ヒキオニ
ユキはひとりぼっちです。
ずうっとひとりぼっちです。
そしてずうっと旅を続けています。
旅を始めたのは一体いつだったのか、なぜひとりで旅をしているのか、そもそもどこへ行くつもりだったのか、ユキにはもうわかりません。
わかりませんが、この先のどこかにきっと、自分を待ってくれている人がいる……そんな気がしてならないので、ユキは旅を続けています。
今日もユキは、風に背中を押されるようにして歩いていました。
背中を押している風がからだの中をふきぬけてゆくような気がしたころ、海辺の小さな町にたどり着きました。
大人も子供ものんびり暮らしている、のどかな田舎の漁師町でした。
たどり着いた時、長い夏の日は暮れかけていました。ひぐらしの声が響いています。
すぐにどろりと蒸し暑い夜が始まるでしょう。
今夜のねぐらを探そうと、ユキは、町のせまい路地を歩いていました。
幾重にも折れた路地を抜けた先に、ちょっとした空き地がありました。
とりどりの浴衣を着た子供たちと、甚平姿のはげたおじいさんが、夕涼みがてら花火をして遊んでいるようでした。お祖父さんと孫、そして孫の友だちが集まっているのでしょうか、甲高い笑い声が響いてきます。楽しそうな様子にひかれ、ユキは思わず立ち止まりました。
花火の後、子供たちはおじいさんとならんで床几にすわり、スイカを食べながら言いました。
「じいちゃん、こわい話してよ」
「こわい話、こわい話!かっぱの話!」
「かっぱの、すもとろすもとろ、の話がいい」
口々にねだる子供たちの声に、鶴のようにやせたおじいさんはスイカの種をはきだしてカラカラ笑います。
「なんじゃ、お前ら。よっぽどかっぱの話が好きなんじゃのう。知ってる話を何回も聞いておもしろいのか?」
おもしろいよ、と言い合う子供たちを黙らせるように、おじいさんはバタバタと胸元でうちわを鳴らし、そうかそうかと言ってすわり直しました。
「これは……じいちゃんがお前らくらいのころに、じいちゃんのじいちゃんから聞いた話だ」
低めた声でおじいさんは話し始めます。子供たちは目をかがやかせ、かたずを飲んでお祖父さんを見つめます。ユキも思わず引き込まれ、耳をそばだてました。
これは……じいちゃんがお前らくらいのころ、じいちゃんのじいちゃんから聞いた話だ。
じいちゃんのじいちゃんがまだ若い衆だったころ、村に腕のいい船大工がいた。仮に、ゲンさん、とでもしておこうか。
ゲンさんは腕がいいので、自分の村だけでなく隣の村、そのまた隣の村からも船を作ってくれと言う人がたくさん来た。腕が良くて働き者のゲンさんは、毎日遅くまでせっせと働いておった。
ある日、ゲンさんは小さな船の修理を頼まれた。
浜に引き上げた船をさかさまにして、トンカントンカン、なおしておった。
早くなおしてやらんと漁に出られん、律義なゲンさんはそう思い、遅くまで浜で槌をふるっておった。
ようやく終わったころには、月も高くなっておった。すっかりくたびれたゲンさんは、道具を片付けた後に船の陰で一服しておった。
と。
トンカントンカン。
背中の方からいい音がする。
ゲンさんは驚いた。こんないい音が出せる職人はなかなかの腕前のはず。しかしこの辺りにそんな職人などいない。少なくとも、自分以外に船大工はいない。思いつつ、ゲンさんは立ち上がってそっと裏へまわってみた。
いない。誰も。
月明りがこうこうと、なおったばかりの船底を照らしている、だけ。
空耳だろうかとゲンさんは首をひねり、元の場所へ戻ってすわると、もう一度たばこに火をつけた。
と。
トンカントンカン。
背中の方からやっぱりいい音がする。
ゲンさんは立ち上がり、あわてて音のする方へ走っていった。
いない。誰も。
やっぱり月明かりがこうこうと、なおったばかりの船底を照らしている、だけ。
ゲンさんはぞおっとした。
これはいかん、きつねかたぬきか、はたまたかっぱか、とにかく良からぬモノが悪さをしかけておる。思い、ゲンさんは道具を抱えてあわてて家へ帰った。
いつの間にか月は雲の陰に入っておって、道は真っ暗だ。
昔なので夜道は暗い、今とは比べものにならないほど暗い。
その中をゲンさんは、ちょうちんの灯りだけを頼りに急いで進む。
と。
後ろで何やら気配がする。
ひたひたひた、と湿ったような足音が響いてくる。
何やらぶつぶつ、つぶやいておるようでもある。
ゲンさんは耳をすます。
と。
すもとろ、すもとろ、すもとろ、すもとろ……念仏のようにそうつぶやいとる低い声が聞こえてくるのだ。
ゲンさんは血の気が引いた。かっぱだ。
かっぱはすもうを取るのが好きだと昔から言われておる。
もし誘いに乗り、こちらが勝てばいいものの、負けたら川へ引きずり込まれる。
引きずり込まれれば当然、命はない。だからかっぱとすもうは取るな。
昔から言われておるいましめを思い出し、ゲンさんは必死になって進んだ。
何も聞こえない、何も気付かない、そんなふりをして急ぎに急ぐ。
すもとろ、すもとろ、すもとろ、すもとろ……ひたひたひたと足音は追いかけてくる。
ゲンさんは心臓が破れるほど走り、命からがら、なんとか無事に家へ帰りついたのだ……とか。
ほおっと子供たちは息をつきました。
一緒に聞いていたユキも、ほおっと息をつきました。
おじいさんはとても話が上手でした。
特に『トンカントンカン』だの『ひたひたひた』だの『すもとろ、すもとろ……』だのを上手に声を変えて語るので、自分がゲンさんになって暗い夜道を歩いているような気分になるのでした。
その時です。
何を思ったのか、おじいさんはふとユキの方へ視線を向けました。目が合った瞬間、おじいさんはなぜかきつく眉を寄せ、さっとユキから目をそらしました。
目をそらし、なにごともなかったようにバタバタとうちわを鳴らすと、おじいさんは子供たちを見渡しました。
「ま、こんな風にかっぱは悪さをしよるが、よっぽどでなけりゃ命まで取られはせん。それよりももっとこわいモノが、世の中にはおるんじゃよ」
「なに?」
おびえたように問う子供たちへ、おじいさんは難しい顔で
「ヒキオニじゃ」
と答えました。
「ヒキオニ、ユキオニとも呼ばれる、人の魂を曳いて連れてゆくさびしい鬼のことでな……」
バタバタとうちわで胸元をあおぎ、おじいさんはゆっくりと語り始めました。
これもじいちゃんのじいちゃんから聞いた話だ。
じいちゃんのじいちゃんがお前らくらいのころ、近所にタミさんというおかみさんがおった。
タミさんは子供のころから、ちょっと変わったモンにちょっかいをかけられやすい人でな。きつねにもたぬきにもかっぱにも、タミさんは何度も会ったんだそうだ。
しかしな。
そんなタミさんの言うには、きつねやたぬきやかっぱなら大してこわくない、たいていはいたずらがしたいだけで、命まで取る気はないから、とな。
だがヒキオニは違う。
ヒキオニに魅入られたら逃げるのは難しい。
あれはさびしいさびしい鬼で、飢えたように誰かそばにいてほしいと望んでいる。優しそうな人間を見つけると、ヒキオニは必死になってその人に絡みつくのだそうだ。しかし悲しいかなヒキオニは鬼、絡みついた人間から生気を吸いつくしてしまい、あっという間にとり殺してしまう。
だから結局ヒキオニは、いつまでもひとりきり、いつまでもさびしいままだと言われている。恐ろしくも可哀相な鬼だな。
ユキはなぜか、ぎくりとからだがゆれました。
おじいさんはもう一度、バタバタと強くうちわを鳴らしました。
タミさんも一度だけ、ヒキオニに魅入られかけたことがある。
その年、まだ乳飲み子だったタミさんの子が、流行り病にやられて死んでしまったのだそうだ。
タミさんの子だけじゃなく、大人も子供も年よりも、その年の流行り病にやられた。昔のことだからろくに医者もいないし、いい薬もない。病が流行ると死人が多く出た。タミさんだけが不幸だった訳じゃないが、子供を亡くしたタミさんは当然、がっくりしておった。
それでも、いつまでも泣いてはいられない。
タミさんは涙をふいて、いつも通りの暮らしに戻った。
ある日の夕方のことだった。
夜更けに漁へ出る旦那の為にと、タミさんは晩飯を作り始めた。
夕日が西の空を、血のような暗い赤に染めておったそうだ。
かまどで飯を炊き、汁を作り、さて干物くらい焼くかと軒先に七輪を出した時。
タミさんは、誰かに呼ばれたような気がして顔を上げた。
その途端、すさまじい力で片腕をひっぱられた。
来て。来て。いっしょに来て。
そんな声が風のまにまに聞こえてくる。
悲しそうな子供の声だったので、タミさんはちょっとだけ、可哀相に思ってしまった。死んだ自分の子のことを思い出してしまったのだろうな。
すると、今度はすさまじい力で両脚をひっぱられた。思わず尻もちをついたタミさんは、同情は禁物だと思い知り、必死でそばの戸板にしがみつき、ただただ念仏をとなえ続けた。
漁にそなえて奥で休んでいたタミさんの旦那が、なにやら様子がおかしいのに気付き、出てきた。勝手口にへたり込み、戸板にしがみついて念仏を唱えているタミさんに驚き、お前どうした、と声をかけた。
その途端、タミさんをひっぱっとったすさまじい力がうそのように消え果てた。
間一髪でタミさんは、なんとか助かったという。
子供たちは、しん、と黙ってしまいました。
ユキも黙ったまま、おじいさんの顔を見つめました。
さびしいさびしい鬼の話は、とても他人事とは思えません。
ユキは、タミさんを無理にひっぱろうとしたヒキオニの気持ちがわかるような気がしました。
もしかするとヒキオニは、タミさんをおかあさんのように思ったのかもしれません。
おかあさんのようなタミさんに、自分のそばにいて欲しかったのでしょう。たとえそれが、悪いことだとわかっていても。
おじいさんはしばらく、黙ってじっとうつむいていましたが、再びバタバタとうちわを鳴らし、こう続けました。
「ヒキオニは恐ろしい。どこにいるのかわからんし、いつどこへ来るのかもわからん。ヒキオニ自身に悪気はなくとも、近付けば必ず命を取られる。可哀相だと思っても、命が惜しいのならヒキオニに同情してはならんよ、お前たち」
子供たちに言い聞かせるようにそう言うと、おじいさんは不意に、強い目でひたっとユキを見つめました。そして子供たちを後ろに隠すように立ち上がり、深く静かに息を吸い込みました。
おじいさんの異様な気迫に、ユキは思わず後ずさりました。
「そこにもおる!」
裂帛の気を込めた一喝。
ユキは心の底から驚き、大急ぎで来た道を駆け戻りました。泣き叫ぶ子供たちの声が、後ろから追いかけてくるような気がしました。
駆けながらユキは、おじいさんの裂帛の叫びをくり返しなぞりました。
(そこにもおる、そこにもおる、そこにもおる、そこにもおる……)
おじいさんはこの言葉を、ユキへ向かって言ったのです。
どう考えてもそうとしか思えません。
(ぼくは……)
ヒキオニ?ヒキオニ、なのか?
まさか。
ぼくは誰も殺したりしていないし、殺したくもない。
ただただ、ぼくを待っていてくれる誰かに会いたいだけ。
それだけ。それだけ。それだけだってば!
「ぼくはヒキオニなんかじゃない。絶対絶対ヒキオニなんかじゃない」
一生懸命、ユキは自分に言い聞かせました。
では。
ユキは一体、何者なのでしょうか。
それは誰にもわかりません。
子供のころ、父から聞いた昔話を参考に作った話です。
もちろんフィクションですが、エピソードのあれこれは、漁村でよく語られるタイプの不思議話かもしれません。