2.与えられたモノ
父が私を、屋敷から追い払うよう、執事長に命じた日。
執事長は驚き、身支度に数日、と粘ってくれた。
だから即日ではなく、その翌々日までは、屋敷にいることができた。
私はその間、父と会わずに終わった。
一方の屋敷の皆だが、それぞれに複雑な心境の上で、それでも私への不遇に同情したようだ。
それまでは滅多に話しかけてこなかった者も含め、皆が私を尋ねてきて、くれぐれも変な人にはついていってはならない、などと、アドバイスを与えようとした。
家からは金銭も持たせてもらえないのでは、と皆はそれぞれ案じたため、金銭を渡してきた者も多い。
家政婦長などは、首から下げる袋まで作り、そこに大切なものをいれるように、と言いながら、町民にしてはちょっとした額の金をいれた状態で渡してきた。
なお私は、これでも貴族の家の娘だった。
だから、町で暮らすような知恵も知識も何も身についているはずが無かった。
貴族令嬢として受けるべき教育もろくに与えられていなかったと思うが。
執事長は特に私の事を案じていた。
屋敷を管理する責任者というだけではなく、執事長は、母に起こったこと、辿った道の時々に立ち会った人だからだろう。
ただし、執事長ですら、この屋敷で母が『アルフレッド様の妻』になったことに失望していたのを知っている。
執事長は、貴族令嬢こそが相応しいと、未練たらしく過去を思い出すところがあったからだ。
だが一方で、母が身を引こうとしていたことを、母本人に聞いて知っていた。執事長が母を、父の部屋に連れていった。執事長が振り返って懺悔のように言ったのには、母本人の言葉を聞かなければ、父は許可しないだろうと、当時察していたからだ。
ただ、まさか父が、そこまで母を、代えられないほど特別に思っていたとまでは、正しく把握できていなかった。そして、無理を押し通すような決断力と行動力を持つと知らなかった。他を不幸にして自らの幸福だけを掴みに行くほど、人に対して執着すると、思っていなかった。
つまり。執事長は、母の境遇に同情し、悔やんでもいた。
だから私について、他の人よりも、同情するのだろう。
まだ11歳の私が、屋敷の外で何も知らない状態で生きて行かなければならない。
私の不運を、執事長は私以上に案じて涙ぐみさえしていた。
当の私自身は、外の事を知らないせいで、ただ暗い気持ちでいるだけでだったが。
屋敷の者たちは、数日間、私のために動こうとした。私にとっては不思議だった。
ただ、彼らはすでに私について諦めていた。何を言っても無理だ、この子は転落するしかない、と。
執事長は家政婦長や皆と相談し、あまりにまとまった額になりすぎた皆からの援助の資金を没収し、代わりに同額になるように、私に品物を分けて与えた。
「お嬢様のような小さな娘がこのような金額を持っていては、一瞬でスリに奪われてしまいます」
家政婦長は言い聞かせた。
「これらの品を、決して人前で取り出してはいけません。衣服に、ポケットをたくさんつけました。このポケットに1つずつ。決して、多くを1つに入れてはいけません。お金に困った時にだけ、1つずつ売りなさい。お金に変えてもらえるのです。お金があれば、店で食べるものを買えるのです」
執事長はこう言った。
「私の弟の、娘夫婦が町に暮らしています。この手紙を渡して下さい。弟にも連絡を取っていますが、まだ向こうに手紙は届いていないはずです。アリシエ様の方が早く私の姪の家についてしまいます。・・・もし留守でも、家の前で待っていてください。夜には帰ってくるはずです。決して他の人についていってはいけません。分かりましたね」
執事長は、誰よりも具体的に私をなんとかしようとしていた。
この人が私の本当の父なら良かったのにと、私は思ったものだ。
***
父が命じてから、3日目の早朝。
私は、見送りに来てくれたものたちに礼をして、屋敷を去った。
早朝に出立したのは、夜までに確実に執事長の姪の家に行くためだ。夜の時間が遠ければ遠いほどよいという判断だった。
***
「アリシエお嬢様」
屋敷から、門から出て、たった数歩。
私は馬に乗っている男に声をかけられた。
私は見上げた。
「こっちに来て」
茶色の皮の手袋をはめた手が、私に伸ばされる。
これは誰だろうか。
きっと迎えだと私は思った。
知らない人についていっていけないと散々言い聞かせられた。
だが、私は、それまで屋敷の中でだけ暮らしていた世間知らずだ。
私が知らなくても、皆は私が誰かを知っていて、私に一応礼を取る。何かあれば呼びに来る。それが知らない顔でも、ついていけば確かに、例えば執事長が私を探している。そんな世界しか知らなかった。
だから私は、これも、きっと執事長が手配したのだと思ったのだ。
姪の家への道は覚えさせられた。だが、歩くのは大変だとも聞かされた。しかし馬車の手配など禁じられた、徒歩で向かっていただくしかない、と辛そうに。
きっと、馬ならばと、至急手配してくれたのだ。
「お嬢様に同情している人が、お嬢様に会いたがっている」
正直なところ、私は基本的に、相手の言葉を疑う事をしてこなかった。
特に疑うことはなく、その男の手を取ったのだ。
***
馬に引き上げられると、男はすぐに馬を走らせた。私を落とさないように抱きかかえながら。
私は、執事長たちに持たされた、使い古しのボロボロの鞄を落とさないように抱きかかえていた。これには着替えと、念のための食料が詰まっている。
男は無言で道を急ぎ、何度か道を曲がってから、急に止めた。
そこには馬車が停めてあった。
男は無言のまま、馬車から出てきた男に、私を渡した。
そして馬で、別の方向に急ぐように駆けていった。他の用でもあるのだろう。
そして、私はというと、馬車に乗るようにと無言の仕草で促された。
私は当たり前のように馬車に乗り込み、そこで、突然ガツンと衝撃を受けて意識を失った。
***
「・・・きたのかしら」
会話の途中で、ふと意識を取り戻した。
カツン、という足音が一歩聞こえた。
私はぼんやりとしていたが、
「起きろ」
と男の声で命じられた。
途端、不思議なほどに意識がスッキリとして目を開けた。
「立ち上がり、礼をしろ」
とまた命じられる。
私は言葉のままに立ち止ってから、部屋の中、一人優雅にソファーに座っている女性がいるのに目を留めた。
他の者は全て立っているのに、この人だけ座っていた。
そして、ドレスを着込み、黒いレースで顔を覆っていた。おかしなことにその下には目の周りを覆う仮面までつけている。口元は仮面に覆われていないが、扇を開いて、口元まで隠してしまった。
奇妙だ。
本の挿絵に出て来る魔物みたいに見えた。私はじっと見つめた。どうやら私は、相手を凝視するくせがあるらしい。
「礼をしろ!」
と焦ったような声が聞こえて、私はハッとした。
だが、執事長が私にいうならともかく、知らない声で礼をと言われても。
私は声のした方を振り返った。見知らぬ男がいた。男は私が振り返ったことに酷く驚き、慌てたようだった。
「まぁまぁ。堅苦しい事は良いわ。あなたの名前は、私はよく知っていてよ。アリシエ=デュ=フランテナンド」
この部屋にいる奇妙な女性が私に声をかけた。
私は少し不思議に体を揺らしてみせてから、名前を呼ばれたから礼ぐらい見せてやっても良いと思った。
「こんにちは。アリシエ=デュ=フランテナンドと申します。よろしくお願いいたします」
「まぁ」
と女性は馬鹿にしたような声を上げた。
それからクスクスと笑った。
「まぁまぁ、ご丁寧にありがとう。ところで、本題ですけれど、あなたのとても可哀想な身の上を知っているわ。浮気相手の間にできた子どもで、家を追い出されたのでしょう。あぁ、まだこんなに子どもなのに、なんと血の通わない、酷い事をするのでしょうね。私、同情して差し上げているのよ」
私は黙ったままでいた。
「まぁ、まぁまぁ。まさか私に警戒しているのかしら。安心して。私、正体は明かせないからこんな格好をしているだけよ。あなたの家はとても面倒な家ですもの。私が勝手に助けたなんてしれたら面倒でしょう?」
助けるという言葉に、私は首を傾げた。
女性は自分の言葉に、愉快になったようだった。
正体を隠したがっているようだが、どうやら家政婦長のように年のいった女のように声から思う。
「あなたを、本当のお父様のところに送り届けてあげましょう」
「え」
私は驚いた。一声だけだったが、女性は私が声を出したのにとても満足したようだ。
「そうよ」
少し身を乗り出すように、話しかけて来る。
「あなたの母親は、浮気をして、あなたを生んだの。私はね、あなたの本当の父親の居場所を知っているわ。だから連れていってあげましょう」
どうして居場所を知っているのだとか、そんな事は、この時の私にはまったく思いつかなかった。
女の言葉に動揺していた。
私は、屋敷にいる父は、本当の父では無いと思っていた。とはいえ、本当の父に会いたいかと言われると、考えた事も無かった。私は恐らく、とても淡白な性格なのだろう。
「ところで、あなた、衣服にたくさんモノを詰め込んできたのねぇ。屋敷から盗ってきたのかしら?」
話が変わって、私はキョトンとした。
「大したものは何も無くて。拍子抜けね。まぁ、全て無害のようですし、返して差し上げるわ」
何を言っているのだろう。
意味が掴めない私の前に、家政婦長が仕込んでくれた品物と、ボロボロの鞄が運ばれてきて目の前に置かれた。
私は驚いた。
勝手に全て調べられていたのだ。
私は一気に不信感を持った。
「勘違いするな、お前の身の安全を考えてのことだ」
と、後ろから男が言った。
私はギッと男を睨んだ。
ほほほ、と楽しそうに女性が笑う。
「仕方ないじゃありませんか。それに、私たちが一番で良かったでしょう。他の者なら、返してくれませんよ。つまり私たちは善人です」
「・・・」
私は難しい顔をした。こんな話題は私にはとても難しかった。
どうやら屋敷の外はとても複雑だと私は感じた。
「お前、感謝しろよ。どうせ碌な死に方しかしないところを、このように目をかけていただいたのだ」
と男は苛立つように言った。
また女性がくすくすと笑った。楽しそうに。
「あなたの父親はね。あの屋敷にいた、魔術師見習いだったの。あなたの母親と結婚の約束をしていた。なのに、あの屋敷のあのろくでもない男が、あなたの母親を無理やり娶ったのよ。可哀そうに。あなたの本当の父親はあなたの母親を取り返そうとしたのに、駄目だったの。でも、あなたが行ってやれば喜ぶでしょう。ちゃんと、父親を父と慕うのですよ」
などと、女性は言った。どこか命令のような口調だった。
「本当の父親に、目一杯可愛がってもらいなさい。あなたの死んだ母親の分もね」
コクリ、と私は頷いた。
そうか。本当の父親は、私を待っているのか、と思ったのだ。
「あら良い子」
と女性は嬉しそうに、少し首を傾げるような仕草をした。
「なんなら、この私を母と慕ってくれても良いのよ? あなたの味方は私だけ。ご褒美だってたくさんあげましょう」
「ご褒美?」
言葉を返すと、女性は驚いたようで動きを止め、少し黙った。
自分で言ったのにと奇妙に思ったが、じっと私は返事を待った。
女性は少し思案してから、女性の傍にいる男に声をかけた。
レースをつけて仮面の上に、口元も扇で覆っているから表情は全く分からない。何を言ったのかも分からない。
だけど、男がすぐに木箱をもってきた。
女性は慎重にその箱を開けた。
箱を開けた時に、光が揺らめいた。女性のレースが仮面に影を生み、まるで死神のようだと私は思った。
女性は慎重に一つを選び、やはり箱から小さなガラス容器も取り出して、自らスポイトで液体を分けた。
「これ。もう駄目だと思ったら、飲みなさい」
突き放したような、気分を害している口調だった。屋敷の父の態度にどこか似ている。苛ついているのかもしれない。
「薬ですか?」
「そうね。でも、あなたしか飲んではいけません。絶対に」
言外に、『黙れ』と言われたのが分かったのは、やはり屋敷の父に態度がよく似ていたからだろう。
小さな容器が、女性から男性に、男性から私にと渡ってきた。
眺める。どこかとろみのある金色の液体が入っている。
毒かもしれない、と私は思った。
毒というものを私が見抜けるわけもない。
ただ、母は毒で死んだのかもしれないと誰かが言ったから、それが頭に残っていただけだ。
私はそれを、大切にボロボロの鞄に入れた。
そして、出されてしまっている他の品物もギュウギュウと鞄に詰め込んだ。
人の見ている前だったが、家政婦長がしてくれたように、1つのポケットに1つの品を入れて戻した。
その間、誰もが無言で、私の様子を観察していた。




