第三話 決断は
※ご注意
一晩、エレナは考えた。
そうして、結局は主人との時間はいつまでも続かないのだと、自分自身に納得させた。
もともと、分かっていた事だ。
ご結婚されても同じように過ごしたかった。その想いは変わらない。
だけど、エレナもすでに19歳だ。家が貧しく働く事を選び、真面目に励んできたけれど、すでに結婚適齢期の後半の年齢だ。
ところで実家の貧しさだが、執事長の厚意により、エレナの給金の半分以上を実家に届けてもらい続けている。
エレナ自身が届けていないのは、主人がずっと屋敷の中にいるため、エレナが長時間外にでる機会を失ったからだ。
始めはそうでもなかったが、半年を経ってから一度、エレナが頼まれて使いで町に出たところ、エレナの不在について周囲が主人に怒られたという話を聞かされた。主人を放り出してどういうつもりだ、と。
だからエレナは、それ以来は屋敷の中にいるようにと配慮されている。
さて、実家はエレナの給金を頼みにしている。
だから仕事は続けたい。
だけど、主人を離れてレティアーヌ様のところに行くことは、エレナには難しかった。
主人よりレティアーヌ様を取ったと主人に思われるのが辛かった。
それにレティアーヌ様のところに行けば、他の人が主人の世話係になるはずだ。
それを、離れたところから、手が届かなくなった光景を見ないふりをして過ごさなければならないのを辛いと思った。
だったら。
ヴィートの言ってくれた通りで。
ヴィートとは友人の関係だけど、悩みにもつきあってくれるほどで仲が良い。
主人とレティアーヌ様が結婚するように、エレナもヴィートを選び、そしてこの屋敷からは去り、自分の身の丈に相応しく幸せに暮らしていくべきだ。
ヴィートはエレナをきっと大切にしてくれる。もちろん、エレナも大切にできるだろう、ヴィートの事を。
***
翌日、エレナは普段のように世話係の仕事をしに主人の部屋に行く。
主人がどんな様子でいるのか緊張したけれど、主人はエレナの入室をいつものように少し顔を上げて見やり、それからいつものように静かにまた書籍に目を落とした。
変わらない。
エレナはほっと息を吐いた。
***
一方で、エレナも終始主人の部屋に居続けるわけではない。ものの運び出しや、小休憩の時間も持てる。
屋敷内を移動していたら、エヘン、とわざとらしい咳ばらいを聞かせて、執事長がエレナに視線を向けた。
ただ、執事長は無言のまま。
エレナも無言で礼を取るだけにした。
全て、まずヴィートに返事をしてから。
だから、表面的には変わらない時間が過ぎていく。
***
午後に、エレナは時間を見つけて、庭の端に向かった。ヴィートに会うためだ。
たどり着き、しばらくウロウロしていたらヴィートが現れた。
「どうやって、私の到着を分かるの?」
「このあたりは俺たちのエリアの入り口だ。皆で察知できるような魔法をかけてある。誰が来たのか、気づいた人が教えてくれる」
「そう」
「それで」
ヴィートはエレナを真剣な顔で見つめた。
今日はまだ立ちっぱなし。
「あの。私、昨日一晩、考えたの」
切り出し方をどうすれば良いのか分からなくて、エレナがおずおずと話し出すと、ヴィートは顔を歪ませた。口を手で覆うようにして苦痛の顔になってしまった。
そんな顔をしないで欲しい。きっと勘違いをしていると思う。
「・・・ヴィート」
「良い。うん、言ってくれ」
「・・・あの、私、ヴィートの、その、申し込みを、受けようと、思ったのよ・・・」
エレナは少し困るように様子を伺うように、そう告げた。
「・・・・・・・・・え?」
ヴィートが呆けている。
エレナは少し恥ずかしくなり、俯きながら、もう一度告げた。
「私、その、ヴィートと、その、幸せを、幸せに、なりたいと思ったの・・・」
「嘘。やった」
ヴィートが呟いた。
フと目の前に陰が落ちたと思ったエレナが顔を上げると、すぐ前にヴィートが迫っていた。
「本当に。本当に?」
ヴィートの表情がどんどん明るくなっていく。
「ほんとう」
「やったぁああ!! エレナ!」
ヴィートは両手を子どものように広げ、そのままエレナを抱きしめた。
「本当に。ありがとう。俺、やった。俺、やった、幸せだ、幸せにする、絶対だ。約束するよ、俺、絶対幸せにする」
あまりの喜びように、エレナは驚きながらも、つられるように楽しくなった。
「私の方こそ、ありがとう、ヴィート。あの、どうぞよろしくね」
「うん。うん」
ヴィートが抱きつく腕にエレナは手を添えた。
こんなに喜んでくれるヴィートとなら、きっと幸せになる。エレナはそう思った。
主人の事はまだ心の奥に残っていて、ふとそちらに意識が向けば辛く悲しい想いが湧くけれど。
もうそちらは見ないように。
当たり前の、普通の、実りのある、暮らしをするの。
「・・・アルフレッド様には? もう誰かに言った?」
「ううん。ヴィートに伝えるのを一番にと思ったから」
「そっか。うん。ありがとう」
「あの。私ね、昨日ヴィートが言ってくれたように、お屋敷を辞めようと思うの。それで・・・。ただ、その、言いにくいのだけど、でも家にもお金をいれなくちゃいけなくて、私、働き口を他に探さないといけないの」
「あ・・・うん、そっか」
ヴィートは落ち着いたようになってエレナを抱きしめる力を緩め、少し身を離した。
「うん。大丈夫。二人で町に住もう。エレナが働きやすいところに。俺も結婚するなら、ちゃんと町に住みたいから」
ニコリ、とヴィートが得意そうに嬉しそうに笑う。
エレナもほっと微笑んだ。
実家へのお金については、心配して相談しなければと思っていた。だけど、大丈夫そう。きちんと考えてくれる人だ。
「嬉しい。エレナ。本当に、俺今、人生で一番嬉しい。最高だ」
ヴィートが額をエレナにこすりつけるように甘えた。
くすくすとエレナは笑った。
***
あまり長く屋敷を離れるのも問題だ。
ヴィートに返事をしたエレナは、屋敷に戻った。
そして、まず執事長の居場所を探して、執事長に声をかけた。
察してくれた執事長が、部屋を選んで2人きりになってくれ、エレナの判断を聞いてくれた。
エレナは、言った。
「私。あの、悩んだのですが、結婚する事にしました。ご主人様、レティアーヌ様、どちらも選ぶ事なんて、私にはできません。私、結婚して、このお屋敷を辞めさせていただこうと思います」
頭を下げながら話すのを、執事長が驚いた。
「結婚? 誰とだ。それに辞めなくとも良いはずだ。きみはご実家に仕送りをする身で、お金が必要だろう」
執事長は心配するように聞いてきた。
「あの、相手はヴィートです。このお屋敷の庭の端に住んでいる、魔術師の見習いの方々の一人です」
「あぁ・・・」
「結婚して、2人で町で住もうって。そうすれば、町で勤め先が見つかると思うのです。私・・・ご主人様のお世話係はとても好きです。ずっとお仕えしたいと願っていました。だけど、レティアーヌ様のお話があって・・・。私、レティアーヌ様にこのお屋敷に来ていただきたいと願っています。とても優しく素晴らしい方です。だけど、とても、ご主人様のところから、レティアーヌ様のところにお仕えするのは、ご主人様に失望されると思うと・・・辛くて」
「エレナ、きみがレティアーヌ様のところに行きたいと言えばそれで収まる話だ」
「申し訳ございません。悩んだ結果の、結論なのです。それに・・・ご主人様のお世話係になり続けるわけにもいかないと思いました。どちらも、選ぶことができません。ですからお屋敷を辞めます。本当にお世話になって、心から、感謝しています」
「エレナ・・・」
「レティアーヌ様も、私が結婚のためにお屋敷へのお勤めを止める事にしたと分かれば、納得してくださいませんでしょうか」
「・・・ふぅむ」
執事長は眉をしかめるようにエレナを見てから、息を吐いた。
「仕方ない。分かった。確かに、それが良いのかもしれない」
執事長も、納得したようだ。
エレナはほっと安堵した。本当にこれで終わってしまうのだと、どこか寂しさも感じながら。
だけど、必要な別離なのだ。
「なら、いつまで勤める」
「いつまでが、宜しいでしょうか。私、ご主人様と、レティアーヌ様のご結婚についても正しく運ばれるように願っています。どのタイミングが、宜しいでしょうか?」
「ふーむ」
執事長は少し考えて、それからエレナに指示をした。
「今から、アルフレッド様に暇乞いを願い出なさい。私も一緒に行こう。ただし、アルフレッド様が癇癪を起して怒鳴り散らされる可能性が高い。怒鳴られる覚悟をしておきなさい」
「はい」
コクリ、とエレナは頷いた。
***
執事長とエレナは、二人で主人の部屋に行った。
ノックして扉を開けて中に入った途端、驚いた。
いつも書籍の山の谷間に埋もれるように読書に没頭している主人が、立ち上がってじっとこちらを睨んでいた。
すでに怒っておられる。
どうして。執事長との話は2人きりだったから、決して主人の耳に、入っているはずは、ないのに。
「アルフレッド様」
執事長の声は上ずった動揺したものだった。
「黙れ」
と静かに主人は言った。怒りを含んだ、平坦な声で。
それから主人は強い眼差しでエレナを見た。睨まれるというよりも、ただ凝視される心持ちがした。
射貫かれたように声が出せない。
「ディアス。下がれ」
「しかし」
執事長はエレナを庇うように腕をエレナの前に出した。
「下がれ。私をこれ以上怒らせるな」
「お静まり下さい。自棄を起こされないよう、私はここにいる義務がございます」
「義務など、無いよ」
と主人は薄く笑った。
見た事もなく不気味な、まるで悪魔のような顔に見えた。
「下がらないなら、追い出すが」
「いけません。まずはお話をきちんといたしましょう」
「お前たちのせいで、エレナが、心を曲げて、去ろうとしているのに? なにをきちんと?」
「曲げてなどありません」
「出ろ」
パン、と音がした。
エレナの前の執事長の姿が消えていた。
代わりに、すぐに、ドンドン、と外から扉を叩く音がした。
「アルフレッド様! すぐにお入れください!」
「嫌だ」
と主人は明瞭に答えてから、
「しばらくそこで大人しく眠っているといい」
と突き放したように告げた。
どん、と壁に人がもたれかかり、ずりおちていく音がした。
事態に、エレナは自分の心臓の音を激しく聞いた。
魔術師。
主人は、とても強い魔術師だ。こんなに趣味に没頭していてなお、国から高額な給金が支払われ続けられるほどの。とても秀でた。
だけど、具体的に、例えば湖を見てみたり、小さな道化師を生み出してみたり・・・そんなささやかな可愛らしいものごとしか、エレナは知らない。
何ができるのかを。
「エレナ」
主人が呼んだ。静かな声だった。怒っているとは分からなくなってしまうほどの。
それから主人は、見知らぬものに対する恐怖で動けなくなっているエレナに、優しく笑んだ。
ゆっくりと歩み寄りながら。
「エレナ。私の元を離れるなんて。許した覚えはない。結婚だと? どうして」
「どうして・・・」
ご存知なのですか。
「他の男に、抱きしめられていた。そんな事は、許さない。何より・・・」
主人はゆっくりとエレナの傍に立ち、そっと優しく指で頬に触れた。
「可哀想に。・・・お前だって、私の事を、好いているのに。これほどはっきりと」
エレナは目を見開いた。知らないと思っていた。主人は決して、エレナの気持ちなど。
主人はエレナの栗色の髪を掬い、そっと口づけた。
「去るなど、許さない。心がここにあるのを知っているのに、どうして去ろうとする。身分など。私なら、暴挙が許されるのに」
蒼白になるエレナの表情を確認して、主人は少し泣きそうに優しく笑った。
「ここにいろ。ここに居て良いと言ったのに、どうして素直に答えないんだ。お前は普通の幸せを望んだが・・・私が、極上を与えてやる。普通などで満足する必要なんてない、エレナ」
「私は・・・」
「どうした」
「ご主人様、私には、身に過ぎる想いなのです。ですから、私は」
「許さないと、言っている」
穏やかに言い聞かせるように主人は告げた。
「安心すると良い。愛人なんて立場などにしない。私は、エレナしか望まない。ただでさえ他人に興味が持てない家系だ、この気持ちはエレナだけだ」
「え」
驚いた。主人の言葉に。
そして、勝手に涙が出てきた事にも驚いた。
主人はじっとエレナの動揺を見つめている。
「おいで」
「え、あの。ご主人様」
私は、仕事を辞めるという話を、伝えなければいけない。
「私を怒らせると怖いぞ?」
少し主人の目が据わる。エレナはヒヤリとして口をつぐんだ。
主人はまた優しく笑んだ。
「お前を手に入れるために、手順を踏まねばならない。女性には初めは辛いと聞く。できるだけ和らげるように努めよう。無理を強いるが、すこし我慢をしろよ」
「何を・・・」
「今からお前を抱く」
状況に対応できないエレナを、主人はゆっくり抱きしめた。
***
逃げようとした。だが逃れられない。
主人は優しくエレナを宥めた。
無理矢理だった。だが、途中でエレナは諦めた。主人に抗う事では無く。
結局、エレナは、主人こそを慕っていると自覚した。
主人の執着を、強引な方法を、幸せだと思った。
何度も、主人の名前をエレナは呼んだ。
主人はエレナを求めたが、エレナも主人を求めていた。
***
強制的に眠らされていた執事長は、数時間後、冷淡な顔をした主人に意識を引き戻された。
床に座り込んだままの執事長を見下ろして、主人は言った。
「私は、エレナを妻にした。それ以外は認めない。他家との婚姻の話は、全て打ち切る」
***
こうして。レティアーヌ嬢を女主人に向かえる話も、主人が潰した。




