますね」

「旅行でどんなに良いホテルに泊まっても、帰ってきたら〝やっぱり自分の家が落ち着くー〟ってなるのは、住み慣れた家で、家具や配置とかが見慣れてるからだ。そこにきて、自分の家の匂いがある。──つまり、それだけ絢ねぇがお前と一緒にいる時間が長くなったって事だと思うけどな。お前だって、いつもの時間、いつもの場所に絢ねぇがいたら安心するだろ? それと同じだ」

「つまり…匂いで僕を思い出してる…?」

 それは誠司に尋ねるというよりは、ほぼ独り言だった。

(僕を思い出して安心してるって事なのか…?)

 だとしたら、こんなに嬉しい事はない。和希はそれだけで今日の疲れも気持ちの落ち込みも吹き飛んだ気がした──


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ