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7 制裁 <4>

「航ちゃん、最近残業が多いんです。仕事だからしょうがないって思うんですけど、朝からずっと蒼太の面倒を見てると、どうして私ばっかり…って思ってしまって…。だって、食事もお風呂もゆっくりできないんですよ? なのに、航ちゃんが蒼太をお風呂に入れる時は私がいるから、航ちゃんはゆっくり入っていられる…。ダメだって思いつつも、なんか不公平だなって─…」

「ダメじゃない。それは間違いなく不公平な事よ」

「でも航介さんが蒼太くんをお風呂に入れた時は、春香さんはゆっくりお風呂に入れますよね?」

「はい、アウトー」

 不公平じゃないとは言わないが、それでもゆっくり入れる日はあるのでは…と言った和希に、絢音がそう言って和希のケーキを一口食べた。

「え、えぇ!?」

 その行動には驚いたが、気持ち的にショックだったのは〝アウト〟と言われた事だった。

「まぁ、ほとんどの人はそう思うけどね。でも父親として、夫としては、想像力が足りない」

「想像力…?」

「まず一つ目、基本的に赤ちゃんを一人にしない事。二つ目、赤ちゃんは肌がデリケートだから、お風呂の後は保湿をしたり、湿疹があったら薬を塗ったりする。三つ目、赤ちゃんはオムツをしてない時にオシッコをしたりする。それを踏まえた上で、一緒にお風呂に入った後の事を考えてみて? お風呂から出たら、まず最初に何をする?」

「え…それはもちろん、体を拭く…ですよね?」

「その次は?」

「えっと…保湿して、オムツをはめて、服を着せる…」

「それから?」

「それから…?」

「濡れてるところがまだあるじゃない?」

 絢音はそう言って、頭を指さした。

「あ、髪の毛を乾かすんだ」

「正解。じゃぁ、その間、自分の体は?」

「自分の体…?」

「そう。お風呂から上がって、真っ先に赤ちゃんの体を拭くんでしょ? 自分は?」

「自分も一緒に拭くんじゃ…?」

「拭いている間、赤ちゃんは裸? その時にオシッコとかする可能性は?」

「あ…そうか…。え、じゃぁ、自分は体も拭かず、服も着ないまま…?」

「そういう事。暖房をかけてるとはいえ、冬の時期にもそういう状態で、母親は赤ちゃんを拭いたり服を着せたりするのよ」

「あー…」

「それにコウちゃんが蒼太くんをお風呂に入れても、洗った後、蒼太くんだけ春香ちゃんに渡せば自分はゆっくりとお風呂に浸かれるでしょ? つまり、コウちゃんは蒼太くんをお風呂に入れても入れなくてもゆっくりと湯船に浸かれる。一方で、春香ちゃんはコウちゃんが入れてくれる日だけゆっくりと湯船に浸かれるの。だけど、お風呂上がりにする作業はいつも春香ちゃん。コウちゃんは一切しない。──でしょ?」

 最後の問いかけは、春香に向けていた。

「ほんと、その通りです」

「だから不公平なの」

「…なるほど、よく分かりました。間違いなく不公平ですね」

 納得した和希が絢音の言葉をそのまま繰り返したため、春香は思わずクスッと笑ってしまった。絢音が続ける。

「それに、不公平を招いてる最大の原因がある」

「あ、それは分かります。〝残業〟ですよね?」

「そっ」

「でも仕事ならしょう──」

「共働きでさ──」

 〝しょうがない〟と言おうとした春香の言葉を、絢音が遮った。

「家事は時間的にできる人がやればいい、っていうルールを作ったりするじゃない? 例えば早く帰ってきた方がご飯を作るとか、お風呂を洗うとか。ストックが切れたら、気付いた人が買ってくるとかさ。あれ、うまく行ってる家庭って、お互いの負担が平等か、お互いが平等にしようと努力してるか、もしくはどちらかの我慢で成り立ってたりするんだよね」

「…そう、ですね」

「でもそれには絶対条件がある」

「絶対条件…?」

「お互いが〝正直〟である事」

「正直…」

「ズルするようになるんだよ、人間ってのは」

 答えたのは会社員の中山だ。制裁は米田の次、四番目の男だ。

「最初こそご飯を作ったりお風呂を掃除したりしても、そのうち考える。もう一時間遅かったら相手の方が早いんじゃないか。だったら残業だったって言って、一時間くらいどこかで時間を潰そう─…ってな」

 そこまで言われて、春香がハッとした。

「もしかして、航ちゃんの残業って…ウソ…?」

 その疑問に、テーブルを囲む全員が頷いた。

「週四日残業って─…」

「週四日、ここに来てたわよ」

 絢音の言葉に〝そんな…〟と大きな溜息をついた。それはウソをつかれた怒りと悲しみの溜息だった。でもすぐに、何かに納得したように小さく頷いた。

「おかしいと思ったんですよね…。蒼太が生まれてしばらくしたら急に残業が増えて…でも残業代がついてないんです。聞いたらサービス残業をさせられてるって言うし…。だからしょうがないと思って一人で頑張ってたのに…」

「夜中、蒼太くんが泣いても一人で対応してたんでしょ?」

 春香は頷いた。

「毎日仕事だから、寝かせてあげないと可哀想だと思って…」

「その優しさ、男の人には無駄よ。そもそも、母親は子供の泣き始めるちょっとした声でも起きるけど、男の人は隣で泣いてても起きないからね。結果、奥さんの優しさは伝わらない。だから隣で子どもが泣いても、その場でガチャガチャ物音立ててやればいいのよ。それで起きたら万々歳。代わりにミルクをあげてって言えばいい。なにも、母親だけが大変な思いをする必要はないのよ」

「そう、ですよね…。最近は会社の人に誘われるからって、日曜日もゴルフの練習に行くようになったし─…」

「でた、ゴルフ…」

 絢音がウンザリしたように呟いたと思ったら、ほぼ同時に米田たちも〝あー…〟と溜息をついた。

「ん? んん? 〝でた〟ってなんですか?」

「〝家族のため〟っていう、体のいい逃げ口上だよね〜。原ちゃん、しーちゃん?」

 キョロキョロとみんなの顔を伺っていた和希に答える形で、原と清水に意味ありげな笑みを向けたのは椿だった。制裁順は原が九番目、清水が十番目。椿が関わった二人で、その説明を本人に振ったのだ。

「いやぁ〜、それを言われると、今でも耳が痛いよ」

 最初に答えたのは原だ。

「オレも会社の接待でゴルフに行くようになってさ。最初のうちは接待の時だけ行ってたんだ。でもそれが段々と楽しくなって、もっと上手くなりたい、レベルが上がれば接待相手とも良い関係が築けると思って練習するようになった。子供ができてもその生活は変わらなくて、奥さんにも色々言われたよ。でも変わらなかった。むしろ、これは仕事の一環で、これで商談が成立したら昇進も近くなる。そうなれば給料も上がって奥さんも楽になるとか、本気で思ってたんだよな。でもある時、箪笥の引き出しに妻のところだけ記入された離婚届が入ってるのを見つけてさ…」

「え…! 離婚、切り出されたんですか!?」

 和希が驚いて声を上げた。

「いや、その時はまだだ。でも、慌ててこの店のママに相談したよ。そしたら、それを聞いていた絢ちゃんが〝奥さんと子供を連れてきて〟って言ってさ。オレ、てっきり奥さんを説得してくれるのかと思ったんだよ? そしたら、今日の航介と同じ制裁だった。あれには参ったよ、ほんと。でも、その後の絢ちゃんがめちゃくちゃ怖くてな…」

「そうなんですか…?」

 和希が思わず絢音に聞いていた。

「まぁ、めちゃくちゃムカついてたからねー」

 絢音は原と同じ〝めちゃくちゃ〟というところを強調した。

「〝奥さんが離婚を切り出してきたら、財産も親権も全て渡して離婚を渋るな〟って言われてさ。〝離婚したくないんだ〟って言ったら、絢ちゃん〝何のために?〟って。その時の目が、すっげー冷たくて…」

「…それで、なんて答えたんですか?」

 聞いたのは春香だった。

「答えられなかったよ…」

「「え…?」」

 今度は和希も加わって同時に声を発した。

「〝なんで?〟って聞かれたら〝奥さんが好きだから〟って言えたんだけどな。〝何のために?〟って聞かれたら、思い浮かんだ理由が〝昇進に響く〟とか〝カッコ悪い〟とか〝一人になったら飯作ってくれる人がいない〟とかでさ…」

「うわ、最悪…。答えないと思ったらそんなこと思ってたの、原ちゃん」

「最悪なのはオレも分かってるさ。だから言えなかったんだよ。けど、絢ちゃんには全部お見通しだった。それで言われたんだ。〝離婚したら家政婦でも雇えば?〟ってさ」

「あー! それで、その言葉だったんだ。──さすが、絢姉さん。何でも分かっちゃうのね」

「大抵の男の人はそんなもんよ。結婚するまでは母親が家事をしてるし、一人暮らしをして自炊したところで、〝結婚して嫁さんにご飯作ってもらいたい〟って夢見てる。それを結婚するメリットだとすら思ってたりね。結局のところ、家事は女の人がするもんだっていう考えが染み付いてんのよ。妻はパートナーであって、夫の母親でも家政婦でもないのにね」

「それも言われたな。あと、〝夫の変えなんかいくらでもいる〟とか──」

「〝父親の役割も夫の役割も果たさないなら、いないほうがマシ。お金だけ渡してとっとと消えたら?〟とも言われてたわよね〜」

 その時の言葉を思い出して、椿が楽しそうに言った。

「いやもうほんと、絢ちゃん言葉キツイし、あの時はマジで怖かった。しばらく絢ちゃんの顔見れなかったもん、オレ。──けど、その時初めて分かったんだ。自分がどれだけ勝手で役立たずな人間だったかをさ。夫としての自覚、父親としての自覚が全くなかったなって…」

「それで、反省して離婚は回避できたんですか…?」

 春香が聞いた。

「あぁ、その時はなんとかな。でも離婚届にはサインさせられたよ」

「え、どうしてですか?」

「保険よ」

 絢音が答えた。

「何かあったらいつでも出せるようにっていう、奥さんにとっての保険」

「すごい、そこまで…」

「心を入れ替えるなら、それくらいの覚悟は持ってもらわないとね」

「そうそう。ちなみにその保険、もう一人持ってる人がいるのよ。ねぇ、しーちゃん?」

 椿が〝次はしーちゃんの番よ〟と、清水に振った。

「あー…まぁ、俺も原ちゃんと似たような事してたからなぁ…」

「そう、日曜日になると釣りに出かけてたんだよねー」

「釣り…。でも釣りなら夕御飯のおかずにもなっていいんじゃないですか?」

 極々普通の考えを言ったのは和希。ある意味それは、何も知らない純粋な感想だった。当然、ここで絢音があの行動に出た。

「はい、ツーアウトー」

 ──と、またまた和希のケーキを一口頬張った。

「えぇ、また!?」

「んー、美味しい」

「いや、うん、それはいいですけど─…今度は何がアウトなんですか?」

 気になるのはそっちだ。

「釣りバカを許す奥さんなんてドラマの中だけよ? 朝早くから出かけて、帰ってくるのは夕方とかさ。釣れたかどうかも分からないままで、夕飯の準備もできないでしょ? ギリギリまで待って釣れなかったって分かったら? それに本人は釣りが楽しいだろうけど、釣ってきた魚を捌くのは殆どが奥さんだからね。〝料理をしたら後片付けまでが料理〟って言うけど、私に言わせれば、釣りは〝釣ってから捌いて料理して片付けるまでが釣り〟だから」

「な、なるほど…」

「それにね、そもそも子供の面倒も見ずに毎週釣りに出かけるって、父親だっていう自覚が全くない。だから、そういう人は奥さんに何か言われたら必ずこう言うのよ。〝朝から晩まで働いてるんだから、たまの休みくらい俺の好きな事させろよ〟って」

「奥さんの愚痴からその言葉が出た途端、絢姉さんキレたんだよねー」

「いや、ほんと悪いと思ってるって…」

 その時の事を思い出して思わず謝ったのは清水だった。

「俺も制裁受けて、絢ちゃんに言われて初めて気が付いた。育児に休みはないんだって。子供の面倒を見てる時もやらなきゃいけない家事があってさ…でもできないんだよな。あっという間に日が暮れて夕飯の準備もできない。何とか準備してご飯を食べても、その後の片付けもあるし、子供を風呂に入れて寝かしてさ…。好きな事どころか、コーヒー飲んでホッと一息できる時間もなかなかなくて…。しかも、子供が寝たら自分も疲れて寝るだろ? ──で、またすぐに朝が来るんだ。もう、それだけで憂鬱でさ…。仕事の時は定時までが長かったのに、子供の面倒見てる時は、一日がめちゃくちゃ早くて〝足りない〟とさえ思ったくらいだ」

「その通り。仕事は時間も決まってるし、その対価も貰える。でも生きていくのに必要な家事も命を預かる育児も、時間はもちろん休みさえない上に対価も払ってもらえない。なのに、外で働いてる人だけが偉いとか専業主婦は社会に貢献してないみたいに言われるのよ。そこにきて〝たまの休みくらい〟って言われたらさ、そりゃブチ切れるわよ」

「だから反省もしたし、感謝もしてるよ、今は」

「もちろん、ちゃんと行動で感謝を伝えてるのよね?」

「あぁ、もちろん! もちろん、ちゃんと行動してるよ。育児に関われない時は、率先して家の事してるし、買い物だってご飯だって作ってる」

「なら、よろしい」

 絢音の一言に、清水はホッと胸を撫で下ろした。

「私もさ、絢姉さんの話を聞くようになってから、モヤることが増えたんだよね。テレビとかでよく言うじゃない? 〝家族のために優勝する〟とか山登りとかで〝家族のために必ず登頂してみせる〟とかさ。その為に自主練だか何だか知らないけど、育児を奥さんに任せて家にいないとかっていうのを見てると、私だったら〝優勝なんかどうでもいいから面倒見てよ〟って思うなぁ、って」

「そりゃそうでしょ。今も昔も、研究や功績で名を残すのはそれをやった人だけ。お金のない時代の研究で金銭的に厳しくて、それでも自分のものを売ってお金に変えて何とかやりくりしていた奥さんの名前が、同じくらい光が当たってるかっていうと、全くもって当たってないでしょ? 国を背負って立つ人ならまだしも、普通の人なら優勝よりも家にいて子育てしろって思うのが当然よ」

「ハハ、やっぱり絢ちゃんは厳しいなぁ」

 〝相変わらずだ〟と笑ったのは、五番目に制裁を受けた武内だった。

「私が厳しいんじゃなくて、武ちゃんたちが〝クソ甘〟なのよ」

「クソ甘って─…」

 〝またまた厳しい〟と苦笑する武内にクスッと笑いながら、絢音は再び春香に問いかけた。

「他にはない? コウちゃんの愚痴。今なら何でも言い放題よ?」

「あー…そうですね…」

 春香は言いながら少し考えた。そして〝あ…〟と思い付いた。

「航ちゃん、探し物を見つけるのが下手なんですけど、見つけられないからって機嫌が悪くなるのをやめて欲しいなって─…」

 そう言った途端、またまたみんなの口から〝あー…〟という溜息が漏れ、俯いてしまった。その態度に春香が〝え…?〟と少し慌てた。

「ど、どうしたんですか?」

「どうしたもこうしたも─…ねぇ、武ちゃん?」

 敢えて絢音が武内に振れば、

「はい。クソ甘です…」

 ──と頭を下げたから、絢音も椿も笑った。

「どういう事ですか…?」

「男の脳と女の脳の違いね」

「男の脳と女の…脳…?」

「そういう本があるんだけどね。まぁ、結論から言うと…男の人は探し物が目の前にあっても気付かないって事ね」

「そ、そう! そうです、それです! 私が蒼太のオムツを変えてたり料理をしてる時に、〝アレはどこにある?〟とか聞いてきて…。〝どこどこにあるよ〟って言って探しにいくんですけど見つからないって。そのうち〝もういいや〟って機嫌が悪くなるから、あとで私が探しにいくと、明らかに探した形跡のある場所に目的のものがあるんです。しかも目の前に。そういうことが毎回で─…なんか本気で探す気がないんじゃないかって…」

「本当に気付いてないっていうのはあると思うけど、〝アレがない、コレがない〟とか〝アレはどこ? コレはどこ?〟って聞く時って、結局のところ自分は動かず春香ちゃんに持ってきてもらいたいって、心のどこかで思ってるのよ。だから自分が探さなきゃいけないってなった時、〝めんどくさ〟って思って、真剣に探さない。──で、見つからなかったら春香ちゃんが探して持ってきてくれるし、とか思ってんのよ」

「えー…そうなんですか…?」

「だから、〝クソ甘〟だって言ってるの。ねぇ、武ちゃん?」

 絢音はここで再び武内に振った。

「あー…うん、まぁ、そういう気持ちが確かにあった…」

 その返事に絢音が〝ほらね〟という表情を見せれば、春香が小さく溜息をついた。

「何がどこにあるのかっていうのは、家にいる奥さんが一番よく知ってると思う。でも一緒に生活してるんだから、自分も知ろうとしなきゃいけない。いくら男の脳が目の前にあるものを見つけにくいとしてもよ? じゃぁ、毎回仕事で探し物を見つけられないのか、って言ったらそうじゃないでしょ? 要はさ、意識の問題なのよ。家の中でも何がどこにあるのか把握しようとする意識。特に子供ができたら、自分の事は自分でできるようにならないと──」

 ──と言った瞬間、和希が何か思いついたのか〝あぁ!〟と声を上げた。

「そうか! だから、夫としての自立が必要なんだ…!」

 続いた言葉に、絢音は〝正解〟とニッコリ笑った。そして、今度はご褒美とばかりに自分のケーキを差し出した。

「じゃぁ、これ。食べていいよ」

「え…? あぁ、いえ──」

「いいから。食べてみて、美味しいから」

 絢音は〝ほら〟と、更にケーキの皿を顔に近付けた。そこまでされて〝いいです〟とは言えない。ケーキと絢音の顔を交互に見ながら、その向こうでぼんやりと見える椿の笑顔を気にしつつも、和希は〝じゃぁ…〟と、ケーキをひとくち口に入れた。

「んん! コレも美味しいですね!」

「でしょー」

「絢ちゃん用、特製チーズケーキだ」

 篠崎が言った。

「早瀬さん用?」

「絢ちゃん、柑橘系の酸味があるのが好きなんだよ。だから、一般的なものより、ちょっとレモン果汁を多めに入れてんだ」

「あぁ! 確かに酸味が立って─…だからすごくさっぱりというか爽やかな感じがするんですね」

「そうなんだよ」

 〝なるほど、柑橘系が好きなんだ…〟と絢音の好みを知って少し嬉しくなったところで、ふと柔軟剤の話を思い出した。

「そういえば、シトラスでした」

「シトラス? んん、何が?」

 突然の報告に、絢音が目を丸くした。

「あ、この前の柔軟剤の話です。〝爽やか〟で思い出したんですけど、僕が使ってる柔軟剤の香りがシトラスだったので──」

「あぁ、柑橘系!」

 絢音が指を差した。

「だから好きな匂いだったんだ!」

「そう、みたいです」

「なるほどねー。うん、納得。じゃぁ、その柔軟剤は変えないで」

「え…あ、はい、分かりました」

 〝柑橘系だから好きな匂いだったんだ〟と納得するだけだと思いきや、まさか〝柔軟剤を変えないで〟と言われるとは…。意外な流れになったが、それはそれでどこか嬉しくもあった。もちろん、絢音は和希がそんな気持ちだとは気付いていないが…。

「──で、どこまで話したっけ?」

「夫としての自立が必要ってところ」

 椿が答えた。

「そうそう。要はね、そういう自立してない状態の今が、春香ちゃんに対してクソがつくほど甘えてるって事。まぁ、その教育も実体験のある武ちゃんがちゃんとしてくれると思うけど?」

 〝そうよね?〟と目で言えば、

「あぁ、もちろんさ。航介が〝えー〟って言ったって、結局のところ〝離婚されてもいいなら好きにしろ〟って言えば、大抵飲み込む。任せとけって」

「あ、その時は私に任せて。まだあるから、白紙の離婚届」

 連携プレーのように椿が言えば、それに驚いたのは清水だった。

「えぇ!? まだ持ってんの、椿ちゃん!?」

 清水は、自分の時にも椿から離婚届を渡された経緯があるのだ。

「ふっふっふ。原ちゃんの時に、〝あ、コレ使える〜〟って思って、しーちゃん用の離婚届を取りに行く時に、多めに貰ってきたんだよね〜」

 得意げに微笑む椿を見て〝マジか…〟と呟く清水とは対照的に、絢音はにっこりと笑って言った。

「さすが椿ちゃん、用意周到。好きよ、そういうの」

「でしょ〜」

「まぁでも、コウちゃんの意識が変わらないと、子供も二人目、三人目は無理だから、そう言えば頑張るかもね」

「そう言って変わってくれればいいですけど…。ただ最近は、本当に子供が好きなのか分からなくて…」

「そこは同意ね。私も男が言う〝子供好き〟っていうのは信用してないし─…ってか、そう言う男は信用できない」

「え、そうなんですか!?」

 春香よりも驚きの声を上げたのは和希だった。

「あ、すみません…。でも、子供が好きだって言う男の人って結構いませんか?」

 それはつまり、それだけ男の人を信用してないという事になるのでは…と心配になった。

「いるよー。でも、だったらどうして〝夫の育児に対する愚痴〟が多いと思う?」

 言われて、〝それは確かに…〟と思ってしまった。

「男の人が言う〝子供好き〟って、ある程度意思疎通ができて、体を使った遊びができる年齢の〝子供〟の事を言ってるのが多いのよ。まぁ、それはそれで〝赤ちゃんが好き〟って言ってない分、正解なのかもしれないけど。でも、じゃぁ〝子供〟になる前の〝赤ちゃん〟は誰が面倒見るのか、って事じゃない? 赤ちゃんって言葉は喋らないし、泣いて要求されてもそれがなんの要求か分からないから大人も悩む。育児書通りにはならない事がたくさんあってさ、大人とは違う感覚で、暑いのか寒いのかさえ悩みながら服を着せたりするものなの。子供が動けるようになったらなったで大変だけど、そうなる前の育児だってすごく大変なんだから。それをさ、自分の子供なのに積極的に関わろうとせず、〝泣いてるけどオムツかなー?〟とか〝お腹が空いてるんじゃない?〟とか〝眠いんじゃない?〟って言うだけで自分で対処しないとか。挙げ句の果てに泣いてる子供をあやしても泣き止まなかったら〝やっぱり、ママがいいよな。ママじゃなきゃダメだよな〟とか言って母親にバトンタッチするとか、もう、地獄に落ちろって思うほど最悪よ? 母親は父親が仕事で家にいないから、泣き止むまでありとあらゆる事を試してる。決して〝ママだから泣き止む〟んじゃない。それだけ関わって、泣き止むまで色々と試行錯誤してるからよ。つまり、子供が泣き止まないって事は、それだけ父親が子供に関わってない証拠なの。そういう赤ちゃんの面倒を見る大変さを経験してない男が、〝子供好き〟って言って信用できると思う?」

 それはもう、ぐうの音も出ない説明だった。

「落ち込むなよー、川上くん」

 黙ってしまった和希に声を掛けたのは、六番目に制裁を受けた林田だった。

「この手の話で絢ちゃんに勝てるやつはいないから。オレも散々言われたよ。子供の泣き声に起きないのは、普段ちゃんと関わってないから関心が薄いんだ、とか。どうせ奥さんが起きてくれるって、どこかで思ってるからでしょ、とかさ」

「オレは、一生〝子供好き〟って言うな。言ったら詐欺罪で訴えてやる、とまで言われたよ」

 続いたのは七番目に制裁を受けた藤原。そして更に、八番目に制裁を受けた川村が続いた。

「オレは、この先〝いいとこ取り〟は絶対に許さないって言われたなー」

「いいとこ…取り?」

 和希が繰り返した。

「昔から、男の人は〝いいとこ取り〟が多いって、絢姉さんがねー」

「…って、どういう事ですか?」

 椿の視線を追って、今度は言った本人に聞いてみた。

「昔からさ、〝男は外で働いて、女は家を守る〟っていう風潮があったでしょ? もちろん働く事は偉いわよ。でもそれを理由に、日常の面倒くさい事を全部女の人に押し付けて逃げてきたのが現実なの。子供ができた家庭で回ってくる町内の子供会役員とか学校のPTAとか、弁当作りや裁縫系─…もう、ありとあらゆる細々とした面倒な事は〝昔から女の人がやってたから〟とか〝女の人の方が向いてる〟とか理由をつけては、当然のようにやらされてきたのよ。しかもその大変さを知らないから、平気で娯楽をやりたがる。キャンプとかバーベキューとか海水浴とかねー」

「え、それってダメなんですか…?」

「恋人同士の時は良かったんだけどなー」

 答えたのは、まさにキャンプやバーベキューが趣味の川村だ。

「結婚して家族で行くようになると、次第に乗り気じゃなくなっていくんだよ」

「どうしてですか?」

「片付けだよ。行く時は楽しくて準備もするけど、行って楽しんだ後は疲れて寝るんだ、オレも子供もさ。使い終わった物はそのまんま。洗って片付けたり、ゴミを捨てたり、物置にしまったりするのはいつも奥さんだった。そんな時に、絢ちゃんから制裁を受けたんだ。オレと子供たちがキャンプに行ってる間、奥さんは絢ちゃんと温泉旅行に行くからって。オレはいつも通り準備してキャンプに出かけたんだけど、家に帰ってきてからの片付けをした時にやっと気が付いた。片付けの大変さを。正直、心のどこかで思ってたんだよな。オレは運転して現地でテント張って、終わったらまた運転して帰ってくるんだ。だから片付けくらいは奥さんがやってくれるだろ、やってくれて当たり前だってな」

「酷いでしょ。しかも食事は奥さんが作って、自分はビール飲んで何にもしないのよ? 節分の豆まきと同じでさ、やってる時は楽しいし、何も考えずに散らかすのは簡単なの。大変なのは片付けなのに、そこから目を背けてるような川ちゃんだから、平気で何度もキャンプだバーベキューだってやりたがるのよ。そういう〝いいとこ取り〟ばっかりしてたから、灸を据えてやったの」

「なる…ほど…」

「まぁ、でも。絢ちゃんの制裁のおかげでみんな変わったしな。夫婦仲もうまく行ってるし、この先は安泰だろ」

 何の心配もないと、余裕の態度で林田が言った。──が、

「甘いぞー、リンちゃん」

 林田を〝リンちゃん〟と呼ぶ椿が、不適な笑みを向けた。

「な、なんだよ──」

「絢姉さん曰く、離婚の危機は少なくとも四回やってくるらしいわよ?」

 椿が強調するように指で〝四〟を作った。

「は? 四回!?」

「そう。まずは子供が生まれた時、それから子供の反抗期、次に親の介護で、最後が定年退職。リンちゃんは最初の二つは突破したけど、あとの二つの危機はこれからだからね〜」

 言うたびに、指を一つ、二つと足していった。

「いやいや、ちょっと待ってくれよ。そんな脅しみたいな事──」

「脅しじゃなくて、実際に離婚を考えるきっかけって、そういう時みたいよ? ねぇ、絢姉さん?」

 椿が投げ掛ければ、絢音も〝その通り〟と頷いた。

「マジかよ…」

「ちなみに、どういう理由でその四つの危機なんですか?」

 和希が聞いた。これまでの話で子供が生まれた時の危機はなんとなく分かったが、それ以外の危機にどういう理由があるのか気になったのだ。その質問に〝他人事ではない〟と、武内たちも身を乗り出した。

「子供が生まれた時は、さっき言ったような事の積み重ね。子供の反抗期は、その時の父親の関わり方よ。共働きだったとしても、学校に呼び出しされた時に行くのは大抵母親でしょ。子供からは〝ウザイ〟だの〝クソババア〟だの言われてさ、何か聞いても返事はしないし、作ったご飯もまともに食べないとか、迷惑かけた人に頭を下げる日が続くのよ。反抗期ってそういう時期だからしょうがないけど、その時期の辛さを分かりもせず、ただ他人事のように〝しょうがないさ〟って言って、全て母親任せにしていたら、ぶっちゃけ〝父親の存在は無意味だ〟って思うようになるのよ。むしろ、いない方が清々するし、期待して裏切られる辛さもない。反抗期や受験の時期で大変な時に実際に離婚をする事は少ないだろうけど、間違いなく〝離婚〟の二文字は頭に浮かぶし、離婚への伏線になるのよ」

「そういう事か…」

「え、どうしよう。オレのところ、もうすぐそういう時期だ…」

「オレのところは反抗期も終わったけど…カミさん、そんなふうに思ったりしたのかな…」

 反抗期がこれからのところも、終わったところも、その内容に少しざわついた。

「じゃぁ、親の介護っていうのは…?」

 ざわつく彼らを気にしながら、和希が次の危機を聞いた。

「昔から、女の人が面倒くさい事を担ってきたっていうのは言ったけど、介護なんか典型的。長男の嫁が義父母の介護をするのが当たり前みたいに言われてるけど、どうして〝嫁なの?〟って思わない? 特に同居率の少ない今の時代にさ。よく〝オレは子供の時に親に迷惑かけたから、老後の面倒くらいは見てやらないと…〟って言って介護を引き受ける男の人がいるけど、実際に介護するのは奥さんよ。仕事してるからとか理由をつけて、自分はほとんど関与しない。疲弊して愚痴を言っても共感はおろか感謝もせずに〝しょうがない〟とか言っちゃってさ。そもそも、親の世話になったのも迷惑かけたのも実の子供なんだから、実の子供が見ればいいじゃない? 奥さんは、義父母にオムツを変えてもらった事も、ミルクを与えてもらった事も、お風呂に入れてもらった事も、夜泣きで寝不足にさせた事も、反抗期で泣かせた事もないんだから。なのにどうして、義父母の面倒を見るのは嫁の使命みたいになってるのか。根本的なところに立ち返れば、実の子供が親の面倒を見ればいいだけのことなのに。挙げ句の果てには、遺産相続の権利もないでしょ? 請求すればある程度は貰える権利は法律でできたけど、実際その権利を行使するかっていうと、これからの人間関係を考えたら行使しない人が多いし。嫁は育児・介護要員じゃないって、強く言いたいわね」

「…なるほど」

「しかも、自分で育児や介護をしてないお偉いさんが、少子化対策だの、老老介護の問題だの話し合ってるけどさ、そんな現場も辛さも知らない人間が考える事って、いっつも対策が的を得てないのよ」

「それは、〝先生〟って呼ばせる人たちですね?」

「大正解」

 そう言って再びケーキを差し出してきたから、和希は少しおかしくて笑ってしまった。

「じゃぁ、最後の定年退職は? 一日中家でゴロゴロして…っていう愚痴はテレビとかで見たことありますけど──」

 差し出されたケーキを、〝大丈夫です。早瀬さんが食べてください〟とジェスチャーで伝えながら聞いた。

「定年退職した人が必ずといっていいほど言うのが、〝今までずっと働いてきたんだから、これからはオレのやりたいようにする〟って言葉ね」

「あぁ、それは分かります。会社で退職された人も、そう言ってました」

「じゃぁ、その人は今頃一人になってるんじゃない?」

「え、ほんとに!?」

「定年退職する時点でそういう考えを持ってる人は、それ以前の三つの危機をコンプリートしてるはずだからねー」

「それは、確かにそうかも…」

「好きな事するのは勝手だけど、家の事はきっちりしないと。仕事に定年はあっても、家事に定年はないんだから。働いてきた人は〝ご苦労様〟って声掛けられるけど、その間、同じように家の事をしてきた人だって労われる価値があるはずでしょ? 仕事を退職したら、その間支えてきた人の仕事も一区切りさせて、新たに二人で家事をする生活を考えないと、女の人が一生〝家事〟という仕事をしなきゃいけなくなる。掃除や洗濯の回数を減らせても、食事は生きるために必要な事なんだからさ。だから、家にいて何もしない夫。その人の分まで、なぜ自分一人が死ぬまでしなきゃいけない家事を担わなきゃいけないのか…って思ったら、〝どうせ家事をするなら自分だけの為でいいじゃないか。よし、離婚しよう〟ってなるわけよ」

 絢音の説明に〝おぉ〜…〟という恐怖にも似た声が上がった。絢音はそんな彼らを見て、クスッと笑った。そして今度は春香の方を向いた。

「だからね、春香ちゃん」

「あ、はい…」

「どうせ子供を育てるなら、自分にとって〝理想の男〟に育てちゃえばいいの」

「え…理想の男…?」

「昔から子育てのほとんどを母親が担ってきたでしょ? そして夫に対する愚痴は、その時から全然変わってない。不思議だと思わない?」

「えっとー…」

 夫に対する愚痴が変わっていないのは分かるが、それが不思議だという意味がよく分からず返答に困ってしまった。その反応も当然だと、絢音が続けた。

「気付いてない人が多いのよね。夫に対する不満がいっぱいあるのに、その人が育てた息子のお嫁さんが、なぜ自分と同じ不満を持っているのか」

「あ…」

「ほんとだ…」

「そう言えばそうよね」

「確かに、そうだわ」

「言われてみればそうだな」

 春香、和希、椿、夏帆、誠司…その後も、ここにいる全員が〝確かに…〟と頷いた。

「オムツも交換しない、ご飯も作らない…とか不満があるのに、自分の息子に料理を教えたり、洗濯や掃除をさせてこなかったって事でしょ? 女がやるもの、男がやるもの…って線引きして育てていたら、そりゃいつまで経っても女の人の愚痴はなくならないわよ。だから、〝理想の男〟に育てるの。そうすれば、未来の女性の不満は減るし、結婚にも子育てにも前向きになれる。私はそう思うんだよね」

 そこまで言うと、周りにあった重たい空気がふっと消えたかのように、春香の顔付きが変わった。

「確かに─…確かにそうですよね! 不満のある私たちだからこそ、〝こうあって欲しい〟っていう明確なものがあるし、そういうふうに育てられる特権を持ってるってことですもんね!」

「その通り、大正解よ。大事なのは〝男の意識改革〟。私はこれを、〝逆光源計画〟って言ってる」

「逆──」

「…光源氏──」

「…計画?」

 春香、椿、和希の順にその言葉を繰り返せば、僅かな間があった直後、みんなが一斉に笑った。

「いいね!」

「逆光源氏計画か!」

「絢ちゃんらしいよ!」

「私、将来はその計画に参加するわ!」

「オレも今から参加する!」

「私も!」

 次から次へと声が上がれば、笑顔と共に春香の心も自然と開いていく。考えて思い出していた不満も、仲のいい友達に話すように溢れ出てきた。

「航ちゃん、何度言っても脱いだ服がひっくり返ったままで洗濯に出すんですよ。靴下も丸まった状態でカゴに入れるし──」

「あー、オレも以前はそうだった!」

「自分で洗濯物を干さないから気にしないんだよな、あれ」

「俺も奥さんにやられたけど、そういう時はな──」

 春香の不満に共感と対策で盛り上がる中、和希は自分の名前が呼ばれたことに気が付いて後ろを振り返った。見れば、カウンターの中から誠司が指でチョイチョイと呼んでいる。和希は盛り上がる雰囲気を壊さないよう、そっと席を離れた。

「どうしたんですか?」

「ん? まぁ…一旦、離れてもいいんじゃないかと思ってな」

 〝とりあえず、ちょっと休憩だ〟というニュアンスで言ったが、実は和希の様子が気になっていたのだ。

 誠司は新しいコーヒーをいつもの席に置くと、和希が席に着くのを待ってから言った。

「楽しみ…とか言いながら、かなり手厳しい話だったか?」

「…ですね。今まで考えもしなかった事ばかりで、未だに頭の中が整理しきれないです…」

「情報過多だな」

「でも、知れたのは良かったです」

「ホントかよ? 案外、絢ねぇが思ったよりキツくてショックだったんじゃないのか?」

 実は、さっきから気になっていたのはそれだった。話す内容が内容だけに、絢音の厳しさを目の当たりにして落ち込んでいるように見えたのだ。──が、和希の返答は少し違った。

「早瀬さんにああいう一面があるのは知ってたので、ショックとか驚いたとか、そういうのはないんですけど─…」

(ああいう一面があるのは知ってた…?)

 誠司はその言葉が少し引っ掛かった。自分の知る限り、和希の前でそんな一面を見せたことはなかったからだ。ただ、〝けど…〟と言ったまま絢音を見つめる目には、どこか寂しさのようなものを感じて…。誠司は敢えてその先を促した。

「けど、なんだ?」

「あぁ、いえ…なんか、早瀬さんの男の人に対するイメージというか、期待してない感じというか─…僕もそういう風に思われてるのかなって…」

(あぁ、そういう事か…)

「…まぁ、制裁を受けるような男が周りにあれだけいればな。期待しろっていう方が無理な話だろ。けど、お前にとっては有利なんじゃないか?」

「有利?」

「今のところマイナス要素はないって言ってんだし、あの連中を見てきた絢ねぇにとっては、それだけでお前の良さが際立ってると思うけどな」

「そう、だといいですけど…」

「どうせなら、絢ねぇが持ってるイメージを払拭してやれ。お前なら、絢ねぇの気持ちも変えられるだろ」

「変えられるかな…」

 自信なさげに小さく呟くのを聞いて、誠司もまた小さく呟いた。

「お前以外に誰ができるってんだよ…」

「え…?」

 言葉は聞き取れなかったが、何か言ったのは分かったらしい。誠司は〝いや〟と小さく首を振って言い直した。

「お前に期待してんだよ、オレは」

「あぁ…はい、頑張ります」

 期待に応えようとする返事に、誠司は〝おぉ、頑張れ〟と頷いた。

「──にしても、反論もなく〝知れて良かった〟って素直に思えるとはな」

「え…だって反論するところってないですよね?」

「あぁ。ただ、腹を立てる奴は多い」

「そうなんですか? あ…じゃぁ、武内さんたちも最初は…?」

「あの連中は制裁を受けて色々と実感した後だからな。絢ねぇに言われた時は、腹が立つより〝泣きっ面に蜂〟状態だ。でも、夫にも父親にもなってない男だったら大抵腹を立てる。五年前に絢ねぇと喧嘩した奴みたいに」

「あー…。でも早瀬さんの言ってる事を覆せるような反論理由って──」

「全くない」

 〝ないですよね〟と言おうとしたところを、誠司が被せるように言った。

「…ですよね」

「〝昔からそうだった〟とか〝そういうもんだ〟の繰り返しで、絢ねぇからしたら、一番ムカつく反論理由だ」

 和希は〝確かに〟と頷いた。その染みついた考え方が、今の不公平の根底にあるからだ。

「それも〝変なプライド〟っていうんですかね…?」

「いやいや…人を説得できるような根拠もない理由の連呼なんて、単なるアホのする事だろ」

「まぁ、そうですね」

 誠司の言い方がなんだか面白くて、フッと笑ってしまった。

「でも独身の男っていうなら、誠司さんは…? 腹が立たなかったんですか?」

「あー、それな」

 誠司は、人に聞かれないようにカウンターから少し身を乗り出して言った。

「多分、逆光源氏計画の第一号はオレだ」

「え…?」

「小学生の低学年だぞ? 男だ女だっていう価値観が自分の中で明確になる前から、〝男女関係ない〟って事をその都度その都度言われてみろ。腹が立つどころか、〝そういうもんだ〟って思うだろ」

 そう言われて、はたと気が付いた。

「もしかして〝姉として教育〟って──」

「そういう事だ。まぁでも、世の中の変化を見れば、絢ねぇの言ってた事は間違ってなかったし、制裁される側にならないから良かったけどな」

「…ですね」

(僕もそうならないように気を付けないと…)

 〝嫌われないためにも〟と、手元に視線を落としコーヒーをすすったところで、

「誠司くん、水ー」

 ──と絢音がやってきた。

「もう、アイスティーの一杯じゃ足りないって」

「喋り過ぎなんだよ、絢ねぇは。──ほら」

 誠司が冷たい水を差し出して言った。

「大事な事を伝えるのに端折ってどうすんのよ」

 そう言うと、一旦水をゴクゴクと飲んで、更に言った。

「人がちゃんと納得するには必要な過程なんだから─…それを〝話が長い〟とかいうやつに幸せな未来はない」

 空いてる方の手を横に振って言い切った。

「分かった、分かった」

「──ってかさ、いつの間に離脱したの、川上くん?」

「え? あ、いや…別に離脱したわけじゃ──」

「オレが呼んだんだよ。情報量が多くて頭回ってなかったみたいだから、休憩も兼ねてな」

 敢えて〝落ち込んでるように見えた〟と言うのは避けた。

「…まぁ、確かに情報は多かったわね。それだけコウちゃんがダメ夫だったってわけだけど」

 絢音はそう言いながらいつもの席に座った。

「いいのか、戻らなくて? まだ話が続いてんだろ?」

「あー、大丈夫。あれだけ打ち解ければ、あとは椿ちゃんと武ちゃんたちで十分よ。それにしても、聞けば聞くほどコウちゃんのダメっぷりがすごくて呆れるわ。離婚案件のオンパレードよ? ほんとなんなの、あの…春香ちゃんを、自分の母親と同じフィールドに置いてる感じ?」

「常に自分を支えて欲しいとか思ってんだろ」

「ほんと、クソ甘だわ」

「ま、男はバカで単純だから、持ち上げられて支えてもらったらアホみたいに頑張れる生き物でもあるけどな。ある意味、そこを利用するっていう手もあるぞ?」

「自分の気持ちに嘘ついて、持ち上げて支えるなんて絶対ムリ。──ってか、面倒くさい」

「ハハハ。確かに、面倒くさがり屋の絢ねぇにはムリだ。けど、支えて欲しいと思ってる男は多いだろうな」

「それ、川上くんも?」

「え…!?」

 突然振られて、思わず声が大きくなった。

「川上くんも、結婚したら奥さんに支えられたい派?」

「え? あー…僕は──」

 言いながら、和希は想像した。もし絢音と結婚して一緒に過ごすなら─…と。そしてごく自然に言葉が出た。

「僕は、共に生きたいです」

「え…?」

 意外な言葉に、絢音の目が丸くなった。

「お互いに支えて支えられて…って言えばありきたりなんですけど、そういう言葉じゃなくて─…〝共に生きていきたい〟って思います」

「ふ~ん。共に、か…」

 同じ言葉を頭の中で繰り返してみると、〝支え・支えられ〟という言葉よりもずっと、心の中にしっくりくる言葉だった。

「うん、それいいね!」

「ほんとですか?」

「うん、いい! お互いが対等っていうか、常に横に並んでる感じ? そういう言葉、好きかも。──ねぇ、誠司くん?」

「ん? あぁ、そうだな」

 〝一人で生きていく〟と決めている絢音が、それを自分の事として捉えていなくても、〝誰かと共に生きる〟という考えを〝いい〟と思えた事が誠司には嬉しかった。


 それから数時間の間に、航介からヘルプの電話が二回かかってきた。内容はどちらも他愛のない事だったが、本人としては本当にその時に必要な事だったのだろう。どれだけ大変か、どれだけ切羽詰まっていたか、そしてどれだけ辛かったのか…それを必死に訴えても、実際に自分の目で見ない限り伝わらないというのはよくある話だ。ただ経験者にはちゃんと伝わる。春香もヘルプの内容から航介の状況を想像して、そのヘルプに答えていた。そして三回目の電話は最後まで掛かってこなかった。緊急用として残しておいたようで、航介もバカではなかったらしい。

 十八時になると、バーの準備のためママが下に降りてきた。喫茶店が終わる時間というのもあり、見張り役として一緒についていたサカズキと、今にも泣きそうな航介が蒼太を連れて店に戻ってきた。航介は春香の顔を見るなり安心したのか、春香に〝自分が悪かった〟と涙ながらに謝った。そして、週四日残業だと嘘をついていたことも自ら告白し、謝罪と共にこれからはちゃんと蒼太の面倒を見ると約束した。もちろんこれで終わったわけではなく、この後にはサカズキたちの〝教育〟が待っている。ただ蒼太がぐずり始めたため、夕食後にその話をしようということになった。

 ちなみに、この時に誰よりも早く反応して、ぐずる蒼太の対応にあたったのはママだった。オムツなのか眠いのか、暑いのか寒いのか…色々確認しつつ、航介の情報も聞き出したママは、お腹が空いたからだと結論づけた。航介が持ってきた荷物の中から粉ミルクや哺乳瓶などを取り出すと、あっという間にミルクを作り慣れた手つきでミルクを与え始めた。

「すごい…」

 一連の流れを見ていた和希が、関心と驚きの声を漏らした。

「何十年も前のことなのに、体は覚えてるものねぇ」

 自分でも驚きながらも、どこか嬉しそうだ。

「ママは子供の面倒見るのが好きだったもんね。ママさん言ってたよー。夜中の授乳も絶対起きてきてミルクを与えてたって」

「そうなんですか!?」

 絢音の情報に和希が驚いた。

「母乳を与えられる奥さんが羨ましかったのよ。他の育児ができても、男である以上それだけは無理でしょう? だから家にいる時は、絶対に私がミルクを与えたいって思ってね」

「でも、ママさんはそれがすごく助かったって言ってたよ。休みの日は離乳食も作ってくれたし、ご飯を食べる時だって子供に食べさせてくれたから、ゆっくりとご飯を食べることができたって。普通は家にいても外食しても、母親はゆっくりとご飯も食べられないもの。あ、あとあれね。帰省中のママの行動──」

「あー、それはオレも聞いたな。家族揃って親父の実家に行った時は、親父が動いてお袋がゆっくり座ってられたって」

「そうそう。正月なんか特にさ、どっちの実家に行っても女の人が動くのが当たり前で、男の人はお尻に根っこが生えてんのかっていうくらい動かないからね。お酌してもらって飲んで、持ってきてもらったものを食べて、満足したらお皿のひとつも片付けずに寝る。正月にゆっくりできるのは男の人だけだって事にすら気付いてないのよ。そんな時代にさ──まぁ、今もほとんどがそうだけど──ママは、自分の実家に帰った時は自分が動いてたんだよね。それって、すごい事だと思わない?」

 そう和希に投げかければ、

「は、はい、すごいです…!」

 ──と大きく頷いたから、絢音も満足げににっこりとした。

「それ聞いた時さ、私、ママは理想の夫で理想の父親だなぁ…って思ったんだよねー」

「あら、嬉しいわね。好きでやってただけなのに、そんな風に言ってもらえて…。でも共働きが増えて色々と変わってきた今の時代に、男の人の意識が変わってないのを見ると、前に絢ちゃんが言ってた事もありうるのかも…って思っちゃう時があるわ」

「早瀬さんが言ってた事…?」

 和希がママと絢音を交互に見ながら聞いた。答えたのはママだ。

「女の人が働いて自立できたら、負担の増える結婚にメリットを感じなくなる。仕事して家事もして育児もして、更に夫を支えて…なんて大変な思いをするくらいなら、結婚なんかしなくていい。夫はいらないけど子供が欲しいってなったら、精子バンクから優れた精子を提供してもらえばいいってね。少子化問題もあるし、将来そういうのがビジネス化される可能性だってなきにしもあらずだ…って」

「そ、それは嫌です…そんな─…」

(好きな人が〝結婚なんかしなくていい〟って思ってしまう将来なんて─…)

 ──と、さすがに言葉にはできず黙ってしまったが、素直に口をついて出た〝嫌です〟という反応には、絢音も誠司もママも思わず笑ってしまった。

「大丈夫だ、心配すんな」

「そうよ〜。たとえそれが現実になっても、川上くんなら結婚できるから、安心しなさいな」

「え、いや、あの──」

「私の話に腹を立てるどころか、素直に納得して聞けてる時点で有望株よ。保証する。川上くんは、絶対に良き夫、良き父親になれる。だから、結婚したいと思う人ができたら自信持ってアピールしてみて」

 〝絶対に上手くいくから〟という目を向けられ、しかもそれを絢音に言われてなんと返せばいいのか…。誠司とママが自分の反応を楽しんでいるというのも見て取れて、和希は半ばヤケクソになって答えた。

「分かりました。その時は全力でアピールするので、ちゃんと見ててくださいよ」

「オーケー、分かった」

 ──と流れで言ったものの、直後〝ん? 見届け人?〟と首を傾げた。もちろん和希は聞こえないフリをして、誠司とママは小さく笑っている。それでも再度質問されても困るため、和希は敢えて話を変える事にした。

「…でも、ようやく少し分かった気がします」

「…ん?」

「制裁が楽しみだって言った理由」

「そう?」

「航介さん、お昼に来た時とはまるで別人で─…こんなにも人って変わるんですね。それに、春香さんも何かが吹っ切れたみたいに笑顔になったし…」

「でしょー」

「これから良くなるんじゃないかって思える変化が見られると、次の制裁でもそういう二人が見られるんじゃないかって──」

「あー、そこまでいくか…」

「え…? そこまでって…え、違うんですか?」

「んー…違わないけど、行き過ぎっていうか、綺麗すぎかな」

「綺麗すぎ…?」

「まぁ、そこが川上くんのいいところだけどね。でも私的には最初に言った通り、〝どこまで変わるか〟が楽しみでさ。もっと言うと、〝オレが間違ってた〟って反省する姿を見られるのが楽しみだからねー」

「えぇ! そうなんですか!?」

「だから、今めちゃくちゃ悔しくて…」

「悔し─…え、何がですか?」

 〝楽しみ〟という本当の理由があまりにも予想外で驚いたが、〝だから〟に続いた言葉には繋がりが見出せず思考が止まった。すると絢音が片肘をカウンターに付き手の平に顎を乗せると、空を見つめて言った。

「やっぱり〝ざまあ〟って言いたかったなー…って」

「ざまぁ─…」

 繰り返した言葉が誰に対するものかはすぐに分かり、誠司と和希は吹き出すように笑ったのだった。


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