10 賭けスピード
例年より三日遅れて、長い梅雨がようやく明けた。
数日前から晴れの日は続いていたが、〝梅雨明け〟と聞くと一気に夏の日差しに感じてくる。スーツ姿の会社員も上着はなく、色味的にも見た目は涼やかだが、職場に着く頃にはみんな汗だくになっていた。
絢音と和希は、梅雨が明けたのをキッカケにシャワーを浴びてから誠司の店に行くようになった。
ある日、和希が店の扉を開けると、複数人の〝あーーー !〟という叫び声にも似た大きな溜息が飛んできた。驚いて声がした方を見れば、常連客がテーブル席の中心に集まっている。その更に中心には、絢音と名前の知らない男性──常連客として顔は知っている──が、テーブルを挟んで座っているのが見えた。男性の方は頭を抱えるようにして天井を仰ぎ、絢音は余裕の表情でにっこりと微笑んでいた。テーブルの上には、数字が見えるように重ねたトランプの山が二つできていた。
「何かすごい盛り上がってますけど─…何してるんですか?」
和希がチラリと誠司を見て聞いた。
「賭けスピードだ」
「賭けスピード?」
「簡単に言えば、トランプのスピードで賭け事をするってやつだ。知ってるだろ、〝スピード〟?」
「それはもちろん…。でも、大丈夫なんですか賭け事なんて─…」
「大丈夫、大丈夫。賭けるのは金じゃなくて、酒とか手料理とかデートとか、そういう〝人の願い〟みたいなもんだから」
「あぁ…」
「ちなみに、あそこで項垂れてるのは写真館の店長…二代目な。賭けたのは、絢ねぇのウェディングフォトだ」
「ウェディン─…!?」
「店頭に飾りたいらしい。まぁ、本音は絢ねぇのウエディングドレス姿が見たいっていうのと、それを着たら絢ねぇの気持ちも変わるんじゃないかっていう期待だけど」
「みんな同じ気持ちなのよ。だから毎回、応援に熱が入っちゃって…」
「え、毎回!?」
ママの言葉に和希が〝どういうこと?〟と振り向いた。
「お店継いだ時からだから─…もう七年になるかしらね」
「七年!?」
「そっ。七年前から毎回、同じ内容を賭けて毎回負けてんだ」
「えー…」
「でも、彼だけじゃないのよ。絢ちゃんの結婚に関する賭け事って」
「他にもあるんですか?」
「常連客の一人─…美容師の健ちゃんは、絢ちゃんが結婚する時のヘアセットは、オレにやらせてくれ、って」
「まぁ、全敗だけどな」
「それから、健ちゃんの奥さんも結婚する時のメイクを賭けてたわね」
「それもリベンジならず、だった」
「あとネイルも──」
「え、ちょ、ちょっと待ってください」
話から、ふと疑問が浮かんだ。
「全部、早瀬さんとの勝負じゃないですか?」
「そりゃ、〝絢ねぇ〟対〝お客〟だからな」
「え…!? じゃ、じゃぁ、手料理とかデートって早瀬さんと…!?」
「あぁ。常連客は、みんな一度は賭けてるぞ。けど、その手の賭けで絢ねぇが負けた事は一度もない。集中力がハンパないんだ。何せ、高校の時にこういうゲームが好きな奴がいて、毎日のようにやってたらしいからな。今でこそ勝率八割だけど、二十代の頃は無敵だった」
「そうなんですか…」
賭ける事が絢音の手料理やデートというのは焦ったが、負けた事がないという実績にホッとした。
「だから、みんなこぞって絢ねぇと勝負したがるんだ。何とか勝ちたいって思ってな」
「でも、それだと早瀬さんが大変じゃないですか? 自分一人でお客さんを何人もって…」
「だから賭けスピードは一人一回、十人までって決めてある。それからその賭けに乗るか乗らないかは絢ねぇ次第だし、賭け方も二種類ある。〝ストレート賭け〟か〝リターン賭け〟か、だ」
「ストレート賭け…?」
「例えば〝酒を奢る〟って事を賭けて絢ねぇが勝ったとしたら、当然〝奢らなくていい〟って事だ。それで終わりなのが〝ストレート賭け〟。〝リターン賭け〟は、絢ねぇが〝賭けるもの〟を追加した場合だ。酒の場合だったら、絢ねぇは酒が飲めないだろ? だから代わりに〝夕飯を奢ってもらう〟っていう条件を追加したりするのが〝リターン賭け〟って事」
「なるほど。あくまでも、主導権は早瀬さんって事なんですね?」
「そういう事。どうだ、お前もやってみるか?」
「え…?」
「今なら勝てる可能性があるぞ? さっきお前が言った通り、この賭けスピードは絢ねぇが不利だ。いくらルールがあるとはいえ、このゲームは集中力がモノを言うからな。勝率八割の所、ただ今七連勝中。つまり、絢ねぇの集中力もそろそろ切れてくる頃だ。勝つなら今だぞ?」
「いや、でも─…」
「まぁ、賭けたいものがないなら別にいいけど」
──と言ったところで、八人目が名乗り出た。酒屋のサカズキだ。同時に、扉の鐘が響いて若い男性が入ってきた。二十代前半だろうか、金髪で奇抜とも思える服装だった。和希は初めて見る人物だが誠司たちは知っているようだ。
「賭けスピまだやってる?」
「あぁ。今、八人目だ」
そう言って顎を〝クイッ〟と向けると、ちょうどサカズキと絢音との会話が聞こえてきた。
「オレが勝ったら一緒にカラオケ行こう」
「またカラオケ?」
トランプを軽くシャッフルしながら、呆れたように返した。
「私がカラオケが嫌いなの知って、なんでそればっか─…」
「絢ちゃんの歌が聞きたいんだよ」
「絶対ウソ。単純に確かめたいだけでしょ」
「そんな事は…純粋に歌って楽しみたいって──」
〝受ける•受けない〟は絢音次第。試合前に却下されないようにとサカズキも必死だ。それを見て、和希が疑問を口にした。
「どうしてそんなに嫌がるんですか? それに確かめたいって…?」
その問いに、誠司が小さな声で言った。
「歌が苦手なんだよ」
「苦手…?」
「音痴だって話だぜ。オレも聞いた事はないけど」
誠司の代わりに答えたのは、〝奇抜な彼〟だった。
「もしサカズキのおっさんが勝ったら、オレも入れてもらおうっと」
奇抜な彼はとても楽しそうだ。その顔を見て、和希は思う。
(歌が下手でも全然構わない。むしろ、早瀬さんが楽しめるなら一緒にだって歌いたい。でも─…歌の下手さを確かめたいとか面白そう…という理由なら、賭けなんか受けなくていいし、受けても絶対に勝って欲しい…)
そう思っていると、ややあって絢音のシャッフルしていた手が止まった。
「じゃぁ、私が勝ったらボウリング奢って。二回分」
「よしきた!」
奢る事など問題ない。重要なのは勝負できるという事なのだ。サカズキは〝じゃぁ、オレが配る〟と、絢音からトランプを受け取った。そして更にシャッフルする。
「今の勝率って?」
様子を伺いながら、そっと〝奇抜な彼〟が誠司に聞いた。
「全勝中」
「──って事は、サカズキのおっさんが負けたら可能性は高くなるな」
「そうなるな」
「え…? それってもしかして君も勝負を?」
和希が聞いた。
「もちろん。そのために来たんだし。──ってか、オレ、翔」
「あ、僕は──」
「知ってる。川上和希、だろ?」
「え、なんで僕の名前──」
「あーちゃんが連れてきた男だって、常連客の中では有名だぞ? それに親父から聞いてた通りの男だから、すぐ分かったし」
「は? え…あーちゃん? 連れてきた男で…有名─…?」
出だしから気になるワードが連発で─…本来なら言った本人に聞き返すところだが、和希は誠司に説明の目を向けていた。
「〝あーちゃん〟は絢ねぇの事。翔はさっき話してた健ちゃんの息子だ。今は装飾系のデザイン学校に通ってる」
「美容師の息子さん…」
常連客の一人である〝健ちゃん〟が父親で、装飾系のデザイン学校に通っているとなれば、話が伝わっている事も奇抜な服装も納得できた。
「それで、また賭けるのは〝スカート〟か?」
誠司が〝そうだろうな〟と思いながら尋ねれば、案の定、翔が〝ニッ〟と笑った。一方で、また疑問に思うのは和希だ。
「スカートを賭けるって?」
「絢ねぇにスカートをはかせたいんだよ、翔は」
「しかも、オレがデザインしたやつな。あーちゃん、パンツばっかだからさ。見てみたいじゃん、スカート姿のあーちゃん」
「それは─…」
〝確かに…〟と、和希も思ってしまった。
「けど、絶対に〝うん〟って言わないから、賭けでなんとか─…って思って勝負してんだけど──」
「親と一緒で連敗中なんだよな?」
「そうなんだよー。まずはここをクリアしないと、卒業制作にも取りかかれないし、オレの夢も遠のくんだ」
「夢…?」
和希の問いに、翔が〝そう〟と大きく頷いた。
「卒業制作で作ったウェディングドレスをあーちゃんに着せる夢」
「ウェディングドレス!? え! もしかしてそれってプロポーズ…!?」
ビックリした和希の反応と言葉に誠司は吹き出し、翔は〝は?〟と眉を寄せた。
「なに言ってんの? オレとあーちゃんは二十くらい離れてんだぞ? 結婚どころか恋愛対象でもないだろ」
「あ、そ、そうなんだ…」
勘違いした自分に恥ずかしくもなったが、それはそれでホッとした。それが顔に出ているから、誠司が更に笑う。けれど、その笑い声はデジャヴのような〝あーーー !〟という声に飲まれて聞こえなかった。話している間にスピードが始まっていて、勝負がついたのだ。
「はい、ボウリング二回ゲットー」
楽しそうな絢音の声が響いた。
「あー、もうほんと、絢ちゃんには敵わないよ」
「年々、俺たちは反射神経も悪くなるしな」
「若い挑戦者はいないのか、若い挑戦者は?」
「はいはーい! 次はオレが参加する!」
〝誰かいないのか〟と周りを見渡す常連客に、翔が手を上げながら名乗り出た。
「オレと勝負だ、あーちゃん」
翔は両手をバンッとテーブルについた。
「翔か…。──で、賭けるものは?」
「オレがデザインして作ったワンピース」
「またスカート…。いい加減、諦めたら?」
「簡単に諦めるな、ってよく言ってただろ?」
「諦めも肝心…っていう言葉もあるでしょうが?」
「これを諦めたら、オレは卒業できないんだよ」
「それ、卒業できない理由にしたいだけじゃないの?」
「ハッハー、聞いて驚くな? これでも学年上位で優秀なんだぞ?」
「だったら卒業できるでしょ。私がスカートをはかなくても、なんら問題ないじゃない」
「いーや、問題ある。これがクリアできなかったら、卒業制作のウェディングドレスが作れない」
「それは技術の問題?」
「──なわけあるか。単純にウェディングドレスを作るだけならどんなものでも作れるわ」
「じゃぁ、いいじゃない」
「よくない。オレは、あーちゃんに似合うデザインを作って、それを着てもらうのが夢なんだ。その為には、今日の賭けで勝つ必要がある!」
「着ない服作ってどうすんのよ…」
「着せる為に勝つ!」
何を言っても諦める気はないようで、絢音は〝ほんっと、親子揃ってしつこい…〟と溜息と共にカードを翔に手渡した。それが〝賭けを受ける〟という意思表示だった。
「よっしゃぁ! 今日で決めるからな!」
やる気満々に腕まくりをすると、椅子に座ってシャッフルし始めた。
「さて、と。夢に繋がる一戦─…お前は、どっちが勝って欲しい?」
「え…?」
〝どっちが勝つと思う?〟なら分かるが、まさか〝どっちが勝って欲しい?〟とは…。意味が分からず答えられないでいると、
「絢ねぇのスカート姿、見たくないのか?」
──と、分かりやすい質問に変わった。思わず和希も本音が出る。
「そ、それはもちろん──」
見たいけれど賭けには勝って欲しいという複雑な気持ちで、最後の言葉をグッと押し込めば、そのタイミングでみんなの声が響き渡った。
「…ゴーー!!」
その声で二人の手が弾かれるように動いた。タンタンッと前にカードを二枚出せば、流れる速さで手持ちのカードを二枚タンタンッとめくって出す。そして相手が出した数字も一瞬で見分け、カードを右の山、左の山へと出していく。出すカードがない時以外、常に手が動いていた。
(早っ…)
和希はその早さに見入った。──が、それ以上に見入ってしまったのは、真剣な絢音の横顔だった。もちろん真剣勝負のため当然の事なのだが、普段見ない姿というのはとても新鮮で、見惚れてしまうのだ。そんな時、どっと歓声がわいてハッとした。
「ハハッ! 勝ちやがった、あいつ!」
「え…!?」
改めて二人を見れば、翔は両手の拳を突き上げ、絢音は一枚だけ残ったカードをテーブルの上で悔しそうにトントンと打ち付けていた。
「やっと勝てたぜ! あーちゃん、約束だからな!」
「はいはい、ワンピースね…。ワンピース…」
絢音は溜息混じりに繰り返すと、〝ちょっとトイレ〟と言って席を離れた。
「絢ねぇのスカート姿って、高校の制服以来じゃないか?」
「え、そんなに…!?」
「そもそも、私服でスカートはいてた記憶って小学校だったような─…」
「えぇ!? 逆に、なんでそんなに嫌がってるんですか?」
「ベースは、単純に一番動きやすくて楽なのがパンツだからだろ」
「それ以外は…?」
「〝ガラじゃない〟ってところか? 性格も言葉もキツイところがあるし、スカートはいた〝女性らしい自分〟っていうのが嘘っぽくて嫌、みたいな?」
「う〜ん、そんな風には感じないですけどね…。女性として素敵だと思うし─…」
「好きになればみんなそう思うさ」
(だからこその〝自己防衛〟なんだろうけどな…)
学生時代はともかく─…今はそれがスカートをはかない一番の理由だろうと、誠司は心の中で思った。
「まぁでも、オレにしてみれば単純に興味本意だけど。馬子にも衣装的な?」
「誰が馬子にも衣装だって?」
「のわっ!」
「は、早瀬さん!?」
「い、いつの間に…!?」
誠司の言葉通り、絢音がいつの間にかトイレから戻ってきて背後に立っていた。二人同時に横に飛び退けば、その間を通り抜けてテーブル席へと戻っていく。
「翔ー、言っとくけど、気に入らなかったら着ないからね」
「大丈夫だって。あーちゃんの好みもサイズもバッチリ把握してるから。気に入ってもらえる自信しかない」
「あっそ。──ってか、好みもサイズも言ったことないのに、どこからその自信がくるのか不思議でしょうがないんだけど?」
「人を見てれば大体分かるもんなんだよ」
「どうだかねー」
そう言った絢音は、賭けに負けた事よりもスカートをはく事の方が憂鬱そうだった。
誠司は再び和希に振った。
「お前はどうする?」
「え…?」
「十人目─…意気消沈している今が最も勝てる可能性が高いぞ?」
「えー…それ、逆なんじゃないですか? 今度は絶対に負けないって─…」
「そうか? オレにはスカートをはくって事の方が堪えてると思うけどな」
「それは─…」
確かにそれはそうかもしれないと思った。ただスカートの件が少なからず影響したとしても、さっきの勝負を見れば勝てる気がしないのは当然で…。とはいえ、ここでふと七夕祭の時に礼香に言われた言葉を思い出した。
〝一歩前進するには〝名前呼び〟が必須よ。それも〝人と被らない呼び方〟のね〟
(…確かに。勝てば堂々と名前で呼び合える─…)
何のキッカケもなく、突然〝名前で呼びたい〟とも言えない和希にとっては、ある意味チャンスなのだ。
気付くと、和希の口が動いてた。
「や、やります…!」
「いいねぇ! そうこなきゃ! ──おい、絢ねぇ、最後の挑戦者だ」
誠司がそう言って和希を指さした。
「おっ、川上くんね。いいよー、何を賭ける?」
「あ、えっと…なま─…」
──と言いかけて、ハッとした。
(いやいや、ここで言う?)
全員の目が自分に向けられ、和希は〝絶対、無理だ〟と心の中で首を振った。
「なま…? 生ビールって事?」
「あー、いえ、違いますっ!」
「じゃぁ─…なます?」
「ち、違います─…いや、あの…け、携帯! 携帯に送ります!」
何とか絢音だけに伝える方法を…と考えて、咄嗟に出たのがそれだった。
「携帯…?」
絢音が繰り返せば、同時に〝おいおい〟と周りがざわつく。
「ここで言えない事とはどういうことだ?」
「あ、あれだろ。あーちゃんの〝生足〟が見たいとか──」
「え! そうなのか、川上くん!?」
「違いますよ、そんな─…ただみんなの前でっていうのはちょっと、恥ずかしい…というか─…」
「ほ〜ぉ。恥ずかしい内容ってか──」
「はいはい。もう、ギャラリーは黙って。──ってか、うるさい」
大声で言ったわけではないが、絢音の言葉にみんなが一斉に黙った。
「いいよ。分かった、川上くん。メッセージ送って」
「は、はい…」
みんなから離れた場所で携帯のメッセージアプリを開いた和希。絢音は手の動きで周りの人を追い払い、送られてきたメッセージが他の人に見られないよう準備した。誠司は見てないふりをしながら携帯の画面をそっと覗き見していたが、当の本人は全く気付いていないようだった。和希の指が動き、次第に文章が繋がっていくのを見ていた誠司は、思わず緩みそうになる口元に慌てて手を当てた。
「じゃぁ、送ります…」
そう言って送信ボタンを押すと、同時に〝既読〟と表示された。絢音もトーク画面を開いて待機していたのだ。そこに表示された内容に、絢音は小さく微笑んだ。いや…〝笑ってしまった〟という方が正直なところだ。でも〝呆れた〟とか〝可笑しい〟とかそういうのではなく、胸の中がくすぐったく感じたからだった。絢音はもう一度読み返した。
【僕が勝ったら、お互いに名前で呼び合いたいです。他の人と被らない呼び方で…】
絢音はチラリと和希を見ると、反応が見たくて次のように返信した。
【じゃぁ、私が勝ったら一生〝苗字呼び〟ね】
──と。既読がついた瞬間、バッと顔を上げた和希の表情は想像以上で、絢音は思わず吹き出してしまった。既に、スカートの憂鬱はどこかに消えていた。
「じゃぁ、賭け内容はそういう事で。あと、難易度はどうする?」
「な、難易度!?」
まさかのリターン賭けで、しかも絶対に負けられない状況に焦っていた和希は、意外なオプションに更に焦った。〝そんなのあるなんて聞いてない〟と誠司に目を向ければ、〝あぁ、そうだった〟と補足説明をしてくれた。
「初級、中級、上級とあって、初級はいたってノーマル。ただ無言で集中して進めるだけだ。中級はゲーム中にお互いが問題を出し合う。回答する側は答えるまで手を動かせない。でもその答えは間違っていてもいいんだ。要は、いかに早く答えて自分のペースを保てるか、そして相手に問題を返せるかが勝負だな」
「上級は?」
「基本、中級と同じ。ただし答えが合ってないと、正解するまで手が動かせない。問題は何でもいいが、常識的にみんなが分かるものっていうのが暗黙のルールだな」
「さぁ、どうするー?」
一通り説明が終わって、今度は絢音が聞いた。絶対に負けられない勝負で、さっきルールを聞いた人間が無謀な選択などできるはずがない。
「じゃぁ、し、初級で…」
「了解〜。それじゃぁ、好きなようにカードを切って配ってくれる? ──あ、ちなみに入ってるジョーカーは一枚だから」
「え、ニ枚じゃないんですか?」
「本来のルールはそうなんだけど、何せ古いトランプだからさ、気付いたら一枚なくなってたのよ。でもまぁ、ジョーカーなんて一枚あれば十分事足りるし、何の問題もないでしょ? むしろ一枚しかないって事の方がグッと盛り上がる。さぁ、どっちに運が味方するのか、それを引き寄せられるかどうかは、今の川上くん次第よ」
「…わ、分かりました、頑張ります」
(──って、頑張ってどうにかできる事じゃないのに何言ってるんだ、僕は…)
ただカードを切るだけなのに、有利に働くジョーカーを手に入れるという〝運〟を引き寄せられるのか…と言われたら、無駄に緊張してくる。和希はカードを切るたび、配るたびに心の中で祈った。〝ジョーカーがきますように〟〝並んだ数字がきますように〟──と。何とか配り終えた和希はまとまったカードを手に持つと、一度目を閉じて深呼吸した。息を吐き切ったのを確認して、誠司が静かに言った。
「合図は〝賭けスピ・ゴー〟だ。いいか?」
「はい」
「それじゃぁ、行くぞ? 賭けスピ──…ゴー!」
それから勝負がつくまでは、ほんの一瞬だった──
時間は夜の十時過ぎ。和希は二十分ほど前に帰っていて、絢音と誠司は南北に走る大通りを南に向かって歩いていた。毎回ではないが、絢音が一人で帰る時は誠司が家まで送っていたのだ。
「この時間だと、結構過ごしやすい気温だな」
「まだ初夏だからねー。これからだよ、暑くて外に出るのが嫌になるのは」
「だから夏は店に泊まってく回数が増えるんだろ?」
「まぁ、それもある」
「それも?」
「帰るのが面倒くさい、電気代が浮く、もれなく朝食が無料でついてくる、それから──」
「おいおい──」
〝どれも自分のためだな〟と突っ込もうとしたところで、
「誠司くんが送らなくて済む」
──と言われて、その言葉を飲み込んだ。
「朝早くからこんな時間まで仕事してさ、その上、送ってくれて─…。ありがたいな…って思ってんのよ、これでも。ありがたいし、悪いなーって─…」
「…ンだよ、らしくないな。そんなこと考えてたのかよ?」
「考えてたのよ、これくらいは」
照れた誠司を見て、絢音はわざとらしく〝これくらい〟と小指の先を示した。
「少なっ!」
「あはは。でも、思ってるのはほんとだよ。だからさ、もうそろそろいいんじゃないかって」
「いいって何が?」
「送ってくれなくても。あれから随分経つし、何もなかったからさ。それに、少しでも自分の時間を作らないと、結婚どころか彼女もできないよ?」
「ほっとけ。これはオレのためでもあるんだよ」
(二度と同じ後悔はしたくないからな…)
誠司は心の中でそう言った。
「それに、オレの結婚を心配するなら、オレの代わりに送ってくれる彼氏でも見つけろ。そうしたら、早々に変わってやるよ」
「じゃぁ、しょうがない。誠司くんの結婚や彼女は諦めるわ」
「早い、早いっ! ──ってか、絢ねぇが諦めるっておかしいだろ」
「でも、誠司くんの代わりはいないし」
「いるだろ。ただ気付こうとしないだけで」
「そう?」
わざとなのかそうでないのか、絢音の反応は時々分からなくなる。誠司は一つ大きく息を吐き出すと、数時間前から気になっていた事を確かめることにした。
「あれ、わざとだろ?」
「あれって、何が?」
「賭けスピードだよ。和希との勝負で負けた」
「あー…あれは、ジョーカーを引き寄せた〝和くん〟の運じゃない?」
「それだけじゃないだろ。あいつがジョーカーを出す時、出せる手札の上にあった手が一瞬、迷ったからな」
「よく見てることで」
「まぁ、他の連中は気付いてないと思うから、そこはさすがだとは思うけど。──でも、良かったのか? 最近ずっと八勝続きだっただろ。あそこで勝ってたら久々に九勝だったのに」
「だってさー、賭けるものが〝名前で呼びたい〟って、可愛くない?」
「まぁ確かに。しかも〝他の人と被らない呼び方で〟ときた。〝アオハルかよ…〟とは思ったけど、なんかキッカケが欲しかったんだろうな」
「そこがまた可愛いっていうか…。ストレートに言えばいいのに、敢えてそれを賭けてくるっていうのがね、なんかもう胸が痛くなっちゃって…」
「母性本能ってやつか?」
「んー…母性本能ねぇ…」
「もしくは、〝和くん〟に負けず劣らず絢ねぇも〝アオハル〟ってことか」
「この年で?」
「年齢なんて関係ないだろ。特にああいう人間を相手にした時は。あの年であれだけ擦れてないっていうか、ピュアなのも珍しいぞ?」
「まぁ、確かにね。一緒にいると心洗われるというか、良い人になれるっていうか…」
(それが怖いとも思うんだけど…)
漠然とした怖さが何なのか分からないまま、けれど〝絢さん〟と呼ばれた時の感覚を思い出すと、胸の中が温かくなるのを感じた絢音だった。
最後の曲がり角で絢音の家が見えるところまで来ると、いつものように絢音は手を上げた。
「じゃ、ありがとね。おやすみー」
「おー、おやすみ」
背を向けて歩いていく絢音が家に入るのを確認して、誠司はその場を離れた。七夕の願い事といい、今日の賭けスピードの事といい、最近、頭によぎることがある。誠司は携帯を取り出すと、久しぶりに〝悠人〟から送られたメッセージを開いた。日付は十年前のものだ。
【誠司、今までありがとな。お前が親友で本当に良かった。こんなこと言ったら「ふざけんな」って怒るだろうけど、お前にしか頼めないんだ。頼む、オレの代わりにあーやを幸せにしてやってほしい】
あの日から何度も読んで考えた。自分だけじゃなく、家族でも話し合った。その結果が今の絢音だ。毎日笑っているけれど、根本的なところは変わっていない。一人で生きていくと決めた絢音は幸せなのだろうか。それとも〝誰か〟と一緒に生きていきたいと思える方が幸せなのか…。
(なぁ、悠人…絢ねぇにとっての幸せって何なんだろうな…)
周りが思う幸せと、絢音が本当に思う幸せの答え合わせができなくて、どこまで手を出せばいいのか悩む誠司だった──