8 フード姿と謎の記号 <1>
蒸し暑さが増す六月下旬、珍しく早い時間に和希が店にやってきた。
「こんにちは」
「いら──…おぉ、和希。どうした、珍しいな?」
「今日は出先からそのまま直帰していいと言われたので…」
「そうか。なら、ちょど良かった──」
──と言いながら誠司が奥のカウンターに視線を移したが、すぐに〝いや、良くないな〟と否定した。
「え、ど、どういう─…?」
何が良くないのかと少々不安げに聞くと、誠司は〝静かに〟と指でジェスチャーをして、次いでその指を奥のカウンターに向けた。そこは絢音が座る場所だった。人はいないようだが、座れない事情でもあるのかとそっと近付くと──
「え…」
誰もいないと思っていた場所──しかもこの時間にいるとは思わない──絢音が、顔だけを横に向けたままカウンターに突っ伏すようにして寝ていたから驚いた。
(は、早瀬さん…!?)
〝どうして!?〟と誠司に視線を送れば、
「今日は休みだったんだ」
──と返ってきた。
「あ…ぁ、それで朝もいなかったんだ─…え、でもそれでどうしてここで寝てるんですか?」
「疲れちゃったみたいです、これで…」
水とおしぼりを持ってきた夏帆が誠司の代わりにそう言って見せたのは、絢音のすぐ隣に置いてあった雑誌だった。
「…迷路?」
夏帆が頷く。
「これ、迷路を解くと英語の単語が出てくるんです。LとOがきて、次にCがきたから〝絶対、LOCKだ〟って言って続けてたんですけど、全然ダメで─…」
「普通に迷路を解けばいいだけなのに、答えが〝これだ!〟って思うと、それありきで解こうとするからな、絢ねぇは。せっかちというか思い込みが過ぎるというか…」
「──なので、代わりに続きを解いてもらえません?」
「え、僕が…?」
「少し前に寝ちゃったので、しばらく起きないと思うし…」
──それは、起きるまでの暇つぶしに…という意味だった。でも同時に和希は、誠司が言った〝ちょうど良かったけど良くない〟と言われた意味が分かった。さっきまで起きていたのに…というタイミングの悪さだったのだ。
「僕が解いてもいいの…かな? 早瀬さんが起きてから解くとか──」
「それは大丈夫。〝あー、もうめんどくさっ〟って言って匙を投げたあとなので。──ほら、〝C〟の周りがヤケになって塗りつぶされてるでしょう?」
夏帆はそう言って笑うと、鉛筆と消しゴムも合わせて和希に差し出した。見れば確かに〝C〟の周りは鉛筆で塗りつぶされていて、やる気を失ったのが見て取れる。その時の様子が目に浮かぶようで、和希も同じように笑った。
「じゃぁ、早速─…」
雑誌と鉛筆と消しゴムを受け取ると、いつもの席を空けてカウンターの端の席に座った。自分の動きで絢音を起こさないように…という思いもあるが、隣ではなくカウンターの角に座ると、ちょうど顔を上げた時に絢音の寝顔が目に入ってくるからだ。
「何にする? コーヒーか?」
「あ…はい、お願いします」
「了解」
誠司がコーヒーの準備に取り掛かると、和希は塗りつぶされた〝C〟の部分を消しゴムで消した。そしてスタートとは反対のゴール側から迷路を解き始めた。
「ゴールからって、なんか意外ですね」
「え、そうかな?」
「川上さんは、こう…物事を順番にやっていく感じがするので─…」
「あー…基本はそうかも。でも、こういうのは子供の頃に作ったトンネルを思い出すんだよね」
「あー、分かる。繋がった時の達成感だろ?」
聞き返す夏帆より一瞬早く、誠司がコーヒーをカウンターに出しながら言った。
「特に、友達と作ってる時のトンネルな」
「そう、そうです。友達とはちょうど反対のところから掘り始めるんですけど、途中から深さが合ってるのか分からなくなるんですよね。それでも探り探り掘った先で、トンネルが繋がって相手の手に当たった時に、〝掘ってた場所が間違ってなかったんだ〟って思えて嬉しくなるっていうか…」
「あぁ〜、なるほど。それは分かるかも──」
──と夏帆が言ったところで三人の女子高生が入ってきた。夏帆はすぐに〝いらっしゃいませー〟と対応に当たり、誠司もすぐに注文が入るだろうとそちらを気にかけた。二人が仕事モードになった事で、和希も目の前の迷路を解く事に集中する。時折、視線を上げて絢音の寝顔を見るのも楽しみながら…。ただ気を抜くとずっと絢音を見ている事もあり、その時に顔にかかる髪をよけたくなる衝動でハッと我に返ったりもした。結局、思ったより時間がかかってしまったのだが、浮かび上がった文字を目にして胸がドキリと音を立てた。そのタイミングで誠司に声をかけられた。無意識に声が出ていたのか和希自身にも分からなかったが、おそらく、鉛筆を動かす手が止まったからだろう。
「解けたか?」
「あ…は、はい、まぁ─…」
「答えは何だった?」
「えーっと…」
普通に答えればいいのだが、なぜか言い淀んでしまう。その歯切れの悪さにふと思う。
「ひょっとして、初っ端から間違ってたとか?」
「あぁいえ、そういうわけじゃ──」
──と言いかけた直後、足を踏み鳴らす音と共に絢音の体がビクッと動き、次いでのっそりと体を起こした。
「起きたな?」
「…あぁ、もう……階段踏み外したぁ…」
「階段─…ハハ、夢でだな?」
「…ああいう夢ってさ、ビックリして目が覚めるから嫌なんだよねー…」
上体を起こし顔を少し上げながら言ったが、まだ目は閉じたままだ。和希はそっと雑誌を閉じると、右手側のカウンターへ滑らせて絢音に見えないよう置いた。
「おはようございます、早瀬さん」
言いながら、スッといつもの席に移動する。和希の声に〝ん?〟と目を閉じたまま眉が動くと、ようやく──それも〝懸命に〟というのが分かるように──目を開けて顔が動いた。
「んん? 川上くん…?」
声に出して、ハッとした。
「え…もうそんな時間!?」
「あぁいえ、違います!」
和希が両手を振って否定した。
「今日は出先から直帰してきたので早いんです」
「あぁ、なんだそっか…。え…で、今何時?」
「えっと─…もうすぐ五時です」
和希は腕時計を見て言った。
「五時か…」
繰り返しながら、腕時計を見る仕草が妙に惹かれた。
「良いよね、それ」
「…何がですか?」
「時計」
「え、そうですか? でもそんな高いものじゃ──」
「あー、違う、違う。値段とかデザインとかじゃなくて、時計を見る仕草よ。イライラして見てるのは嫌だけどさ、〝今何時かな〟って、ふと時計を見る時の仕草って結構好きなんだよね」
「そ、そうなんですか?」
〝好き〟という言葉に反応して、思わず声に力が入るのを必死に抑えた。
「携帯を取り出して電源入れるよりずっとスマートじゃない? こう…腕をクイって捻れば見れるわけだし」
「あぁ、それは確かにあります」
「今は携帯で代用できるから時計をする人も減って、ああいう仕草を目にする事もなくなったからさ。──そう思うと川上くんは珍しいよね、時計をしてるって」
「実は、僕も時計をしなかった時期があるんです」
「そうなの?」
「でも、さっき早瀬さんが言った通り、時間を確認する時にいちいち携帯を出すのが面倒だなって気付いて…。それでまた時計をつけるようになりました」
「うん、だよね。正解だと思う。──じゃぁさ、もう一回やってみて」
「もういっ─…って、え、何をですか?」
「こう、腕をクイって─…」
言いながら腕を捻る仕草をした。
「いやいやいや─…それはふと時計を見るからいいのであって、わざわざリクエストされてするような事じゃ──」
「そうそう。好きな仕草だって言われたら意識するもんなー」
「そうですよ──…って、ちょ、誠司さん!?」
まさに今思っていた事が現実に聞こえ、思わず同意してしまったから焦った。それをまた誠司が面白そうに見ている。もちろん〝好きな人の好きな仕草〟だから意識するのだが、良くも悪くも絢音には伝わっていない。
「まぁ、確かに無意識の動作をやれって言われたら意識しちゃうか…。分かった。じゃぁ、次からは不意打ちで時間を聞く事にする」
「いや、その宣言もどうかと思いますけど…」
(…ってかもう、今までのように無意識にできないですって…)
そう思いながら、〝こう、クイッとね…〟と自分でやっている絢音の姿を横目で見れば、その腕に時計がないことに気が付いた。
「そういう早瀬さんはしないんですか、腕時計?」
「するよー、仕事中はね。でも仕事が終わったら外してる」
「それはオンとオフの切り替え…みたいな?」
「まぁ、そんな感じかな。プライベートでどこかに出かけるって事もあまりないし、仕事以外だと大抵ここか家にいるからね。必要ないって言ったら必要ないし─…それにほら、時計ならここにあるしさ」
そう言ってトートバッグをポンポンと叩いた。見えるわけではないが、そこにあるのがカラビナでつけられた懐中時計だというのはすぐに分かった。和希は〝そうですね〟と小さく微笑んだ。
そうして十七時を少し回った頃、会計を済ませた三人の女子高生と入れ替わるように椿が小走りで店に入ってきた。
「もうあと一時間くらいは大丈夫だと思ったのになぁ…。おはようー、誠司にぃ」
「おー。降ってきたのか、雨?」
「そうなの。お店に行くまでは大丈夫だと思ったんだけどねー…あ、夏帆ちゃん、おはよー」
「おはよう。──はい、どうぞ」
食器を片付けに行くついでに、夏帆がタオルを持ってきた。
「あー、ありがと〜。あれ、そういえばママは──」
服やセットした髪に優しくタオルを押し当てながら、〝まだ出てきてないの?〟と続けようと店内を見渡した椿は、カウンターに座る人物を目にしてパッと顔が輝いた。
「あー! 絢姉さんと和希くん! え、どうしたの? 二人してこんな時間に珍しい!」
椿は嬉しそうに近寄ってきて、ついさっきまで和希がいた席に座った。初めて会った時はあまり感じなかったが、今日はふんわりと甘い香りが漂い、これが〝仕事バージョン〟なのかと和希は思った。
「私はいつもの休み」
「あ、そっか。今日は給料日だもんね。──で、和希くんは?」
「僕は出先から直帰していいって言われたので─…って、それより給料日って休みなんですか、早瀬さん?」
「〝休み〟じゃなくて、敢えて休みにしてるのよ、絢姉さんは」
〝ね?〟と、椿が絢音に振った。
「敢えて休み…?」
〝どうして?〟という目を向ければ、次に答えたのは誠司だ。
「超がつくほど面倒くさがり屋だけど、お金に関してはきっちりしてんだよ。通帳の使い分けとか、月の生活費もだいたい決まってるし。給料日はそういう諸々の手続きをするために、敢えて休みにしてるんだ」
「きっちりっていっても、だいたいよ、だいたい。言うほど細かくないから」
絢音が軽く手を振った。そして、〝お金は大事だからねー〟と独り言のように付け加えた。
「へぇ…そうなんだ…」
「知れて良かったですね」
感心している和希に、夏帆が引き上げてきた食器を誠司に渡しながら言った。
「ん? 良かったって─…何が?」
「余りがちな有給休暇ですよ。有意義な理由があれば申請しやすくないですか?」
そう言われ、ハッとした。絢音の給料日に合わせ有給休暇を取れば、プライベートで会う時間が増えるではないか、と。誠司も椿も〝なるほど!〟と顔を見合わせ、椿に至っては〝夏帆ちゃん、ナイス!〟と小さく拳を揺らして見せた。けれどここで予想を裏切らない反応をしたのは、やはりと言うべきか絢音だ。
「有給休暇、余らしてるの?」
「え? あー…まぁ、風邪引いて休む時に使ったりするくらいなので──」
「もったいない! 遊んでても怒られず、尚且つお金までもらえるシステムを最大限に使わないなんて。──あ、もしかして有給休暇を取りにくい雰囲気とか、上司が取らせてくれないとか──」
「い、いえいえ、そんなのは全然─…むしろ使えって言われるくらいで──」
「なんだ。じゃぁ、取ればいいじゃない。理由なんてなんだっていいんだから。あ、なんなら一緒に考えるよ、休む理由」
「だ、大丈夫ですよ。それくらいは自分で考えられます──ってか、〝私用〟だけでも大丈夫なので…」
「そうなの? それはそれでつまんないな」
「えぇ、つまんないって─…」
思わぬ反応にどう返していいか分からず繰り返せば、
「どこまでが良くて、どこからが却下される理由なのか試すのも面白くない?」
──とイタズラっぽく笑うから、和希もなんだか可笑しくなってきた。
「じゃぁ、例えばどういう理由ですか?」
それはそれで楽しそうだと、思わずノってみる。
「んー…〝飼ってる猫を病院に連れて行く〟は?」
「却下する理由にはならないですけど、書類上、〝私用でいい〟って言われそうですね」
「じゃぁ、〝静養〟は?」
「〝病院に行け〟って言われません?」
「〝ただ休みたい〟」
「書類上、〝私用〟ですね」
「〝修行〟は?」
「どこに行くんですか?」
「お遍路」
「年間の有給を使っても足りないですね」
「じゃぁ、〝悟りを開く〟」
「どこに向かおうとしてるんですか、どこに。──ってか、仕事やめた方がよくないですか?」
もう既に〝許可される・されない〟という例えはどうでもいいようで、思いつくまま口にする絢音との会話に笑ってしまった。そんな笑い声の中に、ドアの鐘の音が混じった。反射的に〝いらっしゃいませ〜〟と対応しに行く夏帆。入ってきたのは男女四人組の高校生だった。
「あー、ダメだよ〜、目移りしちゃ」
自然と高校生を目で追っていた和希に、椿がからかうように言った。
「ち、違う、違う─…違いますよ」
誰よりも絢音に誤解されたくなくて、慌てて否定した。
「そうじゃなくて─…学生さんって、よくここに来るのかなって…」
「なぁんだ、そういう事? うん、来るよ。近くに〝花弥木南高校〟っていう高校があるからね〜」
「花弥木南…高校…? 中学じゃなくて…?」
この辺に中学校があるのは知っていたが、まさか高校と間違っていたのかと思い聞き返してみれば…。
「中学校も、ある。正確にいえば、中高一貫だから」
「中高一貫─…」
「あそこ、偏差値高いんだよね」
絢音が言った。
「有名大学に行く子も多くて─…まぁ、その一人が椿ちゃんだけど」
「え? え、椿さん?」
「そう。椿ちゃんの母校」
「えぇ! そうなんですか!?」
(それは──)
「〝やっぱりもったいない〟」
「え…?」
「──って、今思ったでしょ?」
〝心読めた〟とばかりに指を差せば、〝あー…〟と言ったまま肯定も否定もしないから、〝当たった〟と絢音が笑った。
「最初は学生なんて全然来なかったのよ。そりゃそうよね、店の名前に〝バー〟ってついてたらさ。でもガラス越しから見える誠司くんが女子高生の目に止まるようになって、一人、二人…って増えていったかな」
「アラサーだけど、結構人気あるんだよね、誠司にぃって」
「〝アラサーだけど〟の〝だけど〟は余計だ」
誠司が椿にツッコめば、間髪入れず絢音が続く。
「ま、その人気もすぐママに抜かされたけど」
「ほっとけ」
別に気にしてないようで、実は少し気にしてる…というような反応に絢音と椿はクスッと笑った。そして、ふと気になった事を和希に聞いた。
「──それで、どうして急に学生の話?」
「あー、えっと…学生さんが来るなら文房具を使ってもらえないかな…と思って…」
「「「文房具?」」」
絢音と誠司と椿が同時に聞き返した。
「取引先の文具メーカーのイベントで文房具を沢山いただいたんです。社内で使っても良かったんですけど、どうせなら必要な人に無料配布する方が宣伝にもなっていいだろうって。ただ、その具体的な内容がまだ決まってなかったんですけど──」
「つまり、ここで配布できないか…と?」
絢音が結論を口にした。
「はい、まぁ…迷惑じゃなければ、ですけど」
「…だって。誠司くん?」
「まぁ、ここでテスト勉強する学生もいるからそれは別に構わないけど─…。ただ、配布の方法はどうする?」
「〝無料でお持ちください〟っていうポップと、文房具を小さめのカゴかなんかに入れて各テーブルに置いておけば?」
椿が言った。
「夜にはバーになるんだぞ? 雰囲気的に合わないだろ」
「その都度片付けるのも面倒だしね」
絢音が言った。
「じゃぁ、レジ横に置くとか?」
「レジ横か…」
──と誠司が繰り返したところで夏帆がオーダーを持ってきた。
「コーラ・ツー、オレンジ・ツー、メガ盛りポテト・ワンです」
「了解ー」
オーダーを受けて、誠司がポテトを揚げに奥の厨房へ消えていった。
「…それで、なんの話なんですか?」
夏帆が聞いた。
「和希くんの会社で文房具をいっぱいもらったんだって。それをここに来る学生に無料配布できないかって。その方法をどうしようかって話してたところ」
「文房具…。ちなみに、どういうものがあるんですか?」
夏帆が尋ねた。和希は携帯を取り出して写真を表示すると、更に〝サンプルがある〟と鞄からビニールポーチに入っていた文房具を出してカウンターに並べた。シャーペン、ボールペン、消しゴム、付箋、二十枚ほど入った名刺サイズのメッセージカード、マスキングテープ、メモ用紙…等々。学生にはちょうどいい文房具だ。
「あ、このボールペン! 私が使ってたのと一緒だ〜。これすっごく書きやすかったの! 周りのみんなこればっかりで、特に細いペン先が人気だったなぁ…」
椿は〝懐かしい〜〟と、紙ナプキンに試し書きした。
「私は付箋ばっかり集めてた時期があったわ。サイズ違いや可愛い絵が描いてあるのとか、リスト形式の付箋もあって─…。でも結局、気に入ったものばっかりだったから使わずじまいだったけど…」
夏帆は付箋を手にして、その頃の気持ちを思い出しているようだった。そんな二人の話を聞きながら、携帯の写真を見ていた絢音が聞いた。
「これって、それぞれいくつある?」
「…多分、百個くらいはあったと思います」
「じゃぁ、まとめたら?」
「まとめる?」
「そう。透明な袋でもいいからそれぞれ一つずつ入れて、セットで渡すの。ひとつひとつ配布してたらキリがないしさ、ここに来てくれるお客さん全員に渡してもかなり余るでしょ? だったらセットで配布した方があっという間に捌けるし、みんなにも喜んでもらえると思うんだよね」
「なるほど、それいいですね!」
「ま、新たに袋が必要になるけど」
「それは大丈夫です。会社にそういうのは沢山あるので」
「じゃぁ、まとめるってことで決まりね」
「あ…ねぇ、渡し方はどうするの? 注文の品と一緒? それとも会計の時…?」
「それは夏帆ちゃん次第よ。どっちが手間がかからないか─…楽な方を選べばいいんじゃない?」
「それはもう断然、会計時ですね。渡しそびれもないし」
夏帆が言った。
「じゃ、そういう事で──」
「待って、待って。日にちは?」
配布方法さえ決まれば、あとは誠司や夏帆に任せればいい。そう思っていた絢音とは違い、椿は色々と気になるようだ。真面目な性格故か、それとも学生の頃の気持ちに戻って実行委員のようにワクワクしているからなのか。おそらく後者の方だろうというのは、その顔を見て分かる三人だった。
「袋詰めの作業もあるし、いつから配るのか決めないと…でしょ?」
やる気満々の椿の様子に、絢音と夏帆はクスッと笑った。和希はそこまで迷惑はかけられないと、〝袋詰めくらいは─…〟と言い出したが、すぐに絢音に止められた。
「川上くん、その文房具って次の日曜日までに持って来れる?」
「あぁ、はい。それはいつでも…」
「じゃぁ、次の日曜日、昼の二時から奥の休憩室で袋詰め。配るのは七月の一日から七日間─…七夕までって事で、どう?」
いつがいいかと話し合うのもいいが、椿の仕事の時間も迫っているため絢音はパパッと提案した。
「七夕─…いいですね、それ」
厨房の中の様子を窺いながら、夏帆がコーラとオレンジジュースの準備を始めつつ答えた。
「ただ私はちょっと袋詰めの参加は無理ですけど─…」
「大丈夫。私も次の日曜日は休みだし、夏帆ちゃんの分も頑張るから」
椿は〝任せて〟と、自分の胸をポンポンと叩いた。そのタイミングで、揚げたてのポテトを持って誠司が戻ってきた。
「ほい、メガ盛りポテト」
夏帆はそれを受け取ると、ジュースと一緒にトレーに乗せて届けに行った。
「──で、どうなった?」
注文の品が運ばれていくのを横目で見ながら、誠司がどこまで話が進んだのか、と聞いた。絢音がたった今決まった事を簡潔に伝える。
「次の日曜日に休憩室で文房具を袋詰めして、七月一日から七夕までの一週間を期限として会計時に配る」
「は? え、もう決まったのか? 全部?」
絢音が頷いた。
「マジか…はえーな」
「早く決めないと、椿ちゃんお店に行けないしねー」
「ふふ、さすが絢姉さん分か──」
満足げに〝分かってる〜〟と続けようとした時、ママがカウンターに出てきた。
「あら、椿ちゃん?」
「あ、ママおはようー」
「おはよう…はいいけど─…椿ちゃん、お店は? もう三十分過ぎてるわよ?」
「え、ウソ、ほんとに!?」
言われて店の時計を目にして更に慌てた。
「大変─…あ、じゃぁ、絢姉さん、和希くん、日曜日にね!」
「はいはーい」
「雨、強くなってきたから気を付けなさいな」
「うん。行ってきまーす」
「「行ってらっしゃーい」」
絢音とママの声が重なり、誠司もいつものように〝おー〟と言って手を振る傍ら、まだそこまで慣れていない和希は手だけを振って見送った。
「ほんと、結構降ってきたわね」
椿がすぐ近くに止まっているタクシーに走って乗り込むのを目で追いながら、窓と椿の間に降る雨を見て絢音が言った。
「予報では雷も鳴るって言ってたから、もっと強くなるわよ?」
「そうなんだ…。ひどくなる前に、川上くんは帰った方がいいかもね?」
「あー…そう、ですね…」
──と言いつつも、
(傘が役に立たないくらいの雨になっても、できるだけ早瀬さんと一緒にいたいんだけどなぁ…)
──と和希は心の中で思っていた。
「それはそうと、今日は川上くん早いのねぇ?」
いつもより遅めに出てきたママだが、それでも和希が来る時間よりは早く、故に〝珍しい〟とばかりに言った。
「今日は外出先から直帰していいと言われたので、そのまま来たんです」
これで四回目の説明だ。
「そう。じゃぁ、ちょうど良かったわね。休みだった絢ちゃんと早めに会えて」
「あ…で、ですね」
相手が知り合いや友達なら何も思わず〝はい〟と即答するところだが、〝絢音に会えて〟となると、それはもう〝好きな人だから〟と言われているようでドギマギしてしまった。そんな気持ちを落ち着けようと、目の前に広げた文房具に手を伸ばせば、ママの視線もそこに移る。
「あら…なぁに、文房具? どうしたの?」
「文房具メーカーのイベントでたくさん貰って─…そのサンプルです」
「これを全部セットにして、ここに来る学生に配ろうって話してたのよ」
絢音が付け加えた。
「それはいいわね」
「袋詰めは椿ちゃんも加わって、次の日曜日にするそうです」
注文の品を届けて戻ってきた夏帆が言った。
「いいわねぇ。私も参加しようかしら」
「あ、それいいかも。ママ、そういうの得意だもんね。リボンとか結ぶの上手だし」
「好きなのよねぇ、こういうの。──ちょっと見せてくれる?」
「あ、はいどうぞ」
和希は文房具を集めて、全てママに手渡した。
「あ…もし良かったら、ここで使ってもらってもいいですけど」
「あら、いいの?」
和希は〝はい〟と頷いた。
「あ…じゃぁ、私はメッセージカードが欲しい」
「絢ねぇが? 持ってるだけなら意味ないぞ?」
「ちゃんと使うに決まってるでしょ。──ってか、もう既に使い道は決めてあるから」
「どんな?」
「それは内緒ー」
楽しそうな笑みを見せる絢音に、誠司は〝なんだそれ〟とフッと笑った。
「じゃぁ…私は付箋を貰ってもいいですか?」
「今度こそ使う? 夏帆ちゃん?」
〝使わずじまい〟と言っていたため、絢音があえて聞いた。
「使います。大きめの付箋なので、メモ帳代わりに…」
「じゃぁ、絢ちゃんはメッセージカードで、夏帆ちゃんは付箋ね。──はい、どうぞ」
ママは絢音と夏帆にそれぞれ渡した。嬉しそうな三人を見て、誠司がふと思い出したように言った。
「そういや、子供の時から女の人は文房具とか好きだよな?」
「そうですね。僕の妹も買い物に行くと、文房具のところでずーっと見てました」
「何が楽しいんだろうな? オレにはさっぱり分からん」
「ホームセンターよ」
〝さっぱり分からない〟と言う誠司に、絢音がメッセージカードをヒラヒラさせながら返した。当然、同じ言葉で聞き返す。
「ホームセンター?」
「そっ。楽しいでしょ、ホームセンター?」
「あぁ、そりゃ──」
「何時間でも見ていられるし?」
「…だな」
「それと同じよ。女の人にとっての文房具コーナーやお店は、男の人にとってのホームセンターと同じ。何時間でも見ていられるの」
「そういうもんか…?」
「そういうもんよ。〝何が〟楽しいのか分からなくても、そこにいるとワクワクするっていう気持ちなら分かるでしょ?」
「まぁ、そう言われたら─…」
「それに男の人だって、子供の時から好きなものって変わらないでしょ。──あ、もちろん一般的によ?」
絢音はチラリとママを見て言った。
「子供の頃からって─…別にオレは子供の頃からホームセンターが好きだったわけじゃないぞ?」
「分かってるって。そうじゃなくて…三大要素よ。男の人が惹かれる三大要素」
「「三大要素…?」」
誠司と和希が顔を見合わせて同時に言った。
「〝音〟が出て〝動〟いて〝光〟る」
指をひとつずつ足して簡潔に言えば、二人ともハッとして再び顔を見合わせた。
「ロボットなんか最高でしょ。三大要素が詰まってるんだから」
「あー…まぁ、そう…かもな…」
「…ですね」
「だからさ、男の人が考えるものって無駄に光るものが多いんだよ」
「無駄に…って──」
「パソコンのキーボードも、光るってだけでテンション上がるでしょ。機能性からしたら全然なくてもいい要素なのに、それがいいって買ったりさ。しかも普通のキーボードより高いのよ? それをわざわざ買うって意味分かんないわ」
「あ…そういえば、車のオプションとかも光るものを付けたがる人いますよね」
夏帆が参加した。
「そうそう、車の機能には全く関係ないものを付ける人ね。見た目に拘ったり、何をするにしても形から入るとかさ…。現実的じゃないんだよねー」
「いやいや…けどそれはやっぱこう…夢っていうか、〝カッコイイ〟っていうのを追い求めるからでさ──」
「だから、結婚した後に奥さんに怒られるのよ。こんなものにこんなにお金使って…〟って。料理ひとつとってもよ? 鍋とかフライパンとか包丁とか…いいものを買ったりするけどさ、〝良い道具を使って料理しているオレ、カッコイイ〟とか思ってんの自分だけだからね? それよりパジャマだろうが何だろうが、家にある道具と家にある食材を使ってパパッと作れる人の方が断然カッコイイし、車だって見た目じゃなくて運転技術のうまい方がカッコイイでしょ。要は形じゃなくて中身だったりスキルだったりするのよ。そういう所、理解して買い物した方がいいわよ?」
「あー…」
誠司も和希も、もうそれ以上の言葉は出てこなかった。
〝どうして女の人は文房具が好きなのか〟というところから、まさか自分たちがディスられるとは…。二人はお互い顔を見合わせると、〝絢ねぇ(早瀬さん)には敵わないな… 〟と苦笑するしかなかった。
十八時になり喫茶店の営業が終わると、いつものように夏帆が帰り支度を始めた。──が、今日は絢音と和希が喫茶店の時間からずっといる。バーでの二人の雰囲気が気になりつつも、最初は〝邪魔しちゃ悪いかな…〟と思っていたのだが、帰る直前に携帯を開いた夏帆は、途端に帰る足が重くなった。働き始めて七年。夏帆は初めて誠司の日替わり夕食でも食べて帰ろうと思った。
「マスター…」
「おー、お疲れー…って──」
いつもなら〝お先ですー〟と言って店を出ていく夏帆が、カウンターに両手をついて何やら言いたげな様子で立ち止まった。
「どうした、夏帆ちゃん?」
「今日、私もマスターのご飯食べていってもいいですか?」
「あぁ、それはいいけど…。珍しいな、初めてじゃないか?」
「え、そうなんですか?」
真っ先に反応したのは和希だった。夏帆が小さく頷きながらカウンター席に座る。それを見ながら続いたのは絢音だ。
「分かるよー。仕事が終わったらとっとと家に帰りたくなる気持ち。プライベートの時間まで、仕事場にはいたくないもんね?」
「あぁ、そういう理由で─…」
「おいおい、そこで納得されると複雑なんだけどな?」
「あぁ、すみません。でも、気持ちは分かるかなーって…」
「確かに、その気持ちはあるんですけど──」
「あんのかーい」
夏帆の言葉にのけぞりながらツッコむ誠司の姿に、夏帆はクスッと笑った。
「でも今日は絢音さんも川上さんもいるし、もうちょっと話していたいかなーって…」
「いいよー、何話す? また文房具とホームセンターの話でもする?」
「いやいや、もういいって」
〝どうせまたディスられる〟と、誠司が手を振って拒否するから夏帆もまた笑った。──がこの時、絢音はその表情に少し引っ掛かるものを感じていて、それが確信に変わったのはこのすぐ後だった。
「ちなみに、何か食べたいものは?」
「え…日替わり夕食ってリクエスト式でしたっけ?」
「いや。でも初めてだから特別に──」
──と言いかけたところで、カウンターの上に置いていた夏帆の携帯が鳴った。電話ではなくメッセージアプリの通知音だ。伏せていた画面をひっくり返し表示されたメッセージを見た夏帆は、僅かに動作が止まったかと思うと、またすぐに画面を伏せた。
「返信しなくていいのか?」
その動きを見ていた誠司が言った。
「あぁ、はい。雷雨に注意っていう通知だったので─…」
そう言ったが実際は違った。ただ、今送られてきたメッセージの前に雷雨の通知があったのは事実で、夏帆はそっちの通知内容を言ったのだ。
「それより─…今日、マスターが作る予定だったのは何だったんですか?」
「うん? 今日はシーフードミックスを使った海鮮のレモンクリームパスタ」
「えー、美味しそう! 断然、それがいいです!」
「そうか? じゃぁ、絢ねぇたちの分も入れて三人分作るか」
そう言って鍋に水を入れて火にかけると、そのタイミングで喉の奥を震わすような低い轟が聞こえた。そしてその数秒後、雨の音も一段と大きくなった。
「この雨の降り方だと、しばらくはやまないな」
「…ですね。一時間くらいはこんな感じみたいです」
携帯で雨雲レーダーを見ながら和希が言った。それを受けて、絢音が続く。
「一時間か…。うん、まぁ、ちょうどいいんじゃない?」
「…何がですか?」
「話を聞くのに」
「話? …って、誰の?」
和希の質問に、誠司と夏帆も同じような目を向ける。絢音はある人物を見つめ、〝もちろん…〟と指をさした。その指の動きを追って、誠司と和希の視線が移ったのは──
「え、私…!?」
夏帆は予想外だと驚いて、自分の胸を指さした。
「どうして私の…?」
「悩み、あるんじゃないかなーって」
「そうなのか、夏帆ちゃん?」
〝悩み〟という言葉にドキッとした瞬間、更に確認の質問がきて言葉に詰まってしまった。そこへ、最後の質問とばかりに絢音が続く。
「あるんでしょ?」
それはもう、〝確信している〟という口調だった。夏帆は小さく息を吐いた。
「どうして分かったんですか…?」
夏帆の言葉に、同じ事を思った和希の視線が絢音に移る。
「ここは夏帆ちゃんにとって職場だからね。いくらバーに切り替わって〝客〟として過ごそうとしても、どうしても仕事モードが抜けない─…っていうか、くつろげない。だから、今までずっと仕事が終わったらすぐ家に帰ってたんでしょ?」
「まぁ、そうですね…」
「その夏帆ちゃんがさ、初めてこの時間まで残って誠司くんの日替わり夕食を食べるって言うんだから、そりゃ何かあるって思うでしょ。それに、さっきの通知音。あれ、天気予報の通知じゃないよね?」
「え…そうなの、夏帆さん?」
今度は和希が確認の質問をした。
「それもバレてたんですか…」
「まぁね。天気予報の通知だったら、私や川上くんや誠司くんの携帯にも通知が来るはずだもの。だけど、それがなかった」
そう言うと、和希が〝そういえばそうだ…〟と呟いた。
「それにさっき誠司くんが言ったでしょ、〝返信はいいのか?〟って。あれ、本当はメッセージアプリの通知音だったんじゃない?」
〝だよね?〟と誠司に視線を向ければ、
「あぁ、そうだと思って聞いたんだけど違うって言うから─…やっぱりそうだったのか、夏帆ちゃん?」
「SOSは見逃さないよー」
〝だから観念しなさい〟とさした指をくるくるっと回すと、夏帆は降参だとばかりに大きな溜息をついた。
「…ほんと、絢音さんには敵わないなぁ…」
「敵うと思ってる時点で間違ってんのよ。──で、嘘をついてまでここに残ろうとした理由は?」
そう言われ、夏帆はひとつ呼吸を置いて言った。
「…友達です」
「友達?」
夏帆が頷いた。
「中学も高校も一緒だった、すごく仲のいい友達が二人いるんです。一人は美容師で、もう一人は大手企業の受付嬢。最近、受付嬢に彼氏ができたんですけど──」
「あ、分かった。友達付き合いが悪くなったんでしょ?」
「それで済むなら良かったんですけどね…」
「なに、もっと悪い事?」
「その彼氏、美容師の子が高校の時からずっと好きだった人なんです」
それだけの情報で三人は〝あー…〟とこの先のトラブルを予感した。
「その事、受付嬢も知ってたの?」
夏帆が頷いた。
「受付嬢とその彼、実は同じ会社だったんです。──って言っても、最初は支店が違ったのでお互い知らなかったんですけど…。数年前に彼が今の会社に移動になって、受付のところで〝あぁ!〟って気付いて─…。美容師の子が彼の事を好きなのも知ってたから、みんなで会おうって誘ったりして、それからよく集まるようになったんです」
「それでだんだん惹かれていったわけだ。──で、最初はどっちから?」
「彼です」
「運命感じちゃったか…」
「…多分。受付嬢の方は美容師の子のために情報を得ようと積極的に関わってたんですけど、それが彼の方は〝自分に好意を持ってくれてる〟って思ったみたいで…」
「それはまぁ、そう思っちゃうよね。偶然からのその流れはさ…」
「告白された時に、勘違いさせたんだって分かって本当のことを言ったみたいなんですけど、〝好きになったのは君だから〟って言われて…」
「そりゃそうよね。本当の事を言われたからって、好きになったものは変えられないもの」
「そうなんですよね…。だからその子も悩んじゃって─…美容師の子にも言えないって…。でも悩んでる間にも彼からの猛アピールがあったみたいで、そのうち彼女の方も…って感じです」
「つまり、美容師の子は何も知らないまま?」
「…はい。でも最近、その彼から知らされたんです。〝近々、彼女と結婚する〟って」
「「「は…!?」」」
それまで黙って聞いていた誠司や和希までが、見事にハモった。
「男が言ったのか?」
誠司の問いに、夏帆が頷く。
「マジか…」
「それはさすがに─…」
和希も呆れて言葉が出てこなかった。
「最低、クソ男ね」
絢音が吐き捨てるように言った。本当の事を知ってる上に、おそらく受付嬢も美容師の子に本当の事を言えてないと知っているはず。それを勝手に──いや、たとえ受付嬢が彼に頼んだとしても──彼が美容師の子に伝えるのは間違っているのだ。
「私も告白されたことまでは知ってたんですけど、それ以降は何も聞いてなくてびっくりしました。でも、それだけじゃなかったんです…」
「なに、まだあるの?」
「妊娠してるんです、彼女。今、五ヶ月だそうで──」
「「「はぁ!?」」」
──と発した声と、脳内に響いた衝撃音が現実の耳に聞こえたのは同時だった。どこかに雷が落ちたらしい。
「びっくりした…」
夏帆が胸を抑えて言った。
「かなり近付いて来ましたね」
「あぁ。そのうち停電するかもしれないな」
「それはそれでウェルカム。──それよりさっきの続きよ、夏帆ちゃん。妊娠五ヶ月ってほんとなの?」
和希は一瞬〝ウェルカム?〟と心の中で呟いたが、更に続いた絢音の言葉で、本来の関心事に気持ちが戻った。聞かれた夏帆も慌てて続ける。
「ほんとです。だから美容師の子が怒っちゃって─…」
「そりゃそうだろ…」
「少なくとも、その五ヶ月は隠されてたって事ですもんね…」
「美容師の子にしてみれば、〝騙されてた〟って思うわね。──ってか、ちゃんと最初から言わなかった受付嬢も同じくらいのクソだわ。人が誰を好きになるかは自由だからそこはいい。悩むのも分かる。でも言わないままその状況になってるなら、擁護するところはひとつもないわね」
「ですよね…。私もそう思ってるんですけど─…」
「けど、仲直りさせたい…って事?」
絢音の質問に、夏帆は携帯のメッセージアプリを開いてその画面を見せた。それは彼──拓海──からのメッセージだった。
【葵と佳奈の仲を取り持ってくれないか?】
【葵が佳奈に謝りたくても連絡を無視されてるって…】
【佳奈と仲直りしたがってて、毎日泣いてるんだ】
【このままだと結婚式もあげたくないって言ってる】
【葵も本当のことが言えなくてすごく辛かったって…】
【今日、仕事が終わったら会ってくれないか? オレたちの話を聞いて欲しいんだ】
それは毎日のように送ってくるメッセージの一部で、〝仕事が終わったら…〟の一文は、夏帆が帰り支度を始めた頃のものだった。
絢音と一緒に覗き込んでいた誠司も和希も呆れて声が出てこなかった。でも絢音は違った。
「ムカつく。なんなのこの男?」
携帯には罪がないため──しかも持ち主は夏帆のため──壁にでも投げつけたい衝動を必死に抑えながら夏帆に返した。
「会わなくて正解よ、夏帆ちゃん。なんなら、今日一緒にここに泊まってく?」
「あー…いえ、さすがにそれは─…」
「うん、まぁ、そうだよね。でも、夏帆ちゃんはどうしたいの?」
腹は立つし放っておけばいいと思うが、絢音は部外者の立場だ。ここは夏帆がどうしたいかが大事だと、気持ちを尋ねた。
「前みたいに仲良くできるのが一番ですけど、多分もう無理だと思うんですよね…。でも、だからって〝葵もすごく悩んで辛かったと思うから許してあげたら?〟って言うのも違う気がするし──」
「うん、それは絶対に違う。そんなこと言ったら、夏帆ちゃんまで嫌われるよ?」
「やっぱり…そう、ですよね…」
絢音は頷いた。
「今一番辛いのは、何ヶ月も本当の事を言ってもらえなかった佳奈ちゃんだからね。友達に裏切られた辛さや悲しさや怒りでいっぱいでさ…そこに〝葵ちゃんも本当のことが言えなくて辛かったから許してあげて〟──なんて言われたら、〝あぁ、この人は私の味方じゃないんだ〟って思われるだけよ」
「…ですよね。私も子供の頃にそういう経験があったんです。ずっと欲しかった筆箱をやっと買ってもらえて学校に持って行ったら、休憩時間にふざけてた男の子が机にぶつかってきて…。飛ばされた筆箱の上に机が倒れて壊れちゃったんです。男の子もその親も謝ってくれて弁償もしてもらったんですけど、先生に〝男の子も反省してるから許してあげて〟って言われた時、すごくモヤモヤして…。男の子は一緒になって謝ってくれる親もいるし、先生まで男の子の事を案じてる。買ってもらった親にも悪いなって思ったし、壊れて悲しかったのに、そういう自分の気持ちに寄り添ってくれる人はいないんだ…って、大人になってその時の気持ちが分かったんですよね…。だから、葵も辛い思いしてたから…って言うのは違うって─…」
「その通り。頭では分かっていても、許せるかどうかはまた別の問題。葵ちゃんは友達を失ったけど、好きな人と子供がそばにいる。一方で今の佳奈ちゃんは、友達も好きな人も失った。せめて夏帆ちゃんだけでも彼女に寄り添ってあげないと。後々、彼女が良い人と出会って結ばれたら、葵ちゃんと仲直りできる日が来るかもしれないしね。佳奈ちゃんが心から許せるようになるまでは、何もしない方がいいわ。ま、あくまでも夏帆ちゃんが決める事だけどねー」
そう軽く言いながらも、〝何もしなくていいという結論がベスト〟というのは伝わってきて、夏帆はクスッと笑ってしまった。
(椿ちゃんもこんな気持ちだったのかな…)
それは、椿が悩んでた時に絢音と話した時の事だ。最後の最後に〝別に応援してるわけじゃない。あくまでも椿ちゃんの自己判断だから〟と軽く言われた、と。でもその時にはもう、心の中がスッキリして笑えてきたらしい。
「その笑顔が出たらもう大丈夫ね」
「はい、すごくスッキリしました。ありがとうございます」
「どういたしましてー」
「よーし、こっちもできたぞ。──ほら、海鮮レモンクリームパスタだ」
タイミングよく皿に盛り付けたパスタを、誠司がそれぞれの前に出した。
「食べる前に悩み事が解決して良かった。悩んだままだったら、美味さ半減だからな」
「それはつまり、不味くても言い訳できる理由がなくなったってことね?」
「くっ…そうくるか…」
〝しまった〟と顔を歪ます誠司に、三人が笑った。そして絢音が両手を合わせて〝いただきます〟と軽く頭を下げると、和希や夏帆もそれに続いた。
「ん! 美味しい!」
真っ先に食べた絢音が、真っ先に言った。
「んん! すごいクリーミーだけど、さっぱりしてます!」
「やっぱり、マスターが作るものは美味しいですね」
「だろ〜?」
「エビもプリップリ。冷凍とは思えないんだけど、何かコツでもあるの?」
「塩水で解凍して、火を通しすぎない事だな」
「えー…一旦解凍するの?」
「めんどくさ…って言いたいんだろ? けど、一手間かければそれだけ美味くなるんだよ」
「ふ〜ん。偉いねー、誠司くんは」
「それ、もう既に自分で作る気なくなってんな?」
「分かってくれる人がいると、ほんと助かる。しかもウィンウィンだし?」
「どこがだよ?」
「私は美味しい料理を食べられて、誠司くんは店が儲かる」
〝どうよ?〟と冗談か本気か分からない表情で言うから、誠司も笑うしかなかった。
そんな二人の変わらないやり取りを、夏帆は楽しそうに見ていた。和希を応援するのは絶賛継続中だが、誠司と絢音の変わらない関係も好きなのだ。
「あ、そうだ。誠司くん、水のペットボトル用意しといた方がいいかもよ?」
「水? なんで?」
「対策」
──そう言って絢音は天井を指差した。正確には更にその上、雷を指していた。お腹に響くような轟はさっきよりも頻繁に聞こえていて、故に気付いたのは和希だ。
「停電用ですね?」
「ピンポーン、正解!」
「なんで停電で水のペットボトル?」
「照明の代用です。携帯のライトの上に置くと、光が広がってちょっとした照明になるんですよ」
「へぇ…。──んじゃ、何本か出しとくか」
そう言うと、誠司は奥に行って常温の水のペットボトルを何本か持って戻ってきた。
「──にしても、すごい雨だな」
「ここまで降ると、逆に気持ちいいけどね。──ってか、これが真夏だったら外を歩きたい」
そう言って、絢音はフォークでクルクルと巻いていたパスタを口に入れた。
「なんでだよ?」
〝前半の意味は分かるが後半の意味が分からない〟と誠司が聞けば、思い付いたように続いたのは夏帆だ。
「あれじゃないですか? アニメ映画に出てくるシーンで、傘に大量の雨粒が落ちてくるやつ。すごい音がして─…私もああいう経験してみたいって思ったから──」
「まさか。傘なんかささないって」
「え?」
「は?」
〝何言ってんの?〟というくらいの口調に、誠司と夏帆が目を丸くした。代わりに和希が確認する。
「雨の中を濡れながら歩く…って事ですか?」
「そうよ」
「なんでだよ?」
語彙力がないと言われそうだが、再び誠司が同じ言葉でツッコんだ。
「──ってか、なんで夏限定? 雨の中を歩きたいなら今でもいいだろ」
「夏の、あの暑い時だからこそ浴びたいんじゃない」
「完全にシャワー感覚だな」
「だって水浴びしたくたってできないでしょ、大人は。しかも、服着たままずぶ濡れになるって、非日常でワクワクしない? こう…罪悪感というか、背徳感みたいなものを感じてさ」
「いや、意味が分からん…」
「なんでよ?」
不満そうにそう言うと、食べる手を止めた。
「普段しないことをするってワクワクするでしょ?」
「それは分かるけど──」
「食洗機を初めて使う時に、汚れたままの食器を庫内に入れる罪悪感みたいなのなかった?」
「あー…」
言われて、それは確かにあったと思い出した。
「それからプールに服を着たまま入ったり──」
「あ…」
途端に、学校の授業で服を着たまま浮く練習をしたのを思い出した夏帆。確かにいつもと違う状況で、ドキドキしていた。
「あと…普段はコップに注いで飲んでた牛乳を、容器に口をつけて飲んだ時とか、筆につけてた絵の具を手の平に塗りまくった時とかさ、それから─…靴のまま川の中に入った時とか──」
「もしかしてそれ、実体験ですか?」
和希が面白そうとばかりに聞いた。
「そうだけど─…え、ない? そういうの」
「ない事もないですけど…なんか楽しそうだなと思って…」
「そう、楽しいのよ!」
分かってくれた事が嬉しくて、再び手が動いた。
「だから普段は濡れないように避けてる雨に、思いっきり服のまま濡れるっていうのがやってみたいんじゃない」
「なるほど…。そういう事なら、なんか分かる気がします」
「ほんと? じゃぁ、夏の大雨の時に歩いてみる?」
「え…いや、でもさすがに一人で歩くのは──」
「もちろん、その時は私も歩くって」
「早瀬さんも一緒に…? ほんとですか?」
「だって、二人の方が楽しいでしょ? まぁ、周りから痛い目で見られる可能性は大だけど」
「そ、それは別に…早瀬さんと一緒なら全然─…」
「そう? じゃぁ、決まりね」
絢音はフォークに巻いた最後のパスタを、〝約束〟とばかりに軽く持ち上げてから口に運んだ。そんな二人の様子を見ていた誠司と夏帆。思った事は同じのようで、お互いに顔を見合わせると小さな溜息を付いたのだった。
それから僅か数分後、全員がパスタを食べ終えたタイミングで外が激しく光った。──と同時に空が裂けるような音が聞こえたか聞こえないかのうちに、建物が揺れるような衝撃音が響いた。光ってから音が鳴るまでの速さと音の大きさに、声すら出ず全員の体がビクッとなったが、お互い見えたのはその一瞬だけで、店の中も外の建物も真っ暗になってしまった。
──停電だ。
「キタキタ…」
小さな、だけどワクワクした声が暗闇から聞こえた。それが誰のものか分かったのは和希で、
「来たって何が──」
──と慌てて携帯の画面を開いてそちらに向ければ、画面の光に照らされた絢音が既に立ち上がってどこかに行こうとするところだった。
「え…どこに行くんですか、早瀬さん──」
〝夏に〟と約束したばかりなのに、話の流れで〝まさか今から外に?〟と思ったら──
「窓際よ。──誠司くん、ごちそうさま」
「お、おぉ」
「ま、窓際? え、ちょ…なんで窓際──」
自分の携帯画面を光らせながら、窓際に行こうとする絢音に慌てて呼びかけると、何か思い付いたのか、はたと振り向いた。
「そうだ、川上くんも来て」
「え…?」
「いいから早く。ほら──」
〝急いで〟と手招きされ、何が何だか分からないままついて行く和希。大通りに面する西側のテーブル席に座ると、絢音は携帯のカメラを立ち上げた。
「川上くんもカメラにして─…」
「カ、カメラ? 何を撮るんですか?」
暗くて何も映らないだろうに、一体何を撮ろうというのか。それでも〝カメラにして〟と言われたら、とりあえず体が動いてカメラに切り替えていた。絢音はカメラのレンズを空に向けた。
「稲妻─…」
「え…?」
「稲妻が撮りたいんだけど、今まで撮れた試しがないんだよね。光った瞬間にシャッターを押しても遅くてさー」
「まぁ、そうですよね…」
「それに窓越しから撮ると室内の景色が反射するから、こういう機会じゃないと撮れないのよね」
そう言われ、今までの停電を待っていたような発言の意味がようやく分かった。
「──って、難易度高すぎません?」
「そうなんだけど…。でも稲妻に限らず、その〝瞬間〟を切り取ったような写真ってよくない?」
「それはまぁ─…」
「好きなんだよね、そういう写真。それだけで、感情だったり状況とかが伝わってくるからさ」
「あー…」
「だから手伝って、川上くん」
雷の光がフラッシュのように絢音の顔を浮かび上がらせる。
(あぁ、ほんとにもう…)
どうして〝好きな人〟の〝好きなもの〟を知ると、難しくてもなんとかしたくなるのだろうか。
「分かりました…。でも期待はしないでくださいね」
そう言いつつも、心の中では〝絶対に撮りたい〟と思っていた。
「いやいや、若さによる反射神経には期待しかないでしょ」
「ハードル上げすぎですって」
和希の言葉に、絢音はクスッと笑った。
二人の携帯と視線が空に向けられた。暗くて見えないはずの雲の形や濃淡が、稲光によって浮かび上がる。その度に二人の携帯からシャッター音が聞こえていた。─が、次第に絢音からのシャッター音が減っていく。ふと絢音を見ると、視線は携帯の画面ではなく窓の向こうの空に移っていた。
「…早瀬さん?」
「…なんかさ、ずっと見ていられるんだよね」
「空を…ですか?」
「普段は暗くて見えないはずの景色が、稲光で昼間のように見える瞬間とか─…雲の隙間から見える光で空の大きさを感じられる瞬間とか─…」
「それは多分、さっきの話と同じですね」
「さっきの話?」
絢音が和希の方に視線を向けた。
「普段は見れない景色─…〝非日常〟だからこそのワクワク、みたいな?」
「あー、そういうことか。それで見入っちゃうんだ…」
〝納得だわ〟と言った目は謎が解けた時のようにキラキラしていて、和希の胸の鼓動が一割ほど増した。
一方──
誠司と夏帆は、携帯とペットボトルの簡易照明をカウンター越しに挟みつつ、二人の姿を見ていた。
「絢音さん─…本当に気付いてないんですね、川上さんの気持ち…」
「〝早瀬さんと一緒なら…〟って言われたら、普通察するけどな?」
「なんか気の毒に思えてきました、川上さんの事─…」
「ハハ…だよな」
お互いに苦笑いしつつ、夏帆はマスターが入れてくれたコーヒーを口にした。そしてふと、カウンターに置かれた雑誌が目に入りそれを手に取った。
(解けたのかな、あの迷路…)
そう思いながら例のページを開いた夏帆は、浮かび上がった答えに思わずバッと顔を上げた。
「どうした?」
「マスター、これ!」
小さく、だけど力の入った言葉と供にその雑誌を手渡せば、迷路の答えを見た誠司は思わず笑ってしまった。
そこに浮かび上がった文字は…
【LOVE】
──だった。
「VをCと間違えるって─…どんだけ愛を見失ってんだよ、絢ねぇは」
「でも、川上さんはちゃんと見つけましたよ」
「…だな」
わざと〝LOCK〟と思い込もうとしたのかどうか、それは誠司にも分からない。ただこの迷路のように、心に鍵をかけている絢音に、どうか和希の愛が届いてくれたら…と願わずにはいられなかった。
「マスター…」
「うん…?」
「私、初めてです。停電が一秒でも長く続いて欲しいって思ったのは」
夏帆は、稲光によって浮かび上がる二人の姿を見つめながらそう言った。その言葉に、誠司も〝あぁ、そうだな〟と心から頷いたのだった。