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9 七夕の願い <2>

 翌日、絢音に〝覚悟した方がいいかもね〟と言われた〝むくみ〟は、その通りになった。店とはまた違う──家族のような──雰囲気で、絢音たちと過ごす時間が楽しかったのと、お酒に強い誠司やママのペースに引っ張られて、ついつい飲み過ぎてしまったのだ。

 なんとか家に帰りシャワーを浴びて寝たものの、起きて自分の顔を見て初めて〝やばっ…!〟と焦った。そんな時、絢音からメッセージが届いた。寝坊しないか心配した内容と、半日は二十代を堪能できるというタイムスリップの内容、そして今度は餃子パーティーをしようという内容だった。文字の向こうでそう言っている絢音の姿が目に浮かべば、嬉しさと可笑しさと楽しみが込み上げてきて、むくみの事など一瞬にしてどうでも良くなってしまった。七夕祭の会場に着いてもそのテンションは変わらず、二日酔いで重いはずの体が、無理をしても平気だった二十代前半のように軽く感じられた。それは仕事が終わった今も続いている。

「何があったの、幸せくん?」

 今日のイベントが終わり、短冊やペンを片付け始めた礼香が聞いた。実は朝からずっと聞きたくて、この時間まで我慢していたのだ。

「誰ですか、〝幸せくん〟って─…」

 〝確かにそうだけど…〟と思いながら、和希が笑ってツッコんだ。

「君しかいないでしょ。朝見た時は〝どうした、その顔!?〟って思ったけど、それ以上に幸せそうだったからさ。見ているうちに段々と、〝幸せくん〟にしか見えなくなって─…」

「だからって、人の名前をイメージで改名しないでくださいよ」

「いいじゃないの、ポジティブな改名なんだから。──それより進展は? 何かあったんでしょ?」

「いえ、別にないですけど─…」

「うそ…名前呼びは?」

「そんな、昨日今日でできるわけないじゃないですか」

「え、じゃぁ、その顔のむくみはなに? 良い事があって飲み過ぎたんじゃないの? それでむくんでても幸せって──」

「むくみは〝束の間のタイムスリップ〟です」

「はぁ?」

「むくんだらシワが消えて若返る、束の間のタイムスリップ。だからテンションが上がるっていう、早瀬さんの言葉です」

「むくんだらシワが消えて─…」

 その後の言葉を頭の中で繰り返した途端、礼香が吹き出した。

「なにそれ、面白い! ──ってか、確かにむくんだ時ってシワがないわ!」

「そうなんです。朝起きた時は僕も〝やばっ…〟って思ったんですけど、〝半日は二十代を堪能できるから〟ってメールで言われて、それもそうかって─…」

「へぇ…朝、メール来たんだ?」

 それはそれは…と礼香の顔が自然とニヤつく。

「昨日飲み過ぎたので起きれるか心配してくれたんですよ。次は餃子パーティーをしようとも言われたのでテンション上がっちゃて─…」

「なるほどね。そりゃ、〝幸せくん〟にもなるわ」

 朝から顔がむくんでいても幸せそうだったのは、そういう事かと納得した。

「あ、そういえば礼香さん─…」

 昨日の話から、和希がふと思い出した。

「早瀬さんからの伝言です。〝自分が幸せだと思う選択をすればいい〟って」

「ん? なんの事?」

「お見合いです」

「え…って、なんで君の想い人が知って──」

 ──と言いかけてハッとした。

「言ったの!? 私のお見合いの事!?」

「いや、あの─…礼香さんとは言ってないですよ? 言ってないですけど、推測されたというか──」

「いやいや、それ絶対バレるでしょ。川上くん嘘つくの下手だし、隠そうとしてもバレバレだし──」

「でも本当に年齢以外言ってなかったんです。〝誰の事だ?〟って詰め寄られてもいないし…でも─…」

「でも…?」

「昨日、ここで早瀬さんに言ったんです。〝相談したい事があるけど、ここではちょっと…〟って。そしたら、年齢と、その時に僕が周りを見た仕草だけで礼香さんだろうって推測したんです」

「うそ、それだけ!?」

「はい、本当にそれだけで──」

 嘘つくのも下手で、隠そうとしてもバレバレ──それはもう間違いないわけで、故に今の言葉も本当だと分かる。

「何その観察眼…」

「…そうなんですよね。だからもう、僕も〝違う〟って言えなくて─…」

「あー…まぁ、うん、そうね。それは仕方がない。──それで、〝幸せだと思う選択〟って、どういう事?」

「礼香さんが今幸せで、結婚にデメリットを感じるなら、自分が幸せになる結婚条件を提示すればいいんじゃないかって」

「自分が幸せになる結婚条件…?」

 和希が頷いた。

「ちなみに早瀬さんが礼香さんだったら、〝仕事は辞めない。お互い週三日のご飯作りとお風呂掃除、最低週一で部屋の掃除やトイレ掃除を二人でする〟っていう条件だそうです。それで〝ノー〟って言う相手なら、こっちから願い下げだ…って言ってました」

「なるほど…。つまり、〝こういう結婚生活だったら自分は幸せだ〟っていう条件を提示しろって事ね?」

「そうです」

「そしてその条件が難しければ難しいほど、簡単に見合いの席は用意できないし、条件に合わなければ断る理由にもなる─…」

「…ですね。」

「でも〝そんな人いるわけない〟って聞く耳持たなかったら?」

「〝結婚は孫が欲しい自分たちのためなのか、それとも娘の幸せのためなのか?〟って言えばいいって」

「───── !」

 言われて、ハッとした。今までずっと心の中にあったモヤモヤしたものが〝これだったんだ〟と分かったのだ。結婚にこだわらない自分がいる一方、この歳でウエディングドレスも孫の顔も見せられない事に後ろめたさがあった。〝結婚、結婚〟という親の気持ちも分からなくもないし、そう言うのも〝私のため〟と思うから、勝手にセッティングしたお見合いも受けてきた。だけど、それに反比例するように反抗する気持ちが強くなる。そんな自分も嫌で〝親不孝な娘〟だと自分を責めていたのも事実で…。正直、〝結婚〟という言葉を聞くだけでうんざりしていたのだ。でもようやく分かった。〝私のため〟と思いながらも反抗する気持ちが強くなっていたのは、言われる言葉が〝自分たち(親)の安心や、孫が欲しいという要望〟だったからだと。

「それに、僕思ったんです」

 何かに気付いたような表情の礼香に、和希が続けた。

「〝幸せの条件〟って、状況によって変化するものだな、って。理想はその条件をクリアする人だけど、もしそういう人が現れなかった時は、一生一人で過ごすのか、妥協しても誰かと一緒にいたいと思うのか─…その選択で〝妥協しても誰かと一緒にいたい〟と思う方が自分にとって幸せな事なら、そっちを選べばいいんだって。それが──」

「自分が幸せだと思う選択─…」

 言おうとした事が礼香の口から出てきて、絢音の言いたかった事が伝わった…と思った。

 ややあって、礼香がフッと笑った。

「そんな簡単な事だったなんてね」

「…はい。昨日、僕たちも怒られました。〝バッカみたい。なに問題を難しくしてんのよ〟って」

「あはは、確かに」

「でも、言われてハッと気付く事が多いんです。自分では考えなかった視点から切り込まれるので…」

「しかも、核心ついてるし…?」

「そう、そうです。だから納得するっていうか─…それに、仕事で疲れたり嫌な事があってライフゲージが減っても、早瀬さんと話していると全部ひっくり返してくれるくらい元気が出てくるんですよね」

「それは─…川上くん限定じゃないかなぁ?」

「そ、そんな事は──」

「あはは、うそ、うそ。──うん、分かるよ。今ので十分に分かった。川上くんが想い人に惹かれる理由が。〝自分〟っていうものをちゃんと持って生きてる人って、カッコいいもんね」

「まぁ…」

 そう言いつつも、

(それだけじゃないですけどね…)

 ──と、和希はある日の出来事を思い出して心の中で付け足した。

「ありがと、川上くん。なんか、スッキリしたわ」

「それは良かったです」

「その想い人さんにも、お礼を言っといて」

「分かりました」

「よーし。じゃぁ、とっとと片付けるよー!」

 一日の仕事が終わって疲れているはずなのに、朝よりずっと元気になった礼香は、軽やかな足取りで荷物の入った段ボールを倉庫へと運んで行った。そこへ、礼香とすれ違った田邊がやってきた。

「どうした? 礼香のやつえらい生き生きした顔してたぞ? 合コンでもするのか?」

「違いますよ。悩み事が解決したんです」

「悩み事? あいつ、悩んでたのか?」

「はい。でも早瀬さんのアドバイスで吹っ切れたみたいで─…」

「へぇ…。──ってか、早瀬さんって、昨日の人だよな? 〝人間は不満の塊だ〟って言った─…」

「そうですけど──」

 ──と言って、ここではたと思い出した。

「田邊さん、絶対に早瀬さんに近付かないでくださいね」

「は?」

「見かけても話し掛けないでください。…ってか、早瀬さんには無視していいって言ってあるので──」

「は? いや、ちょっと待て──」

「しつこかったり、何か言われたりしたら、すぐ僕に連絡するように言ってあるし──」

「ストップ、ストップ!」

 何かすごい圧を感じて、思わず両手を前に出した。

「なに怒ってんだよ?」

「怒って─…お、怒ってはないですけど…ちょっと、危機感を感じて──」

「危機感?」

 繰り返してふと思い出した。

「ひょっとして、一緒に酒でも…って誘ったからか?」

「そうですよ。それに、〝世界平和〟を〝ありきたり〟とか──」

「いやいやいや。あれは前日のおじいさんが言った事で、オレがそう思ってるわけじゃないし─…まぁ、酒に誘いたかったのは事実だけどな」

「田邊さん…!?」

「冗談だよ、冗談。お前の想い人を奪おうとか思ってないから。ただ、友達になって酒でも飲みたいとは──」

「絶対にダメです。──ってか、早瀬さん、お酒飲めないので誘っても無駄ですよ」

「え…? でも前に酒飲めるとか言ってなかったか?」

「そうなんですけど、違ってました」

「へぇ…。じゃぁ、コーヒーでも──」

「コーヒーは嫌いだそうです」

「マジか!? じゃぁ、なに飲んでるんだ、想い人は?」

 その素朴な疑問に、なぜか絢音の反応が和希の脳裏に浮かんだ。実際に聞いたことも見たこともないが、そう言うだろうという言葉だ。和希はそれを〝代弁〟するように返した。

「飲み物はお酒とコーヒーしかないと思ってません、田邊さん?」

「あぁ? いやまぁそういうわけじゃないけど─…」

「でも家に来客があったら、何も聞かずコーヒーを出すんじゃないですか?」

「あー…」

 それはもう、〝そんなことない〟とさえ言えないくらい図星だった。

「…分かった。今度からはコーヒー以外の飲み物も用意しておく」

「それがいいと思います」

「じゃぁ、想い人は普通にお茶に誘って──」

「ちょっ…田邊さん!?」

「あははは、冗談だって─…ほんと、素直な反応が可愛いな、お前は」

「だから、全然嬉しくないですって」

「まぁまぁ。そんな可愛い後輩に、オレが得た情報をひとつ教えてやるよ」

「いいですよ、田邊さんの情報なんて──」

「想い人の事だぞ?」

「え…?」

「これはオレしか知らない情報だ」

「な、なんですか…」

 好きな人に関する事はなんでも知りたいと思うのは当然で、それが自分の知らない事だと言われたら、それはもう聞かずにはいられない。半ば〝彼女をお茶に誘う〟という交換条件を出されることも覚悟で聞き返せば──もちろんそうなったら、自分も一緒に行くという条件付きにするが──案外すんなりと答えてくれた。

「想い人、もう一枚短冊を飾ってたぞ」

「え…?」

「飾った瞬間は見てないけど、持っていた短冊がなくなってたから、どこかの笹にはあるはずだ。おそらく〝世界平和〟はダミーで、そっちが本当の願いだろうなぁ」

「もうひとつの願い…」

 自分で言って、そういえば…と思い出した。椿が絢音と仲良くなった時の話で、いつか必ず叶う願い事も一緒に飾ると言っていたあの話だ。そしてもうひとつ、〝ダミー〟という言葉から、〝建前〟という言葉も思い出した。昨日絢音が言いかけてやめた〝隠れ蓑〟という言葉からも、田邊の言う〝そっちが本当の願い〟というのも間違いないだろう。

「まぁ…オレは探さないから、あとで自分で探してみな。──って言っても、今日は無理だけど。ほら、そっち持て。行くぞ?」

「あ、あぁ、はい…!」

 言われて、慌てて荷物の端を持った。

 もうひとつの願いが何なのか気になって仕方がないが、仕事が終わってからでは探す時間がない。それに何より、一分でも早く片付けて絢音に会いたいという気持ちが強いのだ。和希は明日の休憩時間に探そうと決めて、片付けを急ぐことにした。


 絢音たちが七夕祭に来てから二日後、和希がもう一枚の短冊を探そうと決めたものの、その日から一気に人が増え休憩時間もままならなくなってしまった。明日こそは…と思うが、次の日も、またその次の日も時間がなく、結局、最終日になった今日もまだ見つけられていない。

(こうなったらもう、全てが終わって笹を片付ける時しかない…)

 全てのイベントが終了すると、和希は絢音が見て回った東側通路の笹を全て自分で片付ける事にした。会場に近い場所から設置された笹を順番に外していき、飾られた短冊を確認する。さすがに全てを見るのは時間がないため、事前にある推測を立てていた。あの日、絢音は会場に置いてあった短冊を使わなかった。つまり、あの時には既に願い事を書いた短冊を持っていた事になる。そしてそれは、事前に和希が渡した三枚のはずで、そのうち世界平和と書いた短冊はオレンジ色、誠司に渡したのは黄色だった。──という事は、残りの色は〝赤〟という事になる。

(赤い短冊…赤い短冊…赤い─…)

 片付けながらも、赤い短冊をひとつひとつ確認していく。名前が書いてない場合もあるため、数日前に見たメッセージカードの字や〝世界平和〟の文字を思い出しながら、それも判断のひとつとした。確認し終わった笹が一本、また一本と増えていき、なかなか見つからないまま残り三本になってしまった。本当にあるのだろうか、見落としてないだろうか…不安や心配が募っていく中、それは突然見つかった。通路がカーブして、会場から見ようにも見えない場所の笹。その下の方で、推測通りの赤い短冊が飾られていたのだ。〝あった!〟と喜んだのは、チラリと名前が見えたため。だけど短冊を手にした途端──

(え…そんな─…)

 和希はひどくショックを受け言葉を失った。必死に探した事を後悔したほどだ。しばらく呆然として立ち尽くしていると、西側通路の笹を片付け終えた礼香が手伝いに来た。

(おっ! 見つけたな?)

 カーブを曲がって見えた和希の姿に、礼香がそう思った。礼香は、和希が東側通路の笹を片付ける理由を田邊から聞いていたのだ。

(さぁ、なんて書いてあるのかな〜)

 おそらく聞いても言わないだろう…と、ここは背後から盗み見る事にした。靴音をさせずゆっくりと背後に近づく。そして肩の横の方からそっと覗き見た礼香は、短冊に書かれた願い事を見て思わず声を漏らした。

「え…」

 その声に和希がバッと振り向く。

「礼香さん─…」

「あー…」

 盗み見したのはもちろん、書かれていた内容が内容だけに言葉が見つからない。それでも何か言わないと…と思い絞り出したのは、

「名前が同じってだけかもしれないし─…」

 ──という、気休めにもならない浅い言葉だった。

「の、残りの笹も確認してみないと──」

「礼香さんはこれを…」

「え…?」

「残りの笹は僕が持っていくので、礼香さんはこれを持っていってください」

 礼香が言葉に困っているのは顔だけでも分かる。和希は短冊の事には触れず、持っていた笹を差し出した。残りの笹を確認するかどうかは分からないが、礼香はその気持ちを察して〝分かった〟と頷き笹を受け取った。そして後ろを気にしつつ会場の方へと戻っていった。

 その場に残った和希は、力無く残りの笹を外し始めた。礼香の言う通り残りの短冊を調べることもできたが、敢えてそれをしようとは思わなかった。もし調べて同じ名前の短冊がなかったら、さっきの短冊が絢音のものだと確定してしまう。間違っていて欲しいのに、自ら確定作業をする気にはなれなかったのだ。でも本当は分かっていた。名前はもちろん、短冊の色と書かれた文字が絢音のものだという事を。

 一方、田邊は会場に戻ってきた礼香に気付いて声を掛けた。

「どうだった? 短冊見つかったって?」

 楽しそうな田邊に、礼香が険しい表情で腕を叩いた。

「イッ…は? え、なんだよ?」

「先に確認しなさいよ!」

「何が──」

 言いかけた言葉を遮るように、礼香が持っていた笹を押し付けた。

「下の方にある赤い短冊!」

 何を怒っているのか理解できず、言われるがまま赤い短冊を手に取れば──

「え…」

 礼香同様、言葉を失った。

「誰だよ、この──」

「知らないわよ。今までだって川上くんの口から出てきた事ないし、本人も知らないんじゃないの? ──ってか、〝こっちが本当の願いかも〟とか言っちゃって、掛ける言葉がないんだけど!?」

「いや、オレだってこんな願い事だとは──」

「だから、先に確認しなさいよって言ってんの! ほんと、こんなのって──…」

 なんて言っていいのか分からず、それ以上は言葉が続かなかった。

 それから全ての片付けが終わったのは、夜の九時を回っていた。もともと最終日は片付けで遅くなるため店には行けないと伝えていたが、早く終わったとしても、今日の和希は行く気になれなかっただろう。礼香たちもさすがに飲みには誘えず、言葉少なに帰っていく和希を黙って見送るしかなかった。


 翌日、和希はソファの上で目を覚ました。

 テレビからは、聞いていて虚しくなるくらいの明るい声と笑い声が響いてくる。一瞬、夜中に目を覚ましたのかと思ったが、夜中にこのテンションはありえない。しかも、それを確かめるためカーテンの隙間に目をやると、見えたのは光だった。

(朝…?)

 ふと時計を見ると、時刻は昼の十二時をとうに過ぎていた。あまりにも頭に響くため、テレビを消そうとリモコンを取れば、その拍子に空になった缶ビールが手に当たりテーブルから転げ落ちてしまった。今度はそれを拾い上げようと視線を下に向ける。そこには別のビールや酎ハイの缶が四つほど転がっていて、ここでようやく〝お酒を飲んでそのまま寝てしまったんだ…〟と理解した。朝なのに朝のような感じがしなかったのは、カーテンを閉めた部屋に、人工の明かりが点いていたからだった。

(あー…最悪…)

 和希はテレビと電気を消して、再びソファに倒れ込んだ。飲み過ぎて頭が痛いのと気分の悪さ、そして何より短冊のあの願いだ。昨日の夜も、ずっとその事ばかりが頭をもたげてきた。その度に辛くなるため、なんとか考えないようにしようとテレビを見続けたのだが、まるで頭に入ってこない。ただただ部屋に音が流れている…という程度で、気が付くと短冊の映像が目に浮かんでしまうのだ。何も考えられなくなるくらい酔い潰れたくて、飲むペースも早くなった結果が、空き缶の本数と二日酔いだった。

(今日が休みで良かった…)

七夕祭の最終日が日曜日だったため、翌日の今日はその振替で休みになったのだ。このままもう一度寝ようと思ったが、いかんせん、アルコールによる尿意が睡魔を押しのけてくる。和希はもう一人の自分が代わりにトイレに行ってくれたら…と中学生のような事を考えると同時に、〝何考えてんだか…〟と自分にツッコんだ。仕方なく起き上がり、重い体を動かして何とかトイレへと向かった。用を足してリビングに戻ってきたタイミングで、携帯の通知音が規則的にくる頭痛の間を縫って耳に届いた。

(今はいいや…)

 ──と思ったものの、すぐに気になってしまうのは現代人だからか、それとも社会人のサガだからなのか…。和希は溜息をつきながら携帯を開いた。メッセージアプリの右上には、二十個以上の通知を示す数字が表示されていた。アプリを開くとその内訳は、絢音、誠司、礼香、田邊、そして公式アカウント等の広告がほとんどだった。こんな心境でも最初に指が動くのは、〝早瀬さん〟の文字だ。


【お疲れー。疲れた時は睡眠と甘いもの。明日ゆっくり休んだらこれを召し上がれ。レアチーズケーキ、七夕バージョン!】


 ──という言葉と一緒に送られてきたのは、表面が青いゼリー状にコーティングされ、更にそこに天の川をイメージしたラメが筋のように入ったレアチーズケーキの写真だった。送信時刻は昨日の二十時頃だったが、その時にはもう短冊のショックが大きく通知音など耳に入ってこなかった。今でもそのショックは大きいのに、絢音が自分のために用意してくれたのだと思うと自然と笑みが溢れてくる。

(美味しそう…)

 二日酔いなのに、そう思えてしまうのが不思議だ。和希は〝ありがとうございます。いただきます〟と返信した。

 次に開いたのは誠司のメッセージだった。


【お疲れー、和希。明日絢ねぇはいないけど、ケーキは人質だ。オレに食われたくなかったら、メシ、食いにこいよー】


 最後には〝ニヤッ〟とした絵文字が入っていて、思わず慌てて〝絶対に行きます!〟と送っていた。

 次は礼香のメッセージ。


【おはよう。昨日の事だけど…まだハッキリそうと決まったわけじゃないから。必要以上に落ち込まないで、元気出して。大丈夫、川上くんの良さはいっぱいあるし、誰にも負けないから!】


 それは励ましの内容なのに、なぜか不思議なくらい嬉しくなかった。和希はそれが分からず、返信するのをやめた。そして最後に田邊のメッセージを開いた。


【川上ー、起きたかー? 短冊の事、なんか悪かった…。本当の願い事かどうかは本人しか知らない事だし、オレが勝手に言った事だから気にしないでくれ。それに、お前と彼女の雰囲気はすごく良い感じだった。何ていうか…絶対大丈夫な気がするんだ。だから元気出してくれ】


 勝手に言って悪かったという気持ちは伝わってくるが、やっぱりどこか嬉しくない。むしろ何かが〝イラッ〟とさせた。それが何なのか知りたくて何度も読み返していたら、ある言葉が引っかかってきた。

 〝大丈夫〟って何が…?

 〝絶対〟って何を根拠に…?

 そう思うと同時に、絢音が言った言葉ともリンクした。


 〝絶対って言葉は、軽々しく使うのも使う人も嫌いなんだけど─…〟


(あぁ、そうか…)

 あの時は意味が分からなかったが、今ようやく分かった気がした。励まそうとしてくれるのは分かるが、安易に使ってしまうその言葉には何の根拠もなく、気持ちを理解するどころか表面的に分かったような気になっているのが感じられるからだ…と。もちろん、本当に心配して励ましたいと思っているのは分かっている。ただ、自分は全然大丈夫だとも思えないし、〝絶対〟と言い切れるほどの自信も皆無なのだ。それなのに──

(あぁ、ダメだ…)

 和希は思わず頭を振った。そんな風に考えてしまう自分も嫌になる。ここは一旦、頭を冷やそうとシャワーを浴びる事にした。洗面台の鏡に映る自分の顔を見て、気持ちが更に落ち込んだ。

(ひどい顔だな…)

 髪はボサボサで、僅かに伸びた髭とむくんだ顔。若い時代に戻るならまだしも、これでは未来へのタイムスリップだ。店に行くと返信した以上、それまでには何とか現代に戻ってこないと…。和希は浴室に入ると、少し冷たいと感じるくらいのシャワーを頭から全身に浴びたのだった。


 時計の針が十七時十五分をさした頃、一台のタクシーが誠司の店の前で止まった。中から降りてきたのは大きな紙袋を持った椿だ。出勤前のこの光景は年に数回あるが、そのひとつが七夕が終わった翌日だった。

 椿の姿に気付いた夏帆が扉を開けて出迎えた。

「あー、ありがと、夏帆ちゃん」

「相変わらず凄いわね」

「今回はお酒が三本あって、ちょっと嵩張っちゃった。──はい、誠司にぃ」

 椿が紙袋をカウンターの上に置いた。それを誠司が受け取り、中を確認する。椿の言う通り、中にはお酒が三本と小さな包みが──おそらく二十個ほど、そして小さなブーケが六個入っていた。

「ちょっと増えてないか?」

「そうなの。それでも減らした方なんだけど─…でも、ママは喜ぶでしょ?」

「もちろんよぉ」

 厨房の方で話を聞いていたママがカウンターに出てきた。

「あ、ママ、おはよう〜」

「おはよう、椿ちゃん。こういうのって、普段自分では買わないから楽しみなのよねぇ。まぁ、大きな声では言えないけど」

 ママは少し声を小さくして言った。──とその時、扉の鐘が鳴った。反射的に誠司とママの視線が扉に移り、背を向けていた椿と夏帆は後ろを振り返った。

「あら、川上くん」

「和希くん!」

「え、川上さん!?」

「おぉ!? 早いな、和希」

 それぞれが、それぞれの呼び名でいつもより早い和希を迎えた。

「こんにちは…」

「この前も思ったけど…やっぱり、私服姿って新鮮で良いわねぇ」

 少し首を傾げながら、全身を見るようにしてママが言った。それに夏帆と椿が続く。

「ベージュが基調っていうのも川上さんらしくていいし」

「そうそう、柔らかい感じがね。あと、鮮やかな青も似合うと思うなぁ。でも──」

 和希の顔を見た椿は、一旦そこで区切って確信したように言った。

「顔がいつもとちがーう」

「え…」

 和希はドキッとした。確かに起きた時はひどくむくんでいたが、シャワーを浴びたあと、掃除や洗濯で体を動かしているうちに元に戻ったはずなのだが…。

「違うってどこが? 髪でも切ったか?」

 そうは見えないと、改めて誠司が和希の顔を見て言った。

「そうじゃなくて─…なんか元気がない感じ?」

「そうかな…」

 できるだけ平静を装って言ったが、

(鋭い…)

 ──と内心思った。

「疲れが残ってるんじゃないか? 昨日、遅かったし」

「へぇ、そうなんだ…」

「──ってか、タクシー待たせてるんだろ。行かなくていいのか?」

「あ…そういえば、そうだったわ。じゃぁ、疲れてる和希くんにもそれあげてね。あと感想も──…行ってきまーす」

「おー」

「行ってらっしゃ〜い」

「相変わらず、タクシーで来る日は忙しいわねぇ…」

 いつもならタクシーが来てから乗り込むが、荷物がある時はここまでタクシーで来て、荷物を置くと、またそのタクシーに乗って仕事に行くためゆっくりできないのだ。

 椿を乗せたタクシーが走り出すと、ママたちも仕事に気持ちを切り替えた。

「さぁさぁ、川上くんも座って」

「あぁ、はい─…」

 背中を押され、いつもの席に移動する。

「絢ねぇが来ないからもっと遅いかと思ってたけど──…もしかして〝人質〟が気になったか?」

「そういうわけじゃ─…」

「ふ〜ん…」

 照れて慌てる風でもなく歯切れの悪い返答に、〝元気がない〟と言った椿の言葉が蘇ってきた。誠司は少し話を変えた。

「何にする? 飯の時間にもビールにも早いだろ?」

「そうですね…。じゃぁ、ホットでお願いします。あと、今日のお酒はやめておきます」

「おぉ? 珍しいな、どうした?」

「昨日ちょっと飲み過ぎてしまって─…」

「二日酔いか?」

「夕方になって、やっと抜けたって感じです…」

「はは、そうか。分かった、ちょっと濃いめに入れてやるよ」

「…ありがとうございます」

 誠司がホットコーヒーを作り始めるのを見て、和希は小さく息を吐き出した。早めに店に来たのは、一人で余計なことを考えないためだ。そして他にもうひとつ、〝誠司に確かめるため〟という大きな理由があった。ただ客がいる今は無理なため、喫茶店が終わるまでの三十分間は家にいるのとそう変わらないかもしれないが。

「ほら、濃いめのブラック。それとコレな」

 誠司は、コーヒーと一緒に可愛らしいリボンのついた小さな箱を置いた。

「これって…?」

「椿がお前に…って言ってたやつだ」

「椿さんから?」

 言われて箱を開けると、綺麗にデザインされた小さなチョコが四つ入っていた。

「正確には〝椿が客からもらったやつ〟だけどな」

「え…?」

「昨日、七夕だっただろ? ああいう仕事やってると、七夕とか誕生日とか、クリスマス、バレンタイン─…イベントがあるたびに客からプレゼントされるんだよ」

「それでチョコ…」

「最初の頃はアクセサリーとかもらってたんだけど、どうも椿には重いらしくてな」

「相手の気持ちが…って事ですか?」

「値段が値段だろ? 気に入られると余計に高価なものになってくるし、同伴出勤とかになったら、その相手が贈ってくれた物を身に付ける気遣いもいる。下手に売れないし、椿もそういう事が簡単にできる性格じゃないからな」

「それでチョコ…」

 和希はチョコを見ながら、また同じ言葉を繰り返した。

「絢ねぇのアドバイスだよ。高価なものはトラブルにもなる事もあるから、プレゼントは限定的にすればどうかって。例えばこういうチョコみたいに小さくて消費できるものとか、花も小さいものがいいって言えば、贈る方の金額も差が出にくいし、貰う側も助かる…ってな」

「…なるほど。椿さん本人から言われたら、相手も希望する物を贈りたくなりますもんね」

「そっ。たくさん貰っても、食べ物や小さな花だったらみんなで分けられるしな。──それが、このチョコって事だ。まだ二十個くらいあるぞ」

「えぇ、そんなに!?」

「しかも、今回は酒もある」

「え、すごっ…」

「ただな、これらを食べるにはひとつ条件があるんだ」

「条件…?」

「これだ」

 そう言って、誠司は一枚の紙を目の前に出した。〝んん?〟とその紙を手に取ると、そこにはただ一言〝褒めるところ〟とだけ書いてあった。

「褒めるところ…?」

 和希が、書いてある言葉を質問で返した。

「感想だよ。あいつは、プレゼントの入れ物を見ただけで誰から貰ったのか覚えてるからな。食べ物とその紙の写真を撮って椿に送れば、あとはその感想を相手に伝えられるだろ? つまり椿が食べてないって事はバレないし、相手も気付かないってわけだ」

「うわー…なんか舞台の裏側を見てしまった気が…」

「ハハハ。ま、贈る側も椿一人で食べきれないのは分かってるさ。〝店のみんなで一緒に食べた〟って言う時もあるみたいだから、そこら辺は上手くやってるよ、椿も」

「そうなんだ…」

「とりあえず酒は明後日以降にするとして─…今日はチョコを食っとけ。疲れた体には甘い物、だ。濃いめのコーヒーだから、ちょうどいいだろ」

「…ですね。──じゃぁ、いただきます」

「おぅ」

 和希は箱と中身の写真を撮ってから、幾何学模様がデザインされたチョコを口に入れた。舌の温度で溶けるチョコはとても滑らかで、甘さが控えめなのもまた良い。溶けていくうちに小さな粒を感じるようになり、それが何かと考えた瞬間、中からフワッと爽やかな何かが口中に広がった。鼻に抜ける香りと粒を噛んだ時のほろ苦さ…。これは─…と、一緒に入っていた説明書を見て納得した。幾何学模様がデザインされたチョコは、オレンジピールの粒と果汁のジュレが中に入っていたのだ。

(チョコも美味しいけど、中のジュレが更に美味しい…)

 自分で買った事はなかったが、少し贅沢なチョコの美味しさに和希は感動した。そして思った。

(美味しいって、こんなにも幸せな気分になるんだ…)

 ──と。

 昨日からずっと沈み込んでいた気持ちが、少し癒されるのを感じた。早速、和希は〝褒めるところ〟と書かれた紙に感じたままを記した。そして、少し濃いめのブラックで口の中をリセットすると、二つ目のチョコを食べ、また紙に感想を書いていった。その間ほぼ喋る事もなく一人だったが、余計な事を考えなくて済んだのは幸いだった。

 十八時になり、夏帆が〝準備中〟の札を扉に掛けると、しばらくして最後の客が帰って行った。そこから食器を下げテーブルを拭き終えれば、夏帆の仕事も終わりだ。〝お疲れ様でした〟と帰っていくのを見送って、誠司は喫茶店からバー仕様へ整えていく。最後に店内のBGMをクラシックへ切り替えると、ようやくカウンター内で軽い食事をとる事ができた。

「マジか…」

 それは、サンドイッチ片手に和希の方を覗き込んだ時だった。誠司が、書かれた紙を見て驚くように言った。

「審査員かよ…」

「え…?」

「食リポ超えてるだろ」

「…そうですか? でもすごく美味しいし、なんか美味しいってこんなにも幸せなんだな…とか思って─…」

「ハハ、絢ねぇと同じだな」

 そう言うと同時に、〝元気がない〟というあの言葉が確信に変わった。

「早瀬さんと同じって…?」

「絢ねぇも言うんだよ。〝美味しいって幸せ〟ってな。だから〝美味しい〟って言って絢ねぇが食ってるのを見ると、〝あぁ、今幸せなんだな〟ってオレも思えて安心するんだ。そうじゃない時を知ってるからさ」

「そうじゃない時…?」

「今のお前みたいな時だ」

「…………!」

「客商売してる椿の観察眼もなかなか鋭いんだぞ? ま、絢ねぇには敵わないけどな」

「あー…」

 和希は参ったな…と苦笑いした。そんな和希を見て、誠司はサンドイッチを乗せた皿をカウンターに置くと、コーヒーを持ったまま奥の厨房を回ってカウンター席に出てきた。

「──それで、何があったんだ?」

 カウンターの角の席に座りつつ、改めて聞いた。元々聞きたい事があってここに来た和希だ。ゆえに隠すつもりはなかった。喫茶店が終わった直後は常連客もまだ来ておらず、話すには絶好の機会でもある。和希は書いた紙と空になった箱を脇に置くと、一呼吸置いてから聞いた。

「今更なんですけど─…早瀬さんって…その、付き合ってる人とかいるんですか?」

 その質問に、誠司は〝ポカン〟と口を開けた。

「…ほんと、今更だな。──ってか、それオレじゃなくて本人に聞く事だろ?」

「まぁ…そうなんですけど─…直接〝いる〟って言われたらショックが大きいというか…」

「あははは、何だそのガキみたい理由は」

 消え入りそうなくらい昔にそんな事もあったな…くらいの理由に、誠司は思わず笑ってしまった。でも同時に、和希の純粋さを再認識した。

「お前、ほんとに絢ねぇの事が好きだよなぁ…」

「…はい」

 僅かな間さえ〝本当に好きなんです〟と言っているように聞こえるのは、真っ直ぐな目で見られているからだろうか。

 誠司は〝しょうがないな…〟とひとつ息を吐いた。

「絢ねぇに付き合ってるやつはいない。──ってか、そもそも恋愛しようと思ってないんだ」

「それって、どういう事ですか…?」

「んー…まぁ、早い話が〝誰も好きにならない〟って事だな。恋愛を諦めてるっていうよりは、恋愛も結婚もしない人生を選んだっていうか、そういう人生が平和だって思ってるっていうかな」

「…………」

「まぁ、お前にとってはどっちもショックな事だろうけど」

 誠司は手に持っていたサンドイッチを口に放り込んだ。

「そう…ですね…。なんか想定外過ぎて─…あまりの希望の薄さに違うショックを受けてます。でも─…」

「でも?」

「会いたい人は、いますよね…?」

「うん?」

「この前の短冊に書いてあったんです、その願い事が」

 誠司は眉間にシワを寄せた。

「絢ねぇが書いたのは〝世界平和〟だろ? みんなで〝ありきたりだ〟とか〝規模がでかい〟とか言ってたじゃないか」

「そうなんですけど─…実はもう一枚書いて別の場所に飾ってあったんです」

 そう言われて、はたと思い出した。

(そういや、椿の話で言ってたな。いつか必ず叶う願い事も一緒に飾るって─…)

 そう思ったところで、同じ内容の事が和希の口から聞こえてきた。

「前に、椿さんが早瀬さんと仲良くなった時の話をしたのって、覚えてますか?」

「あぁ、それオレも今思い出したところだ。〝いつか必ず叶う願い事も一緒に飾る〟ってやつな」

「そうです。あの話の中で〝世界平和は建前〟って言ってたと思うんですけど、この前の七夕祭でも同じような事を言ってたんです」

「同じような事?」

「〝隠れ蓑にするにはちょうどいい〟って」

「隠れ蓑…」

「それ以上は聞かれたくない感じだったのでスルーしたんですけど、田邊さんにも〝世界平和はダミーで、そっちが本音だろう〟って言われてハッとしたんです。だから──」

「なんて書いてあった?」

 表面上の〝世界平和〟なんていう願い事は、誠司もはなから信じていなかった。だからそれ以外に書いたものがあるのだとしたら、それが本音だと分かる。七夕の日の願い事なら尚更だ。

(なんで椿の話を聞いた時に気付かなかったんだ、オレは…)

 誠司は普段あまり見せない絢音の本音が知りたくて、少し食い気味に聞いていた。

「それが…〝悠人に会いたい〟と─…」

「…………!」

 その内容に、誠司の胸がズキンと痛んだ。

(いつか必ず叶うって、そういう事かよ…。ってことは、やっぱり絢ねぇはまだ…?)

 そう思ったが、〝いや、今は考えるのはやめよう〟と首を振った。

「誠司さん…?」

 突然の沈黙に、和希が不安そうに声を掛けた。

「あ、あぁ…悪い、悠人な。悠人は─…安心しろ、絢ねぇの弟だ」

「…え!?」

 あまりにも予想外の言葉に、一瞬、頭が真っ白になった。

「お、弟って─…あの弟さんですか!? 誠司さんの親友っていう…!?」

 誠司が〝あぁ〟と頷いた。

「そう…だったんですか…」

 昨日の夜からずっと不安と絶望の中にいた事が、それすら必要のない事だったとは…。和希は心の底からホッとして、思わずカウンターに突っ伏した。大袈裟でもなく、全身から力と空気が抜けた感覚だ。

「おい、大丈──」

「良かったです…ほんと、良かった…」

 心底ホッとした声音に、誠司が小さく息を吐いた。

(それが飲み過ぎの原因だったか…)

 もちろん、まだ〝希望の薄さ〟というショックは残っている。だけど、〝付き合っている人や好きな人がいるかもしれない〟という最悪な推測が消えただけで、生き返るくらい救われたのだ。それに〝希望の薄さ〟は裏を返せば〝薄くても希望はある〟という事で、実際、誠司もその希望には期待していた。

「あれ、でも─…」

 ホッとして思考がまともになったところで、和希がふと気付き体を起こした。

「〝会いたい〟って事は、今は会えてないんですか?」

「あー…」

(なんて答えるべきか…)

 迷ったが、オブラートに包むことにした。

「まぁ…そう簡単には会えないところにいるからな」

「…そうなんですか。それは寂しいですね…」

「まぁでも、お前がいればそれも紛れるんじゃないか?」

「悠人さんの代わり…ですか?」

「それはお前次第だろ。──ただ悠人の代わりになったら、弟以上の関係性にはなれないぞ?」

「そ、それはイヤです…!」

 その反応はいつもの和希で、誠司は安心して笑った。

「だったら、お前は絢ねぇのそばにいろ。いつだってどんな時もそばにいて、一緒にメシ食って、ケーキ食って、笑って─…そんな日が当たり前の毎日になれば、それを変えたいとは思わなくなる。──だろ?」

 絢音にとって大事なのは、〝恋愛〟や〝結婚〟よりも〝変わらず続く当たり前の毎日〟だ。その理由を和希は知る由もなかったが、絢音にとって当たり前の日常に自分がいて、その日常を変えたくないと思ってもらえるなら、〝薄い希望〟も〝無限大〟になる気がした。

「誠司さん─…」

「うん?」

「なんか、急に食欲が出てきました。日替わり、お願いしていいですか? あ、あと食後のケーキも食べたいです」

 妙にやる気スイッチが入ったその顔に、誠司は笑いながら〝あぁ、分かったよ〟と言って厨房の方へ戻っていった──


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