8 フード姿と謎の記号 <3>
次の日──
学生が来る時間帯に合わせて、椿が店にやってきた。その時間に来るのも珍しいが、服装からしてどうやら仕事ではないらしい。しかも半分は客として、半分は〝無給の〟スタッフとして来たというから驚く。どういう意味かと聞けば、文房具のセットを配布するため、わざわざ仕事を休んだというのだ。誠司は〝いいのかよ、それで?〟と半分呆れていたが、楽しそうに接客する椿を見て〝まぁいいか〟と思うようになった。
〝文房具の無料プレゼント〟なんていう宣伝はしていないため、初日は普段どおりで十五人ほどだった。椿は男女関係なくみんなに人気で、〝友達にも教えてあげてね〜〟と営業スマイルで言えば、みんな〝絶対、教えるー!〟とノリノリで返してくる。そんな様子を見て、最初は〝文房具のセットが七夕まで持たないな〟と思ったが、そのうちキャバ嬢の仕事っぷりを見ているようで誠司たちは面白くなっていた。
十八時になると、夏帆が扉に〝準備中〟という札をかけた。それから中にいた客が一人、また一人と帰っていき、最後の人がいなくなった後、食器を片付けて夏帆の仕事が終わった。〝お先ですー〟と言って帰っていくのを、誠司と椿、そして夏帆と入れ替わるように店に出て来たママが見送った。
「あー、楽しかったぁ」
椿がいつものカウンター席に座って、空を見つめるように上を見て言った。まるで、さっきまでの光景がそこに見えているかのようだ。
「それ、上にいても伝わってきたわよ」
その様子を見ていないママでさえ、聞こえてくる声だけで店の様子が分かったのだ。
「あ、もしかしてうるさかった? だとしたらゴメンね、ママ」
「大丈夫よ、もう起きてたし。それに、若い子の楽しい声っていうのは、聞いてて元気が出てくるからいいわ」
「明日は定休日だからいいとして、明後日からはもっと騒がしくなるからな。──ほら、椿。お疲れさん」
誠司がコーヒーを出して言った。
「ありがと〜、誠司にぃ」
「夕飯、食ってくか?」
「それ、奢り?」
「〝無給〟を貫くなら金払えよ?」
「じゃぁ、貫かな〜い」
キャバ嬢になるという意思は貫いても、こういう所はゆるゆるで─…可愛げがあるのもまた椿の良さだと、誠司はフッと笑った。
「──で、今日のメニューは?」
「海鮮丼だ」
「わぉ! 今日来て良かった〜」
両手を胸の前で組んで嬉しそうに言ったその時、扉が開いて和希がやってきた。
「こんばんは」
「おー、お疲れー」
「いらっしゃい」
「和希くん、いらっしゃーい」
いつもはいないはずの人物が目の前にいて、一瞬、自分の思ってた時間じゃないのかと思い腕時計を見た和希。時刻は、既に十八時を回っている。
「え…んん? 仕事は…?」
「今日は休みなの」
言われて、確かに服装も髪型もいつもと違うと気が付いた。──が、〝そうなんだ〟と言うより早く、誠司の訂正が入った。
「休みじゃなくて、休んだんだ」
「え、休んだ…? ──って、どこか体調が悪かったとか?」
そうは見えないと思いながらも椿に聞けば、
「もしそうだったら、誠司にぃに〝家に帰って寝てろ〟って、追い返されてるよ〜」
〝ねぇ?〟と、今度は椿が誠司に投げかけた。
「あぁ、とっくに追い返してるな」
「ほらね。──あ、でも誠司にぃは優しいから、そういう時は、あとでちゃんと食べられそうなものを届けてくれたりするんだよね~」
「それはお前がリクエストするからだろ、あれが欲しい、これが欲しいって」
「私はね。でも絢姉さんの時は違うでしょう? だって、大好きだもんね、誠司にぃ。絢姉さんの事~」
「え!? そ、そうなんですか!?」
思ってもみなかった情報に、しかもそれが本当なら敵わないライバルだと焦った和希だったが──
「落ち着け、和希。お前の反応が面白くてからかってんだよ」
「え…?」
〝そうなの?〟と椿を見れば、〝フフフ〟といたずらっぽく肩をすくめたから、体の力が抜けた。
「お前も楽しいからって和希をからかうな」
「はぁ~い。──でも、絢姉さんが特別なのは事実でしょう?」
「それは親父たちと同じ。絢ねぇに対するのは家族愛だ」
「家族愛…」
そう繰り返して、椿は〝あー、確かにそうかも〟と頷いた。一方、和希も〝家族愛〟と言われたことで冷静さを取り戻した。
「だから家族同然の絢姉さんには、何も言われなくても色々してあげるんだ」
「まぁ、それもそうだが…。絢ねぇの場合、隠すからな、体調が悪い時は」
「…そうなんですか?」
和希の問いに、誠司が〝あぁ〟と頷いた。
「弱ったら敵に襲われないように身を隠す野生動物と同じだ」
「野生動物…」
「冗談だよ」
誠司は軽く笑った。
「…けど、しばらくここに来れないってメールが来たと思ったら、連絡も取れなくなって─…心配した親父が家へ見にいったら、インフルエンザに罹って寝込んでたって事があってな。聞けば、病院で診断された帰りにゼリーやスポーツドリンクやらを買い込んで、高熱の中、自分で氷枕も作って過ごしてたんだと」
「一人で…!?」
「そうなのよぉ。言えばいいのにひっそりと籠っちゃって─…ほらほら、立ってないで座って、座って」
「あ、は、はい─…」
ママに背中を押され、和希はようやくいつもの席に行って座った。昨日と同じように和希の上着を預かったママは、それを掛けながら話を続ける。
「言えば心配するし、家に来たらうつしちゃうかもしれない。だから黙ってたのに…って言われてね。私、珍しく叱っちゃったわよ、病人相手に…。だって水臭いじゃない? ずっと家族みたいに付き合ってるのに、一人でなんでも抱え込んじゃって頼ってくれないなんて」
「…ですね」
「一人じゃないんだから、私たちに頼りなさいって言って…それからは連絡が途絶えるようなこともなくなったんだけど…。相変わらず、自分から体調が悪いとは言ってこないのよねぇ…」
「遠慮、ですか…?」
「──っていうより、自信を失いたくないのかもな」
誠司はビールと枝豆を出しながらそう言うと、〝一人で生きていける、っていう自信をな〟と心の中で付け足した。もちろん今の段階でそれは言えないため、〝自信?〟と不思議そうに聞いてくる和希に〝そう〟と頷くしかなかったのだが。
「今では〝しばらくここに来れない〟っていうメールが、〝体調不良〟っていうサインになってんだ。それを受けて、オレたちが食べ物を持って行ったりする。けど絶対に絢ねぇには会えない」
「え、どうしてですか?」
「絢ねぇの部屋の扉に、〝絶対に入るな!〟って紙が貼ってあるんだよ」
「それって─…男の人だからダメっていうのじゃなくて…?」
「椿もダメだった」
「でもそれじゃぁ、氷枕の交換とかー…こう、看病ができないっていうか──」
「それが目的だ」
「え…?」
「結局のところ、感染リスクを最小限に抑えるために接触を避けてんだよ。だから、そういう時はビデオ通話で様子を確認するしかない」
「えぇ…それはなんか寂しいですね…」
「ねぇねぇ、思ったんだけど。それってさぁ─…」
椿が思い付いたように近寄ってきて、和希の右隣──カウンターの端──に座ると楽しそうに言った。
「ある意味、あの扉は〝逆・天の岩戸〟よね?」
「「「逆・天の岩戸?」」」
椿の言葉に、誠司、和希、ママが同時に繰り返した。
「そう。その扉を開けて中に入れたら、それが絢姉さんにとって特別な人って事になるんじゃない? 甘えられる唯一の人、ってね」
「なるほど」
「確かにそうね…」
誠司とママがそう言えば、椿を加えた三人の視線が和希に移った。その無言の微笑みに、和希はなぜか三人から同じ言葉が聞こえた気がした。
〝頑張れよ〟
──と。
「いや、ちょ…そんな風に見られても─…」
「フハハ…聞こえたな、オレたちの声?」
「それはまぁ…って、いや、そうじゃなくて─…」
何をどう返せばいいのか分からないとまごつく和希の姿に、三人は〝癒される…〟と笑った。ママはそれからすぐに店の準備へと戻って行った。
「そ、それより仕事は? 椿さんが仕事を休んだ理由ってまだ聞いてないけど─…」
とにかく話題を変えようと必死で考えていたら、そもそも、その話からズレたのだと思い出した。
「あぁ、それはね─…今日からでしょ、配るのって。だから手伝おうと思って」
「配るって─…じゃぁ、文房具セットを配るために休んだって事?」
「そう。だって、初日だもん。喜んでくれるかなぁ…って気になるし、そういう顔って見たいじゃない?」
「まぁ、それは分からなくもないけど─…」
〝わざわざ仕事を休むとは…〟と思っていると、
「大学辞めてキャバ嬢になった椿だぞ? それに比べれば、どうって事ない。──だろ?」
誠司に言われ、〝確かに〟とも思った。──と同時に椿の言動は、この〝大学辞めてキャバ嬢になった〟というのが基準になって、大抵の事が何でもないと思える気がした。
「ほら、できたぞ」
話しながらも手だけは動いていて、誠司は綺麗に盛り付けられた海鮮丼を椿の前に置いた。
「んん〜、美味しそう〜。では早速、いただきま〜す」
「おー」
わさび醤油をかけて、甘エビから食べ始めた椿。
「う〜ん、ねっとりして甘くて美味しい」
最後に〝ハート〟が見えそうな、そんな顔だ。
「でも明後日の方が絶対に忙しくなるし…私、明後日も来てあげていいよ、誠司にぃ?」
「なんで上からなんだよ」
誠司が笑った。
「──ってか、そもそもオレは頼んでないからな?」
「もちろん、自ら志願したボランティアですから──…」
──と言ったところで、〝あ、思い出した〟と椿が携帯を取り出した。長い爪がなぜ画面に当たらないのか不思議なくらい、器用に携帯の操作をしていた椿が、表示された画面をこちらに向けた。
「この人知ってる?」
そこには動画で高収入を得ている、ちょっとチャラい感じの男性が映っていた。知っている人は知っているらしいが、興味のない二人は見た事がない男だ。ただ、ニュースとして取り上げられたのは見た事があった。
「確か多額の寄付をしたとかなんとか──」
「あー、はいはい。売名行為だの偽善者だの色々言われてるやつな。それがどうかしたのか?」
「昨日、お店でもこの話で持ちきりだったんだけど、なんかスッキリしなくて…」
「スッキリしないとは…?」
誠司が聞いた。椿は画面を自分の方に戻すと、不満そうに画面を上下に何度もスクロールしながら言った。
「んー…批判的な事が多いのよねぇ。〝自分で寄付したって言わなければいいのに〟とか、〝売名目的で寄付されてもねー〟とか。──まぁでも、大半は〝寄付するくらいならオレにくれ〟っていう低レベルな会話なんだけど」
「それで? 椿は何て返すんだ?」
キャバ嬢としての返しが面白そうだと思ってそう聞けば、スイッチが入ったようにパッと携帯を伏せた。そして──
「もちろん、〝そしたら、もっと私に会いに来れるのにねー〟って」
椿はビールのグラスを持っていた和希の腕にそっと自分の手を添えると、敢えて、営業用スマイルと甘い口調でそう言って見せた。それは流石というべきか、心の中では〝低レベルな会話〟だと思っているとは微塵も感じさせないものだった。しかも、それを証明したかのように和希が固まっている。その姿に誠司と椿が吹き出した。
「ブワハハハ…おまっ…固まりすぎ…! 相手、椿だからな?」
「も、もう…和希くん、可愛すぎる〜」
「お前、絶対そういう店行くなよ?」
「そうそう、絶対騙されちゃうから」
「い、行きませんよ、そんな─…」
二人に大笑いされ、ある意味それで固まっていた体が動いたのだが…。急に距離を縮めた椿の行動には、
(仕事バージョン、ヤバっ…)
──と、どっと汗が吹き出してきたから、慌ててビールを飲み干した。
「はぁ〜、もう相手がお前じゃなくても気の毒に思えてきた」
笑いすぎて、目から出てくる涙を拭いながら誠司が言った。
「えー、どうして? 和希くんはともかく、みんな嬉しそうにしてるわよ?」
「だからだろ。お前が心の中でどう思ってるのか知らずに、そんな言葉で浮かれてんだぞ?」
「いいじゃない、それで。知らなければ幸せなんだし、私も仕事でお金になるんだから─…ほらアレよ、ウィンウィンの関係ってやつ?」
「またウィンウィンかよ…」
「そっ、ウィンウィン。──でもさ、何で自分が寄付したって言っちゃったんだろう。言わなければ、こんなに批判される事もなかったのに」
「売名目的か、それとも単純に自慢したかっただけなのか──」
──と言ったところで、〝カラン〟という音が店内に響き、絢音が入ってきた。
「はっ? 絢ねぇ!?」
「あー、絢姉さん!」
「は、早瀬さん…!」
「やっぱり来たわね、絢ちゃん」
驚く誠司に、〝こんばんはー〟というノリの椿。そしてやっと会えたという嬉しさが伝わってくる和希の顔と、予想していたとばかりの笑顔を見せるママ。それぞれの感情の違いが全部顔に表れていて、絢音はなんだか可笑しくて笑ってしまった。
「今日って八時じゃなかったのか?」
驚いていた誠司が確かめるように聞いた。
「そのつもりだったんだけど、ママからメールがあったから」
「親父から?」
「〝今日の夕飯は海鮮丼よ〟って」
「いつの間に…」
「椿ちゃんに〝海鮮丼〟って言ったのを聞いた時よ。これは絢ちゃんに知らせなきゃって…。だって大好物だもの、ねぇ、絢ちゃん?」
「そうそう。それまでボケーっとテレビ見てたけど、海鮮丼っていう字で一気に目が覚めたわ」
「あぁ、そうかよ」
「それより、椿ちゃん仕事は?」
和希同様、この時間にいないはずの椿を目にして同じ質問をすれば、
「休みなの」
「〝休んだ〟…だ」
やはり和希の時と同様、絢音の海鮮丼を準備しながらも、誠司の訂正が即入った。
「休んだ? なにか用事?」
「そう。ボランティアで文房具セットを配ってた」
「文房具セット─…って、それでわざわざ?」
「でも、楽しかったからいいの」
「そっか。なら、良かった」
〝わざわざ〟と言いながらも、本人が楽しければそれでいいと、いつもの席に向かった絢音。席に着いた途端、椿が携帯の画面を見せて同じ質問をした。
「絢姉さん、この人知ってる?」
向けられた携帯画面を見て、眉を寄せた。
「あー…見たような気もする、かな」
「多額の寄付をした人です。数日前にニュースになって──」
和希の説明に〝あぁ…〟と思い出した。確か日曜日のお昼に、猫動画を見る前のニュースネタにそんな事があったな、と。
「それがどうかした?」
「今ね、色々言われてるの。売名行為だとか偽善者だとか」
「まぁ、よくある話ね。──それで?」
「──で、何で自分が寄付したって言っちゃったんだろうなって。だって、言わなければ売名行為だの偽善者だのって言われたりしないでしょ?」
「まぁねー。でもどうしてその話題? ニュースなら、他にもっと大きな事件とか色々あるのに」
「そうなんだけどー、ああいうお金に関するネタは、職業的によく出るのよ。店でもさぁ、ほとんどの人が批判してたんだけど、なんかそのうち〝あれ?〟って思う時があって…。この人って、やってることは良い事なのに、何で批判されるんだろうって…」
「あぁ、それが〝なんかスッキリしない〟だったんだ?」
絢音が来る前から話を聞いていた和希が反応した。
「そう、そうなの! だって言わなかったら批判されないんだもん、もったいないでしょ? ──あ、だからってその人の気持ちが知りたいとかそういうのじゃなくて…なんて言うのかな、批判ばっかりされてると、この辺がモヤモヤってしてきちゃって…」
椿は〝この辺〟と言いながら、胸の辺りを指で掴むようにグルグルっと円を描いた。モヤモヤが何かは分からないが、批判をそのまま受けるのも何か違うという気持ちだったのだろう。
そんな椿の話を聞いていた絢音は、そのモヤモヤを言葉に出した。
「くっだらない。どうだっていいじゃない、そんな事」
「え…?」
「は、早瀬さん…?」
「──そう言えばいいのよ、批判するやつには」
思わぬ言葉に驚いた二人だったが、〝そう言えばいい〟と言われた事に、理解が追いつかなかった。
「売名行為でも偽善でも、あるいは単純に自慢したかっただけだったとしても、それで誰かが助かるなら寄付の理由なんてどうだっていいって事よ。寄付した本人は株が上がって、助けて欲しいと思う人が助かって、更に誰も傷付かないんだから何の問題もないでしょ? むしろ、批判してる側が人を傷つけてるって事に気付いてない事の方が問題よ」
そう言われ、二人の頭の中に同じ言葉が浮かんだ。
「ウィン──!」
「──ウィン!」
〝それだ〟とばかりにお互いが指を差し合うところまで同じだった。
「純粋に人助けをしようと寄付した人にしてみれば、不純な動機が許せないのかもしれないけどさ、現実として、助けられる人にとって純粋かそうでないかなんて伝わらないし関係ない。もちろん、犯罪で得たお金は別よ? でもそう考えたら、何が一番最悪なパターンなのか見えてくると思うけど?」
「一番最悪なパターン…?」
「──って、何ですか?」
絢音は二人の顔を交互に見たあと、左の人差し指を立てて言った。
「その一、純粋な気持ちで寄付をした人」
次に、絢音は中指を追加した。
「そのニ、売名目的や偽善として寄付をした人」
そして、〝薬指〟〝小指〟と追加していく。
「その三、批判して寄付をする人。その四、批判も寄付もしない人」
そして最後に親指を開いた。
「その五、批判して寄付しない人。──さて、単純に考えてこの中で最悪なのはどれでしょう?」
「え? えーっと…」
「理由がどうでもいいとなると…単純に考えて、寄付をしたかしないか、ですよね? そこに人を傷つける行為があるかないか、で考えると─…」
和希が頭の中で整理しつつ声に出していると──
「批判して── !」
「──寄付しない人だ!」
これまた二人同時に答え、差した指は絢音に向けられていた。
「正解」
絢音もまた、指を差し返した。
「だから、そんなやつの言う事なんか〝くっだらない〟って言えばいいのよ。理由はどうであれ、寄付してる人の方がずっとマシだってね。──まぁ、仕事上そんな言い方はできないだろうから、椿ちゃんお得意の〝オブラート返し〟が必要だけど」
絢音が最後まで言い終わると、椿はスッキリした顔になっていた。
「そういう事だったんだ、このモヤモヤしてた感じは。んー、やっぱり絢姉さん最高だわ! ありがとう〜!」
椿はそう言うと、両手を広げて絢音に抱きついていった。
「スッキリしたところで、ほら、できたぞ」
お互いの背中をポンポンと叩いたところで、誠司が日替わりの海鮮丼を絢音の前に置いた。
「和希も一緒に食うか?」
「あ、はい!」
「そう言うだろうと思った。ほら、お前の分」
誠司は、見えないように用意していたもう一つの海鮮丼を和希に出した。〝一緒に〟と付け加えれば、絶対に〝食べる〟と言うと思ったのだ。
丼の上には、マグロ、玉子、エビ、イカ、甘エビ サーモン、イクラの七種類が彩りよく盛られている。そこに緑の大葉とワサビが加わって、色のバランスがキュッと引き締まっていた。
絢音はワサビを小皿に取り出すと醤油と混ぜ合わせ、再び丼の方に回しかけた。そして両手を合わせた。
「…いただきます」
最初は、マグロの部分から下の酢飯を包み込むようにして口に入れた。
「んー! 最高!」
顔を上げて目をギュッと閉じたその姿に、誠司は満足げにフッと笑った。隣に座っている和希も、その姿を見て微笑んでいた。
「ほら、川上くんも見てないで食べて、食べて。ほんと、美味しいから」
「はい。じゃぁ、いただきます」
同じようにわさび醤油を回しかけて、マグロから口に入れた。
「んん! ほんと、最高ですね」
「でしょー」
「作ったのオレな?」
「うん、知ってる。自然の恵みと農家さんと漁師さんと、あと色々作ってくれてる人に感謝します。ありがとー。ほら、川上くんも椿ちゃんも言って。せーの…」
〝いくよ〟と手をヒラヒラさせて注意を引けば、
「「「ありがとうー」」」
──と、絢音のテンションに乗っかって、和希と椿も加わった。
「なんだ、これ。全然、気持ちが伝わってこねー」
「おっかしいなぁ。ちゃんと込めてるのに。──あ、じゃぁ、もう一回言っとく?」
「いらんわ」
誠司が速攻でツッコんだ。まぁ、そんなやりとりも楽しいのだが。
一通り笑ったあと、和希はふと聞いてみた。
「…因みに、早瀬さんはどのパターンなんですか?」
「うん?」
「さっきの寄付の話です」
「あー、あれね。──私は批判も寄付もしない人」
「え、そうなんですか!? てっきり、純粋な気持ちで寄付するのかと思っていました」
「まさか。それができるのは川上くんの方でしょ。なんかさ、募金箱を見つけるたび募金して、更に箱の前で手まで合せそうな感じっていうの?」
「すごいイメージですね。絶対しないですけど…」
「それに、今でもアイドルはトイレに行かないとか思ってそうだし」
「いやいや、それはさすがにないですって─…ってか、関係あります、それ?」
「ある、ある。それくらい純粋だって事よ。それに、私は川上くんが思ってるほど良い人じゃないし」
「え…?」
「寄付ってものは、できる人ができる時に、やりたい人がやればいいと思ってるくらいだからさ。だって、お金は大事じゃない?」
「まぁ、そうですね。でも寄付って本来はそういうものだし──」
〝だから、良い人じゃない…ってわけでもない〟と言おうとしたら──
「あ、でも…」
──と、思い出したように続けた。
「レジでお金を払って、お釣りをもらう前に財布をしまっちゃったら、そのお釣りをレジ横の募金箱に入れてもいいかな」
〝まぁ、お釣りの金額にもよるけど〟と付け足す絢音の顔を見て、ふとその理由を思い付いた。
「財布を出すのが面倒だから、ですね?」
「そっ、正解」
〝よく分かったね〜〟と言っているような笑みに、和希は心の中で〝やった…〟と喜んだ。
「でも寄付をするならちゃんとしたところでしたいよね」
「──というと?」
「もちろん善意でやってる人の方が多いだろうけど、中には架空の名称で募金活動してる団体もあるからさ」
「あー、確かにそういう話は聞いた事がありますね」
「いつだって、悪いやつのせいで真面目にやってる人が面倒こうむるのよね。本人確認のセキュリティーとか、銀行で下ろせる金額の上限とかさ─…ほんと、面倒くさい事が増えてくのよ」
「今はワンタイムパスワードも必須ですしね」
「そう! いちいち違う画面開けたり、パソコンで操作してても携帯で確認しなきゃだし…ほんっと面倒! 何でもかんでも会員登録が必要で、パスワードを考えるのも面倒でしょ? 同じパスワードの使い回しもダメだし、だからって違うパスワードを一生懸命考えても把握しきれないし…もうパスワードの画面も見たくないわ」
「確かにあれはウンザリします。僕もパスワードを考えるだけで、十分くらい費やしますよ…」
「だからさ、私のパスワードは全部そういう愚痴にしてんの」
「え…愚痴?」
「いや、暴言かな」
「暴言…!?」
「人に言えないような、ね」
「いや、まぁ…パスワードっていう時点で、どんなに綺麗な言葉でも人に言っちゃダメですけどね」
「あはは、そりゃそうだ」
「でも面白そうですね。僕も次のパスワードを考える時は、そういう言葉にしてみようかな」
「うん、やってみて。ちょっとしたストレス発散ができるかもよ?」
「ですね」
その瞬間、苦戦していたパスワード作りが少し楽しみになった和希だった。そんな二人の会話の合間を縫って、誠司が滑り込んだ。
「飲み物は、絢ねぇ?」
「あー…っと、何にしようかな…」
飲むなら緑茶かな…と思いつつふと隣を見れば、ビールのグラスが空になっているのに気が付いた。
「川上くんは? 次、何飲む?」
「あぁ、そうですね─…」
考える和希に、ママが即座に反応した。
「川上くん、アレよ。アレ、使ったら?」
ママは〝アレ〟と言いながら、両手の人差し指を使って小さく〝四角〟を空気中に描いた。その仕草に和希が昨日のことを思い出し、〝そうだった〟と、カバンの中から〝アレ〟を取り出す。
「これ、使ってもいいですか?」
そう言って見せたのは、あの〝一本無料ビール券〟だった。
「いいけど─…昨日、使わなかったの?」
「いつでもいいって言われたので──」
「どうせなら、絢ちゃんと一緒に飲みたいって─…ねぇ?」
「あぁ、はい…」
「そっか。じゃぁ、私も一口もらおうかな。それと、私は梅炭酸ジュースね」
「僕はビールの後にこれも…ジンでお願いします」
和希はビール券と梅シロップの無料券、二枚をママに手渡した。
「はい、了解しました」
そして、ちょうど食べ終わった椿にも聞いた。
「椿ちゃんは?」
「私もママの梅シロップがいいなぁ、ジン割りで」
「はいはい。じゃぁ、みんなちょっと待っててねー」
そう言ったママはなんだか楽しそうで─…梅炭酸ジュースとビール、そして梅シロップのジン割りを作りにカウンター奥へと消えて行った。
椿は、カウンターに置かれた残りのカードが気になった。
「ねぇ…それってもしかして、全部ビールの無料券…?」
〝まさかね?〟という思いで聞いてみる。すると──
「あぁ、違うんだ。これは問題で─…」
「問題?」
意味が分からず、言いながらカードの束を手に取り中身を見てみると──
「私から川上くんへの問題よ」
絢音が加わった。
「絢姉さんから、問題…?」
更に意味が分からない、と繰り返す。
「難しい問題が多いから、全部解くには時間が──」
「すごーい、全部解けたんだぁ」
〝かかると思うけど〟と言おうとした間を、椿の声が埋めた。しかも〝全部〟という言葉に驚く。
「え、全部!? うそ、ちょ…見せて…!」
箸を置くのも忘れ、椿からカードを受け取った絢音。ざざざっとカードをトランプのように左から右へと動かし、〝答え〟の欄を確認した。椿の言う通り、最後のカード一枚まで答えが書かれていた。
「ほんとだ…。え、もしかして簡単だった?」
「全然─…答えの字数が〝ひらがな・カタカナ限定〟っていうのに気付くのにも時間がかかって──」
「オレも一緒に考えたし─…それでも分からない時は携帯で調べて…なぁ?」
誠司の問いかけに和希が頷いた。
「結局、誠司さんの仕事が終わる十時までかかりました」
「そうだったんだ…。でも一日で解けるとは想定外。こんなに早く解けるなら、一枚のカードに二問書けばよかった…」
「え?」
「二問?」
和希と誠司が驚いて顔を見合わせた。
「問題ってまだあるんですか?」
「うん、ある。──って、ちょっと待って。先に食べちゃうから」
絢音は持っていたカードをカウンターに置くと、残り数口分を急いで食べた。それを見た和希も、慌てて食べ終える。
「あー、美味しかった。ごちそうさま、誠司くん」
「ごちそうさまです」
「お、おう…」
食べ終わった食器を誠司に渡すと、ちょうどママが三人の飲み物を持って来た。
「はい、絢ちゃんは梅炭酸ジュースで、川上くんはビールとグラス。──あ、ビールは注いであげるからちょっと待ってて。それから…椿ちゃんは梅シロップのジン割りね」
「ありがとう、ママ」
「ありがとうございます」
「ありがとう〜」
それぞれの目の前に飲み物を置いた後、ママがビールを手に持つと、和希もグラスを持った。慣れたようにグラスを傾け、ビールを注ぐ。途中からグラスを立てていき、注ぎ終わったビールは泡の配分も完璧だ。
「はい。じゃぁ、召し上がれ」
ママのその一声で、三人は〝カンパーイ〟の代わりに〝いただきまーす〟と声を揃え、一斉に口に運んだ。
「ん〜! やっぱり、ママの梅シロップは美味しい!」
「そう、良かったわ」
「ジン割も美味しいよ、ママ」
「お代わりしてもいいけど、飲み過ぎないでね」
「は〜い」
「──で、どう? ビールの味は?」
〝イメージ〟だけで選んだため、絢音は味の方が気になって聞いた。
「あー、なんか〝丸い〟って感じです」
「丸い? ──飲んでみていい?」
「あ、はい」
和希はまだ残っている缶の方を渡そうとしたのだが、絢音はそれより先にグラスに手をかけた。極々当たり前のように──
(え…同じグラスで…!?)
声には出さなかったが、同じグラスに口をつけるのを見て内心ドキドキした。自分でも〝中学生か〟とツッコみたくなるほどだ。一口ゴクンと飲んだあと、〝あー…〟と考えるように視線だけを上に向けた絢音。そして〝うん〟と頷いた。
「丸いね。泡が細かいのかな…?」
「ですね。クリーミーさで苦味が抑えられてるんだと思います」
「なるほど。苦味を優しく包んでくれてるのか…。だったら、味も川上くんにピッタリだね」
「え、そ、そうですか?」
「うん。ただ味の好みとしては、キリナンがいいけどね」
「キリナン─…は、そうですね。確かに美味しいですけど…なんでだろう、なんか複雑です」
「え、そう?」
〝どうして?〟と聞き返すような目に、和希は苦笑いを返すしかなかった。
「あぁ、それで─…味はともかく、デザインが僕にピッタリっていうのは、どの辺なんですか?」
「それはもう、この色でしょ」
「色…?」
絢音は〝そう〟と言って、ビールの缶を手に持った。
「このシルバーとホワイトゴールドってさ…天使がここにいそうな神々しい色じゃない? 純真無垢な感じっていうの? このオレンジっぽい部分は陽だまりみたいだし、〝ザ・川上くん〟って感じ。多分、こういう色の服とか似合うと思うよ」
「嬉しいですけど─…なんか、イメージが良すぎませんか…? 後々、幻滅されそうで怖いんですけど…」
「そう? 結構、当たってると思うけどな。──でも、イメージと違ったって、幻滅なんかしないから大丈夫。それはそれで、川上くんも地上の人間なんだって、親近感が湧くだけだから」
「え…僕ってそもそも地上の人間じゃないイメージなんですか!?」
「いや、だってさぁ…いないでしょ、こんな人、地上に──」
「います、います! 全然いますって! 普通ですよ!? 早瀬さんの隣にいる、ごく普通の人間です! お酒飲んで酔っ払って、家のローカで転んでおでこに鍵跡付けるような普通の人間ですよ!?」
「鍵跡付けたのか、お前? おでこに?」
「はい。絆創膏貼って隠しました」
「絆創─…」
「それに、寝坊してアニメみたいに寝癖つけたまま出勤したし─…覚えてますよね、早瀬さん?」
「うん、お、覚えてるよ…」
絢音は笑いそうになるのを必死に堪えて言った。
「会社では、良い事があったら背後に満開の桜が見えるくらい分かりやすいとか言われて──…それはそれでよく分からないですけど、なんか毎日のようにからかわれるし──」
──と言ったところで、絢音も誠司も椿も吹き出した。
「え…?」
「ちょ、ちょっと待って川上くん──」
「おまっ…焦りすぎ──」
「やだほんと、可愛すぎるんだけど──」
「え…なに? どういう事ですか…?」
絢音にとって、自分が遠い存在に思われているのが嫌で必死にそうじゃない事をアピールしたのだが、まさか三人に笑われるとは──
でも同時にふと、気が付いた。
「もしかして──」
「ブハハハハ…! そうだ、冗談だよ!」
「えぇー…」
「イメージはそうだけど、ちゃんと地上の人間だって思ってるって」
絢音が言った。そして続ける。
「むしろ、ご当地のマスコットキャラクターくらい身近で親近感があるわよ。安心して。イメージと違ったって、川上くんを嫌いになる人なんかいないから」
「ほんとに…? 早瀬さんも?」
「もちろん。陽だまりを嫌いになんかなれないでしょ」
「陽だまり─…」
いったいどこから冗談だったのか…。ただ、自分が〝陽だまり〟というイメージで、それを嫌いにならないと言われた事だけで、正直、ホッとしたし、それ以外の事はどうでも良くなってしまった。〝好きな人の言葉〟というのは、それほど大きいのだ。
「それはそうと──」
安心した和希は、まだ笑っている絢音に違う話題を振った。違うと言っても、例のカードの話だ。和希は、カウンターに置いてあったカードを取り上げた。
「この問題って…結局、何だったんですか?」
「うん? ──あぁ、それ? それはね─…」
そう言うと、絢音は自分の鞄から一冊の雑誌を取り出した。一緒に問題を解いた誠司も気になり、カウンター越しに覗き込む。
「「クロスワード…パズル…?」」
表紙を見て二人の声が揃った。
「え…? 問題って─…ひょっとしてクロスワードパズルの問題だったんですか?」
「うん、そう。こういうパズルってさ、大抵、一問ぐらい難しいのがあるんだよね。──あ、だからってマスを繋げて出てくる答えが分からないわけじゃないのよ? 答えはちゃんと出てる。ただ、マスが全部埋まらないっていうのが気に入らないっていうか、スッキリしなくてさ」
「だったら調べたらいいだろ?」
「自分で? それは面倒くさい」
「いやいや、その面倒くさい事をオレらに丸投げか?」
「丸投げって、そんな人聞きの悪い…。純粋に〝分かるかなぁ?〟って思って書いただけよ。分からなかったら、〝しょうがないな〟で終わるだけだし。それに、いい暇潰しになったんじゃないの?」
「だからって、〝ウィンウィン〟って言うなよ?」
「じゃぁ、〝持ちつ持たれつ〟」
「うっさいわ」
間髪入れず言い換えてきた言葉に、思わず笑ってしまった。そのタイミングで、和希が続いた。
「パズルの問題はいいとして、この裏の記号は? 何か意味があるんですか?」
「もちろん。それがないと探すの大変よ?」
「探す…?」
「ほら、例えばその一枚目の問題の答えは?」
「えっと…〝砂漠に住むキツネに似た動物とは?〟の答えは─…〝フィネック〟です」
「フィネック、ね。その裏にはなんて書いてある?」
和希がカードをひっくり返した。
「〝25ー56Y〟です」
「つまり、25ページの──」
「「ページ数!?」」
「56の横」
「「横!?」」
双子のようにハモった直後、
「「〝YOKO〟の〝Y〟!!」」
二人して、お互いに指をさし合った。
「じゃぁ、〝T〟って──」
「もちろん、縦の〝T〟でしょ」
和希の問いに、〝当然〟とばかりに答えた。
「「〝TATE〟の〝T〟…」」
「本当は、縦は縦書き、横は横書きにしようかと思ったんだけど、いちいち書き方を変えるのが面倒だったからさ」
「それで〝T〟と〝Y〟の二種類─…」
〝なるほど〟と納得した和希だったが、誠司と目が合ったら笑いが込み上げてきてしまった。それは誠司も同じで、そこにきて椿まで笑いが連鎖していく。
「え、なに? なんで笑ってんのよ?」
「いえ…想定外っていうか─…」
「相変わらず斜めってるっていうか─…」
「それを至って普通の事のように言ってる絢姉さんがさ─…」
「いやいや、普通でしょうよ? 店で言ったら、経営者が管理しやすようにタグをつけてるのと同じよ?」
「まぁな。けど問題も、まさかクロスワードパズルとか思わないだろ?」
「それ言ったら、なぞなぞ問題だって〝何でいきなりなぞなぞなんだ〟ってなるじゃない」
「そ、そうですよね─…」
和希は、笑いを堪えながらそう言った。
「だから何で笑って──」
「だって面白くて楽しいんだもん、絢姉さん」
「はぁ?」
「そうですよ。一緒にいると意外な事とか驚く事があって──」
「オレだって、いまだに想定外の事があるくらいだからな」
「なんか、笑われてる感が否めないんだけど?」
「そんな事ないですって。本当に楽しいですよ、早瀬さんといると。こういう時間、僕はすごく好きです。本当に─…」
(飾らない早瀬さんが可愛くて好きです…)
声に出せないそんな気持ちを、和希は心の中で呟いた。
一方絢音は、真っ直ぐな目でそう言われて──いつかの時と同じように──〝まぁ、いいか〟という気になってしまうから不思議だった。絢音は気持ちを切り替えるように、息をひとつ吐き出した。
「もういいわ。じゃぁ、次教えて」
「分かりました。じゃぁ、えっと…9ページの──」
「はいはい、9ページね─…」
そうして絢音は、和希と誠司が解いた十七問の答えをパズルに書き込んでいったのだった──