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big human



 大学生活が人生のピークだった。それ以降は、そもそもピークになる機会にさえ恵まれない。コレからずっとこの会社で働くのかな、と思った。想像すると、もう楽しむ機会さえ無さそうだと絶望した。



 クーラーの冷風が涼しい。クーラーは窓際なので、俺はその位置から一番遠い。部屋を覆って流れてくるまでに冷気は室温に分配され、ひんやりと俺の肌を撫でた。とてもいい席位置だった。



 俺はエクセルのツールが使えないので、一つ一つデータを打ち込んでいく必要がある。パソコンを一番動かしているのは俺だったが、一番作業が遅いのも俺だった。今もブーンとファンが熱を出しながら鳴っている。


 入社して一ヶ月経ったのに、いい加減な仕事ばかりする俺に先輩たちは呆れていた。階段から上がってすぐ側のドアから、配属された課のオフィスに入室できる。ドアから一番近いデスクに俺は座ることになっており、ドア付近にタイムカード機が設置されていた。


 まだ無能と知られていない頃は、先輩も「そんなに早くタイムカード切りたいのか〜?w」と茶化して笑ってくれた。今では皮肉にしかならないので、先輩は業務連絡とため息しか口にしない。


 タイピングが遅いから、顧客のデータをまとめられない。要領が悪いのでツールを使えずに効率も悪化する。最初は焦っていたが一ヶ月も慌てていると疲れてきて、憔悴する気力さえ失われていた。最近はクーラーの冷風に当たって脂汗が乾燥するので、自分は全く焦っていないのではないかと錯覚するくらいだった。


 うちの電化製品を発案するのが企画課、市場や店に出向いて売り込むのが営業課、お客様の声を聞いて会社全体の方針を決めるのが総務課。この三課で会社のほとんどが成り立っていると言っていい。


 俺は総務課で働いているが、もう既に転課申請を出したい。まだ呆れずに根気よくサポートしてくれる先輩が存在したから、その人に報いたい気持ちもあった。だが恩に報いたいと思う以上に、段々と通勤時の足が重くなっていた。



 どんなに涼しくて良い環境に身を置いても、自分の実力が上下することはない。このオフィスで一番の適温環境にある俺が好例だった。始業二時間が経過しているのに、昨日やるべきタスクをようやく終えた。先輩に指示されたものだったから、先輩に届ける必要があった。


 俺はデスクを立って、先輩の席へ向かった。俺が立つのは珍しいので、オフィスの興味が集まるのを感じた。チラ見したり、耳を澄ませていたりと、意識が向けられていた。


「あの、先輩。できました」


 一階にはドリンクバーがある。そこではコーヒーやジュースが自由に飲める。先輩は紙コップに注いだコーヒーをデスクのコースターに乗せていた。


 うちのコーヒーは匂いが強いことで有名で、オフィスに持っていく人は限られる。気遣いの出来ない人か、それでも優秀だから許されている人。俺がコーヒーを飲もうとしたら「仕事できないのに、コーヒー飲もうとしてる」と笑われてしまう。


「ん。社内メールから俺に繋いでもらえればいいから。別に直接言わなくて大丈夫だよ」


 先輩は送ったデータを上から順番に確認していった。俺はざっと目を通すだけで五分はかかるのに、この人は二分もあれば読み込む。


「よくできてんじゃん。いいね」


「ありがとうござ


「あれ? ここの変数おかしくね?」


 先輩が指を刺したデータは、他社の製品と比べた全体平均のデータだった。それぞれの顧客に割り振るものだった。


「まあいっか。ミスあるある」


 俺は脂汗をかいた。クーラーの冷気で乾燥していた速度を超えて、じっとりと汗腺が分泌を始めた。オフィスの注目がどんどん集まってくる。


「………え、マジか。ツール使ってないの?」


 ツールを使っていれば一括で変更できる。俺は教えられたのに忘れていたから、手入力で澄ませていた。


「うわあ、打ち直しだよコレ」


 先輩はため息をついた。今週何度目かわからない。なんでこんなに俺は無能なんだろう。情けなくて泣きそうだった。


「すみません。編集します」


「いやいいよ」


「……俺は何をすればいいですか」


「は…? 自分で探してよ」


 じっと俯いた。無意識に謝る姿勢をとっていた。目の表面に張った涙が、視界を歪めていた。腰を曲げて先輩に謝ろうとした。


「すみませ


「謝って楽になろうって? 保身が上手だね。てか謝る時間があると思ってんのかよ。贅沢だな」

 

 そう言って先輩は俺の謝罪をさえぎった。ついに泣いてしまった。涙を頬に流しながら、やりきれない気持ちで自分のデスクに戻った。


 俺のデスクの二つ右のデスクには、同期の杉崎がいる。杉崎は仕事の飲み込みが早く、色々な先輩から気に入られていた。俺とは真逆の評価を下されていた。


 俺が泣いているとき彼はトイレに行っていて、すれ違うようにして互いの自分の席に戻った。俺は座って、杉崎のことを見ていた。



 トイレから戻った彼は、自分の席に座ろうとして、その動きを止めた。そして隣にいる女性社員を見ていた。その人は俺の右隣のデスクで仕事をしていた。俺と杉崎で挟まれている位置だった。


 杉崎は女性社員に近づいて何かを話しているようだった。俺は耳を傾けてそれを盗み聞いた。


「寒いっすか? …………はい。………おっけ、俺も寒いと思ってたんだよね」


 杉崎はそう言うと、オフィス全員が聞き取れるようにして話した。


「すいません! 寒いんでクーラーの温度下げていいですか?」


「早くも中年太りか? 杉崎?ww」


 先輩が茶々を入れて、みんなが笑った。


「やめてくださいよ。課長と一緒なんてえ」


「なんだとっ」


 課長もノリに乗って、みんなを笑わせた。笑っていないのは俺だけだった。感じたことのない惨めさが、俺の首を締め上げていた。まるで溺れているようだった。


 杉崎は課長の隣にあるクーラーのコントローラーまで歩いて、手に取ると温度を上げた。そして自分の席に戻って、女性社員と目を合わせて笑った。


 杉崎の気遣いは正しかった。俺が涼しいと思っていたのに対して、女性社員の彼女は寒がっていた。杉崎に気遣いで負けたことの惨めさよりも、隣にいたのに気づけなかった自分の失望感の方が強かった。


 大学生活が人生のピークだった。それ以降は、そもそもピークになる機会にさえ恵まれない。コレからずっとこの会社で働くのかな、と思った。想像すると、もう苦しいばかりで息ができなかった。絶望だった。自分への失望感で死にたくなった。



 それから一時間ほど時間が経ち、チャイムが鳴って昼休憩に入った。バックアップを済ませてパソコンをシャットダウンさせた。先輩は半休で帰るらしかった。これもコーヒーと同じで、俺が半休を使えば「仕事できないのに、半休使って帰ろうとしてる」と笑われる。


 俺はフラフラになりながらトイレに向かった。吐きそうだった。その前に水分が欲しい。喉が渇いている。自動販売機へと歩いた。自動販売機の前にはベンチがあり、そのベンチには杉崎と、さっきの女性社員が座っていた。


「さっきはありがとう」


「いや全然っすよ」


 女性社員は杉崎とアイスを食べていた。


「美味しい! 私やっぱりチョコミントが好き」


 大学生活が人生のピークだった。それ以降は、そもそもピークになる機会にさえ恵まれない。コレからずっとこの会社で働くのかな、と思った。俺は大学生活でピークを終えたんだなと改めて自覚した。


「あ〜私人生で今が一番幸せ!」


 安すぎでしょと笑う杉崎の笑顔が、脳に張り付いて離れなかった。


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