7 制裁 <3>
「おー! 航介、待ってたぞー」
「え、なんでサカさんが来てんの? 仕事は?」
この時間に夜のメンバーがいるとは思わなかった航介は、荷物をカウンターの椅子に置きながらサカズキに言った。しかも〝待ってたぞ〟と言った笑顔に、若干の違和感を感じたのが気になる。
「来んのはオレだけじゃないぞ。みんなお前のカミさんと子供を見たくて、この日を楽しみにしてたんだからな」
そう言って〝見てみろ〟と親指をクイっと誠司に向けると、ちょうど携帯からメッセージを送ったと、その画面を見せられた。
「えー…そうなんだ。──あ、じゃぁ、紹介します」
航介がドア付近で立ち止まっている赤ちゃんを抱いた女性を呼び寄せると、絢音たちも一斉に立ち上がった。
「えーっと…オレの妻の春香と、息子の蒼太です」
「初めまして…」
春香は軽く頭を下げ、次いで抱っこしている蒼太の顔を見せるように、少し向きを変えた。その顔が見えるや否や、椿は〝あー、可愛い〜〟と吸い寄せられるように近付いていった。
「初めまして、私は椿です。ちょっと、抱っこさせてもらってもいいですか?」
「え? あ…はい、どうぞ…」
初めての人に預けるのは心配だが、航介がよく知っている人なら…と戸惑いながらも椿に蒼太を渡した。
「わぁ、小さ〜い。──あ、みんなもちゃんと自己紹介してね」
蒼太のあまりの可愛さに、椿はそう言うや否や座り心地のいいテーブル席に移動した。それを機に、それぞれが順番に挨拶を始めた。
「オレは誠司。ここのマスターです」
「私は従業員の夏帆です」
「私は絢音。子供の頃から、ずーっとここに通ってる常連客です」
「僕は早瀬さん─…に紹介されて最近常連客になった和希です」
和希は〝早瀬さん〟というところで絢音に手を向けた。
「オレは商店街で〝酒好き屋の盃〟っていう酒屋をやってて─…みんなからはサカズキとかサカさんって呼ばれてます」
「みなさん、初めまして。いつも主人がお世話になっています…」
「いやいやもう、そんな堅苦しい挨拶は無しにして、ほら座ろうや」
椿が座っているテーブル席をサカズキが勧めると、そのタイミングで誠司からメッセージを受けた他の常連客が団体客のように店にやってきた。まるでどこかで待機していたかのように。その数、なんと九人。そこからはまた軽い自己紹介が繰り返されたのだが、その間に夏帆が扉に〝貸切〟という札を掛けていた。その光景を驚くように見ていたのは和希だった。夜に集まる常連客がわざわざ…とも思うが、さっきの話からするとその九人は全員、絢音の制裁を受けた人たちという事になる。しかも航介に奥さんと赤ちゃんを連れてくるよう言った当の本人は、特に二人に関わろうとするわけでもなく、いつもの席でまったりとこの光景を眺めているだけなのだ。
「…早瀬さんはいいんですか?」
「なにが?」
「奥さんと赤ちゃんに会いたかったんですよね? 椿さんみたいに赤ちゃんを抱っこするとか──」
「あー、もう十分よ」
「え…?」
「前に言っただろ、目的は〝二人を連れてくる事〟だって」
絢音同様、カウンターの中から様子を見ていた誠司がその会話に参加した。
「もっと正確に言えば、ただの口実だ」
「口実─…つまり、制裁を課すための口実…って事ですか?」
絢音と誠司が頷いた。
「えー…なんか怖いんですけど…」
「どうして? 全然怖くないわよ」
「いやだって…サカさん〝泣きそうだった〟って─…」
「それは制裁を受けた本人だからよ。川上くんが怖がる必要はないって。むしろ第三者の私たちは、コウちゃんがどこまで変わるか楽しみでしかないんだから」
「どこまで…」
そう言われても楽しみだと思えないのは、やはり何をするか分からないからだろう。制裁の目的が意識改革だとしても、逆に意識が変わるくらいの制裁って─…と思うと、それ以上は何も聞けなかった。
「じゃぁ…誠司くん、二十分後ね。それまでに蒼太くんに動きがあったら、即決行で」
「了解」
そう返事すると、誠司は携帯のタイマーをセットした。
「あ、あと、あれ言っといてくれた?」
「〝家事全般、何もしてくるな〟だろ? バッチリだ」
「さすが」
絢音は満足げに頷いて再び紅茶に口を付けたが、ふとここで和希のコーヒーカップが空になっている事に気が付いた。
「川上くん、コーヒーのお代わりは?」
「え…あー…いえ…。でも、お茶が欲しいです、温かい緑茶が…」
「緑茶? なに、ひょっとして心落ち着かせたくなったとか…?」
「はい、まぁ…」
その返事に、絢音と誠司はクスッと笑った。
「分かった、緑茶な。ちょっと待ってろ」
そう言うと、誠司はカウンターの奥に消えていった。
「お茶と言えばさ…」
絢音は、待っている間に思い出した雑学を話す事にした。
「川上くん、プーアル茶って知ってる?」
「プーアル茶…あぁ、中国茶ですよね。一時期、ダイエットにいいとかでブームになった…」
「そう。そのプーアル茶と烏龍茶と緑茶と紅茶ってさ、共通点があるんだけど、何か分かる?」
「え、共通点? 共通点があるんですか?」
絢音がゆっくりと頷いた。
「えー、共通点…共通点─…国は違うし、色も味も違う…。美味しい飲み方のお湯の温度も違いますよね」
「違うねー」
「発祥したのが、実は全部中国だったとか…?」
絢音が首を振った。
「…ですよね。え、なんだろ…」
和希は考えるように腕を組んで天井を見上げた。
「全て〝茶〟が付くとか─…」
それらしい答えが思い浮かばず、とりあえず共通しているもの…と呟けば、絢音がフッと笑った。
「それ、小学生の低学年の子が言うやつ」
「いや…だって全然分からないから─…ってか、何かヒントはないんですか?」
「ヒント? んー、ヒントかぁ…。ヒント言うと、すぐ分かっちゃうんだよねー…」
今度は絢音が天井を見上げた。その直後、誠司がお茶を持ってカウンター内に戻ってきた。
「どうした、なんか天井にいいもんでもあんのか?」
和希の前にお茶を置いた誠司が、わざとらしく上を向いた。和希は軽く頭を下げてから答える。
「ヒントがないかと思って…」
「ヒント?」
「誠司さんは知ってます? プーアル茶と烏龍茶と緑茶と紅茶の共通点って」
「共通点─…あぁ、茶っ葉だろ?」
「え? 茶っ葉!?」
当然のように答えた誠司に、和希と絢音が別の意味で驚いた。
「誠司くん、知ってたの!?」
「あぁ、絢ねぇが言ってたからな」
「うそ…いつ?」
「ずいぶん前だぞ。紅茶飲んで仕事した翌日、ここで朝飯食ったあと寝ちまって…。その時に寝言で言ってたのを聞いた。〝衝撃だった〟って言ってたからよっぽどだったんだろ。それが本当かどうか、オレも気になって調べたら、発酵だか製造方法だかが違うだけで同じ葉っぱから作られてるって」
「えー…知らなかった…。驚きです、全部同じ葉っぱから作られてたなんて…」
「まさか寝言でバレてたとは…もったいない…」
「なんだよ、もったいないって?」
〝意味が分からん〟と誠司が笑った。
「せっかく得た知識なのに、無駄に披露してたなんてさー…」
「ハハ、そういうことか。でも和希の反応を見れば、それで十分じゃないか?」
暗に〝見てみろよ〟と促せば、
「はい。驚きました、ほんとに」
──と、和希が小さく何度も頷いた。〝ほんとに〟と言わなくても、それがわざとではなく本気でそう思っているというのが伝わってくるから、絢音はなんだか胸がほっこりした。
「ま、いっか。──じゃぁ、冷めないうちにプーアル茶でも烏龍茶でも紅茶でもある緑茶をどうぞ」
「ややこしいです、それ」
絢音の言葉に、和希は思わず笑ってツッコんだ。
「でも間違ってはないでしょ」
「そうですけど」
「たださ、その時に分かったんだよねー」
「何がですか?」
「お茶や紅茶は好きなのに、ハーブティーが苦手な理由」
「ハーブティー…あぁ、ひょっとして葉っぱが違うから、ですか?」
「そう」
「いやいや、絢ねぇの場合それだけじゃないだろ」
「ほかに何かある?」
「香りだな」
「香り?」
「紅茶でもハーブ系のものは飲まないし、何より柔軟剤の匂いに敏感だろ」
「あー、確かに」
「前に一度、いつもの柔軟剤が切れて違う柔軟剤を使ったら、めちゃくちゃ酷評されたし」
「そうなんですか?」
「だって、すっごくキツかったのよ。いやもう、キツイを通り越して臭かった。飲食店であれはないわ。隣にいたら、柔軟剤を食べてるみたいなんだもの」
「そんなに…?」
「まぁ、確かにあれはキツかったけどな。けど、最近の柔軟剤は多いぞ、ああいう香りのキツイやつ」
「そうなんだよねー。わざわざ香りを付けるビーズまで発売されてさ。〝一週間ずっと香りが続く〟って、こっちからしたら〝何やってくれてんのよ!〟って感じよ」
「確かに、最近は〝香害〟の問題も出てきましたもんね。香水がキツイっていうのは昔から聞かれてたけど、最近は柔軟剤の香りが電車の中でも溢れてるし─…」
「でしょ? 前にさ、小学生のお子さんがいるお母さんが言ってたの。給食当番の白衣を持って帰ってくるんだけど、白衣に給食の匂いが一切しないって。一週間、使ってよ? 匂うのは柔軟剤とか香りのビーズの匂いだけなんだって。それもどうかと思わない?」
「あぁ! そういえば、僕の小学校の時もそういう白衣がありました! 僕の前に使っていた人の柔軟剤がすごくキツくて、うわ…って思った記憶が──」
「それよ、それ。そりゃさ、職業によってはそういう香りが続く方が良い時もあるんだろうけど、今の柔軟剤はやりすぎだと思うんだよねー。ずっと嗅いでると慣れて分からなくなるっていうし、製品を作ってる人って嗅覚おかしくなってんじゃない?」
そんな会話をしているうちに、和希はふと自分の事が心配になった。
「僕は…? 柔軟剤がキツかったりしてませんか?」
慣れて分からなくなってるだけで、絢音に嫌な思いをさせてないかと服の匂いを嗅ぐ仕草をした和希。同時に、絢音が和希の腕に顔を近付けたから、和希の胸がドキリと大きな音を立てた。
「うん、大丈夫、全然キツくない。──ってか、むしろ爽やかで好きかも」
「え…そ、そうですか!? それは良かった…」
胸を撫で下ろしつつも、内心は絢音の行動に焦っていた。〝大丈夫〟と言って少し見上げる顔が近くて、ドキドキしていたのだ。
(しかも爽やかで好きって…いや、もちろん香りの事なのは分かってるけど──)
今度は違う思いで緊張した心を落ち着けようと、和希はようやくお茶を口にしたのだった。
そんな時、誠司がセットした携帯のタイマーが鳴った。その音に、みんなが一斉に反応する。
「さてと、始めようか」
誠司がアラームを切って、そう言った。
「…始めるって、何を?」
自分たち以外のみんなが無言で頷いたのを見て、航介が少し不安げに聞いた。もちろん、すぐには誰も答えない。代わりに口を開いたのは絢音だ。しかも、航介の質問に答えるためではない。
「春香ちゃん、持ってきた荷物の中に貴重品とか入ってる?」
「え…貴重品ですか? 財布と携帯が入ってますけど─…」
「そう。じゃぁ、それだけ出して自分で持っててもらえる?」
「え…?」
〝どうして?〟と聞くことさえすぐにできないでいると、夏帆がカウンター席に置いてあった荷物を春香のところに持ってきた。周りは無言の為、航介にどういうことなのかと視線を向けたが、彼も不思議な顔をしているからどうしようもない。春香はわけが分からなかったが、とりあえず財布と携帯だけ取り出すことにした。
「ほかに持っておきたいものとかは?」
「…大丈夫です。でもどうしてですか?」
春香がようやくその質問を口にした。
「その荷物、コウちゃんに持って帰ってもらうから」
「「え…?」」
航介と春香の声がシンクロした。
「え、絢ちゃん、どういう事? 荷物だけ持って帰れって事?」
「まさか。荷物と蒼太くんを連れて家に帰るに決まってるでしょ」
そう言うや否や、荷物を持った夏帆と蒼太を抱いた椿が近付いてきた。無言で近付いてくる圧はもちろん、周りが無言で見ている圧に押され、気が付くと航介も無言で蒼太と荷物を受け取っていた。
「や、え…どういう事?」
誰も何も言わない状況に、〝誰か説明を…〟と顔を左右に振りみんなを見たが、意味ありげな笑みしか返ってこない。
「え、なに、怖いんだけど─…絢ちゃん──」
「簡単に説明するからよく聞いててよ、いい?」
「き、聞くけど──」
「まず、今からコウちゃんは家に帰って蒼太くんの世話をする」
「蒼太の…?」
「そう。世話をしている間に、掃除、洗濯、食器の片付け…その他諸々の〝家事〟を済ます」
「は…!? え…!?」
「春香ちゃんにヘルプの電話をしていいのは三回まで。オムツがどこにあるのかとか、泣いた時はどうすればいいのかとか、ヘルプ内容は何でもいいけど、三回使い切ったところで携帯の電源は切るから、使い方は考える事ね」
「いや、ちょ、ちょっと待って絢ちゃん──」
「まぁ、黙って聞いとけって」
思考が追いつかずストップをかけたが、隣にいるサカズキに止められた。絢音が続ける。
「親に助けを求めて色々と聞くのはいいけど、家に来て手伝ってもらうのはなしね」
「えぇ…!?」
「それと…何かが必要なら買いに行くのは自由だから、好きに出かけていいわよ。説明としてはこれくらいね。──じゃ、どうぞお帰りください」
そう言うと、絢音は手を店のドアの方へ向けた。
「え、ちょっと待って…オレ一人!? オレ一人で蒼太の面倒と家の事すんの!?」
「そうよ。何か問題でも?」
「いや、だってミルクの温度とか作り方とか分かんないし──」
「そんなの自分の手元に解決策があるでしょ。どうせ普段から暇つぶしのゲームか好みのネットニュースを見てるだけなんだから、こういう時に有意義な調べ物でもしなさいって」
「や、でも──」
「あー、もう! ゴチャゴチャうるさい!」
「───── !」
突然の強い口調に、航介の背筋がビッと伸びた。
「いい? 育児はね、生まれた直後から始まるの。何も知らないからって、生まれてから調べてたら遅いのよ。母親が生まれてから育児ができるのは、子供ができたって分かってから生まれるまでの間に、色んなところから情報を得て勉強してるからよ。それでも毎日手探りで、分からないことがたくさん出てくるの。春香ちゃんが育児雑誌を見てる時、コウちゃんは何してた? 父親になるために、父親として育児をするために勉強したの?」
「それは─…」
「幸い、今はネットで調べれば何でも分かるから。良かったわね、昔じゃなくて。──じゃ、そういう事だから頑張って」
絢音はニッコリと微笑んで手を振った。
航介は、謝ってこの状況が覆るなら…と思い口を開きかけたが、これはもう何を言ってもダメだ…というのが分かり口を閉じた。そのタイミングで、サカズキが背中を押した。航介の足は不安と後悔が入り混じってなかなか動かない。サカズキは更に背中を押して一緒に歩き出すと、〝じゃ、行ってくるよ〟と無言で片手を上げ、航介と一緒に店を出て行ったのだった。
店を出た二人の姿が見えなくなると、さっきまで静まり返っていた店内にみんなの声が戻った。
「見たか、航介の顔?」
「お前の顔と一緒だったぞ」
「いや、お前も同じだっただろ」
「この後の事を想像すると、俺は自分の事を思い出して冷や汗が出る」
「オレもだ。今でさえ当たり前にできる事だけど─…正直、制裁の時は泣きそうどころか、実際泣いたからな」
「お前もか! 実は俺も泣いた」
航介の心境とは真逆で楽しそうに話し出す男たちを見て、春香はもう、何がなんだか分からなくなった。しかも、話しながら当然のように店内のテーブルと椅子を動かしている。中心にテーブルを集めていくと、それはもう会議でもするかのような配置だ。椅子を並べ終わった頃、絢音が春香に声をかけた。
「ごめんね、ビックリしたでしょ」
「あ…はい…。でも、これっていったいどういう事なんですか…?」
「んー…簡潔に言うと─…」
言いながら、絢音は春香の背中に手を当てて、〝とりあえず座ろうか〟と促した。春香が戸惑いながら椅子の腰を下ろすと、絢音がその隣に座ってから続けた。
「──コウちゃんに対する制裁と教育ね」
「制裁と…教育…?」
誠司と夏帆以外のみんなが当然のように座り始める様子を気にしながら、絢音の言葉を繰り返した。和希は自分もその中に入っていいものか迷っていたが、誠司に促されて絢音の隣に座った。
「あ、そうだ。飲み物は何がいい?」
「え? あ─…えっと…じゃぁ、温かい紅茶を…」
「分かった。誠司くん、紅茶ふたつ。アイスとホットで」
「了解ー」
誠司の返事のあと、絢音は再び春香に説明を始めた。
「今現在進行形なのが制裁で、教育はそのあと─…サカさんと、ここにいる人たちが担当なの」
「はぁ…」
そう言われても、やはりピンとこない返事だった。
「春香ちゃんさ、コウちゃんに対して不満はない?」
「え…?」
「例えば、ミルクをあげたことがないとか、オムツの交換はオシッコの時だけしかしないとか、家に帰ってくるのが遅いとか、帰ってきたと思ったらため息を吐かれるとか、それから──」
「ど、どうして分かるんですか…!?」
制裁や教育が目的だったとして、どうして初めて会う自分までここに呼ばれたのか、そもそもそこが分からなかった。けれど、〝例えば──〟と言われた事があまりにもその通りだったため、一瞬にしてどうでも良くなってしまった。
「分かるんだよねー、典型的だから」
「典型…的…?」
「そっ。父親なのに父親という自覚がない男。面倒くさい事は全部母親任せ。その上、子供ができたら家の事ができていないって文句だけ一丁前に言う男。しかも、そう言う男に限って〝オレ、子供好きなんだ〟って結婚前から言ってんのよ」
「そう! そうなんです!! 航ちゃん、結婚前は〝オレは子供好きだから三人でも四人でも欲しい〟って言ってたんです。だから、育児も一緒にやってくれると思ってたのに全然で─…。家の事もしなきゃ…って思ってるけど、一日中、蒼太の面倒を見てたらなかなかできないんですよね…。夕ご飯も作れてないと、〝またか…〟みたいに溜息吐かれるし─…。最近は、好きだったはずの航ちゃんに対して腹が立ってしょうがないんです。そんな自分も心が狭いみたいで嫌になって─…」
「──だと思った。だから、ここに来てもらったの。その考えを全否定するために。でも良かった、混合で」
「…え?」
「完母だったら、コウちゃんに制裁できないじゃない? 完ミや混合の良さは、誰にでもできるって事だし」
「でも本来なら完母の方が──」
「いいの、いいの、そんなの。そりゃ、経済的には完母が一番だし、免疫の移行や母親が乳ガンになるリスクを下げられるっていう利点はあるよ? でも完ミでだってちゃんと子供は育つし、何より母親がストレスなくいられる事が重要だと思うんだよね。だからそこにこだわる必要はなし。誰かに何か言われたら〝ちゃんと育ってますけど、何か?〟って言ってやればいいのよ。それでも愛情が…とか何とか言ってくるなら、〝私の愛情はそれだけじゃないので〟って言えばいい」
初めて聞く〝返し〟が考えた事もなかった言葉で、少し驚いたように目を丸くした。──が、頭の中でその言葉を繰り返した直後、クスリと笑ってしまった。
「いいですね、それ」
「でしょー? 考え方ひとつで、そういうストレスはなくすことができるからね。ただなくせないのは、〝父親〟がストレスの原因だった時よ。厄介な事に、これが一番多いの」
「〝父親としての自覚と夫としての自立ができてない〟だったよな?」
口を挟んだのは、ケーキ屋〝かすみ〟の店主である篠崎だった。
「さすが、篠さん。ちゃんと覚えてたんだ?」
「もちろんさ。制裁の後、真っ先に言われたのはその言葉だったからな。しかもあの時の絢ちゃんのオレを蔑むような目と言ったら─…しばらく夢に出てきたくらいだ」
「蔑むような…じゃなくて、実際、蔑んでたからね、あの時は」
「かーっ! やっぱそうだったかー」
「でも、今は蔑んでないよ。立派な父親で夫だと思ってるから」
「そうか? ハハ、絢ちゃんに言ってもらえると〝合格〟って言われたみたいで嬉しいな」
「奥さんから言われたら本物ね」
「そりゃそうだ」
「あ、あのー…」
テーブルや椅子を動かしている時に聞こえてきた会話は──気にはなっていたが──正直、何の事だかさっぱり分からなかった。でも少し説明を受けて冷静になった今、二人の会話を聞いてようやく繋がりのようなものが見えた気がした。それを春香が確かめるように聞いた。
「制裁の後って事は─…篠崎さんも制裁や教育を受けたって事ですか…?」
「あぁ。最初はサカさん、次にオレ。でもそれだけじゃないよ。ここにいるのはみんな、絢ちゃんの制裁を受けた連中ばっかだ」
「え…みなさん、全員…!?」
他にも何人かいるとは思ったが、まさか全員とは…。
信じられない…という思いでテーブルを囲む男性陣の顔を見渡していると、ちょうど和希のところで視線が止まったため、絢音が軽く手を振った。
「あ、彼は違うのよ」
「え、そうなんですか…?」
「今日はちょっと情報収集に…と思ってね」
「情報収集…?」
「……ん? どういう事?」
春香が繰り返すのと同じタイミングで、和希も心の中で繰り返した。──が、さっぱり分からず思わず声に出していた。
「〝主婦の愚痴は聞いておけ〟って事だよ。なぁ、絢ちゃん」
答えたのは米屋の店主、米田だった。ちなみに彼は、篠崎の次に制裁を受けた男だ。
「主婦の愚痴…が情報収集…?」
それでもいまいち意味が分からないと首を傾げる和希に、絢音が説明を加えた。
「主婦の愚痴って、たいてい旦那さんに対するものじゃない?」
「あー…まぁ、そうですね…」
「その愚痴を〝また言ってる〟とか〝愚痴ばっかだな〟って軽くスルーしてる男の人は多いけど、自分の奥さんも、自分に対して同じ事を思ってるとは考えないんだよね。だから自分とは無関係だと思ってる。そういう人が、定年退職した途端、〝離婚して欲しい〟とか言われたりするのよ」
「えぇ! そこに行き着くんですか!?」
「行くよー。愚痴を吐き出して〝あー、スッキリした〟って言えてるうちはまだいいけど、だからって、旦那に対する不満が消えるわけじゃない。家に帰れば、また同じ不満が募ってくるんだから。それが溜まりに溜まってくると、どこかでふと思うのよ。〝あぁ、いつ離婚してもいいように準備しておこう〟って」
「えー…」
「だから、主婦の愚痴は聞いた方がいいんだ」
夏帆が篠崎からの差し入れだとケーキを配り始めた時、飲み物を持ってきた誠司が言った。
「その愚痴と反対の事をすれば、〝最高の彼氏・旦那〟になるだろ?」
「あぁ…!」
ようやく〝主婦の愚痴を聞く〟理由が分かり、和希は驚くように声を上げた。
「そ、そういう情報収集─…」
「そういう事。今日は、まだまだ情報が出てくるからねー。それを頭に入れておけば、誠司くんみたいに〝合格〟がもらえるかも。──まぁ、相手の有無は別としてね」
「だからほっとけって。──でもまぁ、好きな人に嫌われないための情報だ。よーく、聞いておいたほいがいいぞ」
〝特に、お前の場合はな〟と、誠司は心の中で付け足した。
(好きな人に嫌われないため…それはつまり、早瀬さんに嫌われないため──)
「嫌われないためっていうより、和希くんの場合は〝より好きになってもらえる〟だと思うけどなぁ。──そう思わない、絢姉さん?」
和希の考えている事が分かった椿が、敢えてそう絢音に振れば、
「そうね。今のところ川上くんのマイナス要素ってないし、みんなに好かれてるものね」
──と、これまた純粋に思った事を口にした。
「ほ、ほんとですか!?」
「うん、ほんと、ほんと」
絢音にとって深い意味はなかったが、和希は〝みんな〟の中に絢音も入っていると思えて嬉しくなった。
「が、頑張ります! 今日の情報収集!」
和希の言葉に〝うん〟と頷く絢音を見て、
(なんで気付かないかなー)
──と思うのは椿だけではなかった。
絢音は、再び春香に向き直った。
「ここにいる人たちはみんな、春香ちゃんの味方だから。遠慮なくコウちゃんの不満をぶちまけてみて。川上くんの情報収集のためにも、ね」
最初に〝不満はない?〟と聞かれた時は、正直、こんなにも男性がいるところで言えるわけないと思った。でも話を聞いた今は、素直に聞いてもらいたいと思えた。