1.アシリエという娘
私は、この世で一番の魔術師と呼ばれる男を父に、一方で、ただの町民であった女を母に、生まれた。
父は私が生まれた時、酷く悔しそうに泣きそうに顔をしかめたらしい。
決して、己の腕に私を抱こうとしなかった。
「私の子ではない」
と、父は私を見て呟き、私を見ようとしなくなった。
***
すぐに、私は乳母に預けられた。
母は私を手元に置いておきたがったそうだ。
けれど、父が、母の傍に私がいる事を許さなかった。母は父に従った。
父は母と常に一緒にいたがった。
母の部屋は、父の部屋の隣に作られ、直接廊下に出ることのできないよう、母の部屋の鍵が壊された。
その代わりに、父の部屋への扉が設けられた。
屋敷の者たちは、異常だと、心の中で恐れていた。
父は、母を軟禁していると。
一方、母は、父と結婚する前からそうしていたように、父の部屋に父といて、片付けをしていた。
ただ、結婚前と変わったのは、余程の必要が無ければ、母は決して他の者と顔を合わせず、父の部屋から以上は出てこない、というところ。
結婚前は、父の食事などを運ぶために、屋敷の中を自由に動いていたらしい母。
だが結婚後は、父自らが、廊下に置かれた食事を、合図を受けて取りに出る。父がそんな事をするほどに、父は母と他人との接触を嫌がっていた。
そこに生まれた娘である私は、聞き分けができる年齢になった3歳になるまで、親と会う機会がほぼ無かった。
母は、私に会いたい、抱きたい、と父に願い出ていたらしい。
だけど、父が許さなくて。母は父の意見に従った。
***
3歳になった時。
私は、執事長に連れられて、父の部屋に向かったのだ。
執事長は非常に礼儀に厳しかった。
「アリシエ様。良いですか。教えた通りに、礼をして、自分のお名前を、ちゃんと笑顔で言うのですよ」
「はぁい」
「そこは、『はい』と言った方が、褒めてもらえます。『はい』と言いましょう」
「はい」
「とても良いお返事です。素晴らしい」
執事長が褒めてくれるので、私は気を良くした。
ニコニコしながら、今まで近寄ってはいけないと廊下すら通らせてもらえなかった場所に、行ったのだ。
執事長が、扉をコンコンとノックした音を、覚えている。
「ディアスでございます。アリシエ様をお連れいたしました。きちんと成長しておいでです」
「入れ」
と誰かの声がした。
「失礼いたします」
カチャリ、と扉が開く。
見た事も入った事もない部屋に、私は興味を強く惹かれた。
中央に、背の低い人が立っていた。
向こうが窓で、そちらの方が明るくて、だからその人の顔はよく見えない。
私はよく見ようとじっと見つめた。
つまり、執事長が事前によくよく言い聞かせていた、『礼をして名乗って微笑んで見せる』ことをもうすっかり忘れてしまった。
じっとじっと見つめ合う。
その時、私の右側から、小さな可愛い声がした。
「アリシエ・・・?」
右側の扉の所に、小柄な女の人が立っていた。
「アリシエ・・・」
女の人は嬉しそうに私に両手を伸ばしながら歩んできたので、私はこの人は良い人だと思ってニコリと笑った。
そして、やっと執事長からの指令を思い出した。
私は、女の人に向かって礼を取ってみせた。
「アリシエともうします。どうぞよろしくおねがいします」
「まぁ」
女の人は驚いて足を止めてしまった。
驚いただけで、褒めてくれない。他の人なら、良くできましたと言ってくれるのに。
困って私は執事長の方を見上げた。
執事長は少しうろたえた様子に見えたが、事前の約束通り、私を褒めてくれた。
「上手にご挨拶ができました」
そして、どこか遠慮するように部屋の中の男女を見た。
「アリシエ」
どこかおずおずと女の人がまた呼びかける。
それから私の顔に手をのばした。怖くはなかったので、わたしは彼女をただ見つめた。
「私、お母さんよ。分かる?」
「おかあさま・・・」
事前に教えられていた単語だった。
屋敷の中には誰も『おかあさま』ではなかったので、私はやっと見つけたと思った。気持ちはそのまま言葉になった。
「こんなところにいたの」
途端、母だという女が私を抱きしめた。ぎゅううっと。
「ありがとう、ありがとうアルフレッド様。ディアス、連れてきてくださってありがとうございます。これから、一緒に暮らしましょう、アリシエ」
話が、私にはよくわからなかった。
今思えば、執事長は、どのようなことがあっても良いように、つまり、父が拒否反応を示し、自分は親では無いと言い放ち、私の退出を即座に命じる可能性などを考え、私には具体的なことを何も教えないままに、顔合わせをさせたのだろう。
だから。
これから一緒に暮らそうと言われても分からなかった。
そもそも、すでにこの屋敷で暮らしているのだから、余計に不思議だ。
「・・・おかあさまが、遊んでくれるの?」
と私は理解しようとして、尋ねた。
「・・・ご本は、好き?」
と母は尋ねた。
「あんまり好きじゃないわ」
と私は答えた。
私は、室内よりも、庭でイヌと遊ぶ方が好きだった。
フッと、鼻息が聞こえた。見れば、部屋の中央にいる男が、私たちから目を逸らしていた。
あれは誰なのか。
「おかあさまなら、おとうさま?」
と私は尋ねた。
当時の私の中で、『お父様』と『お母様』はセットになる単語であった。
おかあさまが現れたのなら、もう片方がおとうさまかなと、と安直に思っただけだ。
「知らない。お前は、私の子ではない。父ではない」
「ふぅん・・・」
その時、男はどこか床の方を睨むようにしていた。
「私の邪魔をするな。決して騒ぐな。そうすれば、いることは許してやる」
男はそういって、完全に私に背を向けるようにした。そして椅子に深く座り、本を読みだす。
「ディアス。下がっていろ」
「はい」
「えっ、ディアス・・・」
馴染みの執事長が一人で部屋を出ていくので、私は酷く不安に襲われた。
「大丈夫よ。お母さんと一緒に、過ごしましょうね」
涙さえ浮かべて、とても優しく声をかけてもらったので、私は不安を和らげて、おかあさまに、
「はい」
と返事をした。
こうして。
私は父と母のいる部屋に通う事になった。
とはいえ、どこかで、退出を父に命じられる。
扉を出て廊下に出る。
そして私は、乳母たちのところに戻り、安心して今日の出来事を報告してから、眠るのだ。
***
私が成長するにつれ、私は誰が父で、誰が母かをきちんと理解できるようになった。
ただし、父は父ではない可能性が高かった。
だが、母は、同じ部屋にいるあの男こそが父だと私に言い聞かせた。
結局、分からない。
とはいえ、魔術師の父が、自分は父では無いと明言するから、屋敷のものたちは、父は父では無いのだろうと思っていたようだった。
***
父の部屋に行った時には、基本的には大人しく母の傍に座っていなければならない。
それが時々、週に何度か、父の部屋からのみ行ける母の部屋にて、母と2人でお昼寝をすることになった。
きっと、大人しく座っている私が退屈に欠伸をしたりするので、母なりに色々と考え、父に一生懸命許可を求めたのだろう。
そして、母はそのお昼寝のための時間、私と2人きりの状態で、いろんな話を私から聞きたがった。
とはいえ父は魔術師だ。きっと、会話のすべてを父は聞いていただろう。
だが私は子どもだったので、そんな事には気づかない。素直に疑問があれば母に尋ねた。
どうして、お外に出ないの。
どうして、本ばかり読むの。
お母様は、閉じ込められているって本当?
みんな、お母様が可哀想っていうよ。そうなの?
「私は、お父様の傍にいるのが一番幸せだから、ずっとこのお部屋にいるのよ」
「閉じ込められているのではないわ。お父様が、私をちゃんと守ってくれるの」
「そう。みんな、そんな風に、話しているのね・・・」
辛そうな顔をするので、私がジッと見上げると、母は気づいて私に笑いかけてくれた。
「アリシエ。あなたのお父様は、アルフレッド様よ。きっと、絶対、そうなの。だって」
話しながら、急に母がくしゃりと泣きそうになった。私は酷く驚いた。
すぐに足音がした。
身を起こしてみれば、隣の部屋から、父がツカツカと歩み寄って来ていて、すぐに母にたどり着いた。
「エレナ」
聞いたこともない、切羽詰まった声だと思った。
「アルフレッド様」
と母も顔を上げて父を見上げた。
私の見る前で、父が母を抱きしめるようにし、母も父を抱きしめ返すので、お父さまとお母さまは、とても仲良しなのだなと、私は思った。
「お前は出ていけ」
父は私を見ていなかったので、誰に言った言葉なのか私には全く分からなかった。
「お前だ。アリシエ。出ていけ」
「アルフレッド様。待って」
縋るように母が何かを乞うたので、父は眉を少ししかめ、それから息を吐いて母の頬にキスをした。
そして。
やはり私を見ずに父は言った。
「アリシエ。自分の足で立ち、自分でこの部屋を出ろ。一人でできないとは言わせない。さもなければ」
「アルフレッド様、でも、今はアリシエと」
「私はエレナが大事だ」
「・・・」
母は黙り、手を1本だけ私に伸ばし、私の手を握ろうとしたようだ。
「アリシエ、できる?」
「はい」
実のところ、5歳になっていた私は、昼寝は必要でなく、むしろ苦痛だった。
だけど、皆が我慢だと私をこの部屋に送り出すので、わたしは母に付き合っていただけ。
だから、出て行って良いなら、出て行こう。外で遊べる。
私は一人でベッドから降り、歩いて扉に向かった。
ただ、母の部屋から父の部屋に出る扉のところで、チラと後ろを振り返った。
父も母はじっと抱き合ったまま動かず、もう私の事など見てはいなかった。
***
ところで。私が物心ついた時から、母は病弱だったようだ。
結婚前は元気だったのに。
外に出してもらえないからだ、とある者は私に小さく教えた。
***
この屋敷で、私はとても中途半端な立場だった。
本来は貴族令嬢。
だが、父が、私を自分の子では無いと言う。
ならば、母が浮気相手との間に生んだ子ども。
浮気相手、つまり私の本当の父かもしれない男は、かつてこの屋敷に世話になっていた町民。もう生きているかどうかすら分からないらしいが。
もし私が本当に父の子でないのだとしたら。私は、裏切者同士の間にできた子どもということになるのだろう。
このような状態にいる私に、皆はどこか恨みを晴らすかのように、私の境遇についてポロポロと告げた。
屋敷の者たちは、そもそも母のことをよく思っていなかった。
同情してみせながら、どこか切り捨てているようだった。
この状況だから、私は会話での便宜上、この屋敷にいる方を父と呼びつつも、本当の父では無いのだろうと思っていた。
父も母も、何かが歪んでいるように見えた。
***
年々、母は弱っていった。
長く生きないだろうと、私は冷静に感じていた。
父も、母の死を感じ取っていた。
だから、母の時間を私に与えることを、酷く嫌がるようになった。
私が10歳を超える頃には、私が母に会うことができるのは週に1度だけだった。
1刻だけ。それすら、母が頼み込むから渋々父が許可したもの。
その1刻にて。
死期を悟っていたらしい母は、ある日、意志を強く持ち、父を母の部屋から追い出し、傍に残した私に笑いかけた。
もう腕は動かすのも億劫の様子だったが、私から母の手を取りに行くほどの愛情は、母に対して持っていない。
「むかしね。アリシエが、私の事を可哀想っていったのが、ずっと心に残っているの」
と母は言った。
確かに言った。私は、
「はい」
と返事をした。
「・・・・・・ねぇ、私の、秘密を、聞いてくれる?」
「はい」
「お母さんね、幸せになっては、いけなかったと思うの」
母は少し目を閉じた。
私は返事をしなかった。
「大事な秘密を、アリシエだけに、教えておきたいの。・・・お母さんね、本当は、とても、幸せなの。他の人は、お母さんのことを、とても可哀想だと酷いとか、言うと思うけれど。秘密よ。お母さんだけ、本当は、幸せだったのよ」
意味が、分からなかった。
この、カーテンを降ろしっぱなしの暗い部屋で。
外を見たくないなどといって、外の世界に顔をそむけたまま。
死んでいく。
屋敷の中で、皆から冷たい感情を向けられて。
そんな中で、
幸せなのか。
「・・・アリシエには、知っていて欲しいの。・・・娘だもの。・・・もしも、アリシエが、もしも、何かお母さんに似た事になってしまっても・・・どうか幸せになって。幸せって、つらいことのなかにだって、ちゃんと入っているのだから。だから、幸せになって」
返事の仕方が、分からなかった。
***
その1年後に、母は息を引き取った。
毒を盛られてたんじゃないかと、誰かが言った。
ぼんやりとしていたから、誰が私に聞かせた言葉か分からない。
父は、部屋から一歩も出なかった。葬儀の日でさえ。
執事長がどれだけ呼んでも変わらなかった。
強い雨が降り続けた。
***
どちらの父が本物であったとしても、私は魔術師の血を引いていた。
魔術師にはなれるほどでなくても、他の者よりは、どうやら何かに敏かった。
私は、これからの事をぼんやりと思った。
どうやら良い感じがしない。
それは結局現実になった。
実の子ではないと言い、父は屋敷から私を追放した。




