8 フード姿と謎の記号 <2>
約束の日曜日──
この日は久しぶりに朝から晴れていた。快晴とまではいかないが、ここぞとばかりに洗濯したくなるくらいには晴れている。
前日に見た天気予報では晴れを表す〝太陽〟と〝薄い雲〟の絵があったが、梅雨時期のこのマークは期待するほど太陽の恩恵にはあずかれない。その為いつもの休日と同じように目を覚ました絢音は、思っていた以上の日差しを目にし、慌てて布団のシーツまで剥がして洗濯したほどだった。
そうして軽く掃除をしてひと息付けば、休日の午前中は終わる。朝昼兼用の食事になるのはいつもの事で、ボリュームのあるホットサンドを作ると、紅茶とヨーグルトも合わせて食べる事にした。テレビからはバラエティー番組の楽しそうな声が聞こえてくるが、今やそれはBGMと化している。絢音は脇に置いた携帯のニュースアプリで、話題になっているニュースをチェックしていた。政治の政策や問題発言の謝罪、一日警察署長を誰がやったとか、ドラマの考察や前日の事件・事故、養護施設へ多額な寄付をしたというのもあったが、やはり一番時間を費やしたのは猫の話題や動画だった。集合時間の十四時にはまだ時間があり、食べ終わってからものんびりと猫の動画に癒されていた。そして十三時を回ったところでようやく、食器を片付けたり歯を磨いたり…と支度を始めた。そんな中、絢音は机の上に置いてあったメッセージカードにふと目が止まった。和希が持ってきた、あの文房具のサンプルだ。途端に、〝使い道は決めてある〟と誠司に言ったのを思い出した。
(ついでだから、これも作るか…)
そう思ったら即行動…とばかりに、すぐ家を出た。そしてある所に寄ったあと、誠司の店に着いたのは集合時間の三十分前だった。
時間が時間だけに誠司や夏帆たちは忙しく、絢音もそれは承知している。そのため敢えて裏口から入ることにした。
休憩室は裏口から入ってすぐの右側にあり、そこは引き戸付きの座敷のように靴を脱いで上がる部屋だった。中は六畳ほどの広さで、ソファやテーブル、テレビ、収納棚まである、いわゆる〝普通の部屋〟だ。そしてその奥には、二階にある誠司やママたちの居住スペースへと続く階段があった。
絢音は靴を脱いで休憩室に入ると、いつものバッグと手提げ袋を置き、収納棚の引き出しからカラーボールペンとメモ帳を出した。そして頭の中で思い描いていた絵を、練習としてメモ帳に書き出したのだが…。
何度描いても頭の中にある〝絵〟のようにならないのはなぜなのか。いや、絢音も分かっている。〝自分は絶望的に絵が下手だ〟と。だからこそ丁寧に細かく描こうとするのだが、それはそれで線が入り乱れるだけで、汚く見えてしまうのだ。だからと言って少ない線で描こうとすると──そもそもどこが必要な線で、どこが不要な線かが分からないため──完成図がイメージするのに難しい仕上がりになってしまう。しかも、描きたいのはオシャレに見えるイラストだ。芸術的なセンスが皆無な絢音には、何をどう描いても理想には近付けなかった。
(好きこそ物の上手なれ…とは言うけど、好きでもない面倒くさがり屋だからなぁ…)
どうしたものかと無駄にインクを使っていたら──
「あら、ビール?」
突然、頭上で声がしたから驚いた。バッと振り返って見上げると、いつの間に上から降りてきたのか、ママが覗き込んでいた。
「びっくりした…。いつ降りてきたの?」
「さっきよ」
「足音聞こえなかったけど、もしかして消した?」
「途中からね。絢ちゃんの姿が見えたから」
「もう…普通に降りてきてよ、普通に」
「だって、なんか一生懸命だったから…。──で、どうしてビールの絵を?」
「これよ」
絢音はそう言って、メッセージカードを見せた。
「それに描くの?」
「そう。──ほら、これ見て」
言いながら手提げ袋から缶ビールを取り出した。全部で三本あり、全て違うメーカーのものだった。ママもテーブルを前にして座った。
「またサカさんに頼まれたの?」
「違う、違う。私が敢えて買いに行ったのよ」
絢音は〝敢えて〟というところを強調した。
「本当はキリナンのビールにしようと思ったんだけど、これが目に入っちゃってねー」
取り上げた一本は、シルバーとホワイトゴールドを基調としたデザインに、黄色にもオレンジにも見える淡い光が描かれているものだった。
「これ見た時にさ、〝あ、川上くんだ〟って思ったのよ。こう…汚れてない感じっていうの? 淡い光は陽だまりみたいで、川上くんを色で表すならこれだな…って」
「なるほど…確かに川上くんにピッタリだわね」
「でしょー。で、そう思ったら誠司くんとママのイメージに合うものも選んでみようと思って、買ったのがコレとコレ。どう? どっちがママか分かる?」
残りの二本のうち、一本は麦畑に青い空と入道雲が描かれたもので、もう一本はオーロラのような幻想的な光が描かれたものだった。
「もちろん。こっちが私ね」
選んだのはオーロラのような幻想的な光が描かれた方だった。
「正解。ママは夜のイメージだし、いろんな色を持ってるからね」
「あら、ありがとう。じゃぁ、こっちの誠司のイメージは?」
「時々〝ウザっ〟って思うような晴れ男」
「やだ、ぴったりじゃない」
「でしょー」
「でも今は、それくらいの晴れが欲しいわね」
「確かに、それは言えてる。最近はずっと乾燥機を使ってたけど、今日は久々にシーツまで洗って外に干したもの。でもなんでだろ…。太陽の日差しを見ると、無性に洗濯物とか布団とか干したくなるのって…」
「やっぱり、お日様で乾かすと気持ちいいっていうのを知ってるからじゃない?」
「そうなのかなー…」
「それより、どうしてメッセージカードにビールの絵を描きたいの?」
「あー、そうそう」
言われて〝そうだった〟と思い出した。
「メッセージカードの使い道─…無料ビール券でも作って渡そうかと思って、川上くんに」
「それ全部?」
ママがメッセージカードを指さした。
「まさか。とりあえず一枚よ。あとは、私がいない時にメッセージを残すとか、他愛もない問題作って置いておくとか─…ちょっと遊んでみようかなって」
「あぁ、そういうことね。いいんじゃない、楽しいかも」
「でしょ? でもどうやっても、ビールのイラストが上手く描けないんだよね…。細かく描こうとすると見た目がごちゃごちゃするし、簡単に描こうと思うと、どの線を描いてどの線を削るのか分からなくて──」
「そういう時は、一筆書きをしてみるといいわよ」
「一筆書き?」
「そう。一筆で書く事で自然と余分な線が省略されていくから。たとえばこういう感じで──」
──と、絢音とは違う色のボールペンを持つと、ママはメモ帳にビールの絵を一筆で描き始めた。
「え、うそ…ママ、上手いじゃない!」
「こういうの得意なのよね〜。リアルな絵を描くのは苦手だけど、子供向けの絵とかイラストとかは好きで─…誠司にもよく描いてあげたわ。──あ、ちなみに店のエプロンの絵も私が描いたのよ」
「え…!? エプロンの絵って…あの胸元にある〝菖蒲〟の絵!?」
「そう、あれも一筆書きでね。それを元にしてプリントしてもらったの」
「えー、知らなかった…。花だけど、シンプルで性別問わない感じとか、オシャレでいいなって思ってたけど─…まさか、ママがデザインしたとは…」
「驚いた?」
「うん、驚いた。──あ、じゃぁ、これマネて描いてもいい?」
「どうぞ。──じゃぁ、私も一枚、無料券作ろうかしら」
「ママも? 何の?」
「梅シロップ─…を使ったご希望のもの」
「梅─…って、もしかして今年の!?」
ママは漬物や梅干しはもちろん、梅酒や切り干し大根などお酒のアテになるものも自分で作ったりする。今の時期は、ちょうど梅シロップが出来上がる頃だったのだ。
「もうそろそろいいわよ。飲むでしょ、絢ちゃんも?」
「もちろん、飲む飲む! ママの梅シロップ、美味しいもの!」
「そう言ってくれるから、作り甲斐があるのよね〜。──さぁ、じゃぁ、もうみんな来る時間だから、ちゃちゃっと描いちゃいましょ」
「あぁ、そうね」
絵の練習と脱線した話で、既に集合時間まであと十分ほどになっていた。絢音は慌ててメモ帳に一筆書きを練習すると、五個ほど描いたところでメッセージカードに本番描きをした。最初に描いたものとは大違いで、線の歪みですらよく見えるのは一筆書き故だろうか。一から自分で描けるものではないが、出来栄えは満足できるものになった。こうして二枚の無料券が完成すると、絢音はボールペンやメモ帳を片付け、ママは急いでビールを冷蔵庫に冷やしに行った。
椿や和希、そして見知らぬ女性──礼香──がやってきたのは、それから数分後の事だった。最初は和希が連れてきた礼香を見てみんな戸惑ったが、和希から〝彼女は職場の先輩で、用事があって自分は参加できないが、袋詰めや無料配布の場を設けてもらったお礼を伝えたくてここに来た〟と聞かされて、椿やママはホッと胸を撫で下ろした。
礼香が申し訳なさそうに帰ったあと、主に絢音と和希と椿の三人が袋詰めをし、最後にママがリボンをかけ、ハサミで可愛くカールリボンに仕上げていった。
他愛もない話をしながらの作業は楽しく、特に〝今日はみんなが洗濯物を干した〟という話の時に絢音がふと漏らした言葉には、一番戸惑い、そして笑った。
「梅雨時期の洗濯って、自分で自分の首絞めてる気がするんだよね」
一瞬どころか頭の中で繰り返しても理解できず、手も会話も止まった三人。無言の間を真っ先に破ったのは和希だった。
「あー…えっと、洗濯が自分の首を絞めるってどういう─…?」
「湿気よ」
「湿気…?」
「そう。ずーっと雨が降ってさ…今日みたいに晴れると、みんな一斉に洗濯するじゃない? もう今日しかないって思うから量も増えるし。でもそれって同時に、洗濯物が乾くのに比例して空気中の湿気を増やすってことだから、ただでさえ蒸し暑いのに、自分たちの洗濯物で更に不快指数を上げてるって事にならない?」
「あー…なるほど、そういう─…」
ようやく言ってる意味は分かったが、洗濯物の量よりずっと影響を与えるものがあるのでは…と思ったところで、今度は椿がそれを口にした。
「洗濯物より海の方が大きくない…?」
「何が?」
「だから…海から蒸発する水分量。不快指数を上げるとしたら、そっちの方が大きいと思うけど…」
「あー…」
「川とか陸地からの蒸発量も大きいですしね…」
染み込んだ水の量はもちろん、面積からいっても洗濯物の比じゃないだろうと和希が続けば…。
「なんだ…じゃぁ、遠慮することないのか…」
「え…干す量を遠慮してたんですか?」
「ううん、してない」
「「「え…?」」」
話の流れから〝遠慮〟していたのかと思いきや、全くの正反対の返答に三人が同時に発した。
「してないけど、する必要ないんだなー…って思っただけ」
これはいったい、どう返せば正解なのだろうか…。そう思ったのは和希だけじゃないようで、気が付けば皆が同じ助っ人の名前を呼んでいた。
「誠司さんー」
「誠司にぃー」
「誠司ー」
「え、なんで誠司くん!?」
突然三人が誠司の名前を呼んだから絢音も驚いた。同時にカウンターの方にいた誠司も、何事かと驚きすっ飛んでくる。
「何だ、どうした!?」
顔を見せた誠司が開口一番そう聞けば、三人が大爆笑した。
「は? 何だよ?」
もちろん笑ったのはすっ飛んできたことではなく、三人が無意識のうちに同じ名前を呼んでいたことだ。笑ってない絢音に視線を移し〝どういう事だ?〟と問いかけるが、絢音自身も〝さっぱり分からない〟と首を傾げる。なのに、それだけで誠司は何となく分かってしまった。
「どうせ、また絢ねぇが変な事でも言ったんだろ?」
「はぁ? 言ってな──」
「言った、言ったー」
「え…?」
「はい、言いましたね」
「ちょ…」
「言ったわねぇ」
「ママまで…?」
「ほらみろ。やっぱ、言ったんじゃねーか」
「いや、知らないって──」
「そういう事はオレがいる時に言えよ。──ってか和希、お前がツッコめ」
「えぇ…それはまだちょっと──」
「もしくは寄り添え。この先、必要なスキルだぞ?」
それは〝付き合いたいなら、それくらいできるようになれ〟という意味で、誠司の意図を理解した和希がハッとした。
「わ、分かりました、頑張ります!」
和希がどっちを頑張るのかは分からないが、性格上、おそらく〝寄り添う〟方だろうと思いつつ、誠司は〝ヨシ〟と頷いて戻っていったのだった。
礼香からの差し入れを食べつつ、談笑しながらの袋詰めは二時間ほどで終了した。その頃には店の方もひと段落していて、四人が店内に出てきた時は、ちょうど誠司が遅めの昼食をとっているところだった。
「何か飲む?」
数日前と同じ並びで座った絢音たちに、ママが聞いた。
「あー…私はアイスティーにしようかな。川上くんは?」
「僕は…ホットでお願いします」
「アイスティーにホットね。──椿ちゃんは?」
「私はいい。今からネイルの予約があるから」
「あら、そうなの?」
「明後日から七月だし、リニューアルするんだぁ〜」
椿はそう言いながら手をヒラヒラさせた。
「次は何の花か決めた?」
絢音が聞いた。
「んー…王道の向日葵にするかプルメリアにするか迷ってるんだけど…」
「プルメリア…」
聞いたことないな…と呟きながら携帯を取り出した絢音。花言葉を調べようと電源を入れた瞬間、画面を見た和希が〝あ…〟と小さな声を漏らした。
「ん?」
「あぁ、いえ…一緒だったのでつい──」
「一緒?」
「僕もその写真を待ち受けにしたんです」
「そうなの?」
和希は頷きながら胸の内ポケットから携帯を取り出すと、電源を入れて画面を見せた。そこにあったのは、間違いなく絢音と同じものだった。
「おー、ほんとだ」
「え、なになに? 二人とも同じ写真を待ち受けにしてたの? それも偶然?」
興味津々に椿が携帯の画面を覗きにくれば、アイスティーとホットコーヒーを入れたママもやってきた。
「あら、それってもしかして──」
「ん、稲妻?」
「稲妻?」
椿の言葉に、誠司が立ち上がってカウンターから覗き込んだ。更に夏帆も続く。
「もしかして、撮れたんですか!?」
「撮れてた」
絢音はそう言うと自分の携帯を誠司に、和希は夏帆に待受画面を見せた。
「おー、綺麗に撮れたな」
「位置とか、構図もいいですよね」
「でしょー」
「え、なに…どういう事? 何か特別な写真なの? 待ち受けにすると縁起がいいとか?」
自分だけ話についていけない…と、椿が説明を求めてキョロキョロと顔を動かした。
「あー、ある意味そうかも。なかなか撮れなかった写真だからねー」
「…ってことは、これ絢姉さんが撮ったの?」
「私じゃなくて川上くん。この前の大雨の時に停電してね─…ずっとこういうのが撮りたかったんだけど撮れなかったから、ここは若さの反射神経に期待して、撮るのを手伝ってもらったのよ」
「へぇ〜、そうなんだ。でも、その一瞬を撮るのって難しかったんじゃない?」
「まぁ、何かコツがあるんだろうけど調べるのも面倒だから、とにかく地道に撮ってたよね?」
絢音の話を聞いてると、誠司は時々思う。〝面倒くさい〟の基準ってなんなんだろう…と。地道に撮る方が調べる事より面倒だと思うのだが…まぁ、敢えてそれは言わないのだが。
「でも途中で早瀬さんが言った〝間欠ワイパーみたいに、間欠連写機能があればいいのに〟っていう言葉で、〝それだ!〟ってなって──」
「そうそう。それから二人で数秒毎にシャッターを切ってたのよ。最初は秒数とか数えてたけど、そのうち話しながら適当にシャッターのボタンを押してたから、撮れたかどうか確認もしてなくて─…」
「でも家に帰って見直したら、一枚だけ撮れていたのでそれを送ったんです」
「試しに待ち受けにしてみたらすごく良い感じだったからさ、そのままって感じで─…。まさか川上くんも待ち受けにしてたとはねー」
「…ですね」
〝それがとても嬉しい〟というのは誰が見ても分かる表情なのだが、ただ一人その特別な感情が伝わらない人物がいた。もちろん、絢音だ。
「あ、じゃぁさ…携帯出したついでに、川上くんは向日葵の花言葉調べて」
「え? あ、はい…向日葵…の花言葉ですね─…」
──と、検索欄にそのワードを入力。同じように、絢音はプルメリアの花言葉を調べた。
「えっと…向日葵の花言葉は主に〝憧れ〟とか〝情熱〟ですね。あと本数──」
──と言いかけたが、そこに書いてある言葉を見て〝ここでは言えない〟と即座に口を閉じた。書いてあったのは向日葵の本数による花言葉なのだが、その全てが〝愛の言葉〟だったからだ。どれもこれも絢音に対する気持ちに当てはまると思えば、尚更言えなかった。
「本数─…が、なに?」
言葉が途切れたため絢音が問いかけたが、和希は〝いえ、なにも〟と首を振った。ここで何も思わないのが絢音なら、逆に気になったのは誠司だ。誠司はカウンターの見えない場所から〝向日葵の花言葉 本数〟と検索すると、出てきた結果にその理由を知った気がした。
(…なるほど。これはもう、プロポーズだな。──けど、ただ情報として伝えればいいだけなのにそれができないって─…ほんと、どこまでピュアなんだよ、お前は…)
〝らしい〟といえば〝らしい〟態度だが、あまりのピュアさにこっちまで恥ずかしくなる…と、誠司はカウンターの中で密かに笑ってしまった。
「早瀬さんの方はどうですか? プルメリアの花言葉─…」
「プルメリアはねー…〝気品〟とか〝情熱〟〝恵まれた人〟それから──」
──と、こちらも言いかけたところで声が止まったのだが、次の瞬間、
「「「陽だまり!」」」
──と、いつの間にか椿と夏帆も調べていたようで、三人揃って同じ言葉を発した。
「これはもう、決まりでしょ」
絢音が言えば、夏帆も頷く。
「決まりですね」
そして当の本人も、
「うん。絶対、これ!」
──と、言い切った。
「一ヶ月、和希くんを思い出しながら仕事するね〜」
「は…えぇ!? いや、あの──」
仕事バージョンなのか素なのか分からないが、どちらにせよ言われたことのない言葉に和希はドキドキしてしまった。そんな反応に、また全員が癒される。椿はほっこりした気持ちのまま、笑顔で帰っていった。
絢音と和希は、ようやく落ち着いて飲み物を口にした。喉が渇いていた絢音も、さっきの事で気持ちが騒がしかった和希も、ホッとひと息つけた感じだ。そんな二人を見ながら、夏帆がふと思い出した。
「そう言えば、あの時って何の話をしてたんですか?」
「あの時?」
夏帆の質問に絢音が聞き返した。
「マスターが呼ばれて、すっ飛んで行った時ですよ。すごく楽しそうな笑い声が聞こえて、めちゃくちゃ気になったんですけど─…」
「おー、それオレも聞きたい」
あの時は聞いてる時間がなかった、と誠司も加わった。
「別に大した話じゃないって。梅雨時期の洗濯は自分で自分の首を絞めてる気がするって話をしただけよ」
「洗濯が自分の首を絞める…ってどういう事ですか?」
「それ、川上くんも言った」
「え、そうなんですか?」
その問いは和希に向けられていて、和希も〝言った〟と頷いた。
「梅雨の晴れ間はみんなが一斉に洗濯するけど、同時に空気中の湿気を増やす事だから、自分たちで不快指数を上げてるんじゃないかって…早瀬さんが」
「あー、確かに…。でも、蒸発量からしたら、海とか湖とか地上の方が圧倒的に多いですよね?」
「それも川上くんと椿ちゃんに言われた」
「…ですよね」
「だから言ったのよ。〝じゃぁ、遠慮することないんだ〟って」
「え…それって、洗濯するのを遠慮しなくていいんだ…って事?」
「そうよ」
「…って事は、絢音さん…洗濯の量とか遠慮してたんですか…?」
「してない。──ってか、何これ。デジャヴ?」
最後の一言に、途中から笑いを堪えていた和希が吹き出してしまった。
「すみません…でもあまりにも反応が同じなので─…」
「そりゃそうだろ。それが普通だ」
誰だって同じ反応をする…と、慣れたように言ったのは誠司だ。
「──ってかな、絢ねぇの言う事に、いちいち意味を見いだそうとするから頭がバグるんだよ」
「じゃぁ、マスターだったらなんて返すんですか?」
「オレだったら、〝遠慮することないんだ〟って言った時点で〝してないだろ〟ってツッコむ。もしくは〝遠慮してない〟って言われた時に、〝だろうな〟って返すだけだ」
「え、それだけ?」
「──でいいんですか?」
夏帆と和希が同時に聞き返す。
「十分だろ。だいたい〝自分で自分の首絞めてるなー〟って言ったのも、蒸し暑さにうんざりして思った事を口にしてるだけで、本気でそれについて考えようとか思ってないからな」
〝そうだろ?〟と絢音に聞けば、
「さすが〝ウィンウィン第一号〟」
──と返ってくるから、誠司もまた乗っかった。
「──って事だ。頑張れよ、〝ウィンウィン第二号〟」
「え…? あ、は、はい!」
ほぼ反射的にそう言ったが、同時にそこまでいくのにはまだまだ時間がかかりそうだとも思った。和希はそんな落ち込みそうになる気持ちを、少し冷めたコーヒーで紛らわした。
窓際にいた二人の客が注文の伝票を持って立ち上がったのはそんな時で、夏帆がすぐに気付いてレジへと向かった。
「まぁでも…絢ねぇがそういう意味のない事っていうか、どうでもいい事が言えるって事は、良い傾向だけどな?」
レジの方を伺いながら、誠司が言った。
「良い傾向…ですか?」
「あぁ。要は、今まで以上に〝素〟が出てきたってことだから──」
──と言ったところで、客が会計を済ませて帰っていくのを目にし、〝ありがとうございましたー〟と見送った。そして続ける。
「気取らなくていい相手─…つまり、お前が〝しょうもない事でも気にせず言える相手〟に昇格したって事だろ」
「え、そうなんですか?」
「そうだろ、絢ねぇ?」
和希が誠司に、誠司が絢音に伝言ゲームのように聞けば…。
「さぁ、どうだろ。別に意識して喋ってるつもりはないからなー」
「無意識がその証拠だろ」
そう言われてふと、自分でもすりガラスのように見えなかった心の奥を見透かされた気がした。それが何だか居心地が悪く、会計を済ませた客のテーブルから食器を引き上げて来る夏帆を目にして、話を変えた。
「ね、それよりさ…夏帆ちゃんのアレ、どうなったか聞いた?」
「あー、友達のやつな?」
わざと話を変えたのは分かったが、誠司も敢えて言うのはやめた。
「電話で自分の気持ちは伝えたって言ってたから、絢ねぇと話した時の気持ちを言ったんじゃないか?」
「そっか。なら──」
──と言ったちょうどその時、再びドアの鐘が鳴って一際大きな男の声が聞こえた。反射的に夏帆が〝いらっしゃいませー…〟と出迎えたが、その直後──
「マスター」
誠司を呼ぶのと、絢音の顔が強張って立ち上がったのはほぼ同時だった。立つ勢いで椅子が後ろに倒れ、その音で入ってきた客の目が絢音に移る。
絢音は一歩後ろに下がったまま、体が硬直してしまった。
(に…逃げなきゃ─…)
「早瀬──」
呼吸が荒くなり、一瞬にして周りの音が遠くになった。入れ替わるように、現実の視界に違う映像がフェードインしてくる。フードを被った男とその顔、そして振り下ろされる拳─…そこから目を逸らし、必死で逃げようと体を翻した。すぐ後ろは壁で、肩から頬が当たった瞬間、現実の視界が微かに見えた。
(そうだ…ここは店…誠司くんの店でカウンター席の後ろ…だから─…)
自分に言い聞かせながら、何とかその向こうに行ければ─…と、絢音は手探りで壁伝いに移動しようとした。だけど、足が動かない──
「早瀬さん─…大丈夫ですか!?」
和希が立ち上がって絢音の肩に手を添えるが、その声もその姿も絢音には届いてないように見える。
「早瀬さ──」
「和希、悪い─…絢ねぇを奥の個室に連れてってくれ」
「え…」
「頼む」
「あ…ぁ、はい─…」
何がなんだか分からないが、人目を避けた方がいいというのは分かる。和希は誠司に言われた通り、絢音の体を引き寄せ壁の向こうへと連れ出した。そこへ店のママも駆け寄って来る。
「こっちよ」
そう言って引き戸を開けたのは、〝関係者以外立ち入り禁止〟と書かれた扉に続く、通路の左側にある小さな部屋だった。そこはこの店にただひとつある個室で、今はあまり使わなくなった部屋だ。
和希はママに案内されるがままその部屋に入り、絢音をゆっくりと椅子に座らせた。未だ呼吸は早く、手も体も震えている。和希はしゃがみ込み、絢音の顔を覗き込んだ。怯えるような目は焦点が合っていないように小さく揺れ、やはりその目に和希の姿は見えていないようだった。
「白湯を持って来るから、川上くんはここにいてあげてちょうだい」
ママはそう言うと、厨房へ向かった。
「早瀬さん…?」
どうすればいいか分からないが、目の前で震えているのを見れば思わず抱きしめたくなる。でもそれは違うだろうと、その気持ちを必死で抑えた。
絢音は、まるで自分の身を守るように右手で左腕の服を握り絞めていた。和希はそっとその手を包み込んだ。その手は血の気が引いたように冷たく、そのせいで指が動かせないのでは…と思うほどだ。和希は、強く握りしめるその手をゆっくりと優しく解いていった。徐々に握りしめている手が緩み服から離れると、和希はもう片方の手も重ねて一緒に包み込んだ。冷たい手を温めるように…。
「早瀬さん、分かりますか…? 僕を見てください─…」
祈るような気持ちで、包み込む手にも力が加わる。
「……さん…」
絢音が見ていた景色に、遠くの方から聞き覚えのある声が聞こえた気がした。
「…分…ますか…」
聞き覚えのある声が更にはっきり聞こえてくると、背けたくなるような目の前の景色が歪み、違う景色と入れ替わるようにフェードアウトしていく。
「……僕…見てください─…早瀬さん…!」
両手が揺れた瞬間、目の前に自分を見上げるように覗き込む和希の顔が飛び込んできてハッとした。
「あ…か、川上くん…?」
「よ…良かった…」
ホッとした笑顔に、絢音の心も少し和らいだ。さっきまで何も感じなかった手にも、温かさを感じる。そんな時、和希の後ろの引き戸が開いた。バッと顔を上げると、そこにいたのはママだった。
「ママ…」
「あぁ、良かった…。ほら、白湯よ。これ飲みなさいな」
和希が手を離すと、絢音はママから白湯を受け取った。まだ少し手が震えるが、なんとか両手で包み込むと、ゆっくりと白湯を口に含んだ。ゴクンと飲み込めば、心地良い温かさがスーッと体に染み込んでいく。そこでようやく、深い息ができた気がした。その顔を見て、ママや和希もホッと胸を撫で下ろした。
「今日はここにいればいいから、ね? あぁ、そうだ。荷物も持ってこなくっちゃ。川上くん、ちょっと来てくれる?」
「あ、はい─…」
和希は絢音を気にしながらも、ママと一緒に部屋の外に出た。ちょうどカウンターの壁の裏側まで来ると、ママは小さな声で言った。
「今の事─…絢ちゃんには何も聞かないであげて」
「え…?」
「何も聞かず、いつも通りに接してあげてほしいの。お願い…」
目の前であんな状況を見て、気にならないわけがない。どう考えても普通ではないし、ただの友達だったとしても心配になる。それが好きな人なら尚更だ。だけど事情を知っているママが──絢音の事をよく知っているママが──お願いまでするという事は、それがベストだという事も理解できる。和希は〝知りたい〟という気持ちをグッと抑えた。
「分かりました…」
その言葉に、ママは〝ありがとう…〟とホッとした笑みを浮かべた。
「じゃぁ、絢ちゃんの荷物をお願いね。私は新しい飲み物を持っていくわ」
ママは和希の背中を優しくポンポンと二回叩き、再び厨房へと戻っていった。
和希はカウンター席に戻ると、倒れた椅子を戻しつつ自分と絢音の荷物を手に取った。途中、カウンター内の誠司と目が合ったが、注文の品を捌きながらのため、軽く頷いただけだった。〝悪いな〟なのか、それとも〝絢ねぇを頼んだ〟なのかそれは分からないが、和希には両方のように感じた。
和希は、荷物を持って再び奥の部屋へと向かった。引き戸を開ける前に一度深呼吸をする。驚かさないようにそっと戸を開けると、絢音はそれに気付かず、テーブルの上に置いたコップを両手で包み込んだままジッと一点を見つめていた。
「早瀬さん…?」
囁くような優しい声に、絢音がハッと顔を上げた。
「カバン、持ってきました」
「あ…あぁー、ごめん、ありがとう」
絢音はトートバッグを受け取って、自分の隣に置いた。そのタイミングで、ママが飲み物を持ってきた。和希はテーブルを挟んで、絢音と向かい合うように座った。
「川上くんは新しいコーヒーね。絢ちゃんは暖かい紅茶。他に何か欲しいものはある?」
ママは尋ねながら絢音と和希を交互に見た。
「あー…川上くんは? 何か食べたいものとかある?」
「そう、ですね─…」
これといって特になかったが、少し疲れたような絢音の表情を見て思った。
「甘いもの、食べたくないですか?」
自分が…というよりは、絢音がどうかと聞いた。絢音も〝甘いもの〟と言われ、〝確かに…〟と思った。
「いいねー、甘いもの。ケーキでも食べよっか?」
「…ですね」
「じゃぁ…時間も時間だし、ガトーショコラにしようかな。川上くんは?」
「あ、僕も同じのでお願いします」
「ガトーショコラ、二つね。分かった、すぐ持ってくるわ」
ママはいつもの笑顔を見せて、カウンターの方に戻っていった。
部屋に残った二人には、少し気まずい空気があった。
「…こうやって向かい合って座るのって初めてだよね?」
「そうですね」
「新鮮だけど、慣れないっていうか─…やっぱり隣にいる方が落ち着くかな…」
「それはそれで嬉しいですけど…。でも僕は、こういうのも好きですよ。ちゃんと相手の顔を見て話せるので」
だからこそ、絢音が無理に会話をしているのが分かったのだが。
〝今は何も聞かず、いつも通りに接してほしい〟
そう言われてグッと抑えていた気持ちだったが、無理をしている絢音を前にして、自然とその気持ちが薄れていった。もちろん、どうでも良くなったわけではない。ただ今は、自分の気持ちより絢音に無理をさせたくないという気持ちの方が強くなったのだ。
不思議といつもの冷静さを取り戻した和希は、〝まぁ、そうね…〟と頷く絢音を見て優しく微笑んだ。
「早瀬さん─…」
「ん? な、なに?」
「早瀬さんの好きな色って何色ですか?」
「好きな色?」
〝なに急に…?〟と思ったが、ここは下手に質問をしてつまずくより、素直に答えた方がいいと思えた。気まずさをなくすには、途切れない会話が必要なのだ。
「んー…今は暖色系かな」
「今は…って事は、前は違ったんですか?」
「若い頃ね。ほら、大人っぽく見られたい時期ってあるじゃない? 私は〝シックでかっこいい大人〟っていうのに憧れてたから、青とかグレーとか黒ばっかり選んでたんだけど。でも今は赤とかオレンジとか黄色に惹かれるかな。身に付けたり持ってるだけで、気持ちも明るくなるからさ」
「あー、そういうのはよく聞きますね。でも明るい色って、早瀬さんのイメージに合ってると思います」
「そう? 年齢的に痛くない?」
「全然、そんな事ないですよ! むしろピッタリです。早瀬さんの周りって、こう…パァって明るくて、一緒にいると僕まで元気になれるんです。だからピッタリだし、似合ってると思います」
「そっか。なら良かった」
和希の言葉に嘘はない。それが絢音にも分かるから、嬉しいと思うと同時に心がほんわりと温かくなった。
(ほんと、川上くんは陽だまりだなぁ…)
誠司とはまた違う居心地の良さに、絢音は小さく微笑んだ。その柔らかい笑みに一際大きく胸が鳴った和希は、顔が火照ってくるのを悟られないよう慌てて鞄を手に取った。
「じゃ、じゃぁ、これを─…」
中から取り出したのは、カラフルな長方形の紙だった。その中から赤とオレンジと黄色を取り出して絢音に渡す。
「これは…?」
「短冊です。来月の一日から一週間、うちの部署が主催する七夕祭があるんです。まぁ、七夕祭っていってもショッピングモールの一階通路を七夕で飾って、ビンゴとかくじ引きとかちょっとしたゲームをするくらいなんですけど」
「へぇ、そうなんだ…」
「もし良かったら、そこに飾りに来てください。あ、でも面倒だったら、僕が預かって代わりに飾ってもいいですけど──」
「そこを面倒臭がってたら、叶うものも叶えてもらえないでしょ。自分で書く以上、ちゃんと自分で飾るわよ」
「…ですね」
「問題は、書くかどうかだけど」
「えぇ!? それって面倒だったら書かないって──」
それ以前の問題だったとは…と驚く和希に、絢音はクスッと笑った。
「冗談よ。ちゃんと書くって」
「あ…ぁ、良かった…」
「──で、そのショッピングモールはどこ?」
「あぁ、えっと…僕がいつも降りる駅の──…」
携帯の地図アプリを使った説明が始まり、そこからはもう、いつもの二人になっていた。
一方、カウンターでは──
誠司が注文の品を捌きつつ、戻ってきたママにそっと聞いた。
「絢ねぇ、どうだった?」
夏帆も心配して声が聞こえるようにと、近くに寄ってきた。
「なんとか正気に戻って、ちょっと落ち着いたわ」
「そうか…」
「良かった…」
二人はホッと胸を撫で下ろした。
「ごめんなさい、私がもっと早くに気付いていたら──」
夏帆が絢音の発作を見るのは、これで三回目だった。過去のトラウマが原因らしいが、詳しい事は聞いていない。ただ初めてその発作を見た後、共通認識として聞かされたのは〝フードを被った人に対するトラウマ〟という事だった。それ以来、客の中にそういう人がいた場合、すぐ誠司に知らせるようにしていたのだ。
「なにも夏帆ちゃんが謝る事ないわよ」
「そうそう。むしろ気にかけてくれて感謝してるよ。これまでだって何度も助けられてるしな。それに、ここで起こす発作はまだいいんだ。オレたちがいるから」
「そう、ですね…」
外で発作が起きた時はどうしてるんだろう…と思ったが、それは誠司たちも心配している事であるため、敢えて口にするのはやめた。
「それより、和希は何か言ってたか?」
誠司がママに聞いた。
「心配してたし、知りたそうにしてたけど…とりあえず〝今は何も聞かず、いつも通りに接して欲しい〟ってお願いしたわ」
「それで?」
「〝分かった〟って…」
「そうか…」
「でもいつかは話さないとね。絢ちゃんにとって〝特別な人〟になるなら…」
ママはそう言うと、ガトーショコラを用意してカウンターを出ていった。
誠司はそうなって欲しいと思いつつも、絢音の過去を知った時の和希の反応も気になって─…複雑な気持ちで〝そうだな〟と独り言のように呟いたのだった。
翌日の出勤時、絢音は駅のホームに来なかった。そんな事はこれまでにも何度もあったが、朝から絢音に会えないという寂しさはあっても、特に心配したり不安を感じたりする事はなかった。でも今日は違う。昨日の事があって、いくら個室に移ってからいつもの絢音に戻ったとはいえ、次の日に姿が見えないというのは寂しさよりも心配の方が大きい。
(あの怯えた様子─…いったい何に怯えてたんだろう…。夏帆さんの声が聞こえた直後だった…。あの時に何かがあったとしたら、大きな声がした事と数人の客が入ってきた事だけだ。でもそれのどこに怯える要素が…?)
和希は、会社にいてもずっとその事ばかりを考えていた。考えても分かるはずないのに、あの時の絢音の顔を思い出すとどうしても思考がそっちにいってしまう。ミスをして周りに迷惑をかけないよう気を付けるのが精一杯で、その日はほぼ心あらずの状態だった。当然そんな様子に礼香や田邊が気付かないはずもなく─…心配して何度か声をかけてきたが、さすがに本当の事は言えないと、和希は適当な理由を付けて誤魔化していた。まぁ、おそらく嘘だとバレているだろうが──
帰る電車の中で考えたのは、夜に会えるかどうかだった。朝会えた時は必ず夜も会えるが、逆に会えない時は会える時と会えない時がある。会える時は更に二パターンあって、絢音が先に来ている時と二十時くらいに来る時があるのだ。
(遅くてもいいから、早瀬さんに会いたい…。会って、あのいつもの笑顔が見たい…)
せめて〝会えないパターン〟だけにはならないで欲しい…と願いつつ、和希は誠司の店へと向かった。
「こんばんはー…」
準備中の札がかかる店の扉を開けると同時に、真っ先に見るのは奥のカウンター。そこに絢音の姿はなく、〝先に来ている〟というパターンはなくなった。
「おー、お疲れー。飲むか?」
「あ、はい」
「いらっしゃい、暑かったでしょう? ──ほらほら、上着を脱いで─…冷たいタオルで汗でも拭きなさいな」
そう言うとママは和希が脱いだ上着を預かり、同時に冷たいタオルを差し出した。
「ありがとうございます」
受け取った和希は、席についてタオルを顔に押し当てた。蒸し暑さで火照った顔にタオルの冷たさが心地良く、自然と大きな息を吐き出していた。
「ほいよ、ビールと枝豆」
「ありがとうございます…」
顔を上げた和希はそう言ってから、タオルを反対に折って今度は首元に当てた。
「そうだ。川上くん、今日は唐揚げじゃなくて冷奴にしたら? 暑いからさっぱりしていいんじゃない?」
カウンター後ろの壁掛けに上着を掛け終えたママが言った。
「あー…そうですね。じゃぁ、冷奴ひとつ、お願いします」
「分かったわ、ちょっと待っててね」
軽くポンと肩を叩き、ママはカウンターの中へ入っていった。
和希はタオルをカウンターに置くと、出されたビールをゴクゴクゴク…と三口、喉を鳴らして飲んだ。そして再び〝ふ〜〟と息を吐きグラスをカウンターに置いた時だった。そのグラスの向こう側に、見たことのある〝何か〟がボンヤリと目に入った。気付いたのは、そこが昨日まで何もなかった場所だからだ。カメラのピントを合わせるように、グラスからその向こう側へと目の照準が変わる。
(メッセージカード…?)
それは絢音が欲しいと言って持っていったメッセージカードだった。しかも袋に入ったまま、マスキングテープでカウンターの壁に貼り付けられていて、一枚目のカードに〝川上くんへ〟と書かれているのだ。
(僕に…?)
思わず手を伸ばして、袋ごと剥がし取った。
「絢ねぇからだ」
和希の行動を見て、〝やっと見つけたな〟とばかりに誠司が言った。〝絢ねぇ〟というその一言だけで、和希の心臓が少し大きな音を立てた。
「早瀬さん、から…?」
「あぁ。仕事の前に置いてった。──開けて見てみろよ」
「あ…あぁ、はい…」
(仕事の前って事は、ちゃんと仕事に行けたんだ…)
体調不良で休んだわけじゃないと分かっただけでも、和希はホッとした。
袋から出して〝川上くんへ〟と書かれたカードをめくると、二枚目のカードには〝一本無料ビール券〟と書かれていた。しかも、渡す相手は〝ママ〟を指定してある。
「誠司さん、この無料ビール券って…?」
「絢ちゃんが買ってきたビールがあるのよ」
誠司より先に答えたのはママだった。
「はい、〝豆腐とザーサイのピリ辛和え〟」
「あ、ありがとうございます。──って、早瀬さんがわざわざ買ってきたんですか?」
「そうよ。そのカードの使い道として〝無料券〟を作りたかったんだって。それでビールを見にいったら、川上くんにピッタリのビールを見つけたらしくてね」
「僕にピッタリ…?」
「缶のデザインっていうか、色が〝川上くん〟って感じのビールなの。それを見つけたら、私や誠司の分も買ってきてくれてね。それを私が預かってるのよ」
「どこにしまってるのかオレも知らないし、だから使う時は親父に渡せってさ」
「いつでもいいのよ? 今からでもいいし、絢ちゃんがいる時に一緒に飲んでもね」
「あぁ、じゃぁ、一緒がいいです。飲めるなら、一緒に飲みたいです」
「そう。じゃぁ、明日の夜ね」
「え、明日って─…今日は来ないんですか?」
「残念ながら仕事で来れないのよ」
「仕事…」
遅くても会えれば…と思っていたが、意外なタイミングで〝願い〟は途絶えてしまった。
「だからそれを置いてったんだよ」
「あと、このお豆腐もね」
「豆腐…?」
「最近ずっと蒸し暑いでしょう? だから唐揚げより冷たい物が欲しくなるはずだ…って、今日の一品料理にこれを作っていったの」
「え!? じゃ、じゃぁ、これは早瀬さんの手作り!?」
予想通りの反応に、ママが〝そうよ〟と満足そうに頷いた。
(早瀬さんの…手作り─…)
もうそれだけで豆腐が輝いて見えそうだ。
「簡単に作れて美味しい料理を探すのが上手でね、これは何品かあるうちのひとつよ。荒めの千切りにしたザーサイとキュウリ、それから輪切りにした鷹の爪をポン酢醤油と胡麻油で混ぜて、お豆腐と和えるの。夏の暑さで食欲がなくなった時なんか、絢ちゃん、自分でこれをどんぶりで作って、スプーンでバクバク食べるのよ。他には何もいらないって、豆腐一丁食べちゃうんだから」
「え…すごっ…」
「おかずなのに主食と化してるもんな、夏の絢ねぇにとっては」
「まぁ、素麺ばっかり食べるよりはいいけどね。──あ、そうだ。私からもあるんだったわ、無料券」
ママが〝思い出した〟と、ポケットからカードを取り出した。和希が受け取りながら、そこに書かれている文字を読む。
「〝手作り梅シロップを使った、お好みドリンク〟…?」
「そう。絢ちゃんが大好きでね、毎年作ってるのよ。炭酸水で割ってもいいし、ジンやウォッカで割ってもいいわ。川上くんの好きな飲み方でどうぞ。まぁ、無料券がなくてもお金は取らないけどね」
「え、そうなんですか?」
「だって、もともとお店に出すものじゃないもの。ただ私も絢ちゃんの真似して作ってみたかっただけなの、〝無料券〟」
「そうなんですね…。あ、じゃぁ、これも早瀬さんと一緒の時に使います」
「そう? じゃぁ、それも明日ね」
ママはそう言って微笑むと、優しく肩を叩き再び店の準備に取り掛かりにいった。
和希はカウンターに置いた〝川上くんへ〟というカードの上に、ママから貰ったカードを重ねた。手元にあるカードの一番上は無料ビール券で、絢音が自分のために書いてくれたのかと思うと、自然と嬉しさが込み上げてくる。
(イラストも可愛い…)
そう思いながら何気にその一枚を取り上げると、次のカードに書かれていた事があまりにも予想外で、思わず〝んん?〟と顔を近付けた。そこに書かれていたのは──
〝砂漠に住むキツネに似た動物とは? 答え…□□□□□〟
──という問題だった。しかも裏には、
〝25ー56Y〟
──と、謎の記号が書いてある。そしてまた次のカードにも別の問題と、謎の記号が裏に書かれていた。今度のローマ字の部分は〝T〟だ。残りのカードを確かめると、ローマ字部分は〝Y〟と〝T〟の二種類しかない。
「誠司さん、これってなんだと思います?」
「うん?」
和希が無料券以外のカードを差し出すと、受け取った誠司が一番上の問題を目にして眉を寄せた。
「砂漠に住むキツネ…?」
「あぁ、いえ…問題じゃなくて──…って、まぁ、なんで問題なのかも気になるんですけど──その裏です」
「裏?」
そう言いながらカードの裏を見ると──
「なんだ、この数字と記号は?」
「…そうなんです。数字はバラバラだし、このY〟と〝T〟もよく分からなくて…」
「唯一共通してるのはこの〝Y〟と〝T〟だけか…」
「〝Y〟と〝T〟で思いつくものって言ったら〝シャツ〟しかないんですけど…」
「まず間違いなく、それじゃないな」
「…ですよね。じゃぁ、問題のヒントとか?」
「だとしたら、ヒントの方が難題だ」
「確かに」
あまりにもわけが分からないと、出てくる推測もおかしなものになってくるものだと、二人は思わず笑ってしまった。
「もう裏の記号は無視だ、無視。問題さえ解ければ、それこそ問題ない。全部解いて、明日〝ドヤ顔〟で返してやれ」
「…ですね。分かりました。全問正解を狙います」
「おう」
誠司は〝頑張れよ〟と、そのカードを和希に返した。
和希はビールをひと口飲むと、ざっと問題を見て解けそうなものから解いていった。問題の数は全部で十七問。意外と難しいものばかりで、途中、誠司も加わって一緒に考えたりもした。ビールを飲んで、枝豆や冷奴をつまみ、日替わり夕食を食べながら─…どうしても分からないものは携帯で調べた。しかも、携帯で調べるのは誠司の勤務が終わる三十分前から…という、謎のルールを勝手に作っていたため、全部解けたのは勤務が終わる十分前だった。
「やっと解けた…」
和希は両手を上げて大きく伸びをした。
「意外に難しくて時間がかかったな。しかも、答えに一貫性がないっていうか─…」
「漢字がひとつもないっていうのも不思議です」
実は、難しくさせていたひとつに回答の文字数があった。そこに気付くのに、時間がかかったのだ。
「一体なんなんでしょうね、この問題って…」
解いたカードを見ながら言った。
「さぁな。絢ねぇの考える事は、オレにも時々さっぱり分からん。でもまぁ、暇つぶしにはなったから良かったんじゃないか?」
言われて、和希は〝あぁ〟と思った。
「…そうですね。正直、早瀬さんに会えなくて落ち込んでたんですけど…なんか、気が紛れました。それに、仕事に行ってるって分かってホッとしたし─…」
「休んでると思ってたか?」
「はい、まぁ…。昨日の今日なので心配したというか…」
〝まぁ、そうだよな…〟と誠司は小さく頷いた。
和希は迷っていた。〝何も聞かず普通に接してあげて欲しい〟と言われ、〝分かった〟とは言ったものの、今日一日その事が頭から離れなかったのは事実だ。本人に聞けない事は分かっているし、聞くべきではないというのも分かっている。でももし自分に何かできる事があるなら─…何か力になれる事があるなら、少しでいいから〝知りたい〟と思う。
和希は、少し迷いながらも昨日の事を聞いてみようと思った。
「誠司さん…」
「うん?」
「昨日の…事なんですけど─…」
「あー…」
(…やっぱ、きたか)
誠司はそう思ったが、同時に予想していた事でもあった。本人には聞けなくても、自分たちには聞いてくるだろう、と。何がどうしてああなったのか、誠司たちが知っているというのは昨日の対応で分かったはずだ。知らないふりはできても、見てみぬふりはできない。それが好きな相手の事なら尚更だ。
「早瀬さんって、大きな音や声が苦手だったりするんですか?」
「いや…」
誠司は首を振った。
「じゃぁ、あの時入ってきたお客さんと何か関係があるとか─…」
怯える要素として、その可能性を考えたのだが──
「それも関係ない」
誠司はキッパリと否定した。
「じゃぁ、一体何が──」
「あれは、絢ねぇ自身の問題なんだ」
「早瀬さん自身…?」
「過去にちょっとあってな…。フードを被った姿が嫌いっていうか、苦手っていうか──」
そう言われて記憶を辿れば、確かにあの客の中にフードを被った男性がいたのを思い出した。
「その姿を見ると、条件反射的にああいう発作が起きる」
「発作…」
それはつまり、トラウマ的なものだろうと思った。だとしたら過去に何があったのかが気になる。
〝何があったんですか?〟
その言葉が喉のところまで出かかったが、和希はお酒と共にその言葉を飲み込んだ。誠司の表情を見て、それ以上は聞いてはいけない─…いや、聞かれたくないと言っているような気がしたからだ。だから、代わりに違う事を聞いた。
「…僕に、何かできる事ってありますか?」
「あー…とりあえず、絢ねぇに嫌われたくなかったら、何があってもフードは被らない…って事だな」
「…ですね」
冗談っぽくいつもの軽い口調だったが、和希の心は軽くならなかった。それはもう、言われなくても一生フードは被らないと心に誓えるからだ。だけど、誠司の本音はこの後だった。
「朝の通勤時─…もしフードを被ったやつがいたら、絢ねぇの視界を遮ってやってほしい」
「そ、それはもちろん…! でも、それ以外の時はどうするんですか? ──というか、今まで一人の時はどうしてたんですか? 多くはないですけど、フードを被ってる人って普通に見かけますよね?」
「まぁ…そこは付き合いも長いから、絢ねぇなりに対処方法を見出してきたんだと思う。外に出る時は気も張ってるし、周りの人間をあまり見ないようにするとか、万が一の事を考えて早めに家を出たりとかな」
〝付き合いも長い〟という言葉にその長さが気になったが、その後の〝早めに家を出る〟という言葉ではたと思い出した事があった。電車が遅れて、長距離派か短距離派かという話をした日の事だ。イライラする事はないのか…という流れから絢音が言った。
〝私も、一本乗り遅れても大丈夫なように早めに来てるから〟
(あれはそういう事だったんだ…)
絢音に会えるからという、自分の浮かれた理由とは大違い。一本早めの電車に乗る本当の理由を知って、なんだか胸が苦しくなった。──と同時に〝忘れ物〟の事がふと頭をよぎってハッとした。
「もしかして、前に忘れ物をしたって言って電車を降りたのって──」
誠司は〝あぁ〟と頷いた。
「その電車にフードを被ったヤツがいたからだ」
「そう…だったんだ…」
「まぁでも、そうやってすぐ逃げられれば何とかなる」
「…もし、逃げられなかったら?」
恐る恐る聞いた。
「多分、気を失って倒れるだろうな」
「気を…!?」
「…って言ってもここ何年かはないから、何とか対処できてるんだろうけど」
「何年か…って事は、前に気を失った事があるって事ですか?」
「最初の頃な。フードを被ってるやつを見た途端、金縛りにあったみたいに動けなくなってそのままバタン、だ。今でこそ咄嗟に足が動いて逃げられるようになったけど、行手を何かに遮られたり、向こうから近付いてきたりした場合は、今でもその可能性はあると思う。昨日の絢ねぇを見て、そう思ったよ」
「昨日の…」
「そこの壁だ」
誠司は上着をかけている後ろの壁に向かって、顎を向けた。
「だから、お前がいてくれて助かったんだ。ありがとな、絢ねぇを奥に連れていってくれて」
「いえ、そんな─…」
和希は、大したこともできなかったのに…と首を振った。その表情から、もっと何かできなかったのか…という思いが伝わってくるから、より一層、絢音の隣にいたのが和希で良かったと思えた。
「まぁ…とりあえず、今オレが言えることはそれだけだな」
「…分かりました」
「けど、まさかそこが障害物になるとはなぁ。──ぶっ壊そうかな、その壁…」
冗談とも本気とも取れる最後の言葉に、和希はどう答えていいか分からず、最後のお酒を口に入れたのだった。