第八話 蛇に睨まれたカエル
「お待たせしました」
「時間ピッタリですよ」
そう言って笑う夏菜はやっぱり可愛い。そして思った通り、彼女の横に立っているお姉さんはものすごい美人だ。というかあれ、この人どこかで見たような気がするぞ。
「春香?」
「た、竹内さん?」
「え?」
俺についてきた竹内が驚いた声を上げると、夏菜のお姉さんもびっくりしていた。そうだこの人、前にちらっとだけ見た竹内の彼女だ。同じビルに入っているとはいえ、別会社の彼女とはほとんど顔を合わせることがないから忘れていたよ。
「もしかしてお姉ちゃんの彼氏さんですか? 初めまして。妹の夏菜です」
いや、呑気に挨拶なんかしてる場合じゃないって。
「春香が会わなきゃいけない人って、池之内さんのことだったの?」
「あ、ではそちらが夏菜を助けて下さった?」
「助けたなんて大袈裟なもんじゃないですけど、池之内です」
「亮太さんです」
夏菜、改めてファーストネームで紹介しなくていいから。
「竹内さんが来た時にはびっくりしました。もしかして妹を助けたのが竹内さんだったのかと」
「あ、いや、俺は池之内さんと一緒に退社してたまたま……」
「ではお二人は同じオフィスの?」
ここでまたお姉さんが驚いている。
「ええ、まあ」
「もっとも池之内さんは今週いっぱいで辞めちゃうんだけどね」
「えっ!」
竹内め、余計なことをベラベラと。お陰で夏菜が俺の方を睨みつけているじゃないか。
「ま、まあこんなところで立ち話もなんだし、店に入ろうか」
「あ、亮太さん、もう少し待って下さい。それと後でお話しがあります」
小声で言われた後でお話しというのは、きっとラインで責められることに違いない。
「うん? どうしたの?」
「実は……」
「私からお話しします」
夏菜が急にばつが悪そうになって口ごもっていると、お姉さんが引き取って話し始める。
「実は先ほど、今日は妹と会って少し寄り道をして帰るから心配しないようにと連絡を入れましたら理由を聞かれてしまって。仕方なく池之内さんのことを父に話したのですが、それは父親としてお礼をしなければならない重要事項だと申しまして。間もなくこちらに迎えにくるのです」
「は? き、聞いてないし……」
「ごめんなさい。気を遣わせてしまうからいいって言ったんですけど、お父さんそういうことにはうるさくて」
夏菜が姉に続けて申し訳なさそうに言う。てか迎えにくるってどういうことよ。普通にこの場に来るのとは違うのかな。
「ま、そういうことなら俺は帰りますね」
竹内がさりげなくこの場から逃げ出そうとしている。むろんそんなことを俺が許すはずはない。さっきの仕返しだ。俺も少しは楽しませてもらおうじゃないか。
「何言ってるんだよ竹内、彼女のお父さんに挨拶するいい機会じゃないか」
「そうですね。紹介したいので竹内さんもぜひ父に会って下さい」
「ちょ、池之内さん! 何余計なこと言ってくれてるんですか!」
言うと竹内が俺を引っ張って、彼女たちと距離を取ってから小声で話しだす。
「彼女の家がどんな家か知ってるでしょう?」
「うん? まあすげえ金持ちってことくらいはな」
「寝ぼけないで下さいよ。あのビルに入っている彼女の会社、一条グループだってこと忘れたんですか?」
そうか、思い出したよ。竹内の彼女はあの会社の社長令嬢だった。そしてその会社こそがいくつもの企業を傘下に収める一条グループだったのである。
ということはつまり、夏菜もその社長の娘なわけで。
「な、夏菜さん?」
「はい? どうしました?」
「お、お父様にはやっぱりどうしても会わないといけないのかな」
「何でですか?」
「いや、あの……きっとお忙しい方だろうし……」
「そのような心配はして頂かなくて結構」
突然耳に入ってきた重厚感のある声の方に目を向けると、夏菜とお姉さんの後ろに物凄く高級そうなスーツを着た初老の男性が立っていた。そしてさらにその背後には、いつの間にか長さが乗用車の二倍近くある黒塗りのリムジンが停まっている。
「お初にお目にかかる。君が娘の恩人の池之内亮太さんだね?」
「は、はい!」
「そちらの方は?」
一条父は俺の横で青くなっている竹内に目を向けていた。
「この方は私がお付き合いさせて頂いている竹内さんです」
「は、はる……一条さん?」
思わずお姉さんを下の名前で呼び捨てしそうになって、慌てて竹内は言い直していたが――
「春香の?」
父親は娘の彼氏と知って鋭い視線を彼に向ける。竹内はすでに、蛇に睨まれたカエルのように縮こまっていた。
「お父様、竹内さんもご一緒にお招きしたいのですが」
「構わんよ。皆乗りなさい」
ちょっと待った。あの言い方だと俺が本命で竹内はついでみたいだけど、一体どこにお招きされるっていうのさ。すぐそこにスタボだってありますよ。
だがそんな心の声が届くはずもなく、俺たちは言われるがままリムジンに乗り込むしかなかった。