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1  十年前の出会い

 昔から花や木の自然が多かったという理由で〝花弥木(はなやぎ)町〟という名がついたこの町は、その名残を受けて花や木の名前がつけられた店が多く残っている。そんな店が立ち並ぶ花弥木商店街は縦に長く横に短い十字形をしていて、その中心はイベントができるように円形になっていた。そこから北に向かうと、東西を走る通りの向こうに花弥木駅の表口がある。

 〝和食亭 楓〟はその表口から西に行って、少し広めの交差点の角にあった。

 五十代の夫婦と数人の従業員で営む店内はさほど広くはなく、カウンターに七人と座敷には四人用のテーブルが五台置いてある程度だ。それでも時折、座敷では少人数~中人数での飲み会や宴会なども行われ、その時は座敷のテーブルをくっつけたり、間仕切りを利用したりしていた。

 五月の最後の週末、その日は座敷全てを使った新人歓迎会が開かれていた。カウンターと座敷を仕切る引き戸も設置されていたため、中の様子を知る事はできない。ただカウンターで揚げ出し豆腐を食べていた早瀬絢音は、聞こえてくる上司と思われる言葉の数々に我慢の限界を感じていた。

 数ヶ月前の出来事で生きる気力も失っていた絢音が、ようやく気持ちの整理を始めようと閉じこもっていた部屋から出たのは二週間ほど前。店の雰囲気と夫婦の人柄が良いと知りここに来たものの、よりによって座敷の方から聞こえてくる言葉が吐き気を催すほどのものとは…。

 〝女は、うまいお茶を入れられるようになるのが最初の仕事だ〟

 〝コップがカラになったら直ぐ注ぎにこい〟

 〝上司が注いだ酒は残すな〟

 〝面白いことやってみろ〟

 ──等々。それに対して返ってくるのは、〝はい〟〝すみません〟〝いただきます〟〝頑張ります〟という言葉ばかりだった。

 絢音の苛立ちをグラフに表せば、この店に来てからずっと右肩上がりだ。そんな時、〝すみません、もうこれ以上は…〟と断る声が聞こえた。〝よく言った〟と思うと同時に〝問題はこの後の言葉だ〟と引き戸の向こうに耳をすませば、ある意味予想を裏切らない定番の言葉が返ってきた。

 〝俺の酒が飲めないってか?〟

 その一言に、絢音は我慢の限界を超えた。思わずその場で立ち上がると、ちょうどそのタイミングで引き戸が開いて上司とおぼしき男性が見えた。その上司の視線の先には、お酒がなみなみと入ったコップに手をかけたまま俯いている男性の後ろ姿が見える。

 気が付くと、絢音は座敷に乗り込んで上司の目の前のテーブルに両手を叩き付けていた。一斉に静まり返る店内。座敷内はもちろん、カウンターの客の視線も全て絢音に向けられている。けれど、絢音にとってそれはどうでもいい事だった。

「最悪…」

「は?」

 ボソリと言ったため聞き取れなかったのだろうが、絢音は気にする事なく男性が手を掛けていたコップを奪い取った。そして一気に飲み干し空になったコップを〝ダンッ!〟とテーブルに置くと、上司をキッと睨みつけた。

「最悪ね、あんた」

「は!? な、なんだお前は──」

「今時〝上司の酒が飲めないのか〟とか〝お茶汲みは女の仕事だ〟とか…ここだけ時空が歪んでのかってくらい吐き気がするわ!」

 男の言葉を遮ってそう言うと、あっけに取られる上司から、今度はそれ以外の人たちに視線を向けて言った。

「いい? これは普通じゃない。こういうものだと受け入れるものでもない。こんなパワハラ・モラハラ上等な会社に、未来は愚か人生の貴重な一秒すら費やす価値もないわ! 今の状況が少しでも苦痛だと思うなら、その正常な感覚があるうちにとっとと辞めなさい! ──じゃないと、将来ここに座るのはあなた達よ!」

 暗に〝これが未来の自分の姿だ〟と上司を指差せば、当然の事ながら怒りをあらわにした。

「お…前─…さっきから聞いてれば何なんだ! 女のくせに知ったふうな口を──」

「うるさい! 黙れっ!!」

 上司の怒りより、絢音の怒りの方が遥かに強い。

 絢音は上司の胸ぐらを掴むと、力一杯、壁に押し当てた。怒りと悔しさで視界は滲み、喉の奥が詰まりそうになる。それでも何とか大きく息を吸うと、

「あんたみたいなのが…! あんたみたいなのがいるから──」

 ──とその後の言葉を絞り出そうとした時だった。絢音の背後から聞き覚えのある着信音が聞こえ、途端に遠くにあった周りの音がグッと近付いたように聞こえてきた。我に返ったと言うほどでもないが、怒りのせいで遮断されていた雑音が戻った感じだ。

 絢音は上司の胸ぐらから両手を離すと、ズボンの後ろのポケットから携帯を取り出し画面を見た。そこには〝誠司くん〟という名前が表示されている。絢音は声に表れそうな気持ちを抑えるため、一度目を閉じ深呼吸をしてから電話に出た。

「はい…」

『絢ねぇ、今どこにいる? まだ〝楓〟にいるのか?』

「…うん、でももう帰る。悪いけど、途中まで迎えにきてくれない?」

『あぁ、分かった』

「じゃ、あとで…」

 短い会話のあと電話を切った絢音は、やるせない気持ちのまま立ち上がり座敷から出て行った。店内は未だ誰も喋らず、聞こえてくるのは食べる食器の僅かにこすれる音くらいだ。胸ぐらを掴まれていた上司でさえ、その姿を目で追うだけだった。

「すみません、お会計をお願いします」

 絢音は上着のポケットから財布を出し、カウンター内で立っていた店主の奥さんに声を掛けた。奥さんはハッとしてカウンター内に置いてある注文票を手に取ったが、一瞬の間があってすぐ元の場所に戻した。そして絢音に近付いて言った。

「お代は結構ですよ」

「え…?」

「私たちもずっと気になっていたんです、彼の言動が。でも立場上、口を挟みにくくて……だから、あなたが強く言ってくれて助かりました」

「でも雰囲気も悪くしてしまったし、ご迷惑も──」

「あんたじゃないさ」

 言いかけた言葉を遮って聞こえたのは、カウンターの方からだった。思わずそちらを見れば、カウンターの真ん中ほどで日本酒を飲んでいた白髪の男性だった。そして更に言った。

「雰囲気が悪かったのは最初からだ。あんたのせいじゃない。正直、俺たちの時代じゃ、ああ言うのは当たり前だった。けど、時代は変わった。最初こそ〝何がパワハラだ、モラハラだ〟って思ってたけど、今は〝異常だった〟って分かるよ。あんたの言う通り、〝こういうもんだ〟と受け入れるもんじゃない。正常な感覚があるうちに辞めるのが正解だ」

「そうそう」

 今度は手前の男性が頷き続けた。

「受け入れた結果、俺たちは正常な感覚も失われたからな。そんな奴らが上司の会社なんて、そうそう変わるもんじゃない。未来ある若者は、とっとと辞めて次に行った方が賢明だ。まともな会社なんて他に山ほどあるからなぁ」

「そういう事。俺たちも新人の時にあんたに会いたかったよ。──あぁ、そうだ、こうしよう。いい演説を聞けたお礼って事で、あんたの分は俺が払うよ」

「おぉ、いいね! じゃぁ、俺もそれに乗った。奥さん、彼女のお代は俺たちにつけてくれ」

「オレも乗った!」

「私も! 同じ女性として勇気をもらったから」

 この静寂の中、カウンターに座っていた人たち全員が絢音に味方した瞬間だった。

 絢音はまた、喉の奥から込み上げてくるもので苦しくなってきた。目の前が滲んでくると、奥さんがそっと絢音の腕に手を添えた。

「そういう事よ。だから、お代は結構です。あなたのおかげで、みんな救われたから。みんなの〝ありがとう〟を受け取ってちょいだい、ね?」

 それは優しい、とても優しい言葉だった。絢音は小さく頷くと、カウンターのみんなに向かって深々と頭を下げてから、静かに店を出て行った。

 夜の十時を過ぎて人通りの少なくなった歩道を、絢音はゆっくりと歩き始めた。人の優しさに触れた涙はなかなか止まらず、何度も拭うたびに五月の乾いた風に当たって頬がひんやりとする。それは火照った体にはとても心地良く感じ、心踊るように体もユラユラと揺れているようだった。

(何だか地面もフワフワするし─…)

 それはそれで歩きにくい…と思っていると、滲んだ視界に遠くの方から走ってくる人が見えた。それが誠司だと分かったのは、ちょうど交差点を渡り終えたところだった。

「おぉー、早いねー」

そう言って手を上げれば更に体がフラついた。

「お…とっと─…」

 何とかバランスを取ろうと傾いた方に足を動かしたが、どうも力が入らない。あと少しで転ぶ…というタイミングで、誠司が絢音の体をガシッと支えた。

「あっぶねぇ…」

「そんなに…走ってこなくても良かったのに…」

「いやいや、今のは走ってきて正解だろ。──ってか、飲んだのか!?」

「んー、勢いでねー」

「何をどんだけ?」

「知らない…。なんか、茶色い液体をコップ一杯…」

「茶色いって─…」

 美味しいお酒も言い方一つでこうも不味そうに聞こえるとは…。

「あー、まぁいいや。とにかく背中に乗れ。おぶってってやるから」

「だーいじょうぶだって、ちゃんと一人で──」

「そんなにフラついてて歩けるわけないだろ。──ってか、今はちゃんとしなくていい。オレたちを頼れって!」

 その目を見れば、命令というよりは〝お願い〟だと、酔っている絢音でも分かる事だった。

(優しいなぁ、誠司くんは…)

 既に泣いている事も分かっているのに、敢えてそこには触れてこない。〝何があった?〟とか〝泣いてんのか?〟と聞かれたら、きっと〝別に〟と言って涙を止めようとするのを分かっているからだ。何も言わない、何も触れない……だからこそ、絢音は素直に涙を流せていた。

(ほんと、優しい…)

 絢音は少し微笑むと、思いっきり涙を拭った。

「よーし! じゃぁ、誠司くんは馬ねー」

「は? 馬…?」

「──で、私は武士!」

「武─…?」

「はい、しゃがんでー」

「お、おぉ?」

 何が何だか分からないが、後ろに回られ〝しゃがんで〟と言われたら、それはもうなすがままにしゃがむしかなく…。それでもおぶる事には変わりがないので、誠司はその場でしゃがんだ。絢音がその背中に覆い被さると、誠司もまた〝よいせっ〟と立ち上がった。

「我が愛馬よ、颯爽と行け!」

 絢音は右手を斜め上に突き上げた。

「へいへい、そういう〝馬〟ね」

(どうせ〝騎馬戦〟でも頭によぎったんだろうな)

 酔っ払いの思考回路は〝夢〟並みに理解できないことばかりだと、誠司もおかしくなって笑ってしまった。颯爽とまではいかないが、それなりに歩き出す。

「──にしても何で武士なんだよ?」

「だって…馬って言ったら武士でしょ」

「姫もあるんじゃないのか?」

「姫…? あー…確かに姫もあるか…。でも、姫は足開いて乗らないからなー」

「ハハ、確かに」

 納得して笑ったところで、絢音は大きく息を吐いた。

「あー…くるし…」

「それだけ呼吸が早けりゃな」

「こんなに苦しくなるのに、何でお酒好きな人って多いのかなー」

「そもそも、お酒が好きなやつは苦しくならない。むしろ、飲みすぎなければ気持ちよくなるだけだ。絢ねぇはアルコールが体に合わないから苦しくなるんだよ」

「なにそれ、不公平ー」

「何だよ不公平って…」

 その発想に、誠司は思わず笑ってしまった。

「だってさー、コーヒーとは違うじゃない?」

「コーヒー?」

「そー。あれは味が苦手だから…飲みたいって思わないし、飲めなくても全然へーきー…。でもお酒はさー…アルコールの度数が高くなければ…ジュースみたいに美味しいやつとか…あるじゃない…」

「まぁ、それはな…」

「ああいうさ…美味しいと思うのに…飲んだら苦しくなるから飲めないって…それはやっぱり不公平でしょー…」

「つまり、絢ねぇも酒が飲みたいってことか?」

「んー…苦しくならなければね…」

「だったらノンアルでいいんじゃないか? 飲んでる気分は味わえるぞ?」

「それは…ただのジュース…コーヒーと一緒…」

「ソフトドリンクって事か…」

「…ってかさ…コーヒーも…甘くしたら飲めるけど……別に…そこまでして飲みたいって…思わない…し……お酒もさ…ノンアルにしてまで…飲みたいとか─……」

 声がだんだんと小さくなって途切れる回数が増えたかと思ったら、最後まで言い終わらないうちに、絢音の頭がコテンと誠司の首元に落ちた。

「絢ねぇ?」

「……………」

「おい…?」

「……………」

 体を上下に揺らしたが、耳元で聞こえてきたのは絢音の静かな寝息だけだった。

(マジか…寝ちまいやがった…。──にしても、一体何を飲んだんだ…?)

 泣いていた事も気になったが、それと同じくらい気になったのは、何を飲んだか分からない事だ。それはつまり、自分で頼んだものではないという事だからだ。

(泣いて、勢いで、誰かが頼んだ酒…)

 全く状況が分からない故に、

(やっぱり、兄貴でも付き添わせた方が良かったか…)

 ──とも思ったが、

(けど、これは絢ねぇにとって大事な時間だからなぁ…)

 ──と思うのもまた本音で…。

 誠司は小さく息を吐き出すと、兎にも角にも見守るしかないと言い聞かせ、自分の家へと向かった。

 翌日、当然のことながらお酒の弱い絢音が目を覚ました時には、店で何があったかというのは綺麗さっぱり忘れられていたが──


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